今回の「大阪・奈良へ古代を訪ねる旅」は、二泊三日の行程であった。今回の旅では、飛鳥という空間がどのように国家形成の舞台となったのかを、現地の遺跡を歩きながら確かめることを目的とした。二日目に前回の記事で紹介した百舌鳥・古市古墳群を訪れ、初日と最終日は飛鳥時代の遺跡を巡った。本稿では、現地の巡回順に沿って遺跡を紹介する。
飛鳥時代は6世紀末から平城京遷都の710年までとされ、100年余りの比較的短い時代であるが、前期・中期・後期の三つに区分することができる。前期は蘇我氏が権力を掌握していた時期、中期は唐・新羅の脅威に対応した緊張の時代、後期は律令国家が形成されていく段階にあたる。今回は前期と後期を分けて訪問したため、記事もそれぞれ独立して紹介する。本稿ではまず飛鳥時代前期について、政治・宗教・都市の三つの観点から整理して述べることにしたい。
飛鳥時代前期は、推古天皇の即位(592/593年)から乙巳の変(645年)までの時期にあたり、蘇我氏が強大な政治的影響力を握った時代である。蘇我馬子は推古天皇を擁立し、外戚として政権を主導したが、その過程で物部氏との対立が深刻化した。物部氏は伝統的な神祇祭祀を担う有力氏族であり、仏教受容を推進する蘇我氏と鋭く対立した。両氏の抗争は国家の宗教政策をめぐる政治闘争へと発展し、587年の崇仏戦争で物部守屋が滅ぼされると、仏教は国家的に受容される方向へ大きく転換した。
推古朝では、聖徳太子(厩戸皇子)が摂政として冠位十二階や十七条憲法を制定し、遣隋使を派遣するなど、中央集権化に向けた制度改革が進められた。これらの改革は、氏族連合的なヤマト政権から、天皇を中心とする国家体制へと移りゆく流れを方向づけるものであった。同時に、仏教は政治理念としての役割を強め、寺院造営が本格化する。飛鳥寺(法興寺)は日本最初の本格的仏教寺院として建立され、蘇我氏の権威を象徴する存在となった。
さらに、聖徳太子ゆかりの橘寺は、太子の政治的・宗教的活動の拠点として重要であり、仏教思想の普及に大きな役割を果たした。また、川原寺(弘福寺)は天智朝に本格整備されるが、その起源は飛鳥時代前期に遡り、国家的寺院としての性格を備え始めていた。これらの寺院群は、飛鳥地域における仏教文化の中心を形成し、後の白鳳文化・天平文化の基盤となる。
この時期の政治・宗教の中心となったのが飛鳥京である。飛鳥地域には豊浦宮・小墾田宮・飛鳥板蓋宮など複数の宮が営まれ、政治の中心が飛鳥に定着したことで、飛鳥京は日本古代国家形成の舞台となった。飛鳥京はまだ条坊制を備えた都城ではなかったが、宮殿・寺院・官衙が集中し、都市的景観が形成されていく。寺院の立地は政治権力との密接な関係を反映し、飛鳥の宗教空間と政治空間が重層的に構築されていった。
しかし、蘇我蝦夷・入鹿の専横は次第に強まり、政権内部の緊張が高まった。645年の乙巳の変で蘇我氏が滅亡すると、飛鳥時代は中期へ移行し、中央集権化と律令国家形成が本格化していく。
それでは実際に現地を歩いてみよう。最初に足を運んだのは飛鳥資料館(奈良文化財研究所)である。館の前に立つと、思いがけず多くの石造物が迎えてくれた。飛鳥といえば寺院建築のイメージが強かった私にとって、この光景は意外で、どこか不思議な静けさをまとっていた。これらの石造物の多くは用途が明確ではないが、仏教的要素を取り入れたものもある一方で、飛鳥独自の造形思想を反映し、道教的・呪術的・祭祀的な性格をもつと考えられている。
正門前には巨大な亀石が置かれ、左側には猿石と人頭石など、右側には須弥山(しゅみせん)石などが配置されていた。いずれも実物ではなくレプリカであるが、当時の造形文化の多様性と独創性をよく伝えている。なかでも須弥山石は、明治35年(1902年)に石神遺跡から出土した三段積みの噴水石造物で、仏教世界観の中心である「須弥山」を象ったものとされる。内部には水路が通され、実際に水を噴き上げる仕組みを備えていたと考えられており、飛鳥の宮廷空間における儀礼や庭園演出の高度さを示す貴重な資料である。
亀石

猿石と人頭石

須弥山石

館内に入ると、最初に目に飛び込んできたのは石人像だった。思わず足を止めるほどの存在感で、男女が寄り添う姿が石に刻まれている。体内を貫く円孔や水を噴き出す仕組みを知ると、ただの石像ではなく、当時の技術と想像力が凝縮された装置であったことが実感される。水源と水圧の原理を知っていれば、二人の口から水が湧き出るようにする仕組みを考案することは可能である。しかし、この時代の人々がどのようにしてその発想に至ったのかを思うと、当時の技術者の想像力の高さに感心させられた。
石人像

館内には飛鳥宮のジオラマも展示されている。手前が飛鳥宮跡、その左奥に飛鳥京跡苑池、右奥には浄御原宮の役所群が配置され、さらに飛鳥宮跡の後方には飛鳥寺、その右手前には飛鳥京工房遺跡がある。想像していた以上に広大で、すでに都市としての骨格が整えられていたことが実感できた。
飛鳥宮のジオラマ

ジオラマの飛鳥寺のさらに奥、左手の方向には、水時計を設置するための高度な水利用施設である水落遺跡が発掘されている。水落遺跡は『日本書紀』に記された漏刻(ろうこく:水時計)に対応するとされ、考古学的調査によってその一致がほぼ確実視されている。漏刻は、前述のように、水の流れる速度を利用して時間を計る装置で、古代中国で成立し、日本には飛鳥時代に導入された技術である。仕組み自体はシンプルだが、精密に作動させるには高度な水制御技術が必要とされた。
この時代にここまで精緻な水制御が実現していたことは、飛鳥の技術基盤の厚さを物語っている。須弥山石に見られる水利用技術を踏まえると、当時の技術水準は想像以上に高かったことがうかがえる。それでも、初めて漏刻を目にした人々にとっては、理解の難しい技術であったに違いない。なお、この近くには、斉明天皇期に宮廷儀礼や迎賓の中心施設として機能した石神遺跡が広がっている。
水落遺跡

館内には高松塚古墳・キトラ古墳の紹介もあったが、これについては次の記事で述べることにする。
山田寺の紹介のために一室が設けられていた。山田寺は、蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂が641年に創建を開始した初期仏教寺院であり、その規模は飛鳥でも屈指であった。後世には、藤原道長が「奇偉荘厳は言葉で尽くせない」と記したほどの大寺院である。
この展示室では、山田寺東回廊の一部が実物部材を用いて復元されている。奈良文化財研究所は、「山田寺東回廊は、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺よりも古い建築様式を伝える例とされる」と説明しており、飛鳥時代の建築技術を知るうえで極めて重要な資料であるとともに、ここでも優れた建築技術が確立されていることを確認できる。
山田寺東回廊の一部

また、山田寺の仏像も展示されていた。この仏像は、明るい表情、童顔、大きな弧を描く眉、切れ長の目といった特徴をもち、初唐の影響を受けた初期白鳳仏の典型的な様式を示している。
仏像

次に訪れたのは、日本最初の本格的仏教寺院として、飛鳥時代の宗教・政治・都市形成を理解するうえで中心的な存在とされる飛鳥寺である。飛鳥寺に立つと、かつて塔を中心に三つの金堂が囲んでいた伽藍の姿が、地面のわずかな起伏から静かに浮かび上がってくる。推古4年(596年)に蘇我馬子が発願して建立されたこの寺院は、創建当初、中央に塔を据え、その周囲を三つの金堂が囲む大規模な伽藍を構えていた。
中門

本堂

思惟殿

本尊の銅造釈迦如来坐像(飛鳥大仏)は、日本最古の仏像(7世紀初頭)で、鞍作止利(止利仏師)の作と伝えられる。座高約2.75メートルの金銅仏で、飛鳥時代の典型的な様式をよく示している。ただし、全身が当時のまま残っているわけではなく、平安・鎌倉期の大火で大きな損傷を受けている。現在の像は、顔の大部分と身体の半分以上が飛鳥時代のオリジナルで、台座の位置も創建当初のまま保たれているという。
飛鳥大仏

なお近くには、乙巳の変により殺害された蘇我入鹿の首塚がある。
蘇我入鹿首塚

次に訪れたのは飛鳥京であるが、現地には遺構があまり残っていないため、この日は石敷井戸(いしじきいど)だけを見学した。この井戸は、枠のまわりを一段低く掘り下げ、その部分に河原石を敷き詰めた構造をもつ。井戸の周囲が泥濘化するのを防ぎ、作業動線を確保するための実用的な工夫が凝らされており、飛鳥の生活・生産空間の具体的な姿を伝えてくれる。
石敷井戸遺跡

近くには万葉歌碑が建てられていた。これは、飛鳥から藤原京へ遷都した後、古京「飛鳥」への懐旧の思いを詠んだ志貴皇子の歌を刻んだものである。
万葉歌碑

そして次は、有名な石舞台である。石舞台古墳は飛鳥時代を代表する特異な古墳で、巨大な花崗岩を組み上げた横穴式石室が露出した姿で知られる。被葬者は蘇我馬子と考えられ、築造は7世紀初頭と推定されている。総重量約2300トンに及ぶ巨石を精巧に積み上げた石室は、玄室と羨道から構成されている。墳丘はすでに失われているが、露出した石室構造によって、古代の土木技術や権力者の葬送儀礼を直接観察できる点が大きな特徴である。
石舞台古墳の前に立つと、巨石の重みが空気を変える。文献で知っていた蘇我氏の権勢が、ここでは巨大な石の質量となって迫ってくる。七世紀初頭に、これほどの石をどう運び、どう積み上げたのか――考えれば考えるほど、当時の技術と組織力の大きさに圧倒される。
石舞台



近くには石棺のレプリカが置かれていた。
石棺

そして橘寺は現在は天台宗の寺院で、聖徳太子誕生の地と伝えられる。境内に足を踏み入れると、太子殿や塔心礎が静かに佇み、太子ゆかりの地としての空気がゆるやかに漂っていた。寺伝では推古天皇14年(606年)に太子が勝鬘経を講讃した際の瑞祥により建立されたとされるが、文献上の初見は天武9年(680年)で、創建年代は必ずしも明確ではない。かつては66棟の堂舎が並ぶ大寺で、四天王寺式伽藍配置をとっていた。現在は江戸期再建の太子殿を中心に、二面石や塔心礎などが残る。
橘寺が太子生誕地とされた背景には、寺院の縁起形成の過程で太子との結びつきを強調する必要があったと考えられており、地域的な伝承と寺院側の意図が重なって成立したものとみられる。境内には太子35歳像(重要文化財)が安置され、飛鳥の太子信仰と古代寺院の姿を今に伝えている。
聖徳太子にまつわる「伝説」が体系的に形づくられたのは、7〜8世紀(奈良時代初頭)が中心とされ、とくに決定的だったのは720年成立の『日本書紀』である。ここに超人的な逸話が多数盛り込まれたことが、後世の太子像を大きく方向づけたと考えられている。こうした国家的な太子像の形成とは別に、橘寺のような寺院では、独自の縁起や地域伝承を通じて太子との関係が強調され、生誕地伝承が定着していった。境内を歩きながら、その背景にある歴史的事情を思わず考えさせられた。
東門

本堂(太子堂)

経堂

観音堂

二面石

五重塔跡

往生院の格天井

最後に訪れたのは川原寺である。飛鳥寺・薬師寺・大官大寺と並ぶ「飛鳥四大寺」の一つとして知られる大寺院で、飛鳥時代に建立された。創建は7世紀半ば、天智天皇が母・斉明天皇の川原宮跡に建立したと伝えられるが、『日本書紀』に明確な創建記事がなく、成立事情には多くの謎がある。
川原寺跡に立つと、広大な寺域が静かに広がり、かつての伽藍の輪郭が地面の線となって残っている。伽藍は一塔二金堂式(川原寺式)と呼ばれる特異な配置で、東塔を中心に中金堂・西金堂が並び、僧房が三方を囲む壮大な構造をもっていた。この一塔二金堂式は飛鳥の国家寺院に特有の実験的な伽藍構成であり、後世に継承されない独自性をもつ点で、飛鳥期の宗教政策と寺院建築の試行錯誤を示す重要な事例とされる。
東西約150メートル、南北約330メートルに及ぶ広大な寺域は、飛鳥の国家寺院としての格式を示している。平城京遷都後も他の三大寺と異なり飛鳥に留まり、後に衰退したが、現在は跡地に建つ弘福寺が法灯を継承している。大理石製の礎石や塔跡が往時の規模をかすかに伝え、飛鳥の宗教空間の壮大さを今に感じさせる。
旧川原寺全景

川原寺中金堂跡にある瑪瑙(大理石)の礎石

振り返れば、須弥山石の噴水から漏刻、水落遺跡の水時計、そして石敷井戸に至るまで、飛鳥では水が繰り返し姿を現した。水を制御し、空間を演出し、時間を刻む技術は、政治と宗教を支える都市の基盤でもあった。宮、寺院、そしてそれらをつなぐ都市空間――飛鳥は、わずか百年余りのあいだに国家の骨格を形づくった場所である。文献で知っていた制度や事件が、現地を歩くことで具体的な空間として立ち上がってくる。その瞬間ごとに、飛鳥という土地が持つ力を改めて感じた。
次回は、唐・新羅の脅威のもとで中央集権化が一層進展する飛鳥時代後期を歩くことにしたい。