bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

ジョシュア・ヤッファ著『板ばさみのロシア人』を読む

高校生の頃か大学生の頃か定かではないのだが、学生時代に感銘を受けた書物の中に、ルイス・ベネディクトさんの『菊と刀』がある。文化人類学に関心を持っていた頃で、国ごとにあるいは地域ごとに行動が異なるのはなぜだろうと疑問に感じていた。ベネディクトさんは集団として行動しがちな日本社会や文化の内面を炙り出してくれた。

この後、集団としての行動についてもう少し詳しく知りたくて、中根千枝さんの『タテ社会』を丁寧に読んだ。中根さんは社会集団を構成するには二つの異なる原理があり、それは「資格」と「場」であると説いた。「資格」は、その人が努力によって勝ち取った学歴や地位や職業だけでなく、生まれたところの氏・素性も含まれる。「場」は、一定の地域や所属機関などである。

何年も前になるが、テレビアナウンサーに対する社会的認知度が高まった時、「TBSアナウンサーのXXです」と自己紹介する人が現れた。私は「それは変だよ」と即座に妻に問いかけた。「TBSの番組の中で、わざわざTBSとつける必要はなく、地位のアナウンサーだけでよい」といった。妻は「なにも不思議なことはない。正しい使い方だ」と反論した。このような紹介の仕方を聞くたびに、「へんだ」と繰り返していたのだが、妻からは「そんなことはない」とそのつど反撃された。近年では、NHKのアナウンサーまでもが、NHKアナウンサーのYYですというので呆れているのだが、この不満を言い出す場所がなくて困っている。

この記事を書いている時に理解できたのだが、大学院での教育をアメリカで受けた私は「資格」を重視しているのに対し、日本的な妻は「場」に慣れているため、意見が食い違ったようである。

最近、世界を大きく揺るがした事件の一つは、ロシアのウクライナ侵略だろう。メディアは「プーチンの戦争」と単純化しているが、本当にそうなのだろうか。プーチン一人だけであれだけの戦争を起こすことができるのだろうか。選挙が正しく行われているかどうかについては大きな疑念が残るものの、それでも80%以上もの支持があるのはなぜだろう。まんざら嘘でもなさそうだと疑問が生じる。プーチンの影響は大きいとしても、集合体としてのロシアの人々が牽引・助力しない限りは、ここまで維持できないのではと考えられる。

そこで、ロシアの人々の内面が知りたくて、ジョシュア・ヤッファさんの『板ばさみのロシア人』を読んだ。英語でのタイトルは、” Between Two Fires: Truth, Ambition, and Compromise in Putin's Russia”である。

英語でのタイトルにtwo firesとあるが、一つのfireは個人が抱いている野望あるいは志(ambition)である。もう一つのfireはどこにでも潜んでいる国家からの抑圧である。人々は、個人の野望と国の抑圧の板挟みとなっているなかで、どのように折り合いをつけたのか、すなわち妥協(compromise)したのかについて、政治家・聖職者・芸術家・歴史家などの実例で説明してくれる。

この本の終りの方で、若い世代がどのように考えているのかを調査するために、19歳の高校生マキシムに尋ねている部分がある。2018年のロシア連邦大統領選挙の時に、反体制派指導者のナバリヌイが立候補しようとしたが、資格なしということで拒絶された。マキシムは、ナバリヌイが候補者であれば彼に投票したであろうが、そうでなかったのでプーチンを支持したと言った。この本の作者は、反体制派から体制派にかくも簡単に変わることに疑問を持ったのであろう、その理由を聞いた。マキシムは、「最初の選択(ナバリヌイへの支持)は、政治的な変化を見たいということであった。しかし、成功する見込みを持った人たち(ナバリヌイたち)は、競争という考え方を代表しているため、候補者からは排除されている。候補者として残っているのは、現状というものに順応した人たちで、彼らは落ち着き、そして安定を作り出す。マキシムはこの安定には反対しない」と答えた。

マキシムたち若い世代は、開放的で好奇心があり野心もあるが、少なくともこのことについて必死でないし、騒乱を望んでいないということを、作者のヤッファさんは認識した。そして今流行っているのは、「成功と良い生活をすること」なのだと感じた。つまり、変化を求めるナバリヌイと、安定を約束するプーチンの双方に引き付けられる二重性を説明しているかもしれないと、作者は考えた(タイトルにあるtwo firesのどちらにも惹かれている若者)。

この二重性は、何も若者たちだけが抱えているものではなく、前の世代も、そしてずっと遡った世代までにも見られるものだと指摘したのは、ソ連時代の社会学者レバダである。レバダは、「ソ連の市民は国家を前にすると臆病で隷属的になってしまい、そうした態度は、抑圧から生まれる不安や国家なしの自分自身など想像できないという無力感の産物で、国家と個人の家父長的な共生関係といってよい」とし、なぜ家父長的共生関係(two fires:野望と抑圧の板ばさみの中での妥協)をとるのかということに疑問をもち、後にホモ・ソビエティクス(ソヴィエト人)と呼ばれるようになる研究に取り組んだ。

この種族(ホモ・ソビエティクス)にとって、「国家とは、単に歴史的に形作られた多くの社会的機構の一つではなく、その機能や活動領域は普遍的な組織を超えており、人間が生活するあらゆる場所に浸透している近代以前からの家父長的形態のようなものだ。社会主義国家ソヴィエトという大事業は、本質的に全体主義で、そこでは、いかなる形態にせよ、独立した空間を持つ人間を放っておくことはない。そして重要なことは、その国民は国家に依存するだけでなく、感謝しなければならないのである」と説明した。

社会科学上のソヴィエト人を発見した後に、ソ連邦は解体する。その後のロシア人についても同じように研究し、ソヴィエト人やロシア人を包み込むような、もっと永続的で普遍的な人間である「ずる賢い人間」を導き出すに至った。

レバダは、ロシアのずる賢い人間は「ごまかしを大目に見るだけでなく、騙されることを望み、自分を守るためなら自分を騙すことさえ必要だと思う人間である」とし、さらに、「ずる賢い人間は、社会の現実に適応し、統治機構の中の見落としや欠落部分を探し、自分のために『ゲームのルール』を使おうとしている。同時に見逃せないのは、この人間はいつもこの同じルールをずる賢い方法で回避しようとしていることだ」と説明した。

さらに、ずる賢い人間にとって、国家とのやり取りは事実が半分の話やごまかしの駆け引きであり、それらは捧げものとして官僚機構に提供される。そして、野心と道徳観念を抑え込む正当化のためにお互いがそれを使うのである。社会的な結びつきや社会組織が未発達なことを前提にすれば、ずる賢い人間は詰まるところ孤独で、それは、数世代前までさかのぼる矛盾に満ちたロシアの生活につながっていく。

そして、最終的には、ずる賢い男と女は、国家の本当の性格について幻想を抱くことなどないのだ。彼らは、ただ国家に代わるものを見出せないのであって、国家に反抗するというよりは、時流にのって泳ぎ渡るための計算をするのである。レバダは、「ロシア人は、国家の保護を必要とするように見えるが、しかし、国家のために奉仕したいとは望まない」ということに気づいた。

このような概念的な説明からはずる賢い人間の冷徹な狡猾さが伝わってこないが、具体的に個別の事案が示されると、そのような世界で良心を守りながら生きていくことの困難さを強く感じる。例に示されているいくつかの事例を示すと次のようである。

第1章では、反体制派的な前衛映画の監督を目指した芸術家が、人を魅了する才能を活かしてロシア国営第1チャネルの最高責任者となる。そして、プーチン体制を支えるメディア担当総合プロデューサーとして、偉大な指導者、偉大なロシアを国民に焼き付ける役割を果たす。

第4章では、クリミアに居住するロシア人でサファリパークの経営者は、クリミアがロシアに併合されることで、彼の実業がさらに拡大するだろうと夢を抱く。そして状況に合わせながら巧みに事業の拡大を図るが、いったんロシアに併合されると、彼の役割は幻想であったことが分かり、後悔することとなる。

第6章では、人権擁護活動をしていた医師は、その活動がロシアのプロパガンダとして利用されていることを知らされながらも、中立的な活動であると自身では納得し、国からの多大な援助を受けながら活動を拡大していく。さらにシリアでも活動して欲しいと国から要請され、そこへ向かう軍用機の墜落で亡くなってしまう。

この本の中では、プーチンは国家の支配者というよりはむしろ集団的な潜在意識の表れなのだと説明している。今日のロシアの現状は、プーチン一人の権力からではなく、集団としての意識を体現していて、彼をバックアップしていると言えそうである。レバダの教え子であるグトコフは「プーチンにとって、ソヴィエト人の強迫観念は非常に理解しやすいことだった。彼はその感情を利用したのだった」と言っている。また「他人への依存や嫉妬心があり、抑圧された攻撃的な人間の性格はある意味でずる賢い」としている。

場(組織)という集団を好む我々の社会にも「長い物には巻かれろ」とか、「面従腹背」とかのように、ずる賢い人間を表す言い回しがある。しかし支配者が抑圧的であるときは、その場を去ればよいのであって、ロシアのようにその内部に居続けなければならないということはない。しかし、もし私が逃げ出せない環境に置かれたならば、どのように振舞うだろう。ずる賢い人間になれるのだろうか、それとも信念を貫こうとするのだろうか。間違ってもそのようなところには入り込みたくはないと思う次第である。