bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

絵図と現在を重ねる神奈川宿散歩──『金川砂子』を手がかりに

来週、神奈川宿をガイドすることになっている。神奈川宿を歩くと、わずか数百メートルのあいだに景色が大きく変わる。低地の川沿いから台地の縁へと道が折れ上がり、視界が一気に開ける。この地形の変化こそが、神奈川宿の歴史や街並みを形づくってきた背景である。今回は下見を兼ねて歩いた記録をまとめてみたい。

神奈川宿は東海道の宿場の一つで、品川宿・川崎宿に続く宿場として栄えた。宿場町としての規模も大きく、幕末の横浜開港時には、いくつかの寺院が外国の領事館や公使館として利用された。

実は、この神奈川宿の歴史や街並みは、この地域のユニークな「地形」と深く結びついている。

周辺の地形は、約12万5千年前の最終間氷期における海面上昇(下末吉海進)によって形成された海岸地形を基礎としている。この時期に海岸沿いには波によって削られた平坦面や海成堆積面がつくられ、その後の海面低下と地盤の隆起によって、現在の下末吉台地へと発達した。さらに約6,000年前の縄文海進では海が内陸深くまで入り込み、その後の海退によって河川沿いや海岸部に沖積低地が形成された。

そのため、神奈川宿の東半分は滝ノ川が形成した沖積低地の上にあり、西半分は下末吉台地が海に向かって張り出した地形となっている。江戸時代の東海道は、東側(江戸側)では自然堤防上の平坦な道を通り、西側(京都側・台町方面)では海を見下ろす台地の裾や崖の上をたどるように敷設された。

(図:東側は沖積低地、西側は下末吉台地(全国q地図 を利用))

現在、江戸時代の建物が現存するのは本覚寺のみであるが、このアップダウンに富んだ往時の面影をたどれるよう「神奈川宿歴史の道」が整備されている。主要ルートには茶色のレンガタイルが敷かれており、滝ノ川周辺の低地から台地へと移り変わる地形を体感しながら、歴史的な場所を散策するのに便利である。

江戸時代の東海道の様子を知る資料としては、名所案内として編まれた『江戸名所図会』『東海道名所図会』、幕府道中奉行所による測量地図『東海道分間延絵図』、長大な絵巻物『東海道絵巻』、歌川広重の『東海道五拾三次』、葛飾北斎の『東海道五十三次』などがある。しかし、神奈川宿に限っていえば、『金川砂子(かながわすなご)』ほど詳しい資料はない。『金川砂子』は1824年(文政7年)に刊行された地誌で、著者は神奈川宿の住人であった煙管亭喜荘である。全三巻からなり、神奈川宿とその周辺の歴史・名所・寺社・風俗などが豊富な挿絵とともに描かれている。神奈川宿版の『名所図会』ともいえる貴重な資料である。

横浜市のホームページには、「神奈川宿歴史の道」が紹介されている。

(図:神奈川宿歴史の道)
一方、『金川砂子』にも神奈川宿の絵地図が描かれていて、東側は沖積低地が豊かに広がり、西側は下末吉台地が海に迫っている様子がわかる。

(図:神奈川宿東半分)

(図:神奈川宿西半分)

東側と西側とでは地形が異なることに注意を払いながら、江戸側から京側へと神奈川宿を訪ねてみよう。

長延寺
歴史
長延寺は横浜開港時、オランダ領事館として使用された寺で、幼少期の岡倉天心が過ごした場所としても知られる。『金川砂子』では街道沿いに本堂が描かれ、神奈川宿の江戸側入口に位置していた。

現在の見どころ
寺院は1965年に横浜市緑区へ移転し、旧地には建物は残っていないが、周辺の地形や道筋から「江戸見附」が置かれていた宿場入口の雰囲気を感じ取ることができる。街道の始まりを意識しながら歩くと、当時の旅人の視点がよみがえる。

(図:長延寺)

良泉寺
歴史
開港当時、屋根を壊して「修理中」と偽装し、外国人宿舎への転用を免れたという逸話が残る。また、生糸貿易で財を築いた「天下の糸平」田中平八の墓所がある。『金川砂子』では「良仙寺」と表記されている。

現在の見どころ
境内には田中平八の墓が整然と残り、静かな空気の中に往時の繁栄を感じられる。『金川砂子』の表記ゆれ(良仙寺)を現地で確認できるのも興味深いポイントで、歴史資料と現地の対応関係を楽しめる。

(図:良泉寺)

能満寺と神明宮
歴史
1299年、海中から現れた虚空蔵菩薩像を安置したことに始まる古寺で、『金川砂子』には本堂・不動堂・神明社が描かれている。明治の神仏分離により神明宮が独立した。

現在の見どころ
能満寺と神明宮は現在も隣接しており、神仏習合の名残を感じられる配置になっている。境内の高低差や参道の向きなど、絵図と照らし合わせると地形と信仰の関係がよく分かる。

(図:下は能満寺と右上は神明宮)

東光寺
歴史
太田道灌の守護仏を由来とし、道灌が詠んだ歌が寺名の由来とされる。

海山をへだつ東のお国より
放つ光はここもかわらじ

『金川砂子』には東光寺のほか妙仙寺、地蔵堂、仲木戸横町が描かれている。

現在の見どころ
現在の東光寺は住宅街の中に静かに佇み、境内の配置から江戸期の寺院群の密集を想像できる。仲木戸の地名は今も残り、絵図と現代地図を重ねる楽しみがある。

(図:東光寺)

熊野神社
歴史
平安期に紀伊国から勧請された古社で、江戸中期に金蔵院境内へ移された。『金川砂子』には参詣客や神楽、神輿が描かれ、宿場の賑わいを象徴する場面が残る。

現在の見どころ
境内には樹齢約400年のイチョウが現存し、関東大震災や大火を耐え抜いた生命力を感じられる。絵図に描かれた賑わいとは対照的な静けさが、時代の移り変わりを物語る。

(図:熊野神社)

金剛院
歴史
『金川砂子』では熊野神社と東西に並んで描かれているが、明治以降の神仏分離や境内整理により現在とは位置関係が異なる。

現在の見どころ
現在は熊野神社の北側に位置し、絵図との違いを比較することで、明治期の宗教政策が地域の景観に与えた影響を実感できる。

(図:金剛院)

農村と漁村の風景
歴史
滝ノ川周辺は沖積低地で、山側には田畑、海側には漁村が広がっていた。『金川砂子』には吉祥寺を含む農村・漁村の風景が描かれている。

現在の見どころ
現在は都市化が進んでいるが、滝ノ川の流路や周辺の地形から、かつての農村・漁村の境界を読み取ることができる。地形を意識して歩くと、江戸期の生活圏の違いが浮かび上がる。

(図:左は田畑の様子で、中央を流れる滝ノ川、右は漁村の風景)

宿場町の様子
歴史
神奈川宿の中央部には本陣が置かれ、旅籠や商家が軒を連ねていた。『金川砂子』には旅人や荷物運搬の様子が描かれ、宿場の賑わいが伝わる。

現在の見どころ
現在は商店街や住宅地となっているが、道幅や曲がり方に宿場町の名残がある。絵図の「しろはた屋」「飴屋」などを現在の地図に重ねると、街道の生活文化が立体的に見えてくる。

(図:左はしろはた屋、中央は飴屋、右上は夜の風景、右下は問屋)

成仏寺
歴史
成仏寺は、幕末の横浜開港時にアメリカ人宣教師の宿舎として利用され、宣教師ブラウンやヘボンが滞在したことで知られる。ヘボン式ローマ字の基礎となる研究も、この周辺で進められたといわれる。

現在の見どころ
現在の境内は静かな住宅街の中にあり、往時の建物は残っていないものの、周辺を歩くと『金川砂子』に描かれた寺院群(本堂・熊野社・見松院・福泉院)が密集していた地形を実感できる。かつて飯田町と呼ばれた一帯の面影を、地形の起伏と路地の配置から読み取ることができる。

(図:成仏寺)

慶運寺
歴史
横浜が開港したばかりの幕末期、フランス領事館が置かれた寺で、浦島伝説の遺物が移されたことから「浦島寺」とも呼ばれる。

現在の見どころ
境内には浦島太郎ゆかりとされる観音像や石碑が残り、伝説と歴史が交差する独特の雰囲気がある。近くを滝ノ川が流れていることから、沖積低地に建てられた寺院の特徴がよく分かる。

(図:慶運寺)

本陣
歴史
神奈川宿には、滝ノ川を挟んで江戸側に神奈川本陣(石井家)、京都側に青木本陣(鈴木家)が置かれていた。宿場の規模が大きかった神奈川宿では、本陣2軒・脇本陣3軒という東海道でも有数の体制が整えられていた。『金川砂子』には石井本陣の建物が描かれ、周囲には宗興寺や権現山、宮之町などの地名が記されており、宿場の中心としての賑わいがよく伝わる。大名行列や幕府役人の往来が多く、神奈川宿の繁栄を象徴する場所であった。

現在の見どころ
現在、本陣の建物は残っていないが、滝ノ川を中心とした地形と道筋に、宿場の中心地であった名残がはっきりと読み取れる。川を挟んで本陣が向かい合う配置は、地形的にも合理的で、絵図と現地を重ねるとその意図が理解しやすい。周辺の道幅や曲がり方、わずかな高低差には、宿場町の骨格が今も残っており、歩きながら『金川砂子』の構図を思い浮かべると、江戸期の神奈川宿の中心が立体的に浮かび上がる。

(図:左上は神奈川本陣、左下は滝ノ川、右は滝ノ川周辺)

浄瀧寺
歴史
横浜開港時にはイギリス領事館として使用された。かつては領事が植えたとされる「多行松」があり、横浜十名木として知られた。

現在の見どころ
堂宇は横浜大空襲で焼失したが、境内の地形や残された石碑から、領事館時代の面影を感じ取ることができる。周辺の道筋は当時の寺域を想像する手がかりになる。

(図:浄瀧寺)

青木本陣
歴史
『金川砂子』には大名行列が青木本陣へ入る場面が描かれ、宿場の繁栄を象徴する。

現在の見どころ
本陣跡周辺は住宅地となっているが、道幅や曲がり角に宿場の中心地らしい風格が残る。周囲の地形を観察すると、滝ノ川を挟んだ本陣配置の合理性が見えてくる。

(図:青木本陣)

宗興寺
歴史
宗興寺は、神奈川宿の中心部に位置する寺院で、幕末の横浜開港期にはアメリカ人宣教師ヘボン博士(J.C.ヘボン)が施療院として使用した場所として知られる。ヘボンはこの地で診療活動を行い、地域住民の治療にあたったことが、後のヘボン式ローマ字考案や聖書翻訳などの活動につながる基盤となった。『金川砂子』にも宗興寺の堂宇が描かれ、本陣や滝ノ川、宮之町などとともに、宿場の中心的な景観を形成していたことが分かる。

現在の見どころ
現在の宗興寺は、かつての宿場中心部の面影を残す一角にあり、周囲の道筋やわずかな高低差から、江戸期の街道の骨格を感じ取ることができる。施療院として使われた当時の建物は残っていないものの、境内に立つと、ヘボン博士が地域医療に携わった歴史を静かに偲ぶことができる。『金川砂子』の絵図と現在の地形を重ねると、宗興寺が本陣や滝ノ川に近い“宿場の中心”に位置していた理由が理解しやすい。

(図:左はヘボン博士も利用したとされる神奈川の大井戸、中はヘボン博士施療院の碑、右は宗興寺)

権現山
歴史
戦国期の古戦場で、北条早雲方の砦が上杉方に攻め落とされたと伝わる。『金川砂子』には合戦図が収録されている。

現在の見どころ
鉄道敷設で山容は大きく削られたが、崖地の一部に往時の姿が残る。台地の縁に立つと、かつての軍事的要衝であったことが地形から理解できる。

(図:権現山)

洲崎大神
歴史
ご神木「オハキ」が地名「青木」の由来とされる。旧暦六月の例祭では神輿を海へ担ぎ入れる「お浜下り」が行われた。

現在の見どころ
現在は市街地に囲まれているが、台地のふもとに鎮座する位置関係は『金川砂子』と共通している。境内から見上げる台地の高さが、かつての海岸線を想像させる。

(図:洲崎大神)

普門寺と甚行寺
歴史
普門寺は横浜開港後、イギリス士官宿舎として利用された寺である。一方、甚行寺はフランス公使館に転用され、当初は江戸・芝の済海寺に置かれていた公使館が、1861年(文久元年)にここへ移された。甚行寺本堂は公使館として使うために改造されたと伝わり、幕末外交の現場となった。

現在の見どころ
両寺は下末吉台地のふもとに位置し、坂の上り下りを通して地形の変化がよく分かる場所にある。『金川砂子』の絵図と現在の地形を重ねて見ると、なぜ外交施設がこの位置に置かれたのか、地形的な理由が理解しやすい。

(図:右上は普門寺、下は甚行寺)

本覚寺
歴史
アメリカ領事館として使用され、ハリスやドーアが滞在した。領事館時代の逸話も多く、幕末外交の重要拠点であった。例えば、領事ドーアが庭の松を伐採して星条旗を掲げたことや、本堂の本尊を板囲いで覆い、山門を白く塗って日本人の立ち入りを制限したことなどが逸話として伝えられている。

現在の見どころ
境内には岩瀬忠震の顕彰碑があり、外交史の舞台であったことを示す。『金川砂子』に描かれた「樹木に囲まれた奥まった寺」の雰囲気は薄れたが、周囲の地形から当時の静けさを想像できる。

(図:本覚寺)

台町の茶屋
歴史
台町周辺は、江戸時代を通じて神奈川湊を見下ろす屈指の景勝地として知られていた。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』には、

ここは片側に茶店軒をならべ、いずれも座敷二階造りにて、浪打ちぎわの景色いたってよし

と記され、旅人が海を眺めながら休憩する人気の場所であったことが分かる。『金川砂子』に描かれた「さくらや」は、現在の料亭田中家付近にあったと伝えられ、富士山と袖ケ浦を望む絶景の茶屋として名高かった。

現在の見どころ
現在の台町は住宅地が広がっているが、旧東海道の道筋と台地の縁の地形はよく残っており、坂を上りきった瞬間に視界が開ける感覚は、江戸の旅人と同じ体験に近い。料亭田中家周辺に立つと、かつて茶屋が並んでいた高台の雰囲気を感じ取ることができる。また、歌川広重『東海道五拾三次・神奈川』の構図が、台町からの眺望を思わせることから、絵と現在の景観を重ね合わせる楽しみもある。

(図:台町の茶屋)

神奈川台関門
歴史
横浜開港後、生麦事件をはじめ外国人襲撃事件が相次いだため、各国領事は幕府に警備強化を要求した。その結果、幕府は神奈川宿の台町最高所に「神奈川台関門」を設置し、街道を往来する人々の監視を行った。
この関門から京都側へ坂を下るあたりは、当時は海が間近に迫る街道で、眺望の良さから旅人に人気の場所でもあった。神奈川宿の京側境界は諸説あるが、一般にはこの坂を下った付近が宿場の終わりと考えられている。

現在の見どころ
現在、関門そのものは残っていないが、台町の最高所から京都側へ下る急坂は当時の地形をよく伝えている。坂の途中からは、かつて海が迫っていた地形を想像でき、台地の縁に宿場の境界が置かれた理由が理解しやすい。また、周辺の道幅や曲がり方には旧街道の名残があり、地形と歴史が重なり合うポイントとして散策のハイライトになる。

(図:神奈川台関門)

まとめ

1859年(安政6年)の横浜開港に際しては、条約上の開港地が「神奈川」とされていたことから、各国は神奈川宿への外交施設設置を求めた。その結果、本覚寺にはアメリカ領事館、浄瀧寺にはイギリス領事館、長延寺にはオランダ領事館が置かれた。なお、外交交渉の中心となる公使館は主として芝・高輪地区に設けられたが、フランス公使館のみは後に神奈川宿へ移転した。その後、横浜港の整備が進むにつれて、各国の施設は次第に横浜居留地へ移転していった。

神奈川宿は東海道有数の大規模な宿場であり、幕末期には約1,300戸、人口約5,000~6,000人を擁し、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠約60軒を数えた(1843年(天保14年)『東海道宿村大概帳』を参考にした)。宿場の西側は海を見下ろす台地上にあり、眺望に恵まれていた。なかでも台町の茶屋から望む富士山と袖ケ浦の景観は名高く、とりわけ坂本龍馬の妻・お龍が働いていたと伝えられる『田中家(当時は諸賞庵)』や、絵図に描かれた『さくらや』などからの眺めは、神奈川宿随一の絶景であったといわれている。

(図:歌川広重『東海道五十三次』、青木橋付近から横浜駅西口方面にあった袖ヶ浦を望む、坂を上り詰めた所に「さくらや」の看板がある。Wikipediaより

神奈川宿は、このように地形・歴史・外交の舞台が凝縮された場所である。坂を上り下りしながら歩くと、江戸の旅人や幕末の外交官たちの息づかいがふっと蘇るように感じられる。そして、絵図と現在の景観を重ねるたびに、この宿場が歩く者に語りかけてくるものの多さに気づかされる。

東高根森林公園──多摩丘陵に残る原生の森と里山の記憶

先日、東京都埋蔵文化財センターを訪問し、多摩ニュータウン地域における縄文時代から現代に至るまでの歴史について話を伺った。

なかでも特に印象深かったのは、江戸時代における産業の変遷と景観の移り変わりである。当時、この地域でも江戸の消費市場向けに野菜栽培が始まったものの、世田谷や三鷹・武蔵野といった近郊農家との競争に勝てず、やがて薪(まき)や炭の生産へと転換していったという。

こうした野菜栽培や薪炭生産に移行する以前、多摩丘陵はシラカシやスダジイなどの常緑広葉樹(照葉樹)の原生林に覆われ、鬱蒼とした森が広がっていたと考えられている。しかし、江戸の人口増加に伴う燃料や農地需要を支える近郊生産地として伐採が進み、代わって落葉広葉樹の二次林(雑木林)が形成されていった。

その要因は主に三つある。第一に畑地への転換、第二に落ち葉を堆肥として利用するための落葉広葉樹への切り替え、第三に薪炭材の確保である。特にクヌギやコナラは、伐採後も切り株から新芽が伸び、15〜20年で再生する「萌芽更新(ほうがこうしん)」の特性を持つため、優れた資源として積極的に利用・管理され、これが現在の里山の景観につながっているとのことだった。

現在の東京近郊では、かつてのような常緑樹林が見られる場所はほとんどない。しかし、同じ多摩丘陵の東端に位置する川崎市北部の「東高根森林公園」には、シラカシ林が奇跡的に開発を免れ、当時の豊かな森の面影を残しているという。そう聞き、さっそく現地を訪ねてみた。

東高根森林公園は多摩丘陵の東端に位置する。「今昔マップ」で明治時代の地図を確認すると、多摩丘陵の特徴である複雑な「谷戸(やと)」地形が刻まれているのが分かる。地理的には、北から順に二ヶ領用水(戦国時代末期〜江戸初期に開発)、五反田川、そして森林公園を挟んで南側に平瀬川が流れている。二ヶ領用水と五反田川は久地駅付近で合流し、さらに下流で平瀬川も合流して多摩川へと注ぐ。つまり森林公園は、五反田川と平瀬川という二つの河川に南北を挟まれた丘陵地に位置しているのだ。

(図:今昔マップによる東高根森林公園の地形)

(図:東高根森林公園の案内図)

公園入口付近には「けやき広場」があり、幼稚園児やシニアの方々の憩いの場となっていた。近くには池もあり、弥生時代にはこの周辺の谷戸で水田稲作が行われていた可能性もあるという。当時の人々の暮らしに思いを馳せながら歩いた。
(写真:けやき広場)

園内で最も高い平坦部は現在「古代芝生広場」と呼ばれ、弥生時代後期(3世紀頃)から古墳時代後半(6世紀頃)にかけての竪穴建物跡(住居跡)が約60軒確認されている。広場全体では約100〜150軒の住居跡が存在したと推定されている。

弥生時代の人々は、この台地に竪穴住居を構えて集落を形成し、周囲の谷(現在の湿生植物園付近)では湧水を利用して稲作を行っていたのだろう。また、台地周辺のシラカシ林からは耐久性の高い木材を得て鍬(くわ)や鋤(すき)の柄を作り、どんぐりなどの木の実を採集して食料としていたと考えられる。

(写真:シラカシ林に囲まれた古代芝生広場)

この広場に残るシラカシ林は、関東地方では一般に沖積低地や台地縁辺の適湿な場所に多く見られる植生だが、多摩丘陵の尾根上にこれほどまとまって残る例はきわめて珍しい。東高根森林公園のシラカシ林は、丘陵上でありながら土壌が適湿で、人為的な攪乱も比較的少なかったため、自然林に近い姿を保ってきたと考えられている。現在、シラカシは社寺林や屋敷林、斜面林などにわずかに残る程度で、多くの林が失われてしまった。そのため、このシラカシ林は多摩丘陵本来の照葉樹林の姿を伝える貴重な森として、神奈川県の天然記念物に指定されている。

林内を観察すると、樹高20メートルを超える高木層までシラカシが優占し、その下層にはシロダモ、ネズミモチ、ヤブツバキ、アオキなどが、草本層にはジャノヒゲ、ヤブラン、イノデ、ベニシダ、ヤブコウジ、キヅタなどが見られる。いずれも冬でも緑を保つ常緑植物で構成されている。

一方、園内にはクヌギやコナラを主体とする二次林もある。ここでは、高木層にコナラ、クヌギ、エゴノキ、イヌシデ、ヤマザクラなどが生育し、亜高木層・低木層・林床にはガマズミ、ヒサカキ、カマツカ、コゴメウツギ、アオキ、ムラサキシキブ、アズマネザサなど多様な植物が見られる。

こうした里山の林は、人間が定期的に伐採や下草刈りを行うことで維持される。しかし、人の手が入らなくなると、やがてシラカシを中心とする極相林(自然林)へと遷移していく。東高根森林公園は、この「人間の営み」と「自然の遷移」の両方を同時に観察できる貴重な場所である。

(写真:コナラとクヌギの林)

園内では、そろそろ見頃を迎えるアジサイも咲き始めていた。この公園を訪れると、人間の営みとともに林の植生が変化してきた歴史を、まさに肌で実感することができる。

(写真:咲き始めたアジサイ)

人の手によって維持されてきた里山は、燃料革命や人口減少によって管理されなくなり、その姿を大きく変えつつある。近年、全国の街中へのクマの出現が社会問題となっているが、これもまた奥山や里山における「人間の営みの変化(薪炭利用の停止や過疎化、境界線の曖昧化)」がもたらした結果の一つなのだろう。この問題の解決には、人と自然との関係性の変化を正しく理解し、考慮することが重要であると強く感じた。

南三陸から松島へ ― 震災の記憶と文化景観をめぐる旅

三陸海岸の旅もいよいよ最終日となった。この日は、南三陸町で震災からの歩みを伝える「震災復興祈念公園」と、日本三景の一つである松島を訪ねる予定である。行程は今日も盛りだくさんだ。

(図:南三陸町から松島海岸へ)

三日目ともなると、ツアー参加者の顔ぶれや雰囲気もだんだんと見えてくる。総勢四十名という大所帯で、そのうち二十九名が女性だ。一人旅は五名だけで、あとは夫婦や親子、女性同士のグループが多い。シニア世代の旅行では、女性の積極性が目立つように感じる。こうしたツアーに参加する男性は、同世代の中では比較的積極的な部類なのだろう。一方で、こうした場にあまり姿を見せない同世代の男性たちは、日々どのように過ごしているのだろうか――そんな思いがふと頭をよぎった。

参加者同士もほどよく打ち解け、軽い挨拶や雑談を交わしながらバスへと乗り込む。若い男性ガイドもすっかり一行に馴染んだようで、写真を撮られたり、気さくに声をかけられたりと、距離が近くなってきたのが分かる。和やかな空気のままバスは走り出し、ほどなくして最初の目的地――南三陸町震災復興祈念公園に到着した。

■ 南三陸町震災復興祈念公園 ― 失われたものと未来へのまなざし
バスを降りると、朝のひんやりした空気とともに、静かな緊張感のようなものが漂っていた。ここは、東日本大震災で甚大な被害を受けた志津川地区の中心部に整備された追悼と伝承の場である。2011年の津波は町全体に牙をむき、800人を超える尊い命が犠牲となった。

公園の中心に築かれた「祈りの丘」は海抜20メートルの高さを持ち、頂上には犠牲者名簿を収めた石碑が静かに佇む。丘の途中には、この地を襲った津波の平均高にあたる海抜16.5メートルを示す「高さのみち」も設けられている。しかし、今回は時間の制限もあり、ここまでは足を延ばすことができなかった。旅を終えてから改めて調べるうちに、祈りの丘が震災の記憶を象徴する重要な場所であったことを知った。あのとき、多少無理をしてでも行っておけばよかった――そう思うほど、現地で感じた空気は重く、深かった。

そうした中で、私が最も見落としたくないと思ったのは、公園の象徴ともいえる旧南三陸町防災対策庁舎である。赤い鉄骨だけが残るその姿は、写真で見るよりもはるかに生々しく、目の前に立つとただ圧倒され、言葉を失うほどだった。震災当日、防災無線で避難を呼びかけ続けた職員の方々を含む43人が津波の犠牲となった場所であり、なかでも女性職員が「早く逃げてください」と最期まで呼びかけ続けたというエピソードは、現地に身を置くと胸の奥に深く迫ってくる。

庁舎の保存をめぐっては長年議論が続いたが、震災遺構としての保存が決定し、現在は補強などの対策を経て、その記憶を未来へ語り継ぐ場となった。通常、犠牲者が出た場所を震災遺構とすることは、遺族や関係者への心理的影響から慎重に判断される。しかし、職員の方々が命を賭して住民の命を守ろうと重責を果たした歴史を鑑みれば、この庁舎を保存するという判断には大きな意味があると感じた。

震災復興祈念公園からは、隈研吾設計の「南三陸町東日本大震災伝承館 南三陸311メモリアル」が望める。未来へ向けて漕ぎ出す「船」をイメージした三角屋根が特徴的なこの建物は、海と山をつなぐ立体的な動線と、周辺の景観に溶け込む木や金属を組み合わせたデザインが見事である。隣接する「南三陸さんさん商店街」もまた隈研吾の設計によるものだ。地元の南三陸杉をふんだんに使った温かみのある平屋建ての建物が並び、店先に並ぶ新鮮な海産物や食事の準備に余念のない飲食店からは、人々の現在の暮らしの息遣いが確かに感じられる。

また、公園の一角に立つチリ共和国から寄贈されたモアイ像も目を引く。1960年のチリ地震津波以来、長年培われてきた絆の証として、震災後に再び友好と復興を願い贈られたものだという。異国の石像が海辺に佇む光景には、どこか不思議な趣があった。今回は近くまで足を延ばす時間はなかったが、遠くからその姿を眺めるだけでも、町と世界のつながりを感じることができた。

祈念公園、旧庁舎、商店街、モアイ像――。
南三陸町は「失われたもの」と「未来へつなぐもの」を同時に見つめる場として、力強く再生を続けていた。

(写真:左上は旧南三陸町防災対策庁舎、左下は南三陸311メモリアル、右上はモアイ像、右下は南三陸さんさん商店街)

■ 松島へ ― 地形・歴史・文化が織りなす日本三景の風土
南三陸を後にし、バスは松島へ向かう。海沿いの林を走るにつれ、車窓の風景はしだいに視界が開け、やがて松島湾に浮かぶ数々の島々が眼下に姿を現した。

天然の防波堤が生んだ奇跡の地形
車窓から島影が増えてくるにつれ、松島の地形が南三陸とはまったく異なることに気づく。松島湾は沈水地形を基盤としながらも、典型的なリアス海岸とは異なる多島海の景観をつくり出している。その起源は、山地の谷が海面上昇によって水没した「溺れ谷(沈水谷)」。氷期後の海面上昇によって複雑に入り組んだ谷地形がそのまま海に沈み、現在の景観が形成された。

一般に、入り組んだ沈水海岸は津波のエネルギーを増幅させやすいため、災害に弱いとされる。しかし松島は違った。松島湾を巡る遊覧船のアナウンスによれば、2011年の震災時、外洋側で津波の高さが8〜10メートルに達した一方、湾内は1〜2メートル程度に抑えられたという。湾口部の島々が天然の防波堤となり、複雑な地形が波の勢いを殺したためだ。松島は、自然の美しさだけでなく、自らを護る独自の防災機能をも併せ持つ、自然の造形が生んだ極めて特徴的な景観である。

こうした松島の特異性は、三陸海岸全体の多様性の一端でもある。 実際、 三陸海岸と一口に言っても、その姿はきわめて多様である。北部は直線的な海岸線が続き、南部は典型的なリアス式海岸、そして最南端の松島湾は溺れ谷によって形成された複雑な地形をもつ。

(写真:左上が直線的な田野畑村の海岸、左下と右上がリアス式地形の陸前高田市と南三陸町の海岸、右下が複雑な入り江が連なる松島湾)

「西行戻しの松」の絶景から松島湾クルーズへ ― 伝承とリアルが交錯する旅
バスがやがて停車したのは、松島湾を高台から一望できる場所だった。古来、多くの文人墨客に愛されてきた松島だが、その歴史を今に伝える象徴的な名所が「西行戻しの松」である。由来となった一本の松が立つ高台には、西行法師が童子との問答に敗れ、松島行きを断念したという伝承が残る。現在の「西行戻しの松公園」は、湾内を見渡せる屈指の展望地だ。春には約260本のソメイヨシノが咲き誇り、青い海とピンクの桜のコントラストが人々を魅了する。

展望台から眺める島々の連なりは、まるで一幅の絵巻物のように静かで美しい。海面も松の枝も動きを見せず、島影はただ静かに浮かんでいるように見えた。

(写真:左と右下は西行戻しの松、他は公園から見た松島)

しかし、ここからバスが松島の門前町へと入っていくと、景色は一変した。溢れかえる人波と立ち並ぶ土産物店。先ほど高台から見下ろした静寂の世界とはあまりにも異なり、その俗世的な賑わいに、一瞬、興ざめするような感覚さえ覚えた。

ここでの滞在時間は、昼食も含めて自由行動の3時間。私は遊覧船に乗るべきかどうか、まだ決めかねていた。そこへガイドから「乗船される方は手を挙げてください」とアナウンスが入る。最初に手を挙げたのは、わずか一人だった。ところが、「ツアー客の方は割引になります」と言葉が添えられた途端、かなりの人々が興味を示し始めた。その様子に背中を押されるようにして、私も遊覧船を利用することに決めた。

バスを降りたあと、ひとまず遊覧船の乗車券を購入。乗船までの時間は寺院巡りにあてたが、これについては後述する。

いよいよ乗船した遊覧船は、松島湾を一周するルートを進む。事前の調べでは「右側の席が良い」とのことだったが、それを知る乗客は多かったらしく、乗船が後方に回った私たちは、仕方なく反対側の席に座った。

だが、実際に海へ出てみると、その落胆は予想を大きく裏切る形で解消された。松島湾は想像以上に広大で、島々も意外なほど距離を置いて点在している。穏やかな海に浮かぶ島々は、一様に松をまとっているものの、その形は実に様々で飽きることがない。湾の入り口に並ぶ島々が津波の防波堤となり、それが結果として松島の景観を守ることにもつながった。

(写真:遊覧船からの松島)

伊達政宗の美意識が息づく宗教文化
松島は日本屈指の景勝地として名高いが、歴史に興味がある者にとっては、この地に遺る建築物も見逃すことができない。松島の寺院群は、単なる観光名所ではなく、戦国大名の美意識と政治的意図が色濃く刻まれた文化空間である。遊覧船の前後のわずかな時間ではあったが、その一端に触れることができた。

戦国武将の中でも屈指の知名度を持つ人物が、「独眼竜」伊達政宗である。彼は当時、荒廃していた松島の寺院を伊達家の菩提寺として再建し、さらに豊臣秀吉から拝領した伏見城の茶室をこの地に移築させるなど、松島を自らの精神的・政治的な重要拠点として厚く保護した。そうして、松島に絢爛豪華な「伊達文化」を根付かせたのである。

その代表格が、政宗が5年の歳月をかけて大規模に再興した瑞巌寺(ずいがんじ)である。本堂と庫裡はいずれも国宝に指定されており、金箔や極彩色の装飾が施された本堂内部は、桃山文化の華麗さと禅宗美術が融合した重厚な空間だ。一方で、庫裡の広い土間は、往時の寺院生活の営みを今に伝えている。

(写真:瑞巌寺で、左上は中門、左下は洞窟遺跡群、中上は庫裡への門、中下は本堂、右上は庫裡、右下は御成門)

(写真:本堂の内部から見た瑞巌寺の庭園)

また、瑞巌寺の塔頭である円通院(えんつういん)は、政宗の嫡孫・光宗の菩提寺だ。境内には、松島特有の凝灰岩の地形を生かした枯山水庭園や、苔むした石組が美しい「雲外庭」、さらにはバラを配した洋風庭園など、多様な庭園が広がる。特に枯山水庭園は松島湾の島々を縮景的に表現したとされ、静寂の中に深い陰影が漂っていた。

(写真:円通院で、左は庭園、中上も庭園、中下は山門、右上は洞窟遺跡、右下は仙台藩主二代忠宗の次男光宗の霊廟)

さらに、松島湾を望む高台に建つ観瀾亭(かんらんてい)は、先述した伏見城の建物を伊達家が拝領し、この地へと移築したものと伝わる名建築だ。今回はあいにく時間がなく、中に入ることは叶わなかったが、外観からだけでも往時の素晴らしさが十分に伝わってきた。

(写真:左は観瀾亭近くからの眺望、右は観覧亭)

旅の終わりに
松島は、自然の造形美、歴史的伝承、武家文化、宗教空間、そして景観を愛でるための建築が重層的に構成された稀有な地域である。溺れ谷の地形が生んだ島々の風景は、単なる観光資源ではなく、自然と人間の営みが長い時間をかけて織りなした文化景観そのものであった。

三日間の旅は多くの発見に満ちていたが、同時に、田野畑、陸前高田、南三陸で目にした震災の記憶が心の底に静かに残り続けていた。美しい景観に触れるたび、その背後にある人々の苦難と再生の歩みを思わずにはいられなかった。

バスは帰路の仙台駅へと向かう。車窓を流れる松島の島影は、曇天の拡散した光を受けて輪郭をやわらかく曖昧にしていた。その景色を眺めながら、この地の自然と、それを守り受け継いできた人々の営み、そして失われた命への静かな祈りが、胸の内でひとつに重なっていくのを感じていた。

海と祈りの岸辺で──三陸鉄道から陸前高田へ

三陸海岸の旅も二日目を迎えた。この日は、NHKの朝ドラで一躍有名になった三陸鉄道への乗車に始まり、極楽浄土を思わせる浄土ヶ浜、そして震災からの復興を遂げつつある陸前高田を巡り、南三陸町へ向かって宿泊するという行程である。天気予報は雨だったが、幸いにも曇り空にとどまってくれた。ただ、気温は10度ほどしかなく肌寒い。寒さを避けるため、ヒートテックの下着にセーターを重ね、万全の防寒対策をして見学に向かった。

(図:岩手県の海岸線を北から南へ)

1. 三陸鉄道での出会いと車窓の絶景
バスに乗り込むと、若い男性ガイドが「おはようございます!」と元気に迎えてくれた。この日の最初のイベントは三陸鉄道への乗車である。朝ドラ『あまちゃん』で全国的に知られるようになった鉄道だが、ガイドは放送当時まだ幼く、ドラマの記憶はほとんどないという。そのためか、説明にはどこか控えめなところも感じられたが、「海女さんが列車に同乗しますので、ぜひ楽しんでください」と笑顔で案内してくれた。

乗車区間は久慈駅から普代(ふだい)駅まで。ガイドは両駅のお土産も熱心に紹介し、特に久慈名物の昆布を強く勧めていた。そのアナウンスの効果は絶大で、私たちが売り場に向かった時には、彼が勧めていた昆布はすでに売り切れていた。旅先ならではの、思わず頬が緩むひと幕だった。

列車に乗り込むと、海女姿のガイドが「今日はあまちゃんとしてご案内します」と笑顔で迎えてくれた。現役の海女でもあるという。明るくはきはきとした語り口で、まずは三陸鉄道の成り立ちを紹介してくれた。

三陸鉄道は、岩手県の三陸海岸に沿って走る第三セクター方式の鉄道で、北の久慈から南の盛(さかり)まで163キロを結ぶ「リアス線」を運行している。戦前から構想されていた三陸沿岸縦貫鉄道計画をもとに整備が進められ、国鉄時代に建設された路線を引き継ぐ形で1984年に北リアス線・南リアス線として開業した。2011年の東日本大震災では甚大な被害を受けたものの、わずか5日後には一部区間で運転を再開し、2014年までに全線が復旧。さらに2019年にはJR山田線の宮古~釜石間が移管され、久慈から盛までが一本の「リアス線」としてつながり、日本最長の第三セクター鉄道となった。太平洋を望む車窓の美しさと、地域の生活路線としての役割を併せ持つ、まさに地元の希望の光のような鉄道である。

私たちが乗車した区間は北上山地の北側にあたり、海側にはそそり立つ崖が続く。列車は段丘の上を走るが、谷を渡る瞬間には海側の眺望が一気に開け、息をのむような絶景が広がる。海女のガイドは、こうした景観の見どころをタイミングよく丁寧に説明してくれた。

沿線の特産品の話も興味深かった。久慈市では世界最古級とされる琥珀(こはく)が産出され、それは中生代白亜紀後期(約8,500万~9,000万年前)の植物樹脂が化石化したものだという。昆虫が閉じ込められた琥珀を見せてもらうと、太古の時間が急に身近になったような不思議な感覚にとらわれた。

また、野田村では意外にも梨の栽培が盛んだという。三陸沿岸は冷涼な季節風「やませ」の影響を受け、本来は果樹栽培に向かないとされる。しかし、和野平(わのだいら)地区には日当たりの良い傾斜地が広がり、この地形を生かすことで甘くみずみずしい梨が育つのだと教えてくれた。厳しい自然環境の中でも工夫を重ね、特産品を育ててきた人々の営みが、その言葉からしみじみと伝わってきた。

普代村の防災への取り組みも印象的だった。漁業が盛んなこの村は、東日本大震災で甚大な津波に襲われたものの、防潮堤や水門が大きな役割を果たし、周辺地域に比べて人的被害が大幅に抑えられたという。明治三陸地震(1896年)と昭和三陸地震(1933年)の教訓から、「被害を二度と繰り返してはならない」という強い決意のもと、昭和期に和村幸得(わむら こうとく)元村長が高さ15.5メートルの防潮堤と水門の建設を決断した。その先人の備えが、2011年の大津波から村民の命を救ったのだ。

あまちゃんガイドは、こうした地域の歴史や暮らしを織り交ぜながら、車窓に広がる景観を次々と案内してくれた。特に眺望の良い場所では、あらかじめ設定された撮影ポイントで列車が一時停車し、乗客がゆっくり写真を撮れるような粋な演出もあった。あまちゃんガイドの絶妙な案内に乗客一同が引き込まれ、旅の時間がひときわ豊かに感じられた。

(写真:野田村の風景。右下は水田風景と野田村防潮堤①、右中は十府ヶ浦海岸駅付近から見た米田水門②、右上は十府ヶ浦海岸の南端③、左上は玉川漁港④、左下は下安家サケマスふ化場 ⑤)

(写真:普代村の風景。左側は堀内(ほりない)駅からの風景で海側は堀内漁港、堀内駅はあまちゃんのロケで袖が浜駅として使われた。右下は国道45線にかかる大沢大橋)

2. 極楽浄土の美しさ、浄土ヶ浜
次の見学地は、昼食も兼ねて訪れた浄土ヶ浜である。ここは岩手県宮古市にある三陸を代表する景勝地で、白い流紋岩(りゅうもんがん)の奇岩と青く澄んだ海が織りなす独特のコントラストで知られる。江戸時代、霊鏡和尚(れいきょうおしょう)がその美しさを「まさに極楽浄土のごとし」と称えたことから、この名が付いたと伝えられている。

先の記事で北上山地の形成について触れたが、浄土ヶ浜の誕生もその長い地質史と深く関わっている。ここを特徴づける白い岩は、約5200万年前(古第三紀)の火山活動によって形成された流紋岩質の岩石である。長い年月の海蝕作用によって岩体が削られ、現在の白く鋭い奇岩群が姿を現した。流紋岩は石英や長石を多く含むため明るい色調となり、浄土ヶ浜特有の白い岩肌をつくり出している。火山活動、地殻変動、波浪の浸食という自然の営みが重なり合い、今日の浄土ヶ浜が形づくられた。

浜に立つと、外海の荒々しさが嘘のように入り江の波は穏やかで、光を受けて海面がきらめき、どこか幻想的な雰囲気に包まれていた。遊歩道を歩けば、白い岩肌の造形美を間近に楽しむことができる。太平洋から昇る朝日は、きっと息をのむほど美しいのだろうと想像が膨らんだ。

昼食をとったレストランは、東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた場所だという。一時は廃業も考えたそうだが、「浄土ヶ浜の素晴らしい景観をこれからも多くの人に伝えたい」という強い思いが支えとなり、再開に踏み切ったのだと聞いた。目の前に広がる美しい入り江を眺めながら、その決断の重さと、地域に根ざして生きる人々の強さに深く胸を打たれた。

(写真:浄土ヶ浜、左下は復興なったレストハウス)

3. 陸前高田 ― 震災の記憶と復興の歩み
前日は大谷翔平選手の話題で盛り上がったが、この日は陸前高田を訪れるということで、同市出身の佐々木朗希(ろうき)選手の話から始まった。男性ガイドとは一歳違いだということもあり、彼にとっても同世代のヒーローとして特別な思いがあるのだろう。

陸前高田は「奇跡の一本松」の言葉通り、街全体が津波によって壊滅的な被害を受けた場所である。佐々木選手の自宅も流され、父親と祖父母を津波で失った。震災後は母親に支えられながら野球を続けたという。震災の深い爪痕と、そこから立ち上がってきた人々の歩みを思うと、胸に迫るものがある。

(1)震災が奪ったもの
陸前高田市が受けた被害はあまりにも壊滅的だった。津波は市街地を一掃し、死者・行方不明者は1,750人以上と、明治以降で最大規模の犠牲を出した。かつての高田松原は、江戸時代から先人が植林を重ね、約7万本もの美しい松林が白い砂浜に沿って数キロにわたり続く、日本屈指の名勝であった。しかし、その市民の誇りであり地域の宝であった松林は、激しい濁流によってほぼ全滅し、市の中心部は広範囲にわたって流失。住宅や公共施設、商店街もことごとく失われ、多くの住民が長い避難生活を余儀なくされた。

(写真:東日本大震災前の陸前高田市街地(ウィキペディアより、建物名追加)、海岸沿いには名勝の松林が、陸地には市街地と田が豊かに広がっている)

(写真:東日本大震災後の陸前高田市街地(ウィキペディアより、建物名追加)、津波でことごとく流失)

(2)復興への歩み
震災後、市は早期の生活再建と産業復興を目指し、2011年12月に「震災復興計画」を策定した。高台移転や防潮堤の整備、大規模な土地のかさ上げなどによる都市再編が進められ、仮設住宅から恒久住宅への移行も段階的に行われた。長期にわたる懸命な取り組みの結果、現在では公共施設や商業エリアの再建が進み、地域の活力を取り戻しつつある。震災から十年以上が経過した今も、陸前高田市は「海と緑と太陽との共生」を掲げ、持続的な地域づくりに取り組み続けている。

(3)震災遺構
まずバスの車窓から見えてきたのは「下宿(おりじゅく)定住促進住宅」である。東側の国道45号沿いに建つ5階建ての市営住宅だが、津波は高さ14.5メートルに達し、4階までを水没させ、5階の床面にまで到達した。内部は非公開だが、押し寄せた津波の圧倒的な高さを無言で伝える震災遺構として、今も当時の姿を留めている。

(写真:下宿定住促進住宅、4階まで水没し、窓・ベランダなどは津波でさらわれた)

続いて「米沢商会ビル」が目に留まる。包装資材の卸小売店だったこの建物は、鉄筋コンクリート造で高さ約14~15メートルという堅固な造りだった。震災時、店主は間一髪で屋上のさらに上にある煙突のトップに避難して一夜を過ごし、翌日ヘリコプターで救助されたという。当時の壮絶な状況を後世に伝えるため、公的支援を受けず店主が個人で維持・保存している、極めて貴重な民間の震災遺構である。

(4)奇跡の一本松と祈り
「東日本大震災津波伝承館」の前でバスを降り、私たちは防潮堤へと向かった。途中にある「旧道の駅高田松原(タピック45)」は、かつて多くの人に利用されていた憩いの場だった。震災の津波で内部は大きく損壊したが、周辺が壊滅する中、逃げ遅れた3名が屋上へ駆け上がり、奇跡的に命を取り留めた場所でもある。

現在、周囲は「高田松原津波復興祈念公園」として美しく整備されており、最新のAI技術を用いた芝刈りロボットが静かに園内を動き回っていた。道すがら、数束の花が手向けられた献花台が目に入る。さらに進むと防潮堤の上部へとつながる橋があり、そこを渡り切ったところで、ガイドの呼びかけにより全員で黙祷を捧げ、震災で亡くなられた方々の冥福を祈った。その後、この地域の被害状況について改めて詳しい説明を受けた。

(写真:高田松原津波復興祈念公園。左上は黙祷した「海を望む場」から東日本大震災津波伝承館を望む。左下は「海を望む場」からタピック45を右手に見ての眺望、中上は防潮堤上の歩道、中下は防潮堤と公園との間を流れる川、右上は植栽された松、かつては名所であった防潮堤の松林の復元を目指している、左下は「海を望む場」からの西側の眺望)

「奇跡の一本松」へと向かう手前のエリアには、復興事業の土砂運搬を支えた巨大ベルトコンベヤーの吊り橋「希望のかけ橋」のコンクリート製基礎(橋脚)が震災遺構として残されている。トラックでは9年かかるとされたかさ上げ工事を、わずか2年に短縮し復興を加速させたこの橋は、上部構造こそ撤去されたものの、残された重厚な基礎が当時の圧倒的な事業規模と人々の熱意を今に伝えている。

その遺構を通り過ぎた先に、一本松が静かに立っている。津波によって約7万本の松林が失われる中、ただ一本だけ津波に耐えて立ち続けた松である。その後、塩害などにより枯死してしまったが、現在は防腐処理を施したモニュメントとして保存されている。保存・モニュメント化には1億5千万円という巨費を要したため、当時は「復興期に無駄遣いだ」という批判もあったそうだが、当時の市長は「震災の記憶を長く未来にとどめる象徴になる」と信念を貫いて建造を決断したという。今、こうして国内外から多くの人々がこの地を訪れ、祈りを捧げている姿を見ると、その先見性と強い意志の意義深さを強く感じる。

一本松の背後には、同じく震災遺構である「陸前高田ユースホステル」が、津波で大破した当時の姿のまま保存されていた。一本松の背後には、同じく震災遺構である「陸前高田ユースホステル」が、津波で大破した当時の姿のまま保存されていた。当時は冬季休館中だったため、幸いにも館内での犠牲者は出なかったという。また、近くの「気仙中学校」でも、津波によって甚大な被害を受けた旧校舎が震災遺構として保存されており、私たちは自然の脅威と、忘れてはならない記憶を胸に刻みながら、その地を後にした。

(写真:左上は旧気仙中学校、左下はタピック45、中上は奇跡の一本松、中下は「希望の橋」の橋脚、右は陸前高田ユースホステルと新たに設けられた水門)

復興の歩みは今も続いている。三陸の海と人々が歩んできた時間の重みを胸に刻みながら、私たちはこの日の宿泊地、南三陸町へと向かった。

断崖とリアスのあいだで──三陸が教えてくれた地球の記憶

東日本大震災から年月が過ぎた今、被災地がどこまで復興しているのか気になっていた。ちょうど三陸海岸を巡るツアーがあり、参加して自分の目で確かめてみようと思った。

おそらく中学生のころだったと思うが、社会科の先生から「三陸地方はリアス式海岸で、大きな津波に襲われることがあります」と教わったことを鮮明に覚えている。入り組んだ湾が津波のエネルギーを集中させ、場所によっては想像を超える高さまで津波を駆け上がらせるという説明だった。

ところが今回のバスガイドは案内を始めてすぐに、「三陸海岸の北部は直線的で、南部がリアス式です。北部は陸地が隆起して断崖となり、南部は地盤が沈下して谷が海に沈み込み、複雑な地形になりました」と語った。この説明を聞いた瞬間、これまでの理解と異なることに気づき、軽い違和感を覚えた。三陸海岸のすべてがリアス式ではないらしい。それではリアス式でない海岸では津波はどのように振る舞うのか。そして、なぜ北と南でそのような地形的な違いが生じたのか。新たな疑問が次々と浮かんできた。

もっとも、若いガイドにそこまでの地質的背景を求めるのは酷でもあり、詳しい調査は帰宅後に回すことにした。旅行中はまず、北部と南部でどのように地形が異なるのか、自分の目で確かめることに集中した。

今回の旅は二泊三日で、岩手県の太平洋側を北から南へ、さらに宮城県北部まで縦断する行程である。初日は、新幹線で盛岡に向かい、そこから神秘的な地底湖で知られる龍泉洞を訪れ、断崖海岸として名高い北山崎でクルージングを楽しみ、田野畑村に宿泊する。北上山地を横断する一日だ。

(図:初日の行程、青森から田野畑村まで、北上山地を横断)

日本列島は四つのプレートの境界に位置し、東北地方の東側の日本海溝では太平洋プレートが沈み込み続けている。このため東西方向の圧縮を受け、東北地方には隆起帯と沈降帯が帯状に並んでいる。東から順に、隆起した北上高地、沈降した北上川低地帯、再び隆起する奥羽山脈、その西側に沈降する内陸盆地列、さらに出羽山地を経て日本海側の海岸平野へと続く。この隆起帯には古い地層が残されており、これから向かう北上山地もその一つである。

新緑に覆われた北上山地の山道を、バスはゆっくりと進んでいく。険しい山というより、どちらかといえば穏やかな山並みだ。ガイドは我々を眠らせまいと、見どころを紹介したり、歌やクイズを披露したりと工夫を凝らす。それでもバスの心地よい揺れが眠気を誘う。

今回のバスガイドは男性で、バスガイド自体が減っている中、男性ガイドはさらに珍しく、全国的にもあまり多くないという。入社四年目とのことで、とにかく若い。ツアー客の多くは年配の女性で、彼はまるでアイドルのような人気ぶりだ。さすがに黄色い声が飛ぶわけではないが、彼が話すたびに相槌が入り、車内が和む。彼も心得たもので、どこで何を買うとよいか、何を食べるとよいかを熱心に紹介する。次の休憩地「道の駅 三田貝分校」でのおすすめは、揚げたての「揚げパンきなこ」だった。小学校の給食の定番だったのだろう。私たちもいただき、懐かしい気持ちになった。

次は最初の見学地である龍泉洞だ。岩手県岩泉町にある日本三大鍾乳洞の一つに数えられ、世界有数の透明度を誇る地底湖をもつ石灰岩洞である。古生代末期、北上山地が海底だった時代に、有孔虫やサンゴの殻が堆積してできた安家石灰岩が母体となり、その後の隆起で地上に現れた。石灰岩に浸透した雨水が長い時間をかけて溶食し、断層や節理に沿って洞窟が発達した。現在確認されている総延長は4,000m以上で、内部には水深98mの第三地底湖をはじめ、青く澄んだ地底湖が点在する。豊富な湧水、多彩な鍾乳石、そしてコウモリ類の生息地としても知られ、国の天然記念物に指定されている。

(写真:上の左は第一地底湖で水深は35メートル、中は第三地底湖で水深は98メートル、右は第二地底湖で水深は38メートル。下の左は第二地底湖、中は鍾乳洞入口付近、右は第一地底湖)

(写真:様々な形を作る石筍。左は洞窟ヴィーナス。中は上が守り獅子、下が亀石、右は上が石柱、下が地獄岩)

岩泉町を後にして再び海岸方面へ向かう。車窓からは岩手の豊かな自然が続く。ガイドの紹介によると、岩手県の誇りである大谷翔平選手の好物として知られ、「世界一」と評したとも紹介されるのが、ここ岩泉のヨーグルトだそうだ。その工場を横目に見ながら、バスは次第に海へと近づき、北山崎断崖クルーズ船乗り場へと向かう。

これまで夏を思わせる暑い日が続いていたのに、旅行初日は冬が戻ったかのように気温が10度ほど。運悪く雨も降っている。クルーズ船は外洋に出るため、波が高いと欠航になる。この日も心配されたが、出航できるとの連絡が入り、ガイドは「皆さんはとてもラッキーです」と喜んだ。出航率は五割ほどだという。ただし揺れが大きいとのことで、酔い止めを飲む人もいた。ガイドは酔い止めのツボまで教えてくれた。

パンフレットによれば、北山崎断崖クルーズは島越港から出航し、高さ約200メートルの断崖を海上から見上げる迫力ある景観を楽しむ約50分の遊覧である。海食によって刻まれた奇岩や白亜紀(約1.45億年前〜6600万年前)の地層を間近に観察でき、三陸北部の隆起による直線的な海岸地形を実感できる点が大きな魅力だと紹介されていた。

しかし当日は外洋の揺れが大きく、雨も降っていたため、見学は室内からにした。崖側の席の方が眺望は良いのだが、出遅れたため海側の席に座ることになった。このあたりはウミネコが多く、船内では餌としてパンも販売されていた。しかし寒さのため外に出る人は少なく、購入者はわずかだった。その一人は香ばしさに惹かれたのか、「おいしい」と言いながら半分ほど自分で食べてから外へ出ていった。

やがて、窓越しに見事な断崖が姿を現した。切り立った岩壁をつくり上げた波の力の大きさに、思わず息をのんだ。

(写真:北山崎断崖クルーズ船からの眺望)

宿泊地は羅賀湾に面したホテル羅賀荘である。この十階建てのホテルは、東日本大震災の際、三階の高さまで津波が押し寄せたという。ホテル側は、地震発生直後に到着していた宿泊客を、ホテルのバスで高台にある村営施設へ避難させた。その後、従業員たちは五階に集まり、海の様子を見守っていた。

やがて第一波が港の堤防付近で渦を巻きながら押し寄せ、続いて恐ろしいほどの高さの第二波がホテルを直撃した。その衝撃で生じた風圧によりエレベーターのドアが吹き飛ばされ、従業員たちは吸い込まれそうな風圧に必死で耐え、壁にしがみついて身を守ったという。その後、階段を使って十階まで避難したとのことである。

震災後、このホテルは被災者の宿泊場所として利用され、従業員と宿泊者が協力しながら困難を乗り越えたという。営業再開にこぎつけたのは、震災から1年8か月後のことであった。

(写真:羅賀湾の眺望、上中央がホテル羅賀荘で、三階まで津波が押し寄せた)

(写真:羅賀ふれあい公園、左は明治、昭和、東日本大震災の慰霊碑、右上は津波で運ばれたと伝承されていたがそうではないことが近年判明、右下は明治29年の明治三陸大津波により打ち上げられた津波石)

三陸の景観は美しい。しかし、その美しさを生み出した地形は、ときに大きな災害ももたらす。帰宅後、北と南でなぜこれほど違うのかを改めて調べてみると、地質学的な背景が少しずつ見えてきた。

北上山地と三陸海岸の地質学的成り立ち
北上山地の成り立ちは、起源の異なる二つの地質帯が長い地質時代を通じて移動・集積し、接合したのち、火成活動や地殻変動を経て現在の姿に至った過程である。

1. 始まりは「別々の場所」で生まれた地層だった
(古生代〜中生代:約5億年前〜1.5億年前)

まず、南部北上帯と北部北上帯が独立した地質体として存在していた時代にさかのぼる。

南部北上帯
古生代(約5億年前〜2.5億年前)、現在の日本列島付近ではなく、ゴンドワナ大陸縁辺の低緯度海域に位置していたと考えられる。温暖な浅海ではサンゴ礁が発達していた。

北部北上帯
主にデボン紀〜ペルム紀(約4.2億年前〜2.5億年前)に海洋プレート上で形成された深海性堆積物や海山起源の岩石から構成される。一部にはジュラ紀の地質体も含まれる。龍泉洞の母体となる安家石灰岩はこの北部北上帯に属し、古生代末期の浅海で堆積した石灰岩である。

これらの地質体はプレート運動によって日本列島側へ運ばれ、現在の位置に集積した。

2. プレートに運ばれ、一つに合体する
(中生代ジュラ紀〜白亜紀前期:約1.8億年前〜1億2千万年前)

次に、プレートの沈み込みに伴って南北二つの地質帯が接合していく段階を迎える。

海洋プレートが陸側プレートへ沈み込む際、海洋プレート上の堆積物や海山が上盤側に削り取られ、陸側に押しつけられて積み重なる。この「付加」の過程が長期間続き、ジュラ紀後期〜白亜紀前期(約1.6億〜1.2億年前)にかけて南部北上帯と北部北上帯の接合が進み、現在の北上山地の骨格が成立した。

3. マグマの注入と、長い時間をかけた平坦化
(白亜紀後期〜新生代:約1億年前〜数千万年前)

白亜紀後期(約1億年前〜6600万年前)には、北上山地の地下深部で大規模なマグマ活動が起こり、花崗岩類が広く貫入した。これらは現在の北上山地の強固な基盤を構成している。

その後、新生代(約6600万年前以降)には長期間の侵食が進み、かつて起伏の大きかった山地は削られて小起伏の侵食面が形成された。種山高原(中部)や袖山高原(北部)などの平坦な高原地形は、この侵食小起伏面の名残である。

4. 地盤の動きと海面の上昇が、北と南の明暗を分けた
(第四紀〜現在:約260万年前〜現在)

第四紀には、地殻変動と氷期・間氷期の海面変動が重なり、現在の三陸海岸が形成される重要な局面を迎えた。

● 北部三陸(宮古市以北)
北部三陸では、新生代前半に形成された平坦な高原状地形が強い隆起運動によって押し上げられ、海岸線には段丘が発達した。隆起した平坦面の東端は太平洋の強い波浪によって侵食され、高さ100mを超える海食崖が連続する断崖海岸が形成された。北山崎や鵜の巣断崖がその代表例である。

● 南部三陸(宮古市以南)
南部三陸では、長期間の河川侵食によって深い谷が形成されていた。最終氷期最盛期(約2万年前)には海面が現在より100m以上低下し、河川は谷をさらに深く刻み込んだ。

ガイドもそのように指摘していたが、かつては「陸地自体の沈降」が主因と考えられていた。しかし近年の研究では、南部三陸は北部ほど強い隆起を受けず、地殻変動が比較的穏やかであったことが明らかになっている。つまり、北部のように地盤が大きく持ち上がらなかったため、氷期後の海面上昇の影響をより強く受け、谷が深く入り込んだリアス地形が形成されたのである。

こうして上昇した海面が深く刻まれた谷へ入り込み、谷が沈水して溺れ谷となり、複雑な入り江と岬からなるリアス海岸が成立した。

総括
北上山地と三陸海岸の形成は、古生代以来の地質体形成、中生代の接合と火成活動、新生代の侵食、そして第四紀の地殻変動と海面変動が重なり合うことで進んできた。

北部では地盤が大きく隆起して波に削られ、圧倒的な断崖絶壁が形成された。一方、南部は隆起が穏やかだったため海面上昇の影響を受け、複雑で美しいリアス海岸が生まれた。

この地形の違いは、旅の始まりに抱いた「リアス式でない海岸では津波はどのように振る舞うのか」という疑問への答えにもつながっている。南部のリアス海岸では、奥へ進むほど狭まる湾の形状が津波のエネルギーを集中させ、波高を増幅させる。これに対して北部の断崖海岸では、リアス海岸ほど湾奥での波高増幅は起こりにくい。しかし外洋に面した場所では、大きな波力を伴った津波が海岸へ直接作用し、地形条件によっては急な斜面や谷筋を駆け上がることがある。

十階建てのホテル羅賀荘の三階まで津波が押し寄せ、凄まじい風圧がエレベーターのドアを吹き飛ばしたという証言は、津波の巨大なエネルギーが海岸地形と組み合わさることで、想像を超える被害を生むことを生々しく物語っている。

長大な時間の積み重ねが現在の三陸海岸の対照的な景観を生み出し、それが災害の性質をも変える。今回の旅を経て、点として存在していた机上の知識と被災地の現実、そして地球の歴史が一本の線として結びついたように感じた。

佐藤彰一著『宣教のヨーロッパ 大航海時代のイエズス会と托鉢修道会』を読む

作品『沈黙』と問題意識の提示
江戸時代初期、幕府はキリスト教を禁制とし、信徒に対して激しい弾圧を加えた。『沈黙―サイレンス』は、遠藤周作の小説『沈黙』を原作とする映画であり、信頼する司祭が棄教したという噂の真偽を確かめるため、日本へ密入国した二人の宣教師の姿を描いている。

五島列島にたどり着いた宣教師たちは、苛烈な弾圧のなかでも信仰を守り続ける信徒と出会う。布教活動は当初こそ順調に進むが、彼らの潜伏を察知した幕府は村に宣教師の引き渡しを要求する。宣教師を守ろうとした村人たちは激しい拷問を受け、次々と処刑されていく。その姿を目の当たりにした宣教師は深い苦悩に沈み、やがてその一人は「なぜ神は、これほどの苦しみの中で沈黙しているのか」と問いかける。

映画では、二人の宣教師のうち一人は拷問の末に溺死し、もう一人は苦悩の果てに棄教して幕府から職を与えられ、日本で生涯を終える。彼の遺体は仏式で火葬されるが、その手には密かにキリスト像が握られていた。

この映画は十年ほど前に公開されたが、鑑賞後、「なぜ人は命を賭してまで信仰を守ろうとするのか」という問いが強く胸に残った。そして、この問いを深めるうちに、キリスト教が歴史の中でどのように広まり、どのような葛藤を抱えてきたのかを知りたいと思うようになった。以前、山内進の著書『北の十字軍』を読み、異教地域への十字軍遠征と植民活動を進めたドイツ騎士修道会の存在を知った。一方、日本が戦国時代にあたる16世紀、カトリックは武力ではなく、主として宣教活動を通じてヨーロッパ外の各地へキリスト教を広めようとした。このような動きを理解するため、『宣教のヨーロッパ』を読んだ。

16世紀キリスト教世界とイエズス会の形成
16世紀のキリスト教の変化としては、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンによる宗教改革がよく知られている。同じ時期、世界各地への布教活動という観点から見ると、修道会、なかでもイエズス会の活躍は特に注目に値する。

当時のカトリック教会では、腐敗や規律の緩みが深刻化していた。キリスト教では、人は原罪を負って生まれ、救済は神の恩寵によって与えられると考えられていた。しかし、中世末期の教会では、その救済をめぐる実践が大きく形骸化していた。実際には、贖宥状が金銭と結びつき、乱用される例も見られた。また、一人の司教が複数の司教区を兼任して多額の聖職禄を得たり、司教が自らの司教区を訪れずに牧会の務めを十分に果たさなかったりする例も見られた。さらに、聖書の内容を十分に理解していない聖職者さえ存在した。

こうした状況を是正し、本来の信仰の姿を回復しようとして、宗教改革者たちは聖書を重視し、救済は教会制度や聖職者の仲介ではなく、神への信仰によって与えられると考えた。また、「万人祭司」という思想のもと、すべての信徒が神の前では平等であるとされた。こうした状況のなかで、宗教改革がヨーロッパ全土に広がるにつれ、カトリック教会内部でも自己改革の必要性が強く意識されるようになった。大きな転換点となったのが、トリエント(トレント)公会議であった。

この公会議に先立ち、カトリック内部でも改革の動きが見られた。ルネサンス以来の潮流を受け、古代ギリシア・ローマの文献に立ち返り、人間の理性や尊厳を重視する学問・文化運動が広がっていた。この思想は人文主義と呼ばれ、デジデリウス・エラスムスはその代表的人物である。人文主義は原典に立ち返る姿勢を通じて、教会の在り方を批判的に見直す知的風土を生み出した。

カトリックの司教の中にも人文主義を尊重する人物が現れ、ジョヴァンニ=マッテオ・ギベルティは聖職者としての模範的な姿を実践した。また、イグナティウス・デ・ロヨラは、従来の修道会とはやや異なる性格をもつイエズス会を創設した。イエズス会士は、修道会の三つの誓願(清貧・貞潔・服従)に加えて「教皇への特別な服従」という第四の誓願を立てた。彼らは高度な教育を受けた司祭として活動し、各地で宣教や教育に従事した。

トリエント公会議は当初、カトリックとプロテスタントの和解も視野に入れて召集されたが、実際にはプロテスタントの参加は限定的で、会議の主導権はイタリア系聖職者が握っていた。そのため、プロテスタント側からは「イタリア人による地方公会議」にすぎないと批判されることもあった。また、ペストの流行やイタリア戦争などの影響によって中断が繰り返され、開会から閉会まで十八年を要した。当初は参加者も少なかったが、閉会時には約二百三十名が出席し、カトリック教会の再建に向けた強い意思が示された。

トリエント公会議では、教義の明確化と規律の刷新という二本柱によって、カトリックの立て直しが図られた。特に重要な決定として、次のようなものが挙げられる。

  • 聖書と聖伝の権威の確認:啓示の源泉は聖書だけでなく聖伝にもあるとし、教会の解釈権を重視した。
  • 七つの秘跡の再確認:洗礼・聖体など七つの秘跡を正統なものとして確認した。
  • 実体変化説の確認:ミサにおいて、パンと葡萄酒がキリストの体と血へ実体変化すると確認した。
  • 義認論の明確化:救いは神の恩寵によるが、人間は自由意志によってそれに応答すると考えた。
  • 司教の定住義務:司教は自らの司教区に居住し、司牧を怠ってはならないと規定した。
  • 神学校の設置:聖職者教育を充実させるため、各教区に神学校の設置を義務づけた。
  • 贖宥状をめぐる乱用の禁止:金銭と引き換えに贖宥状を販売するような乱用を禁止した。

このように、トリエント公会議は教義と組織の両面からカトリック教会の再建を進め、その後の対抗宗教改革の方向性を決定づけた。そして、この改革によって活性化したイエズス会は、日本を含む世界各地で積極的な宣教活動を展開していくことになる。

イエズス会の創設者は、前述したイグナティウス・デ・ロヨラである。彼はスペインのバスク地方に生まれた小貴族(ヒダルゴ)階層の出身であった。若い頃は騎士道に憧れ、イタリア戦争に従軍して負傷する。その後、療養中に聖人伝やキリスト伝を読んだことをきっかけに回心し、洞窟での苦行や聖地巡礼を経て、より深い神学的知識の必要性を自覚してパリ大学へ留学した。ここで出会った仲間たちが、後にイエズス会の創設メンバーとなる。その中には、小貴族出身のフランシスコ・ザビエルも含まれていた。

学業を終えた彼らはローマへ赴き、教皇への奉仕を願い出た。そして、教皇に直接従属する修道会を組織し、世界各地への宣教に乗り出すことを決定した。この頃、フランシスコ・ザビエルは二人の会士を伴い、インドへ向けて出発している。

イグナティウスはイエズス会の初代総長となり、自身の霊的体験をもとに霊操をまとめた。『霊操』は、四つの段階(罪の黙想、キリストの生涯、受難、復活)を通して自己を省み、神の望む生き方を選び取ることを目的とする精神修養である。イエズス会に入会する者には、この霊操の実践が重視された。

イグナティウスの存命中にイエズス会士の数はすでに千人を超え、彼の死後にはさらに急速に拡大した。会はまずイタリアとイベリア半島で広まり、その後北ヨーロッパへと進出した。さらに、ラテンアメリカや北アメリカにも管区や宣教拠点を設置し、アジア各地にも活動を広げていった。

イエズス会学校では、人文主義教育を基盤とした体系的な教育が行われた。教育課程はラテン語から始まり、人文諸学や修辞学へと進み、ギリシア語も学ばれた。その後、アリストテレス哲学に基づく論理学・自然哲学・形而上学を修得し、最終段階として神学教育が置かれた。この教育体系は後に『ラティオ・ストゥディオールム(学事規定)』として整備され、近世ヨーロッパの教育に大きな影響を与えた。現在でも、多くのイエズス会系学校にその伝統が受け継がれている。

15世紀、ポルトガル王国は王権主導の海外進出を進め、香辛料貿易などによって富を獲得しようとしていた。15世紀末にはヴァスコ・ダ・ガマがインド西海岸のカリカットに到達し、ポルトガルは本格的にインド洋交易へ参入する。

16世紀半ば、フランシスコ・ザビエルはインドのゴアで布教活動を開始した。すでにポルトガルの進出から数十年が経過していたため、フランシスコ会やドミニコ会など、既存の修道会も現地で活動していた。

ザビエルは、ゴアに設けられた学校でイエズス会士が教育を担うよう要請され、その運営に力を注いだ。この学校は後に、アフリカやアジアでの宣教活動を支える人材育成の重要な拠点となった。

その後ザビエルは、日本での約二年間の滞在を含め、十年近くにわたってアジア各地を巡り、最終的には中国布教を目指して広東沖の上川島で没した。当時の報告書では数百万人を改宗させたとも語られるが、実際には誇張が含まれていたと考えられている。

日本宣教史と近代の信徒発見
日本に最初のポルトガル船が到着したのは、1542年あるいは1543年のことである。中国との密貿易に従事していたポルトガル人を乗せた船が嵐に遭い、種子島へ漂着したのが始まりであった。漂着を契機に日本との接触を得たポルトガル商人は、やがて日本銀が中国貿易で莫大な利益を生むことを知り、日本を重要な銀供給地として位置づけるようになった。当時の中国では、生糸や絹織物の取引に大量の銀が必要とされており、ポルトガル商人は日本銀を中国へ運ぶことで大きな利潤を得たのである。日本は世界有数の銀産出地であったため、東アジアの交易網において欠かせない存在となっていった。

そのころ、フランシスコ・ザビエルはマラッカで日本人のアンジロウ(ヤジロウ)と出会う。ザビエルは、アンジロウが理性的で学習意欲に富んでいることに感銘を受け、日本は宣教に適した土地であると考えるようになった。1549年、ザビエルは鹿児島に到着する。島津貴久は、ザビエルを受け入れることでポルトガル商人との交易が可能になると期待したが、その見込みが薄いことを知ると、キリスト教への統制を強めた。そこでザビエルは平戸へ移り、松浦隆信の保護を受けた。平戸は当時、ポルトガル商船も来航する貿易港として栄えていた。

やがてザビエルは、戦国大名たちがポルトガルとの交易を通じて勢力を強めようとしていることに気づく。そこで、日本全国での宣教を実現するためには将軍の許可が必要であると考え、京都へ向かった。しかし、将軍権力が衰えていることを知り、山口の大内義隆を頼ることになる。山口では一定の保護を受けて布教活動を行った。その後、ザビエルはインド方面のイエズス会運営に携わるため、日本を去った。

その後、日本での布教を引き継いだのがコスメ・デ・トーレスである。大内義隆が家臣の陶晴賢によって滅ぼされると、宣教師たちは豊後の大友義鎮(のちの宗麟)の保護を受けるようになった。大友氏の支援のもとで布教活動は筑前・豊前へも広がった。また、宣教師たちは貧民や社会的弱者への布教や救済活動にも力を注ぎ、施療院などを設けた。しかし、こうした活動は一部の武士や住民から反発を招くこともあった。

その後、イエズス会の主要拠点の一つは、キリシタン大名・大村純忠の保護を受けた大村へと移っていった。この地域でキリスト教が広がった背景には、領主たちがポルトガルとの交易によって商業的利益や軍事的利益を得ようとした事情もあった。こうした点については、イエズス会士たちも十分に認識していた。

大名の保護と交易利益が布教の背景にあった点は、天草諸島や五島列島でも同様であった。転機となったのは、1579年にアレッサンドロ・ヴァリニャーノがイエズス会東インド巡察師として日本を訪れたことである。彼は、日本人にキリスト教を受け入れてもらうには、日本人の価値観や作法に合わせる必要があると考え、順応政策を推進した。すなわち、宣教師に対して、日本式の礼儀や服装、言葉遣いを学ぶよう求めた。たとえば、日本人と会う際には礼を尽くすこと、身なりを整えること、日本社会の上下関係を尊重することなどを重視したのである。

また、ヴァリニャーノは、日本人自身が聖職者となることが重要であると考えた。そこで、神学校(セミナリヨ)や修道士養成施設(ノビシャド)などを整備し、日本人教育を進めた。これは、「外国人が支配する宗教」ではなく、日本人自身による教会を育成しようとする発想であった。さらに、日本のキリシタン少年たちをヨーロッパへ派遣することも企画した。これが1582年に出発した天正遣欧少年使節であり、ローマ教皇への謁見、ヨーロッパ文化の視察、日本への理解促進などを目的としていた。

こうした順応政策や大名層との結びつきによって、日本におけるキリスト教は急速に発展した。しかし、1587年、豊臣秀吉が伴天連追放令を出したことで、宣教活動は大きな制約を受けるようになる。さらに、江戸幕府によって禁教政策が進められ、キリスト教徒に対して厳しい弾圧が加えられた。

この後、再びキリスト教が公然と認められるようになるのは、約250年後、開国後のことである。フランスの宣教師たちは長崎に教会を建設した。代表的なのが、1864年に完成した大浦天主堂である。これは在留外国人のための教会であった。

1865年、この大浦天主堂を訪れた浦上村の人々が、フランス人司祭のベルナール・プティジャンに対し、「私たちの心はあなたと同じです」と告げた。彼らは、マリア崇敬、独身の司祭、ローマ教皇への信仰などを確認し、自分たちが密かに守り続けてきた信仰と同じであることを確かめた。これはヨーロッパ側にとって非常に大きな衝撃であった。宣教師が追放されてから二世紀以上が経過していたにもかかわらず、日本に信徒共同体が存続していたからである。この出来事は「信徒発見」と呼ばれている。なお、この時点ではまだ禁教政策は続いており、その後も浦上の信徒たちは弾圧を受けた。しかし、明治政府は1873年にキリスト教禁制を撤廃した。

また、2018年には長崎と天草地方の潜伏中のキリシタン関連遺産が世界文化遺産として登録された。二世紀以上にわたり密かに信仰を守り続けた人々の歴史は、世界史の中でも特異な宗教体験として高く評価されている。

結語:信仰と超越的存在をめぐる比較考察
「なぜ人は命を賭してまで信仰を守ろうとするのか」という問いに対しては、当時の時代背景を踏まえて考える必要がある。16世紀ヨーロッパでは、神という超越的存在の実在を前提として社会や思想が組み立てられており、信仰は人間の生と死を貫く根本的な枠組みであった。とりわけキリスト教では、人間は生まれながらに原罪を負い、その赦しは神の恩寵によってのみ与えられると考えられていた。このような世界観のもとでは、神を裏切ることは永遠の救いを失うことを意味し、命の危険に直面しても信仰を守ろうとする行動は、彼らにとって必然に近い選択であったといえる。

キリスト教、とりわけイエズス会が世界へ広がっていった背景には、その強固な組織力と知的基盤があった。高度な教育を受けた宣教師たちは、各地で布教と教育に従事し、神学校をはじめとする教育制度を整備した。こうした活動は信徒の育成にとどまらず、人々の教養を高め、近代以降の学問の発展にも少なからぬ影響を与えたと考えられる。

16世紀ヨーロッパの人々にとって、超越的存在とは神であった。しかし現代では、科学技術の進歩によって、超自然的な力を社会全体で自明視することは少なくなった。その一方で、人類は自らの制御を超える可能性をもつ人工知能を生み出しつつある。16世紀ヨーロッパの人々が神という超越的存在と向き合っていたのに対し、現代人は自らが創り出した新たな「超越的存在」と向き合おうとしているのである。超越的な力と人間がどのように向き合うべきかという問いは、形を変えながら、なお現代にも続いている。

戸塚宿を歩く ― 地形と浮世絵が語る歴史の道

初夏の爽やかさを味わえる季節になった。だが近年は、気候変動の影響もあってか、この心地よい時期がずいぶん短くなっているように感じる。澄んだ空気と柔らかな陽射しに包まれるひとときは、いまではどこか貴重なものになりつつある。そんな五月のある日、仲間に誘われて、かつて旅人たちで賑わった戸塚宿を訪ねることになった。

横浜市は戸塚宿を紹介するために立派な案内図を用意しているが、そこに記されているのは「○○跡」といった名称が多く、現地には「旧東海道 道しるべ」がひっそりと立つばかりである。建物が残っているわけではないため、往時の姿を思い描くには、こちらの想像力を働かせるしかない。

その想像力を支えるには、まず土地の成り立ちを知っておく必要がある。戸塚は現在では横浜市に属しているため、つい武蔵国の延長のように思いがちだが、江戸時代までは相模国鎌倉郡に属していた。正月の箱根駅伝で難所として知られる権太坂を登り切ったあたりが、ちょうど武蔵と相模の国境にあたる。そしてここは、東京湾側と相模湾側の流域を分ける、地形上の重要な分水嶺でもある。

この地域は丘陵地帯で、三浦半島へと連なる三浦丘陵の北端部に位置する。戸塚の市街地は、柏尾川によって大きく刻まれた谷に形成されている。明治期の地図を見ると、その谷底の大半が水田として利用されていたことがよくわかる。昭和初期までは、この季節になると田植えに励む農家の姿が、谷のあちこちに見られたことだろう。

柏尾川は下流で境川に合流し、川はそのまま藤沢方面へ南下して相模湾へ注ぐ。この一帯は典型的な沖積低地である。律令国家が東海道を整備した際、この地域で安定して通行できる連続した低地は一つしかなかった。それが、相模野台地と三浦丘陵に挟まれ、藤沢・戸塚・保土ケ谷・神奈川へと続くこの谷筋である。まさに地形そのものが、古代の交通路をこの谷筋へと導いたのである。

江戸時代になると、この自然の回廊に宿場が置かれた。戸塚宿は江戸から五番目の宿場で、日本橋からおよそ四十キロメートル。江戸時代の旅人が一日に歩く距離とされた「十里(約四十キロ)」にあたり、多くの旅人にとって最初の宿泊地となった。天保十四年(1843)の『東海道宿村大概帳』には、家数六百十三軒・人口二千九百六人・本陣二・脇本陣三・旅籠七十五と記されており、東海道でも屈指の大宿場であったことがわかる。

歌川広重は『東海道五拾三次』で街道沿いの宿場や旅の風景を描いているが、戸塚宿もその一つである。今回の散策の目的は、戸塚宿の江戸方半分を歩きながら、広重が描いた情景の背景に潜む「地形と歴史の秘密」を読み解くことにあった。

(図:明治36年と現在の戸塚付近の地図(今昔マップより)。柏尾川に沿って北から南へと谷が広がっている様子がはっきりとわかる。)

待ち合せ場所にした戸塚駅地下改札口には、戸塚を象徴するモニュメントとして、広重が描いた浮世絵の復元パネルが大きく掲げられていた。ここで案内役の友人から、この絵に隠された“謎解き”のヒントを受け取った。

広重の絵には、橋の袂のにぎわいが描かれている。戸塚は鎌倉道や大山道の分岐点であり、画面には「左かまくら道」と記された道しるべが立ち、その脇には灯籠が添えられている。手前には「こめや」という旅籠があり、軒先には大山詣での講中名が掲げられている。旅籠は休憩所としても機能していたようで、案内の女中、馬から降りたばかりの旅人、杖を手にひと息つこうとする女性の姿などが描かれている。橋の上には僧形の老人がこちらへ向かって歩いてくる。左奥には大山と思しき山影がそびえ、右側には家並みが連なって画面に奥行きを与えている。

(図:歌川広重『東海道五十三次 戸塚』(出典はWikimedia Commons))

こうした構図を頭に刻み込み、広重が見たであろう風景と現在の戸塚を重ね合わせながら、戸塚宿の探検が始まった。まずはバスで谷が大きく開く地点まで向かい、そこから旧東海道をたどるようにして駅方面へ戻ることにした。

バスが戸塚駅前の商店街を抜けると、ほどなくして進行方向左手にブリヂストンの大きな工場が姿を現した。その先にも工場群が続き、谷底の広がりが車窓越しにもよくわかる。バスを降りると、どこからともなく甘いパンの香りが漂ってきた。香りの先には、ヤマザキ製パンの工場があった。現在の戸塚には多くの企業が進出しているが、その先駆けとなったのがブリヂストンで、進出は1938年のことだという。谷底の広い土地と交通の便の良さが、工業地帯としての発展を後押ししたのだろう。

旧東海道を下っていくと、かつての施設や遺構の跡が点々と記されている。宿場の出入口には「見附(みつけ)」と呼ばれる番所が置かれ、戸塚宿では江戸見附と上方見附が約二・二キロメートルほど離れて設けられていた。今回はまず江戸方見附跡を確認した。

街道には一里ごとに一里塚が築かれたが、ここには吉田一里塚跡が残されている。また、宿場には「問屋場(といやば)」が設けられ、公用の馬や人足の手配、公用書状の継ぎ立てなどを統括していた。戸塚宿では矢部・吉田・戸塚(中宿)の三か所に問屋場が置かれ、今回はそのうち最も江戸寄りの矢部町問屋場跡の標柱を確かめた。
(写真:東海道沿いの道しるべ。左上は吉田一里塚跡、左下は江戸方見附跡、中は旧東海道、右は江戸方見附跡)

さらに、戸塚は鎌倉道と大山道の分岐点でもあったため、これらの旧道の分岐も確認した。バスを降りた地点近くには「かまくら道」があり、かつて「鎌倉中道」と呼ばれた古道の一つである。また、大山道への分岐には大山不動が祀られており、大山詣での旅人が道中の安全を祈願した場所であったのだろう。後ほど触れる吉田大橋の手前で左に折れる吉田道も鎌倉道の一つで、近くの妙秀寺には延宝年間(1673〜1680)とされる道標が、どこからか移設されて残っている。

(写真:左上は鎌倉中道、左下は大山不動、右は妙秀寺の道標)

ほかにも戸塚には興味深い逸話がいくつか伝わっている。たとえば、建武の新政期に活躍した護良親王が足利直義により斬首された際、その首がこの地の井戸に現れたという伝承が残る。また、明治初頭にはイギリス人ウィリアム・カーチスが外国人居留民のためにハムの製造を始めたとされ、その後日本人の製造者が次々と現れ、やがて全国へ広まった。「鎌倉ハム」という名は、当初“鎌倉郡で作られたハム”と呼ばれたことに由来するという説もある。現在紹介されている鎌倉ハム倉庫は、その歴史の名残である。

さらに、現在の日立製作所のあたりは昭和初期には地方競馬場であり、そこへ通じる橋は「駒立橋」と名付けられていた。地名や施設の名に、当時の面影が今も受け継がれている。

(写真:左上は鎌倉ハム倉庫、左下は近くのハム製造本舗、中は駒立橋、右は首洗井戸)

さて、いよいよ広重の浮世絵の謎に迫る。彼が描いたとされる場所は吉田大橋で、視線は北から南へ向けられている。実際にその場所に立ってみると、そこに広がるのはごく普通の街並みで、特別な眺望があるわけではない。写真では分かりにくいが、欄干の頭に載る玉ねぎ形の擬宝珠(ぎぼし)だけが妙に印象深く目に映った。

(写真:吉田大橋)

ところが、広重の絵には大山が大きく描かれている。だが現地は低地で、周囲を丘陵に囲まれているため、大山が見えるとは考えにくい。本当に現地を見て描いたのだろうか――そんな疑問が浮かび始めたその時、友人が司馬江漢によるとされる「戸塚・吉田大橋」の図を差し出した*1

その構図は驚くほど広重のものと似ていた。「こめや」の前では女中が旅人らしき男女を迎え、橋の上には老人がこちらへ歩いてくる。背景には旅籠の家並みと、大きく迫る大山が描かれている。馬と馬引きが描かれていない点を除けば、ほぼ同じ構図と言ってよい。

司馬江漢は日本で初めて銅版画を制作し、遠近法を本格的に取り入れた画家として知られる。1992年頃には岐阜で保管されていたとされる五十三次の作品群が発見され、その五十五枚のうち五十枚程度が広重と酷似した構図で描かれていた。江漢の方が先に描いたとされるため、広重が江漢の構図を参照した可能性も指摘されている。ただ、その構図に同じ源流があったとしても、画面に漂う旅情や叙情性においては、広重の表現が際立っているように思われる。

江漢は蘭学を通して西洋画を学び、その構図は広重へと受け継がれ、さらに広重の作品はフランス印象派の画家たちにも影響を与えた。絵画という芸術を介して、西洋と日本のあいだを表現が往還していたことを、改めて実感させられる。戸塚宿を歩きながら、一枚の浮世絵の背後に広がる歴史の大きな流れに触れられたことは、実に貴重な体験であった。

ところが、この記事を書き進めるうちに、事態はそれほど単純ではないことも分かってきた。発見された「江漢画帖」そのものの真贋が、いまだ確定していないのである。本当に司馬江漢の真筆なのか、後世の模写なのか、あるいは広重以後に制作されたものなのかについて、研究者のあいだでも見解は定まっていないようだ。そう考えると、今回の発見を手放しで喜ぶことはできない。しかし、こうした未解決の問題に触れられるところにも、歴史の奥深さと魅力があるのだろう。

*1:對中如雲著『広重東海道五十三次の秘密: 新発見、その元絵は司馬江漢だった』 (ノン・ブック 372)

パンフレット「山手・山下公園を散策する」

横浜の山手と山下を、生涯教育のプログラムで知り合った仲間たちに案内した。ゴールデンウィークも終わり、平日だというのに街は人で溢れかえっていた。初夏を迎え、夏日となる日も多くなってきたが、乾燥したさわやかな空気の中、木陰に入るとひんやりとした冷気を感じる。散策には絶好ともいえる季節である。

山手のバラは、すでに満開の時期を過ぎていた。先週下見に訪れた際が、ちょうど見頃だったようである。さらに、西洋館の内部も案内する予定で計画していたのだが、第二水曜日は休館日で、仲間たちをがっかりさせてしまった。それでも、中華街でのランチは美味しく、会話も大いに弾んだ。

一方、下見の際には訪れなかった山下公園のバラは期待以上に見事で、皆に喜んでもらえた。満開の時期が山手と山下では異なるようで、なぜ海岸線に近い低地の方が遅いのだろうと考えてみたが、納得のいく答えは見つからなかった。

その後、大さん橋へ向かった。そこには、三十五年間の役割を終えた「にっぽん丸」が静かに係留されており、船内で使われていた道具や調度品が運び出されていた。さらに赤い靴バスに乗り、桜木町で明治初期の鉄道車両の復元展示を見学した後、軽食をとって別れた。

この日は、横浜の成り立ちを地学・地理・歴史などの観点から総合的に説明した。お世辞もあるのだろうが、「分かりやすかった」と喜んでもらえた。その際に配布したパンフレットが以下のものである。なお、表紙はパンフレット全文を読み込ませたうえで生成AIに作成させたもので、自分でも驚くほど見事な仕上がりになった。

ブラフの丘から山下へ ― 薔薇の横浜散策

来週、横浜市の人気スポットである山手と山下を案内することになっている。どちらも季節を問わず人が訪れる場所だが、バラが美しい五月はとりわけ賑わう。しかし山手と山下は、名前は似ているが、成り立ちはまったく異なる。山手は太古の海岸地形が隆起してできた台地であり、山下は近世以降の埋立によって生まれた土地である。両者の間にはおよそ30メートルの高低差があり、その境界には急な崖が横たわっている。

歌川広重の傑作『東海道五十三次』の「神奈川」には、神奈川宿の様子が描かれている。画面の中ほどに切り立った崖があり、山手・山下とは場所こそ異なるものの、横浜の地形的特徴をよく示している。また、横浜が開港し外国人居留地が置かれたころ、彼らは山手の崖を見て “Bluff(ブラフ)” と呼んだ。英語で崖を意味する言葉である。元町商店街の中ほどにある百段通りには、山手へと登る急峻な階段がかつてあり、明治時代には観光名所として知られていたという。

(図:左は広重の「神奈川」(出典はWikipedia)、右は「百段階段」(出典はNew York Public Library))

なぜこのような崖ができたのだろうか。地球上のどこかに氷が残り続けているような時代を氷河時代といい、現在は285万年前に始まった「第四紀氷河時代」のただ中にある。第四紀氷河時代には、寒冷な氷期と温暖な間氷期が繰り返され、海面は大きく上下した。そして氷期と間氷期のサイクルは、およそ10万年周期で繰り返される。現在は温暖な間氷期に属している。

寒冷な時期から温暖な時期へ移ると、氷床が溶けて海面が上昇する。よく知られる縄文海進は8000年前から5000年前にかけて起こり、東京湾の海面は現在より2〜3メートル高かったとされる。

同じような海進は、ひとつ前の間氷期にも起きている。約12.5万年前、東京湾では現在より5〜10メートル高い海面が広がり、これを下末吉海進と呼ぶ。現在の山手地区一帯は、この時代には海岸から浅海にかけての環境にあった。その海岸では、波が崖や斜面を削り、海岸近くには平坦な波食台(海食台)が形成された。同時に、砂・礫・泥が海辺に堆積した。

その後、寒冷化による海面低下(海退)と地盤の隆起によって、かつての海岸面が高所に取り残され、現在の下末吉台地となった。山手の急崖は、この海進期の波食作用によって形成された地形の名残である。少し話が込み入っているので、そのイメージをつかむために、ChatGPTに12万年前と2万年前の様子を描いてもらった。正確な描写とは言えないだろうが、地学的な変化を追う上で、理解の助けにはなるだろう。

(図:左は下末吉海進での海岸線(出典は神奈川県立自然博物館)、右は下末吉台地形成の想像図(ChatGPTにより作成))

山手に比べると、山下側の地形はきわめて新しい。山下を含むこの一帯の低地は、江戸時代以前には入海であり、そこへ山手側から砂州が張り出していた。その砂州の上に成立した漁村が横浜村であり、ペリーが二度目の来航で上陸し、幕府と交渉を行ったのもこの地である。

江戸時代初期になると、入海の奥に広がる広大な浅海が、江戸の材木商・吉田勘兵衛によって開発され、吉田新田となった。さらに江戸時代後期には、海側の入海も干拓され、横浜新田・太田屋新田が造成された。

横浜が開港されると、長崎の出島のように、外国人が商売し居住できる区域が制限された。その出入りは吉田橋に設けられた関所によって管理され、内側は「関内」、外側は「関外」と呼ばれるようになった(なお、関内で外国人居留地となったのは山手に隣接する山下で、その北側は日本人用の商業地である)。吉田新田が関外にあたり、横浜新田・太田屋新田および砂州の部分が関内である。現在のJR根岸線は、この関内・関外の境界にほぼ相当する。横浜新田の一帯は、のちに中華街として発展した。

(図:ペリー来航前の横浜(出典はWikipedia、ペリー横浜上陸(出典はWikimedia Commons))

時代が下って明治になると、新橋・横浜間に鉄道が開通した。しかし、このときの「横浜駅」は現在の横浜駅ではなく、現在の桜木町駅である。駅は関内の北側に位置し、鉄道は陸地ではなく、急ぎ造成された埋立地の上を走っていた。当時の錦絵には、蒸気機関車がまるで海の上を走っているかのように描かれている。現在の横浜駅周辺も、明治時代になるまでは海や干潟であった。

山下公園の誕生はさらに後のことである。大正時代の関東大震災で横浜は壊滅的な被害を受けたが、その復興事業の一環として、震災瓦礫を用いて海が埋め立てられ、山下公園が造成された。

今回は、午前中に山手を歩き、昼食を中華街で取り、午後は山下公園を案内する予定である。そのため、見学場所の多い山手を先に下見しておくことにした。最寄り駅は、みなとみらい線の元町・中華街駅である。この駅は高低差が大きく、ホームは地下深くに位置し、山手への入口となるアメリカ山は、これまで説明してきた崖の上にある。エスカレーターは思いのほか長く、いつまでも続くように感じられるほどである。そのため、今回はエレベーターを使った。

(図:山手・山下のバラ園を巡るコース(Google Mapsにより作成))

エレベーターを降りると、ぱっと華やいだ景色が広がる。一面に咲き誇るバラは色彩が鮮やかで、明るい日差しを受けて輝いている。ゴールデンウィークの名残を楽しんでいるのだろうか、園児たちのグループが目につく。仲間と手をつなぎ、列をつくって楽しそうに歩く姿がほほえましい。

(写真:アメリカ山のバラ)

アメリカ山を後にして外人墓地を抜け、港の見える丘公園へ向かう。バラを満喫した後、さらに多くの花を見たいという自然な気持ちに惹かれて、夫婦や恋人たち、友人同士が談笑しながら同じ方向へ歩いていく。途中の気象台や岩崎記念館、そして公園入口付近にも、バラが競い合うように咲き誇っている。爽やかな気分のまま、公園の中へと足を踏み入れる。

(写真:左は横浜地方気象台を背景にした庭園、右上は公園入口付近、その下は岩崎記念館)

まずは、あふれるバラへの期待を少し抑え、港の見える丘公園からの景色を楽しむ。ここは崖の上にあるため眺望がよく、ベイブリッジも大さん橋もよく見える。大型クルーズ船が停泊していないか探してみたが、この日は見当たらなかった。

(写真:左は大さん橋、右はベイブリッジ)

さて、いよいよバラ園の中へと進む。高貴な香りが、さらに奥へと誘ってくる。ゴールデンウィークが終わったとは思えないほど多くの人でにぎわっており、なかなか前に進めない。絶好のカメラスポットを見つけて写真を撮ろうとするのだが、どうしても人が写り込んでしまう。それでも、何枚かは満足のいく写真を収めることができた。

(写真:港の見える丘公園でのバラ園)

この公園の中には横浜市イギリス館がある。昭和初期に英国総領事公邸として建てられた建物で、当時の東アジアでも上位に位置づけられる格式を備えていたという。主屋の一階南側には、西からサンポーチ、客間、食堂が並び、広々としたテラスは芝生の庭へと続いていると紹介されていた。中に入ってみると、こどもの日の飾り付けが施されていた。

(写真:左はイギリス館、右は室内の様子)

次の見学場所はベーリック・ホールである。そこへ向かう道沿いには洋館が立ち並び、日本でよく見かける街並みとは異なる落ち着いた趣のあるしゃれた景観が続く。初めてここを訪れたのは1970年代初め、留学前の健康診断のためにブラフ・クリニック(Bluff Clinic)を訪れた時だった。日本とは勝手の違うアメリカ式の診察に驚いたことを覚えている。

(写真:下部中心から時計回りに、山手十番館、山手資料館、横浜山手聖公会、山手234番館、えの木てい、ブラフ・クリニック。港の見える丘公園から山手通りを歩くと、左側にこの順番で現れる。)

山手はミッションスクールの多い街でもある。さらに進むと、横浜雙葉中学・高等学校やフェリス女子大学の施設が見えてくる。

(写真:左は横浜雙葉中学・高等学校の入口、右はフェリス女子大学の家政科記念館と歴史資料館)

そして、手前に現れるのがベーリック・ホール(Berrick Hall)である。イギリス人貿易商B.R.ベリックの邸宅として、昭和初期に建てられた西洋館で、山手に残る戦前の外国人住宅としては最大規模を誇る。スパニッシュスタイルを基調とした建物は、三連アーチの玄関や小窓、瓦屋根の煙突など外観も華やかで、広いリビングルームや白黒のタイル床を備えた内部にも、往時の豊かな暮らしぶりが感じられる。細部の意匠も美しく、山手西洋館を代表する建物の一つであることがよくわかった。

(写真:左上は全景。その下左は夫人寝室、右は主人寝室、右側は上からリビングルーム、令息寝室、ダイニングルーム)

この後は元町公園を抜け、中華街までの道を確認した。途中、生糸貿易商社の横浜支配人であったフリッツ・エリスマン(Fritz Ehrismann)の邸宅を通り抜け、関東大震災で崩壊した山手80番館遺跡を見学し、さらにジェラールの瓦工場と水屋敷跡で一休みした。アルフレッド・ジェラール(Alfred Gérard)は幕末に横浜へ来たフランス人実業家で、日本初の西洋瓦・レンガの製造を行い、同時に船舶給水業(水屋敷)を営んだことで知られている。

(写真:左はエリスマン邸、右は上より瓦工場と水屋敷跡、その下は山手80番館遺跡)

その後、元町商店街に出て中華街の入口を確認し、下見を終えた。バラが予想よりも早く見ごろを迎えていたようで、この日がちょうど見ごろの盛りだったのかもしれない。一週間後に案内するときには盛りを過ぎてしまうのではと少し心配になったが、それでも十分に楽しめるだろうと感じた。当日、天気に恵まれることを願いながら帰路についた。

多摩丘陵の原風景を歩く――長沼公園と古相模川の痕跡

ゴールデンウィーク最後の日、八王子市の長沼公園を訪れた。東京郊外では宅地造成が盛んに進み、丘陵地や台地の多くがかつての面影を失ってしまった。そのような中にあって、長沼公園は多摩丘陵本来の姿を今に伝える貴重な場所である。

(図:長沼公園と周辺。長沼駅から南下して、庚申塚の前を抜け、「霧降の道」を登り、公園の最南端の頂まで、およそ1kmである。)

南関東の地形は、山地・丘陵地・台地・低地から構成され、一般に山地ほど古く、低地ほど新しいとされる。多摩丘陵も古い地形に属し、長い年月の浸食によって谷戸と呼ばれる細長い谷が深く刻まれている。そのため周辺には起伏に富んだ地形が広がる。私の住む地域にも坂道が多いが、これもかつて多摩丘陵の一部であった名残である。しかし、現在の住宅街から当時の姿を想像するのは容易ではない。その手がかりを与えてくれるのが長沼公園である。

さらに長沼公園には、今日の景観からは想像もつかない地質の記憶も残されている。現在の相模川は神奈川県中央部を南下して相模湾へ注いでいるが、約50万年前の氷期には、多摩丘陵の北側を流れ、東京湾へと注いでいたと考えられている。その痕跡が長沼公園の頂部付近で確認できるという。丹沢山地に由来する礫が残されており、古い相模川の流路を示す証拠とされているのである。

多摩丘陵本来の姿を観察したいという思いに、運がよければ古相模川の礫にも出会えるかもしれないという期待が重なり、私は長沼公園へ向かった。最寄り駅は京王線長沼駅である。横浜線を利用しているため、JR片倉駅か八王子駅で降りて少し歩いて京王線に乗り換える必要がある。八王子での乗り換えは何度か経験しているので、今回は初めて片倉駅で降りてみることにした。

駅舎を出ると、ちょうど目の前に長沼駅行きのコミュニティバスが停まっていた。迷うことなく乗り込むと、先客は親子連れ三人だけ。車内は小型で、座席十五席ほどの可愛らしいバスであった。私の後に乗ってくる人もなく、「選択を誤ったか」と思ってスマホで調べてみると、このバスは「はちバス」と呼ばれ、一日にわずか五本しか運行していないことが分かった。乗れたのは幸運だったが、どうやら近辺の住宅地を巡回する路線らしく、長沼駅に着くまでにはかなり時間がかかりそうである。電車で行った方が早かったかと一瞬後悔したものの、この地域の日常の空気に触れる良い機会だと思い直し、のんびりと成り行きを楽しむことにした。

最初は子ども連れの夫婦と私だけだった車内も、走るうちに次第に混み合ってきた。夫婦が降りたあとは乗客のほとんどが高齢者となり、座りきれないほどの人数になった。多くが顔見知りらしく、元気な高齢者が足元のおぼつかない人に自然と席を譲る光景も見られる。私の隣の女性は、前に立つ知人に「久しぶりね」と声をかける。相手は「一月前に主人が亡くなってね」と静かに答え、「胃がんで、もう手遅れだったの」と続けた。

やがて途中の停留所で多くの乗客が降り、代わって今度はおばあさんたちの一団が乗り込んできた。彼女たちも互いに顔見知りのようで、たちまち車内は談話室のような雰囲気となり、おばあちゃんトークが始まる。話題はファッションにまで及び、明るい笑い声が車内に広がった。どこでもよく見かける光景だが、おじいさんたちはその輪に加わることなく、静かに座っていた。

そんな車内の空気を楽しんでいるうちに、目的地の長沼駅に到着した。公園までは歩いてすぐである。周囲にはかつての里山の名残がわずかに残り、細々と続く田んぼのほか、庚申塔や地蔵、小さな神社の姿も見受けられた。

(写真:里山の面影が残る風景。左上は水田、その左下は峠谷戸地蔵尊、右下は六社宮の鳥居、右側は上から舞殿、庚申塚、本殿である。)

ほどなくして長沼公園の入口に入る。ほんの少し緑の中へ踏み込んだだけで、空気がひんやりと変わるのを感じた。だが、その静けさは長くは続かない。あちらこちらから鳥の声が響き、都会とは異なる自然のリズムに満ちた音が耳に心地よい。石畳の道が整備されているため、山道とは思えないほど快適に歩みを進めることができる。道の片側は深い谷になっており、堰も設けられているが、写真ではその迫力が伝わりにくい。

(写真:「霧降の道」に沿って。左上が入口付近で、公園の案内図がある。道に沿ってクヌギやコナラを中心にした雑木林となっている。)

(写真:深い谷と急流に造られた堰。左側には深い谷、右側には増水時の土石流を止めるための堰がある。)

今回の目的の一つは、古相模川の礫を探すことである。道の側面を注意深く観察しながら進むが、笹や草に覆われて露頭はほとんど見えない。頂上近くでようやく露頭を確認できたものの、それが探していた礫層なのかどうか、確信を持つには至らなかった。

(写真:古相模川の礫と思われる露頭。「霧降の道」の頂付近で、丸く磨かれた石や脆い礫を含んでいる層を探した。)

山道沿いには、数こそ多くないものの、春から夏にかけて咲く野の花が点々と見られた。その中に、ひときわ目を引く青い花の群生があった。おそらくこの地域の保全に努めている「自然を守る会」が名札を付けたのだろう。「ホタルカズラ」と記されていた。草むらに散る青い花を蛍の光に見立てて名付けられたものらしい。

(写真:野の花。左上はオニタビラコ、その下は山つつじ、右上はオカタツナミソウ、その下左はガマズミ、中はタチツボスミレ、右は花弁が6枚のニガナ。)

(写真:ホタルカズラの群生。)

晴れた日には頂上から周囲の山々が見渡せるそうだが、曇天だったこの日は、八王子の街並みが見える程度であった。
(写真:頂きでの風景。頂の公園付近には農園がありジャーマンアイリスが綺麗に咲いていた。また、展望台から八王子の街並みが一望できた)

朝起きて天気を見て思い立つままに出かけた長沼公園だったが、道中のおばあさんたちの明るい会話に元気をもらい、古い礫層を探しながら歩く山道も心地よく楽しむことができた。かつては私の住む地域もこのように自然豊かな環境だったのだろうと思うと、もう少し自然と調和した住宅地のあり方があってもよかったのではないか。そんなことを感じながら帰路についた。

黒田明伸著『歴史のなかの貨幣』を読む──通貨回路から考える貨幣の歴史──

Ⅰ 観光地での米ドル使用という経験

十五年ほど前、アンコール・ワットを訪れるため、カンボジアとヴェトナムを巡るツアーに参加した。出発前の説明会で添乗員から「現地では一ドル札が重宝しますので、多めにご用意ください」と告げられたとき、私は少なからず意外に感じた。海外旅行で十ドル札や二十ドル札を準備することはあっても、一ドル札を束で必要とする経験はなかったからである。

(写真:アンコールワット)

半信半疑のまま銀行窓口を訪れると、「東南アジア方面へのご旅行ですね。一ドル札ならいくらでもご用意できます」と即座に応じられ、不安はあっさりと解消した。しかし旅の最中、私は一つの素朴な疑問を抱くことになった。なぜ自国通貨が存在するにもかかわらず、観光地では米ドルが日常的に受け入れられるのか。

いま振り返れば、そこには旅行者と観光業者のあいだに形成される限定的な交換圏があり、その内部では米ドルが法貨か否かを超えて事実上の決済手段として機能していたと理解できる。この気づきは、のちに黒田明伸が提示した「通貨回路」論を理解するうえで、一つの入口となった。

Ⅱ 貨幣価値はどこで形成されるのか

黒田明伸『歴史のなかの貨幣』は、貨幣価値が国家権力によって一元的に付与されるという通念を批判し、貨幣価値は実際には交換関係の内部で形成されると論じる。特定の貨幣が通用するのは、それを受け取ることに人々が合意している交換圏が存在するからであり、貨幣の価値は制度的規定であると同時に社会的受容の産物でもある。

黒田はこの交換圏を「通貨回路」と呼び、その内部で日常的に受容される貨幣を「通用銭」、広域的な価値尺度として機能する貨幣を「基準銭」、さらに最小決済単位を構成する貨幣を「原子貨幣」と整理した。こうした視点は、貨幣を国家制度の単なる付属物ではなく、社会的制度として捉え直すための重要な枠組みを提供している。

Ⅲ 中世日本の銅銭流通と交換圏

日本の中世社会に目を転じると、宋・元・明から流入した銅銭が広く流通し、実質的な貨幣経済の基盤を形成していた。銅銭の種類は多様であったが、流通の中心はほぼ一文銭に限定され、銅銭体系内部には高額面貨幣が十分には発達していなかった。

正規鋳造銭と私鋳銭・粗悪銭が併存していた事実は、貨幣価値が国家の保証だけでなく、市場参加者の受容関係によっても形成されていたことを示している。中世日本の市場は、まさに複数の通貨回路が重層的に存在する空間であった。

Ⅳ 高額取引と省陌という実務慣行

銅銭は重量のある金属貨幣であり、携行性には限界があった。中世の高額取引では、銭貨を一枚ずつ数えるのではなく、省陌(しょうはく/ひょうはく)と呼ばれる慣行が用いられた。これは、実際の枚数が不足していても一定の束を名目額として扱う実務的慣行であり、銭貨不足や計数の煩雑さを補うための工夫であった。

(写真(Wikipediaより):省陌→それぞれの束は百枚に欠けるが、名目上100文と見なした)

当時の移動は徴税・軍役・商業・宗教活動など明確な目的を伴うものであり、大量の銅銭を携行することは容易ではなかった。したがって、銅銭は万能の決済手段ではなく、その利用範囲には物理的制約が存在していた。

Ⅴ 銅供給の制約と貨幣制度の変動

黒田の通貨回路論を理解するうえでは、貨幣制度を規定する物質的条件、すなわち銅供給の制約にも目を向ける必要がある。銅は東アジア社会における主要な小額決済手段の原料であったが、その供給は常に潤沢だったわけではなく、多くの時代において慢性的な不足状態にあったと考えられる。

中国では前漢期と北宋期に大量供給が確認され、特に北宋では鉱山開発と製錬技術の発展により銅生産が飛躍的に増大した。一方、日本では飛鳥時代と中世後期に増産が見られるものの、全体として産出量は限定的であった。

奈良から平安期にかけての仏像材質の変化――大規模銅造仏から木彫仏への移行――は、宗教美術の様式変化のみならず、銅資源制約の影響を反映していた可能性もある。銅供給の変動は、貨幣制度そのものを規定する重要な要因であった。

(写真:銅造の飛鳥大仏、平安時代にはほとんどが木造になる)

Ⅵ 中国貨幣史の長期的展開

中国古銭の代表例である五銖銭は、重量規格を伴う貨幣として構想されたが、後漢以降には重量管理が不安定化し、名目価値と実重量の乖離が問題となった。

唐代の開元通宝は、五銖銭以来の重量名を冠した貨幣体系から離れ、銘文によって貨幣種別を示す名目貨幣としての性格を強めた。しかし唐代には銅不足が深刻化し、旧銭回収や金属器徴発が行われたことは、制度運営の困難を示している。

北宋期には銅生産が飛躍的に増大し、都市から農村に至るまで銅銭流通が浸透した。だが南宋期には北方鉱山の喪失や財政悪化により銅不足が再び深刻化し、紙幣(交子・会子)の役割が拡大した。

(図:北宋では銅銭が流通、南宋では紙幣の役割が拡大)

元代には交鈔中心の紙幣制度が志向され、銅銭流通は制度上抑制されたが、銅銭の国外流出は継続し、日本を含む周辺地域へ大量に流入した。明代の大明宝鈔は過剰発行により急速に信用を失い、銀・銅銭・現物財が併用される複合的貨幣体制へ移行した。

Ⅶ 私鋳銭・粗悪銭の増加と撰銭の一般化

明代には銅不足が慢性化し、私鋳銭の製造が活発化した。これらは倭寇・密貿易・民間交易を通じて日本やヴェトナムにも流入した。他方、日本国内でも中世後期には、銅生産の増加と貨幣需要の拡大を背景として私鋳銭の鋳造が進み、流通貨幣の質的多様化がいっそう進展した。

(写真(Wikipediaより):永楽通宝は倭寇などによる密輸入よって大量に流入、国内で偽造もされた)

このように正規鋳造銭・官鋳銭・私鋳銭・粗悪銭が混在する環境では、品質や信用度に応じて銭貨を選別する「撰銭」が一般化した。撰銭とは単なる貨幣選別ではなく、通貨回路の内部で市場参加者が自律的に貨幣価値を再編成する過程そのものであった。

Ⅷ 現代観光経済への示唆

冒頭の東南アジア旅行の例に立ち返れば、観光業者と旅行者のあいだに形成される限定的交換圏は、黒田のいう通貨回路として理解することができる。その内部では米ドルが事実上の通用銭として受容され、現地法貨とは異なる価値秩序が成立していた。

もちろん、中世の通貨回路は制度の未整備を意味するものではなく、複数の価値秩序が併存する社会構造の反映であり、現代観光経済とは異なる点も少なくない。しかし、貨幣価値が制度的規定だけでなく、受容関係によって形成されるという洞察は、現代経済を考えるうえでもなお有効な分析視角を提供している。

Ⅸ 結語

黒田明伸『歴史のなかの貨幣』は、貨幣を国家制度の単なる付属物としてではなく、人々の交換関係のなかから形成される歴史的・社会的制度として捉え直す視角を提示した点で、きわめて示唆に富む著作である。

貨幣を「国家が価値を保証するもの」と自明視してきた私たちにとって、本書はその常識を根底から問い直す刺激的な一冊であった。なお、本書は近世以降の貨幣制度についても詳細に論じているが、その検討については別稿に譲りたい。

芝ざくらからネモフィラへ――北関東春景を訪ねて

北関東の花めぐりも二日目を迎えた。今回は旅行会社が企画したツアーに参加しての旅である。ツアーの楽しみはもちろん名所旧跡の見学にあるが、参加者を観察するのもまた面白い。古墳巡りのようなマニアックな旅では一人参加の人も多く、共通の話題もあるため、自然と話し相手ができることもある。しかし今回の花めぐりはこれまでのツアーとは異なり、単独参加者は一人だけだった。三人連れも一組いたものの、他はすべて二人組で、夫婦が中心である。このような組み合わせのときは互いに干渉せず、全体として静かな雰囲気になる。

ところがこの日は運が悪く、諍いの絶えない夫婦が我々の後ろに座った。着席した途端、女性が「ああいう言い方はないわよ」となじり、男性が「説明が分かりにくかったから正しただけだ」と反発する。言葉を変えながら、同じような応酬がしばらく続いた。やがて話題は変わり、この夏は京都の祇園祭に行く予定らしい。男性が「熱中症になるといけないから、帽子を買って被るといい」と言うと、女性は「帽子は嫌い。あの田んぼで働く人がかぶっている麦わら帽子でもかぶれっていうの」と切り返す。男性は「格好より機能性だよ」と理屈を交えて応じ、またしばらく言い合いが続いたのち、ようやく休戦となった。

この夫婦は、前日は我々の前に座っていたため会話は聞こえなかった。ただ、添乗員がホテルの部屋割りを伝えた際、「私たち、別々の部屋で申し込んだはずですけど」と女性が言うのが耳に入った。どちらかのいびきか歯ぎしりがひどく、眠れないために別室を希望したのだろうと思っていた。しかしどうやらそうではなく、言い争いを避けるために夫婦別室を選んだようだ。会話の中から、男性が八十四歳であることも分かった。よくもここまで続いてきたものだと感心する一方で、もしかするとこれもまた一つの「仲の良さ」なのかもしれない。「蓼食う虫も好き好き」とも言うので、二人なりの調和が取れているのだろう、と思ったりもした。

このように旅行には別の楽しみもある。隣人の会話を、楽しんだりときに少し苛立ちながら聞いたりしているうちに、この日の最初の目的地である市貝町芝ざくら公園に着いた。添乗員が「季節が早まっているため、ここも盛りを過ぎています」と教えてくれた。スギナがにょきにょきと茎を伸ばし、花の中に緑が混じってしまっているのだという。仕方ないなと思いながらバスを降りると、そのような事情など意に介さぬかのように、園内は多くの観光客でにぎわっている。屋台も並び、小さなお祭りのような雰囲気さえあった。

市貝町のホームページには次のように紹介されていた。

平成18年に総面積80,000㎡の公園として開設。本州有数の広さ18,000㎡の面積に、赤・ピンク・紫・白の4色の芝ざくら約28万株が植栽されている。芝ざくらは、この地域を源流とする『小貝川の流れ』をイメージして植栽され、4色の芝ざくらが一面を飾り、展望台から見渡すパッチワークの光景が美しい公園である。

早速、散策に移った。展望台を目指し、そこから下るようにして景色を楽しむことにした。展望台からの眺めは良く、スギナの混じりは多少気になるものの、ピンクを中心とした彩りを十分に味わうことができた。
(写真:市貝町芝ざくら公園)

さて、いよいよ最終目的地のひたち海浜公園へ向かう。添乗員が「今日は相当混んでいると思います。渋滞にはまると大変なことになります。お昼は皆さんご用意されていると思いますので、公園の中でゆっくり召し上がってください」と案内してくれた。乗用車の駐車場へ向かう道は高速道路まで車列が伸びている。それを見て添乗員は「ほら、この通りなのですよ」と皆に覚悟を促す。ところが予想に反して、バスの駐車場へ向かう道はすいすい進み、待つこともなく到着した。この日は休日にもかかわらず、なぜか観光バスが少なかったようである。

ひたち海浜公園は、茨城県ひたちなか市にある日本の国営公園で、国交省が管理している。この公園は、かつて軍用地であった広大な土地を整備して造られたもので、現在では茨城県を代表する花の名所の一つとなっている。

添乗員から公園の歩き方を教えてもらい、散策に出かけた。まずはメインであるネモフィラが咲く「みはらしエリア」を目指す。そして突然、青春映画の一場面を思わせる、青の丘陵が目の前に広がった。若い人も年配の人も列をなして丘の上へと登っていく。我々も負けじとその列に加わる。途中、写真を撮る人がいると列がいったん止まる。我々も同じように良い景色を探しながら丘の上を目指した。頂上からは太平洋の海、そして常陸那珂港を望むことができた。

(写真:ひたち海浜公園・ネモフィラ)

添乗員から「チューリップもまだきれいですよ」と聞いていたので、菜の花畑を経由して次の花を目指した。満開を少し過ぎた頃のようだが、まだまだ十分に美しい。彩りも豊かで、どれが一番きれいか見比べながら散策を楽しんだ。
(写真:ひたち海浜公園・チューリップ)

この公園での滞在時間は二時間で、出発時には長いと思っていたものの、気づけばあっという間に過ぎてしまった。

帰りの高速道路は渋滞もなく順調に進み、予定時間よりもずっと早く解散地に到着した。朝のうちは諍いに専念していた夫婦も、夕食をとるレストランについて話し合いながら仲良く帰っていった。天気にも恵まれ、彩り豊かな花々を愛でることもでき、あの夫婦ではないが、「終わりよければすべて良し」の旅であった。

花と歴史をめぐる北関東春紀行

穀雨のこの時期は、雨さえ降らなければ暑くも寒くもなく、旅をするにはちょうどよい季節である。妻の長年の希望もあり、足利へ藤を見に行くことになった。この時季の藤はたいへんな人気で、目的地にたどり着くまでが一苦労だという。こうした場合、最も手軽で確実なのはバスツアーだろう。移動で疲れることもなく、添乗員から効率的な回り方を教えてもらえる利点もある。

もっとも、バスツアーにも弱点がある。必ずしも見ごろに当たるとは限らない。近年は温暖化の影響もあって、かつての常識が通用しなくなり、旅行会社にとっても出発日の設定はほとんど博打に近いという。あしかがフラワーパークでは、その不安を軽減するため、開花時期の異なる藤をそろえ、長期間楽しめるよう工夫していると教えてもらった。

一週間前の予報では旅行の二日間とも雨だったが、雨が早まったおかげで幸運にも晴天に恵まれた。今回の旅の主役は藤であるが、つつじ、ネモフィラ、八重桜、芝桜などの鑑賞も組み込まれており、いずれかが見ごろを迎えていれば楽しめるよう、旅行会社なりの工夫が凝らされていた。そのおかげで、藤以外にも季節の彩りに触れることができる旅となった。どんよりとしがちな穀雨の空気を和らげてくれるこれらの花を求めて、北関東へと向かった。
(図:行程図)

その道すがら、まず立ち寄ったのが塩船(しおふね)観音寺のつつじ園である。とはいえ、ここは北関東ではなく、まだ都内の青梅市にある。次の目的地であるあしかがフラワーパークまでは距離があるため、この季節の花を楽しめる場所として選ばれたのであろう。もっとも、この寺は単なる立ち寄り先ではなく、れっきとした名刹である。大化年間(645–650)に八百比丘尼が開創したと伝えられ、室町時代の建築がまとまって残り、本堂・仁王門・阿弥陀堂・千手観音像などは国の重要文化財に指定されている。関東八十八ヶ所、東国花の寺百ヶ寺にも属する霊場札所である。また、「塩船」という名は、周囲の地形が船の形に似ていたため、行基がこれを「弘誓の舟(ぐぜいのふね)」になぞらえて名付けたと伝えられている。

鎌倉中期に、杣保(そまほ:現在の奥多摩町・青梅市・羽村市一帯)を支配したのは三田氏である。その勝沼城に近い丘陵地に、塩船観音寺は位置し、本堂・阿弥陀堂・山門を備えた一大寺院として栄えていたようである。室町時代末期には、平将門の末裔を称し青梅地方に勢力を伸ばした豪族・三田氏の三田氏宗・政定らの深い帰依を受け、本堂・阿弥陀堂・山門の建て替えが行われた。その三田氏と親交の深かった著名な連歌師・宗長も観音寺を訪れ、連歌を楽しんだことが、紀行文『東路乃津登』に記されている。
(写真:本堂(左)、右側の上段は阿弥陀堂(右上)、下段は左から薬師堂、仁王門、招福の鐘)

こうした歴史を背景に持つ寺院だが、訪れた日はちょうどつつじが満開であった。まさに幸運というほかない。境内を覆うように急な斜面に沿って植えられたつつじは彩りも鮮やかで、朱色がひときわ際立っていた。つつじそのものは仏教と直接の関係を持つ花ではないが、朱色は仏教において生命力・浄化・歓喜を象徴する特別な色とされる。そうした象徴性を思うと、塩船観音寺のつつじ園は、まさに極楽浄土を思わせる趣であった。
(写真:塩船観音寺つつじ園)

つつじの余韻を胸に、いよいよ今回の旅の本命であるあしかがフラワーパークへ向かった。添乗員が携帯で得た情報では、平日にもかかわらず園内は大変な混雑で、食堂の利用はまず不可能とのことだった。また、園内では飲食物の持ち込みができないため、バスの中で昼食を済ませ、見学に集中するように案内された。最寄りのサービスエリアで昼食を買い、万全の備えをして、渋滞にも遭いながら目的地へと向かった。

道中、あしかがフラワーパークについて説明してくれた。ここの大藤は、もともと足利市中心部の「早川農園」にあり、1990年代の再開発に伴って移植が必要となった。当時すでに樹齢130年、棚面積600㎡、幹回り3.6mという巨大な藤で、地域の象徴的存在であった。しかし藤は幹が柔らかく傷に弱いため、幹直径1mを超える藤の移植成功例は当時の日本にはなく、「移植は不可能」とまで言われていた。その移植を引き受けたのが、日本人初の女性樹木医・塚本こなみである。現地を視察した塚本は藤の生命力を感じ、「この藤は動く」と直感して移植を決断したと伝えられている。1994年に準備が進められ、1996年に本格的な移植が行われ、翌1997年にあしかがフラワーパークが開園した。現在、大藤の樹齢は160年以上に達し、藤棚は1,000㎡へと成長し、栃木県指定天然記念物となっている。

それでは、藤の種類を咲く順に見ていこう。最初はうす紅藤である。園内に入って最初に出会うのがこの藤で、頭上から覆いかぶさるように棚から垂れ下がる姿には思わず圧倒される。
(写真:うす紅藤)

次は大藤。うす紅藤に驚いてはいけないと言わんばかりに、さらに迫力ある姿で迎えてくれる。こんなにも長く垂れ下がるのかと驚かされるが、まだ伸びる余地があり、最長で180cmにも達するという。人の身長ほどの長さになるとは、ただただ感心するばかりである。

(写真:大藤)

そして白藤。添乗員が作ってくれた案内図では白藤のトンネルに大きな印が付いていなかったため、今回は立ち寄らなかった。しかし園内で見かけた白藤は見事に咲いており、こうして文章を書きながら、見逃してしまったことを少々悔やんでいる。
(写真:白藤)

最後はきばな藤。ちょうど咲き始めたところで、これからが本番という状態であったが、すでにその雰囲気は十分に楽しむことができた。
(写真:きばな藤)

園内には藤のほかにも、この季節の花々が咲き乱れていた。あまりにも藤の存在感が強く、ついそちらに気を取られてしまいがちだが、ほかの花々もそれぞれにひそかに美を競っていた。
(写真:上段左から、ペチュニア、しゃくなげ、カラー、下段左から、デルフィニウム、こでまり、つつじ)

こうして園内を堪能したのち、次の目的地へ向かうことになったが、ここからがまた一苦労であった。バスはなかなか園周辺の渋滞から抜け出すことができなかった。ふとJR両毛線・あしかがフラワーパーク駅のホームに目を向けると、小さなホームにはあふれんばかりの人が押し寄せ、今にもこぼれ落ちそうなほどであった。その光景を見て、電車で来なくて本当によかったとつくづく感じた。

フラワーパークで二時間近く散策したため、バスの緩やかな揺れに誘われて心地よくひと眠りしたあと、ぼんやりと田植え前の水田を眺めていた。すると添乗員が、今日の最終目的地である天平の丘公園について説明を始めた。ここでは満開の八重桜を堪能する予定になっていた。現地で受けるに違いない失望を和らげるため、添乗員は開口一番、「桜はほとんど散っています」と言い放った。例年ならこの時期が見ごろだが、今年は桜の開花がとても早く、残念ながら期待できないという。

しかし、その代わりと言っては何だが、「しもつけ風土記の丘資料館がありますよ」と教えてくれた。古墳時代には、群馬・栃木地方は毛野(けの)という豪族が支配していた。奈良時代になると毛野の地域は二つに分けられ、都に近い方を「上」、遠い方を「下」とし、現在の群馬県は上野国、栃木県は下野国となった。下野国の国府は栃木市に置かれたが、国分僧寺と国分尼寺は下野市にある。これから向かう天平の丘公園の周辺に、それらの跡が残っている。このような歴史的背景を踏まえて資料館が設けられているのであろう。調べてみると、平成27年4月1日に栃木県から下野市へ移管され、令和3年5月には常設展示室の全面改修と新館の増築を経てリニューアルオープンしたという。

今年はすでに桜を十分に楽しんでいたので、下野国の歴史的資料を見ることができるなら、むしろ旅に“おまけ”がつくようなものである。そのため、本来の目的がかなわないことを悲観する気にはならなかった。目的地に着くと、八重桜に肩透かしを食ったのは我々だけではなく、公園の関係者も同じであることが痛いほど分かった。ほとんど人影のない公園に、「東の飛鳥 天平の花まつり」という少し大げさな名が掲げられ、関係者だけが来訪者を待っている。我々がバスから降りると、わっと寄ってきて、いくつかの種類のパンフレットを親切に手渡してくれた。その中には資料館の学芸員もおり、「あちらで展示をしていますから、どうぞお立ち寄りください」と丁寧に誘ってくれた。

私の関心はすでに資料館の方へ移っていたので、学芸員の案内に従って新たな目的地へ向かった。展示室はきれいに整えられ、古墳時代から奈良時代にかけての下野国の歴史が、遺物やパネルとともに紹介されていた。その中でも目を引いたのは、国の重要文化財に指定されている甲塚(かぶとづか)古墳出土の埴輪である。とりわけ機織型埴輪には強く興味を惹かれた。現代の手製の機織機も同時に展示されており、原理は古墳時代と変わらないという。古代の人々の技術力の高さを実感した。
(写真:甲塚古墳出土の形象埴輪、左上は機織型埴輪)

ついでに公園の方も散策したが、予想していたほどひどい状態ではなく、満開だった八重桜の名残をまだ随所に感じることができた。
(写真:しもつけ風土記の丘資料館(左上)、天平の丘公園の八重桜とつつじ)

こうして一日の旅程を終えた。とはいえ、バスに座って目的地に着きましたよと言われ、案内された場所を散策するだけなのだが、それでも一万歩を超えて歩いた。あしかがフラワーパークはさすがの見ごたえで、一時間半ではとても足りないほど素晴らしい場所であった。

宿泊は宇都宮駅のすぐそばで、この地の名物である餃子を味わうことにした。一品にチーズ羽餃子という少し珍しいものを選んだ。弱火でチーズをじっくり焼き上げてあり、パリパリとした食感にコクが加わってなかなか美味しかった。歩き疲れもあって、早めに床につき、明日に備えることにした。

生成AIに短編小説を書かせてみた

生涯学習を本格的に行っている大学で研究生たちの中間発表会があり、知人も発表するというので聴講した。研究生の多くは社会人として長く活躍した後、人生の次の段階を設計するために学び直しており、取り上げられるテーマもシニア世代の課題が中心であった。

その中で特に目立ったのは、課題解決に向けた AI の活用である。相談相手としてのアシスタント機能や、医療現場での介助など、さまざまな提案が示されていた。AI の発展に対する警戒感がまったくないわけではなかったが、それ以上に大きな期待を寄せていることが、会場の空気から伝わってきた。

私自身も、現在の生成 AI の実力を知りたいと思い、短編小説を作らせてみた。室町時代から戦国時代にかけて商業が活発になり、日本では貨幣経済が始まる。しかし、多くの人々はその日暮らしに近い生活を送り、こうした生活に適した銅貨だけが流通していた。それも中国で鋳造されたものが大半で、古い時代のものと新しいものが入り混じり、さらに政府製だけでなく偽造貨も多かった。

では、このような状況を現代社会に持ち込んだらどうなるのか。その設定で短編小説を生成 AI(Copilot)に作ってもらった。最初の要求は次の通りである。
「あなたは作家です。現在の生活で、使える貨幣は100円玉だけ、働いたことに対する報酬は日払いで、もらえる額は3000円、家族は妻と幼い子が2人と仮定したとき、どのような生活になるかを想像して、1000語程度の短編としてまとめてください」。

100円硬貨だけでの生活が描かれていたので、それを長文化・社会小説化してもらった後、最後に「今までの話を少し変更して、政府には百円硬貨を作る能力もなく、全て隣の国の貨幣で、しかも偽物混じりという想定にしてください」と要求した。その結果が、次の通りである。

「百円の重さ ― 外貨の国」

Ⅰ 貨幣を失った国

この国には、もう自前の貨幣がない。
二十年前、財政破綻寸前だった政府は、国内の造幣設備をすべて停止し、貨幣鋳造を放棄した。
理由は「財政再建のための合理化」と発表されたが、実際には、造幣に必要な金属を輸入する外貨すら底をついたためだった。

その結果、国内で流通する貨幣は、すべて隣国が発行する百円硬貨になった。
隣国は「友好の証」として大量の百円硬貨を供給したが、後に判明したのは、その多くが旧式の規格外硬貨や、品質の低い偽物だったということだ。

政府はそれを知りながら、黙認した。
貨幣がなければ経済は止まる。
偽物でも、金属片でも、価値があると国民が信じる限り、それは貨幣として機能する。
そう政府は判断した。

こうして、本物と偽物が混じり合う百円硬貨だけの経済が始まった。

Ⅱ 金属の音で始まる朝

朝、目を覚ますと、まず耳に入るのは金属の触れ合う乾いた音だった。
じゃらり。
ポケットの中で百円玉が転がり、私の動きに合わせて小さく震える。

この音は、生活の不安そのものだ。
本物か偽物か分からない百円玉を、私は毎日三十枚受け取って暮らしている。

台所では、美咲が味噌汁をよそっていた。
湯気の向こうで、彼女の表情はどこか曇っている。

「今日も三千円?」
「うん。現場は昨日と同じだから」

三千円。百円玉三十枚。
だが、そのうち何枚が本物かは分からない。
偽物は、重さが微妙に違う。
触れば分かるが、レジでは弾かれることもある。

「昨日、スーパーで二枚返されたよ」
美咲が言った。
「偽物だって」

胸の奥がざわつく。
偽物を掴まされるのは、いつも貧しい者だ。
本物と偽物の区別をつける機械は高価で、一般家庭には買えない。

Ⅲ 百円労働者と偽貨

現場は住宅街の外れにある古い倉庫の解体作業だ。
日払いで、現金で、百円玉で渡される。
だが、社長が渡す百円玉の中には、明らかに偽物が混じっている。

「気にするなよ。どれも使えるから」
社長はそう言うが、実際には使えない店も多い。

午前中の作業を終え、昼休みになる。
私は自販機の前に立ち、百円玉を三枚取り出した。
じゃらり。
そのうち一枚は、指に触れた瞬間に分かった。
軽い。
偽物だ。

自販機は容赦なく硬貨を吐き出した。
カラン、と乾いた音が地面に響く。

私は拾い上げ、ポケットに戻した。
偽物でも、捨てるわけにはいかない。
どこかで使えるかもしれない。
この国では、貨幣の価値は店ごとに違う。
「偽物でも受け取る店」が、貧しい者たちの間で口コミで広がる。

Ⅳ 貨幣の重さ、制度の軽さ

夕方、作業が終わると、社長が小さな布袋を渡してきた。
中には百円玉が三十枚。
袋の底が、金属の重みで少し膨らんでいる。

だが、その重さは価値の保証ではない。
むしろ、不安の重さだ。

帰り道、私はスーパーに寄った。
百円玉を一枚ずつレジに置くたび、店員の女性が硬貨を指で弾き、耳元で軽く転がして音を確かめる。
本物か偽物かを判別するためだ。

「すみません、これ……」
店員は二枚の硬貨を返してきた。
「使えません」

私は小さく頭を下げた。
恥ずかしさと、怒りと、どうしようもない無力感が胸に広がる。

Ⅴ 家族の不安、国家の沈黙
家に帰ると、陽斗が駆け寄ってきた。

「パパ、お金いっぱい持ってる?」
「うん、今日は三十枚だよ」

「見せて!」
私は百円玉をテーブルに広げた。
銀色の円盤が、夕食の明かりを反射してきらきらと光る。

「わあ……宝物みたい」

その言葉に胸が痛む。
これは宝物ではない。
本物か偽物か分からない、制度の残骸だ。

子どもたちが寝静まったあと、美咲がぽつりと言った。

「ねえ……この国、どうなっちゃうんだろうね」

私は答えられなかった。
政府は沈黙し、隣国は笑い、国民は偽物の貨幣を握りしめて生きている。

「でもね」
美咲が続けた。
「あなたが帰ってきて、子どもたちが笑って、ご飯を食べて……それだけで、私は十分幸せだよ」

その言葉に、私は救われた気がした。
貨幣は偽物でも、家族の笑顔は本物だ。

私はポケットの中の百円玉を握りしめた。
じゃらり、と音がした。
その音は、制度の崩壊ではなく、明日へ向かうための小さな決意のように聞こえた。

穀雨のころ、牡丹を訪ねて

テレビの天気予報を見ていたとき、この時季は「穀雨」と呼ばれることを知った。二十四節気の一つで、一年を二十四等分し、春夏秋冬の移ろいを細やかに示す暦である。立春、夏至、秋分、冬至など生活に根付いた節気もあるが、穀雨を知っている人はそれほど多くないだろう。文字からも想像できるように、百穀を潤す恵みの雨(春雨)が降り、田畑の土が湿って種まきや苗代の準備に適した時期とされる。晩春から初夏へ向かい、新緑がいっそう鮮やかになる季節で、4月20日頃から5月4日頃までを指すという。

穀雨の名にふさわしいその日に、牡丹と芍薬を鑑賞しに出かけた。見始めたころは小雨、鑑賞している間は曇り、帰るころには晴れとなり、天気の移ろいもまた穀雨らしかった。

ところで、牡丹と芍薬は何となく違いが分かるようでいて、いざ説明しようとすると区別が難しい。同じ疑問を持つ人が多いのだろう、園内には両者の違いを示す案内があった。牡丹は「木(落葉低木)」で、芍薬は「草(多年草)」である。葉は、牡丹はつやがなく切れ込みが深く、芍薬はその逆である。花の散り方も異なり、牡丹は花びらが一枚ずつ散るのに対し、芍薬は花ごと落ちるという。落花の様子で見分ける点は、椿と山茶花の違いにも似ている。

俗に「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という。「立てば芍薬」は、茎がすっと伸びて凛と咲く芍薬のように立ち姿の美しい女性を、「座れば牡丹」は、枝分かれして横に大きく豪華な花を咲かせる牡丹のように、座った姿が優雅な女性をたたえる言葉だという。このように美女のたとえとして親しまれてきた牡丹と芍薬を、町田ぼたん園でゆっくりと鑑賞した。花をひとつひとつ眺めては、牡丹か芍薬かを口にし、その花に添えられた名札と説明を確かめながら歩いた。

牡丹の由来については、いくつかの説が伝えられている。牡丹は中国語読みでは「モウタン」といい、その名の語源には諸説ある。明代には赤い花が最高級品とされたため、赤を意味する「丹」の字が用いられたとされる。また、牡丹は種子ができても実生では必ずしも親と同じ赤色にならないことから、「子ができない=牡(おす)」と考えられ、「牡丹」と名付けられたと園内には説明があった。

牡丹の野生原種は、長らく5〜6種とされてきたが、1998年の牡丹国際シンポジウムでは、園芸品種に関わる原種は8種・2変種・1生態であると発表された。こうした分類学的整理は、牡丹の多様な園芸品種の理解に重要な基盤を与えている。

牡丹の歴史は古く、3世紀にはすでに根が薬用(鎮痛・消炎など)として利用されていた。隋の時代には園芸植物として栽培されるようになり、唐代には広く人々に親しまれ、品種改良も進んだ。日本へは奈良・平安時代に渡来し、遣唐使や僧侶によってもたらされたとされる。その後、鎌倉・室町・桃山へと受け継がれ、江戸時代には日本の美意識に沿うように品種改良が重ねられ、隆盛を極めた。明治以降は生産園芸として発展し、今日に至っている。

現在、牡丹の多くは芍薬の根に接ぎ木をして増殖されている。この技術は1897年(明治30年)、新潟県新津の江川啓作と四柳徳次郎によって完成されたもので、近代以降の牡丹栽培を支える重要な技術的基盤となった。

それでは牡丹を、俳句とともに愛でていこう。

牡丹散りて 打ち重なりぬ 二三片  与謝蕪村
散った花びらが幾重にも重なるさまを写生的にとらえた、蕪村らしい一句である。
(写真:牡丹1)
牡丹蘂深く 分け出でて たけくらべ  松尾芭蕉
牡丹のしべの奥行きと、そこに宿る生命の張りを詠んだ句である。
(写真:牡丹2)
牡丹散る さはりも見えず 風の中  正岡子規
風の中で散る牡丹を、余計な感情を排して客観的に描いた句である。
(写真:牡丹3)
牡丹して その色移す 夕日かな  高浜虚子
夕日に染まる牡丹の色彩の変化を、静かな感動とともにとらえた句である。
(写真:牡丹4)

次は芍薬である。
芍薬の 風にゆるるを 見てをりぬ  中村汀女
風に揺れる芍薬を静かに見つめる、端正でやさしい一句である。
(写真:芍薬)

少し林の中に入ったところで、かわいらしい黄色い花を見つけた。エビネであった。これは日本各地に自生する古典園芸植物で、本格的に園芸化が進んだのは昭和四十年代とされる。それ以前は山野草として親しまれていた。エビネの名は、根が連なってエビの姿に似ることに由来するという。
(写真:エビネ)
牡丹や芍薬に混じって、シャクナゲも負けじと咲いていた。
(写真:シャクナゲ)
園内で働いている方から、つい最近までヤマツツジがとてもきれいであったと教えてもらった。
(写真:ヤマツツジ)

園内には「自由民権の碑」があった。そこには次のように記されていた。

「自由民権運動に参加した文学者、天才詩人北村透谷は、1885年(明治18年)の夏、三多摩民権運動の最高指導者である石坂正孝の長女・美那子と、ここ石坂邸で初めて出会った。思索型の青年であった透谷に、美那子は強い関心を抱いた。二人は二年後に東京で再会し、全生命をかけた恋愛を経て結婚へと進んだ。国文学に大きな影響を与えたキリスト教への入信も、この出会いが契機となった。自由民権と透谷文学に深くかかわるゆかりの地を顕彰するため、この碑を建立する。」

そして、近くにあった門とぼたん園の門は、石坂家と何らかの関係があるのだろうかと想像した。
(写真:自由民権の碑)

見始めには小雨が降り、やがて曇り、帰るころには晴れ間がのぞいたあの空模様を思い返すと、穀雨の名にふさわしい一日であったと言える。穀雨のころにのぞく晴れ間は、今年は夏の日差しを思わせるほどに強い。初夏がすでにすぐそこまで来ている気がする。穀雨が終われば、暦の上では「立夏」となる。うんざりするような暑さがもう間近に迫っているのかと思うと気が重いが、外出を楽しめるのも今のうちだろう。そう思って出かけたのである。

そのような季節の光の中で咲く牡丹の姿を眺めていると、古来多くの人々がこの花に心を寄せてきた理由も、おのずと理解できるような気がする。唐代中期を代表する詩人・白居易も、牡丹を次のように愛でている。

牡丹芳,牡丹芳,黄金蕊綻紅玉房。
千片赤英霞爛爛,百枝絳點燈煌煌。
照地初開錦繡段,當風不結蘭麝囊。
仙人琪樹白無色,王母桃花小不香。

(以下略)

現代語訳は次の通りである。

牡丹よ、なんと芳しく咲き誇ることか。
黄金のような蕊(しべ)がほころび、紅玉のような花びらの房の中に輝いている。
千枚もの赤い花びらは、まるで朝焼けの雲のように輝き、
百本の枝先には、紅の点々が灯火のように煌めいている。
地面を照らすように開いた花は、錦繍の布のように華やかで、
風に向かっても、蘭や麝香(じゃこう)の香袋のように閉じこもることなく、
その香りを惜しげもなく放っている。
仙人の庭にあるという霊木の白い花でさえ色あせて見え、
西王母の桃の花でさえ香りは乏しく思われる。

無芸の私には、このような甘美な詩をつくることはかなわない。それでも、山里に造られたぼたん園で、穀雨のやわらかな明るさの中で、牡丹の美しさを心ゆくまで味わうことができた。やがて立夏を迎え、季節は移ろってゆくであろうが、今日見た花の姿は、しばらく心に残りそうだ。