bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

飛鳥後期を歩く――終末期古墳と王権表象の転換

「大阪・奈良へ古代を訪ねる旅」の最終日は、七世紀末ごろの墓制をたどる行程となった。飛鳥時代中期から後期は、日本の古代国家が形成されていく激動の時代であった。乙巳の変、白村江の敗戦、壬申の乱――立て続けに起こった政治的危機を経て、天武・持統朝のもとで律令国家の骨格が築かれ、初の本格的な宮都である藤原京の造営が進められた。

仏教を国家理念の中心に据える政策が進展し、政治的・社会的秩序が再編されていくなかで、葬送儀礼と墓制は大きく姿を変えていった。百舌鳥・古市古墳群に代表される巨大古墳は築かれなくなり、高松塚古墳やキトラ古墳のような、規模は小さいものの壁画を備えた新しい形式の墳墓が登場する。今回の旅では、まさにこうした古墳終末期に築かれた墳墓をたどることになった。政治史的には安定を見せ始めた天武・持統朝に属するこれらの古墳の特徴を中心に見ていきたい。

最初に訪れたのは高松塚古墳である。この古墳の壁画が発見されたのは1972年(昭和47年)3月21日。当時、日本の古墳には本格的な壁画は存在しないと考えられていた。石室内部から極彩色の壁画が確認されると、その報は瞬く間に全国へ広がった。3月27日には朝日新聞朝刊一面で、当時としては異例のカラー印刷による大々的な報道がなされ、古代史研究の常識を揺るがす発見として、当時の社会に強い衝撃を与えた。

高松塚古墳は小規模な二段築成円墳で、築造時期は藤原京期(694〜710年)と確定している。巨大前方後円墳の築造が終わり、小規模ながら高規格の王族墓へと転換した時期にあたる。小高い丘の頂部直下の斜面を利用して築かれている点も特徴的で、墳丘からは飛鳥の集落を見渡すことができる。当時の人々の暮らしの場からは墳丘がよく見え、日常の景観の中に強く存在感を放っていたに違いない。訪れた日は、厚い雲に遮られた淡い光の下で、枯草に覆われた墳丘は周囲よりも鮮やかに見え、その存在感を際立たせていた。
高松塚古墳

古墳の反対側の小高い場所には歌碑が立っていた。「立ちて思ひ 居てもそ思ふ 紅の 赤裳裾引き 去にし姿を」という、万葉集に収められた作者未詳の相聞歌である。壁画に描かれた「飛鳥美人」を思い起こさせるような、余韻のある恋の歌である。周囲には橘の木が多く見られた。飛鳥時代の宮廷では橘は特別な植物とされ、宮中の庭園に植えられ、儀礼や歌に登場し、皇族名にも用いられたという。明日香の景観の中で橘が目につくのも、こうした文化的背景を反映しているのだろう。
歌碑

橘の木

続いて、高松塚壁画館で壁画の模写を見学した。ここでは発見当初の姿を忠実に再現した模写が展示されており、壁画全体の構成を把握することができる。
男子群像(西壁)
青龍
女子群像
玄武(北壁)
女子群像(東壁)
白虎
男子群像

発見後、壁画は当時の最新技術を用いて保存が試みられたものの、カビの発生や漆喰層の剥離・剝落、顔料の退色が進み、現在では発見当初の鮮烈な極彩色とは大きく異なる状態となっている。石室は解体され、石材ごとに個別修理が進められている段階であり、現地で実物を目にすることができなかったのは残念であるが、保存のためにはやむを得ない措置であると感じた。

次に訪れたのは、高松塚古墳のすぐ近くにある中尾山古墳である。この古墳は、飛鳥の王権がどのように墓制を変化させていったのかを読み解くうえで欠かせない。近づいてみると、土が崩れた小山のようにしか見えないが、調査の結果、三段築成の八角墳であることが明らかになった。八角墳は天武・持統朝の王権を象徴する墓制であり、天皇陵に特有の形式とされる。
中尾山古墳

中尾山古墳は小規模で、築造時期は8世紀初頭の藤原京期と考えられている。宮内庁は別の古墳を文武天皇陵に治定しているものの、火葬を前提とした石槨*1構造や築造時期の整合性から、研究者の間では中尾山古墳こそ文武天皇の真陵であると有力視されている。ただし、なお議論は残されている。

次に訪れたのは、以前にも足を運んだことのあるキトラ古墳である。高松塚古墳と並び、古代東アジアの絵画文化を伝える稀有な遺構である。古墳は南斜面を削って造成した二段築成の円墳で、中央には凝灰岩の切石18個を組み合わせた石室が据えられている。築造時期は7世紀末から8世紀初頭、藤原京期と考えられている。

ここからも壁画が発見されている。四神図、十二支像(獣頭人身像)、そして世界最古級の中国式星図とされる天文図である。いずれも漆喰下地に繊細な筆致で描かれ、金箔や銀箔が用いられている点が特徴的だ。高松塚古墳の壁画に比べると、唐文化の影響がやや薄いとされ、制作時期の違いを反映していると考えられている。

キトラ古墳壁画保存管理施設では、期間を限定して実物壁画の公開が行われているが、今回は公開期間に当たらず、残念ながら実物を見ることはできなかった。その代わり、キトラ古墳壁画体験館「四神の館」でレプリカや関連資料の展示を見学し、壁画の構成や技法を改めて確認することができた。
キトラ古墳

復元された石室

玄武と白虎の壁画

ここまで見学したところで、明日香村の中心地である岡で昼食をとり、周辺を散策した。江戸時代の風情を今に伝える街並みが続き、歩いていると二階部分が不自然なほど低い家屋が多いことに気づく。関西にはこのような建物が多く、「つし(厨子・併屋)」と呼ばれる構造である。江戸時代には、防火上の理由や武家屋敷より高い建物を避けるための規制、街道沿いの景観統制などから二階建てが制限されていたという。そのため、つしは人が立って歩けるほどの高さはなく、穀物・味噌・道具類の収納や、機織りなどの軽作業に用いられていたとされる。
明日香村の街並み

岡寺へ向かう鳥居のそばには、江戸時代に描かれたこの角の風景と現在の景観がほぼ同じであることを示す掲示(4031)が貼られており、この街が長い時間をかけて景観を守り続けてきたことを改めて感じさせてくれた。
江戸時代に描かれた風景と変わらない場所

お腹が満たされたところで、天武・持統天皇陵へ向かった。宮内庁が治定している天皇陵は、研究者の推定と一致しない例が少なくないが、この陵は数少ない例外で、両者の見解が一致している。天武・持統天皇陵は五段築成の八角墳であり、天武・持統朝の王権を象徴する墓制を示す代表例である。
天武・持統天皇陵

石室には、天武天皇を葬った布張り朱塗りの夾紵棺(乾漆棺)と、持統天皇の火葬骨を納めた金銅製蔵骨器が安置されていた。持統天皇は、天皇として初めて火葬された人物として知られている。1235年(文暦2年)には盗掘を受け、その際の詳細な記録(『阿不幾乃山陵記』)が残された。この記録が『日本書紀』や『明月記』の記述と一致したことから、被葬者が天武・持統両天皇であることが確実視されるようになった。

天武天皇と持統天皇は、律令制度の整備や国号の確立など、今日の日本の基礎を築いた天皇として知られる。しかし、百舌鳥・古市古墳群に葬られた巨大古墳の首長たちと比べると、その陵は驚くほど小規模で、とても質素に見える。どこにでもある小山のような佇まいを前にすると、国家の骨格を築いた二人の天皇の眠る場所としては、あまりにも静かで控えめに感じられる。巨大前方後円墳の圧倒的威容を知る身には、その対比がかえって時代の転換を雄弁に物語っているように思われた。

次に訪れたのは、周囲の景観から際立って異質で、思わず足を止めるほどの存在感を放っている牽牛子塚(けんごしづか)古墳である。近づくにつれ、切り立った石材の質感と幾何学的な輪郭が視界に迫り、周囲の柔らかな丘陵とはまったく異なる人工的な緊張感が漂っていた。この古墳は、近年の発掘成果と復元整備によって全体像がようやく明らかになり、女帝・斉明天皇(皇極天皇)とその娘・間人皇女の合葬陵である可能性が高いと考えられ、終末期古墳の中でも特異な位置を占める遺構である。
牽牛子塚古墳

八角墳はきわめて限られた数しか確認されていないが、牽牛子塚古墳はその一つである。築造時期は7世紀中葉から8世紀初頭、飛鳥時代末から藤原京期にかけてとされる。巨大な凝灰岩をくり抜いて作られた横口式石槨は、内部が左右に分かれた二室構造となっており、合葬を前提に設計されたことがわかる。
横口式石槨

二室構造

現地に立つと、周囲の風景とは明らかに異質なこの構造物に、思わず圧倒される。おそらく当時の人々にとっても、強い印象を与える存在であったに違いない。これまで見てきた古墳は、木々が生い茂ってただの小山のように見えるが、築造当時は石で覆われ、山腹の目立つ場所に築かれていた。そうした姿を想像すると、古墳は単なる墓ではなく、王権の威厳を示す畏怖すべき存在であったことが改めて感じられる。

牽牛子塚古墳のすぐ下には越塚御門古墳がある。2010年の発見によって、その歴史的位置づけが大きく見直された遺構である。『日本書紀』には、斉明天皇と間人皇女を「小市岡上陵」に葬り、その陵の前に大田皇女を葬ったと記されている。牽牛子塚古墳が斉明・間人皇女の合葬陵と考えられるため、その前方に位置する越塚御門古墳は大田皇女墓と整合する。さらに、牽牛子塚古墳が八角墳であることが近年の発掘調査で確定したことで、記述との一致は一層強まった。越塚御門古墳の石槨は丁寧に加工されており、皇女級の被葬者にふさわしいと考えられる。宮内庁は別の場所を大田皇女墓に治定しているものの、今日では考古学的には越塚御門古墳が最有力とされている。現代とは隔絶した姿を見せる二つの墳丘は、史書の記述と発掘成果を静かに結び合わせながら、そっと時代を語っているように見えた。
越塚御門古墳の石槨(内部ではビデオの紹介があった)

いよいよ最後は、藤原京跡である。藤原京は、日本で初めて本格的な都城として造営された大規模な首都であり、飛鳥時代後期から奈良時代初頭にかけての国家形成を理解するうえで欠かせない存在である。持統・文武・元明の三代にわたり使用され、律令国家の中枢として機能した。

『日本書紀』には、天武天皇期(676年頃)に「新城(にいき)」の選定が始まったと記され、持統8年(694年)に飛鳥浄御原宮から藤原宮へ遷都したことで藤原京が成立した。藤原京は、中国・唐の都城をモデルにした条坊制(碁盤目状の都市計画)を日本で初めて採用した都で広大な規模をもち、後に造られた平城京や平安京を上回る可能性も指摘されている。

藤原京の大きな特徴は、都の中央に天皇の居所である藤原宮を配置したことである。これは中国古代の理想的都城像(周礼)を意識したものと考えられ、後の平城京・平安京のように北端に宮城を置く「北闕(ほっけつ)型」とは異なる独自の構造であった。藤原京はわずか16年で廃都となり、平城京へ遷都される。その理由については、立地条件や疫病・飢饉、都城としての限界など諸説あるが、遣唐使が長安の都城構造を知り、宮城を北に置く形式が最新であると認識したことがその一因とする見解もある。

世界遺産登録を目指しているにもかかわらず、藤原京を専門に紹介する独立した博物館はなく、農協の二階に設けられた資料室にジオラマが置かれているだけという現状に、思わず足を止めた。かつて律令国家の中枢であった都の展示としては、あまりにも慎ましい。跡地に立つと、視界いっぱいに広がるのは野原と空で、その中に建物跡を示す柱が静かに点在している。左手は大極殿院の閤門(こうもん)、右手は朝堂院の正門――説明板にそう記されてはいるが、目の前にあるのは風に揺れる枯草と赤い柱だけである。宮廷があったと推定される場所にも、簡素な構造物がぽつりと残るのみで、往時の壮麗さを直接に語るものはほとんどない。だがその何もなさこそが、わずか16年で消えた都のはかなさを、かえって雄弁に伝えているように思われた。
藤原京ジオラマ

藤原宮跡

結び
終末期古墳をめぐる今回の旅は、巨大古墳の時代が終わったのち、墳墓が小型化しつつも多様な形式へと展開していったことを実感させるものだった。壁画を備えた装飾古墳、天皇陵に特有の八角墳、火葬を前提とした石槨、皇女級の被葬者を想定した丁寧な石材加工――いずれも、この時代が新しい葬送理念と王権表象を模索する時代であったことを物語っている。

物量によって威容を示した巨大前方後円墳に代わり、八角墳という象徴的な形式、壁画に託された宇宙観、そして藤原京の都市構造そのものが、天武・持統朝の王権理念を可視化する舞台となった。王権はもはや巨大な墳丘の姿ではなく、理念や儀礼、空間の秩序といった象徴の体系の中に姿を現していく。

現地に立つと、これらの墳丘はいずれも驚くほど静かで控えめである。しかしその静けさの奥には、国家のかたちをめぐる緊張と創造の歴史が確かに息づいている。終末期古墳をたどる旅は、目に見えるものの小ささの中に、目に見えない大きな転換を読み取る旅でもあった。

*1:石槨(せっかく)と石室(せきしつ)は共に古墳の石造埋葬施設だが、主な違いは「規模」と「目的(密閉性)」である。石槨は主に木棺を密閉保護する小型の「箱・空間」、石室は死者が生活する空間を想定した、後から追葬可能な大型の「部屋」を指す。

飛鳥前期を歩く――国家形成の現場へ

今回の「大阪・奈良へ古代を訪ねる旅」は、二泊三日の行程であった。今回の旅では、飛鳥という空間がどのように国家形成の舞台となったのかを、現地の遺跡を歩きながら確かめることを目的とした。二日目に前回の記事で紹介した百舌鳥・古市古墳群を訪れ、初日と最終日は飛鳥時代の遺跡を巡った。本稿では、現地の巡回順に沿って遺跡を紹介する。

飛鳥時代は6世紀末から平城京遷都の710年までとされ、100年余りの比較的短い時代であるが、前期・中期・後期の三つに区分することができる。前期は蘇我氏が権力を掌握していた時期、中期は唐・新羅の脅威に対応した緊張の時代、後期は律令国家が形成されていく段階にあたる。今回は前期と後期を分けて訪問したため、記事もそれぞれ独立して紹介する。本稿ではまず飛鳥時代前期について、政治・宗教・都市の三つの観点から整理して述べることにしたい。

飛鳥時代前期は、推古天皇の即位(592/593年)から乙巳の変(645年)までの時期にあたり、蘇我氏が強大な政治的影響力を握った時代である。蘇我馬子は推古天皇を擁立し、外戚として政権を主導したが、その過程で物部氏との対立が深刻化した。物部氏は伝統的な神祇祭祀を担う有力氏族であり、仏教受容を推進する蘇我氏と鋭く対立した。両氏の抗争は国家の宗教政策をめぐる政治闘争へと発展し、587年の崇仏戦争で物部守屋が滅ぼされると、仏教は国家的に受容される方向へ大きく転換した。

推古朝では、聖徳太子(厩戸皇子)が摂政として冠位十二階や十七条憲法を制定し、遣隋使を派遣するなど、中央集権化に向けた制度改革が進められた。これらの改革は、氏族連合的なヤマト政権から、天皇を中心とする国家体制へと移りゆく流れを方向づけるものであった。同時に、仏教は政治理念としての役割を強め、寺院造営が本格化する。飛鳥寺(法興寺)は日本最初の本格的仏教寺院として建立され、蘇我氏の権威を象徴する存在となった。

さらに、聖徳太子ゆかりの橘寺は、太子の政治的・宗教的活動の拠点として重要であり、仏教思想の普及に大きな役割を果たした。また、川原寺(弘福寺)は天智朝に本格整備されるが、その起源は飛鳥時代前期に遡り、国家的寺院としての性格を備え始めていた。これらの寺院群は、飛鳥地域における仏教文化の中心を形成し、後の白鳳文化・天平文化の基盤となる。

この時期の政治・宗教の中心となったのが飛鳥京である。飛鳥地域には豊浦宮・小墾田宮・飛鳥板蓋宮など複数の宮が営まれ、政治の中心が飛鳥に定着したことで、飛鳥京は日本古代国家形成の舞台となった。飛鳥京はまだ条坊制を備えた都城ではなかったが、宮殿・寺院・官衙が集中し、都市的景観が形成されていく。寺院の立地は政治権力との密接な関係を反映し、飛鳥の宗教空間と政治空間が重層的に構築されていった。

しかし、蘇我蝦夷・入鹿の専横は次第に強まり、政権内部の緊張が高まった。645年の乙巳の変で蘇我氏が滅亡すると、飛鳥時代は中期へ移行し、中央集権化と律令国家形成が本格化していく。

それでは実際に現地を歩いてみよう。最初に足を運んだのは飛鳥資料館(奈良文化財研究所)である。館の前に立つと、思いがけず多くの石造物が迎えてくれた。飛鳥といえば寺院建築のイメージが強かった私にとって、この光景は意外で、どこか不思議な静けさをまとっていた。これらの石造物の多くは用途が明確ではないが、仏教的要素を取り入れたものもある一方で、飛鳥独自の造形思想を反映し、道教的・呪術的・祭祀的な性格をもつと考えられている。

正門前には巨大な亀石が置かれ、左側には猿石と人頭石など、右側には須弥山(しゅみせん)石などが配置されていた。いずれも実物ではなくレプリカであるが、当時の造形文化の多様性と独創性をよく伝えている。なかでも須弥山石は、明治35年(1902年)に石神遺跡から出土した三段積みの噴水石造物で、仏教世界観の中心である「須弥山」を象ったものとされる。内部には水路が通され、実際に水を噴き上げる仕組みを備えていたと考えられており、飛鳥の宮廷空間における儀礼や庭園演出の高度さを示す貴重な資料である。
亀石

猿石と人頭石

須弥山石

館内に入ると、最初に目に飛び込んできたのは石人像だった。思わず足を止めるほどの存在感で、男女が寄り添う姿が石に刻まれている。体内を貫く円孔や水を噴き出す仕組みを知ると、ただの石像ではなく、当時の技術と想像力が凝縮された装置であったことが実感される。水源と水圧の原理を知っていれば、二人の口から水が湧き出るようにする仕組みを考案することは可能である。しかし、この時代の人々がどのようにしてその発想に至ったのかを思うと、当時の技術者の想像力の高さに感心させられた。
石人像

館内には飛鳥宮のジオラマも展示されている。手前が飛鳥宮跡、その左奥に飛鳥京跡苑池、右奥には浄御原宮の役所群が配置され、さらに飛鳥宮跡の後方には飛鳥寺、その右手前には飛鳥京工房遺跡がある。想像していた以上に広大で、すでに都市としての骨格が整えられていたことが実感できた。
飛鳥宮のジオラマ

ジオラマの飛鳥寺のさらに奥、左手の方向には、水時計を設置するための高度な水利用施設である水落遺跡が発掘されている。水落遺跡は『日本書紀』に記された漏刻(ろうこく:水時計)に対応するとされ、考古学的調査によってその一致がほぼ確実視されている。漏刻は、前述のように、水の流れる速度を利用して時間を計る装置で、古代中国で成立し、日本には飛鳥時代に導入された技術である。仕組み自体はシンプルだが、精密に作動させるには高度な水制御技術が必要とされた。

この時代にここまで精緻な水制御が実現していたことは、飛鳥の技術基盤の厚さを物語っている。須弥山石に見られる水利用技術を踏まえると、当時の技術水準は想像以上に高かったことがうかがえる。それでも、初めて漏刻を目にした人々にとっては、理解の難しい技術であったに違いない。なお、この近くには、斉明天皇期に宮廷儀礼や迎賓の中心施設として機能した石神遺跡が広がっている。
水落遺跡

館内には高松塚古墳・キトラ古墳の紹介もあったが、これについては次の記事で述べることにする。

山田寺の紹介のために一室が設けられていた。山田寺は、蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂が641年に創建を開始した初期仏教寺院であり、その規模は飛鳥でも屈指であった。後世には、藤原道長が「奇偉荘厳は言葉で尽くせない」と記したほどの大寺院である。

この展示室では、山田寺東回廊の一部が実物部材を用いて復元されている。奈良文化財研究所は、「山田寺東回廊は、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺よりも古い建築様式を伝える例とされる」と説明しており、飛鳥時代の建築技術を知るうえで極めて重要な資料であるとともに、ここでも優れた建築技術が確立されていることを確認できる。
山田寺東回廊の一部

また、山田寺の仏像も展示されていた。この仏像は、明るい表情、童顔、大きな弧を描く眉、切れ長の目といった特徴をもち、初唐の影響を受けた初期白鳳仏の典型的な様式を示している。
仏像

次に訪れたのは、日本最初の本格的仏教寺院として、飛鳥時代の宗教・政治・都市形成を理解するうえで中心的な存在とされる飛鳥寺である。飛鳥寺に立つと、かつて塔を中心に三つの金堂が囲んでいた伽藍の姿が、地面のわずかな起伏から静かに浮かび上がってくる。推古4年(596年)に蘇我馬子が発願して建立されたこの寺院は、創建当初、中央に塔を据え、その周囲を三つの金堂が囲む大規模な伽藍を構えていた。
中門

本堂

思惟殿

本尊の銅造釈迦如来坐像(飛鳥大仏)は、日本最古の仏像(7世紀初頭)で、鞍作止利(止利仏師)の作と伝えられる。座高約2.75メートルの金銅仏で、飛鳥時代の典型的な様式をよく示している。ただし、全身が当時のまま残っているわけではなく、平安・鎌倉期の大火で大きな損傷を受けている。現在の像は、顔の大部分と身体の半分以上が飛鳥時代のオリジナルで、台座の位置も創建当初のまま保たれているという。
飛鳥大仏

なお近くには、乙巳の変により殺害された蘇我入鹿の首塚がある。
蘇我入鹿首塚

次に訪れたのは飛鳥京であるが、現地には遺構があまり残っていないため、この日は石敷井戸(いしじきいど)だけを見学した。この井戸は、枠のまわりを一段低く掘り下げ、その部分に河原石を敷き詰めた構造をもつ。井戸の周囲が泥濘化するのを防ぎ、作業動線を確保するための実用的な工夫が凝らされており、飛鳥の生活・生産空間の具体的な姿を伝えてくれる。
石敷井戸遺跡

近くには万葉歌碑が建てられていた。これは、飛鳥から藤原京へ遷都した後、古京「飛鳥」への懐旧の思いを詠んだ志貴皇子の歌を刻んだものである。
万葉歌碑

そして次は、有名な石舞台である。石舞台古墳は飛鳥時代を代表する特異な古墳で、巨大な花崗岩を組み上げた横穴式石室が露出した姿で知られる。被葬者は蘇我馬子と考えられ、築造は7世紀初頭と推定されている。総重量約2300トンに及ぶ巨石を精巧に積み上げた石室は、玄室と羨道から構成されている。墳丘はすでに失われているが、露出した石室構造によって、古代の土木技術や権力者の葬送儀礼を直接観察できる点が大きな特徴である。

石舞台古墳の前に立つと、巨石の重みが空気を変える。文献で知っていた蘇我氏の権勢が、ここでは巨大な石の質量となって迫ってくる。七世紀初頭に、これほどの石をどう運び、どう積み上げたのか――考えれば考えるほど、当時の技術と組織力の大きさに圧倒される。
石舞台


近くには石棺のレプリカが置かれていた。
石棺

そして橘寺は現在は天台宗の寺院で、聖徳太子誕生の地と伝えられる。境内に足を踏み入れると、太子殿や塔心礎が静かに佇み、太子ゆかりの地としての空気がゆるやかに漂っていた。寺伝では推古天皇14年(606年)に太子が勝鬘経を講讃した際の瑞祥により建立されたとされるが、文献上の初見は天武9年(680年)で、創建年代は必ずしも明確ではない。かつては66棟の堂舎が並ぶ大寺で、四天王寺式伽藍配置をとっていた。現在は江戸期再建の太子殿を中心に、二面石や塔心礎などが残る。

橘寺が太子生誕地とされた背景には、寺院の縁起形成の過程で太子との結びつきを強調する必要があったと考えられており、地域的な伝承と寺院側の意図が重なって成立したものとみられる。境内には太子35歳像(重要文化財)が安置され、飛鳥の太子信仰と古代寺院の姿を今に伝えている。

聖徳太子にまつわる「伝説」が体系的に形づくられたのは、7〜8世紀(奈良時代初頭)が中心とされ、とくに決定的だったのは720年成立の『日本書紀』である。ここに超人的な逸話が多数盛り込まれたことが、後世の太子像を大きく方向づけたと考えられている。こうした国家的な太子像の形成とは別に、橘寺のような寺院では、独自の縁起や地域伝承を通じて太子との関係が強調され、生誕地伝承が定着していった。境内を歩きながら、その背景にある歴史的事情を思わず考えさせられた。
東門

本堂(太子堂)

経堂

観音堂

二面石

五重塔跡

往生院の格天井

最後に訪れたのは川原寺である。飛鳥寺・薬師寺・大官大寺と並ぶ「飛鳥四大寺」の一つとして知られる大寺院で、飛鳥時代に建立された。創建は7世紀半ば、天智天皇が母・斉明天皇の川原宮跡に建立したと伝えられるが、『日本書紀』に明確な創建記事がなく、成立事情には多くの謎がある。

川原寺跡に立つと、広大な寺域が静かに広がり、かつての伽藍の輪郭が地面の線となって残っている。伽藍は一塔二金堂式(川原寺式)と呼ばれる特異な配置で、東塔を中心に中金堂・西金堂が並び、僧房が三方を囲む壮大な構造をもっていた。この一塔二金堂式は飛鳥の国家寺院に特有の実験的な伽藍構成であり、後世に継承されない独自性をもつ点で、飛鳥期の宗教政策と寺院建築の試行錯誤を示す重要な事例とされる。

東西約150メートル、南北約330メートルに及ぶ広大な寺域は、飛鳥の国家寺院としての格式を示している。平城京遷都後も他の三大寺と異なり飛鳥に留まり、後に衰退したが、現在は跡地に建つ弘福寺が法灯を継承している。大理石製の礎石や塔跡が往時の規模をかすかに伝え、飛鳥の宗教空間の壮大さを今に感じさせる。
旧川原寺全景

川原寺中金堂跡にある瑪瑙(大理石)の礎石

振り返れば、須弥山石の噴水から漏刻、水落遺跡の水時計、そして石敷井戸に至るまで、飛鳥では水が繰り返し姿を現した。水を制御し、空間を演出し、時間を刻む技術は、政治と宗教を支える都市の基盤でもあった。宮、寺院、そしてそれらをつなぐ都市空間――飛鳥は、わずか百年余りのあいだに国家の骨格を形づくった場所である。文献で知っていた制度や事件が、現地を歩くことで具体的な空間として立ち上がってくる。その瞬間ごとに、飛鳥という土地が持つ力を改めて感じた。

次回は、唐・新羅の脅威のもとで中央集権化が一層進展する飛鳥時代後期を歩くことにしたい。

巨大古墳は何を語るのか ― 百舌鳥・古市古墳群と門閥氏族の競合

小学生の社会科で「大阪には巨大な古墳がある」と教わって以来、百舌鳥・古市古墳群には長く関心を抱いてきた。しかし実物を訪れる機会は得られないまま年月が過ぎ、今回、奈良・大阪へ古代を訪ねる旅に出て、ようやく念願を果たすことができた。ところが、実際に墳丘の近くに立つと、その規模の大きさゆえに視界に入るのは墳丘のごく一部にすぎず、全体の輪郭を把握することはできない。堺市役所の展望台から眺めてみても、今度は距離がありすぎるためか、巨大古墳は市街地の中の小山の一つにしか見えない。

この「近すぎても遠すぎても形が把握できない」という経験は、巨大古墳が単なる巨大建造物ではなく、古代の政治構造そのものを象徴する存在であることを示しているように思われた。全体像が容易に把握できないその構造は、単純な「王権」像では捉えきれない五世紀政治の複雑さをも象徴しているのではないだろうか。そこで、現地での観察と文献での知見を重ね合わせながら、巨大古墳が築かれた背景について改めて考えてみることにした。

近隣には、この視覚的な制約を補うために有料の気球による上空観察サービスも提供されているというが、今回は利用せず、帰宅後に衛星画像を用いて俯瞰してみた。すると、大仙陵古墳(いわゆる仁徳天皇陵)は三重の濠をめぐらせた前方後円墳の形が鮮明に現れ、周囲の市街地と比較してもその巨大さが際立つ。墳丘長は525m、高さは後円部で39.8mに達し、日本最大規模の古墳である。その規模は世界最大級の墳墓の一つとされ、エジプトのピラミッドや秦の始皇帝陵と並び論じられることもある。

古墳は、墳丘となる小高い山と、それを取り巻く濠によって構成される。濠を掘る際に生じた土を内側に積み上げ、さらに不足する場合には周辺から土を運び込むことで、人工の丘陵ともいえる巨大な墳丘が形成される。そこには被葬者が葬られるが、古墳の本質的な目的は単なる埋葬施設にとどまらず、被葬者の権力や権威を可視化するための巨大な威信財であったと考えられている。

しかし、現代の私たちから見ると、その規模はしばしば「やりすぎ」と感じられるほどである。なぜ、これほどまでに大規模な構造物を築造する必要があったのだろうか。そこには、当時の政治体制、地域間の競合、対外関係、宗教観や死生観など、複数の要因が複雑に絡み合っていたと考えられる。巨大古墳の存在は、単に一人の権力者の墓というだけではなく、古墳時代の社会構造そのものを映し出す鏡でもある。

3世紀末から4世紀にかけて奈良盆地南東部に築造された大型前方後円墳・箸墓古墳の出現を画期として、古墳時代の始まりとされる。古墳時代は前期・中期・後期に区分されるが、大仙古墳に代表される巨大古墳が築造されるのは中期の始まりであり、4世紀末から5世紀にかけての時期に相当する。

中期には前方後円墳が全国的に主流となり、巨大古墳の築造もこの時代に集中する。また、副葬品にも大きな変化がみられる。前期には弥生的な宗教性を引き継ぎ、銅鏡・玉類・碧玉製腕飾など司祭者的・呪術的性格をもつ宝飾品が中心であったのに対し、中期になると馬具・甲冑・武器・鉄器など軍事的・実用的な副葬品が急増し、朝鮮半島からの技術・文化の影響が一層強まる。

埴輪についても、前期は円筒埴輪が中心であったが、中期には人物・動物・家・舟などの形象埴輪が本格的に登場し、古墳の儀礼空間はより複雑で象徴性の高いものとなる。これらの変化から、前期と中期のあいだには社会構造や政治体制に大きな転換が生じていたことがうかがえる。

6世紀に入ると前方後円墳は減少して円墳が増加し、墳丘規模も縮小する。この時期は後期と呼ばれ、横穴式石室の普及とともに墓制は家族的性格を強めていく。

では、なぜ4世紀末頃に古墳が巨大化したのだろうか。松木武彦『古墳時代の歴史』によれば、この時期には対外関係に大きな変化が生じていたという。奈良県天理市の石上神宮に伝わる「七支刀」の銘文には、東晋の太和4年(おそらく369年)に制作されたことが記されており、『日本書紀』には神功皇后52年(372年)に百済から献上されたとある。これらの史料から、「東晋―百済―倭」という外交ルートが成立していたことがうかがえる。

さらに、高句麗の王都・輯安(しゅうあん)にある「広開土王碑」には、391年から404年にかけて高句麗と倭の間で争いがあったことが記されている。これは、朝鮮半島における「高句麗対百済」の対立構図の中で、倭が百済側に与したことに起因する戦いであったと考えられる。当時、鉄資源を産出しない倭にとって、朝鮮半島南端の加耶(加那)の鉄は極めて重要な基幹物資であり、百済はその供給を倭に約していた。このような朝鮮半島との外交的・戦略的な密接な関係は、武器・武具の変化にも反映されている。

松木によれば、この時代の倭はまだ首長連合的な段階にあり、全面三段の巨大前方後円墳に葬られるような複数の門閥氏族が互いに競い合う状況にあったという。5世紀の初め頃には、ヤマトに三つ、カワチに二つの有力な門閥氏族が存在していたとされる。その中でも、とりわけカワチの門閥氏族が勢力を拡大し、巨大な古墳群を築造するに至ったと考えられている。したがって松木は、いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれるような大王による一元的支配は、この段階ではまだ成立していなかったと指摘する(下図は松木武彦『古墳時代の歴史』からの引用)。

以上のような社会的・国際的変動を踏まえると、巨大古墳の出現を単なる「王権の象徴」と理解する従来の図式は再検討を迫られる。松木は、大王権の発展ではなく、門閥氏族の勢力拡大こそが巨大古墳出現の背景であることを強調する。その核心部分を、松木の記述から確認してみたい。

以上のように、五世紀にピークに達した巨大前方後円墳それ自体は、これまで言われていたような、『王権』の体現者としての倭王の地位などを示していないと理解できるのである。それは互いに競合し、牽制しながら、政治・社会・経済のさまざまな面での権益や地位を争っていた門閥氏族の長たちのために築かれたものであって、『倭王』のそれとして『王権』の発展に伴って巨大化したものではない。

続けて、同書の別の箇所では次のように述べられている。

本章では、370年前後、百済との通交の確立を契機として力を伸ばした門閥氏族の一派が、カワチを本拠として力を強め、百舌鳥・古市の両古墳群を営んだ二大門閥氏族に分かれて支配的地位を競うようになったようすをみてきた。おそらくは婚姻などを通じたかれらの介入や主導によって、九州から関東までの各地に『ミニ古市』『ミニ百舌鳥』というべき大型古墳群を築く男系大氏族が新たに形成されたとみた。これらの男系大氏族が、カワチの二大門閥氏族を両軸に、そこからもたらされた大量の鉄製武器・武具を用いた埋葬儀礼とその世界観を共有して連合し、東アジアの緊張した国際関係に立ち向かう様子を明らかにして、それを『応神新体制』と呼んだ。

ここで重要なのは、巨大古墳を「王の墓」ではなく「競合する門閥氏族の表現装置」として再定義している点である。この視点から現地の印象を振り返ると、墳丘が巨大すぎて全体像を一望できないという事実は、五世紀の政治構造もまた単純な「王権」モデルでは捉えきれないことを示唆している。百舌鳥・古市の巨大古墳群は、二大門閥氏族が互いに競合しつつ形成した複雑な権力構造を可視化したものだった可能性が高い。

それでは、実際の見学の様子をたどっていきたい。午前中は堺市の百舌鳥古墳群を中心に巡った。訪れたのは、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)、巨大古墳(主墳)の周囲に点在する陪冢(ばいちょう)古墳が集まる大仙公園、そして大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、さらに少し離れた黒姫山古墳である。

まず上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)を拝所から見学した。墳丘長約365m、高さ約27.6mを測り、日本で三番目に大きい前方後円墳である。しかし、あまりに規模が大きいため、拝所から見えるのは墳丘のごく一部にすぎず、全体像を把握することは難しい。写真に写る池のように見える部分が外濠であり、その内側にさらにもう一重の濠が巡らされている。
上石津ミサンザイ古墳

上石津ミサンザイ古墳

巨大古墳の前では、その規模を実感することすら容易ではないと感じつつ、大仙公園の内部へと進む。最初に現れたのは寺山南山古墳で、短辺39.2m・長辺44.7mの方墳である。そのすぐ近くには七観音古墳があり、墳丘径32.5m・高さ3.8mの円墳である。さらに進むと旗塚古墳が見えてくる。墳丘長57.9m・高さ3.8mの帆立貝形前方後円墳である。このあたりは山茶花や梅が咲き、早春の穏やかな雰囲気に包まれていた。
寺山南山古墳

七観音古墳

旗塚古墳

大仙公園

続いて孫大夫山古墳に至る。墳丘長65m・高さ7.7mの帆立貝形前方後円墳である。さらに竜佐山古墳へ進むと、墳丘長61m・高さ2mの帆立貝形前方後円墳が現れる。このように陪冢古墳には多様な墓型がみられ、被葬者の身分によって墳形が選択されたと考えられている。
孫大夫山古墳

竜佐山古墳

大仙公園を抜けると、大仙陵古墳が姿を現す。拝所から眺めると、ただの大きな丘のようにしか見えないが、これは墳丘があまりに巨大であるためである。近くには復元模型が設置されており、築造当時は葺石によって覆われ、周囲とは明確に区別された特別な空間を形成していたことがうかがえる。
大仙陵古墳

拝所

復元模型

次の目的地は古市古墳群であったが、その途中に位置する黒姫山古墳に立ち寄った。この古墳は、軍事集団を率いたと考えられる丹比(たじひ)氏の首長墓とされ、百舌鳥と古市の両勢力の中間に位置することから、両者の調整役あるいは軍事的中核を担った氏族の存在を示すものと考えられている。墳丘は二段築成の前方後円墳で、墳丘長は114〜122mと推定される。敷地内には石室の復元も設置されていた。
丹比氏の首長墓

石室の復元

近くのみはら博物館では、黒姫山古墳の出土品が展示されている。現地では規模感を十分に把握できなかったが、復元模型を見ると、築造当時の古墳の姿がよく理解できる。副葬品としては24領の短甲と冑のセットが出土しており、その復元模型が展示されていた。実物の短甲・冑のセットも並べられており、実際に身につけた場合の重量感や動きにくさが想像できる。また、円筒埴輪も展示されており、当時の儀礼空間の一端をうかがわせる。これらの短甲・冑は、丹比氏が軍事的性格を強く帯びた氏族であったことを端的に示している。両古墳群の中間に位置するこの古墳の存在は、単純な二項対立では説明できない複層的な政治構造を示しているように思われた。
黒姫山古墳の復元模型

短甲・冑のセットの復元模型

実物の短甲・冑のセット

円筒埴輪

昼食をとった後、いよいよ本日の見学の最後となる羽曳野市の誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神天皇陵)へ向かった。この古墳の南側には誉田八幡宮がある。誉田八幡宮は、古代から江戸時代までは「誉田八幡宮寺」と呼ばれる神仏習合の寺院であり、その境内は誉田御廟山古墳の墳頂まで広がっていた。しかし、明治維新後の神仏分離により寺院部分は廃され、誉田八幡宮は神社として再編され、古墳は陵墓として宮内庁の管理下に置かれるようになった。その結果、墳頂にあった寺院建物は撤去され、古墳は立ち入り禁止となった。

それでは、誉田八幡宮を見ていく。祭神は応神天皇(誉田別命)で、中世以降は八幡神と同一視され、鎌倉時代以降の将軍家をはじめ武家から厚く信仰された。南大門は切妻造・大棟葺の四脚門で、寺院建築の様式を色濃く残している。拝殿は入母屋本瓦葺で、間口十一間・奥行三間の細長い木造建築である。割拝殿形式をとり、正面中央部が拝所となり、向拝部分は唐破風造で蛇腹天井を備える。天井板が張られていないため、内部の木組を観察することができる。徳川家によって修復が施されたため、三つ葉葵の定紋が付されている。東門の鳥居に掲げられた「八幡宮」の「八」は、鳩が向かい合う意匠で描かれている。半円形の放生橋は、9月15日の秋季渡御の神事の際、御陵へ向かう神輿が通るために用いられたものである。
南大門

拝殿

三つ葉葵の定紋

東門鳥居

放生橋遠景

放生橋

誉田御廟山古墳の周囲には、主墳に付随する陪冢古墳が点在している。向墓山古墳は一辺68m・高さ10mの方墳である。墓山古墳は墳丘長225m・高さ21mを測る大型の前方後円墳で、陪冢としては最大級に属する。誉田丸山古墳は墳丘径50m・高さ7mの円墳で、ここからは金銅透彫鞍金具が出土している。大鳥塚古墳は墳丘長110mの前方後円墳である。これらの陪冢古墳は、誉田御廟山古墳を中心とした首長層の広域的ネットワークと、被葬者の身分階層の多様性を示している。
向墓山古墳

墓山古墳

誉田丸山古墳

大鳥塚古墳

陪冢古墳からの出土品を確認するため、羽曳野市文化財展示室に立ち寄り、形象埴輪を中心に観察した。
形象埴輪(水鳥形と人形)

形象埴輪(家形)

形象埴輪(靫形)

形象埴輪(靫形)

最後に、誉田御廟山古墳そのものを見学した。前方後円墳で、墳丘長425mを誇り、全国第2位の規模をもつ巨大古墳である。前方部の角から側面を撮影した写真では、その圧倒的な規模がよく分かる。また、拝殿越しに古墳を望んだ写真では、前方部の幅広さと墳丘の量感が強く印象づけられる。
前方部側面

拝殿

今回の見学は、巨大古墳の圧倒的な物理的存在感と、そこに込められた政治的・社会的意味を重ね合わせる貴重な機会となった。文献で学んだ門閥氏族の競合や対外関係の緊張は、実際に墳丘の前に立つことで、より具体的で立体的な歴史像として立ち上がってくる。百舌鳥・古市古墳群は、古代の権力構造を可視化した巨大な歴史資料であり、現地を歩くことで初めて理解できる側面が多い。

松木の指摘するように、両古墳群が血縁的なつながりを保ちながらも、互いに拮抗し競合した門閥氏族によって築かれたとする見解は、今回の実見によってより具体的な像を結んだ。巨大古墳は、その規模の大きさのみならず、複数勢力がせめぎ合う五世紀の政治構造そのものを体現する存在である。墳丘が巨大すぎて全体像を一望できないように、五世紀の政治構造もまた単純な図式では捉えきれない。現地に立ち、距離を変えながら観察することによってのみ、その複雑な構造が浮かび上がるのである。今回の観察と考察を踏まえ、古墳時代の権力構造、とりわけ中央と地域勢力の関係について、今後さらに理解を深めていきたい。

フライパンひとつのラムチョップ

大型スーパーの精肉売り場には、いつ訪れても多種多様な肉が並んでいて、買い物をしない日でもつい足を止めてしまう。どんな種類の肉があるのか、どの部位なのか、どのように切り分けられているのか、どれが人気なのか――そんなことを眺めているうちに、気づけば長い時間が過ぎていることもある。その中でも、私がつい探してしまうのがラムだ。羊肉は、生後12か月未満のラムと、1年以上のマトンに分けられる。私は、香りが穏やかで食べやすいラムのほうを好んでいる。

World Population Review(2022年)の統計によれば、日本の一人当たり年間消費量は、牛肉約9㎏、豚肉約20㎏、鶏肉約17㎏、ラム・マトンはわずか0.3㎏にすぎない。実際、売り場でも手ごろな豚肉と鶏肉が大きな面積を占め、牛肉も目立つ場所に置かれてはいるものの量はそれほど多くない。それに比べて羊肉は、取り扱う店自体が限られており、かなり大きなスーパーでないと見つけるのが難しい。

日本では一部の地域を除けば、ラムやマトンはあまり馴染みのない食材だが、羊大国オーストラリアでは事情がまったく異なる。私が滞在していたころ、アデレード近郊の農家出身の人と話す機会があった。彼女は、オーストラリアの農家にとって最大の問題は水だと語っていた。降水量は少なく、大きな川もほとんどないため、雨水をためて暮らしているという。さらに印象的だったのは、彼女の家では毎月一頭の羊を屠り、家族の食卓を支えていたという話だった。ちなみに、一頭から得られる可食部は13~26㎏前後である。

同じ統計でオーストラリアの一人当たりの肉類消費量を見ると、牛肉約27㎏、豚肉約20㎏、鶏肉約45㎏、ラム・マトンは6〜7㎏。総肉消費量は日本の約2倍にあたる112㎏に達する。ラム・マトンは他の肉類に比べれば少ないとはいえ、日本と比べると桁違いに多い。

私がラムのおいしさに目覚めたのも、まさにオーストラリア滞在中だった。アデレード近郊にはワイナリーが点在し、そこで開かれるバーベキューパーティーは、おいしいワインと肉料理を囲んで語り合う格好の場だった。そこで味わったラムの風味が忘れられず、帰国してからも折に触れてラム料理を作るようになった。

今回は、そんな思い出とともに、私のとっておきのラムチョップのレシピを紹介したい。

作り方は驚くほど簡単で、ラムチョップに塩・胡椒をし、焼く面を変えながらフライパンで10分ほど焼き、その後、アルミホイルで3分ほど包んで休ませるだけである。包みを開けば、驚くほどジューシーなラムチョップが味わえる。詳細は次のとおりである。


材料(2人分)
・ラムチョップ 5~6本
・塩・胡椒(またはスパイスミックス) 少々
・オリーブ油(またはサラダ油) 大さじ1

作り方
1.下味をつける
調理の30分ほど前に、ラムチョップに塩・胡椒、またはスパイスミックスをまぶしておく。今回は、肉に添付されていたスパイスミックスを使用した。
2.側面を焼く(骨の反対側)
フライパンにオリーブ油(またはサラダ油)を入れて中火で十分に熱し、油がさらりと広がる状態にする。温まったらラムチョップの骨とは反対側の側面を約3分焼く。

3.もう一方の側面を焼く
肉がついている側面を30秒ほど焼く(今回は側面の面積が小さく、その面をフライパンに接着できなかった)。

4.片面を焼く
ラムチョップを寝かせ、きつね色になるまで片面を約4分焼く。

5.反対側の面を焼く
裏返して、もう片方の面を2分焼く。

6.アルミホイルで休ませる(重要)
焼き上がったらすぐにアルミホイルで包み、3分間休ませる。

そのままアルミホイルに包んだ状態で食卓に添えると、温かさも保てる。なお、今回は肉が小さめであったため、触って弾力が出る程度を目安に、上記より短めの時間で焼いた。

仕上がりを左右するポイント
このレシピで最も重要なのは、焼いた後にアルミホイルで休ませる工程である。ラムチョップは加熱中、肉の筋繊維は縮み、内部の肉汁を中心へ押し出している。焼き上がり直後はこの状態が不安定で、肉汁がまだ落ち着いていない。ここで数分休ませると、
・筋繊維の緊張がゆるみ、保水力が部分的に回復する
・中心に集まっていた肉汁が全体にゆっくり戻る
・余熱で内部が均一に温まり、火通りが安定する
・アルミホイル内の蒸気で表面が乾燥せず、しっとり仕上がる
といった効果が同時に得られる。そのため、かじった瞬間に肉汁がじゅわっと広がり、レストランのようにジューシーなラムチョップを楽しむことができる。

オーストラリアに滞在していたころは、ラムやマトンのほかにも、日本ではなかなか味わう機会のない多様な肉を口にした。クロコダイル(ワニ)、エミュー、ラビット、食用ガエル、鹿、カンガルー――どれも土地の文化を感じさせる食材ばかりだ。異国で覚えた味は、自宅の台所でも再現できる。フライパン一つで焼き上げるラムチョップは、私にとって、遠い南半球の記憶を呼び起こす一皿である。

アーティゾン美術館で『モネ没後100年 クロード・モネ —風景への問いかけ』を鑑賞する

本展は、モネ没後100年を記念して開催された、オルセー美術館所蔵作品による『クロード・モネ展』である。展覧会の公式サイトでは、モネを「移ろいゆく自然の光に魅せられ、その美をキャンバスにとどめた画家」と紹介している。

クロード・モネ(Claude Monet)は1840年にパリで生まれ、幼少期をノルマンディー地方の港町ル・アーヴルで過ごした。早くから絵の才能を示し、特に人物のカリカチュアは地元で販売されるほどの腕前であったという。18歳頃、外光派の画家ウジェーヌ=ルイ・ブーダン(Eugène Boudin)と出会い、自然光のもとで直接風景を描く戸外制作の手ほどきを受けた。その後パリに赴き、本格的な修業を開始し、カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)、アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley)、フレデリック・バジール(Frédéric Bazille)、ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)らと交流を深めていった。

この時期のモネの作品には、写実主義の影響が色濃く見られる。次の絵画は1863年頃に描かれた《ノルマンディーの農場》であり、初期モネが写実主義の文法をしっかりと身につけていたことを示す好例である。

19世紀半ば、写真術の確立――とりわけルイ・ダゲール(Louis Daguerre)によるダゲレオタイプの発明――は、絵画にとって革命的な出来事であった。写真は現実の形態や光、陰影を圧倒的な精度で再現することができる。そのため、長らく絵画が担ってきた「現実を忠実に再現する」という機能は大きく揺らぎ、画家たちは新たな問いに直面することになった。すなわち、「絵画は、写真にできない何を表現できるのか」という問いである。この問題意識を出発点として、画家たちは光や大気、時間といった視覚の現象性を描く方向へと向かい、そこから印象派が生まれていった。こうして、モネら印象派の画家たちは、対象そのものではなく「光のうちに現れる世界」を描こうとした。

これに対して、浮世絵は写真とはまったく異なる方向から西洋の画家たちに衝撃を与えた。葛飾北斎や歌川広重に代表される浮世絵の大胆な余白、平面的な色面、斜めの構図やトリミング、固有色よりも「見え方」を優先する色彩は、ルネサンス以来の透視図法・陰影法・中心構図といった西洋絵画の視覚規範を根底から揺るがした。すなわち、写真が視覚の「時間性」を際立たせたのに対し、浮世絵は視覚の「空間性」を根本から再考させたのである。

以上を踏まえると、写真と浮世絵はそれぞれ異なる方向から、印象派の視覚革命を支えたことが分かる。

影響源 モネにもたらしたもの 方向性
写真 瞬間性、光の物理性、再現からの解放 視覚の時間性
浮世絵 平面性、構図の自由、色面の大胆さ 視覚の空間性

クロード・モネが描いた雪景には、浮世絵的視覚の影響が認められる。次の絵画の《荷車、オンフルールの雪道》(1867年頃)では、雪の「白」が単なる空白ではなく、画面全体を統合する構成的要素として扱われている。広重や北斎の雪景に見られるように、余白は欠落ではなく積極的な構成要素である。モネの雪景にも、こうした平面的構成感覚が読み取れる。

モネは1871年から1878年にかけてパリ近郊のアルジャントゥイユに居を構えた。この時期は印象派形成の中心期にあたり、「光と大気の画家」としての様式が確立した重要な段階である。次の絵画の《アルジャントゥイユ係船池》(1872年頃)は、当時の明るく開放的なパリ近郊の風景をよく伝えている。

この頃の作品には、短く方向性をもつ分割的な筆触が顕著に見られる。これは光の振動や大気の揺らぎを再現するのではなく、画面上に直接構築するための技法であった。後の《積みわら》や《睡蓮》へとつながる基礎がここで固まった。次の絵画の《ボート、アルジャントゥイユのレガッタ》では、雲の陰影と水面の波動が交錯し、刻々と変化する気象の不安定さが画面全体に動的な緊張をもたらしている。ここでは風景は固定された対象ではなく、「変化の過程」として提示されている。

パリ近郊での明るい制作とは対照的に、1878年から1881年にかけてヴェトゥイユに滞在したクロード・モネは、静謐で内省的な画風へと大きく転じる。妻カミーユ・ドンシュー(Camille Doncieux)の病と死、経済的困窮といった生活環境の変化が背景にあったと考えられる。次の絵画の《死の床のカミーユ》(1879年)は、この時期を象徴する作品である。モネは後年、「私は痛ましい額に目を凝らし、もはや動かない顔に死がもたらした色調の変化を無意識のうちに追っている自分に気づいた」と回想している。

ここで注目すべきは、愛する妻の死を前にしてなお、彼が悲嘆そのものではなく「色調の変化」という視覚現象を追っている点である。本作では絵具は薄く塗り広げられ、色調は抑制され、輪郭は溶け合うように曖昧化している。その結果、身体は確固たる存在としてではなく、光の中へと徐々に溶解していくように見える。ここでは風景の時間性ではなく、生と死の境界における時間が描かれていると言えるだろう。変化する光を追ってきた画家は、今や消えゆく生命の色を追っているのである。

その後、1883年にモネはジヴェルニーへ移住し、以後この地が生涯の制作拠点となった。ヴェトゥイユ期の沈静化した色調とは対照的に、40代後半のモネの画風には再び明るさが戻り、高明度の色彩の傾向へと転じていく。同時に、庭や花、水面といった身近な自然を徹底的に観察する姿勢が強まり、特定のモチーフを時間や天候、季節を変えて繰り返し描く連作が本格化する。ここで重要なのは、単に題材が変化したのではなく、制作の原理そのものが明確化した点である。モネの関心は、もはや「対象そのもの」を描くことではなく、「対象が時間の中でどのように変化し続けるか」という現象の連続へと向けられている。風景は再現すべき対象ではなく、時間の流れを可視化する場となったのである。

次の絵画の《戸外の人物習作―日傘をさす右向きの女》(1886年頃)は、こうした視覚観が人物表現においても展開された例である。モデルはシュザンヌ・オシュデ(Suzanne Hoschedé)である。シュザンヌの父エルネスト・オシュデ(Ernest Hoschedé)はモネのパトロンであったが、1870年代後半に破産し、その後オシュデ家はモネ一家と生活を共にした。母アリス・オシュデ(Alice Hoschedé)は、のちにモネの伴侶となる人物である。

本作では、「光の中に立つ人間」という視覚体験を描くための工夫が随所に見られる。日傘の裏に落ちる青い影、顔の細部を描き込まず光の中に溶け込ませる処理、スカートや草の流れが示す風の方向性、筆触によって揺らぐ空の表現――これらは人物を固定的な存在としてではなく、大気の中に生起する現象として提示するための視覚的装置である。ここで描かれているのは、個人の内面を示す肖像ではなく、「光と大気の条件のもとに現れる身体」である。人物は風景の前に立つ主体ではなく、風景と同じ原理によって生成される存在となっている。さらに、見上げる構図は画家の身体的視点を強く意識させ、鑑賞者に風の中で人物を見上げる感覚を共有させる。人物画でありながら風景画のように光と大気を体験させる構造がここに成立している。

晩年のモネの最大の特徴は、ジヴェルニーの庭の池と睡蓮を「世界そのもの」として描き続けた点にある。睡蓮はもはや単なる植物ではなく、光、水、空、大気、そして時間が溶け合う〈視覚の宇宙〉として扱われている。

この時期、モネは風景の「場所性」をほとんど消し去った。画面から地平線は消え、上下の区別は曖昧になり、水面と空は反転し、どちらがどちらであるか判然としなくなる。画面は巨大化し、鑑賞者の視野を包み込むような構造をとる。そこでは風景は特定の地点を示すものではなく、視覚そのものが展開する場へと変容している。この点において、モネの晩年の制作は20世紀の抽象絵画を先取りするものとも評されてきた。

さらに注目すべきは、彼が「瞬間の光」ではなく、「時間の流れそのもの」を描こうとしたことである。朝・昼・夕方の光、季節の移ろい、水面のゆらぎ、空の反射の変化といった異なる時間の相が、一枚の画面の中に重ね合わされている。そこでは単一の瞬間が固定されるのではなく、時間の層が堆積するかのような視覚世界が構築されているのである。

次の絵画の《睡蓮の池、緑のハーモニー》(1899年)は、こうした特徴を端的に示す作品である。水面に映る水辺の樹木の影と浮かぶ睡蓮は、上下の区別を失いながら一体化し、鑑賞者はもはや風景を「見る」のではなく、その内部に没入する体験へと導かれる。

結び

眼球を通して入ってくる景色は、私たちにとってあまりにも自明で、疑う余地のないもののように思われている。しかし、白内障の手術直後に目を開けた瞬間、世界が透明で青みを帯びた光に満ちて見えたとき、私はそれまで見ていた風景が実は黄色く曇っていたことを初めて知った。見えていると思っていた世界は、身体の条件によっていかようにも変化しうる――その体験は、「視覚」が決して絶対的なものではないことを痛感させた。

モネもまた、その不確かな視覚の条件を生涯にわたり問い続けた画家であった。彼が追ったのは、対象の輪郭や物語ではなく、光のもとで刻々と変化する色調の揺らぎであり、時間のなかで生成と消滅を繰り返す現象そのものであった。《死の床のカミーユ》において彼が見つめたのは、愛する人の姿であると同時に、死がもたらす微細な色の変化であった。そこには、感情と観察、悲嘆と視覚がひとつの経験として溶け合っている。

絵画とは、本来三次元の世界を二次元へと置き換える営みである。しかしモネは、その平面のなかに光の振動や大気の流れ、さらには時間の堆積までも取り込もうとした。アルジャントゥイユの水面に揺らぐ光も、ジヴェルニーの睡蓮に重ねられた季節の層も、単一の瞬間を固定するものではなく、時間の連なりを可視化する試みであった。とりわけ晩年の《睡蓮》連作においては、地平線は消え、上下の区別は曖昧となり、鑑賞者は特定の場所を「見る」のではなく、視覚そのものが展開する場へと包み込まれる。そこにあるのは、対象の再現ではなく、「見るという行為」そのものの提示である。

描く主体と描かれる世界とのあいだに生まれる緊張と応答。その往還のなかで立ち上がる意味を画面に定着させること――それが画家の仕事であるとすれば、その可能性を最も徹底して探究した一人がモネであったと言えるだろう。彼の作品は、私たちに風景を見せるだけでなく、私たち自身の「見る」という営みを静かに問い返してくる。

会場は決して静寂ではなかったが、画面の前に立つとき、時間の流れは確かにゆるやかになった。本展は、光と時間の中に身を置くという体験を通して、視覚とは何かをあらためて考えさせる機会となった。

横須賀市自然・人文博物館で、「あつまれ!! かながわのはにわ」展を鑑賞する

以前から神奈川の古墳文化に関心を抱いていた私は、横須賀市自然・人文博物館で埴輪が展示されていると知り、足を運んだ。埴輪とは、古墳の周囲に並べられた特別な形をもつ土製品である。その用途については、死者を祀るための聖域を示す標識であったとする説、単なる副葬品的な装飾であったとする説、あるいは被葬者の威信を象徴するものであったとする説など、さまざまな見解があるが、決定的な結論には至っていない。

古墳が築造された時期は、一般に3世紀後半から7世紀末頃までとされる。おおまかに、4世紀を前期、5世紀を中期、6世紀を後期、7世紀を終末期と呼んでいる。埴輪の変遷もこの区分と対応しており、前期には円筒埴輪が現れ、中期には動物や家形などの形象埴輪が登場し、後期になると人物埴輪が多く作られるようになる。

古墳時代の政治的中心は、奈良盆地の纒向遺跡や大阪平野の百舌鳥・古市古墳群に求められることが多い。そのため、神奈川県で古墳が築かれ、埴輪が用いられるようになるまでには一定の時間を要した。神奈川県における埴輪の最盛期は6世紀頃であり、円筒埴輪が多く、形象埴輪が比較的少ない点に地域的な特徴がみられる。

前期の早い段階には、弥生時代の伝統がなお残り、弥生時代の製法で作られた土器が前方後円墳から出土している。たとえば、横浜市の稲荷前遺跡から出土した壺は、焼成前に底部へ孔があけられており、「焼成前底部穿孔壺」と呼ばれる。

前期の後半になると、朝顔形埴輪や円筒埴輪が出土するようになる。写真は伊勢原市の小金塚古墳から出土した朝顔形埴輪で、透孔が三角形である点に特徴がある。なお、この透孔は後の時代には円形へと変化していく。

埴輪の製作技術は、前期には弥生時代と同様に野焼きが中心であったが、中期になると朝鮮半島系技術の影響を受けたとされる「窖窯(あながま)」が用いられるようになる。神奈川県では、川崎市の白井坂埴輪窯跡が唯一の生産遺跡であり、そこで焼かれた埴輪の一例として、写真の円筒埴輪が挙げられる。

しかし、白井坂埴輪窯で生産された埴輪は限られていたとみられ、多くは埼玉県鴻巣市の生出塚(おいでづか)遺跡で焼かれたものが神奈川県へ運ばれてきたと考えられている。同遺跡では、埴輪窯跡40基、工房跡2基、粘土採掘坑跡1基、住宅跡9基、古墳18基が確認されており、広域的な生産・供給拠点であったことがうかがえる。ここから出土した人物埴輪(貴人埴輪)は重要文化財に指定されている。横浜市の北門1号墳から出土した人物埴輪も、生出塚遺跡で造られたものである。

後期になると、円筒・朝顔形埴輪に加え、動物・家形・人物など多様な形象埴輪が登場する。展示室に並ぶそれらを見ていると、単なる副葬品というよりも、古墳という空間そのものを一種の儀礼的な「場」として構成する意図があったことがうかがえた。

厚木市登山1号墳、横浜市上矢部町富士山古墳、横須賀市蓼原古墳から出土した朝顔形埴輪はいずれも均整の取れた造形を持ち、透孔の配置や焼成の状態から高度な技術水準が認められる。



一方、円筒埴輪は装飾性よりも反復性に特徴があり、墳丘を囲う境界標識としての役割を強く意識させる(横須賀市蓼原古墳・厚木市登山1号墳)。


建物や動物などの形象埴輪も、その時代の社会や儀礼を反映しており、興味深い(厚木市登山1号墳・横浜市上矢部町富士山古墳)。


特に印象的であったのは人物埴輪である。島田髷を結った女性像(厚木市登山1号墳)、采女と思われる女性(川崎市末長久保台古墳)、下げ美豆良の男性像(厚木市登山1号墳)、盾持人(横浜市上矢部町富士山古墳)、力士(厚木市登山1号墳)、琴を弾く人物(横須賀市蓼原古墳)など、いずれも特定の役割を象徴的に表現していると考えられる。写実的というよりは類型化された造形であるが、その単純化こそが社会的役割の象徴化を可能にしていたように思われた。






今回の展示を通して、神奈川県の埴輪は畿内文化を単に模倣したものではなく、弥生時代の伝統が残る前期の様相や、畿内より遅れて訪れた繁栄期の特徴などからもわかるように、在地の技術や社会構造を反映しつつ独自に展開していたことが理解できた。円筒埴輪を基調としながらも、時期が下るにつれて多様な形象埴輪が取り入れられ、古墳という空間を象徴的に構成する装置として機能していた点は特に印象深い。古墳は単なる墓ではなく、社会の階層や役割分担を象徴的に確認する「儀礼秩序」を可視化する場であった可能性がある。その中で埴輪は、被葬者の権威や地位を示す「威信財」として、周囲の人々に政治的・社会的メッセージを伝えていたのではないだろうか。

とりわけ後期には小規模古墳が多数築かれ、地域豪族層の存在が浮かび上がる。彼らが埴輪によって装飾された墳墓を築いた背景には、支配秩序を象徴的に示す意図があったとも考えられる。経済史家ダロン・アセモグルが論じるように、権力は制度や技術の発展を通じて社会資源を動員する。その視点から見れば、古墳造営は単なる葬送儀礼ではなく、地域社会の労働力を組織化し、権威を可視化する政治的営為でもあったと考えられる。

神奈川の埴輪をたどることは、古墳時代における周縁地域が、中央文化をいかに受容し、選択し、再編成したのかを考える視座を与えてくれる。それは単なる文化伝播の物語ではなく、地域社会が主体的に歴史を構築していく過程の一断面であったといえよう。

宮廷から都市へ――日仏における近代美術の形成と都市周縁文化

歴史愛好家の集う研究会において、近世から近代へと移行する時代のフランスと日本の絵画――印象派と浮世絵――を取り上げ、政治・経済・社会の変化を背景とする文化比較の試みを報告した。幸いにも発表は好評を得、終了後には数名の参加者から感想や質問をいただいた。

当日の論文内容は後述するが、まず理論的前提として、2024年ノーベル経済学賞受賞者である ダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソン の国家論の枠組みに立てば、この時代はどのように理解できるのかを簡潔に説明した。

17世紀の哲学者 トマス・ホッブズ は、著書『リヴァイアサン』において国家の必要性を論じた。リヴァイアサンとは、古代・中世の神話や聖書に登場する巨大な怪物である。ホッブズは自然状態を「万人の万人に対する闘争」と捉え、そこでは暴力と不安が常態化しているとした。この混沌を克服するために、人々は契約によって絶対的主権者――国家――を創設したのであり、その象徴がリヴァイアサンである。すなわち、秩序を維持するための巨大な人工的存在としての国家である。

これに対し、アセモグルとロビンソンは著書『自由の命運:国家、社会、そして狭い回廊』(文庫版は『自由と国家: 繁栄する国衰退する国』)において、リヴァイアサンは必ずしも自由をもたらすとは限らないと論じ、国家と社会の力関係に応じて次の四類型を提示した。

・専横的リヴァイアサン(国家が強く、社会が弱い)
・足枷のリヴァイアサン(国家と社会がともに強い)
・不在のリヴァイアサン(国家が弱く、社会が強い)
・見せかけのリヴァイアサン(国家と社会がともに弱い)

専横は権威主義国家に、足枷は民主主義国家に、不在は自然状態に近い社会に、見せかけは制度的基盤の脆弱なポスト植民地国家などに典型的に見られるとされる。

このうち「足枷のリヴァイアサン」においては、国家権力が社会によって制約されつつも、秩序維持能力を保持しているため、国民の自由が制度的に保障される。しかし、この状態に到達することも、そこにとどまり続けることも極めて困難である。彼らはこの不安定な均衡を「狭い回廊(The Narrow Corridor)」と呼ぶ。

さらにその比喩として、ルイス・キャロル の児童小説『鏡の国のアリス』に登場する「赤の女王仮説」を引用する。「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」という台詞が象徴するように、国家と社会は自由を維持するため、絶えず相互に緊張関係を保ちながら進化し続けなければならないのである。

江戸後期の日本も、革命前のフランスも、もはや「完成された専横」を維持しうる段階にはなかった。しかし同時に、「足枷のリヴァイアサン」に到達していたわけでもない。両国はいわば「狭い回廊」の入口付近で揺れ動いていた。

両者の相違は、その移行過程の力学に見いだせる。フランスは革命という「衝突」を通じて足枷を獲得しようとしたのに対し、日本は体制内部の調整と漸進的変化によって専横を緩和しようとした。こうした違いは、絵画の変容――印象派と浮世絵の成立と展開――を、政治・経済・社会との連関の中で読み解くことで、より構造的に把握できる。

以上の理論的前置きを踏まえたうえで、当日の論文内容を説明した。なお、論文には絵画作品の図版は掲載していないため、具体的な作品については適宜Wikipedia等を参照していただきたい。

伊豆大島の椿油でつくる、軽やかなアヒージョ

先週末、伊豆大島を訪れた。伝統産業に携わる方々の話を伺うなかで、椿油の魅力をあらためて感じさせられた。「椿油でつくるアヒージョは本当においしい。クセがなく、素材の味が澄んでくる」そう勧められ、一瓶を持ち帰った。昨夜、いよいよその椿油を使ってアヒージョを作ってみた。

材料(2人分)
椿油 130ml(具材が半分浸る程度)
・ニンニク 2片(薄切り)
・鷹の爪 1本
ミニトマト 4個
・マッシュルーム 4個
・エビ(冷凍・中サイズ)8尾
ブロッコリー 適量(下ゆでしておく)
・塩 適量

作り方
1. スキレット椿油を注ぎ、薄切りニンニクと鷹の爪を入れる。ごく弱火でじっくり加熱し、香りを油に移す(約5分)。焦がさないことが重要。

2. 香りが立ったらミニトマトを加え、弱火のまま4分ほど煮る。トマトの水分が油になじむ。

3. 半解凍して水気を拭いたエビとマッシュルームを加え、弱火で加熱する。エビが赤くなり、火が通るまで7〜8分。

4. 仕上げに温めておいたブロッコリーを加え、塩で味を整える。好みで黒胡椒を挽いてもよい。

椿油が引き出す味わい

一般的なオリーブオイルのアヒージョと比べ、椿油は香りが穏やかで、油自体が主張しない。そのため、
・エビの甘み
・マッシュルームの旨み
・トマトの酸味
が輪郭を保ったまま立ち上がる。また、後味が驚くほど軽い。油料理でありながら、食後の重さが残らないのは椿油ならではだろう。

この日は少し早めに、妻の誕生日を祝う食卓でもあった。濃厚なカリフォルニア・ナパ産のカベルネ・ソーヴィニヨンを合わせてみたが、椿油の軽やかさが赤ワインのタンニンを柔らかく受け止め、意外な調和を見せた。

残った椿油でペペロンチーノも作ったが、こちらも同様に素材の味が澄んでいる。

伊豆大島の風土が育んだ油は、派手さはないが、料理の土台を静かに引き上げる力を持っていた。アヒージョはその魅力を最も素直に味わえる一皿かもしれない。

椿まつりの「伊豆大島」を訪れる

この冬一番の寒さとなった先週末、伊豆大島を訪れた。島で雪を見ることは一年に一度あるかないかというほど珍しいそうだが、運が良いのか悪いのか、うっすらと積もった雪景色に期せずして出会うことができた。以前から関心はあったものの機会がなく、訪問は今回が初めてである。

大島へは船か飛行機で渡るが、今回は東京・竹芝桟橋からの海路を選んだ。ジェット船なら二時間弱、夜行の大型船も一便運航されている。通常、ジェット船は二便、大型船は一便の運航で、1日に運べる人数は多くても千五百人ほどだろう。便数が限られているためか、インバウンドの旅行者は多くなく、滞在中に見かけたのは数人にとどまった。

伊豆大島は観光の地と考えがちだが、入島できる人数が限られていることもあり、中規模以上のホテルは十件程度と少ない。民宿やペンションが主流のようである。実際、私が泊まったのも船宿で、昭和レトロの趣があり、どこか懐かしい雰囲気が漂っていた。

来島者数は、1974年(昭和49年)の83.9万人が最高で、コロナ前後はおおむね20万人に落ち着いている。1970年代前半には離島ブームがあったそうで、その当時の活況を宿のご主人が面白おかしく話してくれた。

島の人口も、来島者数の変化と同じような推移を辿っている。人口が最大になったのは1952年(昭和27年)の約1万3千人で、2021年(令和3年)には7228人となった。全国的な出生数の減少に加え、若者の流出が島の人口減少を加速させている。この島の産業は観光・農業・漁業・公共部門が中心で、若者が希望する職種が限られていることが、流出に拍車をかけている。

ここまで伊豆大島の概要を紹介してきたが、今回の旅行は、この島の自然や産業を実際に体験するフィールドワークである。

1.自然

この島を特徴づけているのは、何よりも火山島であるという点だ。学校では火山を活火山・休火山・死火山に分類すると学んだが、現在ではこの区分は用いられず、「活火山か、そうでないか」で整理される。活火山とは「過去1万年以内に噴火した火山、あるいは現在も噴気活動がある火山」と定義される。三原山は1986年(昭和61年)に噴火しており、正真正銘の活火山である。

現在の伊豆大島周辺では、約10〜30万年前に海底火山の噴火が繰り返され、その結果、三つの独立した火山島が海上に姿を現した(これらは現在の外輪山の一部として残っている)。三つの島は互いに近接していたため、噴火が続くにつれて溶岩流や火山砕屑物が周囲に広がり、島同士が埋め立てられるように結合し、一つの大きな島(外輪山)を形成した。

その後、約1万年前から数千年前にかけて火山活動の中心が島の中央へ移り、中央火口丘(三原山)が噴火を繰り返して外輪山内部に新しい火山体が積み重なった。写真は外輪山の内部から三原山を望んだものである。三原山の中央火口が深く大きく開いているのは、約2500年前に起きた大規模な水蒸気爆発によるものと考えられている。

今回は、下図左側にある山頂口から火口一周歩道に向かい、その途中(1986年 A溶岩流先端部)まで歩いた。

歩道沿いでは、溶岩流の性質によって形成される溶岩の違いを実際に確認することができた。下の写真はポハイホイ溶岩である。ポハイホイ溶岩はハワイ語に由来する火山学の専門用語で、滑らかでロープ状の模様を持つ玄武岩質溶岩を指す。これは、玄武岩質の溶岩がゆっくり流れ、表面に薄い皮膜をつくりながら進むことで生じる。その形成過程は、①溶岩がゆっくり流れる、②表面が空気に触れて薄い皮膜ができる、③内部の流れに押されて皮膜が皺状・ロープ状に変形する、というものである。表面が艶のある黒〜灰色になることも、ロープ状模様と並ぶ特徴である。

次の写真は同じ地点の風景で、溶岩流によって小高い丘が形成されていることが分かる。これらは 1777〜1792年の大噴火(安永・天明期の噴火) によってつくられたものである。

一方、先に述べたのとは逆に、溶岩の流れが速く、乱れ、かつ冷えやすい条件では、表面がゴツゴツ・ザラザラした塊状の玄武岩質溶岩が形成される。次の写真がその典型である。

拡大写真では岩塊が角ばり、不規則に積み重なっている様子がよく分かる。

溶岩が迫ってきた際の避難のため、写真のようなシェルターがところどころに設置されている。前夜に降った雪がその地面に残り、この日の寒さを物語っていた。

溶岩の表面をよく見ると、植物が点々と生えているのが分かる。伊豆大島では、こうした植物は次のようなプロセスを経て誕生する。溶岩が流れ出した直後は、そこは何もない裸地である。まず地衣類の胞子が風で運ばれて付着し、岩をわずかに溶かして微細な凹凸をつくり、土壌形成の第一歩を担う。地衣類がつくった凹凸に水分がたまるとコケ類が定着し、これが有機物を供給して次の植物が育つ基盤となる。

その後、ススキが最初の本格的な植物として広がり、さらにススキ草原の中にオオバヤシャブシ、イタドリ、ネズミモチアカメガシワなどの低木が次々と侵入する。特にオオバヤシャブシは根に根粒菌を持ち、窒素を固定することで栄養分の乏しい溶岩地に肥料を供給する重要な役割を果たす。最終的には、スダジイタブノキシラカシなどの照葉樹が定着し、森林が形成される。

次の写真は、こうした植生遷移のプロセスを一望できる、格好の教材となっている。

外輪山外側(海側)に出て、噴火によって形成された地形をさらに観察する。次の写真は赤禿(あかっぱげ)である。赤禿は三原山の噴火で飛散した赤色スコリア(酸化した火山礫)が厚く堆積した場所で、①粒が粗く水を保持しない、②栄養がほとんどない、③風で飛ばされやすい、といった性質をもつため、植物が根を張りにくい。特にここは外輪山の稜線に位置し、冬季には季節風が直接吹き付ける強い風衝地帯である。そのため、強風で土壌が飛ばされ、芽生えた植物は乾燥して枯れ、根が張る前に吹き飛ばされてしまう。結果として、植生がほとんど成立していない。


次の写真は砂の浜(さのはま)である。この浜は、玄武岩質の火山噴出物が砕けてできた黒砂によって形成されている。


そして圧巻が、地層大切断面である。



地層大切断面を少し学術的に説明すると次の通りである。地層大切断面は、成層火山である伊豆大島火山の内部構造と噴火史を連続的に示す大規模露頭である。この断面は自然侵食によって偶然露出したものではなく、1953年(昭和28年)の道路建設工事により山腹が大きく切り開かれた結果、人工的に形成された。

ここに露出している地層は、伊豆大島火山の完新世(過去約1万〜1万数千年)における噴火活動の堆積記録である。伊豆大島玄武岩質マグマを主体とする島弧成層火山で、低粘性マグマによる溶岩流噴火と、ストロンボリ式噴火(粘性の低い玄武岩質マグマが数分〜数十分おきにガスを放出し、小規模な爆発を繰り返す噴火様式)を中心とした爆発的活動を繰り返してきた。このため、降下スコリア層・火山灰層・溶岩流層が交互に重なり、明瞭な成層構造が形成されている。

この断面で識別できる地層は、噴火初期の降下スコリア・火山灰から、その後の溶岩流噴出までを一連の噴火活動期としてまとめた単位で数えると、およそ100層前後に達する。ここでいう「一層」とは、薄い火山灰層一枚を指すのではなく、火山層序学における噴火活動期単位である。したがって、この断面は少なくとも約100回規模の噴火活動期を記録していると解釈できる。また、約1万年分の記録であることから、平均すると200年に1回程度の噴火があったことになる。この地層には、カルデラ形成を伴う大規模噴火や、他火山の噴火の痕跡も含まれている。

2.歴史

次の写真は波浮港である。波浮港はもともと「港」ではなく、波浮の池と呼ばれる火口湖であった。約3000年前の三原山の噴火で形成された火口に水がたまり、海と隔てられた湖として存在していた。周囲は断崖に囲まれ、人が近づきにくい場所であった。

波浮港の歴史を決定づけたのは、1703年の元禄地震である。大地震によって地盤が崩落し、波浮の池の外壁が破れ、海水が一気に流入した。その結果、湖は瞬く間に「入り江」へと変化し、自然災害によって港の原型が生まれた。

こうして誕生した波浮港は自然の入り江として優れていたが、外海との接続部が狭く、船の出入りが難しかった。そこで江戸幕府の命により大規模な工事が行われた。1800年頃、伊豆代官の指示で切り通し工事が開始され、断崖が人力で掘り進められ、港口が拡張された。この工事には7年を要し、波浮港は本格的な港町として生まれ変わった。

明治から昭和前期にかけて、波浮港は漁業と海運を中心に最盛期を迎える。漁業では近海漁業の拠点としてサバ・アジ・カツオなどの水揚げが盛んで、多くの漁船が出入りし、港は活気に満ちていた。また海運の中継地として、東京〜伊豆諸島〜伊豆半島を結ぶ航路の要衝となり、商人や旅人が行き交い、宿屋や商店が軒を連ねた。土地の需要は極めて高く、「銀座の一等地よりも価値があった」と語られるほどである。さらに、川端康成伊豆の踊子』や三島由紀夫潮騒』にも登場し、文化的な存在感も持っていた。

波浮港の切り通し工事を主導した人物として知られるのが、秋廣平六(1757–1817)である。彼は江戸後期の波浮の名主であり、港口の開削を実現し、波浮港発展の基礎を築いた人物である。また、波浮港には写真のように、野口雨情作詞・中山晋平作曲の「波浮の港」の碑が建てられている。

写真は老舗旅館「みなとや」である。波浮港の中心部に位置し、江戸末期〜明治期に創業したとされる歴史的建物である。木造二階建てで、港を一望できる絶好の立地にあり、波浮港の繁栄期には旅人・商人・漁師で賑わった。現在は文化財的価値を持つ建物として保存され、波浮港の町並みを象徴する存在となっている。また、川端康成が『伊豆の踊子』執筆の際に滞在した宿としても知られている。

3.産業

伊豆大島の産業の変遷は次のように整理できる。

江戸〜明治にかけては、海運・漁業・農業が中心であった。島外との物流は船に依存し、サバ・アジ・カツオなどの近海漁業が盛んであった。また、火山灰土壌を活かした畑作(アシタバ、サツマイモなど)も行われた。明治〜昭和前期には、波浮港を中心とした海運・漁業の黄金期を迎える。波浮港は「大島の大阪」と呼ばれるほど繁栄し、商業・旅館業・海運業が集中し、島の経済の中心地として機能した。昭和後期〜現在にかけては、観光・公共部門・農林水産業が複合化した産業構造となっている。船の大型化により波浮港は衰退し、元町港・岡田港が主要港となり、観光産業が島の基幹産業へと転換した。また、公務・教育・医療などの公共部門が安定した雇用を支えている。

ここでは、現在も維持・継承されている伝統的な産業を見ていく。最初はくさやである。藤文商店は伊豆大島・元町地区にある老舗のくさや屋で、現在も伝統的なくさや汁を継ぎ足しながら製造を続けている。そこの主人から、くさやについて詳しく話を伺った。

くさやは、伊豆諸島(特に大島・八丈島・新島)で作られる、発酵液(くさや汁)に魚を漬けて干した伝統食品である。強烈な匂い、深い旨味、保存性の高さ、そして島の生活に根付いた発酵文化を特徴とする。その歴史的背景には、塩が貴重であったという事情がある。江戸時代、伊豆諸島では塩が非常に高価で、魚を塩だけで保存することが難しかった。そこで塩を節約するために、一度使った塩水を再利用し続けた結果、その中に魚のエキスが蓄積し、発酵が進み、独特の“くさや汁”が誕生した。まさに、塩不足が発酵文化を生んだと言える。

くさやの伝統的製法は、①魚を選ぶ(主にトビウオ・ムロアジシイラ・サバなど黒潮の恵みを受けた近海魚)、②くさや汁に漬け込む(何十年、場合によっては100年以上継ぎ足された発酵液を使用し、家ごとに味が異なる「家伝の発酵菌」が生きている。魚のタンパク質が分解され、旨味成分=アミノ酸が増加する)、③天日干し(水分が抜けて保存性が高まり、発酵の香りが凝縮し、旨味が強くなる)という工程からなる。

独特の臭いの正体は、発酵過程で生じるアンモニア・硫黄化合物・アミン類である。一方、旨味の正体は、くさや汁の発酵菌が魚のタンパク質を分解することで生成されるグルタミン酸イノシン酸・各種アミノ酸であり、これによって非常に強い旨味が生まれるとのことであった。

次は、大島といえば誰もが思い浮かべる椿であり、その椿を利用した椿油である。高田製油所は「玉締めしぼり」という伝統的な製法で椿油を製造しており、そのご主人から詳しい話を伺った。玉締めしぼりは、適度な圧力をかけてゆっくりと搾ることで、風味や成分を損なうことなく良質な部分のみを抽出できる製法である。さらに、搾った油を紙のフィルターでじっくりと丁寧に濾すことで、純度100%の三原椿油が出来上がる。大量生産には向かない手間のかかる製法だが、肌にも髪にも、そして料理にも使える品質の高い純粋な椿油が得られるとのことであった。

その製法は次の通りである。

  • 原料の選別:「ヤブ椿」の実をよく乾燥させた後、1粒1粒を丁寧に選別する。
  • 粉砕:粉砕機で種子を粉末状に細かく砕く。
  • 蒸し工程:粉砕した種子を桶に入れ、高圧の蒸気で約5分間蒸す。
  • 玉締め式圧搾:蒸し上がった原料をナイロン製の布で包み、「玉締め式」圧搾機で約1時間かけて圧力を加え、油を搾る。
  • 静置による不純物の沈殿:搾られた油を一晩静かに置き、不純物が沈殿するのを待つ。
  • 濾過・仕上げ:翌日、紙(活性炭)フィルター//0.5ミクロンのフィルターなどを用いて、静かにゆっくりと濾過し、製品として仕上げる。

4.観光

伊豆大島の観光といえば、前述した自然・地形を楽しむジオパーク的な巡検、北部・西部のビーチでの海水浴やシュノーケリング、ダイビングや釣りといったアウトドアスポーツ、さらに波浮港をはじめとする歴史散策、そして椿(カメリア)観賞が挙げられる。私が訪れた際には、ちょうど椿まつりが開催されていた。

島内には複数の椿園があるが、東京都立大島公園、東京都立大島高校椿ガーデン、椿花ガーデンの三つが国際優秀つばき園に認定されている。今回訪れた椿花ガーデンでは、園主の方から、園の成立から現在に至るまでの歩みを詳しく伺うことができた。

椿花ガーデンは、行政主導の大規模施設ではなく、園主個人の「椿を島の資源として活かしたい」という思いから始まったものである。もともと椿の自生地として知られる伊豆大島には豊かな自然がある一方、園芸品種を体系的に展示する場は限られていた。そうした空白を埋める形で、園主は長年にわたり収集してきた品種を植え、少しずつ園の形を整えていったという。

しかし、火山島特有のスコリア質土壌は水はけが良すぎ、椿の根が乾燥しやすいため、そのままでは多くの品種が定着しない。園主は腐葉土を混ぜる、植栽位置を変える、風の通り方を調整するなど、試行錯誤を重ねながら土壌改良を進めてきた。また、国内外から集めた品種の中には島の気候に合わず枯れてしまうものも多く、植えては失敗し、再挑戦するという地道な作業が続いた。園内の道づくりや植栽配置、剪定、ラベル管理といった作業もほぼすべて手作業で行われ、個人経営の園として維持していくには相当の労力が必要だったことがうかがえる。

こうした長年の積み重ねが現在の豊かな景観を形づくり、2016年の国際優秀つばき園認定へとつながった。説明を受けた後、自慢のガーデンを散策した。写真はその時に鑑賞した椿である。

東京都立大島公園も訪れた。その時に出会った椿の一部は次の写真である。


また、公園内には動物園が併設されていた。動物園の中で見かけたカモシカとアルダブラゾウガメ。

5.まとめ
くさや、椿油、そして椿ガーデンの主人の話はいずれも印象深かった。何より、大島の伝統的な産業を守ろうとする強い熱意に心を打たれた。多くの同業者が採算の厳しさから撤退していったであろう中で、伝統を維持・継承するために工夫を重ね、観光的な魅力を高めながら販路を確保していくことは、並大抵の努力ではないはずだ。

同じ志を持つ仲間たちとの協力の輪を広げ、自然豊かな環境を守りつつ、大島ならではの魅力をさらに高めていってほしい――そう感じながら、このフィールドワークを終えた。

小金井公園内の「江戸東京たてもの園」を訪ねる

久しぶりに、小金井公園の中にある江戸東京たてもの園を訪ねた。現役の頃、この近くに職場があり、小金井公園はよく足を運んだ場所である。仕事の合間にテニスを楽しんだこともあれば、天気の良い昼休みには同僚と散歩をした。とりわけ桜の季節は格別で、吉野桜の並木を歩き、大木の大島桜を愛でた思い出が鮮やかに残っている。たてもの園にも数度入ったことがあったが、記憶は断片的なままだった。

退職してから十年が経ち、懐かしさが募ってきたこともあり、昨年知り合った新しい仲間とともに、改めて江戸東京たてもの園を訪れることにした。

江戸東京たてもの園は、両国の江戸東京博物館の開館と同じ1993年(平成5年)に開園した施設である。都市の更新の陰で姿を消しつつあった建物を、まとめて体感できる場所でもある。この地にあった武蔵野郷土館を継承し、郷土館で展示されていた光華殿、鍵屋、吉野家住宅などを含め、文化的価値は高いが、現地での保存が難しくなった建造物を、移築・復元して公開している。江戸時代から昭和初期までの約30棟の建物が集められ、往時の暮らしや街並みを今に伝えている。

この園の入口にはビジネスセンターがある。この建物もやはり歴史的な建造物で、1940年(昭和15年)に皇居前広場で行われた紀元2600年記念式典のために建設された式殿である。1942年(昭和17年)に小金井大緑地(現在の小金井公園)に移築され、光華殿と命名された。

江戸東京たてもの園を有名にしたのは、なんといってもスタジオジブリの『千と千尋の神隠し』である。映画制作の際、参考にされた場所でもある。特に「武居三省堂」や「子宝湯」などが作中のモデル地として知られ、ジブリファンにとっては映画の世界観を体験できる重要な参照点となっている。

江戸東京たてもの園は「西」「センター」「東」の三つのゾーンに分かれているが、ジブリ作品に関連する建物が集まっているのは東ゾーンである。

その東ゾーンに向かうと、まず都電が目に入る。その左側に1928年(昭和3年)に建てられた村上静華堂が現れる。昭和前期には化粧品クリームや椿油、香水などを製造し、卸売や販売を行っていた店である。

正面には人造石洗い出しでイオニア式の柱を表現するなど、当時としては非常にモダンな造りとなっている。

さらに進むと「下町中通」に入る。レトロな建物が並ぶ通りの一番奥にあるのが「子宝湯」である。『千と千尋の神隠し』では油屋のモデルの一つとされる銭湯で、内部も当時の雰囲気がよく残されている。

銭湯の中。内部も当時の雰囲気がよく残されている。

「子宝湯」の左隣には、1856年(安政3年)に建てられたと伝わる「鍵屋」がある。台東区下谷言問通りにあった居酒屋で、震災・戦災を免れた貴重な建物だ。1970年(昭和45年)頃の姿に復元されており、『千と千尋の神隠し』では千尋の両親が豚になった居酒屋「かえる屋」のモデルとして知られている。

続いて右側の並びを見ていく。「子宝湯」に近いところには「萬徳旅館」がある。青梅街道沿いにあった旅館で、江戸末期から明治初期に建てられたとされ、現在の建物は1950年(昭和25年)頃の姿を復元したものだ。

その右隣が「武居三省堂」である。明治初期に神田須田町で創業した文具店で、震災後に建てられた看板建築の一つ。茶色のタイル張りの外観と、途中で勾配が変わるギャンブレル屋根が特徴的だ。

店内には200本近い筆を収める桐箱が整然と並び、この空間はジブリ作品では釜爺のボイラー室のモデルとして使われた。

さらに右隣には1927年(昭和2年)建築の「花市生花店」がある。全面を立て板状にし、銅板を張って防火対策を施した建物で、1991年(平成3年)まで営業していた。

通りを進むにつれて、昭和初期の商店街が一気に立ち上がってくるようだ。その横には昭和初期に建てられた荒物屋「丸二商店」が続く。小さな銅板片を組み合わせて模様を作り出した外観が特徴で、昭和10年代の姿を再現している。

左側の並びに移ると、奥には1933年(昭和8年)建築の「小寺醤油店」がある。港区白金で味噌・醤油・酒類を扱っていた店で、庇の下の腕木とその上の桁が特徴的だ。

一軒飛ばした左側には「大和屋本店」がある。港区白金台にあった乾物屋で、1928年(昭和3年)の創建当初の姿を復元している。木造3階建てで、軒下の腕木や出桁構造を持つ一方、間口に比して背が高く、2階のバルコニーや窓下に銅板を用いるなど、看板建築の特徴も備えたユニークな建物である。

その左隣には昭和初期に建てられた植村邸が続く。全体が銅板で覆われ、関東大震災後に多く建てられた看板建築の特徴をよく示している。2階には和風の高欄が取り付けられ、和洋折衷の趣を見せている。左右を見比べながら歩くと、同じ看板建築でも表情の違いがよく分かる。

続いて中央ゾーンへ向かう。ここには「旧自証院霊屋(おたまや)」がある。尾張藩主・徳川光友正室である千代姫が、母・お振の方(三代将軍徳川家光の側室)を供養するために建立した霊廟である。

次に現れるのが、「高橋是清亭」である。港区赤坂に1902年(明治35年)に建てられた建物で、明治から昭和初期にかけて国政を担った高橋是清の住まいの母屋部分にあたる。総栂普請で造られ、食堂の床は寄木張り、2階は是清の書斎や寝室として使われた。1936年(昭和11年)の2・26事件の現場としても知られる。静かな住宅の佇まいからは、当時の緊張感は想像しがたい。

最後に西ゾーンを歩く。まず目に入るのは「前川國男邸」である。1942年(昭和17年)、品川区上大崎に建てられた住宅で、前川國男建築事務所による設計。戦時下で資材の入手が難しい時期に竣工した建物で、外観は切妻屋根の和風、内部は吹き抜けの居間を中心に寝室・書斎を配したシンプルな構成となっている。前川國男(1905〜1986)は東京文化会館(1961)、東京都美術館など公共建築を多く手がけ、日本の近代建築の発展に大きく寄与した。

「小出邸」は1925年(大正14年)に建てられた住宅で、日本のモダニズム運動を主導した建築家・堀口捨己が、ヨーロッパ視察から帰国した直後に設計したものだ。オランダで流行したデザインと日本の伝統的な造形を巧みに折衷している。

「三井八郎右衞門邸」は1952年(昭和27年)、港区西麻布に建てられた邸宅である。客室と食堂部分は1897年(明治30年)頃に京都で建てられた建物を移築したもので、戦後に現在の地へ移された。

なお、東京都指定文化財には「旧自証院霊屋」「前川國男邸」「小出邸」「三井八郎右衞門邸」の四件が指定されている。

見学時間は二時間ほどで、すべての建物を見ることはできなかった。それでも、かつての断片的な記憶が目の前の建物と少しずつ結びつき、途切れていた映像が連続した時間の流れとして立ち上がってくる、その過程を味わうことができた。

現役の頃は、日本の歴史について十分な知識を持たないまま見学していたため、どうしても「何となく眺める」にとどまっていたように思う。しかし退職後にあらためて学び直したことで、それぞれの建物の細部や背景にも目が向き、楽しみの幅が確実に広がったことを実感した。

同じ場所を再び訪れることは、過去の記憶を編み直す行為でもある。学び直すことで風景の見え方が変わり、時間の経過が新しい意味を与えてくれる。今回の訪問は、これからも視点を更新し続けることの大切さを思い起こさせる機会となった。

河野龍太郎著『日本経済の死角-収奪的システムを解き明かすー』を読む

日本がバブル景気に沸き立っていたのは、今から約40年前である。当時はエズラ・ボーゲルが1979年に著した『Japan as Number One』が現実になったかのような高揚感が社会を覆っていた。しかし、脆弱な基盤の上に築かれたバブルは、1990年代半ばにはもろくも崩れ去った。当初は「失われた10年」と呼ばれ、停滞は一時的なものとして、比較的短期間での回復が期待されていた。だが状況は改善せず、20年を経ても停滞は続き、いまや「失われた30年」と言われるに至っている。

この失われた30年をそれぞれの人たちはどのように実感しているのだろう。我々の孫の世代はバブルの時代を知らず、生まれたときから「失われた時代」の中にいる。そのため、社会全体が浮かれた空気に包まれていた時代を体験していない。一方で彼らは、スマートフォンの普及や生成AIの登場に象徴されるように、生活が急速に便利になっていく社会を当たり前のものとして享受している世代でもある。

では、バブル期を知る我々の世代は、この30年をどのように経験してきたのだろうか。孫世代とは異なる時間感覚や価値観の中で、何を「失われた」と感じてきたのか。私は2015年に退職した。失われた時代が始まったのが1995年頃だとすると、20年間は失われた時代の中で働いていたことになる。しかし、「この期間に何を失った」と問われると、答えに窮する。物価は安定していて、失われた期間の間ほとんど変わることはなかった。給与についても、定期昇給によって名目的には安定的に増加しており、当時は大きな不満を抱くことはなかった。ただ、親の世代から「今はいくらくらいもらっているのか」と尋ねられたとき、同じ役職での給料は同じかあるいは減少しているようだとは感じていた。親の世代を超えて豊かになれないようだと思っていた。退職後は年金生活に入ったが、支給される年金額はほぼ一定である。ここ1〜2年を除けば物価変動は小さく、生活の見通しは立てやすかったというのが実感である。ただ、さまざまな優遇措置を享受できた親の世代と比べると、より厳しい条件のもとで年金生活を送っているという認識もある。

このように、日常生活の範囲では「失われたもの」を実感しにくい。だが、海外との比較に目を向けると、その変化は途端に鮮明になる。失われた時代が始まろうとしていた1995年当時、日本円は依然として高い水準にあった。この年は私はオーストラリアに滞在していたが、この国の物価はとても安く、現地の人にとっては高級品で手が届きにくいワインでも、円に換算すれば負担は小さく、驚くほど美味しい一本を気軽に楽しむことができた。しかし、コロナ禍の頃、メキシコに滞在している息子を訪ねてみようと計画したところ、交通費・宿泊費のあまりの高さに驚かされた。妻に用事が入って実現しなかったが、もしこの旅行が実施されていたならば、多額の費用を払って、魅力的なメキシコの遺跡を前にしながら、日本の経済的地位の低下を否応なく意識させられたに違いない。

「失われた30年」を振り返ると、国内では収入も支出も比較的安定し、不確実性の少ない時代であったように思える。一方で、海外との比較に目を向けると、日本は確実に貧しくなったという実感もある。こうした感覚を、専門家はどのように分析しているのかを知りたくなり、エコノミストの河野龍太郎さんが上梓した『日本経済の死角』を手に取った。「失われた30年」をどのように評価するかは、経済学者の理論的立場によって大きく異なる。そのため、本書がどのような視座に立って議論を展開しているのかを意識して読む必要がある。河野さんは、著書の中でも述べているように、アセモグルとロビンソンの制度的アプローチを手がかりにこの時期を分析している。両者は、新制度派経済学の代表的論者として、経済発展の根本要因を「制度」に求める立場をとる。市場の自律的調整を重視するシカゴ派のミルトン・フリードマンとは異なり、アセモグルは権力構造・国家能力・エリートの利害を分析の中心に置き、制度の質を重視するのが特徴である。

河野さんはこうした制度論の視点から、日本経済を単なる景気循環や政策失敗としてではなく、より深層の構造問題として捉え直そうとする。そこで、この本の内容をまとめると次のようになる。

日本の「失われた30年」は、単なる景気低迷ではなく、生産性の伸びと賃金の停滞が長期にわたり乖離した結果として生じた現象である。これは先進国の中でも例を見ない特徴をもつ。まず事実として、過去四半世紀の間に日本の時間当たり労働生産性は約3割上昇している。これは決して低い伸びではなく、国際比較をしても一定の改善を示す。しかし、この生産性向上が労働者の実質賃金に反映されていない点に、日本経済の深刻な構造問題が凝縮している。

時間当たり実質賃金は、生産性とは対照的に全く増えていない。むしろ近年の円安インフレによって明確に低下している。生産性が伸びているにもかかわらず、労働者の購買力が減少するという現象は、ドイツやフランスのように日本より生産性の伸びが低い国でも実質賃金が上昇していることを考えれば、極めて異例である。こうした事実は、「貧しくなった日本」という表現が、感情的な誇張ではなく、統計的裏付けをもつことを示している。

もっとも、長期雇用制の枠内にいる正社員に限れば、定期昇給によって名目的な賃金は着実に上昇してきた。たとえば、毎年2%程度の昇給が続いた場合、25年間で賃金は約1.7倍になる。しかし、これはあくまで「同じ人の賃金カーブ」であり、職位ごとの賃金水準は低下している。1990年代の課長・部長と比較すると、現在の同職位の賃金は名目でも実質でも多くの場合で減少している。企業が人件費総額を抑制する中で、若年層の賃金を低く抑えつつ、昇進してもかつての水準には届かないという「薄いピラミッド構造」が形成されたのである。

この賃金抑制の背景には、企業の内部留保偏重がある。生産性が上昇し収益が増加しても、その増益分は賃金に回されず、内部留保として積み上げられた。バブル崩壊後、企業の財務状況が悪化したため内部留保を重視したこと自体は理解できる。しかし、財務が改善した後も内部留保偏重は止まらず、結果として労働者への分配が削られ続けた。さらに、バブル崩壊後にメインバンク制が機能不全に陥り、企業が資金繰りを銀行に頼れなくなったことも、企業がリスク回避的に内部留保を積み増す行動を強化させた。

労働市場の制度変化も賃金停滞を加速させた。週48時間労働から40時間労働への移行により、長期雇用者の残業による柔軟な労働時間調整が難しくなった。従来は景気変動に応じて残業で対応していたが、労働時間規制の強化によりその弾力性が失われた。このため企業は、短時間労働者に関する法成立もあり、短期雇用者を大量に採用することで労働力を調整するようになった。短期雇用者は定期昇給がなく、低賃金で雇用されるため、長期雇用者との間に大きな格差が生じた。

一方で、長期雇用制の外にいる人々がこれまで何とか生活できていたのは、ゼロインフレが続き、消費者余剰が大きい社会だったからである。価格が上がらないため、低賃金でも生活が成立した。しかし、2022年以降の急激な円安インフレによってこの前提は崩れた。物価が上昇する一方で賃金が追いつかず、実質賃金は急速に目減りし、生活困窮に直面する人々が増加しつつある。

こうした複合的な要因が重なり、日本の財・サービスの価格は国際的に見て極めて割安になった。外国人観光客が日本を「安い国」と評価する背景には、為替だけでなく、長期的な賃金停滞がある。生産性が上昇しても賃金に反映されず、企業は内部留保を積み上げ、労働市場は二極化し、物価は長期にわたり停滞した。これらの制度的・構造的要因が絡み合い、日本は先進国の中でも特異な「賃金が上がらない社会」へと変容していった。

総じて、日本の「失われた30年」は、生産性と賃金の連動が断ち切られた結果として生じた。これは単なる経済指標の問題ではなく、社会の持続可能性、生活の安定、国際競争力に直結する深刻な課題である。生産性の成果を適切に分配し、労働市場の二極化を是正し、企業の内部留保偏重を改めること――それこそが、日本の豊かさを取り戻すために避けて通れない核心的課題なのである。

このように河野さんは、私が日々の生活の中で実感してきた現象を、アセモグルの制度理論を用いて、きわめて説得力のある形で理論化している。

アセモグルとロビンソンは、「収奪的な社会制度の下では国家は衰退し、包摂的な制度でなければ繁栄は持続しない」と述べている。この視点から日本の状況を捉え直すと、日本の「失われた30年」は、制度の硬直化と政治的均衡の歪み*1によって生産性と賃金の連動が断ち切られた結果と理解できる。企業はバブル崩壊後の財務不安とメインバンク制の崩壊を背景に内部留保を優先し、既得権的な長期雇用制度は労働市場の二極化を拡大させた。労働市場の柔軟性は失われ、非正規の低賃金構造が固定化した。制度が技術進歩や分配の方向性を偏らせた結果、成長の果実が広く共有されない「非包摂的均衡」が形成された。そして、その均衡こそが、日本の長期停滞を自己強化的に固定化したのである。

日本という国が衰退局面に入りつつあるように見える以上、そうした状況を避けるためには「包摂的」な制度への転換が不可欠である。そのためにはイノベーションを促す環境が必要だとしている。しかし、イノベーションは本来、既存の秩序を破壊しかねない野生的で収奪的な側面をもつが、それを否定するのではなく、社会が飼いならすための包摂的な制度作りが必要であると河野さんは本の最後で述べている。素晴らしい視点であり、この問題提起を出発点として、今後、より具体的な包摂的制度の提案が示されることを強く期待したい。

*1:政治的均衡の歪みとは、特定の利害関係者が政治・経済制度を自分たちに有利な形で固定し、社会全体の利益につながる改革を阻む状態を指す。

デビッド・A・シンクレア, マシュー・D・ラプラント著『LIFE SPAN 老いなき世界』を読む

暮れにNHKスペシャル「ヒューマンエイジ 人間の時代 第5集 不老長寿」を見て、正直驚かされた。一つは、「人間の寿命や老いにどこまで介入してよいのか」という倫理的な観点から、もう一つは、生命科学がここまで来たのかという驚きである。番組の冒頭では、遺伝子操作によって二十歳近く若返ったとされる女性の事例が紹介された。あくまで研究段階の成果ではあるものの、熟年に差しかかろうとしていた女性が、働き盛りの活動的な姿へと変化していた点は強い印象を残した。もし彼女が再び中年期を迎えたとき、さらに若返る遺伝子操作を施すことができるのなら、永遠に若くいられるのではないかとさえ思わせる場面であった。

「永遠に生きる」ことは現実的ではないにしても、寿命が大幅に伸びた世界を想像すると、さまざまな感情が湧いてくる。組織で働く者にとっては「嫌な上司がずっと居座る」というネガティブな想像が先に立つかもしれない。一方で、素晴らしい伴侶と暮らしている人にとっては「この幸せが長く続くのは嬉しい」と感じるだろう。さらに、小説家のように人間の死を物語の源泉とみなす立場からすれば、死が遠のいた世界で何をテーマにすべきかという根本的な問いが生じるかもしれない。このように、寿命の延伸は万人にとって単純に祝福されるものではなく、立場や価値観によって期待と不安が大きく分かれる問題であることがわかる。

その一方で、科学技術の進歩には目を見張るものがある。DNAが遺伝物質であることが明らかになったのは20世紀半ばのことであり、その全ゲノム解読が可能になったのはごく最近である。生命現象に関する知識が飛躍的に広がり、遺伝子を切ったり繋げたりすることで生命をデザインできる時代が到来しつつある。ユヴァル・ノア・ハラリが述べるように、人類が神に代わって新たな種を生み出す未来が現実味を帯びてきた。さらに生成AIの急速な発展も相まって、私たちは、産業革命を超える規模の技術的転換点に差しかかっている可能性があるのではないかと感じさせられる。

こうした問題意識に刺激され、『LIFE SPAN 老いなき世界』を手に取った。この本は過去・現在・未来の三部構成で、最後の未来編では「老いなき世界」の是非が論じられている。著者はもちろん肯定的で、百歳まで病気をせずに健康に生きられる素晴らしい時代が到来すると力強く主張する。すなわち本書は、老いを「前提」としてきたこれまでの人生観そのものを問い直す試みでもある。

本書の核心は、老いを自然の摂理とみなすのか、それとも著者が主張するように「病気」と捉えるのかによって、私たちの視座が大きく変わるという点にある。

老いとは何だろうか。歳を重ねた人の顔には、艶が失われたり、シミや皺が増えたりと、若い頃とは明らかに異なる変化が現れる。人間の体は無数の細胞から構成されており、皮膚では古くなった細胞が垢として剥がれ落ち、新しい細胞へと入れ替わっていく。このように、通常は古い細胞が適切に排除され、常に新陳代謝が保たれている。しかし、何らかの理由で排除されずに体内にとどまってしまう細胞がある。これが「老化細胞」である。

では、老化細胞はなぜ生まれるのだろうか。人は転んだりぶつかったりして怪我をすることがあるが、その際に衝撃を受けた細胞は損傷し、内部のDNAも傷つく可能性がある。細胞はDNAの情報をもとに新しい細胞を作るため、DNAが損傷したまま分裂すると、誤った情報が子孫の細胞へ受け継がれてしまう。もしそれが癌につながる変異であれば重大な問題となる。このため、損傷を受けた細胞は自ら分裂を停止し、増殖しない状態へ移行する。これが細胞の老化である。怪我の治癒過程では一時的に老化細胞が必要とされるが、治癒後には免疫細胞によって取り除かれる。つまり老化細胞は、本来は組織の修復に役立つ生理的な仕組みの一部である。しかし、この「修復に役立つ細胞」が、長期的には別の顔を見せる。

細胞は分裂を繰り返すうちにDNAを正確にコピーできないリスクが高まる。これを防ぐため、DNAの端には「テロメア」と呼ばれる構造があり、分裂のたびに短くなっていく。テロメアが限界まで短くなると、DNAが不安定になるのを避けるために細胞は分裂を停止し、老化細胞となる。若い時期には免疫系がこれらの老化細胞を効率よく除去するが、加齢とともに老化細胞の発生量が増え、除去能力が追いつかなくなる。その結果、老化細胞は体内に蓄積していく。

老化細胞が身体に害をもたらさなければ問題はないのだが、実際にはそうではない。老化細胞は、自身が不要であることを免疫系に知らせるために、SASP(細胞老化随伴分泌現象)と呼ばれる反応を起こし、炎症性サイトカインやケモカインなどの因子を周囲に放出する。これらの因子は、ナチュラルキラー(NK)細胞、マクロファージ、T細胞といった免疫細胞を呼び寄せ、老化細胞を除去させる役割を果たす。しかし、加齢とともに免疫機能が低下すると、この除去機能が追いつかなくなる。その結果、老化細胞は組織内に蓄積し、慢性的な炎症を引き起こす要因となる。いわゆる「ゾンビ細胞」と呼ばれる状態であり、様々な疾患の発症リスクを高める。これが老化細胞の負の側面である。

このように老化細胞は、怪我や病気からの回復において重要な役割を果たす一方で、加齢に伴っては害を及ぼす存在にもなる。まさに功罪を併せ持つ細胞と言える。では、なぜこのような仕組みが生物に備わっているのだろうか。著者はこれを進化論的観点から説明している。人間を含む生物にとって、最も重要なのは長寿ではなく子孫を残すことである。人類史の大半において平均寿命は30歳前後と短く、怪我や感染症からの回復が、子孫を増やす時期の生存に直結していた。そのため、老化細胞が持つ「修復のための機能」が優先され、長寿における弊害は問題視されなかった。ところが、近代になって栄養状態や衛生環境が改善し、医療技術も飛躍的に発展したことで、人類はかつて想像もしなかったほど長生きするようになった。その結果、老化細胞の負の側面が顕在化したのである。言い換えれば、老化細胞は「短命な世界」では適応的だったが、「長寿の世界」ではリスクとして浮かび上がったのである。

では、長寿を健やかに享受するためにはどうすればよいのだろうか。鍵となるのは、死亡するまで健康な状態を保つことである。そのためには、加齢に伴って生じる老化細胞の発生を抑えたり、蓄積のスピードを遅らせたり、あるいは老化細胞そのものを若返らせる技術が求められる。これらの点については第二部で詳しく述べられている。医学の進歩とともに、これらの技術はさらに発展していくだろう。100歳まで健康に生きることが現実味を帯びるだけでなく、115歳に達する長寿さえも享受できる時代が訪れるかもしれない。

そこで、老化細胞を自然の摂理として受け入れるべきなのか、あるいは多くの疾患を引き起こす要因として“病気”とみなすべきなのかは、人生観や倫理観によって判断が分かれるだろう。医学は今後も進歩を続けるはずであり、老化細胞をどのように位置づけ、どこまで介入すべきかという問題は、まさにこれから社会全体で議論すべきテーマだと、この本を読んで強く感じた。私自身は、老いを全面的に否定するのではなく、その害の部分を緩和しつつ、どの段階まで介入を許容するのかを慎重に見極める姿勢が必要だと感じた。たとえば、重篤な疾患の予防や生活の質の維持を目的とする介入と、「若さ」そのものを無制限に追求する介入とを、どのように線引きすべきかといった問題である。

三鷹の「国立天文台」を訪問する

三鷹天文台は、天体好きの少年にとって憧れの場所であろう。子供の頃の東京では、今よりも多くの星が見え、ミルク色に輝く天の川を眺めるたびに、なぜ星は一様に散らばっていないのだろうと不思議に思った。望遠鏡があれば、もう少し詳しいことが分かるのではないかとも考えたが、興味が大きく広がることもなく、少年時代は過ぎていった。

時は流れ、自分が親となり、子供が小学生になるころ、野辺山近くの避暑地を訪れる機会が何度かあった。あまりにも多くの星が見えるので、望遠鏡ならさらに多くのものが見えるのではと思い、小さな望遠鏡を手に入れた。木星土星は肉眼よりはるかに鮮明に見え、土星の輪がくっきりと見えたときは感激した。しかし、その後も天体観測への関心が大きく深まることはなく、時は流れていった。

今回、思いがけない機会を得て三鷹国立天文台を訪れた。しかし、かつてとは異なり、現在、観測の主流は他地域に移っている。都市化による光害の増大や、より良い観測条件を求めて、観測拠点は野辺山やハワイ、チリのアタカマ高地などへ移り、三鷹はそれらの観測地点から送られるデータの収集・解析、さらには次期観測装置開発の拠点として位置付けられている。

天体観測は、我々の目に見える可視光から始まったが、今日では赤外線やミリ波など多様な波長で観測されるようになり、可視光では見えない「隠れた宇宙」も明らかになってきている。三鷹天文台には、こうした観測の歴史を物語る施設が残されており、それらをたどることで天文学の発展を実感できる。

最初に訪れたのは、三鷹に現存する建物で最も古い第一赤道儀室である。1921年(大正10年)の建設で、内部には1927年にドイツのカール・ツァイス社から購入された20センチ屈折望遠鏡が据えられている。赤道儀とは、天体の動きに合わせて星を追尾できる架台のことである。1931年頃からは接岸部に直視分光器を取り付け、太陽プロミネンスの形態や変動を観測した。また1938年から60年間にわたり太陽のスケッチ観測が継続され、熟練観測者による黒点数のデータが世界に提供されてきたと案内板に記されていた。

次に訪れたのは1926年建設の天文台歴史館(大赤道儀室)である。ここには国内最大口径の屈折望遠鏡である60センチ望遠鏡が設置されており、1998年まで使用された。

さらに1930年(昭和5年)建設の太陽塔望遠鏡(アインシュタイン塔)へ向かった。塔全体が望遠鏡の筒として機能する独特の構造を持ち、名称はドイツ・ポツダム天体物理観測所のアインシュタイン塔に由来する。三鷹の塔も一般相対性理論の検証を目的としていたが、この点では成果を上げられなかった。しかし黒点の地場観測やフレア観測、太陽自転の測定、太陽スペクトル研究などで重要な成果を残した。

続いて子午儀の建物へ向かう。子午儀は天体が子午線を通過する時刻を精密に測定するための望遠鏡である。1925年建設の子午儀資料館(レプンソルド子午儀室)には、1880年製のドイツ製子午儀が収められている。麻布時代には時刻決定と経度測量に用いられ、三鷹移転後は月や惑星、小惑星赤経測定に使われた。2011年には重要文化財に指定されている。

1924年建設のゴーチェ子午環室では、天体の精密位置観測が行われた。長く眼視観測が続けられたが、後にCCDカメラが導入され、より高精度の観測が可能になった。子午儀は子午線通過時刻を測定し、子午環はさらに高度を測定する点で役割が増している。

ここまでが戦前の施設であり、ここからは戦後の観測装置となる。

1970年に建設された6mミリ波電波望遠鏡は、国内初、世界でも2番目のミリ波望遠鏡として日本の電波天文学の出発点となった。これにより特定分子の電波検出が可能となり、メチルアミンをはじめ多くの星間分子スペクトルが発見された。望遠鏡はその後、水沢、野辺山、錦江湾公園へと移設され、VLBI観測にも用いられたのち、2018年に三鷹へ戻り歴史遺産として展示されている。

1982年建設の天文機器資料館(自動光電子午環)は、天体の精密位置観測に用いられた施設で、現在は観測機器の収蔵・展示が行われている。

これらの野外展示に加えて、3次元空間に時間軸を加えた4次元の世界を可視化する4D2U(Four Dimensional Digital Universe)が興味深い。ここでは、最新の観測データやスーパーコンピュータによるシミュレーションに基づき、太陽系から宇宙の果てまでの天体や現象を立体映像として体験できる。訪問時には、地球から銀河系、さらには宇宙の大規模構造まで自由に移動し、星の誕生、銀河の進化、ダークマターの分布など、時間と空間を超えた壮大な宇宙の姿を迫力ある全天周映像で楽しんだ。

国立天文台の歴史をパンフレットを参照しながら辿ってみる。日本で継続的な星の観測が始まったのは、江戸時代後期の幕府天文方による浅草天文台である。明治時代に入り、1888年明治21年)には現在の国立天文台の前身となる東京天文台が港区麻布に設置された。そして1924年大正13年)に三鷹へ移転した。初期の天文台の役割は、星の観測による経緯度の決定、暦の計算、そして時間の決定であり、これらは明治期の国策として始められたものである。これらの業務は現在も天文台の重要な任務として継承されている。1988年(昭和63年)には水沢の緯度観測所などと統合され国立天文台となり、2004年(平成16年)には法人化され、大学共同利用機関法人自然科学機構・国立天文台となった。

最後に、南米チリのアンデス山中に設置されているALMAアルマ望遠鏡)について天文台の方から話を伺った。ALMAは「アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計(Atacama Large Millimeter/submillimeter Array)」の略称で、スペイン語で「魂」を意味する。ALMAは、日本を含む東アジア、北米、ヨーロッパなどが協力して建設・運用している国際的な天文学プロジェクトであり、直径12メートルと7メートルの高精度パラボラアンテナ計66台を最大16キロメートルの範囲に配置し、干渉計として連携させることで、1つの巨大な仮想望遠鏡として機能させている。ALMAは、可視光では見えない低温のガスや塵から発せられる微弱な電波を捉えることができ、従来の電波望遠鏡をはるかに上回る高い感度と、「視力12000」に相当すると例えられる圧倒的な解像度を有している。その目的は、①惑星系の形成過程、②銀河の形成と進化、③宇宙における物質進化の解明にあり、すなわち「私たちの起源」を探る研究である。

子供の頃、天文台の役割はただ星を眺めることだと単純に考えていた。しかし実際には、「私たちはどのようにして生まれてきたのか」という根源的な問いに向き合う学問であることを知り、今回の訪問を通じて、天文学の奥深さと魅力にようやく気づくことができた。

佐藤雫著『残光 そこにありて』を読む

小栗忠順(おぐりただまさ)ほど、生前の行動と死後の評価が大きく揺れ動いた人物は多くない。幕末という激動期において、彼は旗本として将軍家を守る義務を負いながらも、同時に近代国家形成の基礎となる施策を推進しようとした。その二重の要請の狭間で模索しつつも、自らの信念に基づく政策構想を貫徹しようとした点に、忠順の特質が見いだされる。

明治維新後、彼は「薩長と戦うべきである」との主張を理由に、旧体制に固執した幕臣として排除される対象となった。しかし、戦後になり明治国家の成立過程が歴史的距離をもって検討されるようになると、忠順の施策に内在していた先見性が再評価され、その歴史的位置づけは大きく反転した。この評価の変遷自体が、近代日本の成立をめぐる歴史認識の揺らぎを象徴している。

本書は、幕末の激流が時代の先を見据えていた忠順を呑み込んでいく過程を、複数の人物像を対照させながら描き出している。すなわち、旗本としての宿命を背負いながら未来を構想した忠順、幕府の枠組みを超えて国家の将来を見通していた勝麟太郎、そして利に敏く時代の波を乗り越えて三井の大番頭へと上り詰めた利八という、幕末期を象徴する三者の姿が提示される。これらの人物を衝撃的な事件の証人として描くことで、当時の社会構造と価値観の転換が立体的に浮かび上がる。

さらに、忠順を支えた家族との静謐な時間が挿入されることで、物語は一時的な緩和を得る。しかし、その静けさはやがて悲劇的結末へと収斂していく。本書の描写は、歴史的事実と人物の内面を緻密に織り合わせ、読者に強い印象を残すものであった。読了後には、幕末という時代の構造だけでなく、その中で苦悩し、未来を切り開こうとした忠順と周辺人物の姿が鮮明に立ち上がる。本書は、歴史叙述として高い完成度を備えた作品であると感じた。

なお、「小栗忠順の政策構想とその歴史的意義」については、別途レポートとして整理したため、ここに付記しておく。

小栗忠順の政策構想とその歴史的意義
――幕末日本における近代国家設計の試み――

はじめに
幕末日本において、小栗忠順はしばしば徳川幕府崩壊とともに姿を消した「敗者側の官僚」として語られてきた。しかし近年の研究は、彼を単なる幕府の実務官僚ではなく、財政・軍事・産業・外交を統合的に構想した近代国家設計者として再評価しつつある。
本稿の目的は、小栗の行動を個別の逸話としてではなく、体系的な政策構想として再配置し、その歴史的意義を検討することにある。小栗は遣米使節として欧米の制度を直接視察し、国家能力の源泉が理念や武勇ではなく、制度・財政・産業・軍事の結合体にあることを認識した。帰国後は勘定奉行として財政制度改革や貨幣制度の近代化を構想し、横須賀製鉄所建設によって軍需産業基盤の整備を推進した。また、改税交渉や外国借款構想を通じて、国家信用に基づく財政運営を模索した。
本稿では、小栗の政策構想を①財政制度改革、②軍事・産業基盤整備、③外交戦略、④政治構造の安定化という四つの柱に整理し、彼の近代国家観の体系性を明らかにする。

遣米使節
――近代国家観の形成――
万延元年(1860年)の遣米使節への参加は、小栗忠順の国家観を決定的に方向づけた経験であった。日米修好通商条約の批准書交換という外交儀礼の背後で、小栗が注目したのは、アメリカ国家を支える制度的合理性と官僚制、そして財政基盤の強靭さであった。
使節団はサンフランシスコからワシントンへ移動する過程で、銀行、造船所、鉄道、議会制度などを視察した。小栗が強い衝撃を受けたのは、国家が理念や伝統ではなく、制度・財政・産業・軍事の相互補完的体系として機能しているという事実であった。この体験は、小栗を単なる「開国後の対応者」から、近代国家の制度設計を構想する官僚へと転じさせた契機であった。

フィラデルフィア造幣局
――貨幣制度改革の原点――
条約批准後、小栗は一行の一部とともにフィラデルフィア造幣局を訪問した。この視察は、日本の通貨制度の欠陥を技術ではなく制度の問題として理解しようとする、きわめて戦略的な調査であった。
当時の日本では金銀比価の不均衡により金貨が大量に流出していたが、その原因は十分に把握されていなかった。小栗は造幣局の視察を通じて、貨幣価値が国家の制度と信用によって保証されていることを理解した。鋳造工程、合金比率管理、品質検査、発行量調整といった制度的枠組みの観察は、帰国後の造幣構想や貨幣制度改革の基盤となった。小栗はここで、「通貨とは国家主権と信用に支えられた制度である」という認識に到達したと考えられる。

対馬事件
――列強間の力学を利用した現実主義外交――
1859年の対馬事件は、日本の主権が直接脅かされた初期の事例であった。小栗はこの事件を、列強による分割・蚕食の前兆として捉え、武力衝突を避けつつも曖昧な譲歩が危険であることを理解していた。
彼が選択したのは、国際政治の力学を利用する現実主義的外交であった。イギリスの利害を巧みに利用し、ロシアの行動が勢力均衡を乱すことを強調した結果、イギリスの圧力によりロシアは撤退を余儀なくされた。この対応は、軍事力不足を外交戦略で補う試みとして評価できる。

勘定奉行
――財政を国家運営の中枢機構へ再設計する試み――
小栗忠順勘定奉行として活動した時期、幕府財政は慢性的赤字に陥り、開国後の軍事・外交支出が急増していた。小栗の最大の特徴は、財政を単なる歳入歳出の調整ではなく、国家運営の中枢機構として再構築しようとした点にある。
彼は勘定所の機能強化と財政状況の正確な把握を重視し、帳簿管理の改善や支出の把握を進めた。さらに、金流出問題への危機感から、貨幣制度の統一と造幣制度の近代化を構想した。これらの政策は、国家信用に基づく財政運営を志向するものであった。
また、小栗は横須賀製鉄所建設などの軍事・産業投資を将来への投資と捉え、外国借款構想も単なる財政補填ではなく、近代化を加速させるための戦略的手段として位置づけていた。

改税交渉
――関税自主権回復をめざす制度的外交――
安政五カ国条約による低関税制度は、日本の財政と産業に深刻な影響を与えていた。小栗にとって改税交渉は、財政問題であると同時に、国家主権と制度的対等性の回復をめざす外交課題であった。
彼は国際慣行に基づき、日本のみが例外的に低関税を強制されている不合理性を理論的に主張した。しかし列強の抵抗と幕府の不安定な政治基盤により、交渉は成果を得るに至らなかった。それでも小栗は、交渉を継続すること自体が主権国家としての意思表示であると考えていた。この問題意識は、後の明治政府による関税自主権回復の前提となった。

横須賀製鉄所
――軍事・産業・技術を統合する近代国家構想――
横須賀製鉄所は、小栗の近代国家構想を最も端的に示す政策である。蒸気軍艦の建造・修理を自国で行うための近代工業施設であり、軍事・産業・技術教育を統合した総合拠点として構想された。
フランス人技師ヴェルニーを招聘し、技術移転と人材育成を制度化した点は、後の官営模範工場政策の先駆と評価できる。借款構想は最終的に実現しなかったものの、国家信用を前提とした長期的産業基盤整備という発想は、明治国家の方向性を先取りしていた。

大政奉還
――政治構造の空白を警戒した制度主義的視点――
1867年の大政奉還に際し、小栗は形式的な政権返上よりも、その後に生じる政治構造の空白を強く警戒していた。制度の空白は必ず実力を持つ勢力に奪われる、というのが彼の論理であった。
薩摩・長州など軍事力を持つ諸藩が主導権を握る危険性を見抜き、幕府が整備してきた財政・軍制・外交機構を徳川家主導で維持する枠組みを先に固めるべきだと主張したが、この構想は受け入れられなかった。

上州権田村とその後の家族
――沈黙に託された覚悟――
幕府崩壊後、小栗は新政府への出仕を拒み、上州権田村に退いた。村人との関係を大切にしながら静かに暮らしていたが、やがて新政府軍により処刑される。
家族は「逆賊の家」として厳しい境遇に置かれたが、声高な名誉回復運動を行うことはなかった。この沈黙は、小栗自身の覚悟を受け継いだ姿勢とも言える。後年、蜷川新らによる研究を通じて、その先見性は再評価されていった。

結論
――近代国家設計者としての小栗忠順――
小栗忠順は、幕末という過渡期において、財政・軍事・産業・外交・政治構造を統合的に捉え、近代国家の制度的基盤を先駆的に構想した人物であった。その多くは幕府崩壊によって実現を見なかったが、彼の発想は明治国家に継承され、日本の近代化を支える土台となった。
制度なき国家は存立しえない――。小栗の生涯は、直接的な成功としてではなく、後に継承された制度的発想の残光として、今日の我々にも影響を与え続けている。

外交と戦後復興の舞台――旧吉田茂邸を訪ねて

初冬の訪問
初冬の寒空の日、私は旧吉田茂邸を訪れた。いまや彼の名を即座に思い浮かべる人は、決して多くはない。団塊の世代と呼ばれる私たちにとっても、小学校に上がるか上がらない頃に首相だった人であり、記憶はほとんどない。すでに歴史上の人物となりつつある。しかし退任後も、学校の先生や近所の親たちがしばしば話題にしたため、私はエピソードを通して彼を知っている。

人物像の断片
例えば、よく知られる「ワンマン道路」がある。当時、吉田は大磯の自宅から通っていたが、戸塚大踏切付近の渋滞にしばしば悩まされた。そこで、原因となる区間を避けるためのバイパス整備を指示したのである。道路一本にまで政治を貫く、その姿勢が人々に「ワンマン」と呼ばせた。

また「バカヤロー解散」も有名だ。昭和28年(1953年)、衆議院予算委員会社会党西村栄一議員に追及され、苛立った吉田が小声で「ばかやろう」と呟いた。それがマイクに拾われ、議論は解散にまで至った。短気だが率直な人柄を示す事件であった。

さらに外交官時代の逸話も印象的だ。寺内正毅首相から秘書官就任を依頼された際、「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」と即答したという。大胆さとユーモアを物語る一幕であった。

略歴の回想
邸宅に到着すると、私は彼の略歴を思い返した。吉田茂(1878–1967)は戦後日本の再建を主導した政治家であった。外交官として駐英大使などを歴任し、戦後は外務大臣として登場。1946年から1954年まで、通算7年以上にわたり首相を務めた。その間、「軽武装・経済優先」を掲げ、敗戦国日本の再建を進めていった。1951年にはサンフランシスコ平和条約日米安全保障条約に調印し、日本の主権回復と安全保障体制を確立した。その決断は、敗戦国日本の針路を決定づけた。

邸宅の歴史と景観
邸宅は外交官時代に知り合った旧三井財閥関係者から土地を譲り受けたことに始まる。大磯は明治以来、政財界人や文化人の別荘地として知られ、吉田もその環境を好んだ。敗戦後は政治活動の拠点となり、首相在任中も東京と大磯を往復した。広大な庭園と富士山を望む景観は、国内外の要人を迎える舞台ともなった。

現在、この邸宅は「大磯城山公園・旧吉田茂邸地区」として再建され、一般に公開されている。2009年の火災で失われたものの、2017年に応接室や書斎が当時の姿に復元された。また、焼失を免れた兜門や七賢堂は国登録有形文化財として保存され、往時の雰囲気を今に伝えている。

見学の印象
見学のスタートは、兜門(講和条約門)であった。この門は、サンフランシスコ講和条約締結を記念して1954年に建てられた。吉田にとって講和条約の締結は、まさに戦後復興の出発点だったのだろう。屋根を兜に見立てた意匠には、「いまこそ気を引き締めよ」という思いが込められていたのかもしれない。

写真は宅内側から撮影した。車を通すためのわだちが見えるが、これは上皇が皇太子時期に訪問予定を機に造ったものであった。しかし、皇太子夫妻は門の外で車を降りられたので、使われることはなかった。初めて使われたのは自身の葬儀の時だった。

門の内側には日本庭園が広がっている。つつじや梅を中心に四季折々の花を楽しめるということだったが、葉を落とした庭は、寂しさの中に不思議な安らぎを漂わせていた。しかし、その静けさは、まるで時間が一度止まったかのようで、訪れる者をそっと包み込んでくれた。

この庭園は池泉回遊式で、心字池を中心に造られている。煩わしい政治の世界から距離を置いて、静かに散策することで、吉田茂は心を落ち着かせることができたであろう。



熱帯性の樹木が二本ほど「我ここにあり」と頑張っている。庭園にはそぐわない印象だが、これも吉田流のユーモアだろう。

それではエントランスの方に向かっていこう。

建物は、応接間棟と新館からなっている。まずは応接間棟から見ていこう。

最初に案内されたのは1階の「楓の間」だった。ここは吉田茂が執務にあたり、時に来客を迎えた部屋である。中央には応接用の大ぶりなソファが置かれ、室内には落ち着いた空気が漂う。棚にはジョン・ダレス元米国務長官やアデナウアー西独首相の肖像写真が並び、国際舞台で活動した吉田の交友関係を密かに語っている。1979年には、大平正芳首相とカーター大統領がここで首脳会談を行った。吉田が築いた外交空間が、時代を超えて役目を果たした瞬間だった。

吉田が使っていた浴槽は舟の形をしている。大海の中でゆったりと風呂に浸かっている気分を味わいたかったのだろうか。この風呂の作成には大磯の船大工が関わったといわれているが、その棟梁はどのような気持ちで、畑違いの風呂を作成したのだろう。

2階の書斎(和室)は、限られた身内以外は許可なく入ることが許されなかったそうで、吉田のプライベートの部屋だった。奥の方には、掘り炬燵があり、吉田は好んでこの場所を書斎として利用した。この近くには、吉田邸から首相官邸を直接繋ぐダイヤルのない黒電話が置かれていたと伝えられる。

この部屋からの眺望は素晴らしく、相模湾越しに富士山が見えるそうであった。この日もぼんやりと見えたのだが、残念ながら写真には写り込んでいない。代わりに、紅葉が美しい。

それでは新館に移ろう。ローズルームは、食堂として使用されていた。部屋の中央に大きな長テーブルがあり、普段の食事だけでなく、来客のもてなしにも用いられた。壁にはもともとは羊皮を用いたそうであるが、再建後は合成皮革でつくられているとされる。部屋に温かみを与えてくれ、いいアイデアだと感じた。

金の間は、賓客を迎えるための応接間として利用された。部屋の装飾に金を用いたことから名付けられたという。吉田茂はこの部屋から見える富士山を大層気に入っていて、毎日のように眺めていたという。

この日は富士山がぼんやりとしか見えず、眺望を十分に堪能できなかったのは残念だった。

銀の間は、吉田茂が寝室として寝起きをしていた部屋で、ここで吉田はその生涯を終えたと伝えられる。その名の通り、装飾には銀が使用され、金の間と対になっていた。吉田はこの部屋を書斎としても利用していた。部屋のガラス棚には蔵書が並べられ、ベッド横の窓際には執務用の机が置かれていた。羽織袴に鼻めがね、葉巻をくゆらし杖をついて凛と立つ姿を、ボランティアの話を聞きながら思い描いた。


中庭は、四方竹(しほうちく)と呼ばれる断面が四角の竹で、見事に造作されていた。吉田の故郷、高知では食用にもされているという。ここを通るたびごとに、彼は故郷を思い出したのだろう。

外には七賢堂がある。明治維新の元勲(岩倉具視大久保利通三条実美木戸孝允)を祀った「四賢堂」が移築され、加えて、伊藤博文西園寺公望吉田茂 が合祀され、七賢堂となった。ここには、佐藤栄作元首相の筆による扁額が掲げられている。

さらに吉田茂像もある。銅像は、サンフランシスコを向いて立ち、戦後日本外交の象徴的な存在であったことを感じさせてくれる。

邸の外にはバラ園もある。ここでは、深紅の四季咲きのコンラート・アデナウアーが見事であった。 このバラは吉田茂邸を来訪した元西ドイツ首相アデナウアーとの親交を物語るものである。

結び
庭園を振り返ると、相模湾から吹く風が初冬の冷たさを帯びて頬をかすめた。その風の向こうに、吉田茂が見据えていた戦後日本の未来が、おぼろげに立ち上ってくるように思えた。

吉田茂は養父・吉田健三の膨大な遺産を若くして相続したが、晩年には「財産は使い果たした。しかし、陛下から最高の勲章をいただいた」と語っている。豪放とも皮肉とも受け取れるその言葉には、政治家としての矜持と人生観が凝縮されていたのだろう。

人を煙に巻くような飄々とした態度の裏で、国家の再建という重責を抱き続けた人物。その姿を思うと、政治とは単なる権力闘争ではなく、国の未来に責任を負う営みであるという当たり前の事実が静かに胸に戻ってくる。

再び庭に目を向けると、散り残った紅葉が風に揺れていた。吉田茂の生涯も、この庭園と同じように、華やかさと静けさが共に息づいていたのだろう。いまの政治に、彼のような胆力とユーモアを備えた人影を見いだせるだろうか。そう問いかけつつ、私は邸宅を後にした。