bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

神奈川県立歴史博物館で「華ひらく律令の世界」を見学する -仏具-

前回のブログでは国や郡の有力な初期寺院を紹介したので、今回はこれに次ぐ寺院からの出土品を中心に説明する。国分寺の造営によって仏教は地方に浸透し、8世紀から9世紀にかけては集落に隣接した場所で、仏教寺院が建立された。このようなものを「村落内寺院」と呼んでいる。

愛名宮地遺跡(厚木市)も、厚木市を含む古代東国の集落内に仏教信仰が浸透していたことを裏付けてくれる。この遺跡から発掘された瓦塔は、木造の塔を模倣して作られた土製の小塔で、仏教信仰の対象とされていたであろう。基壇の上に軸、屋蓋、相輪が重ねられ、平安時代(9世紀前半頃)に製作されたと考えられている。瓦塔が出土したところからは、「寺」と書かれた墨書土器、鉄鉢形土器、大量の灯明皿、鉄釘などが出土しているので、仏堂などの仏教関連施設であったと想定されている。
瓦塔

土師器と須恵器

鉄製品の釘

8世紀後半から9世紀にかけては、仏教が一定の浸透を見せたとされ、その一端に葬送方法がある。奈良・平安時代には土葬・火葬で埋葬され、火葬では土師器・須恵器・灰釉陶器の蔵骨器が用いられた。
野川南耕地古墳群(川崎市宮前区)の蔵骨器

武蔵国国分寺周辺からも仏教関連の遺物が発掘されている。観世音菩薩像は、武蔵国分寺尼寺寺域確認調査時(昭和57年)に、僧寺と尼寺の間を南北に走る東山道武蔵路に当たる道路遺構上面から発見された。頭部に阿弥陀如来の化仏を施した低い三面宝冠をいただいている。白鳳時代後期(7世紀後半~8世紀初頭)頃に制作されたと考えられている。

武蔵国分寺関連遺跡の緑釉陶器

多喜窪横穴墓群(国分寺市)の緑釉陶器

武蔵国都築郡からの仏教関連の遺物が見つかっている。
北川表の上遺跡(横浜市都筑区)の灰釉陶器、

須恵器。

武蔵国橘樹郡からの仏教関連の遺物が同じように発見されている。
有馬古墓群台坂上グループ(川崎市宮前区)の須恵器、

細山古墳群大久保古墓(川崎市多摩区)。

最後は神事に関連する遺物である。荷物の輸送のために川が利用されたようで、高座郡では小出川の旧河道が発見され、川津(荷の積み下ろしをする場所)があった。そこからは木製の人形が出土している。これらはケガレを払う儀式によって川に流されたと考えられている。ケガレを移す先は人形で、多くは木製であった。同じように人の顔が書かれた土器も発見されている。これらも祓いなどに使われたと考えられている。
箱根田遺跡(三島市)の土師器(人面墨書)。


南鍛冶山遺跡(藤沢市)の人面墨書、

灰釉土器。

この展示は素晴らしいと思う。律令制が敷かれたころの地方の状況については書物を読んだだけでは具体的なイメージが湧かず、どの程度、行き渡っていたかについてはかなり疑問に思っていた。今回、神奈川県下の国衙、郡家、官寺などから出土した遺物により、かなりはっきりとイメージを得ることができた。これは県下での高速道路を始めとする大型工事の恩恵ともいえるのだが、他方で大型工事が過去の遺産にダメージを与えてもいるので、文化遺産の保護を徹底して欲しいと改めて思った。

神奈川県立歴史博物館で「華ひらく律令の世界」を見学する -寺院の瓦-

国や郡の役所については前回のブログで記したので、ここでは国や郡に建立された有力な寺院をみていこう。ここで紹介する神奈川県内の有力な初期寺院は、国分寺、下寺尾廃寺、千代廃寺、影向寺、千葉地廃寺、宗元寺である。これまで下寺尾廃寺、影向寺、千葉地廃寺を郡寺とする見方があった。しかし近年では、評衙・郡衙(郡家)と密接な関係を有する準官寺とする見方や、郡司一族・在地共同体の結束を強化するための氏寺(私寺)という見方も出されていて、結論を得るには至っていない。

寺院から出土する遺物の中で特に目立つのは瓦で、軒丸瓦には蓮を模した文様の蓮華文が見られるのが特徴である。また土師器や須恵器などの土器も多く出土しているので、これも併せてみていこう。

相模国分寺跡(海老名市)の軒瓦。丸瓦は蓮華文で、平瓦は唐草文である。

土師器。寺院で使われた土器には内側が黒くなっているものがあるが、これは灯明皿として使われたためと思われている。

水煙。国分寺には七重塔があり、そのてっぺんに水煙が取り付けられていた。

下寺尾廃寺(七堂伽藍跡:茅ヶ崎市)の鬼瓦。地元には昔から大きな寺院があったという言い伝えがあり、その場所を七堂伽藍跡と呼んでいた。近年の発掘により貴重な遺物が発見され、高座郡の郡司層やその一族によって建立された寺院と考えられている。

丸瓦と平瓦、

土師器と須恵器、


硯と絵馬、

通貨。

千代廃寺(小田原市)の瓦。この寺は師長国造域の豪族によって建立され、その後補修され、10世紀半ばまで存続したと考えられている。軒丸瓦には蓮華文で飾られている。


影向寺(川崎市宮前区)の瓦。この寺はこの地方のネットワークの中で建立・維持されたと考えられ、氏寺(私寺)としての性格を有している。軒丸瓦は同じように蓮華文である。

千葉地廃寺(今小路西遺跡:鎌倉市)の瓦。ここには鎌倉郡の官寺があったとされている。

宗元寺(横須賀市)の瓦。御浦郡の有力な古代の寺である。

まだ続きます。

神奈川県立歴史博物館で「華ひらく律令の世界」を見学する -国衙・郡家-

神奈川県立歴史博物館で、律令制の時代を中心とする遺跡展が開催されている。律令制下での神奈川県は、西の地域が相模国、東が武蔵国であった。律令制では国の下部組織として郡が置かれた。相模国には8郡、武蔵国には22郡が設けられそのうちの3郡が現在の神奈川県に属していた。役所として、国には国衙が、郡には郡家が置かれた。また仏教による鎮護国家であったため、国には男性の僧のために国分僧寺が、女性の僧のために国分尼寺が、郡には郡寺が官寺として設けられた。

郡家としてよく知られていたのは長者原遺跡である。ここは武蔵国都筑郡の郡家跡である。残念ながら東名高速道路の開通に伴って遺跡の西半分は調査することなく破壊された。残りの東半分が10年後の1979~81年に調査され、郡庁、正倉院、郡司舘、厨が発見され、横浜市歴史博物館にはその模型が展示されている。都筑郡の隣の橘樹郡の郡家は近年発掘が進み、正倉院跡が発見され、一棟が復元中である。また近くの影向寺(ようごうじ)は郡寺で、現本堂の下は金堂であった。

相模国内の郡家で発掘が進んでいるのは下寺尾官衙遺跡群である。2002年に茅ケ崎北稜高校の校舎の建て替え工事が計画されたとき遺跡が発見された。その結果、校舎の建て替えは中止され、移転先を探している。ここは高座郡の郡家跡で、郡庁院・正倉院が発見された。また地元では古くから古代寺院があったことが伝えられ、1957年には「七堂伽藍跡」の碑が建てられた。2000~10年にかけて調査がなされ、大型掘立柱建物跡が見つかった。金堂と講堂があったとされているので、そのいずれかであろう。また伽藍区画溝も発掘された。そのほかに郡家の施設として郡津、交通路、祭祀遺跡が見つかった。

相模国国衙についてははっきり分かっていない部分が多いが、近年では、平塚市から国府国庁脇殿推定建物が発見され、少しずつ成果が出ている。武蔵国国衙は東京の府中市である。

相模国国分僧寺国分尼寺は海老名市にあり、武蔵国のそれらは東京の国分寺市にある。

律令制が整う前のヤマト王権(古墳時代)では、国造が置かれた。相模には師長国造、相武国造、鎌倉別、武蔵東部には无邪志国造が設置された(なお北西部は知々夫国造で、それ以外のところについては諸説あり、武蔵国造も候補の一つである)。律令制に伴って、師長国造は足上・足下・余綾(よろぎ)郡に、相武国造は高座・大住・愛甲郡に、鎌倉別は鎌倉・御浦郡になった。

それでは展示物を見ていこう。最初はヤマト王権の頃である。この時代は古墳時代とも呼ばれ、3つの時代に分けられる。畿内と神奈川では様相が異なる。

畿内では次のようであった。前期は円墳・方墳・前方後方墳前方後円墳が作られ、鏡・玉・碧玉製腕飾りなど司祭者的・呪術的宝器が埋葬された時代である。中期は巨大な前方後円墳が作られ、甲冑・馬具などの軍事的なものや農具など実用的なものが埋葬された。後期になると、小規模の前方後円墳・円墳・方墳・群集墳・横穴墓群となり、金属製の武器や馬具、土師器・須恵器などの副葬品が一緒に埋められた。豪族たちの威信材が墓から副葬品へと変化していった。

神奈川の古墳時代は、古墳の数もそれほど多くなく、規模も小さいのが特徴である。前期後半に比較的規模の大きい前方後円墳が現れ、中期には古墳がほとんど見られなくなり、後期になると群集墳や横穴墓が爆発的に増えた。

入り口には千代廃寺の軒瓦がある。この寺は師長国造の豪族によって建設され、足下郡の郡寺であっただろうと推測されている。

白山古墳(川崎市古墳時代前期)の銅鏡が飾られていた。銅鏡は生産国や大きさの違いによって、ヤマト王権と地方の豪族との結びつきの程度が分かる。

登尾山古墳(伊勢原市古墳時代後期)は、金目川の支流である鈴川流域の比々田神社周辺に存在する古墳群である。古墳からは河原石を積み上げて造られた横穴石室が確認され、多くの副葬品が発見された。
銅椀、

直刀、

雲珠、

五獣形鏡。

須恵器(高坏)と土師器(坏)。

また唐沢・河南沢遺跡(松田町)には、横穴墓群があり、須恵器が発見されている。

律令制が始まると、官人たちは木簡を用いて文書主義で業務した。
官人の大事な七つ道具、

宮久保遺跡(綾瀬市)の木簡。これは、鎌倉郷が記載された最古の資料であり、田令・郡稲長などの郡雑任や軽部という部姓氏族の資料で、古代の地方行政について語ってくれる。

居村B遺跡(茅ヶ崎市)の木簡。茜などが記載された古代税制や染色の様子などを伝えてくれる。

北B遺跡(茅ヶ崎市)の漆紙文書付土器。下寺尾官衙遺跡群から発見された県内最古の漆紙文書である。漆を入れた容器に文書が書かれた用紙を蓋として使い、漆がしみて乾燥し遺物として残った。

それでは武蔵国衙からの出土品を見ていこう。律令制が敷かれたころには、釉薬を塗った陶器が現れるが、その中で緑釉陶器は貴ばれた。
軒丸瓦、

緑釉陶器、

須恵器、

緑釉陶器。

律令制の時代には、国衙や郡家が設置されていたところだけでなく、官人たちが住んでいただろうと思われるところからも遺物が発見されている。
富裕層や在地化した官人の住居跡からと考えられる本郷遺跡(海老名市)の緑釉陶器と土師器、

本郷遺跡(海老名市)の灰釉陶器。

このようなところから発見されることは珍しいが、小規模な竪穴式住居から出土した上吉井南遺跡(横須賀市)の灰釉陶器、

国衙や郡家の建設に携わった関係者の居住域であったと考えられる梶谷原B遺跡の三足壺。

国府出先機関の一つがあったと考えられる厚木道遺跡(平塚市)の金属製品の鍵と焼印、

相模国府の国庁の建物址が見つかった六ノ域遺跡(平塚市)からの金属製品の八稜鏡、

ここまでが国衙・郡家に関する展示である。国分寺を始めとする宗教関係の遺跡については続きで紹介する。

ビッグな1ポンドステーキを料理する

今年になってからあまり車を使っておらずバッテリーが上がってしまうと困るので、それを避けるため遠出の買い物をしようということになり、普段あまり使っていないスーパーを訪れた。野菜や魚を買い物かごに入れた後に物色していた肉売り場で、普段は見かけることがない分厚い牛肉を発見した。商品名は1ポンドステーキとなっている。このように厚いステーキ肉は日本ではほとんど売られていない。

分厚いステーキに最初に出会ったのはもう何十年も前のことである。アメリカに留学して間もないころにホストファミリーの方が自宅に招いてくれるという機会があった。その頃のアメリカと日本の格差は大きく、途中でドルショックがあって円が切りあがったものの、渡米したときは1ドルは360円だった。最近は円安で、海外の人に日本がチープであることが知れ渡り、たくさんの観光客が訪れてくれるが、当時の格差は今日の比ではなかった。

留学前にステーキなどは食べたことはなかったし、アイスクリームだってそのころの日本にはソフトクリームぐらいしかなかった。留学先でアメリカ人の女性におごってあげる*1からと言われて、アイスクリーム屋さんに連れていかれたときは、その種類の多さにびっくり仰天したのを今でも思い出す。

ホストファミリーの方は、夕方迎えに来てくれ、美味しい料理をと考えてくれたのだろう、自宅ではなくレストランに連れて行ってくれた。英語のメニューを見てもわからないのでお任せした。最初にサラダがたっぷり、その後にスープが出てきて、さらにメインと思ってしまうような料理が出され、おなかが十分にいっぱいになったとき、次はメイン料理が出てくるといわれてぎょっとした。ウェイトレスが運んできたものを見ると、大きなジャガイモを一回りも二回りも大きくしたような肉の塊であった。せっかく招いてくれたのだからと、一生懸命に食べるには食べたが、苦しくて死にそうだった。最後のデザートは入る余地はなく、こちらは丁寧にお断りした。

それ以来大きな肉の塊を見ると当時のアメリカの豊かさを思い出す。今日の肉はアメリカ産ではなく、オーストラリア産である。オーストラリアは日本に向けて肉牛の飼育の仕方を変えているので、我々の口にはよく合う。

今回は、肉と一緒に焼き方が記載されたレシピが置かれていたので、これを参考に料理した。手に入れた肉はこのように厚い。冷蔵庫から料理する30分前に出し、肉の温度を室温にした。焼く直前に塩2gを肉の表面にかけ、さらにオリーブ油15ccを表面に塗った状態である。

IHクッキングヒーターの温度を7にする。焼き終わりまでこの状態で、火加減をする必要はない。フライパンにオリーブオイルを入れて熱する。レシピには230℃と書かれていたが、測れないので適当に判断した。初めに脂身がある側面を1分焼く。

横に倒して、表面を再度1分焼く。

裏返してもう一方の表面を1分焼く。

さらに残った側面を1分焼く。

同じように側面、表面、表面、側面と1分ずつ焼く。




合計で8分焼いたことになる。この後フライパンから取り出し、アルミホイルに包んで3分間休ませる。

そのあと塩3ccと胡椒適当量を肉の各面にまぶす。

包丁で食べやすい厚さに切る。

スープとサラダを添えて食した。

赤身肉がとてもジューシーで、塩加減もよく、おいしくいただいた。

*1:英語で"I'll treat you."という。この表現は知らなかったので、何ですかと尋ねたらいいからついてきてと言われた。

横浜市歴史博物館で「ヨコハマの輸出工芸展」を観る

横浜市歴史博物館で、ヨコハマの輸出工芸展が開催されていたので、見学に行ってきた。現在でこそ、横浜は日本を代表するような巨大都市となっているが、幕末の頃は小さな寒村に過ぎなかった。ペリー来航後に開港の地と定められると、外国人のための居留地が作られ、欧米の商人が店を開き、貿易の中心地となった。当時は生糸・茶・陶器などが輸出されたが、横浜で作られたものもそれらに混ざって輸出されるようになった。今回の展示ではそのような四つの工芸品が紹介されていた。

最初に紹介するのは陶芸の横浜真葛焼で、創業者は宮川香山である。ウィキペディアによれば、香山は天保13年(1842)に京都の真葛が原で、陶工真葛宮川長造の四男虎之助として誕生した。長造は朝廷用の茶器を製作し、香山の称号を受けていた。父が亡くなった後、虎之助は香山を名乗り、25歳の時には色絵陶器や磁器を制作、御所献納の品を幕府から依頼されるまでの名工になっていた。明治4年、横浜・太田村に輸出向けの陶磁器工房・真葛窯を開いた。当初は欧米で流行した薩摩焼を研究したが、金を多量に使用して制作費に多額の資金を必要とするので、それに代わる高浮彫(たかうきぼり)という新しい技法を生み出した。金で表面を盛り上げるのではなく、精密な彫刻を掘り込むことで表現した。真葛焼は明治9年のフィラデルフィア万国博覧会で絶賛されて世界で知られるようになった。しかし高浮彫は生産効率が悪かったので、晩年になると窯の経営を養子の宮川半之助(2代目)に任せ、自らは清朝の磁器をもとに釉薬の研究をし、釉下彩の技法をものにした。3代目は2代目の長男葛之輔が継いだ。3代にわたって高い技量で名声を得たが、1945年の横浜大空襲で窯・家は全焼、家族・職人計11名が亡くなった。4代目の智之助の死をもって真葛焼は廃業となった。

それでは展示されている作品を見ていこう。高浮彫の陶器で、「鷹ガ巣細工花瓶(たかがすさいくかびん)」。親鷹が雛にえさを与えている場面が見事に再現されている。羽根の細かいところまで写実的に制作されている。

側面から見たところ。枝のごつごつした感じもよい。

同じく高浮彫の「氷窟二白熊花瓶(ひょうくつにしろくまかびん)」。氷の垂れ下がっている様は工夫のあとが見られる。

洞窟とその中にいる白熊に手の込んだ技法であることを感じる。

高浮彫から脱皮して次の流行となる釉下彩の「黄釉鶏画花瓶(きゆうけいがかびん)」。

二代香山の「祥瑞意遊輪付染付花瓶(しょうずいいゆうりんつきそめつけかびん)」、

「色染付鷹柏木圖(いろそめつけたかかしわぎず)」。

初代または二代香山「黄釉青華寶珠取龍文花瓶(きゆうせいかほうじゅしゅりゅうもんかびん)」。

次は漆器で、横浜芝山漆器である。ある年齢以上の人は、芝山町と聞くと成田闘争を思い出すことだろう。時代は遡って江戸時代後期に、下総芝山村出身の大野木専蔵(安永4年(1775)生まれ)が芝山細工を考案したと伝えられている。この細工は、箱や櫛などの漆塗りした下地を浅く彫り込んで、そこに花鳥人物などに象った貝・象牙・サンゴなどを埋め込んで、立体的に装飾したものである。芝山細工は専蔵(後に芝山仙蔵)が江戸で奉公しているときに考案し、大名や富裕層の人々から好評であった。螺鈿や蒔絵と異なり立体感のある文様が来日した外国人からも評価され、輸出されるようになった。輸出が増えてくるにしたがって、運搬の手間を省くために横浜でも製作されるようになり、横浜で作られるものを横浜芝山漆器、東京で作られるものを本芝山と呼ばれた。先に述べたフィラデルフィア万国博覧会でも展示された。しかし関東大震災や横浜大空襲などの災害・被害を受けて職人が離散するなどして、昭和30年には作られる数もわずかになっていった。追い打ちをかけるように昭和46年(1971)のドルショック(ドルの切り下げ)で輸出量も大幅に減少した。現在、横浜市は伝統的地場産業育成事業の一環として支援している。
Wikipedia(英語版)には、Yokohama Chickenの説明がある。フランス人宣教師が、尾長鳥をヨーロッパに持ち込んだようで、英国ではこの鳥をYokohamaと呼ぶようになった。Yokohama Chickenを意識してと思うが、綺麗に象られている。

こちらも鳥を象っている。

アルバムの表紙にもなった。

そして花鳥屏風。

次は横浜彫刻家具である。これらの家具は宮彫り*1で、龍・松竹梅・鳳凰などの東洋的意匠を、椅子・テーブル・箪笥などに用いた和洋折衷である。輸出用のため、国内に残されたものは多くないが、ここに展示されているのは坂田種苗株式会社のオーナーの家に嫁がれた方の嫁入り家具である。

最後は横浜輸出スカーフ。開港間もない頃にハンカチーフの製造が始まった。昭和初期に「スクリーン捺染(なっせん)*2」が導入されて輸出が始まり、大岡川沿いに捺染工場が多く建てられた。太平洋戦争からの復興とともに、手ごろな服飾品として海外からも好まれ、生産量が増え、最盛期には世界の生産量の約60%、国内の約90%を占めた。このころ意匠侵害防止のためにスカーフ製造協同組合が作られ、輸出品の見本が組合に提出された。今回展示されているのはその見本の中からのものである。
アフリカに輸出されたスカーフ「ニワトリ王子」、

オーストラリアに輸出されたスカーフ「孔雀柄」、
8329
フィリピン・マニラに輸出されたスカーフ「像ペルシャ」、
8328
同じくアフリカに輸出されたカンガ*3

今回の展示会を通して、そういえば日本はモノ作りの国だったと感慨深く思い出した。大正大学地域構想研究所の主任研究員・中島ゆきさんのレポートに衝撃的な図が掲載されていた。産業別就業者割合の推移を示したものだが、2015年には第三次産業に従事している人の割合が71.9%で、第二次産業の25%を大きく上回っている。第一次産業にいたっては4%に過ぎない。高度経済成長が始まった1960年ごろは第一次産業32.7%、第二次産業29.1%、第三次産業38.2%と均等に従事していた。しかし年を追うごとにモノをあまり作らない国に、割合と速い速度でなっていくことがわかる。このような大きな潮流の中で、華々しく輸出されていた横浜発の工芸品も一緒に廃れてしまったことに寂しさを感じた。

*1:宮彫りは、寺社の建築物に精巧に施された彫刻をいう。

*2:あらかじめ防染糊で模様をプリントしてから染色することで、糊で伏せたところが染まらないように柄を出す方法

*3:東アフリカ、タンザニアやケニヤの女性たちに愛されている一枚布

増田晶文著『稀代の本屋 蔦屋重三郎』を読む

来年の大河ドラマは蔦重三郎である。蔦重と愛称される彼は、歌麿写楽など、この時代のエンターテイナーともいえる戯作者・絵師を生み出した。クリエイターにしてプロデューサーであり、また新しい時代を作り出した町人でもある。ドラマの主演は横浜流星さん、脚本は森下佳子さん。森下さんは「女城主直虎」や「大奥」など多くのテレビドラマの脚本を手掛けているのでご存じの方も多いだろう。他方、流星さんは2月末に配信される映画「パレード」で長澤まさみさんと共演される若手の有望株である。このように書くと、本を読むきっかけになったのは、大河ドラマだと思われてしまいそうだがそうではない。江戸から明治への激動の時代を、なぜ日本が近代化への道を進むことができたのかを調べている中で、木版印刷が普及したことが大きな要因だったのではないかと考えたことによる。

人口学者で歴史学者であるエマニュエル・トッドさんが彼の研究の集大成ともいえる著書『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』の中で、15世紀中ごろにグーテンベルグ活版印刷術を開発し、16世紀初めごろにルターがプロテスタンティズム宗教改革の幕を切って落としたことが、識字化を誘引したと記している。これらがドイツで起きたことから、長子相続・プロテスタンティズム・識字化には相互関係があると説明している。彼はこの関係を利用して「文字表記/長子相続」の連続展開の中に一つのロジックが展開できるといっている。彼のこの考え方に魅力を感じて、出版物が急激に増えていく時代の流れに身を委ねたというより、大河を作り出したといえる蔦重三郎はどのような人だったのかを知りたくなり、関連の出版物を漁った。アマゾンのサンプル本で引っかかったのがこの本である。これは歴史の解説書ではなく小説なので、時代のとらえ方は増田さんの感性によっている。著者の優れた才能によって、この時代を生きた人の考え方や生き方が、解説書では得られない生々しさで、時には滑稽に描かれていてなかなか面白い。

本の最初のほうで蔦屋重三郎について要領よくまとめられている。主なところから紹介すると次のようである。蔦屋重三郎が、本屋稼業を始めたのは、安永3年(1774)である。吉原で頭角を現し、9年後に日本橋に進出した。吉原の遊女から廓までを街ごとに網羅した細見、浄瑠璃の稽古本、そして狂歌本・黄表紙・洒落本と手を広げ、錦絵、艶本(えほん)の分野でも好調であった。これらは町人の機微を穿っていて、これらの書籍や絵は江戸の町において紙価を高めた。重三郎は蔦重と親しみを込めて呼ばれ、この名前に江戸の人々は「粋」や「通」へのあこがれを重ねた。

蔦重は吉原生まれで本名は柯理(からまる)、父は尾張の人で丸山重助、母は江戸の人で広瀬津与である。蔦重が7歳の時に両親は離婚し、尾張屋という引手茶屋を営む叔父(姓は喜多川)に引き取られた。遊郭へ向かう粋な客は、直接はそこに向かわず、まずは茶屋に上がり一服する。吉原細見を見て遊女の品定めをしたり、茶屋から紹介してもらうなどして、遊女を茶屋に呼び出す。遊女の遊郭から茶屋への道行きは花魁道中となる。引手茶屋では酒や料理だけでなく芸者・芸人・幇間(ほうかん)も手配し、どんちゃん騒ぎをする。そのあと一夜の妻を伴って遊郭へとしけこむ。

蔦重が青年期を迎えたときは、田沼意次江戸幕府の実権を握っていて、市場経済の発展を促す重商政策を押し出していた。全業種において株仲間が組織され、本屋もそうであった。限られた商人だけが市場をわがものにでき、豪商は見返りとして運上金や冥加金を収めた。このころの江戸は、品物が動き銭が回り、多くの人がかかわり、流通が活性化され、商人の時代となっていた。

蔦重が出版への手掛かりを得たのは、地本(じほん)問屋の鱗形屋(うろこがたや)から吉原細見の改所(あらためどころ:編集者)を請け負ったことである。彼が改所をした細見は評判となり、おろし小売りへと権利を拡大していく。そして初めての本づくりとなったのが『一目千本(ひとめせんぼん)』である。花器にいけられた花がたくさん描かれていて、それぞれの花にお上臈(じょうろう:格の高い遊女)の名前が添えられている(図は国書データベースより)。本屋で売られたのではなく、ここに名前が載っているお上臈たちの手元に置かれ、その上客が大枚を払って手に入れた。お上臈たちがあらかじめ何冊必要とするかを申告しその分だけしか刷らなかったので、まったく損をすることはなかった。本の内容でも販売方法でも蔦重はクリエイティビティーをいかんなく発揮した。

鱗形屋が不祥事を起こした隙をついて、蔦重は細見版元となり、細見『籬(まがき)の花』と『青楼美人合姿鏡(せいろうびじんあわせすがたかがみ)』(画工は北尾重政と勝川華章、図はWikimediaより)の開版を手掛けた。

ここまで義兄の営む茶屋の店先を借りて商売をしていたが、安永6年(1777)に書肆として独立し、吉原で耕書堂を始めて、浄瑠璃の稽古本や往来物を手掛ける。そうこうしているうちに鱗形屋がまた不祥事を起こし、さらには日本橋通油町で地本問屋を営む丸谷小兵衛が株や店舗を身売りする機会をつかんで日本橋に進出し、吉原という限られた土地ではなく江戸を相手とする商売へと拡大を図った。

蔦重は、15歳年上の朋誠堂喜三二(出羽国久保田藩定府藩士・江戸留守居)、6歳年上の恋川春町(駿河小島藩滝脇松平家の年寄本役・石高120石)と親交を結び、黄表紙で大評判となった。かちかち山と仮名手本忠臣蔵のパロディである『親敵討腹鼓(おやのかたきうてやはらつづみ)』*1で、朋誠堂喜三二が文を、恋川春町が画を担当した(図は国書データベースより)。

蔦重はまた多くの作者と画家を育てた。鳥山石燕の弟子である喜多川歌麿(生年・出生地・出身地など不明)、志水燕十(幕臣だが小禄)を活躍させた。北尾重政に浮世絵を学んだ山東京伝(質屋・岩瀬伝左衛門の長男)は黄表紙の画工として出発させ、黄表紙『御存知商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』は彼の出世作となった(図は国書データベースより)。

同年代の大田南畝(御徒の大田正智・母利世の嫡男)は協力者とも言える。黄表紙『嘘言八百万八伝(うそはっぴゃくまんぱちでん)』*2を出版し(図は国書データベースより)、また山東京伝の才能を見出したとされている。

ところが田辺意次が失脚し、松平定信寛政の改革(1787~93)を始めると出版に対する規制も強まる。蔦重は身上半減、京伝は手鎖50日という処罰を受けた。喜三二は藩主佐竹義和より叱責を受けて筆を断ち、春町は当局の召喚を受けたが応ぜず、ほどなく没した(おそらく自害)。喜三二の黄表紙『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくとおし)』(図は国書データベースより)、類似書である春町の『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』が、松平定信の文武奨励策を風刺しているというのが理由であった。

松平定信が失脚すると蔦重は新しい分野を開拓する。期待したのは喜多川歌麿であった。蔦重はかねてより黄表紙・洒落本・狂歌本を出版する中で、歌麿の画の才能を高めるために心を砕いてきた。狂歌絵本『画本虫撰(えほんむしえらみ)』で虫を本物であるかのように描かせた(国書データベースアーカイブがある)。さらには狂歌絵本『潮干(しおひ)のつと』で貝を描かせた(図は国書データベースより)。準備の整ったところで艶本『歌まくり』を世に送り出した。

松平定信が失脚して規制緩和が期待されるなかで、蔦重は江戸の人々に楽しんでもらおうと歌麿美人画艶本を企画したが、歌麿から蔦重の支配は受けないと断られてしまう。そこで蔦重は、美人画の向こうを張って役者絵に挑む。しかも名が売れている絵師ではなく、コンテストで選ぶことにした。それぞれの絵師に、特異な役者絵を持ち寄らさせ、その中から未開化の才能を見出すという方法をとった。この網に引っかかったのが東洲斎写楽である。蔦重に嫌というほどの注文を付けられながら何回も何回も絵を描かせられ、名人の域に達したというところで、28枚の黒雲母摺大首絵の役者絵を完成させた(図はウィキペディアより)。

写楽の絵は役者の良い面も悪い面も強調した絵で、現代流にいうとデフォルメされ、これまでにない創造性に優れたものであった。しかし彼の活動は長くは続かず、しばらくして姿を消した。同じように蔦重の体の衰えも激しく、享年49歳で新しい文化を切り開いた稀代の本屋も命を閉じた。

読後感である。蔦重と戯作者・絵師(喜三二・春町・歌麿写楽など)との日常でのやり取りは、作者の創作の部分が多いことと思われるが、見事に描かれていて、読者をひきつけてくれる。江戸の人々が大衆文化の時代を切り開いていく様子がその時代に一緒にいるかのように感じさせるほどに、身近に書かれている。小説家の存在が大切だと改めて認識させてくれた。

ところで次の時代に向けてこの時代の若者たちは、儒学特に朱子学の勉強に励んだ。寺子屋・藩校・私塾などを利用しながら考える力を身につけていった。これには世の中全体での識字化率を高めることが必要であったが、漢字・仮名を書記言語とする日本においては、アルファベットをそれとするヨーロッパ諸国と比較するとそのハードルは高い。これを緩めるためのバッファとして、いわゆる大衆本の黄表紙狂歌本、洒落本などが大きく働いたと考えることができる。その意味において、蔦屋重三郎の業績は高く評価されてよいと思う。

*1:この本の中での言及なし

*2:この本の中での言及なし

豪徳寺・松陰神社を見学する

世田谷のボロ市を楽しんだ後は、お昼ご飯も食べずに周囲の歴史散策へと向かい、中世の吉良氏の世田谷城、彦根藩井伊氏菩提寺豪徳寺吉田松陰を祀った松陰神社を巡った。

最初は世田谷城で、ウィキペディアには次のように説明されている。貞治5年(1366)に吉良治家に世田谷郷が与えられ、応永年間(1394~26)に居館として整備された。吉良成高の頃に城郭として修築、天正18年(1590)に吉良氏朝の代に小田原征伐をした豊臣氏に接収・廃城された。

吉良氏といえば、忠臣蔵で悪者とされる吉良上野介を思い出す。こちらの方は本家筋で、世田谷の吉良氏は分家筋に当たる。室町時代の将軍は足利氏であり、吉良氏はその一族である(鎌倉時代足利義氏の庶長子の長氏が地頭職を務めた三河国吉良荘を名字にした)。室町時代三河吉良氏と奥州(武蔵)吉良氏とに分かれた。江戸時代には、三河吉良氏は家格の高さから高家とされた。高家は一人だけという事で、奥州(武蔵)吉良氏は蒔田氏に改姓した。赤穂事件で改易となった吉良家は、浅野家とともにその後再興された。蒔田氏と三河吉良氏分家の東条家が吉良に復姓し、この両家が明治維新まで続いた。吉良氏一族の墓は、豪徳寺に隣接する勝光院にある。

下図は明治晩年の頃のもので、その中央部は世田谷城があったところである。崖のマークがあるところが空堀で、豪徳寺のあたりも世田谷城に含まれていた。

空堀の現在の様子。

次は隣の豪徳寺で、その歴史もウィキペディアによれば次のようである。豪徳寺付近は先に説明したように、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。文明12年(1480)に世田谷城主・吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだ。当初は臨済宗に属していたが天正12年(1584年)に曹洞宗に転じた。寛永10年(1633)に彦根藩2代藩主・井伊直孝が井伊家の菩提寺として伽藍を創建し整備した。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」によった。平成18年(2006)に猫の彫り物が施された三重塔が新たに建立された。なお豪徳寺は江戸表の墓所で、国許彦根墓所清凉寺(滋賀県彦根市古沢町)である。

山門。山門の扁額には「碧雲関」と書かれており、「外の世界と境内を隔てるために建てられた門」を意味すると言われている。

内側からの山門。

地蔵堂

三重塔。高さは22.5メートルで、釈迦如来像、迦葉尊者像、阿難尊者像、招福猫児観音像が安置されている。

仏殿。延宝5年(1677)に建立。正面に篆額「弎世佛」があり、現在・過去・未来の三世を意味する阿弥陀如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒菩薩坐像が安置されている。


招福猫塔。ある日、この地を通りかかった鷹狩り帰りの殿様が、寺の門前にいた猫に手招きされて立ち寄り、寺で過ごしていると、突然雷が鳴り雨が降りはじめた。雷雨を避けられ和尚の話も楽しめた殿様は、その幸運にいたく感動したそうだ。その殿様が彦根藩主の井伊直孝だったと伝えられている。

招福殿。昭和16年(1941)に建立、令和4年(2022)に改修された。

招福猫。何匹もの招き猫が所狭しと並べられていて、その多さに仰天させられる。お店で招福猫を販売していたが、大きいものはすべて売り切れだったのにもびっくりした。

法堂(本堂)。昭和42年(1967)に造営され、聖観世音菩薩立像、文殊菩薩坐像、普賢菩薩座像、地蔵菩薩立像が安置され、井伊直弼肖像画が飾られている。

納骨堂。昭和12(1937)年に建立、令和3年(2021)に改修された。

豪徳寺での最後の見学場所は井伊家の墓所である。NHK大河ドラマでは井伊家が持て囃されているようで、昨年の「どうする家康」では伊那谷からやってきた美少年ということで井伊直政(板垣季光人)が、また5年ほど前の「おんな城主直虎」では井伊直虎(柴咲コウ)が、そして大河ドラマ最初の作品とされる「花の生涯」では井伊直弼(尾上松緑)が取り上げられた。直政(1561~02)は彦根藩井伊家初代藩主、直弼(1815~60)は16代藩主、そして直虎は真実ははっきりしないが直政の養母と伝えられている。直政は徳川四天王と言われる人物で、家康の天下取りに貢献した功臣である。直弼は、ウィキペディアには次のように紹介されている。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、開国派として日米修好通商条約(1854)に調印し、日本の開国・近代化を断行した。また強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄:1858)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変:1860)。

豪徳寺を井伊家の菩提寺とした井伊直孝の墓(久昌院殿正四位上前羽林中郎將豪徳天英大居士)。

幕末に開国をした井伊直弼の墓(宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士)。

豪徳寺から松陰神社へ向かう途中に山門が見事な朱色の勝國寺があった。この寺は世田谷城主吉良家の祈願寺および世田谷城の鬼門除けとして天分23年(1554)に創建、 太平洋戦争時に焼失、昭和29年(1954)に旧本堂が再建され、平成12年(2000)に現本堂が建立された。

山門。吉良家並びに徳川家15代にわたりご朱印寺として年12石が寄進され、格式の高い朱塗りの山門となっている。

本堂

最後は松陰神社である。この神社は名前が示すように吉田松陰を祀っている。吉田松陰(1830~59)は、幕末の尊王論者で長州藩士であった。ペリーが浦賀に再来した時、海外密航を企て失敗し、萩の野山獄に入れられた。出獄後に玉木文之進が創設した松下村塾を継ぎ、尊王攘夷運動の指導者を育成した。日米修好通商条約が締結されると、尊王論者であった松陰は反幕府的言動を強め、老中間部詮勝(まなべあきかつ)暗殺の血盟を結ぶ。藩も捨てておけず、野山獄に再収容した。幕府も疑惑をもち、江戸へ呼んで伝馬町の獄に投じ、安政の大獄で刑死した。

ウィキペディアによれば、松陰神社の場所にはかつて長州藩主の別邸があり、松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬され、明治15年(1882)に門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は1927年から1928年にかけて造営されたとされている。

松陰神社(鳥居の写真は、観光客が大きく入り込んだ写真しかなく、残念ながら掲載できない)。

松下村塾。ここの建物は、山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものである。

縁側の上がり口の所に、棕櫚縄を十文字に掛けた石があるが、これは止め石(とめいし)という。日本庭園や神社仏閣の境内において、立ち入り禁止を表示するために用いられる。

松陰の墓所には、彼の他にも維新の時に亡くなった烈士達が弔われている。

世田谷ボロ市の後の歴史散策巡りはこれで終わり、世田谷線三軒茶屋駅まで戻って遅いお昼をとった。食事中にも出た話だが、幕末の頃は世田谷は当時の政争からは離れた長閑な農村であったと思われるが、激動の時代を代表するような不倶戴天の二人の墓が、この地でしかも隣接して設けられていることになんとも不思議な気がした。二人の業績に対する評価は、彼らがなくなった後の時代でも、高く評価されたり低く評価されたりと、彼らが生きていた時代と同じように激しい変化の中にある。この後の時代でも同じことが繰り返されることが想像され、直弼も松陰もいまだに平穏ではいられないだろうと心配になった。しかし我々は満腹になったので、無地行事を終えたことの解放感もあり、幸せの絶頂にあった。

世田谷のボロ市を見学する

昨年の11月ごろより、近くの駅のポスターや電車のつり広告で、世田谷のボロ市の宣伝を多く見るようになった。さらに開催日が近づくと、臨時電車を出しますという広告まで現れた。人気が高いという話は聞いていたが、これまではそれほど行ってみたいとは思っていなかった。

しかし江戸時代の百姓たちに関する本を何冊か読み、その中に江戸の市場の説明があった。それらは主に日本橋を中心とする大店や魚河岸についてであったけれども、この時代は辺鄙であった世田谷でも市が開かれたことに興味を覚えた。ボロ市は12月の15,16日、さらに年が明けて1月の同日に開催される。暮れは他に用事があり機会を逸してしまったので、1月に行こうと予定していた。そうしたら突然、ボランティアの仲間からボロ市に行こうという誘いがあり、一人で行くよりは楽しそうなので、これに便乗した。

行程は、世田谷線の世田谷駅で降りて、ボロ市の会場を巡りながら、途中で代官屋敷・区立郷土博物館を見学し、その後、世田谷城阯公園・豪徳寺松陰神社を訪れ、世田谷線松陰神社前に至る都合2.8㎞であった。

世田谷区のホームページによると、ボロ市のはじまりは安土桃山時代まで遡るとのことである。関東一円を支配していた北条氏政(後北条氏4代目当主)が、天正6年(1578)世田谷新宿に楽市を開いた。毎月の1と6の日の都合6回開催されたので、六歳市と呼ばれた。北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、徳川家康が江戸に幕府を開き、世田谷城は廃止されて城下町としての意義を失う。同時に六歳市も自然消滅し、いつのころから暮れの年一回だけ開かれる歳の市(市町と呼ばれた)になった。

明治になって、新暦が使われるようになると正月15日に開かれるようになり、やがて暮と正月の15,16日の両日に開催されるようになった。明治20年代頃には、これまでの農機具や正月用品に代わって古着やボロ布の扱いが主流になり、その実体に合わせてボロ市と呼ばれるようになった。

下図は明治末頃の世田谷である。道沿いに集落がみられるが、殆どは田圃である。左図中央に家が立ち並んでいる街路があるが、これが今回のボロ市の会場であった。

会場に行ってみると、人で埋め尽くされていた。


お店を覗くのも大変なのだが、空いているお店を探して写真を撮った。ガラス細工、

着物、

瓢箪。

ボロ市の通りの中ほどに代官屋敷がある。


徳川家光(3代将軍)は、彦根藩井伊直孝(2代藩主)に世田谷領の一部を江戸屋敷の賄料として与えた。その時、代官になったのは大場市之丞であった。北条氏が関東一円を支配していたころ、この地域を防御するために世田谷城が設けられ、そこの城主は吉良氏、大場氏はその家臣であった。北条氏が秀吉との戦いに敗れ、吉良氏が滅びると、大場氏は帰農した。井伊氏が世田谷に所領地を得たときに、その代官として登用された。以後、大場家は明治維新に至るまで235年間代官を務めた。屋敷は住宅兼役所として使われた。建物は茅葺・寄棟造で、建築面積は230㎡、玄関・役所・役所次の間・代官の居間・切腹の間、名主の詰め所などが設けられた。現存の建物が建築されたのは元文2年(1737)である。


建物の外には白洲跡もある。江戸時代は訴訟が多かったとされているが、ここではどのようなことが裁かれたのか知りたいところである。

代官屋敷敷地内には世田谷区立郷土博物館がある。入り口には庚申塔・石像などが並んでおかれていた。左端に見えるのは臼。その右は三界萬霊塔。三界は一切の衆生の生死輪廻する三種の世界(欲界・色界・無色界)をいい、三界萬霊とはこの迷いの世界におけるすべての霊あるものを指す。その隣は地蔵菩薩立像。さらに隣は狐の石像。主神に従属しその先ぶれとなって働く神霊や小動物のことを「使わしめ」といい、狐は稲荷の使わしめである。右端は、青面金剛(しょうめんこんごう)で、この供養塔の本尊である。病魔・病鬼を払い除くとされ六臂三眼・憤怒相で、三尸(さんし:体中にいるとされる虫)を模した「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿を踏みつけている。

郷土博物館には、旧石器時代から近現代までの世田谷区の歴史が分かるように要領よく展示されていた。世田谷区のホームページには世田谷デジタルミュージアムがあり、いつでも見られるようになっている。そこで郷土博物館の展示の中で、興味を持ったものだけをここでは紹介する。

古墳時代には、世田谷にもいくつかの前方後円墳や円墳がつくられた。その中の一つが野毛大塚古墳で、その複製の円墳と石棺があった。


そして鎧の複製。

さらにはこのころから使われ始めたカマドの模造も展示されていた。

鎌倉時代には江戸氏傍流の木田見氏が御家人であった。

室町時代から戦国時代の領主であった吉良氏の説明もあった。

さらに、江戸時代のボロ市の様子を示した模型もあった。

そしてまた人混みのボロ市へと戻った。名物の代官餅を食べてみようとも思ったが、長い行列ができていることだろうと想像し、次の目的地へと向かった。

出かける前は、ボロ市は大きな広場の中で開かれるのだろうと勝手に思っていたが、そうではなく、道路沿いであることに驚いた。江戸時代は戸板を使ってお店を開いていたことと思われるが、今回もほとんどのお店は戸板の大きさ程度で、当時の雰囲気を醸し出してくれた。ただ道沿いにある家は、店を開いている場合は良いものの、そうでないときは出入りが不便になってかわいそうな気もした。

また5年ごとに代官行列が行われると紹介されていた。江戸時代には市が開かれているとき、治安を維持するために代官が見廻りしたそうである。それを模しての行事とのことだが、これほどの人混みの中で実行するのはさぞかし大変なことだろうとも思った。今回はコロナ開けという事もあり特に混雑していて、買い物を楽しむというわけにはいかなかったが、落ち着いた頃に、代官行列を見がてらもう一度来たいと思っている。

江戸時代の百姓に関連した書物を読む

正月の人気番組の一つに駅伝がある。元旦は実業団のニューイヤー駅伝、2・3日は大学の箱根駅伝である。特に本人や家族に関係者がいるときは、応援に熱が入ることだろう。我が家もその例外ではなく、今年は両方とも好成績をあげたので、和やかに観ることができた。駅伝はタスキをつなぐことが最も大切な使命で、選手たちはその為に、歯を食いしばり、時には倒れそうになりながらも、次の人へつなごうと必死にもがく。多くの人たちは、もちろん勝ち負けもあるが、そこに繰り広げられるチームの連帯感に感動を覚える。この絆は国民性とも思えるときがあるが、いつの頃から芽生えたのであろう。

暮れから正月にかけて、江戸時代の百姓に関連する本を読んだ。大名や武士たちがどのような生活をしていたかについては、テレビドラマなどを通して、不正確かもしれないがかなりの知識がある。しかしこの時代の人口の8割以上を占める百姓についてはどうであろう。年貢が厳しく、百姓一揆がたびたび生じたこと程度の知識しか持ち合わせていない。そこで一念発起して、百姓に関連する本を読んでみることにした。

先ずはタイトルに惹かれて、渡辺尚志著『言いなりにならない江戸の百姓たち』である。最初の章で江戸時代後期の村についての説明があり、それ以降を読み進めていくうえでの適切な導入であった。

平均的な村の村高は400~500石、耕地面積は50町、戸数は50~80戸、人口は400人程度で、村の数は天保5年(1834)には63,562であった。村は百姓の家屋が集まった集落を中核に、その周囲に田畠、その外側に林野からなっていた。農業を主要な産業とするのが大半だったが、漁業や海運業を中核とする村、林業が重要産業である村、商工業を中心とする都市化した村などもあった。

住民の身分は百姓(一部に僧侶・神職)だった。百姓身分には、土地を所持する本百姓とそうでない水呑百姓などの階層区分があった、農村住民でも、農業以外に商工業・運送業年季奉公・日雇いなど多様な生業を兼業とし、兼業農家が一般的であった。村人たちは、入会地、農業用水路の共同管理、村の中の道や橋の維持管理、寺院や寺社の祭礼の挙行、治安維持、消防災害対応など様々な面で協力していた。田植えや稲刈りなどでは結(ゆい)と呼ばれる労働力交換や、「もやい」と呼ばれる共同作業もあった。村の家々は五人組を作り相互に助け合い、年貢納入などの際は連帯責任を負い、相互扶助組織としても重要な役割を果たした。

村は、領主の支配・行政の単位であり、村の運営は村役人(名主・組頭・百姓代)が行った。名主は、世襲制の所もあれば任期制の所もあった。任期制の場合は入札で後任を選ぶこともあった。しかし最終的には領主が任命した。村の運営は名主を中心に行われたが、重要事項は戸主全員の寄り合いで決められた。村運営の必要経費は共同で負担し、運営は自治的に行われ、村自身の取り決め(村掟)も制定された。戦国時代には村の上層農民(在地領主・地侍)の中には大名の家臣になる者も大勢いたが、兵農分離によりこれらの人は城下町に移住させられた。武士は城下町から文書によって村に指示を出し、百姓たちも文書を用いて武士に報告や要求を伝えた。これにより文書行政が発達し、百姓たちはこれに対応するため読み書きを学び、寺子屋が増えていった。

百姓の負担は年貢と小物成であった。年貢は検地帳に登録された田畑・屋敷地に賦課された石高から定まった。小物成は、山野河海の産物や商工業の収益にかけられた。年貢などの負担は村請制であった。領主は毎年村に対して年貢の総額を示し、名主を中心にして各自の負担額を確定し、名主が全体の年貢を取りまとめて上納した。江戸時代の貨幣制度は、金・銀・銅の三貨で、金は計数貨幣、銀は秤量貨幣であった。

この後の章は、下総国葛飾郡幸谷村(現在千葉県松戸市)の酒井家文書を用いての説明である。幸谷村の村高は、17世紀末に388石、18世紀半ばに512石弱で、明治5年(1872)に戸数62戸、人口360人であった。江戸時代初めは村全体が幕府領だったが、寛永3年(1626)にその一部が旗本古田氏の知行地に、17年末までには幕府領が旗本春日氏・曲淵氏の知行地になり、領主が3人の相給村落となった。名主も領主ごとに置かれた。酒井家は領主春日氏の有力百姓で名主や組頭を長く務めた。

最初に紹介されている文書は、宝暦8年(1758)に幸谷村の百姓11人(戸主全員)が春日氏の役人森新兵衛・野本文右衛門にあてて提出した願書で、「年貢が、定免*1ではなく検見*2に代わってしまったので、元に戻して欲しい」という願いであった。この願いはすぐには認められなかったものの、宝暦11年に定免法が復活した。

2番目の文書は、春日氏領の百姓たちが名主(酒井)又一に年貢に関わる帳面類の記載内容を確認したいと願ったところ、帳面類を全て提出してくれ、全てが正しく処理されていることを確認できたことに対する礼状である。百姓たちの行政上の処理能力の高さに驚かされる。3番目の文書は村掟で、耕作に励むことや盗人などへの対応などが記されている。村での自治の様子が分かる。

4番目の文書は、名主となった四郎兵衛が不正を働いていると、組頭の喜左衛門と杢左衛門と百姓代の常右衛門を代表にして春日氏領の土地所持者18人が春日氏に訴えた。これに対して幸谷村の曲淵氏領の名主武左衛門と春日氏領の組頭又一は四郎兵衛を擁護する側に立ち、二人は幸谷村のもう一人の領主である古田氏の家臣根沢市郎兵衛に対して願書を提出した。杢左衛門らが、自分たちの主張に根拠がなかったことを認め訴えを取り下げたことで、この一件は落着した。5番目は水利権を巡る隣村との争いで、訴訟は出したものの話し合いで解決した。

6番目の文書は春日氏の知行所6か所が共同して、借金に苦しんでいる春日氏に対して、財政再建策を具体的な金額をあげて提案したものである。7番目の文書は春日兵庫の御用役矢嶋応輔の公金横領などを指摘して罷免を要求したものである。8番目の文書は、又一が名主をしている余裕がないことで辞任を春日氏に申し出たものである。これは認められなかったようである。9番目の文書は、領主春日氏が自身の借金を百姓に転化しようとした時に、その撤回を願った嘆願書である。結末は不明である。

この後は肥料購入に伴って生じたトラブルが紹介されている。これらの文書から、高い年貢に苦しめられていたとされていたこれまでの見方とは異なり、勇敢にも武士に注文を付けるしたたかな百姓たちの姿が目立つ。

このように自立した百姓たちがどうして生まれたのかを知りたくなり、次に読んだのが佐々木潤之助著『大名と百姓』である。この本は、1960年代に滅茶苦茶に売れたとされる中央公論社の『日本の歴史』の中の一冊である。日本の本はページ数が少ないとこれまで感じていたが、この本はなんと550ページ近くに及ぶ大作で、データを駆使してとても詳細に記述されている。

さて書かれている内容だが、江戸時代初期(17世紀)における小農を中心とした村の成立過程である。渡辺さんは酒井家の文書を紹介していたが、佐々木さんも同じように、静岡県三島市の高田家に残された文書をベースにしてこの時代を紐解いている。高田家のこの時代の当主は与惣左衛門で、父子以来代々、譜代下人(家内隷属的な農民)を何人か所有していた。その中の一人が七右衛門である。貞享2年(1685)の時点で彼(34)の家族は、弟与左衛門(27)、女房さん(31)、亀蔵(3)、母つる(68)であった。

譜代下人とは、身売りされたり、先祖代々主人に所有される家内奴隷であった人たちである。与惣左衛門の屋敷地は1反歩の大きさがあり、その片隅に長屋風の粗末な建物が並んでいて、37人の下人・下女が寝起きしていた。七右衛門の父も同じ七右衛門という名前である。父は与惣左衛門から3畝の土地を分けてもらい、事実上自分の土地として耕し、4斗ぐらいの収穫を挙げていた(1人が1年に食べる米の量は1石。1反の土地の収穫量は1石)。父は母と共に、与惣左衛門が必要な時はいつでも彼に使役されていた。これは徭役・賦役と呼ばれ、150石に及ぶ与惣左衛門の田畑の耕作などを行った。

父が亡くなって息子の七右衛門に代わった。この頃、与惣左衛門が土地をドンドン増やしているのに、父や母が賦役させられる耕地はそれほど増えていないと母が言った。これは時代の変化を表していた。変化が起きる前は、与惣左衛門は年貢の納入に困った農民から土地を買っていた。買った土地は、永代買いといい、購入者の家が耕したので、下人の賦役が増えた。ところが寛文10年(1670)頃、与惣左衛門は永代買いを改め、土地を質として取るようになった。すなわち債務者にその土地を耕作させ、そこからの収穫で借金を返済させた。これは質地小作関係の始まりである。さらに進んで、質として取った土地を債務者以外の百姓に耕作させるようにした。これは質地別小作関係と呼ばれる。

貞享元年(1684)の人別帳*3を作成したときに、与惣左衛門は七右衛門を含む7人の下人に、来年の人別帳では彼らを地借百姓(屋敷地を借りている百姓)にし、今まで分けて与えている田を彼らの名請地*4にしてやると言った。

百姓の階層についてはさまざまに説明されるが、大きな括りは、地主*5・本百姓*6・水呑百姓*7である。七右衛門は、下人だったので水呑百姓であったが、貞享2年の人別帳で、地借百姓と記載されたことで、本百姓として認められるようになった。この時期、下人から本百姓への移動が全国で確認される。他方、大地主の与惣左衛門は、困窮者から土地を購入するのではなく質地として活用し始めた。また隷属的な下人を地借百姓にすることで、戦国時代からの主従関係を、仲間関係へと変更した。このような傾向は各所に現れ、本百姓の割合が高くなり、勤勉な小農家が増加した。

佐々木さんは、与惣左衛門と七右衛門に生じたこのような現象をデータを駆使して分析した。大地主(佐々木さんは家父長的地主と呼んでいる)と下人が本百姓に収斂していく様を、この時代の学術的傾向をうけて階級闘争と捉えている。その部分の説明については抵抗があるものの、小農家化の分析そのものは面白い。それについては、この書籍を読んで欲しい。

硬い本を読んだのでその次は寝っ転がりながら気楽にということで、戸森麻衣子著『仕事と江戸時代』を読んだ。一言で言うと、貨幣経済が浸透したことにより、江戸時代の終わりごろには各身分とも非正規化・パートタイム化が進んだということである。大学での講義を意識したのであろうか、14章で構成されていて、各章が1講義にあたる。そのうち武士に関係する部分が1/3を占めている。広い意味の百姓については3章、農村の百姓については1章があてられている。ここでは、百姓について考えているので、その章を紹介する。

江戸時代の年貢は前述したように土地所有者に課せられた貢租で、土地を所持するものは、田や畠などの面積や土地条件により算定された年貢を負担した。そして土地情報は検地により確認された。検地は太閤検地後も江戸時代前期においては継続的に行われた。この頃は新田の開発も盛んであったことから、検地帳に把握されていないものも増えていった。17世紀後半、4代将軍家綱(在職1651~80)から5代将軍綱吉(在職1680~09)のころ新田畠を対象に検地が追加実施されたが、この後検地はほとんど行われなかった。

時代の推移とともに農業技術が向上し土地面積当たりの収穫量は増加したにもかかわらず、帳簿上は当初の見積もりのままで、増加が反映されることはなかった。このため年貢は現在の固定資産税に近く、土地を所有している百姓がどれだけの収穫量をあげているのかに関係なく年貢量は決まった。このため領主が求める稲を植えるよりも商品価値の高い作物を植えて、収益の増大を図るようになった。

畑作も同じような傾向をたどり、麦や大豆で納めることとされていたが、収益面で有利な作物が植えられるようになると金銭を替わりとする代金納が認められるようになった。田についても同じである。米を地域市場で換金したり、商品作物を販売して現金を手に入れる環境が整ってきた。租税の金納制度の普及・地域経済の発展・農業経営の多様化が一体となって推進された。なおこの頃の商品作物には、木綿・綿・麻・砂糖黍・甘藷・煙草・藍・紅花などがある。

商品作物は栽培に手間がかかり、収穫時期・時間に制限がある。生産規模が大きくなると家族労働では賄えないようになり、手伝いの人が雇われるようになった。もともと機械化されていない前近代の農業は家族労働の範囲でおさまるものではなく、村の百姓相互の協力によって成り立っていた。しかし農村地域に貨幣が普及しだすと、労働の対価として賃金を払うことが一般化し、村の百姓でなくても構わなくなり、遠方の村からグループでやってきて繁忙期のみの手間取り労働に従事する者もあらわれた。また水呑百姓もある程度の割合でいたので、彼らは手間取りなどの日雇い労働をして、収入の不足を補った。

地主は小作させるよりも商品作物を作付けした方が有利だと見ればそのように積極的にしたし、さらには、商品作物の産地仲買や産地問屋を兼業するものも現れた。このようなものは豪農と呼ばれたが、そのもとで働く日雇い者の需要は増加した。また単身者や女性のみの家庭では、農地を他の百姓に預け、自身は日雇い労働をして稼ぐという選択肢もあった。さらには百姓が農業以外の副業(農間余業)に就くこともあった。例えば旅人が行き来する甲州街道の八王子では、草履草鞋(わらじ)小売渡世・糸繰渡世・紙漉(かみこし)渡世・笊目籠(ざるめかご)渡世などがあった。これらは、原材料を自身の村で調達し商品を作って売る副業である。

ここまでに得た知識をまとめるために、戸石七生さんが2018年に論文誌『共済総合研究』に発表された研究報告「日本における小農の成立過程と近世村落の共済機能ー「自治村落論」における小農像批判ー」を読んだ。戸石さんは、白川部達夫さんの百姓株式論に依拠しながら小農が成立した政治的・社会的背景を次のように説明している。

江戸時代の農業は、土地だけでは成立せず、水利と草山を必要不可欠としていた。入会は緑肥及び耕作用の牛馬の飼料の供給源として重要であり、入会権は水利権とともに土地所持と密接にかかわっていた。そして土地所持は、単なる土地の所有を意味するのではなく、水利権・入会権とセットとなって、村のメンバーシップである「百姓株式」の所持を意味した。村は百姓株式の管理を通じて個別の百姓の農業経営をコントロールした。つまり村は、水利権・入会権だけでなく、土地についても「村の土地は村のもの」という所持権を主張した。その証拠に村の「村借り・郷借り」という行動を見ることができる。村が困窮したときは村の土地を担保に借金したが、返済できないときは好きな土地を取ってよいとするものである。これは個々の所持権よりも村の所持権の方が優先することを意味した。

さらには個別の百姓の農業経営の存続にも責任を負っていた。そうしなければ百姓は村を去り、より厚遇してくれる他の村へ行ってしまうためである。百姓は「土地に緊縛」されていたというイメージがあったが、他村の百姓株式を手に入れることで移動は大いに行われていた。後期には、一家で長期の出稼ぎに出るような百姓も多くいた。挙家離村しようとする百姓を必死に引き止め、残された耕作放棄地の荒廃を必死に食い止めようと、村や村役人は並々ならぬ努力をした。農業経営は労働集約化すればするほど人手を必要とする。近世村落は何としてでも個々の百姓が村で営農できるようにその家の存続を保障する必要があった。このため共済は村の存続にかかわった。

しかし小農レベルの百姓と村の間のこのような関係の構築には時間がかかった。江戸時代において、小農層の発言権の基盤は、検地帳で土地の名請けにされ、年貢担当者として登録されることであった。村が年貢収納に責任を負うという村請制のもとで、国家権力によってその効力が保証された検地帳に年貢担当者として登録されることは、小農にとって村のメンバーであることを国家権力が保証してくれることと同義であった。国家権力の承認のもとに村のメンバーシップを獲得したことは、村の運営に参加するうえで大きな前進で、国家権力の承認が近世村落の小農にとっては、村役人層のような上層農に対するうえでの権原となった。

検地が行われなくなると、村によって管理される百姓株式に正統性を求めるようになる。これは小農の権利強化につながった。そうしなければ人的資源を他の村に奪われてしまう。上層農はそれまで持っていた既得権を放棄し、小農に譲歩して村における彼らの政治的・社会的地位を制度的に強化し、村の運営を安定させるという選択肢しかなかった。名主の選定方式が領主の任命や上層農同士の相互承認から、小農レベルの家を含んだ村人による委任に変化し、「公」としての村が創出された。名主が、国家権力のみならず小農層を含む村人からも「村の代表」として認められたことはとても重要で、村人が名主を「村の代表」として承認し、主体的に支配に組み込まれるメカニズムが初めて生まれた。そして、小農は「検地名請と百姓株式の二重規定性の中に権原を置いていた」としている。

50年前に出版された書籍から最近の研究報告まで江戸時代の百姓に関係する書物をこのように読んできたが、ここでまとめることにしよう。江戸時代の百姓の形成に一番大きなインパクトを与えたのは、これは年貢・諸役を村全体の責任で納めさせるようにした村請制であろう。この制度により土地所有者全員に対して村の維持・運営に対しての責任が共同で課せられるようになった。次に大きなインパクトを与えたのは小農の拡大だろう。江戸時代が始まる頃は、彼らの多くは大地主(有力な土地所持者)に隷属する下人であった。しかし村請制が始まると、大地主たちは自分たちに及ぶ危険を分散させるために、下人たちにそれまで耕していた小規模農地を与え、これを名請地とし、年貢の納入に責任を持たせたことである。地借百姓(屋敷地を借りている)となった彼らは、公的に村のメンバーとして認められたと自覚し、自律的に勤勉に働き、反当りの収穫量を増やした。

これらに加えて大きなインパクトを与えたのは貨幣経済の発展であろう。検地での石高によって現物を治めることで始まった村の経済は、肥料の活用や商品作物の拡大などにより、年貢を貨幣で納め始めるようになった。これによって、米や麦に代わって、高い利益を生み出す商品作物への転換が可能になり、土地所持者たちはこれからより多くの余剰金を得ることが可能になった。また資金力に富む百姓は、困窮したものの土地を買い取るのではなく質として担保でとり、引き続きそこで働かせあるいは他のものに耕作させることで、資金を投資に回せるようになった。これは江戸時代後期の豪農を生み出す要因ともなった。

そして多くの小農の人々を含んだ村の土地所持者の間には、村の維持・管理において運命共同体であるという意識が生まれた。「駅伝の襷のように」、彼らはさらに村を良くしようとする強い絆で結ばれたことであろう。

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*1:過去数ヵ年の収穫量の平均を基礎として向こう3,5,10ヵ年あるいはそれ以上,年の豊凶にかかわらず一定の年貢額を請け負わす方法。

*2:田畑の農作物を見分けたうえ坪刈りをし,稲の豊凶に従い租税を決定する。

*3:現在で言う戸籍原簿や租税台帳で、宗旨人別改帳とも呼ばれる。

*4:名請は年貢負担を請け負うことで、名請地は検地帳に登録された田畑,屋敷地は名請地である。

*5:土地を貸し付けて、それで得た地代を主たる収入として生活。

*6:石高・永高に換算できる田畑・屋敷地を持つ者、高持百姓ともいう。

*7:田畑を所有していないため年貢などの義務はない。

お餅を焦がさずに綺麗に焼く

今年の正月は、能登半島地震羽田空港事故と大きな災害・事故が立て続けに起きた。羽田事故では、日航機と海保機とが衝突、両機とも炎上し、海保機の乗員5人が亡くなられ残念なことになったが、日航機の乗客・乗員には十数人のけが人がでたものの大事にはいたらず幸いであった。大事故にもかかわらず、最悪の事態が避けられ、奇跡的であった。乗員たちの的確な行動は称賛に値するものである。

他方、能登半島地震は、大きな被害をもたらし、輪島の有名な朝市の場所は全焼、輪島市珠洲市・能都町では木造家屋が多数倒壊、津波による被害もあった。今回の地震のメカニズムがNHKニュースで紹介されていた。原因は地下に潜り込んだ流体だそうだ。

これまで起きた地震は、プレート同士がぶつかり合っているところで、強い力が生じることによって生じると説明されてきた。昨年は、関東大震災が起きて100年目で、そのメカニズムが詳しく紹介された。そのときも、フィリピンプレート・太平洋プレート・北アメリカプレートの岩盤が複雑に重なり合って生じたとされていた。

しかし今回は流体によって引き起こされたという。一人の意見だけではないようだ。西村卓也・京都大学防災研究所教授、加藤愛太郎・東大地震研究所教授、石川有三・静岡大客員教授、平松良浩・金沢大教授、後藤忠徳・兵庫県立大教授、中島淳一東京工業大教授など何人もの研究者がそのように説明している。私が知らなかっただけで、専門家の間では常識となっていたようだ(東工大から地殻流体に誘引されている能登半島群発地震の記事が2022年に公開されている)。

西村教授によれば、今回の地震の発生地点では、海側のプレートが陸側のプレートの下に沈み込んでいて、そこでは海側のプレートから入り込んだ海水が豊富に蓄積され、それが上昇して断層帯に入り込んでスリップを生み、巨大な地震が発生したと説明されている。海側のプレートは太平洋側で沈み込んでいるので、入り込んだ海水は太平洋側のもの。それが災害を起こした場所は、列島を横断して、日本海沿岸。随分と離れたところで、地震に関わる因果関係があるのにびっくりした。

ここから話題がとても小さくなって恐縮だが、お正月にお餅を焼くのにてこずっている人は少なくないことだろう。私もその一人で、オーブントースターの中が汚れてしまうのにいつも頭を悩ませていた。でも今年はこれから解放された。暮れにテレビを観ているときに、焦げないお餅の焼き方を紹介していたので、正月はこれに挑戦した。

作業はとても簡単。お餅に醤油を2,3滴たらすだけ。後は普通に焼けばよい。
4つのお餅を用意して、それぞれに醤油を2滴たらす。

オーブントースターに入れる。

プッと膨れるまで、お餅を焼く。1000wで8分であった。焦げていないお餅が出来上がる。

お椀に移す。

お雑煮にする。

原理は打ち水と同じである。この習慣は昔物語になっているかもしれないが、真夏の暑い昼下がり、涼を取るために、庭や道に水を撒いて、直後に訪れる冷たい雰囲気を楽しんだ。これは水が蒸発するときに、周りの熱を奪っていくことを利用したものである。気化熱とも蒸発熱とも呼ばれている物理現象である。

今回のお餅を焼くのも、これと同じ原理で、醤油が気化するときに周りの熱を奪うので、周囲は焦げることから免れる。地震を起こした塩水、美味しい焼餅の醤油、同じ水に絡んだ話だったが、使いようである。

幕末の生糸仕切書を読む

幕末から明治初めにかけては、大地が揺れ動くような大きな変化を、この時代の人たちは感じたのではないだろうか。黒船が来航したのが嘉永6年(1853)、日米和親条約が翌嘉永7年に締結された。そして安政5年(1858)には、米国・英国・フランス・ロシア・オランダの5か国と修好通商条約を結んだ。翌安政6年6月2日(1858年7月1日)には横浜・神戸・長崎など5港が開港された。横浜には、ハード商会、ジャーディン・マセソン商会、スミス・ベーカー商会、クニフラー商会、シーベル&ブレンワルト商会など、手練手管の国際的な貿易商人が押し寄せてきた。

これまで長崎の出島で細々とオランダ相手に商取引をしていたとはいえ、横浜で貿易を始めようとした日本の商人たちは、外国との取引とは無縁に近かった人たちであろう。貨幣や重量の単位は各国で異なっているので、海外との取引には、外国為替や度量衡の変換など、これまでには学んでいなかった全く新しい知識を必要とする。外国の商社に飲み込まれるのではと危惧するところだが、その後の経緯を見ると、一からスタートしたにもかかわらず、彼らに伍して素晴らしい実績を上げたことが分かる。

その証拠ともいえるのが、彼らが残してくれた商取引上の文書である。先日、仕切書を紹介してもらう機会を得たので、それをもとに、幕末の商人がどのように取引をしたのかを見ていきたい。参考にするのは、『横浜市歴史博物館 常設展示案内』の103ページに掲載されている生糸仕切書である。この文書は、慶応3年(1887)10月9日付けで、差出人は亀屋善三郎(1927~99)である。横浜に庭園として有名な三渓園があり、それを造設したのは原富太郎(1968~39)で、善三郎はその祖父である。善三郎は生糸の取引で財を成しただけでなく、埼玉県の生誕地渡瀬と群馬県下仁田に近代的製糸工場を建設した。

取引で問題になるのは、重さの変換である。幕末には尺貫法が使われていて、貫・両(100両=1貫)・匁(10匁=1両)さらには斤(1斤=160匁)が使われていた。ここでの仕切書を理解するうえで必要なのは、斤(きん)と匁(もんめ)だけである。食パンを買うときに、斤を使うので馴染みがあると思う。1斤は600gである(今日のパンの1斤はこの重さにはなっていない)。

英米などではヤード・ポンド法が使われている。重量に関係するのはポンド・オンス(16オンス=1ポンド)である。1ポンドは454gである。日本の120匁が450gであることから、取引では、1ポンドと120匁とは同じとされた。そして120gを1英斤という。区別するために尺貫法での斤を和斤とする。この時、ヤード・ポンド法でのx英斤(=xポンド)は、120/160が0.75なので、和斤ではxを0.75倍したもの(=0.75x)となる。

古文書の解読は面倒だが、ここでの文章は数字が殆どで、数字と数字の間に入っているのは重さの単位である斤、分、リ(厘)なので、これらがどのように書かれているかが分かれば、おおよそのことは分かる。

仕切書の内容を図示すると下図のようになる。なお、仕切書には項目名がないので、ここではその内容に適している名称を付けて理解しやすくした。

ここでの取引はおおよそ次のようになっている。生糸売込商・問屋の亀屋善三郎が、仲買の小倉屋伊助から生糸四箇を仕入れ、それを英国商会のJardine Matheson(1番館)と米国商会のWalsh(2番館)に売却した。

その時の詳細は次の通りである。伊助は善三郎に総量257斤の生糸を渡した。梱包材量などを除くとその正味は253.78斤である。この時の計算は概算で、総量の98.75% を正味としている。善三郎は、その内の215.28斤をJardine Mathesonに、38.5斤をWalshに渡した。その時、手数料としてそれぞれから10.22斤、1.83斤を引いた。手数料に対する係数は、0.475である。手数料は、善三郎がもらったのか、あるいは外国商会がとったのかは不明である。その結果、それぞれに対する取引高は、205.6斤と36.67斤となった。

次の処理はこの取引高から売上金を計算することである。売上金は洋銀で計算されているが、この仕切書から判断すると、尺貫法での斤に対して、銀が何枚になるかが決められていたようである。このため、取引高に対して、尺貫法での斤での重さが求められている。ここでは、これまで示されていた斤での重さに対して0.75倍されているので、ここまでの斤は、ヤード・ポンド法での英斤、即ちポンドであることが分かる(一部に尺貫法での斤と見做しての説明があるが、間違っている)。取引高を尺貫法での和斤に計算し直すと、それぞれ153.8と27.5となる。

和斤に対する洋銀の枚数は商社ごとに異なっていたようで、100和斤に対してJardine Mathesonは875枚、Walshは830枚になっていた。このため、売上金はそれぞれ1345.75枚と228.25枚となる。合計すると1574枚となる。

伊助への支払額は、ここから諸経費30.14枚を引いた額となり、その額は1543.86枚である。なお諸経費は次のように計算されている。歩合・口銭(手数料)が25.18枚、荷造り・看貫(斤量を定めること)が4.53枚、蔵番が15匁、車力が6匁である。蔵番と車力への支払いは日本の通貨なので、これは洋銀へと変換される。10洋銀が485匁と決められているようで、これより0.43枚となり、全てを合わせると先ほどの30.14枚となる。

群馬文書館からは、吉村屋の仕切書が公開されている。吉村屋は、大間々町で金融業を営む吉田屋の出店で、慶応年間に大間々町の本店から独立し、明治初年には横浜で最も大量の生糸を輸出する売込商となった。1873年から1874年にかけては吉田幸兵衛、原善三郎、小野善三郎、三越得右衛門、茂木惣兵衛で横浜の生糸取扱い量の74%を占めていた。

この取引は次のようになっている。売込商・問屋の吉村屋・吉田幸兵衛(代清二郎)が、仲買の中島久左衛門から大間々堤糸二箇を仕入れ、それをオランダ商会のガイセン・ハイメル(8番館)に売却した。

仕入れた総量は126.25斤で、駕籠・風袋4.5斤、紙元結6.39斤が含まれていたので、正味は115.36斤であった。吉村屋とオランダ商会の間での手数料は設定されていないようで、正味がそのまま取引高になり、これを和斤に計算し直すと86.52であった。100和斤に対し洋銀は725枚に設定されていたので、627.27枚となる。諸経費に12.69枚要しているので、支払額は614.58枚であった。なお支払いは、前の例とは異なり、日本の通貨の金(450.22両)と銀(4.02匁)で払われた。

この当時の両替は大変だったと思われる。これを解消するために、明治13年(1880)には外国為替を専門とする横浜正金銀行(後に東京銀行に、そして三菱UFJ銀行へと変遷)が設立された。幕末頃の1両の価値がどの程度であったかは判然としないが、山梨県立図書館のホームページには、そば代金との比較では12~13万円、米価では3~4千円ぐらいと記載されている。これを用いると、吉村屋の取引は、そば代金比較では6000万円、米価では200万円ぐらいとなる。亀屋善三郎の取引は、この2.5倍程度だったので、それぞれ1.5億円と500万円である。換算の仕方によって大きく異なるものの、多額の取引だったことが分かる。

ここからは感想である。仕切書は生糸貿易の実務を詳細に示してくれた。また幕末期の商人たちが、度量衡や通貨での変換など複雑な商取引を、そつなくこなしていることがよく分かった。激動の時代に新しい知識が求められる中、よく泳ぎ切ったと感心させられる。仕切書は、取引の実態を透明性高く説明してくれたが、江戸時代の学びが新しい時代に対応するのに十分な知識と応用力を与えてくれていたことを改めて認識させられた。高度にAI化した時代を迎えている現代は、次の世代にどのような教育を与えてあげたらよいのかと改めて考える次第である。

江戸五色不動のうちの目白・目黒・目青不動を訪ねる

一日空けて、江戸五色不動の残りの三つを訪れた。目白・目黒・目青不動の3寺である。これらの寺は下図に示すように江戸の東側にあり、それぞれ金乘院、瀧泉寺最勝寺教学院(赤マークの所)と呼ばれている。金乘院は真言宗で、瀧泉寺最勝寺教学院は天台宗である。

出発点は副都心線雑司が谷駅。最初に目指すのは目白不動尊が祀られている金乗院である。戦前は文京区関口にあった新長谷寺に祀られていたが、吸収合併により現在地に遷った。地下鉄を降りた後、目白通り目白駅とは反対方向に向かい、左側に宿坂通りが現れるので、その坂道をどんどん降りていく。中世の頃は、この辺に宿坂という関所があったと伝えられている。

坂を下りきるとそこは目白不動の山門である。左側には不動明王の石像がある。右側には観世音と書かれた石碑が立っている。金乗院(こんじょういん)は、開山永順が本尊の観世音菩薩を勧請して、観音堂を開いたのが草創とされていて、天正年間(1573~92)の創建と考えられている。昭和20年の戦災で焼失、昭和46年に再建された。一方、目白不動尊(新長谷寺)は元和4年(1618)に小池坊秀算により中興され関口駒井町にあったが、昭和20年の焼失により金乗院に合併され、本尊の目白不動明王像も遷された。

本堂。

不動堂。堂内には不動明王像が祀られていた。それほど大きくはなく、高さは25cmである。

槍術の達人の丸橋忠弥の墓。彼は由井正雪と共に慶安の変(江戸時代初期に起きた幕府転覆事件)に加担し処刑された。

青柳文藏の墓。彼は天保2年(1831)、仙台に日本で最初の公共図書館とされる青柳文庫を創設した。

寛政12年(1800)造立の鐔塚(つばづか)。

寛文6年(1666)造立の倶利伽羅不動庚申塔不動明王の化身である。

三猿が陽刻されている庚申塔。左は元禄5年(1692)、右は延宝5年(1677)に造立された。

次は目黒不動南北線で中目黒まで出て、そこからバスを利用することにした。バスに乗るために駅前の横断歩道を渡っているとき、バスの停留所が気になっていたため、横を見ながら歩いていたのだろう。突然ドカンとぶつかり衝撃を受ける。女性の方に大丈夫ですかと声をかけられる。彼女も前方を見て歩いていなかったのだろう。もろにぶつかり、頭に衝撃を受けた。女性の方は運動神経の良い人だったようで、私の二の腕をつかみ倒れるのを防いでくれていた。立場が変わったようで面映ゆかったので、思わず「ごめんなさい」と言って離れた。しばらくは強く打った顎が痛かったが、大事には至らなかった。人込みでは、よそ見をしながら歩いてはいけないと改めて言い聞かせて、バスを待った。子供の頃によく遊びに来ていた環六沿いの景色を懐かしんでいるうちに、最寄りのバス停の不動尊参道に着いた。

目黒不動瀧泉寺の寺伝によると、創建は平安時代初期の大同3年(808)、開山は慈覚大師(円仁)となっている。本尊の不動明王像は、慈覚大師の作と伝えられている。関東最古の不動霊場で、木原不動尊(熊本県)、成田不動尊(千葉県)と並ぶ日本三大不動のひとつである。

目黒不動の境内はこれまで拝観してきた不動と比較するととても広い。Google Earthで見るとよく分かる。バス停からは不動の裏側に出てくる道が近かったので、そちらを利用したが、説明は正面の方からしよう。

寺の正面の仁王門。

山門から入って右側にある阿弥陀堂

右斜め前方にある観音堂

さらに左横にある地蔵堂

大本堂へ向かう途中の階段にある役(えん)の行者倚像(いぞう)。役の行者は、奈良時代の山岳修行者で、修験道の祖とされている人で、この像は寛政8年(1796)の作である。

先の戦災で焼失、昭和25(1950)年に再建された大本堂。内部には不動尊が祀られている。目白不動尊と同じ程度の大きさだった。

大日如来坐像(不動明王は化身)。製作は天和3年(1683)とされる。蓮華座に結跏趺坐するこの像は、宝髪・頭部・体躯・両腕・膝など十数か所に分けて鋳造された。

境内には様々な種類の石像が祀られている。
不動明王に使える八大童子

晦日には一般へ開放され、除夜の鐘が撞かれる鐘楼堂。

中央は延命地蔵、右は掌善童子、左は掌悪童子

護衛不動尊。赤っぽい石碑には目黒不動明王垂迹縁起が記されてる。

良縁成就を願って訪れる人が多い愛染明王

知恵や知識、記憶の面でご利益があるといわれる虚空蔵菩薩

青木昆陽の墓。昆陽(1698~69)は江戸中期の儒者で、幕臣大岡忠相の知遇を得て書物方となる。8代将軍吉宗の命により蘭学を学び、また救荒作物として甘藷の栽培を推奨したために、甘藷先生と呼ばれた。

さて最後は目青不動最勝寺教学院である。JR線を利用して目黒から渋谷に出て、そこで田園都市線に乗り換えて三軒茶屋に向かう。寺は駅からすぐのところにある。大きな境内を有する目黒不動を見たあとなので、とても狭く感じられる。この寺は、慶長9年(1604)に、玄応和尚の開基により江戸城内紅葉山に建立されたと言われている。明治41年(1908)に青山からこの地に遷された。本尊は阿弥陀如来で恵心僧都の作と伝えられている。

不動堂。扉が少しだけ開けられていたので、不動明王を拝むことができた。やはり大きさはこれまでとそれほど変わりなかった。

本堂。

写真を撮り終わって歩を進めたとき、出っ張っている石に躓いた。前傾になりながら、やっとの思いで速足で前に数歩繰り出し、幸いにも転ばずに済んだ。転倒していたら大けがになったかもしれないと思うと、中目黒でのアクシデントともども、天からまだ見放されていないと安堵した。無事に目○不動巡りができてよかった。きっとご利益があるはずだと思い来年を迎えようと考えている。

江戸五色不動のうちの目黄・目赤不動を訪ねる

東京には江戸五色不動と呼ばれる寺院があることを、ブラタモリの番組を見ている時に知った。目黒不動は、親戚の家がこの近くにあり境内で遊んだりしたが、その他については全く知らなかった。山手線に目白という駅があり、同じ路線にある目黒と何か関係があるのだろうとは思っていたが、不動つながりであるとは思わなかった。まして赤・黄・青の不動があるとは、この番組で初めて知った。

上図は江戸五色不動の所在地を示したものである。これを反時計回りにたどると、目黄不動最勝寺(江戸川区平井)、同じく目黄不動の永久寺(台東区三ノ輪)、目赤不動南谷寺(なんこくじ:文京区本駒込)、目白不動金乗院(豊島区高田)、目黒不動瀧泉寺(りゅうせんじ:目黒区下目黒)、目青不動最勝寺教学院(世田谷区太子堂)となる。

五色は密教の陰陽五行説に由来しているようだ。青・白・赤・黒・黄は、それぞれ東・西・南・北・中央を表すとされている。伝説では、3代将軍徳川家光が大僧正天海の具申をうけて、江戸の鎮護と天下泰平を祈願して、5つの方角の不動尊を選んで割り当てたとされている。しかし図からも分かるように、それぞれの寺院は必ずしもその色が指し示す方位にはない。

史実によれば、目黒・目白・目赤は江戸時代の地誌にも登場するが、天海と結びつける記述はまったくない。明治時代になってから目黄、目青が登場し、後付けで五色不動伝説が作られたと考えられている。

金乗院真言宗だが、他は天台宗で、全ての寺院が密教系である。それもそのはずで、これらの寺で祀られている不動尊(不動明王)は、密教で信仰される明王である。密教での最高位の仏様は大日如来で、その化身の不動明王は怒りを込めた恐ろしい姿(忿怒相)で、衆生を正しい道に導くとされている。

江戸五色不動巡りは2回に分けて行うことにした。1日目は右半分の3寺、2日目は残りとした。初日の行程は下図のとおりである。

錦糸町駅が出発地で、ここから葛西駅前行のバスに乗る。あまり混んではいないだろうと予想していたのだが、バス停に着いたら長い行列になっているのでびっくり。それもほとんどの人がシニアで、手には東京都の老人パスを持っている。私が住んでいるところも東京都だが、西の端で神奈川県に囲まれた地域のため、老人パスは殆ど用をなさない。このため使い方さえ知らないし、もちろん所有もしていない。見れば駅前にはバス停がひしめいていて、都バスがドンドンと流れていくのが見える。シニアにとっては便利なところなのだろうと羨ましく思えた。列の後ろの方だったが、何とか座席にありつけ、バスからの車窓を楽しむことができた。京葉道路に沿ってなので、道幅が広く、道の両側には10階建てぐらいの高さのビルが整然と立ち並んでいる。そうこうするうちに最寄りのバス停の小松川三丁目に着いた。

早速、携帯を取り出して、最初の目的地を確認する。途中、都立小松川高校の脇を通る。校庭には体操着の高校生たちが声をあげずに動き回っていた。高校の反対側には、寺がいくつか続いていて、最後に現れたのが目黄不動最勝寺だった。
正面。左右の朱に塗られた門には仁王像が、そして正面に本堂が見える。

仁王像を拡大。

不動堂。屋根が二重になっている。

横から、目黄不動明王の碑が立っている。

本堂。

千体仏。

天台宗東京教区の公式サイトの情報を抜粋すると、「最勝寺の始まりは、慈覚大師が東国巡錫のみぎり、隅田川畔(現・墨田区向島)にて、釈迦如来像と大日如来像を手ずから刻み、これを本尊として貞観二年庚辰(860)に一宇を草創したことによる。同時に大師は、郷土の守護として「須佐之男命」を勧請して牛島神社に祀り、大日如来本地仏とした。慈覚大師の高弟・良本阿闍梨は、元慶元年(877)に寺構の基礎を築き、最勝寺の開山となり、当寺を「牛宝山」と号した。その後、本所表町(現・墨田区東駒形)に移転した。不動明王像は、天平年間(729~766)に良弁僧都(東大寺初代別当)が東国巡錫の折、隅田川のほとりで不動明王を感得され、自らその御姿をきざまれたものであり、同時に一宇の堂舎を建立された。その後最勝寺の末寺で本所表町にあった東栄寺の本尊として祀られ、徳川氏の入府により将軍家の崇拝するところとなった。明治末に隅田川に駒形橋が架かることによる区画整理があり、現在地に移転し今日に至る」とされている。
隣の大法寺。

さらに隣の善通寺。エキゾチックだ。

次は同じ目黄不動の永久寺である。まずはJR線の平井駅に向かう。この辺りは昭和の風情を残しているところで、商店街も懐かしく感じられる。秋葉原で乗り換えて地下鉄日比谷線三ノ輪駅で降りる。駅から直ぐなのだが、ちょっと気がつかず通り過ぎてしまった。門が閉ざされていたので、外側から写真だけ取る。

脇には説明書きがあった。これを見つけなければ気がつかなかった。

天台宗東京教区の公式サイトの情報を抜粋すると、「永久寺の歴史をひもときますと遠く14世紀南北朝騒乱の頃とされます。ただ当時は真言宗のお寺で名称も唯識院と呼ばれていたようです。江戸時代に入って、出羽の羽黒山の圭海という行者さんによって天台宗の寺となります。さらに寛文年間、幕臣山野嘉右衛門、号して藤原の永久という方が、諸堂を再建し境内地も拡張・整備され、寺院名も永久寺と改められ、中興の祖となられました」とある。

三ノ輪に来たのは初めてである。かねがね都電に乗ってみたいと思っていたので、これを利用して次の目的地に向かうこととした。都電に沿っての商店街も、平井と同じようにいやそれ以上に、懐かしさで溢れている。

三ノ輪橋駅。

都電は街を縫うようにしてゆっくりと進む。先ほどのバスとは異なり、若い人もかなり乗っている。しかも子供連れが多い。途中から混みだしてきたが、老人を見かけるとすぐに若い人が席を譲っていた。私が普段利用している電車では見かけない光景で、やはり懐かしい光景に出会った。そして乗換のために王子駅前で降りた。

南北線に乗り継ぎ、本駒込で降りて、南谷寺に行く。

本堂。

不動堂。

天台宗東京教区の公式サイトの情報を抜粋すると、「創建は元和年間、開基は万行律師と伝えられております。万行律師という方は比叡山南谷の出身で後に南谷寺の寺名もこれに由来しております。万行律師は常に不動明王を信奉し、ある時、比叡山を下り今の三重県赤目山にて修行をかさね1寸2分の不動明王を授かり江戸に赴いたのであります。当初は駒込動坂(堂坂)に庵を結び赤目不動尊として日々民衆を教化致しておりましたところ、この駒込動坂近くには将軍家鷹狩りの場があり当時の目黒・目白にちなみ目赤不動と改称するよう申し渡されたのです」となる。

まだ陽も高かったのでさらに訪問できそうだったが、次は雰囲気が異なる山の手のお寺になるので、ちょうどきりもよいので続きを楽しみに帰路に就いた。

マッチングゲームを抽象的に記述する

かつての職場の同僚から数学の本を出版したいので原稿をレビューをして欲しいと頼まれた。順調に読み進んできたものの、あるところでつまずいた。ものすごく飛躍して説明すると、方向が反対になっている世界をどのように記述するかの問題である。どのように理解したらよいのかを考えて具体的な例を探した。

もう40年以上も前のことで恐縮だが、その頃流行ったバラエティ番組のなかに、「フィーリングカップル5vs5」というコーナーがあった。男女5人ずつがテーブルを挟んで座り、いくつかの質問をしあいながら、相性がよい異性を探り合う。最後に、女性のそれぞれが最も好ましい男性を一人選んでボタンを押す。視聴者は自分の好みとも重ねながら、誰と誰がお似合いかを想像して楽しむというものだ。

女性が男性を選択したとき、女性の方は必ず一人選んでいるが、男性の方は複数の女性から選ばれたり、全く誰からも選ばれなかったりと、人生の不条理を感じさせてくれる。この不条理を数学でどのように表現したらよいのだろう。

上図に示すように、女性\(a1\)は男性\(b4\)を選んだ。同様に\(a2,a3,a4,a5\)はそれぞれ\(b1,b1,b2,b4\)であった。女性の集合と男性の集合をそれぞれ\(A\)と\(B\)であらわし、今回の選んだ行為を\(f\)で表したとする。圏論では\(A\)と\(B\)を対象(objects)、\(f\)を射(morphism)と呼ぶ(集合論では、前者を集合(sets)、後者を関数(function)あるいは写像(map)という)。ここでの選択という行為\(f\)は女性\(A\)が男性\(B\)を選んでいるので、\(A\)をソース対象、\(B\)をターゲット対象と言い、\(f: A \rightarrow B\)と表す。また対象\(A\)を構成しているもの、すなわち\(a1,a2,a3,a4,a5\)を要素という。\(B\)に対しても同じである。

圏論での射(集合論での関数も同じ)には約束事がある。それはソース対象のそれぞれの要素に対して、ターゲット対象のある要素が必ず一つだけ存在しなければならないということである。ここでの選択は、全ての女性が行っているので、\(f\)は射の約束事を満足していると言える。

それでは視点を変えて男性側から見た場合はどうであろうか。\(b2\)は一人の女性\(a4\)から選べれているものの、他の男性はそうはなっていない。\(b1\)と\(b4\)はそれぞれ二人の女性から、\(b3\)と\(b5\)は誰からも選ばれていないので、これらは射の条件を満たしていない。どのようにしたら、男性側から女性側への射を作れるのだろうか。

数学では、その部分集合の全てを要素とする集合(冪集合(power set)と呼ばれる)が用意されている。女性の集合\(A\)の部分集合には、全く誰も含まないもの\(\{\}\)が1個、一人だけ含んだもの\(\{a1\},\{a2\},...,\{a5\}\)が5個、二人だけ含むもの\(\{a1,a2\},\{a1,a3\},...,\{a4,a5\}\)が10個、三人だけ含むものが10個、四人だけ含むものが5個、全員からなるもの\(\{a1,a2,a3,a4,a5\}\)が1個ある。冪集合を求めることを\(P\)で表すと、女性\(A\)の冪集合は\(P(A)=\{\{\},\{a1\},\{a2\},...,\{a5\},\{a1,a2\},\{a1,a3\},...,\{a1,a2,a3,a4,a5\}\}\)となる。都合32個の要素を有する。男性\(B\)の冪集合\(P(B)\)も同様に求めることができる。

そこで\(P(B)\)の要素から\(P(A)\)の要素への対応を考えてみよう。上図に示すように\(\{\}\)に対しては\(\{\}\)が対応する。同様に\(\{b1\}\)に対しては\(\{a2,a3\}\)が、\(\{b2\}\)に対しては\(\{a4\}\)が、\(\{b3\}\)に対しては\(\{\}\)がというように全ての要素に対して対応させることができる。これによって男性側から選択されているという行為を、冪集合により表すことができるようになった。この時の射は\(f\)を反対向きに表したもの、すなわち逆射\(f^{-1}\)である。

上図に示すように、集合の圏\(\mathbf{Set}\)に対象\(A,B\)が存在する(圏は構造を有する一つの世界と考えてよい)。\(A\)から\(B\)へはこれまで説明してきたように「選択」という射\(f\)がある。もう一つの集合の圏\(\mathbf{Set}\)には\(P(A)\)と\(P(B)\)のような冪集合が対象として含まれている。前者の圏から後者の圏に対して冪集合を求める\(P\)を考えると、対象\(A\)と\(B\)は、対象\(P(A)\)と\(P(B)\)にそれぞれ写される。また、射\(f:A \rightarrow B\)は\(P(f): P(B) \rightarrow P(A) \)に写される。これは射\(f\)の逆射\(f^{-1}\)で、「被選択」と呼んでもよいものである。式で表すと、\(Pf=f^{-1}\)である。

さらに任意の対象\(C\)があり、射\(g: B \rightarrow C \)のとき、\(P(g \circ f)=P(f) \circ P(g)=f^{-1} \circ g^{-1}\)となることが示せるので、\(P\)は関手としての機能を有している。しかし、射の方向が逆向きとなるので、反変関手とよばれる(同じ方向である場合には共変関手という)。

ここまでの議論ではマッチングゲームを抽象的に表現する時に、女性の選択という行為を射\(f\)で表した。そして男性の被選択という行為は、冪集合を用いて、\(f\)の逆射で表せることを示した。また冪集合への関手\(P\)が反変関手であることも示した。

この議論をさらに発展させると、表現可能関手( 次の自然同型\({\rm Hom}(\_,A) \cong F\) が成り立つときの関手\(F\))から米田の補題( \({\rm Nat}\) を自然変換とした時、\({\rm Nat} ( { \rm Hom }(\_,A), F ) \cong F(A) \) が成り立つ)へと進むことができる。レビューをしている原稿は近いうちに出版されることと思うので、その時を期待している。

追:

折角、冪集合を関手とした例まで示したので、冪集合での表現可能関手(representable functor)まで説明しておこう。このときは、\({\rm Hom}(\_,A) \)と\(P\)とが自然同型になるとき、即ち \({\rm Hom}(\_,A) \cong P\)となる時、そしてその時に限って、\(P\)は表現可能関手であるという。

それでは、\(P\)が表現可能関手であるとしよう。このときは、定義に従って、①任意の\(f^{-1} \in {\rm Hom}(B,A)\)に対してただ一つの\( u \in P(B) \)が存在し、\({\rm Hom}(\_,A) \)から\(P\)への自然変換が可換になることを、②任意の\( u \in P(B) \)に対してただ一つの\(f^{-1} \in {\rm Hom}(B,A)\)が存在し、\(P\)から\({\rm Hom}(\_,A) \)への自然変換が可換になることを示せばよい。

証明する前に少し準備をしておこう。
先のフィーリングカップルの同窓会が1年後に行われてもう一度ゲームをしたとしよう。その時は前回とは少し様相が異なり次のようになったとする。この時の選択を射\(g\)としよう。

その逆射\(g^{-1}\)は、先ほどと同じように求めると、次のようになる。

女性の集まり\(A\)を恒等射で表しそれを\(id_A\)としよう。この時、冪集合\( P(A) \)の要素でこれに対応するのは、もちろん集合\( A=\{a1,a2,a3,a4,a5\} \)である。図示すると次のようになる。

それでは証明を始めよう。①から始める。任意の\(f_1 : A \rightarrow B\)に対して、先に説明したように冪集合を利用すると、\( f_1^{-1} :P(B) \rightarrow P(A) \)が定義できる。ここで、\( f_1^{-1} \)において、先の図で示したようにそのターゲット(値域)を\( A \)だけに限定した射を\(f^{-1}: P(B) \rightarrow A\)としよう。この時、先の例での\(f\)の持つ意味は、女性の人々によって選ばれた男性の集まりとなる。それぞれがだれを選んだかは問われていないので、このような射は\(f_1\)以外にもいくつかあることになる。しかしこれらの射のターゲットを\( A \)に限定した射は全て同じで\(f^{-1}\)となる。これは一般的に言える。従って、任意の\(f^{-1}\)を定めると、そのターゲット\(A\)に写像を与えるソース(定義域)\(u\)は、これまでの議論で、一意に決まることが分かる(先の例では、\(f^{-1}\)に対しては\(u=\{b1,b2,b4\} \)、\(g^{-1}\)に対しては\(u=\{b1,b3\}\) )である)。

任意の\(f^{-1}\)に対してただ一つの\(u\)が存在することが分かったので、後は下図において外側の長方形を可換にするような自然変換\( η_{A}, η_{B} \)が存在することを示せばよい。この時は一番内側に書かれている長方形の図を利用して、右上の\(f^{-1}\)から出発して左側から下に移って、左下の\(A\)に達するることを、同様に下から左側に移って\(A\)に達することを示せばよい。図から分かるように、前者では\(f\)と\(id_{A}\)を利用し、後者では対応する\(u\)から\(f^{-1}\)を利用すればよいので可換となる。これにより、自然変換\( η_{A}, η_{B} \)が存在することを示せた。

②に対しては、下図が可換になることを示せばよい。これに対しても同様に証明できる。

横須賀市自然・人文博物館を訪れる

横須賀と聞いた時、何を思いだすだろう。「横須賀ストーリー」と答えるような仲間たちと、横須賀市にある自然・人文博物館を訪れた。博物館は、京浜急行横須賀中央駅から10分程のところにある。Google Earthで示すと中央左の高台のところである。その崖の下に京浜急行の線路が見える。トンネルを抜けた先は横須賀中央駅である。上部が横浜方面、下部が浦賀方面である。

博物館の隣には平和中央公園があり、博物館よりもさらに高い高台にあるため、とても見晴らしが良い。下の写真で中央に見えるのが無人島の猿島、左奥に霞んで見えるのが房総半島である。

幕末には海防のためにいくつかの台場(浦賀には明神崎台場)が設置されたが、明治政府も西洋技術を応用して砲台群を全国の要地に設置した。この高台にも、東京湾要塞のため明治23年(1890)から24年にかけて米ヶ濱砲台が設置された。写真は砲台の下に造られた弾薬庫。

横須賀市自然・人文博物館は、先に自然館が建てられ(1970年)、その後に人文館が造られた(1983年)。今回は、学芸員の方に人文館の展示を説明して頂いた。人文館の展示は、1階と2階に分かれている。1階は、縄文・弥生・古墳時代を経て中世の三浦一族が栄えた時期まで、2階は江戸時代から現代までの歴史と民族を展示している。

まずは1階から。横須賀市には縄文時代の遺跡が多いが、学芸員の方がその理由を教えてくれた。明治の初めに軍港が設けられ、そのアクセスのために明治22年横須賀駅まで横須賀線が開通した。都内から日帰りで仕事ができる場所になったので、大学の先生たちが弁当を持って、遺跡探しのフィールドワークに来たことによるそうだ。このため、土器型式に横須賀の遺跡名が多く残されているとの事だった。

縄文土器の展示を紹介しよう。田戸台から発見された深鉢型丸甕土器(田戸上層式土器)。

吉井第1貝塚からの深鉢型突底土器(粕畑式土器)。粕畑貝塚名古屋市縄文時代早期の貝塚遺跡なので、この当時、横須賀が東西の交通の結合点であったのかと想像させてくれる。

弥生時代の遺跡は少ないそうだが、上の台遺跡の甕形土器。

古墳時代三浦半島では3基の前方後円墳と、13基の円墳が確認されている。この時代の土器で、蓼原古墳の甕(須恵器)。

同じ古墳から出土し、琴で有名な埴輪で、「椅子に座り琴を弾く男子」と名づけられている。

2階に移動して、横須賀とかかわりの深い人物を3人。
ウィリアム・アダムズ(1564~20)は、日本名が三浦按針で、横須賀・逸見に領地を有していた。

小栗上野介忠順(ただまさ)は、日米修好通商条約批准書交換の遣米使節として渡米し、日本と欧米との工業技術の差を目の当たりにし、近代化への投資として製鉄所の建設を進言した。横須賀製鉄所は、慶応元年(1865)に工事が始まり、近代国家としての発展に大きな役割を果たした。1号ドックは、今でも現役で使われている。

フランス人技術者レオンス・ヴェルニー(1837~08)は、横須賀造兵廠その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援した。

漁業が盛んだった頃の地引網船。船が左半分だけになっている。大きすぎて搬入できなかったため切断されたそうだ。

ぺリー来航の11年前、天保13年(1842)に横須賀市佐島に建てられた漁師の家。

マイワイは縁起のよい絵柄を描いたハンテンで、大漁に網元や船主が漁師たちに配った。漁師はこれを着用して、海の神に大漁御礼の参拝をした。

嘉永6年(1853)にマシュー・ペリー率いる米国の艦船4隻が来航し、浦賀沖に停泊した。このとき、ペリー一行は久里浜への上陸を認められた。その時、僧侶が座るキョクロクという椅子を用意したとされている。その時のものではないが、同型のもの。

横須賀製鉄所の当初の設計図。

横須賀製鉄所のバルブの設計図

製鉄所の護岸に松の丸太杭を岩盤に届くまで打ち込んだ。

横須賀製鉄所に関連する施設を巡るコースが紹介されているので、それを掲載しておこう。我々にはこのコースを散歩する気力・体力は残されていなかったので、駅の近くの海軍カレーのお店で、一番人気と言われているカレーを食べて、この日の思い出にした。

今回の訪問で印象に残ったのは、説明してくれた学芸員が切実な悩みを何度も口にされたことである。それは、人文館が建築してから50年も経っているので、新しい時代の要望・期待に合わせてリニューアルしたい。しかし、市の人口が減り小中学校の統廃合が行われている時に、博物館が新たな予算を要求することがとても難しいという事であった。今年の秋、国立科学博物館が資金不足を訴えて、クラウドファンディングを行ったのは記憶に新しいところだ。この時は成功したけれども、次もうまくいくとは限らない。まして国立ではない一地方の組織が行ったときはどうであろう。文化への資金が枯渇しているなかで、妙案があるのだろうか。なかなかの難問だが、IT技術などを活用して、解決していくしかないだろう。