bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

津軽・弘前を旅するー明治時代の建物

シリーズ「津軽弘前を旅する」の記事は、近代化を象徴する建物で締めくくることにしよう。

まずは経済の血液ともいえる金融の分野、その中で中核をなす銀行から始めることにしよう。もうすぐ、渋沢栄一が新一万円札になって登場する。銀行には、一万円札を発行できる日本銀行と、我々がお金を預けたり貸したりすることのできる市中銀行が存在する。渋沢栄一は、最初の市中銀行である第一国立銀行*1を設立した。国立銀行となっているので、国が設立した銀行と錯覚してしまうが、ここは国の法律*2によって立てられたという意味で、第一とともに、第二・第四・第五の4行が設立された(第三は手続きが遅れた)。

明治9年(1876)の国立銀行条例の改正で、業務範囲が拡大*3すると、相次いで銀行が開設され、1879年までに153の国立銀行が誕生した(設立順に番号が付けられ、ナンバー銀行とも言われた)。その中の一つが、弘前に拠点を持つ第五十九国立銀行である。明治11年(1878)、弘前藩家老だった大道寺繁禎らを中心に、旧弘前藩士族の金禄公債を資本にして、青森県内初の銀行として設立された。初代頭取には大道寺が就任した。

明治37年(1904)に完成した第五十九銀行本店本館(現在は、青森銀行記念館)は、昭和47年(1972)に国の重要文化財に指定された。木造2階建て寄棟屋根・越屋根*4付き桟瓦葺き、ルネッサンス様式である。設計・施工は、弘前市を中心に近代建築を後世に残している堀江佐吉である。

特徴は以下のとおりである。建物は、左右均等(シンメトリー)に調和されている。玄関周りは、外壁面より張り出し屋根に大型のドーマが設置されており、建物の正面であることを強調している。外壁は、一見コンクリート造に見えるが、瓦を貼りその上を漆喰で仕上げていて、独特の風合いを醸し出している。窓は土戸(土と漆喰で固めた引戸)を採用し、防犯・防火に配慮している。


次は教会である。江戸時代には、キリシタン禁制の高札が立てられ、キリスト教の信者になることも、教会を建てることも許されなかった。しかし、明治6年(1873)に、太政官布告第68号により高札は撤去された。 これにより、キリスト教に対する禁教政策は終了し、各地でキリスト教が受け入れられるようになった。弘前も例外でなかった。

プロテスタント系では、明治8年(1875)に、藩校の流れをくむ私学・東奥義塾の初代塾長・本多庸一と、教師として招聘されたジョン・イングらが日本基督教団弘前教会を創設した。

またカトリック系の教会も同じ時期に始まった。明治7年(1874)にはパリ外国宣教会の宣教師アリヴェ師が弘前を訪れたとされている。本格的な布教活動は明治11年(1878)にそれまで函館で布教活動をしていたマラン師が弘前で民家を借りて始めたのがカトリック弘前教会の始まりである。その後、明治15年(1882)にユルバン・ジャン・フォーリーのもと現在地に教会堂が建設された。現在の教会堂は、明治43年(1910)に主任司祭モンダグ師のもとで改築されたものである。尖塔をもつロマネスク様式の木造モルタル造りの聖堂である。明治期の弘前を代表する棟梁・堀江佐吉の弟である横山常吉が施工した。

祭壇は1866年の製造で、オランダ・アムステルダムの聖トマス教会から譲り受け、昭和14年(1939)に設置された。ゴシック様式である。この側面は神の救いの歴史を表現したステンドグラスがあり、美しい彩を添えている。

最後は実業家との関連である。明治時代に入ると、殖産興業政策*5により、新しく事業を起こし、そして成功する人たちが現れ、中には巨大な財閥を形成するような人も現れるようになった。弘前出身の藤田謙一は、財閥を形成することはなかったが、成功した実業家の一人である。

経歴は以下のとおりである。明治6年(1873)に生まれ、昭和21年(1946)に亡くなった。明治24年に上京し、明治法律学校(現明治大学)に入学、熊野敏三法学博士の書生となる。東京商工会議所会頭を経て、昭和3年(1928)に日本商工会議所初代会頭に就任、日本屈指の財界人として活躍した。また、藤田育英社の創設、弘前市公会堂の寄付など、多くの育英事業や寄付行為でも社会に貢献した。

なお、大正8年(1919)に郷里の弘前市に別邸を構え、同時に東京から庭師を招いて江戸風な景趣の庭園も造らせた。別邸と庭園は、次に述べるように、後に弘前市の藤田記念庭園となった。

旧藤田家別邸洋館は、大正10年(1921)に建てられたもので、木造2階建、寄棟、瓦葺一部鉄板葺、建築面積241㎡で、設計は堀江金蔵、施工は堀江彦三郎である。尖塔屋根付塔屋が印象的な建物で、煉瓦積の煙突や縦長の開口部、むくり付きの玄関屋根、レンガ積の基礎、ドーマ、印象的な棟飾りなど、当時の洋風建築の要素を取り入れている。国登録有形文化財に登録されている。


和館は昭和12年(1937)に建てられたもので、木造平屋建、寄棟(玄関屋根は入母屋)、桟瓦葺、桁行7間、梁間4間半、建築面積216㎡で、同じく、国登録有形文化財に登録されている。

別邸を構えると同時に東京から庭師を招いて江戸風の庭園も造らせた。当初は、藤田の私邸として整備されたが、死後、弘前相互銀行頭取だった唐牛敏世に譲渡され、弘前相互銀行倶楽部として開放された。しかし、昭和54年(1979)に唐牛が亡くなり、その後はほぼ放置状態となっていた。昭和62年(1987)年に弘前市が市制施行百周年記念事業の一環として買収して復元整備し、平成3年(1991)に開園した。


津軽弘前の旅に関する記事はこれで終了である。1泊2日の旅であったが、記事にして初めて分かったのだが、内容豊かな、充実した旅であった。参考のため、訪れた場所を地図に落とした。

*1:第一国立銀行は国立の名を冠しているが、実際は民間企業で、日本初の株式会社でもある。 第一国立銀行は、国立銀行条例により銀行券の発券機能等を有していたが、1882年に日本銀行が設立され、また同条例による営業免許期間終了に伴い、1896年(明治29年)に一般銀行に改組して第一銀行となった。

*2:明治5年(1872)の国立銀行条例

*3:不換紙幣の発行や、金禄公債を原資とする事

*4:切妻屋根の中央の一部を上に持ち上げたような屋根。

*5:明治政府が西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策を指す