bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

横浜市歴史博物館にプレ連続講座「鎌倉御家人の所領経営」を聴講に行く

横浜市歴史博物館は、この秋から開催する企画展「追憶のサムライ」に先立って、プレ連続講座を行った。先週末(9月17日)はその最後ということで、東大史料編纂所井上聡さんが「鎌倉御家人の所領経営」の話をした。話し上手な方で、またとても興味が湧く内容であった。話に惹かれ、久しぶりに身を乗り出し、一言一句に注意しながら、細かくメモを取った。

たびたびブログでも書いているように、今年は大河ドラマで鎌倉の御家人を扱っていることもあって、あちらこちらで関連のイベントが開かれている。それらのいくつかに参加したこともあって、随分と詳しくなった。しかし「武士」ということもあって、乱を扱ったものが多かった。どの様な事件があったのかについては詳細な知識を得たが、御家人はどのようにして生活が成り立つようにしていたのか、と改めて問われると、地頭として荘園の維持・管理をしたと言えるぐらいであった。まともな説明とは言えないので、もう少し突っ込んで知りたいとかねがね感じていた。今回の講演はまさにぴったりで、期待していた以上の知見を得た。

井上さんは、最初に「武士とは何か?」ということから始められた。我々が、学校教育で教えられた武士は、農村から登場し、荘園制と貴族社会を打ち壊し、新しい封建社会をつくった人々であった。自ら開発した農地を「一所懸命」に守るストイックな存在でもあった。

このブログの別の記事で、野口実さんの『源氏の血流』で紹介したが、近年においては「京武者」という言葉で表現されるように、武士は律令国家の武力組織からの転化と見なされるようにもなった。さらに最近になって、高橋修さんや田中大喜さんたちは、在地領主の領域支配の核に、流通・交通の結節点としての町場があることに注目して、開発領主・在地領主像の再検討をしている。そこには当初の農民から誕生したイメージはない。

これらを受けて、井上さんは次のように定義した。武士とは、開発領主・在地領主のうちで、中央集権や国衙とのつながりを背景に武力を持つことを承認された存在である。彼らは、都市を核とする荘園制の経済的ネットワーク(物流・交通・金融)を活用しながら、自ら都鄙を往復し、地域所領の開発・保存し、維持・経営した。

鎌倉時代の経済的な基盤は荘園制である。律令国家が始まってすぐあとに、墾田永年私財法(天平15年(743))が発布され、荘園発生の基礎ができた。摂関政治全盛時(11世紀)には、開発領主は有力貴族などに荘園を寄進するようになった。さらに院政期(12世紀)になると、上皇家・摂関家・大寺院などは、所有している小規模の私領を核に、広大な領域を囲い込み領域型荘園を誕生させた。

このころの荘園の所有関係を示すと次の図のようになる。本所は、今日の言葉で表すとオーナーで、荘園の実効支配者である。領家は、エージェントで、本所から荘園に関わる権利・利益の一部を付与されている。下司・公文(荘官)は、マネージャーで、現地管理者であり、井上さんの定義によれば、武士となる。

鎌倉時代に入っても荘園制は引き継がれた。鎌倉殿(鎌倉時代の将軍)と主従関係を結んだ武士は、特別に御家人と呼ばれた。鎌倉幕府成立以前には彼らは下司・公文であり、御家人となることで鎌倉殿より地頭職が与えられた。下司・公文は本所・領家から任命され、その身分は不安定であったが、地頭になることで本所・領家からの任命権が及ばなくなった。これにより地位が安定したため、本所・領家に納める年貢の割合を圧縮することが可能になり、実際実行された。

頼朝に地頭の設置が勅許されたのは文治元年(1185)である。地頭を頼朝の裁量で決められるようになったことが、鎌倉幕府にとっては最も重要なことであったと考えられるようになったのだろう。今日の教科書は、この年を以て鎌倉幕府のはじまりとしている(我々の世代はいい国(1192)造ろう鎌倉幕府だった)。このとき御家人には、関東の本領、平家没官領、源義経跡が地頭として与えられた。そのあと鎌倉幕府が対抗勢力を滅亡させるごとに 地頭は拡大した。奥州合戦(文治5年(1189))での勝利により奥州藤原氏跡が加わった。また承久の乱(承久3年(1221))では京方没収地が、新補地頭として与えられた。これにより御家人は、関東の本領のみならず、列島規模で所領を有するようになった。まるでバブルのように拡大した。

どの程度拡大したのかを見てみよう。安保(あぼ)氏は北武蔵の賀美郡を本領とする武士で、武蔵七党の丹党に属し、武蔵の典型的な武士団の一つである。安保氏が残した「安保文書」は、中世の武士の様子を知る上で貴重な史料である。安保光泰譲状(歴応3年(1340))から、鎌倉末期の安保氏の所領の分布を知ることができる。表で上の3国は安保光泰譲状によるものであり、他は表中に出展先が記載されている。井上さんは次のように領地を得たと見立てている。武蔵国は本領、出羽国奥州合戦で、播磨国近江国承久の乱で増えたもの。陸奥国は、鎌倉後期に得たものだろう。

安保直実は、歴応3年(1340)に、父光泰より次の領地を譲りうけた。

井上さんは、『太平記』(東国に居住して三百余箇度の合戦)、『東大寺文書』(播磨国大部荘地頭悪党交名→直実)、『祇園執行日記』(京四条に邸宅)、『余目(あまるべ)安保軍記』(余部安保氏の祖は直実)から、「直実は、武蔵と京都に屋敷をもちながら、播磨・但馬・出羽を股にかけ広域に活動した」と解釈した。そして本領と鎌倉・京都を軸に、所領のある地域を移動しながら支配の維持を図る姿が、鎌倉期以来の所領経営スタイルではないかと話された。

この見方を補強する例がさらに提示された。寺尾重員(為重)が、継母妙漣と異母兄弟重通から訴追された。その時の「尼妙漣等訴追状」(弘安元年(1278))から小規模武士の所領経営を伺い知ることができると説明された。なお寺尾氏は渋谷氏の庶家である。

少し寄り道をして、渋谷氏の家系を簡単に説明しておこう。渋谷氏は、桓武平氏の一流である秩父氏を祖とし、南関東に進出した河崎冠者基家が相模国に展開し、孫の重国が渋谷荘司となって渋谷氏を名乗った。源頼朝挙兵(治承4年(1180))のとき、重国は大庭景親らとともに平家方に与した。しかし佐々木定綱兄弟を庇護したこと、さらにはそのあと頼朝の麾下に入って子の次郎高重とともに戦功をあげたことなどが認められ、二人は御家人となった。そして重国は相模大名の地位を維持した。北条氏が和田氏を滅ぼした和田合戦(建保元年(1213))で、重国は和田義盛方につき戦死したが、太郎光重が渋谷荘を保った。北条氏が三浦氏を滅亡させた宝治合戦(宝治元年(1247))では渋谷氏は戦功をあげ、子の定心らは、千葉氏の旧領薩摩国薩摩郡入来院(いりきいん)、薩摩郡祁答院(けどういん)、薩摩郡東郷別府(とうごうべっぷ)、高城(たき)郡などの地頭となった。


さて本題に戻ろう。訴訟を起こされたのは定心の孫の重員、訴えたのは継母の妙漣とその子の重通であった。

訴えに対して重員は陳情で次のように反論した。(1)私為重(重員)が絶縁され、悪行を働いたというのは継母の嘘、(2)渋谷の屋敷もその他の所領も私のものなのに、継母が留守中に奪った、(3)幕府の召還に応じないと言っているが美作滞在中は何も言ってこなかった、(4)薩摩滞在中に、美作の妻に御教書を渡した、(5)私は強盗・山賊などではない、(6)判決が出るのは早すぎる、(7)妙漣・重通への譲り状が父親直筆というのは怪しい。

重員と妙漣・重通の一連のやり取りは、鎌倉時代の女性の権利が決して低くなかったことを説明するために使われることが多い。しかし井上さんは、そこに現れてくる重員の居所に着目した。鎌倉への召還から逃れるために重員は逃亡していると、妙漣は訴える。重員は、本領である相模渋谷荘から、入来年貢の中継地である備前方上津へ、そして所領である美作河会荘へ、さらに所領である薩摩入来院塔原村へ、最後に所領と思われる奥州へと移動している。重員は逃亡ではなく、いつもの行動と反論している。井上さんは、これから、鎌倉御家人による所領経営は安保直実や寺尾重員のようなスタイルが一般的で、「本領と京・鎌倉を軸に、所領のある地域を移動しながら荘園経営をしていた」と見ている。

飛行機も新幹線もない時代に、飛び廻るのは大変だったことだろう。しかしそれだけで全国に散在する所領を経営できるわけではない。それぞれの所領での生産を順調に進ませるための指揮も必要だし、在地での収穫を京(荘園領主への上納)や、東国・鎌倉(物資・富の移送)へ運ぶための流通も必要だし、幕府から要求される資金の提供に応じる必要もあった。このようにかなり複雑な荘園の経営をどのようにこなしたのだろうか。

安保氏のような小規模御家人がどのように荘園を経営していたかについての史料はこれまで見つかっていないので、井上さんは、延応元年(1239)の鎌倉幕府追加法「山僧・借上などを地頭代とすることを禁じる」に解決の糸口を見出した。山僧は比叡山延暦寺などの僧で経済的活動に長けており、借上は金融業者である。禁止の法律ができたということは、このようなことが横行していたことを示すもので、小規模御家人は、山僧・借上・商人などを地頭代にして経営を委託したと、井上さんは見ている。委託したことで、経営のプロである山僧・借上・商人に侵食されて、御家人たちの所領状況は悪化したと説明してくれた。

また、大規模御家人では、有能な経営のスタッフを抱えていたのではと見ている。千葉氏を取り上げて説明された。その内容に入る前に、ここでも寄り道をして千葉氏について簡単に説明しておこう。

千葉氏は桓武平氏で、平忠常の乱(長元元年(1028))をおこした忠常の子孫。千葉常胤は源頼朝の挙兵に応じ、下総の守護となる。そのあと嫡流は下総権介を兼ねて千葉氏を称した。同族の上総介広常が頼朝に討たれたこともあって、鎌倉時代には大きく発展し、下総、上総、陸奥、美濃、伊賀、九州などの所領を得た。獲得した所領は、そのあと常胤の子の6人、胤正(千葉介)・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼がそれぞれ分割して受け継ぎ、それぞれの中心となる所領の地名を名乗った。胤正の孫の秀胤(上総権介)は、妻が三浦泰村の妹であったことなどから、宝治合戦では一族の多くが北条氏方につく中で、三浦氏に与した。秀胤の九州の所領は、先に見たように渋谷氏に渡った。なお胤綱と時胤は、家系図では親子としたが、吾妻鏡では兄弟となっている。

それでは元に戻ろう。有力御家人である千葉氏の場合には、中山法華経寺所蔵『日蓮聖教紙背文書』から所領経営の様子を知ることができる。千葉頼胤が千葉介を担っている頃と思われる文書の中に、家人の一人である西心(さいしん)が、やはり家人の富木常忍に宛てて、「介殿(千葉氏)が上洛のための銭200巻を介馬允(すけのむまのせう)という借上から替銭(支払い約束手形)で調達し、返済に小城郡の年貢を充てたので、借上が現地へ下向して銭の確保に奔走する様子」が書かれている。これに関連して、小城郡の人物とみられる弥藤二入道が返済に応じていること、しかし銭の調達が難しく、京都大宮の千葉氏の屋敷を質に入れ、利銭(借金)を調達することで馬允に返済しようとする様子が書かれている。

富木常忍の経歴を調べると、父の代に因幡国法美郡富城郷から上総に移住、常忍は識字率が高かったとされている。井上さんは、常忍は官人で、経営能力を有していたのではと見ている。そして経営能力を持ったスタッフ(吏僚)を集めて家産組織を編成し、金融業者による資金調達を媒介として、本領・鎌倉・京都を拠点に散在所領を経営していたとしている。しかしそれにもかかわらず、千葉氏の吏僚は、資金繰りの悪化に何度も直面した。やはり所領経営はなかなか難しかったようである。

13世紀後半以降、所領経営が特に難しい中小の御家人は、御家人の身分を維持しながら、北条氏の被官(得宗被官)として編成された。北条氏は、幕府内で最も多くの所領を列島各地に所有する存在で、(1)経営機関としての得宗公文所、(2)安藤蓮聖に代表されるような流通・物流に精通した被官の存在、(3)通用な交通路・津・港などの掌握によって、列島に物流・交通・金融のネットワークを構築した。人材・資金で劣る中小御家人は、北条家のネットワークを利用して所領経営を行ったと話してくれた。

14世紀中盤以降は、荘園制の最大庇護者であった鎌倉幕府・北条家の滅亡によってネットワークは崩壊、御家人らの所領も拠点所領の周辺に集約され遠隔所領は消滅、安保氏は本領である武蔵とその周辺地域に限定され、各地の安保氏は自立化(列島規模の移動は直実が最後)、また寺尾氏は薩摩入来院とその周辺にのみ集約され譲り状には遠隔所領も記載されるものの形式的なものとなったと、話を結ばれた。

武士を律令制度の武力組織の転化とする見方に対しては、在地領主・開発領主が武士から抜けているようで不満であったが、今回の井上さんの定義は分かりやすかった。また御家人たちが所領経営の上で、物流・交通・金融のネットワークを列島という広域にわたって構築・活用したことのすごさを知った。さらに列島を飛び回りながらネットワークを動かしていく御家人の躍動的な姿を浮かび上がらせてくれた。御家人たちの所領経営に関する理論的な組み立てを伺うことができ、久しぶりにすばらしい話を味わえて、有意義な一日であった。

あつぎ郷土博物館に縄文時代を特徴づける土器を観に行く

あつぎ郷土博物館に行ってきた(9月16日)。ボランティア仲間から特別展が開催されていることを聞き、そのホームページで調べたら終了間近だと分かったので、おっとり刀で出かけた。交通案内を調べたら途中の道路が渋滞していたので、電車・バスを使用した。

厚木駅北口から、あつぎ郷土博物館行きのバスを利用。どうせ空いているだろうと高を括っていたら、そんなことはなく、途中に大学があり通学生でほぼ満員。運良く座れたからよかったものの、そうでなかったら30分近く、若い人達の中に埋もれて立ち続けることになり、見学のための体力は失われていただろう。大学前の停留所に着き、列をなして学生たちが降りたあとには、やはり博物館を訪ねるのだろうと思しき身なりの方と私の二人が、ぽつんと取り残された。

さらに10分近く走った後、終点の博物館に到着した。ここの博物館は3年前に新築され、こじんまりとした綺麗な施設である。

館内には特別と常設の展示室がある。常設展では、1200万年前の化石から現在までの「あつぎ」の風土・考古・歴史・民族・生物について、分かりやすい構成で伝えている。今日の目的は常設展ではなく、特別展「有孔鍔(つば)付土器と人体装飾文の世界」である。縄文時代には、人々は1万年にもわたって定住型の狩猟採集生活をした。定住を始めたことで、採集に必要な道具だけでなく、生活を便利にさらには豊かにするモノを作り出して利用するようになった。その代表的なものが、移動には不便な土器である。縄文の人々は、様々な形態の土器を生み出したが、中期(4500~5500年前)には、口縁に孔が開きそして鍔を有する有孔鍔付土器を生み出し、さらには中央部に人体に似せた装飾を設けることもした。これらの土器は、関東地方や中部地方を中心に見られるが、出土量の多さでは中部高地が目立っている。今回はこれらも含めて展示されていた。

それでは展示を見てみよう。最初は、国重要文化財の有孔鍔付土器。甲府市の一の沢遺跡出土である。口縁の近くに孔があり、その下は鍔のように広がっている。

胴体部を拡大、目、口そしてまた目だろうか?

甲州市安道寺出土の山梨県重文、

胴体部、中央に見えているのは蛇だろうか?

山梨県大木土遺跡出土、

笛吹市釈迦堂遺跡出土、国重文のミニチュア有孔鍔付土器、

何に使われたのだろう?特殊な形をしている諏訪市ダッシュ遺跡出土(諏訪市博物館所蔵)、

渋さが優っている長野県井戸尻遺跡出土、

寒川町岡田遺跡出土、

厚木市林南遺跡第7地点出土(手前)

胴体部、両側に蛇?それとも両手?

有孔鍔付土器が終焉を迎えるころの伊勢原市西富岡・向畑遺跡出土の小把手付壺、

ここからは人体装飾文がより鮮明な土器たちである。
元代表だろうか?厚木市林王子遺跡出土、

胴体部を拡大、神奈川県立歴史博物館にある頭部だけの土偶(?)と表情がよく似ている。

国重文の笛吹市釈迦堂遺跡出土、

胴体部を拡大、横に広げているのは手だろうか?先端は手首のように見える。

平塚市上ノ入B遺跡出土、

胴体部、対称性を強調した抽象化された人間だろうか?構図がとても面白い。

相模原市指定有形文化財の大日野原遺跡出土の人体文付土器、

胴体部を拡大、きれいな幾何学模様だ。魚のようにも感じられる。

調布市指定有形文化財の原山遺跡出土、

胴体部を拡大、怒っているのだろうか?目と口を強調しているのが印象的。

諏訪市ダッシュ遺跡出土(諏訪市博物館所蔵)、

胴体部を拡大、ひょうきん!印象に残る表情である。

有孔鍔付土器はなぜ使われるようになったかについてはいまだに解明されていない。有力な説は太鼓。

もう少し有力な説は酒造。縄文後期になると、注口土器が現れる。これは酒を注ぐためと説明する研究者もいるようだが、果たしてどうなのだろう。

縄文時代中期の土器は、装飾性に優れていて、見る人の目を楽しませてくれる。今回の有孔鍔付土器も、胴体部の装飾から、この時代の人々の精神的な豊かさを伺い知ることができ楽しめた。常設展も厚木の歴史が分かり、優れた展示であった。

1時間おきにしか出ないバスに乗り込んで帰路に就いた。例の大学の前では、学生たちが長い列を作ってバスを待っていて、乗り切れない。朝にもまして詰め込まれ、学生たちは身動きができない。さらに途中の停車所からは、杖を突いた老人たちが、入り口のステップへと乗り込んできた。押し合いへし合いになるほどの混雑で、老人たちが転ばないかと心配になった。はるか昔の高校生のころにしか経験したことのないような光景に出会い、びっくり(もっともその頃は若い人だけで、老人が乘ってくることはなかった)。長い車中だったのだが、その長さを感じることはなく、学生たちの毎日の通学の苦痛とこの路線上に住む人々の不便さに胸が痛んだ。博物館の余韻もすっかり冷めたころ、終点の厚木駅に到着した。博物館で味わった楽しさと、満員のバスに対する不安・不満とが入り混じった、複雑な一日だった。

登呂遺跡を訪ねる

小学校の教科書で紹介されたこともあり、広く知られている登呂遺跡(静岡市)を訪ねた(9月11日日曜日)。ここは2000年前の住居・水田の跡が残る弥生時代の歴史的遺産である。東京を出たときは曇っていたが、三島を過ぎ、富士山が真横に迫ったころには、その山頂付近に雲がかかっているだけで、晴天。素晴らしい一日が期待できた。

車中で携帯を利用して、登呂遺跡の場所を確認する。静岡駅の南側、海側にある。

近くを安倍川が流れ、洪水に悩まされただろうと容易に想像できる。今昔マップで調べると、明治時代後半ごろは、一帯は水田となっている。

安部川の歴史を調べると、江戸時代に新田開発が始まり、それを洪水から守るために、山から海にかけて堤防(霞提)を築いたとなっていた。

博物館のホームページで確認すると、静岡平野は、安倍川と藁科川によって作られた扇状地で、2000年前には、自然堤防のような微高地に多くの集落が存在し、登呂遺跡はその一つとある。遺跡の集落は、弥生時代後期から古墳時代まで、4つの時代に分けることができ、その間に2回の洪水があり、ムラは壊滅的な被害を受けたそうである。復元されているのは1回目の洪水を受ける前の最盛期の集落である。

ついでに登呂遺跡発見の歴史も調べる。第二次世界大戦中の昭和18年(1943)に軍需工場建設の際に発見された。戦後の昭和22年(1947)に総合的な調査が行われ、80,000㎡を超える水田跡、井戸跡、竪穴住居12棟、高床倉庫3棟、農耕・狩猟・漁猟用の木製道具、火起こし道具、占骨などが発見された。平成11年に再発掘が行われ、銅釧、琴、祭殿跡などが新たに発見された。

静岡駅で新幹線を降り、タクシーで登呂遺跡へと向かった。北側エントランスから入り、弥生時代の復元された集落を見学した。手前に高床倉庫、奥に竪穴住居。右手の高床倉庫では、火おこし体験が行われてた。

高床倉庫、

竪穴住居、

内部、


祭殿、

水田、

博物館、

博物館屋上から見た登呂遺跡。

晴れあがった青空のもとゆっくりと集落を散策したあとで、博物館を見学しようとしたとき、ビックリするようなハプニングに見舞われた。入口では、強制的ではないが、体温測定ができるようになっていた。どの程度の体温なのかを知りたくて、帽子を脱いで測定機に顔を近づけたところ、けたたましく鳴り響いた。計測値を見ると、今までに経験したこともないような高い値が示されていた。陽当たりの強い中を歩き回った直後に、高い値が出ることは何回か経験していたが、これほどの値が出たのは初めて。もし本当だとすると、フラフラの状態で、歩くことはできないはず。計測器がおかしいと判断したけれど、周りにいた人たちは怪しいと感じているようで、身の置き場に困った。コロナが始まったころであれば、こちらにどうぞと言って隔離室に案内されそうだが、さすがに皆慣れてきたのだろう。警戒音がやむと、何事もなかったかのように、中断した作業を続けてくれた。

常設展示室には遺跡からの出土品が飾られていた。特に木製道具が優れていた。ネズミ返しもあった。


土器、

これで教科書にも載ったことのある登呂遺跡、大塚遺跡(横浜市)、吉野ケ里遺跡(佐賀県吉野ケ里町)の全てを訪れることができた。大塚遺跡は水田稲作が始まったころの典型的な特徴を有する環濠集落、登呂遺跡は弥生時代の特徴が水田稲作であることを改めて認識させてくれるシンボル的な集落、そして吉野ケ里遺跡は水田稲作が身分的な格差を生み出しクニのはじまりになることを教えてくれる発展的集落であった。これらを肌で感じることができ、小さなハプニングはあったものの、楽しい小旅行であった。

中島隆博著『荘子の哲学』を読む

小学校低学年であった孫と、桜吹雪の舞う小川に沿って家族で散歩していたとき、彼が風に舞う桜花に操られるように、あちらへこちらへ走り回り、やっと捕まえた数枚の花を、惜しげもなく川面に投げこんだ。透明に澄んだ水中では、春を楽しむかのように一匹の鯉が悠々と泳いでいた。まだあどけない孫が突然、花を目で追っている鯉に向かって、「コイさん、コイさん。ぼくのコイを受け取って」と呼び掛けた。周りにいた大人たちは、びっくり。少し間をおいて、ほほえましく感じたのだろう、ニコッと皆が笑った。孫の語りかけを、それぞれが持つ感覚で理解したようであった。

この場面は、ありえないことがいくつも組み込まれているために、超越的・神秘的とも思える異次元の世界を醸し出してくれる。小学生低学年の子が恋を知っているのだろうか。人間が話しかけたことが鯉に通じるのだろうか。投げ込まれた桜花は、孫と鯉とをつなぐ運命の赤い糸になるのだろうか。あれやこれやと、ありえない現実を前にして、普段では考えないような柔軟な発想へと、このときもそしてこのあとも、導いてくれた。

先日、中島隆博さんの『中国哲学史』を読んだ。なかなか面白い本だったが未消化に感じたので、別の本も読んでみようと思い、出会ったのが『荘子の哲学』である。

この本の中には上記の話とよく似た例が記載されている。結末を同じにするために、続きを付け加えてみよう。投げこまれた花びらを鯉が口に含んだのを見て、孫が小躍りして喜び、「鯉が僕の恋を受け入れてくれた」と言ったことにしてみよう。鯉が恋するわけはないとか、あるいは鯉の恋を感じ取った孫の感情を他の人が認識できないのだから何とも言えないなど、色々な説明がなされることだろう。

中島さんが言うところの荘子ならば、「一般的な世界では、鯉が人間に恋することはない。しかし、桜吹雪の中、苦労して採取した大事な花びらを、孫が熱い思いをかけて鯉に投じ、鯉が食べたということで、親近感漂う超越的な世界が生み出され、孫と鯉との間で意思疎通が叶った」と説明するだろう。

中島さんは、本人が変わるだけでなく本人を取り巻く世界も同時に変わっていくことの説明の中で、孫の鯉に似たような話をしている。そこでは魚(はや)の楽しみが分かるかについて議論しているが、かなりの紙幅をとって説明している。

孫の話は、単にませた子と考えてしまうと、どこにでも転がっていそうな話である。それではもう少し飛躍することにしよう。子供の頃に聞いたと思われるおとぎ話の「浦島太郎」はどうであろう。いくつかの伝承があるが、御伽文庫の原本では次のようになっている。

丹後の浦島に住んでいた浦島太郎は、漁師をして両親を養っていた。あるとき、亀を釣り上げた。殺すのはかわいそうなので、「恩を忘れるなよ」と言って逃がした。数日後、一人の女性が舟で浜にたどり着き、漂流したので本国に戻して欲しいと太郎に請願する。二人はその舟で竜宮城に着き、女性(乙姫)から夫婦になろうと言い出され、太郎はそこで乙姫と三年間暮らす。太郎は両親が心配だから帰りたいと申し出る。乙姫は、亀は自分の化身であったと告げ、決して開けてはならないと約束させ、玉手箱を渡す。浦島太郎は浜に帰るが、700年も経過していて、彼を知る人は誰もいない。約束を忘れて玉手箱を開けると、浦島太郎はたちまち老人に、そして鶴になる。同時に乙姫も亀になり、二人は不老不死の蓬莱山に向かった。

この話は、浜で普通の生活をしているところから始まる。亀を助けたことで、竜宮城で夢のような生活をする。元の生活に戻りたいと望んだ後、不老不死の鶴になった(戦前の尋常小学国語読本では、約束は守りなさいと言うことで、白髪の老人になったところで終わっている)。

下ごしらえができたので、ここからは荘子の基本的な考え方を説明をする。中島さんは「髑髏問答」を用いて紹介しているが、ここでは上記の浦島太郎を用いる。

荘子の思想は、道学と呼ばれ、「無」という考え方は重要である。この言葉は次の様に使われる(異なった定義のように感じられるが、実は一緒である)。(1)質量がない、すなわち存在しない。(2)二つの間に違いがない。(3)限りがない、すなわち有限ではないということを表す。(2)を数学の用語で表すと同値である。しかし数学の世界でも、どの分野で用いるかによって、その定義は異なる。

ユークリッド幾何学であれば、三角形の合同や相似である。位相幾何学では、粘土細工のように、延ばしたり縮めたりして同じ形になるものが同値である。代数的位相幾何学では、次元を無視して伸縮して同じになるものである。さらに高度に抽象化した圏論での随伴(adjunction)もその一種だろう。このように同値という概念は幅広く使われる。荘子は、数学の世界を越え、もっと超越的に同値、即ち、「斉同」を定義している。

浦島太郎の例を調べてみよう。太郎は、最初は漁師であったが、亀を助けたことにより、竜宮城で乙姫と夢のような生活をする。漁師をしていた時の浦島太郎は、その生活に徹することで満足していたであろう(本当か?という方もあるかと思うが、ここは道学・道教での道に従って太郎は理想的な人生を送っていると考えよう)。また、竜宮城では夢のような生活に徹することで満足していただろう。世界が大きく変わり、生活の仕方も変わっているのに、太郎は変わることなく生活に徹し満足していた。生活に徹し満足していたという点では同じなので、漁師のときも、竜宮城にいたときも、太郎(のあり方)は同じと見なす。同じように、鶴となった太郎も、不老不死を獲得したのだから、鶴に徹し満足していたはずである。従って、蓬莱山でも太郎は同じであった。

上記の説明を図で示してみよう。すなわち漁師から竜宮城へ、さらに蓬莱山へと移っていく彼の人生を、時計まわりに描いたのが下図である。このため、同値には方向性がある。漁師の太郎から見ると、竜宮城の太郎は同じといえる。同様に、竜宮城から蓬莱山を見たとき、太郎は同じである。しかし逆方向についてはそうとは言えない。このように荘子の同値には方向性があり、蓬莱山から見て竜宮城は同じとはならない。フランスの哲学者ジャック・デリダ差延(différance)と比較すると面白いが、たくさんのことを説明する必要があるので、ここでは残念ながらカット。

荘子の斉同は、A(浜での太郎)からB(竜宮城での太郎)へと自然に移行すると考える哲学者が多いが、そうではないと中島さんは主張する。AとBの間には区切りがあると説明する(ここが一番素晴らしいところである)。荘子は、Aが物化してBになると言う。物化を説明するのに、フランス哲学者ジル・ドゥルーズ微分という概念を持ち出す。ここでの微分は、いわゆる数学で一般に使われている概念とは異なり、理念をあらわにするための切断の作用と見なしている。似顔絵師は、顔の輪郭を利用して人物の特徴をとらえた絵を描く。輪郭は顔と背景とを分断する線である。数学では微分は連続域に対して定義するが、ドゥルーズはあえて不連続なところ(微分できないところ)を利用し大切だと言っている。

浦島太郎の話に戻ると、漁師と竜宮城、竜宮城と蓬莱山では、世界が明らかに異なり、それぞれの間に物化がある。別の世界へと飛び込んでいく境界である。この物化が、荘子の考え方の中で一番重要であると、中島さんは言っている。

この本の最後は「ドゥルーズが、蝶になって、窓から身を躍らせた」となっている。ドゥルーズが人から蝶への物化を試みている瞬間だが、自身の考え方を完遂したと見るべきなのだろうか。何とも恐ろしい結末だが、物化を際立たせる素晴らしいエンディングである。

最後にまとめると、斉同は時間が進む中での同値で、物化は異なる世界へ移っていったときの同値である。これを考えてはどうかとこの本は提案している。特に後者は非連続な空間の同値なので、自然科学分野に馴染んできた私には、まさかと思われる考え方だ。この本の冒頭で物理学者の湯川さんの話が紹介され、東洋哲学に馴染んでいたためにノーベル賞につながる新しい理論を築くことができたと述べられていた。飛び離れた考え方に接することで新しい考え方が生まれる。非連続な空間の中での同値という問題について、しばらく考えてみようと思っている。

東京・世田谷の九品仏浄真寺を訪ねる

今年は夏のはじまりも早かったが、秋のはじまりも早いようだ。いつも散歩をしている田圃の畔道に、お彼岸のシンボルともなっている曼殊沙華が早々と咲いていたので、目を疑ってしまった。

ボランティアをしているある会から近くの文化財を紹介して欲しいと依頼されたので、材料を仕入れるために九品仏(くほんぶつ)にある浄真寺を訪ねた(8月30日)。ここは、ちょっとおしゃれな自由が丘に近く、すこし足を延ばすと高級住宅街の田園調布もある。高校生の頃は等々力渓谷のコートでテニスに興じるために頻繁に近くまで来ていたのだが、当時は寺には興味がなく立ち寄ったことはなかった。近くの会社に勤めるようになってからも拝観に訪れた記憶はない。退職後に、懐かしい場所を訪ね歩いているとき、そういえば九品仏に行ったことがないと気がつき、ついでに寄ったことがある。恐らくこれが唯一の結節点だろう。

変わった名前のお寺という以外の知識しかなかったので、ホームページで調べ、由来などの情報を得て出かけた。最寄り駅は大井町線九品仏駅。この駅は二つの道路に挟まれているため、ホームは短く、自由が丘寄りの車両しか扉は開かない。駅舎もこじんまりしていて、都内とは思えない。

戦国時代には世田谷吉良氏系の奥沢城があり、浄真寺の境内には方形の郭跡が残っている。今昔マップで調べると、左側の明治42年の地図には、九品仏駅のあたりに、城前や千駄丸という城にちなんだ名前が見受けられる。現在の浄真寺の周りは住宅街となっているが、明治の終わり頃はまだ一面田圃であった。

新編武蔵風土記稿によれば、豊臣秀吉小田原征伐後に廃城となり、寛文5年(1675)に名主の七兵衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678)に珂碩(かせき)上人が浄真寺を開山したとなっている。

またデジタル版日本人名大辞典によれば、珂碩上人は次のような人物である。江戸時代初期の元和元年(1618)に江戸に生まれ、大巌寺(下総国)の珂山上人の弟子となった。寛永13年(1636)に江戸霊厳寺に師とともに移り、阿弥陀仏造像の発願をして、30年間毎日3文ずつ貯え、さらには弟子珂憶(かおく)上人の協力を得て、寛文7年(1667)に9躯の阿弥陀仏像と1躯の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)像を造立した。延宝6年に九品仏浄真寺を開山したのにあわせて、仏像も移設された。阿弥陀仏像9躯は、上品堂(じょうぼんどう)、中品堂(ちゅうぼんどう)、下品堂(げぼんどう)のそれぞれに3躯ずつ、釈迦牟尼仏像は本堂に安置された(珂碩上人が亡くなった後、珂憶上人がこれらの堂を元禄11年(1698)に造営した)。なお、珂碩上人は元禄7年(1694)に77歳で歿した。

それでは、浄真寺を訪問してみよう。改札を左側に出ると、参道の入口につながる。思ったいたよりも人が多いのにびっくり。

しばらくすると総門。

総門をくぐってすぐのところに、建て替えたと思われる焔魔堂(えんまどう)。

中にはそら恐ろしい閻魔大王

右側に懸衣翁、

左側には奪衣婆、

またご丁寧に三途の川も用意されていた。

しばらく行くと開山堂。珂碩上人が42歳のときに自彫した木造珂碩上人坐像があり、毎月7日の開山忌に開扉される。

そして寛政5年(1793)に建立された立派な山門としての仁王門(紫雲楼)、

一対の仁王像


建物の組物と獅子の彫刻、

欄間の彫刻、


風神・雷神も目立たないが仁王像の裏側に安置されていた。


宝永5年(1708)に建立された鐘楼堂。

そして境内に入る。もみじの並木だ。晩秋には紅葉し、素晴らしい景色を醸し出してくれることだろう。

元禄11年(1698)上棟の本堂(龍護殿)は改修中、

正面、

釈迦牟尼仏像、

本堂は法事中だったため、中に入ることができなかった。堂内には珂碩上人倚像がある。奈良時代に盛んであった乾漆造りで、江戸時代にはあまり例がない貴重な像である。

いよいよ、阿弥陀仏像である。3堂とも前述したように元禄11年(1698)の築である。先ずは上品堂、

弥陀定印の印相を結んでいる。

そして中品堂、

印相が説法印に変わった。

最後は下品堂、

来迎印の阿弥陀仏像。真ん中が抜けていて何か変だが、この像は現在改修中で戻ってくるのは2年後。

本堂の周囲には庭園があるが、現在改修中のため、極楽浄土を模した華麗な庭を見ることは叶わなかった。また、木造阿弥陀如来坐像(9躯)、木造釈迦如来坐像、木造珂碩上人坐像は東京都指定の文化財である。

最後に世田谷区の中世・近世の歴史をたどってみよう。室町時代の14世紀後半には、世田谷の領主は吉良氏で、矢倉沢往還(大山街道)の拠点である世田谷城址公園・豪徳寺一帯に館を構えていた。戦国時代の16世紀には、吉良氏が小田原北条家の支配下に入り、矢倉沢往還沿いに世田谷新宿が設けられ、楽市が開かれた。これは現在のぼろ市の起源となっている。世田谷新宿を管理するため、吉良家家臣の大場家が、世田谷新宿に移り住み、代官屋敷となった。江戸時代の17世紀になると、世田谷の村の半数は彦根藩井伊家の領地となった。世田谷領代官となった大場家は、230年間にわたって領内をまとめた。藩主の井伊家は世田谷村の豪徳寺菩提寺とし、大老井伊直弼も葬られている。豪徳寺近くの松陰神社には、吉田松陰墓所が置かれている。また若林村には萩藩毛利家の抱え屋敷があった。

世田谷の地はあまり馴染みがないが、これを機会に豪徳寺松陰神社を訪ねて、世田谷の歴史をたどってみたいと考えている。

野口実著『源氏の血脈』を読む

今年はNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のお陰だろう、鎌倉時代に関係するメディアの露出が目立っている。それに引き付けられて、いつの間にか鎌倉時代に関する本をたくさん読んでしまった。仲間と談笑しているときに、気が付けばいっぱしの鎌倉ツウであるかのように説明している自分にハッとさせられる。

鎌倉殿の13人は、もちろん武士たちの物語。生き残りのためにライバルを蹴落としていく。蹴落とすといっても、崖から突き落とすのではなく、陰謀・策略を巡らして、惨殺するという恐ろしい事件の連続である。このようなことを日常としている武士たちの起源は、関東での平将門の乱(935~940)と、瀬戸内海での藤原純友の乱(939~941)であろう。この二つの戦いは歴史書には承平天慶の乱と記されている。一族同士での領地争いが私闘になり、さらに激化して朝廷から謀反と見なされるに至った。将門の乱を平定した平貞盛藤原秀郷従四位下従五位上に叙せられた。また純友の乱は追補使小野好古・次官源経基によって鎮圧され、経基は武蔵・信濃筑前・但馬・伊予の国司に任ぜられた。

平貞盛源経基の子孫からは、伊勢平氏河内源氏が誕生し、彼らは軍事貴族や京武者(院・摂関家に従属し、官職に関係なく軍事的に動員される武士)として活躍した。また平貞盛の叔父たちの子孫は、秩父平氏常陸平氏房総平氏・相模平氏と呼ばれる東国武士団になった。

東国武士団の地となった関東に、源氏が足場を築いたのは摂関政治全盛のころ。房総平氏常陸平氏との間での競合に切っ掛けがありそうだ。両者の間で私闘が高じたようで、朝廷から謀反と見なされ、平忠常(房総平氏)の乱(1028~31)となった。この乱を平定するために、平直方が追討使に任じられる。彼は、将門を打ち負かした貞盛を曾祖父とし、摂関家(道長・頼道)の家人で、軍事貴族(京武者)であった。しかし直方は失敗した。そこで河内源氏の流れをくみ、同じく摂関家の家人で軍事貴族(京武者)の源頼信が討伐を命じられた。かつて頼信が常陸介のとき、謀反を起こしている忠常はその部下であったようで、恩義があったのだろうか速やかに降伏した。

直方は、名誉挽回を期すために、頼信の息子の頼義を婿に迎え、さらには鎌倉の地を譲り渡した。そして三人の孫の八幡太郎義家・賀茂次郎義綱・新羅三郎義光の活躍によって、直方は面目を施した。

さらに世代を重ねて、平直方の子孫の一人は北条家の養子となり北条時政・政子へ、源頼信の子孫は義朝・頼朝へと繋がっていく。軍記や説話類では、東国武士団は前九年の役の頼義・後三年の役の義家らの源氏の大将との間で情宜的な主従関係を結んだとなっている(例えば義家と三浦平太郎為次・鎌倉景政)。しかし、これは源頼朝による捏造によってそのように仕向けられた結果だと川合康さんは『源平合戦の虚像を剥ぐ』で説明している。その理由に、平泉藤原家を滅亡させた奥州合戦での頼朝の進軍日程が、前九年合戦での頼義とのそれと合致させられていることなどをあげている。

前置きが長くなったが、野口実さんの『源氏の血脈 武家棟梁への道』は、源頼朝によって政治的に作為されたイデオロギーに基づく歴史観の視点からではなく、近年の研究に基づいて武士について考えなおそうとしている。近年の研究によれば、武士は生産・流通に依拠する都市的な存在であり、鎌倉幕府も平家政権と同様に国家・王権を守護するための軍事部門として成立したとしている。野口さんは、平家と同様に、鎌倉幕府も東国経営と在京活動を分業しようとしたのではないかとみている。

そこでこれを検証するために、鎌倉幕府が成立する前から考えてみようというのが、この本の主旨である。具体的には、保元の乱(1156年)で上皇摂関家側(藤原忠実・頼長)について敗北した為義、同戦で天皇側(後白河)について勝利したが平治の乱(1160年)で藤原信頼に与して敗北した義朝、鎌倉幕府を開いた頼朝、奥州藤原氏とともに滅亡させられた義経について述べられている。

ここでは源頼朝の一族ではなく、傍系の一族をみていこう。以下の図は、平直方の娘の婿となった源頼義からの家系図である。先に述べたように、頼義には、八幡太郎義家・賀茂次郎義綱・新羅三郎義光らの子がいた。そして義光からは佐竹・武田氏が、義家からは為義・義朝・頼朝一族だけでなく足利・新田氏も誕生する。

義家は、前九年の役後三年の役での奥州征伐で活躍した部将である。佐竹・武田氏の祖となる義光は、兄義家を助けるために後三年の役に参陣する。兄同様に朝廷からの許しが得られないなか、清原武衡・家衡を討つために陸奥国に東下して勝利した。しかし帰還命令に応ぜず、左衛門尉を解官(1087年)された。やがて京に帰った義光は、刑部丞・常陸介・甲斐守・刑部少輔の任を担い、従五位下に叙せられた。また後三年の役のち、常陸国の有力豪族である常陸平氏(吉田一族)から妻をむかえ、常陸平氏を自らの勢力とした。そして義光は常陸大掾平重幹(しげもと)と組み、常陸に遅れて進出してきた義家の子の源義国と争い、合戦となって両者ともに勅勘を蒙った。

義光の子の義業(よしなり)は、平重幹の子の清幹の婿となった。さらには上洛してきた平泉の藤原清衡の前妻を妻に迎えた。彼女は清衡との間に惟常(これつね)を儲けた。惟常は、清衡の後継者争いで基衡(清衡の子)に敗れたが、義業は惟常派の勢力を継承したと野口さんは見ている。義業と清幹の娘の間には昌義が誕生し、久慈郡佐竹郷を本拠とする佐竹氏の祖となった。昌義と藤原清衡の娘の間には隆義が、常陸平氏時幹(ときもと)の娘との間には義宗が生まれた。

義光のもう一人の子の義清は武田の祖となる。彼の母は常陸平氏吉田清幹とされている(甲斐守知実となっている文献もある)。いずれにしても、平清幹は娘を、義光とその子の二代にわたって嫁がせたこととなり、在地親族の争いの中で家格をあげ、常陸平氏の中での家督と在庁官職の獲得競争で優位に立ったことであろう。

義清は、那珂川水運の拠点である那賀(吉田)郡武田郷を本拠とした。彼は、吉田氏や鹿島社大禰宜家と対立するようになり、その子の清光は乱行を働いたとして、義清とともに甲斐に移郷された。この地で在地武士の市川氏の支援を得て甲斐源氏の祖となった。五味文彦さんによれば、市川氏は甲斐国衙厩別当で、義清を婿に迎えた可能性が高く、また義光が仕えた六条顕季の子の長実が甲斐国知行国主であったことも何らかの影響があったのではとみられている。

足利・新田氏の祖となる義国の母方は、摂関家の家司(藤原有綱)で、上野国知行国主(日野家)の傍流である。このため義国が上野国新田郡に進出できたのは、母方一族の支援があったためと思われている。義国の子で足利氏の祖となる義康の母方は下野守の源有房、新田の祖となる義重の母方は上野守の藤原敦基であった。知行国府・受領にとっても軍事貴族河内源氏が両国に進出してくるのは、願ったり叶ったりであっただろう。

義国は、父義家が築いた北坂東を継承する役割を担っていたようで、先に見たように叔父義光・平重幹と合戦している。義光の郎党鹿島三郎(吉田清幹の子)が、義家の後継者とされていた義忠を殺害するという事件も起こる。これらは義家流と義光流の対立から生じたと筆者は見なしている。

義国は、義光の子の義業と同様に、京武者として活動、兵部丞・加賀丞・加賀介に任じられ、従五位下に叙せられた。義国の長男である義重は長く東国にあり、在京していた父に代わって所領の経営をした。義国の在京活動は35年に及んだが、しばしば東国に下向していたようである。下野国足利郡の所領を安楽寿院に寄進して、足利庄を立てた。

しかしこのような在地経営の積極化は、在来勢力との軋轢を生みだしたようで、義国の郎党と見なされていた秀郷流足利家綱との間で、伊勢神宮領簗田御厨の領主権をめぐる対立が生じた。これは先に見た武田義清常陸平氏吉田氏との関係に似た事件である。

義国の子の義康も後鳥羽上皇に仕える京武者として活躍、大膳亮・検非違使右衛門尉・蔵人に任ぜられ、従五位下に叙せられた。平清盛源義朝に次ぐ地位を得たが、死去により武家の棟梁になる夢はあえなく挫折した。

ここまでの話をまとめてみよう。源頼信を祖とする河内源氏は、軍事貴族・京武者として活躍した。その頃の東国では、開発領主から成長した武士団(秩父党、武蔵七党)が、家督や在庁官職(この二つは一体化していた)をめぐって、内部抗争を繰り返した。これを鎮静化するために、貴種である京武者の調停を必要とした(権力よりも権威をかざしての仲裁)。これに応えるように、河内源氏の一族は、京との交易に便利な拠点(京武者は多くの家人を抱えているため、その食料を調達するのに都合のよい場所)にしながら、留住(京と関東に拠点を以て居住)した。この状況を佐竹・武田氏と足利・新田氏を例に、本に即して詳しく説明した。この傾向は、義朝・為義・頼朝・義経河内源氏本流でも確認することができるが、詳しくは本を参照して欲しい。

先週の土曜日、講演会で東大史料編纂所の遠藤珠紀さんから「北条政子危篤と公家社会」の話を伺った。藤原定家の日記『明月記』の断簡が最近発見され、そこには北条政子が亡くなる直前の4日間の記載が残されていた。この内容をどの様に解釈したかについて話を伺うことができた。遠藤さんによれば、朝廷側にとっても政子の病状は重大な関心事で、北条側の六波羅探題関東申次西園寺公経、その家人の中原行兼などから正確な情報を得ようとしていることが伺えるとのことであった。そして朝廷と鎌倉の関係は、これまで考えられていたよりも、ずっと密であるというのが結論で、野口実さんの主張と重なるものであった。このことは、「朝廷と鎌倉の密な関係」が、最近の研究の一つの流れであると認識させてくれた。

秋になると、近辺の歴史博物館で武士をテーマに特別展が開催されるので、京武者と東国武士団についてさらに新しい情報が得られるのではないかと期待している。

横須賀美術館で「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」を鑑賞する

運慶は、源頼朝から多大な庇護を受けたが、彼の作品はなぜか鎌倉にはない。鎌倉の近くでは、伊豆の願成就院と横須賀の浄楽寺にある。願成就院は北条氏の氏寺、浄楽寺は和田義盛夫妻の発願によるものである。和田氏は三浦一族であるものの、この寺は三浦氏の氏寺ではない。現在残されている運慶作の仏像は偏在しているように見える。どうしてだろう。この疑問を解くために、この二つの寺院のつながりを求めて横須賀美術館を訪れた。

この美術館では、特別展「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」が開催されている。コロナがまだそれほどでもなかった頃に、特別展中に開催される講座に申し込んだところ、運よく当選した(この講座は人気があり倍率は2倍だったそうである)。しかし家からは遠く、マイカーでは帰りに居眠り運転の危険があり、電車利用では混雑に巻き込まれそうで、直前まで躊躇していた。それでも運慶の作品を観るチャンスはそれほど訪れないだろうと考えて、思い切って出かけた。

美術館は、観音崎灯台の近くにあり、前方に展開する海を広大な空間とし、建物の前面は緑豊かな芝生にして、巨大なキャンパスを作り出している。建物は自然との調和を考えて高さが抑えられ、後方の丘に溶け込むように造られている。これ自体が一つの美術作品となっていて、目を楽しませてくれる。


展示物は撮影禁止なので、ここからは文字だけとなる。講座で話をしてくれたのは、金沢文庫主任学芸員の瀬谷貴之さん。今回の展示は、横須賀美術館神奈川県立金沢文庫との共催で、金沢文庫でもこの秋に巡回展示の一環として特別展が予定されている。瀬谷さんの説明は歯切れがよくとても分かりやすかった。

彼の話をまとめると次のようになる。

NHK大河ドラマでは、坂東彌十郎さんが演じている北条時政は、とぼけていてなかなか面白く、人気もうなぎ上りである。近年、北条家の家系が詳しくわかるようになり、それによれば、北条氏は従来言われていたような田舎の武士団ではなく、名門の伊勢平氏の流れで、時政の祖父が北条氏の養子となり伊豆に住むようになった。このため時政は京および興福寺に親類・知人を有していた。一方運慶の父の康慶は、瑞林寺(静岡県富士市)の地蔵菩薩坐像を造立(治承元年(1177))しており、のちに鎌倉幕府の要人となる人達と繋がっていた。これらから北条と運慶一族には共通の接点があったと推測される。時政が願成就院を建立するときに、運慶が招かれて阿弥陀如来座像などを造立(文治2年(1186))した。

これより数年前に源頼朝は鎌倉に入り、鶴岡八幡宮寺を現在の地に遷し(治承4年(1180))、父義朝の供養のために勝長寿院を建立(元暦元年(1184))し、本尊を成朝(運慶とともに定朝の流れをくむが、成朝は嫡流)に造立させ、さらに奥州合戦をはじめとする怨霊・英霊を鎮めるために永福寺(ようふくじ)を発願(文仁5年(1189))し、本堂を完成(建久3年(1192))させた。永福寺は、奥州中泉の中尊寺大長寿院・毛越寺金堂円隆寺・無量光院などをモデルにして建てられ、宇治の平等院毛越寺に匹敵するような大寺院であったが、残念なことに応永12年(1405)に焼失し、運慶作の仏像も一緒に失われたようである(跡からは仏像の破片らしきものが出土)。歴史研究者の醍醐味は、失われたものを蘇らせることである。永福寺建立後に造られた仏像、特に模刻と思われる仏像を調べることで、失われた仏像を知ることができるというのが、今回の講座の主題である。

大河ドラマでは、横田英司さんが和田義盛を教養のない鬚もじゃな田舎侍として演じている。しかし初代の侍所別当(軍事・警察を担った組織の長官)に任じられていることを考えれば、武勇に優れ、人望もあり、教養もあったのだろうと推察される。また慈円の『愚管抄』によれば、三浦の長者となっているので、三浦一族の長者であったと考えられる。ライバルであった北条時政が願成就院を建立したことに対抗して、和田義盛もそうしたいと思ったのであろう。頼朝に願い出て、西に富士山が眺望できる横須賀の芦名に浄楽寺を建立した(日が没するとき、富士山と太陽とが重なり西方極楽浄土を醸し出す)。この寺には、阿弥陀三尊像とともに不動明王毘沙門天立像が伝来した。像の銘文には、和田義盛とその妻(武蔵七党小野氏の出)が発願(文治5年(1189))して、運慶が小仏師10人とともに制作したと記載されていた。これらの像は、運慶彫刻の新風を充分に含みながらも図像的に保守的な一面を保っていることから、勝長寿院に源流があると見られている。さらには模刻関係にあるという説もある。

源頼朝は恩義に厚い人だったようで、彼の挙兵に対して一命を捧げた三浦義明への供養として、供養堂を発願(建久5年(1194))した。満願寺はこれまで三浦義明の子である佐原義連の開基とされてきた。しかし満願寺から出土した瓦・大型礎石建物・観音菩薩腕釧さらには仏像高などが永福寺のものと類似していることが近年判明した。一方『吾妻鏡』には、鎌倉での永福寺造営が一段落しつつあった建久5年9月に源頼朝の意向で、衣笠合戦で落命した三浦義明の供養のために一堂を建立したとある。この一堂が満願寺ではないかと瀬谷さんは今回見立てている。そして髪際高185cmの観音菩薩像・地蔵菩薩像(これらは重要文化財、現存していないが中尊の阿弥陀如来像も含めて)は、永福寺のそれらと同じであったと推定され、運慶一門による作と見なしている。さらには佐原義連では永福寺と同じ大きさの像を作ることは許されず、この規模の像をつくれるのは頼朝以外にはないともみている。そして満願寺佐原義連の開基とされるのは、宝治合戦(宝治元年(1247年))で三浦氏が滅んだあと、佐原盛時(義連の孫)が再興したことに起因しているとしている。

ところでこれに関して一つの疑問がわく。衣笠城の近くにある満昌寺に三浦義明像がある。満願寺ではなくなぜ満昌寺なのだろうか。さらに、満昌寺は義明の菩提寺として頼朝が建立したとこれまで言われてきた。瀬谷さんの説明によれば、三浦義明が没してから間もなくのころ、亡くなった地(衣笠城)に近いこの場所に廟所が設けられ、この像も義明の神格化に伴い、鎌倉時代以降にこの廟所に安置されたとしている。現在は、義明像は満昌寺境内の御霊明神社に主神として祀られている。

横須賀の曹源寺には、永福寺の模刻と思われるものがある。この寺は、おそらくは郡寺に起源をもち、三浦氏ゆかりの寺院の一つと考えられている。ここには、十二神将像が伝来し、本尊の薬師如来坐像室町時代のものである。昭和57年からの修理のときに、十二神将像の戌神(実は酉神)から正安2年(1300)の修理銘が発見された。そこには建久の頃の仏(原文は仮名で書かれていた)であると記されていた。十二神将像の中で、巳神はひときわ大きい。特別な造像意図があると考えられ、巳時に生れて宗元寺(曹源寺)で安産祈願が行われた源実朝と関係があるとする説がある。さらに十二神将像は、北条政子を願主として、実朝の安産を祈願して建立された永福寺薬師堂の安置像と模刻の関係にあるのではとの指摘もされている。永福寺薬師堂安置の十二神将像は運慶一門の制作の可能性が高く、さらには北条義時の大倉薬師堂安置の十二神将像(建保6年(1218))にも影響を与えていると言われている。大倉薬師堂は現在の覚園寺である。2週間前に訪れた寺でもあり、思いがけず関連のある十二神将像に巡り合うことができ、親しみさえ感じた

運慶は、永福寺造営のあと、頼朝から手厚い支援を受けて、奈良と京都で東大寺大仏殿所蔵の造像(建久7年(1196)~)と東寺復興の造像(建久8年(1197)~)を行った。

今回の講座は、これまでの通説を破って源頼朝が発願した三浦義明の供養堂は満昌寺ではなく萬願寺であることを立証するもので、パズルを解くようなワクワク感がありとても面白かった。講座に先立って鑑賞した展示は、話の中に出てきた仏像をはじめとして、運慶と三浦氏の関連を時系列で追えるようになっていて楽しめた。残念ながら説明に出てきた寺院は訪れたことがない。今年の夏は特に暑いので、涼しくなったらと思っている。百聞は一見にしかずである。現地に行くことで、三浦一族の繁栄と没落が肌身で感じられることを期待している。身近に三浦一族の末裔(義澄の次男山口有綱の子孫)もいるので、興味は尽きない。

重要文化財・国宝にまつわる知識を深めるために覚園寺と金沢文庫へ

鎌倉のお寺でどこが一番好きかと尋ねると、詳しい人ほど覚園寺をあげる。コロナが始まる前は、寺僧の説明による拝観ツアーを楽しむ訪問者に評判だったお寺である。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で中心となっている北条義時ゆかりの寺として、今年は賑わうことであろう。

北条義時晩年の頃に、三代将軍実朝が暗殺されるという事件が起きる(建保7年(1219))。実朝とともに源仲章が殺害されるが、これは義時と思い、間違って討ったのだろうと伝えられている(愚管抄)。この殺害を『吾妻鏡』では一つの物語として記述している(神に守られている義時を演出するためのおそらくは粉飾だろう)。

吾妻鏡によれば、義時はこの事件の半年前、来年の参詣には参加しないようにと、十二神将の戌神将(じゅつしんしょう)から、夢の中で告げられた。義時はお告げを信じて、大倉薬師堂を建立し、運慶作の薬師如来像を安置した。翌年の1月27日に、実朝の右大臣昇任を祝って、鶴岡八幡宮拝賀が行われた。八幡宮の楼門に入ったとき、義時は具合が悪くなり、御剣役を仲章に譲って退去した。このとき夢に出た白い犬が将軍のそばにいるのをみている。しかもそのときは大倉薬師堂には戌神がいなかったと伝えられている。戌神が見事に義時を守ったということだろう。そのあと大倉薬師堂は、9代執権貞時(時宗後継)が元寇を退けることを祈って、寺に改められ、心慧上人を関山とし覚園寺となった。

このような逸話をもつ覚園寺は、実朝殺害の場面が放送されるであろうこの秋から冬にかけて訪れる人は格段に増えるだろう。そこであまり知られていない今のうちにと思って、梅雨の戻りと思える先日(7月12日)、思い切って出かけた。また、神奈川県立金沢文庫では「兼好法師徒然草」の展示があると聞いていたので、三浦半島の付け根を横断して北条家ゆかりの二か所を巡ろうと少し欲張ったみた。

出発地は鎌倉駅。東口の改札を抜けると、待っていたかのように鎌倉宮行のバスが目の前に入ってきた。短い列の後ろについてバスに乗り込む。発車までしばらく時間があったので、鎌倉宮から覚園寺までの道を確認する。このお寺を以前に訪れた記憶はない。この近くは何度か訪れているが、覚園寺口からの天園ハイキングコースの方が、特に若いころは、心身とも惹かれた。

バスは若宮大路を通り、鶴岡八幡宮の前で右に折れ、金沢街道に入る。いつもは八幡宮の前は人であふれかえっているのだが、少し早めのこともあり、それほどの人込みではない。幸いに渋滞することもなくバスは快走した。「分かれ道」というところで、金沢街道から離れ、鎌倉宮へとまっすぐに進む。道が細いために、対向車があると、少し広くなった場所で待機し、相手の車をやり過ごす。10分も経過しただろうか、終点の鎌倉宮に到着した。

覚園寺へは、停留所の左側の道をまっすぐに進んでいけばよい。古くから残っている鎌倉の道には側溝がある。ここも例外ではなく、水がいかに貴重であったかを思い出させてくれる。川端康成の邸宅もかつてはこの道沿いにあり、文豪たちが好んでここに集まったことだろう。道は狭くて車一台がやっと通れるぐらいである。運悪く車に出会ったときは、側溝にかかる橋を近くに見つけ、すばやくそこに待避し、やり過ごすことになる。

しばらく行くと山門が見えてきた。谷の奥深くにある山寺に到着したと感じた。

山門の近くにある九重石塔。

受付で拝観料500円を支払う。ここから先は祈りの場なので撮影は禁止。パンフレットに記されている地図を参考に、受付で境内の廻り方を教わる。一番最初に訪れたのは、地蔵堂。ここには「黒地蔵」と通称される木造の地蔵菩薩立像(国重文)が安置されている。8月9日の夜半過ぎから10日の正午まで黒地蔵尊縁日が開催されるそうなので、浴衣姿で夕涼みがてら、多くの人が訪れることだろう。鎌倉の風物詩の一つになっているようだ。

地蔵堂の横には、お地蔵様の分身を千体近くまつっている千体堂がある。さらにその近くに十三仏やぐらがある。洞窟と思えるぐらい大きなやぐらである。

次は内海家。1706年に鎌倉の手広につくられた農家で、1891年に解体されて、ここの境内に移築された。桁行9間半、梁行5間の規模で、代々名主などの村の要職を務めた家柄の民家である。神奈川県立歴史博物館にその模型がある。また同博物館には、手広村の検地帳や年貢皆済目録なども展示されているので、同村の江戸時代の様子を知ることもできる。

最後は薬師堂。お坊さんに頼んで説明をして頂いた。ユーモラスなお坊さんで、最初はなんとクイズ。薬師堂の横にある槙の大木を指して、樹齢何年でしょうという問いであった。鎌倉時代が始まってから数えて800年ぐらいたつので、そのくらいですかと答えると、正解だった。

そして薬師堂について説明してくれた。禅宋様建築で、茅葺、寄棟造、方五間の仏堂。真ん中の一間が広いのが特徴。中央三間は花頭枠付きの引き戸で、中央が一回り大きい。柱の下端はそろばん玉のように見える礎盤で保持され、柱上と柱と柱の間にも組物を置いた詰組となっている。この堂の前身は文和3年(1354)に足利尊氏によって建立され、江戸時代の文禄2年(1689)に古材を再活用して改築されている。

堂の中に入る。入ったところでお詣り。本造薬師三尊坐像の説明を受ける。三尊とも国の重要文化財。寄木造、玉眼、法衣直下の宋風様式。薬師如来は右手を上げ左手を下げる施無畏与願印が一般的だが、ここの薬師はお腹の前で両手を組む法界定印で、手の上に薬壺をのせている。像の高さは約180cm。薬師如来の脇には、日光菩薩月光菩薩。それぞれ脚を崩して安座している。像の高さは約150cm。薬師如来は、頭部は鎌倉時代、体部は南北朝から室町時代の作と推定されている。日光菩薩は、応永29年(1422)仏師朝裕の作であることが判明している。月光菩薩も、同時期・同人の作と考えられている。

堂の両側面には、木造十二神将立像がある。これも国の重要文化財十二神将薬師如来および薬師経を信仰するものを守護する仏尊である。それぞれの神将にはバサラなどのようにサンスクリット語で名前がついている。しかし馴染みにくかったので、同数の12を有する干支を用いて呼ぶようになったとのことであった。例えば、バサラは、戌神将と呼ばれる。覚園寺十二神将の頭には、干支の動物がのっている。仏師朝裕によって1年に一体ずつ、12年かけて作られた。

薬師三尊坐像の右側の隅の方に、川端康成が愛した鞘阿弥陀仏がある。これは明治初期の廃仏毀釈によって廃寺となった近隣の理智光寺の本尊からの客仏で、鎌倉時代から室町時代にかけて作られたとされている。この像の中に、もう一つの阿弥陀が胎内に納められていたので、鞘のようだということで、鞘阿弥陀仏と名付けられた。

反対側の左奥隅には、触れると病が治る木造賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)、寺院の建物を守る木造伽藍神倚像がある。これまでの仏と容貌が異なるので、お坊さんに聞いたところ、儒教の影響を受けているとのことであった。

お坊さんから一通り説明してもらったあと、もう一度丁寧に拝観して、受付の外に出た。ここは撮影が許される。

愛染堂は、元々は大楽寺のお堂で、廃仏毀釈によって、覚園寺に移築された。中には愛染明王が安置されている。

また、隣の三蔵には、北条のミツウロコの暖簾があった。

山門に向かっての風景。

重要文化財の像に満足したので、覚園寺を後にして次の目的地へ向かうために、金沢街道の「分かれ道」に戻る。ここは、鎌倉駅金沢八景駅を結ぶバスが通っている。鎌倉北東端の集落である十二所(じゅうにそ)を抜け、川端康成が眠る鎌倉霊園を通り、朝比奈の急坂を対向車を気にしながらバスはくねくねと曲がりながら下ってゆく。近くには、かつて鎌倉と六浦の間の交通路として重要であった朝夷奈の切通しがある。坂道を下り終わり、横浜横須賀道路の朝比奈インターチェンジを過ぎてしばらく行くと、そこは横浜市金沢区六浦である。鎌倉時代には、金沢北条家が栄華を誇った地である。六浦は、かつては「むつら」と呼ばれ、名所の一つに数えられるほど風光明媚なところであった。しかし、江戸時代からの干拓によって内海の大部分は失われ、現在では住宅が広がっている。下図は横浜市歴史博物館鎌倉時代の六浦のジオラマ

金沢文庫は、鎌倉時代中頃に、金沢北条家が集積した文書を収納するために、邸宅内に建てられた文庫である。吾妻鏡は蒙古襲来の前までの歴史書で、それ以降を記述した貴重な史料は、金沢文庫に納められているたくさんの古文書である。その中から、卜部兼好に関する記録が見つかり、今まで伝えられていた吉田兼好の履歴は捏造されていたことが判明した。神奈川県立金沢文庫では「兼好法師徒然草」の展示を行っていて、兼好法師の本当の履歴が分かる史料を開示している。それを確認するために、鎌倉からバスを乗り継いで、お昼を我慢して、やっとたどり着いた。

兼好法師は、これまでの説明では、鎌倉時代の後期に、京都・吉田神社神職の卜部家に生ま れ、六位蔵人・左兵衛佐となって朝廷に仕え、そのあと出家して「徒然草」 を表したとなっていた。しかし小川剛生さんの『兼好法師』によれば、それは捏造で、若いころの兼好は金沢北条氏に被官して過ごしていたことが、金沢文庫に収納されている国宝「称名寺聖教・金沢文庫文書」から分かるということであった。これまでの謎を紐解いた古文書の殆どが紙背文書で、読みにくいものも沢山ある中で、よくぞ読み解いたと感心させられた。また、かくも長きにわたって、吉田兼好として説明されてきたものは、意味があったのだろうかと強く感じた。論理学の世界では、「偽」の上に造られた話は、「真」ということになっているが、500年にも及んだ騙し、騙された歴史は何だったんだろうと、深く悩まされることとなった。

訪れる人が少ない鎌倉の名刹を巡る

梅雨の時期、雨を心配しながら、2回に分けて鎌倉巡りをした。1回目は鶴岡八幡宮を中心に、鎌倉幕府が設けられた三か所(大倉幕府・宇都宮辻子幕府・若宮大路幕府)と、鎌倉殿の13人に出てくる有力武士の邸跡を訪ねた。2回目は北鎌倉駅を出発点にして、小雨の中を大勢の観光客にもまれながら明月院の紫陽花を楽しんだあと、亀ヶ谷坂切通しを抜けて、訪れる人が少ない寺院を散策した。

今回のブログでは、あまり馴染みのない寺院について紹介しよう。歩いたコースとは異なるが、これらの寺院を訪れるとすると、下記のような経路になる。

最初に紹介する寺院は、妙法寺本願寺である。この2寺は小町大路(たくさんの観光客が行きかう小町通りではなく、若宮大路を挟んで反対側)に沿ってある。鎌倉時代には、段葛で知られる若宮大路は高貴な身分の人のみが通れる道で閑散としていたのに対し、小町大路は武士や町人など多くの人が行きかい、幕府があった大倉御所から港となった和賀江島へと通じる道であった。本願寺のあたりは、山側の武士の館と海側の町人町(大町と呼ばれた)との境で、ここには夷堂(えびすどう)があり、商売繁盛の神である恵比寿神が祭られていた。また小町大路には、この2寺も含まれるが、日蓮宗の寺院が多い。多くの人が行きかう場所で、布教活動をしたのであろう。

妙本寺は、比企谷(ひきがやつ)にある。開山は日蓮上人、開基は比企能員(よしかず)の末子の能本(よしもと)である。NHK大河ドラマ「鎌倉の13人」では、佐藤次郎さんが、ちょっとつかみどころのない男にして、能員を演じている。能員は源頼朝の乳母であった比企尼の猶子で、2代将軍となる源頼家の乳母夫である。また娘の若狭局は、頼家の側室となり嫡子の一幡を産む。一幡がもし将軍になると、能員は外祖父となり、幕府を牛耳るような権力を持つことが予想された。これを恐れた北条時政とは対立する関係になり、比企の乱が起きて比企一族は滅亡した。しかし能本のみが生き延び、のちに比企一族の鎮魂をこめてこの地に妙本寺を建立した。

比企の乱は『吾妻鏡』によれば次のような経過をたどった。建仁3年(1203)に頼家は危篤状態に陥ったので、時政は頼家遺領分与を決定した。これに不満を持った能員は、頼家に時政の謀反を訴え、時政追討を命じさせた。これを襖の陰で立ち聞きした政子が、時政に告げた。これを知った時政は、仏事の相談があるとして、自宅の名越邸へ能員を呼び出した。密議が漏れていることを知らない能員は、武装せずに平服のままで時政の屋敷に向かった。門に入ったところで殺された。比企一族は屋敷にこもって防戦したが、大軍に追い詰められ、一幡を囲んで自害した。

妙本寺祖師堂、

祖師堂の構造物、

二天門、

境内に咲いていた珍しい八重のドクダミ

次は本覚寺(ほんがくじ)。ここには先に述べた通り夷堂があった。頼朝が、幕府の裏鬼門にあたる方向の鎮守として、天台宗の堂を建てた。佐渡に流されていた日蓮が戻ってきたときに、ここに滞在し説法の拠点とした。そのあと一乗房日出(にっしゅつ)が日蓮ゆかりの夷堂を天台宗から日蓮宗に改め、本覚寺を創建した。

本覚寺本堂、

武家門様式の裏門。

比企谷を後にして、鎌倉五山寿福寺に向かう。開基は北条政子、開山は栄西栄西臨済宗の開祖として有名であるとともに、廃れていた喫茶の習慣を再び伝えたことでも知られている。
寿福寺仏殿、

綺麗な石畳。桂敷きと呼ばれる技法で、外側は一直線になっているが、内部は不規則に石が並べられ、それが醸し出すパターンが奥ゆかしい美を感じさせてくれる。

中門から見る庭園。

次は扇ガ谷(おおぎがやつ)にある浄光明寺。ここには国の重要文化財に指定されている阿弥陀三尊像がある。訪問した日はこれらを拝観できず残念であった。阿弥陀如来の脇待坐像である勢至菩薩は、神奈川県立歴史博物館に複製があり、写実的な姿を楽しむことができる。
光明寺本堂。
      
違和感を覚えたのが境内にあった楊貴妃観音であった。(観音)菩薩は、釈迦になることを約束されて、衆生を救うために修行を重ねている人だが、傾国の美女である楊貴妃がこれにあたるのだろうかと疑問に思った。同行者が道教からの影響と説明してくれ、納得した。

最後は扇ガ谷の北、風光明媚な渓間(たにあい)にたたずむ臨済宗海蔵寺である。真言宗の寺跡であった渓に、鎌倉幕府6代将軍宗尊親王の命により、七堂伽藍が再建されたが、鎌倉幕府の滅亡のときに消滅した。室町時代鎌倉公方足利氏満の命により上杉氏定が再建した。開山は心昭空外である。

寺の傍には、鎌倉十井の一つである底脱(そこぬけ)の井がある。安達泰盛の娘・千代能が、水を汲みに来たときに、水桶の底がすっぽり抜けたので、「千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば月もやどらず」と歌ったことから、この名がついたと言われている。鎌倉は海岸が近いために、水は塩分を含んでいることが多く、良い飲み水を得ることが困難であった。良質の水が出る井戸は貴重で、優れた10ヶ所の井戸は鎌倉十井と呼ばれた。

海蔵寺本殿、

仏殿。内部に薬師三尊が納められている。

鎌倉は狭隘で、墓地にさける平地はなかったので、崖を掘ってやぐらを作った。

鳥居もやぐらの中に納まっていた。

庭園が素晴らしかった。




花もきれいだった。珍しいイワタバコ、

菖蒲、

紫陽花。

また16個の井戸を持つ十六井戸もあった。

コロナもだいぶ落ち着いてきたことと、今年の大河ドラマの舞台が鎌倉であることもあって、小町通り鶴岡八幡宮、長谷の大仏を初めてして人気のあるところは、人でいっぱいである。古都鎌倉の風情を楽しもうとする人にとっては、何とも残念なことだろう。しかしこのようなときは、あまり知られていないが、鎌倉らしいところを訪ねるのが良いと思う。今回紹介したところはそのようなところで、人気のスポットから少し外れているために、鎌倉を良く知っている人しか訪れないとっておきの場所だ。特に最後に紹介した海蔵寺は、鎌倉の寺院の中では室町時代と比較的新しいが、鎌倉時代の寺院(例えば円覚寺舎利殿)と比較することで、様式の変化を楽しめることだろう。

藤田達生著『戦国日本の軍事革命』を読む

ウクライナへのロシアの侵攻が、多くの人々に戦争の現実を鮮明にさせてくれた。日本の戦国時代も同じように人々は戦争に明け暮れた日々を過ごしていた。そして戦国時代中頃のヨーロッパからの鉄砲伝来は、これまでの政治・経済・社会の体制に大きな変化をもたらしたようだ。藤田達生さんは「軍事革命」と称して、歴史的な画期であったと明言している。

鉄砲伝来前の勝利の条件は「高(敵よりも高い位置にある陣地)・大(体躯に優れた騎馬)・速(機動性に優れた軍勢)」で、木曽馬を入手できる東国が軍事力では有利であった。戦いは、離れた位置から始まり徐々に接近戦となる「弓→槍→刀」の順で展開した。そして兵糧は基本的には持参であった。武士は日ごろから馬術・弓術・槍術・剣術の修練を必要とした。また戦国時代前半になると、足軽以下の雑兵が長槍隊の構成員として加わるようになった。長槍には7mに及ぶものもあった。使いこなせるようにするため、専属で雇い、訓練を重ねる必要があった。

このような古い体制を変えることとなる鉄砲の伝来は、これまでは天文12年(1543)のポルトガル人の種子島漂着によるとされていたが、これは一例にすぎないようだ。それ以前に倭寇がマラッカなどの東南アジアで使用されていた火縄銃を伝えたという新説(宇田川武久)もある。さらに、倭寇の中国人密貿易商人・王直(おうちょく)が天文11年にポルトガル人を種子島に導いたという説(村井章介)もある。これらのことから、倭寇介在の多様な鉄砲の伝来が考えられると著者は指摘している。弓の最大射程距離が380mであるのに対し、鉄砲は500mにも及んだので、陸戦は言うに及ばず海戦では特に有効な新しい武器となった。

鉄砲の国産化は日本刀での鍛造技術を生かして急速に進み、永禄年間(1558~1570)には、国内での普及が本格化し、堺・近江国国友村・紀伊国根来・近江国日野で鉄砲鍛冶集団が成立した。鉄砲には、火薬(焔硝に炭と硫黄を調合)・鉛を必要とするが、これらの調達には武器商人が欠かせなかった。この時代、焔硝と鉛は輸入品で、東アジアの武器商人・南欧商人・イエズス会関係者などの仲介人から手に入れた。天下統一を成し遂げた織田信長は、今井宗久などの堺商人と結託して、彼のもとに集中するルートを形成し、優位な立場を確保した。

また大砲の場合には、軌道計算のための科学的な知識が必要であった。このため経験知に基づいて戦略を練った軍師の役割は低減し、鉄砲の扱いに慣れた傭兵部隊(鉄砲衆)が活躍する舞台となった。その代表として根来衆(後に毛利氏の家臣)や雑賀衆がいる。豊臣秀吉や信長の場合には、直属の鉄砲隊だけでなく、大名以下の部隊を集めて編成したので、これも傭兵に近い。長槍隊は、フォーメーションを守りながら長槍をたたきながら前進する。このため帰属先(大名直属あるいは家臣配下)での日ごろの訓練が大切であった。鉄砲隊の場合も同様で、鉄砲ごとに飛び方に癖があった(ライフルと呼ばれるらせん状の溝が切ってなかった)ので、日ごろの訓練をそれぞれの帰属先で行い、戦争になると混成部隊として組まれた。

戦国時代の戦い方を変えたのは、信長の3千挺の鉄砲隊と武田の騎馬隊が戦った「長篠の戦」とこれまで言われてきた。しかし最近の説では、(廻国する砲術師により鉄砲の扱い方や火薬の調合法が広く浸透していたため)武田勢もそれなりの鉄砲を持参していたが、火薬や玉不足が大敗の要因だったと結論付けられている(平山優)。先に記したように、信長はこれらの材料を入手するための確固としたルートを保持していたのに対して、東国の武士は確保するのが困難だったようだ。これはその後、秀吉に敗れた北条氏についても言える。不足している鉛を補うために、武田氏は悪銭を、北条氏は梵鐘を給出させ、高価だが破壊力で劣る銅玉や鉄玉を鉛玉に代えて製造したが、優位には立てなかった。

著者は、鉄砲の普及を三段階に分けている。➀鉄砲が贈答品であった段階。②鉄砲隊が成立し、戦術に変化がみられる段階。鉄砲の普及は西から東へ(西高東低)、信長の鉄砲保有量は、他の戦国大名と比較して、最初は大差はなかったが、上洛した頃(1568年)より飛躍的に増加した。③大砲銭が本格化し、家康が天下を統一した段階。

それでは段階②での戦術の変化を見ていこう。一つは先に述べた傭兵化。戦国時代前半には、畿内近国の地域社会は惣村で、これは百姓によって形成された自治村落であった。しかし後半になると、惣村は国人領主や豪族たちがリーダーとなり、郡中惣や惣国一揆という地域勢力が台頭し、村落の自治は埋没した。鉄砲が浸透したのもこの時期で、国人領主土豪たちが百姓たちに鉄砲を持たせて足軽化し、諸大名の要請を受けて彼らを傭兵のように扱うようになった。

伊賀や甲賀では、国人領主土豪たちが相互の間での利害対立から、半町から一町の大きさの方形城舘を持つようになった。しかし傭兵として外部に赴くという要請から、利害対立による緊張関係は、逆に、甲賀郡に見られる同名中・同名中連合・郡中惣のような高度な自治システムをもたらした。そして外部での戦争維持が内部での高度な自治による平和の保持という奇妙な現象を引き起こした。これは信長や秀吉に見られるような天下を平定して平和を導くという考え方とは逆行する。このことから信長や秀吉がいかにこの時代の常識と合わない考え方をしていたかが分かる。

鉄砲の伝来によって、前に述べたように長槍から鉄砲へと武器が変わったため、戦い方にも大きな変化がみられる。武田信玄上杉謙信が戦った川中島の戦い(1561年)の「川中島合戦図屏風」には、最前列に長槍を持った一団が横一線に並んでいるが、信長が武田勝頼と戦った長篠の戦い(1575年)の「長篠合戦図屏風」では、信長軍は長槍に代わって鉄砲隊を並べている。

信長は野戦だけではなく、相手方の城を攻めるときも戦い方を変え、付城を設置しての付城戦となった。そして一時的な勝敗を問題にするのではなく、相手の息の根を止める殺戮戦へと変化した。付城銭が本格化するのは、信長と足利義昭との戦い(一向一揆)であり、物量戦・消耗戦となった。この戦いでは番匠・鍛冶・鋳物師・金堀りなどの職人集団を必要とし、足軽の役割は高まった。また海戦においても大砲を搭載できるような巨大で重厚な安宅船が用いられるようになった。

それではシステマティックになった信長の軍事を見ていこう。彼は検地によって軍役の賦課(軍事動員)を可能にし、兵站システムを構築して統一戦争を遂行した。検地は、戦場での陣立・軍法と結びついている。これまでの戦いでは、戦国大名の軍隊は、小戦国大名の連合で、整然としたものではなく、陣立も適当で、民衆への乱暴も目立った。信長は、全国規模で検地をおこない、石高に応じてそれぞれの大名たちの軍役を決定して動員するとともに、軍勢に対しても規律ある行動を求めた。

信長は服属した地域に対して一国単位で仕置きを強制した。仕置きは、抵抗拠点である城の破却(城割)を行い、大名・国人領主の領地高を検地(差出)によって確定し、それに基づいて所替を強要した。これによって、領地と不可分であった中世的な領主権を奪い、大名・国人領主は官僚的な家臣となっていった。これは公家・寺社についても行った。これにより中世の荘園に代表される錯綜する土地の利権は、信長のもとに一元的に所有されることとなり、大名・国人領主は、信長から与えられた領知から、石高に応じて年貢を賦課できる権限を与えられたとともに、同じように石高に応じた軍役を果たす責務を負うことになった。著者はこのような権利を「領知権」と呼んでいる。

信長は、大名・国人領主に対して所替を行うとき、彼らに旧領地の石高を申請(指出)させ、その申請に基づいて石高を決定し、その石高を有する新領地をあてがった。旧領地の方が新領地より石高が高いので、その差分は信長所有の蔵入地にした。蔵入地は、戦争時の食糧庫となり、兵站システムを確立した。これにより戦地での略奪による食糧確保を回避することができるようになった。

戦国時代には、年貢は銭による貫高で示されていた。様々な銭貨が無秩序に流通していたので、使用価値・交換価値としての汎用性・安定性が高い石高へと変わり、これは江戸時代まで続くこととなった。また信長は、米を貨幣代わりに使用することを禁じた。さらには、米を測る枡を京枡に統一した(従来は秀吉が統一したとされていた)。

仕置きが浸透するとともに、領知権を授けられた大名が領民を統治するという体制が浸透していく。これにともない信長は、支配の正統制を示すために自らの神格化を行い、独自の権威の構築、「天」から「天下」の領知権を預かったことを論拠とする「預治思想」で、天皇権威を利用しながらその相対化を図った。預治思想は軍事国家建設を正当化する思想的背景ともなった。

道半ばで倒れた信長の思想は、秀吉に受け継がれる。彼は、天皇制を中心とする古代国家、すなわち国家的土地所有制度と関白中心の政治制度、を再建することをスローガンに、天下統一を目指した。これは中国古代の周王朝の理想的な制度を記した儒教の古典「周来(しゅらい)」を目指したものであった。

そして江戸時代になると、遠見番所の設置などにより海防体制を構築し、諸藩では城付の武器や武具を貸し出す御貸具足制度や、紀州藩での「四民皆兵」に見られるような農兵の活用などを行うことにより「高度な武装国家」が誕生し、「徳川の平和」が維持された。

以上がこの本から得た私の要約である。歴史に興味を持っている人であれば、戦国時代の天下を分けた戦いでのそれぞれの武士たちの功績について詳しいことだろう。しかし、勝敗がなぜ分かれたのかを、個人としての部将という視点に立つのではなく、軍事面から論じるとなると難しさを感じるだろう。そして軍事そのものを正面から論じた本はあまりなかったように感じている。軍事での量的な差あるいは質的な差がどのような結果を生み出すかがこの本を通して明らかになるとともに、そのような差を生み出した経済的・社会的な背景についても論じられている。このため戦国時代に対して新たな知見を獲得することができ、とても有益であった。

神奈川県立歴史博物館特別展「洞窟遺跡を掘る」を見る

歴史学者網野善彦さんが「百姓は農民ではない」と言明し、そしてそのあとの歴史学に大きな影響を及ぼした。神奈川県立歴史博物館では「洞窟遺跡を掘る―海蝕洞窟の考古学―」という特別展示を行っている。この展示は「弥生時代水田稲作」ではないことを改めて認識させてくれる。ここには弥生時代から古墳時代にかけて、海蝕によって形成された三浦半島突端の洞窟の中で住んでいた人々の遺物が展示されている。

これらの遺物は、彼らが「海の人々」であることを印象付けてくれる。夥しい数の魚と海産動物の骨と加工された貝類、そしてはるかに少ない陸産動物の骨、さらには農耕器具の欠如が、動物性食料それも海由来のものを主食としていたことを物語っている。また収穫を祈ったりあるいは予想したのだろうか、多数の卜骨の存在も目立つ。残されていた人骨からは、ミトコンドリアDNAが調べられ、弥生人に見られるタイプであることが判明している。

洞窟遺跡を最初に発見したのは小学校教員であった赤星直忠。1924年7月13日に、太刀川総司郎とともに、三浦半島の東端の横須賀市鳥ヶ崎で発見、東京帝国大学人類学研究室に連絡して、同研究室の小松真一が現地調査、さらに小松がやり残した部分を赤松と太刀川が発掘し、弥生時代後期から古墳時代の遺物を発掘した。

戦後は、住吉神社裏・猿島・間口・向ヶ崎・大浦山・毘沙門・雨崎・海外の洞窟遺跡を調査した。そして間口洞窟遺跡では卜骨を初めて出土した。この遺跡の発掘は神奈川県立博物館に引き継がれ、1970年代初頭に数回の調査が行われた。また最近では2014年より、神奈川県立歴史博物館により白石洞窟遺跡の発掘が進められている。

洞窟遺跡の原点となる鳥ヶ崎洞窟遺跡(弥生後期~古墳後期)の展示物から、最初は土器。右下の土器には、ちょっと気持ちが悪いが人の歯が入っている。子供のころ、歯が抜けると上の歯は床下に下は屋根の上に投げればちゃんとした永久歯が生えてくる、と言われた。これに近い習慣だろうか、それとも偶然に紛れ込んだのだろうか。今となっては知る由もない。

次は大浦山洞窟遺跡(弥生後期~古墳前期)。タマキガイの貝輪がところ狭しと並べられているのにびっくり。他の遺跡でも貝輪がたくさん出土している。これほど大量に存在しているのを見ると、腕輪のような貴重な装飾品として使われたとは思えない。日常の漁撈で用いる道具であったように思えるのだがどうだろう。

赤色顔料も用いられていた。

海藻類をとるための道具として使われたのだろうか、加工されたハマグリやアワビの貝殻、

卜骨も、

弓の先の弦を巻くための部品と思われる弓弭(ゆはず)、

魚を捕るためのいろいろな道具。

さらに毘沙門洞窟遺跡(弥生後期~古墳後期)。土器類、

大浦山洞窟遺跡のところで見たのと類似の道具類一式、

続きだが、変わったところでは鹿角。漁撈だけでなく、狩猟もしていたのだろうか、

鹿の肩甲骨を用いての卜骨、

小鹿の骨を用いたようだ。

そして雨崎洞窟遺跡(弥生後期~古墳後期)。古墳時代後期だろうか直刀が展示されていた。

力が入っているのは間口洞窟遺跡(弥生後期~古墳後期)。アカウミガメの甲羅(腹の骨)を用いた卜骨。古墳時代後期の土層から発見された。

アカウミガメ骨格標本

加工途中の骨角片。全体が残る骨角片は発見されていないので、ある程度加工したものをここに運んだと考えられている。

貝刃。魚のうろこをとるためなどに使われたと見られている。

貝包丁。海藻類を取るための道具だったようだ。

夥しい数の小さな巻貝。

洞窟遺跡と対比するために、陸路や水路を通して交流があったと思われている遺跡も紹介されていた。その中で、池子遺跡の展示を取り上げよう。この遺跡から、弥生時代の河川の跡が見つかり、湿った土壌の中に封じ込められていた木製品や骨格製品が大量に出土した。通常は、これらは腐ってしまうので、貴重なこの時代の遺物である。同時に発見された魚類の骨から相模湾沖合海域まで繰り出して捕獲したことが分かり、分析した桶泉岳二は、表層漁業に特化した集団の存在を指摘した。そして洞窟遺跡は、遠征時の野営場所や避難所として利用したのではという可能性も指摘した。
池子遺跡からの土器類、

道具類


鹿の角。

会場の中ほどに、出光博物館所蔵の弥生時代後期に属す土器(壺:重要文化財)が展示されていた。これは三浦半島対岸の房総半島の明鐘崎(みょうかねさき)洞窟遺跡から出土した。上・中・下段に朱色の輪があり、輪の間には縄文模様もあり、これまでに見た弥生土器の中では際立って端正であった。三浦半島側の洞窟遺跡も似たような文化であったと思われるので、そこに住む人々もこのように綺麗な土器を愛でながら、その日その日の漁に胸躍らせていたのだろうか。水田稲作とは異なる弥生・古墳時代の人々の生活を知ることができ、多様な文化を確認できる良い展示であった。

大田由紀夫著『銭躍る東シナ海』を読む

最近になって中国や朝鮮半島との「関係」の中で、日本の歴史を論じる本が増えてきたようである。日本の歴史が孤立しているわけではないのに、隣接の地域との関連で論じない傾向にあることにずっと疑念を抱いていた。最近の流れはこれを打ち破るもので歓迎している。

大田由紀夫さんの『銭躍る東シナ海』の書籍もこのような一冊で、啓蒙的な本である。15世紀から16世紀にかけての東シナ海に位置する国々の関係、すなわちそれぞれの地域の政治・経済・社会の活動に及ぼしていく相互的な関係について論じている。ここでの相互関係を、彼は「共進化」と特徴づけている。この言葉は他から引用されたもので、元々は塩沢由典さんが『経済学の現在1』の中の「複雑系経済学の現在」で使った用語である。そこでは、共進化とは「進化するものどうしが相互に関係をもって、他の一定の進化がなければ、自己の進化自体が成立しないとき、このような進化関係」と定義されている。

物理学者のカルロ・ロヴェッリさんは、世界を対象物(モノ)ではなく関係(コト)で論じようと提案した。対象物は刻々と変化し一定ではない。変化の元となっている関係でとらえるのが良いというのが彼の考え方であった。大田さんの今回の提案は、ロヴェッリさんの考え方に似ていて面白い。

この本で紹介されている通り米国の社会学者のウォーラステインさんが15世紀以降の資本主義的世界経済を説明するときに、それぞれの地域がそれぞれの機能を果たすシステムとなっているという理論を打ち出した。科学的にとらえようとする興味ある見方ではあるが、それぞれの地域の役割が機械のように固定化されていて窮屈に感じた。これに対して、大田さんの共進化は、ダイナミックに変わっていく様子が、明瞭に記述されていて、素晴らしいと思った。それでは大田さんの本を紐解いていこう。

14世紀に日本・中国・朝鮮とも政権が変わり、それぞれ室町幕府・明朝・李氏朝鮮となった。明朝初めの頃は、前期倭寇が活発に活動していたので、明朝は海賊防止と密貿易の取り締まりのため、初代皇帝の洪武帝は海禁令(1371)を発する。日本との交流は、朝貢の形式をとった勘合貿易(1404)として行われ、3代将軍足利義満(1358-1408)の治世が全盛期であった。海禁=朝貢システムが最も機能したのは3代皇帝永楽帝(1360-1424)のときで、鄭和艦隊を南海に派遣(1405)するなどして朝貢国は60国に及んだ。しかし永楽帝が没すると、モンゴルの脅威に備えての北辺防備に迫られるなか、朝貢貿易に対しては経費削減へと転換を余儀なくされ、15世紀半ばより朝貢貿易の衰退とともに密貿易が盛んになる。

15世紀後半になるとこれらの国々では、同期しているかのように、奢侈的消費に走るとともに、明-東南アジア・明-朝鮮・日本-朝鮮の間での交易が盛んになり、さらに琉球では日本・中国・東アジアの仲介貿易が活況となる。


このような状況を生み出した要因は:➀明朝での土木の変(1449年に明朝正統帝がオイラト指導者のエセンに敗北して捕虜になった事件)の後に生じた体制の変化、②遊牧民族侵入の防御策として、首都を南京から北京に移し、南北間での交流・物流を増加させ、軍事費の増大など、大きな社会変化、③日本での応仁の乱(1467-77)の乱により、京都に滞在させられていた大名が領国に帰り、その拠点に都市が生まれ、領国経済圏が生まれたこと、である。但し、日・明間の直接交流は遣唐使船が10年に一度と限定されたためそれほど高くはなく、日本と中国・東南アジアとの交流は、琉球の中間貿易によって間接的に支えられた。日本・明ともに政権の力が弱くなり分権化が進行するが、かえって国内での交易が活発になり、さらには密貿易・中間貿易も盛んとなって、政情の不安定とは裏腹に奢侈化した。

国内での交易が活発化するに伴って、貨幣(朝鮮ではそれに代わる布)での需要が高まり、良銭だけでは賄いきれなくなる。これを補うために悪銭が大量に流通する。しかし揀銭・撰銭に見られるように、良銭と悪銭の間には流通価値に差を持たせて使用された。

16世紀になると、密貿易に絡んでの暴動・紛争が目立ち、さらにはポルトガル人の東アジア・南中国での交易拡大による事件も多発する。このため明は抽分制(市舶司による密貿易を含む諸外国船に対する税金の徴取)を廃止するなどの海禁政策の厳密化をしたため、東アジアの交易は不振になった。これに伴い、琉球の中間貿易は衰退し、以後復活することはなかった。

沈滞を打ち破ったのは倭銀の登場(1520年代)で、再び密貿易は活発になった。倭銀の登場により、日・明間の密貿易が隆盛となり、明との関係が希薄となっていた日本の地位は劣勢を挽回した。
日本では再び、貨幣の間で流通価値に差を持たせた撰銭が行われるようになる。しかし貨幣に対する需要度合いが地域によって異なり、京都を中心とした地域では高く、流通銭の質低下を招いた。このため安定を求めて、米を貨幣として使用するようになった。

明は再出現した倭寇の鎮圧を進めた。このため倭銀の密貿易は中断された。鎮圧のあと明は倭銀に代わって新大陸銀を使用するようになり、日・明間の貿易は低調を続けた。

このあと、日本では徳川将軍による江戸時代となり、中国では明朝は清朝へと変わり、それぞれ独自の道を歩むこととなり、共進化は長い期間停滞した。

日本の歴史を、世界の歴史との関連で、特に東アジアとの関係で論じることが重要になってきているが、それを妨げているのは、日本語、中国語、韓国語、英語、オランダ語ポルトガル語などの多様な言語で記述されている大量の史料、論文、書籍を解読する能力である。一つの外国語の習得だけでも大変なのに、それがいくつもとなると個人の力では不可能に近い。それを支えるのは国際協力であり、先端技術の利用であろう。幸いなことに、AIによる翻訳はかなりのレベルのところまで達しており、歴史の分野で利用することも可能である。さらには多量の資料をデータベース化することで、データサイエンスの技術を利用できるようになる。最先端の科学技術を利用して、歴史学も「関係」の中で論じてくれるようになると、さらに興味深いものとなり、歴史学に対する関心も深まるとこの本を読んでいて感じた。

東海道五十三次の神奈川宿を訪れる(3)

この日(4月25日)は、前の日に写真を撮りそこなった史跡を巡った。前日とは打って変わって真っ青な空、気温もそれほど高くはなく、散歩を兼ねながら歴史的建造物を見るのにはとても恵まれていた。

出発地点には東横線反町駅を選んだ。この線は桜木町駅を終点としていたが、2004年にみなとみらい線元町・中華街に替わった。これに伴い東白楽からは地下を走るようになり、従来の線路のあとは整備されて東横フラワー緑道となった。反町駅からもこの緑道を利用することができ、神奈川宿の歴史道につながっている。

東横フラワー緑道は、その名の通り、緑豊かな歩道である。

高島山トンネルの中、

トンネルを抜けると、川端康成の雪国では季節だったが、ここでは時代をタイムスリップさせてくれる。令和から江戸へと変わる旧東海道に出会うことができる。横浜市歴史博物館には、神奈川宿を復元した模型がある。今回巡るところは模型の左半分、ちょうど写真に納まった領域である。写真中央部が最初に訪れる金比羅神社付近である。この左側は台町。かつては急坂な道として広重によって描かれたところである。

まずは大綱金刀比羅神社。社伝によると平安末期の創立と伝えられている。眼下の神奈川湊に出入りする船乗りたちの守り神であった。
鳥居付近、

金比羅宮と天狗。「我こそは武州・高尾山の天狗なり。いつもは上総鹿野山に住む仲間の天狗の所へいくのだが、ここでいつも休んで居る。この松はわしの腰掛松。決して伐ってはならぬぞ」という天狗伝説が残っている。

滝と池、

台町の坂を上っていくと田中屋に出会う。文久3年(1863)の創業で、前身の「さくらや」は安藤広重の「東海道五十三次」にも描かれている。坂本龍馬の妻であった「おりょう」は、勝海舟の紹介で、明治7年に田中屋で働き始めた。英語が話せ、月琴を弾けた彼女は、外国人の接待に重宝であった。

横浜市歴史博物館には、さくらやの復元模型がある。ここには高杉晋作やハリスなども訪れた。

旧東海道を登り切ったあたりに神奈川台関門跡を示す碑がある。開港後に外国人が何人も殺傷されたので、各国の領事たちが幕府を激しく非難した。幕府は安政6年(1859)に関所や番所を設けて警備を強化した。神奈川宿の東西にも関所が設けられ、ここは西側の関所である。明治4年(1871)に廃止された。

ここで、旧東海道を離れ、一つ上の道を目指す。しばらく行くと「かえもん公園」が出てくる。前述した新橋・横浜間の鉄道を開通させるための堰堤を建造した高島嘉右衛門についての説明が、この公園の中に設けられていた。それによれば、彼は天保3年(1832)に江戸の材木商の子として生まれた。鉄道の開通に寄与しただけでなく、ガス会社設立、学校の設立、易学の普及などで、開国後の横浜の発展に尽くした。

さらに歩を進めると高島山公園。ここからは眺めがよく、新宿の高層ビルを見ることができた。

高島嘉右衛門を顕彰する望欣台の碑もある。

三宝寺。嘉永4年(1851)に住職になった弁玉は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した歌人でもあった。

この寺は昭和50年に開宗800年を記念して高架柱上に本堂を新築した。ここも12年ごとの武南寅歳開帳薬師如来霊場に参加していた。

次は開国後にアメリカ領事館となった本覚寺
山門、

アメリカが領事館としたとき、山門は白いペンキで塗装された。山門にはその跡が未だに残っている。

山門を入ったところに全国塗装業者合同慰霊碑がある。アメリカ領事官が境内に建設されたときの塗装こそが「我が国洋式塗装の先駆け」ということで、業界の先達たちを合祀するために慰霊碑を建立した。

本堂、

鐘楼、

横浜開港の首唱者として、「岩瀬肥後守忠震(ただなり)顕彰之碑」が建てられていた。

東海道線京急本線を跨いでいる青木橋を渡って次の史跡へ向かう。この橋は日本最初の跨線橋である。前述したが新橋・横浜間に鉄道を通すとき、この辺りの丘を切通しにしたため、丘の中腹を通っていた東海道が鉄道で分断された。このため、これを跨ぐ橋が建造された。橋から見た京急本線の神奈川駅。駅舎は、現在は青木橋の東京側にあるが、かつては反対の横浜側にあった。

橋を渡り切り宮前商店街に入ると、開港のときにフランス公使館に充てられた甚行寺が現れる。この寺は、明暦2年(1656)に意圓が堯秀を招いて草創したと伝えられている。
山門、

本堂。

この隣は普門寺。薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件(文久2年(1862))をきっかけにイギリス軍とフランス軍が駐留するようになった。そしてイギリス軍士官の宿舎となったのがこの寺である。ここは前述の洲崎大神の別当寺であった。普門という名前は、洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したとき、この菩薩が多くの人々に救いの門を開いているということで名付けられたそうである。

この日の旅はここで終わり、旧東海道の宮前商店街を引き返し、家へ戻るために神奈川駅へと向かった。

二日間にわたり神奈川宿を見学した。江戸時代を通して神奈川宿は、神奈川湊を擁していたため、それなりに活気のある宿場だっただろう。しかし開港後にいくつかの寺が外国領事館に充てられたことで、宿場の様子は一変した。これまで外国人を見たことがなかった宿場の人々が普段の生活の中で出会うことになったのだから、驚愕するような変化であっただろう。恐れも抱いたことだろうが、興味津々でもあっただろう。ヘボン塾などで学び、西洋の学問と英語でのコミュニケーション能力を身に着けた人たちが、このあとの近代化の中でも活躍する。近代化の震源地ともいえる神奈川の宿について、これまでほとんど知らなかったので、この二日間はとても勉強になった。関連する書籍があれば読んでみようと思いながら家路についた。

東海道五十三次の神奈川宿を訪れる(2)

今回紹介するのは神奈川宿の西半分で、しかもその全部ではなく東寄りの部分である。午前中は、雨は降らないだろうと淡い期待を寄せていたが、見事に裏切られた。最後の方は急ぎ足になったこともあり、写真を撮る余裕がなかったので次の日に再挑戦した。今回は、雨に降られる前までに訪れた神奈川宿の遺跡である。すなわちイギリス領事官となった浄瀧寺から始めて、滝の川を通り、神奈川台場を作るためにその一部を削られた御殿山までを紹介する。

下の写真は、神奈川地区センターにある神奈川宿復元模型の左側部分を撮ったものである。今日、我々が見慣れている海岸線は、かつての東海道のずっと南の方にある。江戸時代には、今の横浜駅は海の中にあり、旧東海道はその両側を海岸線と小高い丘で挟まれていた。写真の左奥は、台町の茶屋があったところで、急坂であることが分かる。写真の中央部辺りは、今日では、第一・第二京浜という大きな国道が二つも通り、電車もJRと京浜急行が走る。今も昔も、交通の要所であることに変わりはないが、便利さには雲泥の差がある。

前回説明した通り、日米修好通商条約(1858)締結の後に、神奈川宿には、各国の領事館が置かれた。最初に紹介する浄瀧寺にはイギリス領事官が置かれた。このお寺のホームページには、寺の縁起が記載されている。文応元年(1260)、尼僧妙湖が現在の横浜に庵を構えていたときに、日蓮安房より鎌倉に向かう途中で、妙湖に出会った。妙湖は法華経の教えを日蓮より聞き、たちまちにして弟子となった。そして自身の庵を法華経の道場としたのが、この寺の幕開けとなった。もとは街道近くにあったが、徳川家康入府の際に現在地に移転した。

二つの本陣の真ん中を流れる滝の川。この川の江戸側には神奈川本陣、京都側には青木本陣がかつてあった。今はその名残はない。

神奈川の大井戸。この井戸は、江戸時代には東海道中の名井戸に数えられたそうで、次に紹介する宗興寺は「大井戸寺」と呼ばれていた。この水は、江戸時代初期に神奈川御殿で徳川将軍のお茶としても使われた。また宗興寺に滞在した宣教師のシモンズやヘボンもこの井戸を利用した。

前回の記事で、成仏寺を紹介するときにヘボン博士の活躍を記したが、その博士が施療所を設けたのが宗興寺である。伊豆海島風土記によると、永享12年(1440)に神奈川宿宗興寺の住職が、八丈島に宗福寺を創建したという記述が残されているので、かなり古くからあった寺と考えられている。

ヘボン博士が施設所を開いたことを知らせる石碑。

神奈川宿を描く絵図には一段と高い山として描写される権現山。

権現山の頂上は公園になっている。その南側には表忠碑があり、日清・日露の戦いで亡くなった方の慰霊が顕彰されている。その左側には古戦場であったことが記されている。戦国時代、関東管領上杉一門の家臣であった上田蔵人が、主人を裏切り、伊勢宗瑞(北条早雲)に内通し、砦をここに構えた。管領方は二万の軍勢で包囲し、落としたと言われている。

権現山から、京急・JR線越しに、本覚寺を望む。江戸時代は権現山から本願寺までは一続きの山だったが、明治5年に新橋・横浜間に鉄道を敷設するときに開削された。その土は、海を埋めて鉄道用の堰堤を構築するために使われた。建造したのは高島嘉右衛門である。

国立公文館のデジタルアーカイブには新橋横浜間鉄道之図がある。鉄道が開通した頃の図は次の通りである。短い距離で繋がるように努力したことがよく分かる。

最後は洲崎大神である。源頼朝が、安房安房神社の神をこの地に招いたとされている。

境内にある御嶽荷社。

洲崎大神でぽつぽつと雨が降り出した。残りの遺跡をさっと見たが、写真撮影は翌日に見送った。そこでこの続きは改めて紹介する。

東海道五十三次の神奈川宿を訪れる(1)

日曜日(4月24日)に、東海道53次の宿場の一つである神奈川宿を、この地に30年住んだことがあるという知人に、案内してもらった。

東海道は、律令制度での五畿七道の中に含まれているが、街道として広く利用されるようになったのは、江戸時代になってからである。神奈川宿は、起点の日本橋からは品川・川崎に続く3番目の宿場である。天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、神奈川県内の宿場の規模は次の通りである。

宿名 人口(人) 家数(軒) 旅籠数(軒)
川崎
2,433
541
72
神奈川
5,793
1,341
58
保土ヶ谷
2,928
558
67
戸塚
2,906
613
75
藤沢
4,089
919
45
平塚
2,114
443
54
大磯
3,056
676
66
小田原
5,404
1,542
95
箱根
844
197
36

これから神奈川宿は、県内の他の宿場と比べて、旅籠の数は多くないが、人口が多いことが分かる。これは神奈川湊と呼ばれる大きな港を擁していたことによる。神奈川湊の歴史は古く、鎌倉時代には記録の中に現れ、その頃は鶴岡八幡宮に、室町時代には関東管領上杉氏の領地であった。江戸時代には、湊は神奈川宿とともに幕府の直接支配を受け、神奈川陣屋がこれを担った。

安政5年(1858)に日米修好通商条約が締結され、「神奈川」を開港すると定められた。しかし大老井伊直弼は、街道上での外国人との接触により事件が起き、それが江戸近くでの重大な紛争になりかねないことに配慮して、対岸の横浜村に港湾施設居留地を作り、外国人にはこれを神奈川の一部と称した。

神奈川宿と横浜港の位置関係を、明治期迅速測図(明治13~19年制作)で示す。二つの地域が内海を挟んで対岸にあることが分かる。なおこの地図では両地域が堰堤で結ばれている。これは明治5年(1872)に新橋・横浜間に鉄道を開設するために、高島嘉右衛門が埋め立てて、鉄道を通せるようにした構造物である。横浜駅はそのあと北に移り、当時の横浜駅は現在では桜木町駅と呼ばれている。

領事館を設立するときに、幕府は横浜港のある横浜村にそのための場所を用意したにもかかわらず、諸外国からは、条約に神奈川となっていることを楯にして、神奈川宿に領事館を設置することを要求された。その結果、米国は神奈川宿を見下ろす本覚寺に、オランダは長延寺(廃寺)に、英国は浄瀧寺を領事館に、普門寺を宿舎に、フランスは浦島寺として知られている慶雲寺を領事館に、甚行寺を公使館にした。また成仏寺は、アメリカ人宣教師の宿舎に充てられ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裏に住んだ。

神奈川地区センターに復元模型があった。その中心部を撮影したのが下の写真。下部の堡塁は、侵攻してきた船舶を撃退するために砲台を設置した場所で、神奈川台場跡と呼ばれている。左側手前の小高い山は権現山で、神奈川台場を増築するための土取場となった。また権現山とその奥の本覚寺は一続きの山になっているが、その間は新橋・横浜間の鉄道を通すために削られ、そこから掘り出された土は、鉄道用の堰堤を海の中に構築するために使われた。中央部で上から下の方に青く塗られているのが滝の川で、その向かって右側(江戸の方)は神奈川本陣、左側は青木本陣である。

神奈川宿は、東海道宿村大概帳によれば日本橋から7里(27.5km)。江戸時代の旅人は1日40km歩いたので、日本橋を出発したあとの最初の宿は保土ヶ谷か戸塚だった。神奈川宿の客引きたちは、何とか泊らせようと躍起になったことであろう。なお神奈川宿の長さはおよそ4kmである。

江戸の方から小田原の方に向かってこの宿場を訪ねようということで、JR東神奈川駅で待ち合わせた。近くにある京浜急行の駅名も現在では東神奈川だが、少し前までは仲木戸であった。江戸時代に将軍の宿泊施設の「神奈川御殿」があり、木の門を設けて警護していた。このためこの一帯は仲木戸と呼ばれていた。京浜急行はこの地名を用いていたが、2020年に改められた。

横浜市神奈川区が「神奈川宿歴史の道」というルートを設定しているので、それに沿って説明していこう。このルートは長延寺跡・土居跡で始まるが、そこには碑しかない。そこで次の、笠のぎ稲荷神社(「のぎ」は禾に皇と書く)から始める。奇妙な名前だが、「笠をかぶった人がこの前を歩くと、笠が脱げ落ちそうになる」ことに由来している。瘡蓋などが取れるご利益があるそうである。社伝によれば、平安時代の天慶年間(938-947)に建立されたとなっている。

境内には横浜市指定有形文化財の「板碑」があり、鎌倉時代末期から南北相時代初期につくられた。高さは172.5cm、幅は上下で差があっておよそ40cmである。

次は良泉寺。宣教房聞海が開基し、慶安元年(1648)に現在地に移転。開港のときに、領事館にされるのを嫌って、屋根をはがし修理中と断ったそうだ。そのあと幕府からお咎めはなかったのだろうか。
山門、

そして本堂。なぜか修理中。参拝して欲しくないのかな?

次へ向かう途中の第一京浜国道はつつじがきれいに咲いていた。

そして能満時。このお寺は、武南寅歳開帳薬師如来霊場に参加していた。先週まで回っていた武相のそれと同じ趣旨の催事である。この寺は鎌倉時代の創立とされ、内海新四郎という漁師が、海中から虚空菩薩像を拾い上げ、祀ったと伝えられている。
山門、

本堂、

山門の四天王。順番に、国を支える神「持国天」、恵みを増大させる神「増長天」、特殊な力の目を持つ神「広目天」、あまねく聞く神「多聞天」。



次の場所への途中で、神奈川小学校の傍らに神奈川宿の紹介があった。

東光寺。この寺の本尊は太田道灌の守護仏。道潅の小机城攻略後に、小田原北条氏家臣平尾内膳がこの仏を賜り、東光寺を草創したとされている。また道灌は内膳に与えるに際し「海山をへだつ東のお国より、放つ光はここも変わらじ」と歌を詠んだことがお寺の名称の由来になっているそうである。ここも武南寅歳開帳薬師如来霊場に参加していた。

熊野神社。結婚式の最中(写真は省略)。

米軍によって10年間も埋められていたものを修繕して元の場所に祀られた満身創痍の狛犬

樹齢400年のイチョウの木。何度かの火災に遭ったが再生して今につながっている。

神仏分離されるまでは、熊野神社と一緒だった金蔵院。勝覚により寛治元年(1087)に創建されたと伝えられている。
山門、

本堂、

境内の弘法大師像、

高札場跡、

成仏寺は、永仁年間(1293-1299)に心地覚心が開基。寛永7年(1630)に家光上洛の際に神奈川御殿が境内に造営されたため、代替地として現在の場所に移転。日米修好通商条約締結後にアメリカ人宣教師の宿舎となったが、その中の一人が前述したヘボンである。ヘボンは医療伝道宣教師で、ここで医療活動に従事すると共に、聖書の日本語訳に携わった。また和英辞典『和英語林集成』を編纂し、ヘボン式ローマ字を広めた。そして明治学院を創設した(ヘボン夫妻はこれに先立ちヘボン塾を始めたが、その教師であった女性の宣教師ギターは、フェリス女学院を設立した)。さらに生麦事件(1862年)では、負傷者の治療にあたった。

慶雲寺は、室町時代の文安4年(1447)に定蓮社音誉聖観によって開創。慶応年間の大火で観音寿寺が類焼し、浦島伝説にかかわる記念物がもたらされ、それ以来「浦島寺」とも呼ばれている。

浦島観世音堂。太郎が竜宮城へ行ったおり乙姫からもらったとされる浦島観世音像が、左側の亀化(きけ)龍女神像と右側の浦島明神像とともに、祀られていた。

ここまででちょうど神奈川宿の中ほどの滝の川の東側の見学を終了した。続きは次号で、お楽しみください。