bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

津軽・弘前を旅するー弘前さくらまつり

これを逃したら二度とチャンスは訪れないだろうと、ちょっと大げさ過ぎるが危機感を抱き、すべての予定をキャンセルして(これも大げさ)、みちのくの弘前公園を訪れた。目的はもちろん満開のソメイヨシノを堪能することである。弘前公園は日本三大「桜の名所」の一つで、 残りの二つは長野県の高遠城址公園奈良県吉野山である。高遠と吉野は若いころに訪れたことがあるので、ずっと弘前が気になっていた。

弘前の桜は、これまでゴールデンウィークに満開となっていたので、民族の大移動のような時期に行くことには躊躇していた。しかし、近年は温暖化の影響を受けて開花の時期が早まり、今年は昨年よりもさらに9日も早いと予想された。旅行会社が、こんな早い時期のパックやツアーを企画できなかっただろうから、絶好のチャンスと見て、先週末頃から開花予想を見ながら、最適な日を狙っていた。

今週の月曜日になって、満開になるのは金曜日(19日)と予想されたので、この辺りにと決めてホテルの予約状況を調べた。当初は迷惑をかける人が少ない金・土と考えたが、私と同じことを考えている人が多かったようで空き室が全くなかった。仕方なく一日早めて木・金でホテルを探した。明け方に検索したときは、手ごろな値段のものがいくつかあったので、それではと新幹線の時間や弘前での過ごし方を纏めてから、8時半ごろに再び検索した。ところが、予約する人が増えているようで部屋がどんどんと埋まっていく。あれよあれよという間に高い価格帯のものだけになってしまった。こんなに高い料金を払って満足できるだろうかと悩みながら、半ばやけっぱちでもう一度検索したら、突然手ごろな価格のものが現れた。ラッキーと思って即座に予約した。新幹線のチケットの購入も済ませて、我ながら驚く速さで、あっという間に旅行の段取りを済ませた。

ところで、いつごろから日本人は桜を愛でるようになったのだろう。農林水産省のホームページに、サクラ博士の勝木俊雄さんが監修した「日本の桜の歴史」がある。それを要約すると次のようになる。

日本には古くから野生種の桜(ヤマザクラエドヒガン・オオシマザクラなど)が存在し、特にヤマザクラは身近な存在だった。江戸時代までは花見と言えばヤマザクラであった。3月3日の桃の節句は中国からの伝来で、奈良時代まではその儀式に中国からの外来種である桃や梅を利用していた。貴族社会では桃や梅を珍重していたが、平安時代になると身近な桜を愛でるようになり、儀式や行事にも利用されるようになった。奈良時代万葉集にも桜が詠まれているが儀式的な意味はなかった。

平安時代にはヤマザクラの栽培化が始まり、野生種でない栽培品種も誕生した、最も古い歴史を持つのが枝垂桜で、平安時代の文献にもある。オオシマザクラ伊豆大島の野生種で、室町時代の文献に、京にまで伝わったのであろう、オオシマザクラらしき記述が見受けられるようになった。染井吉野(ここでは原文のまま)は、エドヒガンとオオシマザクラの種間交雑で生まれた栽培品種で、染井村(東京都豊島区駒込)が名前の由来である。江戸時代の頃、染井村に多くの植木職人が住んでいて、接ぎ木苗が作られていたようで、染井吉野の接ぎ木苗は初期成長が早く、美しい花が多くつくことがわかり、各地へと広まったようである。

桜は芸術にも大きな影響を与えた。桜を詠んだ歌が万葉集に44首、古今和歌集に70首ある。江戸時代に発達した浮世絵にも多く描かれ、歌川広重「名所江戸百景」や葛飾北斎富嶽三十六景」の作品から、庶民が花見を楽しむ様子がうかがえる。また演劇の世界でも、能の「西行桜」、歌舞伎の「義経千本桜」など、桜を演出要素とする作品が存在する。

今日(土曜日)のNHKの朝のニュースでも、弘前公園の桜がライブで紹介された。それによれば、公園は周囲が4kmの広さで、52種2600本の桜が植えられている。私が訪れたときに見ごたえがあったのは、ソメイヨシノと枝垂桜であった。特にソメイヨシノのあふれんばかりの咲きざまに圧倒されたが、アナウンサーの説明によれば、通常は一つの芽に咲く花は3~4個だが、弘前公園では多い場合には7個になるため、ボリューム感が出るとのことだった。また古木の多さにもびっくりした。これもアナウンサーの説明だが、通常桜の寿命は60~80年だそうだが、弘前公園には100年を超えているものが400本以上もあるそうだ。このように維持・保全されているのは、40人からなるチーム桜守が丁寧に手入れをしていることの恩恵だそうだ。満開は、予想通り金曜日から始まったとのこと。3日間満開が続き、その後は散った桜で堀は花筏になるとのことであった。

写真はたくさん撮ったのだが、その中から15点を紹介する。

天守と枝垂桜、

天守内部から見たソメイヨシノ

本丸内のソメイヨシノ

本丸内の古木・枝垂桜、

本丸内から見た岩木山ソメイヨシノ

辰巳櫓・中濠・観光舟とソメイヨシノ

丑寅櫓とソメイヨシノ

鷹丘橋とソメイヨシノ

東内門付近の古木・ソメイヨシノ(旧藩士の菊池楯衛から明治16年(1882)に寄贈された。現存するソメイヨシノでは日本最古級)、

追手門・外濠とソメイヨシノ

北門(亀甲門)付近のソメイヨシノ

外濠のソメイヨシノ

西濠に沿ってのソメイヨシノ

西濠に沿って花のトンネルを形成しているソメイヨシノ

藤田記念庭園内の古木・枝垂桜。

なお弘前公園案内図は次のとおりである。

今回、訪れたときは弘前さくらまつりが開催されていたが、その歴史はホームページによると次のとおりである。

弘前公園に桜が植えられたのが正徳5年(1715)で、このとき藩士が京都の嵐山からカスミザクラなどを持ち帰った。明治の初めごろは城内は荒れ果てていたが、そこに1000本のソメイヨシノが植栽された。このとき一部の士族は「城を行楽の地にするとは何事か」と引き抜くなどして反発したが、明治維新の混乱も納まった明治28年(1895)には、弘前城跡が公園として一般開放された。その後もソメイヨシノの植栽は続き、大正時代には弘前公園は見事な桜で埋め尽くされ、大正7年(1918)からは「観桜会」が始まった。昭和36年(1961)からは「観桜会」から「弘前さくらまつり」へと名称を変え、現在ではソメイヨシノを中心に枝垂桜・八重桜など50を超える品種の桜が園内を埋め尽くしているとのことである。

まつりの会場には出店が並んでいた。

お化け屋敷もあった。

今回の旅の感想は如何にと問われれば、予想が当たって木曜日は比較的少ない見学者で恵まれていたが、それでも平安末期から鎌倉初期にかけての歌人西行法師*1の歌を借りて、
「花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の とがにはありける」*2
と返したい。

*1:元永元年~文冶6年(1118~90)、鳥羽院に仕えた武士で、俗名は佐藤義清。左兵衛尉となったが、保延6年(1140)に出家、東北や四国など全国を旅して和歌を詠んだ。

*2:ベネッセ教育総合研究所のホームページによれば、これは「桜の花を見にと人々が大勢やって来ることだけは、独りで静かにいたいと思う自分にとって、惜しむべき桜の罪であるよ」と解釈されています。