bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

神奈川県立歴史博物館へ「縄文人の環境適応」を観るために出かける

我々現代人は、世の中が刻々と移り変わり、うっかりしていると流れに後れを取っていることに気づかされる激動の時代を生き抜いている。これに対して縄文人は、一万年ものあいだ狩猟採集の生活をし続けたというその長さと変化のなさに驚かされる。我々から見るととても退屈そうに感じられるのだが、どうなのだろう。

神奈川県立歴史博物館の今回の展示は、「イエイエそんなことはありませんよ。縄文人たちも環境の変化の中で、それにうまく適応しながら営々と生活を育んだのですよ」と反論したいのだろうと思い出かけた。

縄文時代の時代区分は研究者によって異なり、土器が発見された16,000年前頃とするのが多勢だが、氷期(更新世)が終わり間氷期(完新世)が始まる11700年前からとする研究者もなかにはいる。後者は、新石器時代が始まり、人々が定住生活を始めたことを拠り所としている。私もこちらの方が良いように感じている。

ちなみに縄文時代は、おおかた草創期(16,000~11,700前)、早期(11,700~7,000前)、前期(7,000~5,500前)、中期(5,500~4,400前)、後期(4,400~3,200前)、晩期(3,200~2,400前)に区分されている。

更新世(約258万年前から約1万年前)の最終氷期(約7万年前から約1万年前)の頃には現在よりも7度程度気温が低く、終了するころ(縄文時代草創期)には、気温は乱高下し、現在と同じ温暖な時期があったかと思うと、とても寒い時期もあったりする。

完新世(11,700前から現在)になると現在とほぼ同じ気温となるがそれでも小さく変動する。完新世が始まったころ、すなわち縄文時代早期から前期にかけて、現在よりも少し高い程度(+2℃程度)まで気温は上昇し始める。これにより大陸を覆っていた氷が解け、海面が上昇を始める。東京湾は、更新世の頃は陸地だったが、縄文海進により湾の奥深くまで海となった。

しかし前期末から中期初頭にかけて、気温の上昇は止まりかえって寒冷化し、海面も低下(縄文中期の小後退)するが、中期前葉からは温暖化が始まる。そして縄文時代の最盛期を迎え、中部・関東では、住居跡数、集落規模などが爆発的に増大する。発掘された遺構の集落は、中央の広場・墓地を囲むように住居跡が環状に並んでいる(環状集落)。この時代の人々は、サークルが好きなように感じるが、どのような意味があるのかを見出すことが出来ない。

今回の展示は中期から晩期までの神奈川県を中心とする縄文時代が対象で、縄文人の環境適応については壁面のパネルで紹介し、当時の遺物はパネルの前面に展示されていた。中期の土器は、新潟県の火焔型土器に見られるような装飾に優れた大型のものが多い。神奈川県の土器はそれには及ばないが、やはりその傾向を認めることができる。

把手に装飾がみられる深鉢(平塚市原口遺跡)

幾何学的な模様の繰返しが美しい鉢(平塚市原口遺跡)

渦巻き模様が綺麗な釣手土器(前は横浜市鶴見区生麦八幡前遺跡と相模原市緑区川尻中村遺跡・後は伊勢原市上粕谷・秋山遺跡)。照明用と考えている人が多いが実際はどうだったのだろう。

上は円、下は直線の組合わせが楽しい深鉢(相模原市緑区川尻中村遺跡)

日常的に食する実の形に似せたクルミ形土器(相模原市中央区田名塩田遺跡群)

漆を塗って装飾した鉢(伊勢原市西富岡・向畑遺跡)

黒曜石(平塚市原口遺跡)の産出できる場所は限定されている。物々交換によって入手したのだろうが、貴重品であったため隠し場所に大切に保存したようだ。このような場所はデポ(埋納遺構)と呼ばれている。

昨年10月7日に水道管布設替え工事の掘削中に出土した顔面把手で、今回の展示が初登場(座間市蟹ヶ澤遺跡)

中期末頃から後期初頭にかけては、長期にわたる寒冷期となり、大規模であった環状集落は一気に没落し壊滅状態になってしまう。海水面は、最も温かった前期には現在よりも2〜3m高く、中期にいたっても1m程度上にあったが、後期になると現在よりも低くなり始め、晩期には1mも低くなる。後期の初頭頃には温暖な気候が戻り、集落の規模が大きくなることは抑えられるものの、遺跡跡の数は再び隆盛期となる。また海水面が低くなった干潟を利用しての食生活が活発になり、貝塚を伴った遺跡も多く現れる。

後期には人々は精神的なよりどころを求めたのであろうか。土偶が多くみられるようになる。入口には大型中空土器(秦野市菩提横手遺跡)が飾られていた。


怒肩の中空土偶(平塚市王子ノ台遺跡)

頭部が欠如したが、内部の様子がわかる中空土偶(綾瀬市上土棚南遺跡)

デフォルメが著しい筒型土偶(鎌倉市東正院遺跡)

丸い顔の筒形遺跡(横浜市都筑区原出口遺跡)

土器も洗練された装飾を持ち、実用的になる。
浅鉢(横浜市南区稲荷山貝塚)

注口土器(清川村宮ヶ瀬遺跡郡)

注口土器(平塚市王子ノ台遺跡)

注口土器(伊勢原市三ノ宮・下谷戸遺跡)

注口土器(上土棚南遺跡)

使い道がわかりにくい単孔壺(平塚市王子ノ台遺跡)

果物入れになりそうな浅鉢(藤沢市遠藤広谷遺跡)

日常の生活には関係なさそうなので、非日常的な道具として使われただろう石剣(川崎市多摩区下原遺跡と町田市なすな原遺跡)

海岸近くに住む人々は、浅瀬での漁だけでなく、沖合に出てイルカ漁もしていた。それに使われたであろう有肩型銛頭(横浜市金沢区称名寺D貝塚)

神奈川県が晩期を迎えるころは、九州地方ではすでに弥生時代が始まっていたが、関東では集落数は激減し、遺跡を探すのが難しい状態になる。
今回の展示で唯一の重要文化財である土製耳飾(東京都調布市下布田遺跡)。群馬県桐生市千網谷戸(ちあみがいと)遺跡で作られたものが、調布市まで持ち込まれたと見られている。美しいものを求めて、人々は交易したのであろう。幾何学模様が美しく、とても繊細な造りである。制作にはかなりのノウハウが必要だったことだろう。



上記のような耳飾りは、そこにあるからといってすぐに使うことはできず、準備が必要である。幼いころに耳たぶに孔をあけ、最初はとても小さい耳飾りを入れ、段々に大きくしていくことで、びっくりするような大きさの耳飾りもつけられるようになる。このことを想像させてくれる大きさの異なる土製耳飾(相模原市緑区青山開戸遺跡)

耳飾りをつけていたことが分かる土偶(両方とも秦野市大岳院遺跡)


この時期の土器。装飾性に劣る香炉型土器と鉢(いづれ川崎市多摩区下原遺跡)

縄文人の環境適応というテーマでの展示だったが、パネルに気候変動などの説明はあるものの、土器や土偶などの展示がそれとうまくマッチしていない。展示担当者の意図が今一つ読みにくかったが、縄文時代中期から晩期にかけての移り変わりについては一通りの知識を得ることができた。重要文化財の耳飾りの制作法については、何人かの人と意見を交わし、主催者の方の意見も聞くことができた。どうやら胎土で丸いお餅のようなものをつくり、そのあと削り込んで繊細な形状にし、最後に焼いたようである。マニアックな疑問が解決してよかった。当初の目的は達成されなかったが、土製耳飾に日本の優れた技能の原点を見ることができ、まずまずであった。

日向薬師・宝城坊で初詣

今年の初詣に選んだところは、神奈川県伊勢原市にある日向薬師。神奈川県立歴史博物館には薬師如来像と両脇持像が飾られていて、その実物がこの寺院にある。薬師如来像は平安時代後期の作とされ、鉈彫という手法で作られた。ノミ跡が残る荒々しい削りで、クッキリとした立体感を与えてくれる。着衣部が光線の具合によって浮き上がったり、沈んだりする。中国地方から東国にかけてのこの時代の作風である。

日向薬師は通称で、正式には宝城坊である。かつては日向山霊山寺と呼ばれ、12坊を有する大寺院であった。明治時代の廃仏毀釈によって多くの堂舎が失われ、別当坊(最高位の僧が住む坊)が寺籍を継いでいる。吾妻鏡には、源頼朝北条政子が安産祈願のために読経させた寺であり、頼朝が大姫の病気平癒祈願のために参詣したと記されている。

寺伝によれば開祖は奈良時代行基である。吾妻鏡にも行基によるとなっているので、鎌倉時代には行基草創伝説が確立していたようである。実際の創建は10世紀頃とされる。銅鐘の銘には天歴6年(952)に村上天皇より賜ったと記されている。日向薬師が文献上で初めて出て来るのは平安時代で、歌人で大江公資(きみより)の妻である相模が「さして来て日向の山を頼む身は目も明らかに見えざらめやも」と読んでいる。公資が相模の守であったのは寛仁4年(1020)から万寿元年(1024)なのでこの間に読まれたとされている。この歌から平安時代後期には日向薬師霊場となっていたことも分かる。

この寺院には国の重要文化財(国重文)がたくさんある。本尊の薬師三尊もそうで、正月三が日には本尊が納められている厨子が開扉される。拝観したかったのだが、人込みが大嫌いなので、そろそろ落ち着いただろうと思われる5日に訪れた。新東名の伊勢原大山ICからは車で10分程度の所で、近くには大山阿夫利神社がある。また小田急線の伊勢原駅からは日向薬師行のバスも出ている。車の場合には、行き交いに困るくらいの細い薬師林道を登った先の境内入り口駐車場に停めればすぐに境内である。バスの場合には、境内までの坂道が続く参道を通って徒歩で15分ぐらいである。

バス停のあたりから日向薬師までは次のようになっている。

参道には途中に仁王門がある。

江戸時代末に造像された市重文の木造金剛力士像。


仁王門を参道の中側から見たところ。

きつい坂道の参道。途中に先ほど述べた相模の歌碑があった。



国重文の宝城坊本堂(薬師堂)。数度にわたり改修されたが、現存の本堂は万治3年(1660)に、丹沢の立木とその前の本堂の古材を使って修造された。平成22年からは7年間かけて大修理が行われた。この修理によって、延亨2年(1745)には外陣の床を土間にする大改修が行われたことが、また部材には万治の頃のほかに鎌倉後期と前期のものが使われていたことが分かった。修理にかかった費用は約8億7千万円である。本堂には、県重文の平安時代作の薬師如来坐像平安時代作で江戸時代に修理された十二神将立像、市重文の木造賓頭盧尊者坐像(撫で仏)など、たくさんの仏像が祀られていた。


鐘堂と銅鐘。前述した銅鐘だが、村上天皇から賜ったのち、傷んだので仁平3年(1153)に改鋳、さらに暦王3年(1340)に改鋳して今に残っているとされている。銅鐘は国重文、鐘堂は市重文。

幹が空洞になった霊樹に祀られている虚空蔵菩薩像。

空海像、

駐車場から境内へ抜ける道には両側に旗が並んでいた。

宝仏殿では、国重文の薬師如来坐像阿弥陀如来坐像、日光菩薩立像、月光菩薩立像、四天王立像、十二神将立像、いずれも鎌倉時代の作を、拝観した。さらに本尊を納めている室町時代作の厨子も国重文である。

静かにそして厳かに初詣し、良い年の初めを迎えることができて喜んでいる。

梶谷懐・高口康太著『幸福な監視国家・中国』を読む

犯罪関係のニュースを見ていると、犯人が分かる時間がとても短くなってきたように感じられる。街のいたるところに監視カメラが設置され、犯罪が起きた場所とその周辺で撮影された映像が、画像認識システムによって瞬時に分析され、犯人が高い確率で割り出されるためだろう。

AIによるビッグデータの広範囲な利用が進むにつれて、監視社会の功罪がつまびらかに論じられるようになっている。この問題を逸早く指摘したのは、戦後を代表するフランスの哲学者ミシェル・フーコーで、次のように述べている。近代の国民国家では国民の一体性を確立し保持するために、同じ場所に集めて規律訓練するシステムが形成された。その典型は監獄だが、学校・会社・役所・軍隊・病院などでもおなじで、これらは社会的な秩序を維持するための監視装置として働いている。すなわち他人の生き方を考えて良い方向に導こうと行動する人々(権力者)に見られる利他的な性質は(とても良いように感じられるけれども)、実は監視によって人々の自由を奪ってしまうため権力的(暴力的)である。

フーコーは監獄を例に監視がもたらす怖さを述べている。そこでは、19世紀初頭の哲学者で功利主義を構築したジェレミ・ベンサムの考案になるパノプティコンを説明に用いた。パノプティコンは、中心に監視塔があり、それを囲むように個室が並んでいる建物があり、囚人間ではお互いに見えないようになっている。収容者には職業選択の自由が与えられ、刑期終了後は社会復帰することができ、更生するための教育が施される。看守の姿は逆光のため囚人からは見えない。しかし囚人は監視されていることを知っているので、始終その目を気にし、強制されることなく更生に励むこととなる。すなわち社会が求める人に自発的に改造される。

ベンサムは、当時の劣悪な監獄の状況を改善するために、パノプティコンを理想的な刑務所として提案した。しかしフーコーは利他的で一見素晴らしく思えるパノプティコンに潜んでいる権力の本質を見て監視社会への警鐘を鳴らした。

この本の第3章「中国に出現したお行儀のいい世界」で、社会信用システムが紹介されている。中国がIT技術で先行していることはよく知られていることだが、信用システムでも同じである(良いか悪いかの問題は残されているが)。著者は金融、懲罰、道徳の分野での信用システムを紹介している。最初の二つは受け入れやすいが、最後の道徳はフーコーの指摘を思い出させる。

信用システムでは各人が信用スコアを有し、良いことをすればそれが上がり、悪いことをすれば下がる。そしてスコアが上がれば、生活の中で良いサービスを享受することができ、下がれば我慢を強いられる。

例えば、栄成市では、道路で穀物を乾かしたら5減点、広告をばらまいたら5減点、お墓参りで爆竹を鳴らしたら20減点、墓の面積が基準より大きい場合は100減点、派手過ぎる結婚式は10減点などとなっている。これからは行政側が村の悪習を糺そうという意図が見え隠れする。子供の頃の親のしつけを思い出して思わず吹き出しそうだが、まじめに履行しようとしているのだろうか。

今のところスコアの上がり下がりによって、生活が影響されることはないようだが、これがもし社会的な賞罰(これによってローンができなくなったり、遠方への旅行ができなくなったりする)と結びついたときは、人々は大きな強制力を感じることなく否応なしに、信用システムを受け入れていくようになるだろう。

上記の信用システムは、安心で安全な社会を構築するための施策に見えるが、思わぬことで減点されてしまった人にとっては厄介な話である。信用システムのように社会という「公」を大切にするのか、そうではなくて個人としての「私」を大事にするかによって、結果が大きく異なることがある。この本でも紹介されているが、いわゆるトロッコ問題がそれである。違いを強調するために、この本で紹介されている内容を少し変えて、ここではこの問題を次のように設定した。

問題1:トロッコが暴走し、線路に沿って谷を勢いよく下ってくる。あなたが立っているところで、線路は2つに分かれていて、あなたはスイッチで行先を切り替えることができる。片方の線路の先では囚人5人が保線作業をしている。他方の先ではあなたの恋人が花を摘んでいる。あなたがスイッチを押せば、トロッコは恋人の方に突き進んで行き、恋人の命が失われる。何もしなければ、5人の命が失われる。さてあなたはどうする。

かなり悩ましい問題だが、「私」を大事にする人だとすると、恋人がいなくなってしまった後の人生など考えることもできないので、スイッチをそのままにしておくだろう。「公」を大切にする人だとすると、たとえ囚人といえども同じ人間であり、片方は5人、他方は1人ということで、多くの命を救ったほうが良いという判断のもとに、スイッチを押すだろう。

これは社会がどのように処罰を定めているかによって、選択時の悩み方にも差異が出てくる。犯罪に対する法は大きく2つに分類できる。一つは、日本の現状システムだが、個別の事件での判断を汎用化・体系化して基本的な考え方をルールとして定めておき、それぞれのケースに当てはめていくものである。他の一つは、江戸時代の大岡裁判に似ているが、それぞれの事件に対して、聖人・君主のような立派な人がそのときの事情・状況に照らし合わせて判断していくものである。前者は「ルールとしての法」、後者は「公論としての法」とこの本では名付けられている。「ルールによる法律」では、スイッチを押す行為は「殺人未遂罪」に問われるかもしれないので、スイッチ操作の資格を持たないあなたはスイッチをいじらない方に、すなわち恋人が犠牲にならない方に、後ろめたさを感じることなく、より強く傾くことであろう。しかし「公論による法」で、もし為政者が私利私欲が大嫌いだったという状況にある場合には、恋人を犠牲にしてまでも5人を救ったと称賛され、たくさんの褒美を貰えるだろうと期待して、スイッチを押すことにもっと魅力を感じることであろう。

そのまま(囚人へ) 押す(恋人へ)

問題2:線路の先にいる人々を入れ替えた場合はどうする。すなわち押せば囚人5人が亡くなり、何もしなければ恋人が犠牲になる。

選択の傾向は弱まるものの、「私」を大事にする人は殺人未遂罪に問われるかもしれないが、スイッチを押してやはり恋人を助けるだろう。逆に「公」を大切にする人は、囚人を救ったとしても「当たり前だね」と言われかねないだろうが、それでもスイッチをそのままにするだろう。大学生の孫の一人にどうすると聞いたら、恋人と一緒に死ぬと思いがけない答えが返ってきた。読者の皆さんはさてどうする。

そのまま(恋人へ) 押す(囚人へ)

先ほど述べた功利主義も公を大事にする考え方と見なすこともできる。功利主義は、①帰結主義(ある行為の正しさは行為選択の結果によって生じる事態の良し悪しにより決まる)②幸福(厚生)主義(道徳的な善悪は個人の主観的幸福(厚生)によってきまる)③集計主義(社会状態の良し悪しや行為選択の正しさは、社会を構成する個人が感じる幸福の総量による)から成り立っている。功利主義によれば、諸個人の自由や自立といったものは統治者が何をなすべきかにおいては本質的に無関係で、そうした方が結局は幸福の総計の最大化に資すると思うならば、諸個人の自由や自立を侵害するような統治や立法をよしとするだろうと、安藤馨の言葉を借りてこの本では説明されている。

集団の幸福の最大化のためには個人の事由や自立を侵害してもよいとすると、権威主義に陥る可能性がある。中国の道徳は儒教に基づいている。私利私欲は嫌われて悪とみなされ、皆のために行動することが善とされる(兄弟は平等で財産分けも均等)。このような道徳観の場合、幸福主義の定義から「私」のためではなく「公」のために働くことが個人の主観的幸福感となる。このため、「私」を滅し「公」に殉じる社会では、功利主義は集団の利益を追求することとなり、安藤馨の説明の通りとなる。そして今日の権威主義は「公」が大切であることを強調していないだろうか。

これに対して「私」を大事にする社会はいわゆる民主主義だろう。この本ではないが『日本と中国「脱近代化」への誘惑』の中で、ジャン=ジャック・ルソーの一般意志を説明している。ルソーは「近代化の父」と称せられ、18世紀のフランスの哲学者である。日本大百科全書によれば一般意志は次のように説明されている。一般意志とは国家(政治体、政治社会)の全体および各部分の保存と幸福を目ざし、法律の源泉また国家の全成員にとって彼ら相互の間の、および各成員と国家との間における正と不正との規準となる政治原理で、この一般意志は公共の利益と個人の利益を同時に尊重する市民相互の結合によって生じるとされる。数学的な概念での説明を好む人には、東浩紀の次の説明が分かりやすい。特殊意志(各個人の意思)を数学のベクトルに見立てて、それらのベクトルの総和が一般意志である。ルソーは、人間をその自由と生命を守るための最高権力(主権)を持つ政治社会(国家)を形成する主体として位置づけることによって、今日の国民主権論や人民主権論の原形を作った。

コンピュータが人間よりも優れた判断・決断をするようになったとき、公を大切にする社会と私を大事にする社会とでは、どの様な違いが生まれるのだろうか。著者は、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンの心の二重過程理論を用いて、一つのモデルを示してくれた。脳には直感的・感情的な速い思考と意識的・論理的な遅い思考とがあり、通常の生活をしているときは、命に及ぶような危険がいつ襲ってくるか分からないので(人類の起源時の狩猟採集時代に形成された本能によって)、速い思考をしている。しかし熟慮して正しい解答を出さなければいけないようなときには遅い思考をしている。会話をしているときに思わず失言し後で後悔するのは、会話時は早い思考で、そのあとでは遅い思考で脳が機能しているためである(沈黙は金)。

二重過程理論をさらに進めてきたカナダの心理学者キース・E・スタノヴィッチは、「道具的合理性とメタ合理性」という概念を打ち出した。「道具的合理性」は、あらかじめ決められた目的を達成しようとする場合に発揮される合理性で目的自体が正しいのかは問わない。これはカーネマンの速い思考にあたる部分である。メタ合理性は、あらかじめ決められた目的の下で振る舞うときに、どの様な場合に合理的で、どの様な場合にはそうでないのかという問いかけを求めるもので、遅い思考に相当する。

市民社会の中で生活しているとき、ルソーの考え方を発展させた市民的公共性が求められるが、そのような機能はメタ合理性の基盤の上にあると著者は見ている。そして法の支配や民主主義がきちんと整っている社会には、より広い合理性の観点から判断するような仕組みが備わっているとして、著者は下図のように概念図化した(著者の図を一部改編)。

上の図で、ヒューリスティックベースの生活空間には、経験や先入観に基づいて生活する市民、しかも彼らは「私」を大事にする人々で構成されている。メタ合理性ベースのシステムには、議会・内閣・NGOなどの統治の組織で、ルソーの考え方につながる市民的公共性を有する。市民と統治組織の間では、ルソーのところで言及したように、個人の利益と公共の利益とを尊重し、インターラクションが存在する。そして道具的合理性ベースシステムは、巨大IT企業や政府が、人々の行動パターンや嗜好などをビッグデータとして吸い上げて、功利主義的な目的(治安を良くする)の観点から望ましいとして設計したアルゴリズムからなりたっている。道理的合理性ベースシステムは、統治システムであるメタ合理性ベースシステムとのやり取りの中で法的な規制を受ける。また、ヒューリスティックベースの生活空間ともインタラクションを行い、市民からビッグデータを直接吸い上げ、市民的公共性を尊重してアルゴリズムを作成し、それを活用する。

これに対して社会信用システムがこれから幅を利かせるのではないかと思われる儒教的道徳の中国は、下図のようになると著者は概念図化している(ここも一部を改編)。中国では「私」よりも「公」が大切にされるというよりも「私」は儒教的な考え方では、倫理的・道徳的に悪とされる。私利私欲は良いこととは見なされず、これをなくすことが良いとされる(逆に民主主義・自由主義を良しとするところでは、私欲がなければ発展はないと見なす。過ぎることは良くないと個人的には思うが)。「公」を大切にする国あるいは権威主義的な国では、功利主義的な考え方がより強くなる。そのため、道具的合理性ベースシステムとヒューリスティックベースの生活世界との結びつきが強く現れる。さらに功利主義が強い結果、道具的合理性ベースシステムからメタ合理性ベースシステム、すなわち統治システムへの影響も強く受ける。

儒教的な倫理的・道徳的な考え方と功利主義との親和性が良く、道具的合理性ベースのシステムによって人々の生活がコントロールされたとしても、この本のタイトル「幸福な監視国家」のように中国の人々はその恩恵に浴していると感じることの方が多いだろう。また道具的合理性ベースのシステムは、権威主義体制とも親和性が高いので、両者は共進してより堅牢になる可能性も高い。イスラエル歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、これから訪れると予想される「データ至上主義」の世界像は上の概念図に近く、これからの世界が権威主義体制になるのではと危惧している。

最後にこの本を読んで危惧したことを述べておこう。上記の概念図は儒教的な考え方と相性が良い。儒教思想では、聖人・君主は超越的に清く正しい人とされ、小人(市民)は彼らによって導かれるとする。上記の概念図で、道具的合理性ベースのシステムを理(宇宙を成り立たせている原理で、聖人・君主のみが知る空間)、ヒューリスティックベースの生活空間を気(混濁とした現実の世界で、小人が住んでいる空間)、メタ合理性ベースのシステムを格物致知(修養に一生懸命に努めることで知を究める空間)とすると、儒教的概念とぴったりと一致する。儒教的なアルゴリズム(AI)で国が運用されることに問題はないのだろうか。儒教が理想とする社会が実現されたことはこれまでになく、小人閑居して不善をなすということもあったし、またさらに悪いことには、聖人・君主が小人のためと偽って悪政を働くこともあった。AIによって生成されたアルゴリズムが幅を利かすようになると、歯止めが利かなくなるのではと心配である。これは「公」を大切にする場合だけでなく、「私」を大事にする場合であっても同じであって、AIによるアルゴリズムは計算の過程を説明してくれない。ただ結果のみを知らせてくれるので、個の利益が阻害されていることが分かりにくくなる。アルゴリズムの生成の中で、市民的公共性をいかに埋め込んでいけるようにするのかが今後の大きな課題である。

箱根駅伝は正月の恒例行事の一つとなっている。テレビにくぎ付けになった人も多かったことと思う。出場校が家族と関係がある場合は特別だろう。駅伝は「公」を大切にするスポーツだと思う。最近は管理が行き届いてきたためか、途中で落後する選手を見かけなくなったが、かつてはチームのためにタスキを繋げなければという意識が強い余り、生命さえもが危ぶまれる事態が起きたこともあった。あちらへフラフラこちらへフラフラと倒れそうになりながら、懸命に前に進もうとした選手を見たことがある。私の周りには熱狂的な人が多いが、私はどちらかというとあまり好きなスポーツではない。仮にもし選手になって走らされる立場になったら、チームからの圧力で押しつぶされてしまうことだろう。

これに対して「私」を大事にするスポーツはテニスだと思う。グランドスラムともなると5時間を超えるような苛酷な場面もあるが、負けたところで、プレーヤーは誰かに対して申し訳ないと思うことはない。すべては自分の実力のなさによるものでストレスを感じることもない。ここまで戦えた自分を誇りにさへ感じることだろう。

脱線したついでにもう一つ。最近の藤井竜王を見て、AIとは異なるアルゴリズムで、差し支えなければ人間らしいアルゴリズムで、彼は将棋をしていると感じている。彼が全てを読み切ったときは、プロでも思いつかないAIと同じ差し手をする。しかし読み切れていないときは、AIが示している手を打たない。AIが示している手は、おそらく剣ヶ峰をずっと歩き続ける状況に似ていて、少しでも踏みはずすと命にかかわるほどに危険なのだろう。そのようなときは、手数は多くなるのだが、精神的な緊張感を強いられない手を選んでいるように思われる。昨年最後の将棋は、相手の戦力を全て奪って、戦う前に勝に導いてしまった。これまでとはまるで異なる戦法であった。AI将棋にも組まれていなかった手である。当然のことだが、状況が変わるとアルゴリズムは変化することを改めて認識させてくれた。

ある倫理観あるいは道徳の下で社会システムをAIで構築することの危険性を、藤井竜王の将棋観からも見出すことができた。今回紹介した本は、AI化された時の民主主義と権威主義の社会システムの概念図を示してくれた。これはこの問題について考える貴重な枠組みを与えてくれるので、良い本に巡り会ったと思っている。

錦爽どりの丸焼きとピーナッツカボチャのスープで、豪華な歳末・年始の料理をつくろう

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

元旦の記事は、思い出になる日の特別な料理を紹介することにしよう。愛知県産の錦爽(きんそう)どりとピーナッツカボチャを使った料理である。この料理を作ったのは昨年の暮れである。と言っても数日前だが、年が改まるとなんとなく遠いことのように思える。前置きはこれくらいにして本題に入ろう。

毎年クリスマスにはターキーを丸焼きにして祝っていたのだが、今回はロシアのウクライナ侵攻による影響で価格が高騰して入手が困難であったので、仕方なく鶏で代用することにした。しかし普通の鶏では落差が大きすぎるので、美味しいと評判の冷凍の錦爽どりをミートガイより手に入れた。レシピもホームページで紹介されていたので、それを参考にした。

解凍にかかる日にちを考えて、食する3日前に届けてもらい、冷蔵庫で3泊させた。

3泊した後は、綺麗に解けていた。

食事をする時間は夕方5時として、全てはそこから逆算して計画を立てた。鶏は2kg。その日の朝の6時に、解凍された鶏から余分な水分を除くために、ソミュール液(水400cc,塩と砂糖それぞれ20g,ローズマリー)に浸して、冷蔵庫に保管した。

正午に取り出し、2時までキッチンで室温に馴染ませた。

角皿にクズ野菜(玉ねぎ、キャベツの芯、セロリ、ニンジンの皮、パセリの茎)などを敷き、その上に仰向きの鶏肉をおき、塩・胡椒をし、バターを一面に置き、最後にアルミホイルを被せた。

190度に温めた電子オーブンの中で1時間ほど焼いた。

電子オーブンより取り出し、背中を上に向け、ジャガイモを加えて、体内の温度を測る。70度を超えていればOK。

表面に焦げ目をつけるために、オーブンの温度を220度にしてさらに30分焼いた。

鶏を焼いている間にたくさん時間があるので、ピーナッツカボチャのスープを作った。
大きなカボチャで1400kgもある。

皮を剥く。柔らかいので作業はしやすい。

二つに割って、種を取る。


火の通りを良くするために、2cm角に切った。


さらに玉ねぎ1個半(600g)を輪切にする。

一緒にして電子レンジの根菜を利用して温める。

全部では多すぎるので半分位に分けて、一方は冷凍庫で保管した。
水(400cc)を加えて、ミキサーで液状にした。

重量を計ったら650gほどであった。カボチャが700g、玉ねぎが300g、水400gの総計1400gを用いたのに、半分程度の重さになっていることに驚いた。
食事をする30分ぐらい前になったら、牛乳1000ccとマギーブイヨン5個を加え、沸騰するまで煮たて、胡椒を入れて味を整えた。

最後に鶏肉にかかるためのグレイビーソースを作る。これは鶏を焼いて出てきた肉汁に、マギーブイヨン1個とウイスキーを加え、沸騰させ、アルコール分を飛ばす。

鶏の皮はパリパリで、肉は柔らかいとても美味しいローストが出来上がり、またピーナッツカボチャの甘みが最高で、楽しい食卓となった。

中島隆博著『悪の哲学』を読む

万物の創造主は神であるとする宗教や神話は多いが、中国の人々は神に代わるものとして「気」を用いた。今日の日本語の中にも、空気・天気・気分・気配など気を用いた熟語は沢山あるが、これらの多くは「気」を語源としている。「気」は宇宙を生成・消滅・変化させるとともに、人の中にも満ちていて、身体的・精神的な状態はすべて「気」から生じる。日本語で、陽気・気晴らし・気まぐれなど精神的な状態を表すときに「気」を用いるのはこのためであろう。また中国語では人の身体的な状態を表すために、医療の言葉の中でも「気」が用いられる。「気」は目には見えないものであるが、これが凝縮したときは事物を構成する。人・動物・雲・雨など物理的な物として、あるいは、綺麗だ・けだるい・活動的などのように情緒的な事として表れてくる。

宇宙はこれまでに説明した「気」と、これから説明する「理」とから成り立っているとする。「気」が凝縮されると事物が生じるとしたが、「理」はそれぞれの事物に付けられた名前であり意味であり原理である。「理」の世界は知識や知恵が充満している世界と考えてよい。

宇宙は「気」と「理」の二元であるが、人の心も同じように二元であると朱子学では考える。それは心の本体を表す「性」と心の動きを表す「情」である。「情」は「気」に対応し、「性」は「理」に対応している。「情」は「気」に包含され、その影響を受けて様々な感情を表出する。それらは優しさであったり、思いやりであったり、怒りであったり、憤りであったりと色々である。「性」は人間が本来持っている性質である。

朱子学では、「理」の見え方は「気」によると考える。「気」が曇っていれば、十全な「理」が現れることはなく、このとき「情」すなわち心の動きは私欲となり悪となる。曇っている度合いが少なくなれば「理」が見えるようになり、清明即ち透き通っていれば「理」が完全な形で現れる。そのときは私欲がなくなり悪が取り払われ善だけとなる。

それでは善に至るためにはどのようにすればよいのだろうか。それは、①礼(文公家礼:南宋の時代に成立した礼儀作法)を守ることであり、②誠意を尽くすことである。後者を説明すると、悪(私欲)は自身を欺くこと(これは心の動き)から生じるので、自己欺瞞から解放されるように意(思い)を充実させる必要がある。そして意(思い)を充実させるための方法は自己を啓蒙することである。

朱子学では性即理である。「理」は宇宙のことわりあるいは法則を表している。朱子学的に捉えた真理(正しいこと)と考えていいのだろう。そうすると理は正しいこと(宇宙の真理)なので、性は善すなわち心は本来は善であるとなる。従って「理」を知れば心は本来の善となるので、一事一物(宇宙)の理を十分に窮めそして知る(格物致知)ために誠意を尽くすべきであるとなる。これが朱子学を興した朱熹(1130~1200)の考え方である。

中国の考え方でもう一つ大事なことがある。それは君子と小人である。先ほどの説明で出てきた自己啓蒙(敬居)を行えるのは君子だけである。従って本来の性である善を獲得できる人は君子だけということになる。小人はそのような君子に出会いその人の行動を見習うことで、不善を行わないようになれるとした。このような人々は、新民(『大学』の親民を読み替えた)と朱熹は呼んだ。

ところで、小人は出会った人が君子であることをどのようにして知るのであろうか。小人は君子であるかどうかを判断できない人たちである。このため全ての人が新民になれるとは限らない。彼らは「小人閑居して不善をなす」こととなる。朱熹も小人の中に悪人がいることを認めていた。

理は万人に共通するものなので、どれだけの理を知ったかによって他の人と比較することができる(現代流には偏差値で表すことができる)。理をマスターしていなければあるいは元来の性に至っていなければ不徳である。不徳であると災厄に見舞われることになるので、その起こり具合によって君子がどれだけ自己啓蒙を尽くしているかが分かる。これから朱子学は君子に厳しい修練を強いると見ることができる。

明末になると王船山(1619~1692)が朱熹を批判する。中国の考え方では君子は徳のある人ということになっているが、そうでない人が出てきた時はどうなるのかと攻撃した。君子が自己啓蒙をせず格物致知に至らないとき、君子は大悪となり小人の小悪など問題にならないほどの巨悪をもたらすと王船山は非難した。同時代の傅山(ふざん:1607~1684)もさらに強く、聖人は救済者としての悪のみを自覚し、あくまでも果敢に悪(殺人)を行おうとすることで秩序を再興しようとすると批判した。

ここからは朱子学から離れて、しばらくは中国明代の儒学者である王陽明(1472~1529)が興した陽明学の話をしよう。陽明学朱子学と対立的に論じられることが多いが、そうではなく朱子学をある仕方で徹底化したと見ることができると筆者は述べている。朱子学では外にある理を究めることにしているが、王陽明はそうではなく「内面」に根拠を求めた朱子学の原点に立ち返った。そして「心即理」すなわち心にこそ理があるとした。

朱熹格物致知を前述したように「知を致すは物に格(いた)るに在り」とし、万物の理を一つ一つ究めていくことで獲得される知識を発揮して物事の是非を判断することと解釈した。これに対して王陽明は「知を致すは物を格(ただ)すに在り」とした。すなわち格物に対しては(外に求めるのではなく内の)心の不正をただすこと、致知に対しては「知」を「良知」と解釈し、心に本来備わっている良知を拡充し発揮することと解釈した。つまり人間が生まれたときは心と本体(理)は一体であり、心が後から付け加わったものではないとした。そして心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致するとした。従って私欲によって曇っていない心の本体である良知を推し進めていけばよいとした。

陽明は自らの教えのエッセンスを四句教で「無善無悪が心の体、有善有悪が意の動、善を知り悪を知るのが良知、善をなして悪を去るのが格物」と伝えた。彼は悪は意(思い)の発動によって生まれるが、良知によってそれを知ることができ、物を正すこと(格物)によってそれを去ればよいとした。しかし心の奥底には悪は存在しないのに、意によってどうして生じるのか。またこの悪をどのように抑えることができるのか、他人がなす悪に対してはどのように立ち向かうのかが問題になった。上記の問いに対して、王陽明は小人を君主化することで解決した。すなわち人は良知によって善であるか悪であるかを自ら知る。これは他の人との関わりをもたない。他人と関わるという小人の小人たるゆえんがここでは拒まれているので、小人も良知を有していると説明されている。

ところで、朱子学では理は外側にあったので他人と関わることができたが、陽明学では理は内側にあるので他人とどのように関わるかという問題が生じる。これに対して、人は他の人を思いやることができ、さらには動物・植物だけでなく岩石にまでも及ぶとした。仁(他を思いやる心)によって万物一体であるとした。

それでは見ていないもの、接触のないものには、例えば山奥にひっそりと咲いている可憐な花には、どのように思いを寄せるのであろうか。これに対して、陽明はこの花はあなたの心の外には存在しないと説明した。この万物一体は、外部にあるものを自我に還元してしまう独我論に陥いらせる。朱子学では他者の問題を認めていたのに対し、陽明学では他者の問題を消失することにつながり、朱子学以上に悪を放逐してしまうことになる。

小人の君主化と無善無悪の徹底化は、明末の李贄(りし:1527~1602)によって一つの頂点に達する。彼は独我論を徹底し、無善無悪もしくは至善である心を私と断じ、私欲は善であると肯定した。これではすべてが良いこととなってしまうため、ここからはもはや悪の場所はどこにも見出せない。そこで彼はこれを避けるために、欲望をそのまま肯定するのではなく、欲望を明察するという反省の構造を差しはさみ、現実の悪に対抗できるようにした。

この本は、南宋・明の時代に発展した朱子学陽明学を説明したあと、古代に戻って孔子荘子について説明し、最後に性悪説で知られる中国戦国時代の思想家・儒学者である荀子(紀元前298?~238)について次のように述べている。

人間には諸悪の根源と考えられることの多い欲望がある。これを否定的に捉えるのかあるいは肯定的に捉えるのかは、古今東西の思想家たちや哲学者たちにとって大きな課題である。道化・道教の祖とされ中国春秋時代の哲学者である老子(紀元前571?~471?)は、この欲望を減らすことさらにはなくすことで善なる秩序が回復すると考えた。しかし荀子は人間に自然に備わっている欲望を減少させることも無くすこともできないと考えた。人間は自然のままの状態に置いておくと壊れ、そして悪に至る存在であるともした。そこで欲望があるということを前提にして、悪を取り除き善に至るようにするためにはどうしたらよいかを考えた。その解決策に導くために、心は変わることのない「実体」と、変えることのできる「働き」とに分けることができると考えた。心には「性・情・欲」があり、これから欲望が生じるとした。性・情・欲は減らしたり無くしたりすることができない心の実体であるとし、誰の心にも同じようにあるものとした(なお後世の朱熹は性と情を分けたが、荀子は性が情を通して他者につながっているとして分けなかった)。

性・情・欲からは私欲が生じる。これは望ましいことではないので「倫理的には悪」である。そして人間の本来性は私欲によって悪であるとし「性悪説」を荀子は主張した。悪を善に変える方法として、心に働きかけて性・情・欲を節制することであるとした。心へ働きかけるのは思慮で、これも心を構成する一つである。このため性・情・欲という自然なものに対して、思慮というやはり自然なものを働かせることで、心とは次元を異にする倫理的な悪を善に変えられるとした。荀子の論法は、心の実体に働きを加えるという人間に本来備わっているものを利用して倫理的な面が変わるという、このように納得しやすい手法である。

ところで全ての人がこのような能力を要求することは無理であり、聖人だけがこの能力を有する。聖人は思慮によって性・情・欲に働きかけることで私欲から節制へと変化させ、そして偽を起こすことができるとした。ここでの偽は、思慮によって悪を善に変えることを意味する。偽という言葉はあまりいい意味には感じられないが、悪が善に化けたと考えれば適切な用語に思える。そして偽が起きると礼義が生じ、礼義が生じると法規が制定されるとした。聖人が作り出した礼義・法規は、普遍的な規範で万人が共有できるものとした。これが荀子の考え方のミソである。

聖人が礼義・法規を作為したところで、一般の人はこれを理解することはできない。そこで荀子は一般の人にこれらが伝わるようにと「政治的な力」を導入した。しかしここでの政治的な力は、一般的に考えられているような強制されるものではなく、人々が「自発的に」そのプロセスに参加していると感じることができ、それを守ることに価値を感じるようになると、理解されるべきものとしている(コロナ時の同調圧力に近いと思われる)。すなわち君主が礼義・法規・刑罰によって天下を統治するが、一般の人々はその政治的な力によって、それらを遵守することで全てが治まり善となるとした。

聖人は規範を無から創造するのではなく、過去になされた作為を繰り返しながら、新たに規範を作り上げると荀子は述べている。すなわち規範は歴史的なものであるとした。言語においても、これまで述べてきた規範と同じように成立したと荀子は説明している。このように規範や言語は歴史的な物だとすると複数存在しても構わないことになるが、荀子はそれは構わないとした。規範に対してどのような公理系を採用したとしても、また、言語に対してどのような言語システムを採用したとしても、人間の集団が制作しうる規範や言語は同じ原理の差にすぎず、翻訳可能であるとした。

さらに正反対の規範の公理系、例えば「人を殺しても構わない」というような規範が生まれたとしても問題はないとしている。規範や言語には他人への伝達のしやすさが異なり矛盾するような公理系を立てたとしてもそれは伝達することができないので、永らえることはないとした。荀子が理想とするところは、上の文章からも読み取れるように華夷秩序の貫徹する世界である。しかし規範や言語の複数の存在を許す姿勢には、規範を本質主義の中に閉じ込めようとしない現代哲学へと繋がる普遍性がある。これは悪に対する社会的で公共的な構想力の可能性を示してくれると筆者は述べている。

中国の哲学を読むと、君子が国を統治するための倫理的な鍛錬、そして一般の人がそれに従っていくための道徳を説いている感が否めない。最後に説明した荀子性悪説は、現代の哲学にも通じるような論理性・体系性を有してはいるが、聖人が作為した規範を本当に善と言い切っていいのだろうか。文化大革命の頃、中国の多くの人にとって毛沢東主席は聖人で、彼の語録は普遍的な規範だったことだろう。しかしその後の中国の混乱を見たとき、果たしてそうだったのかと疑問である。また今日のウクライナ侵攻を見たとき、ロシア大統領は自身を聖人とみているのだろうか。善とはなにか、悪とはなにか。この倫理的な言葉が含意している深刻さを改めて認識させてくれた良書であった。

紅葉が素晴らしい九品仏浄真寺を訪問

夏の終わりに訪れた九品仏浄真寺に、昨日(2日)紅葉を愛でに出かけてきた。この寺は大井町線九品仏駅からはすぐ、隣の自由が丘駅からも1km足らず、とても便利なところにある。九品仏という名前が示すように9躯の阿弥陀仏像があり、17世紀に建立された寺である。その由来については、前の記事で紹介した。
bitterharvest.hatenablog.com

この寺は、晩秋の紅葉が綺麗なことでも知られている。紅葉はなんと言っても小春日和の中で見るのが一番である。天気予報では午後からは晴れるということなので、その時間を狙っていった。しかし精度が格段に良くなった天気予報も、季節の変わり目は難しいようで、見事に裏切られてしまった。それでも多くの見物客に混じって写真撮りに精を出した。

焔魔堂と三途の川にかかった橋のあたり。




見学客が争ってカメラを構えていた山門前。

山門を越えた先の参道。緑と紅のコントラストが綺麗だ。写真を撮るのに夢中な女性のセーターの赤も際立っていた。

人を避けての周囲は、


さらに本堂の横、


本堂の中から庭園越しに、



最後は本堂の前で本尊の釈迦牟尼佛像を拝み、素晴らしい紅葉を楽しめたことに感謝した。

写真にも小さく写っているが、山門の前には次回の二十五菩薩来迎会(おめんかぶり)の紹介があった。死後の世界の極楽へ行くにも、それまでの努力や心がけによって、「上品上生」から「下品下生」までの9段階の往生の仕方があり、九品仏の9躯の阿弥陀仏像はそれぞれに対応している。最上級の往生をしたときは、阿弥陀如来が25菩薩を引き連れてお迎えに来てくれるそうで、これを疑似体験できるのが二十五菩薩来迎会である。5月5日に行われるそうなので、そのときにもう一度訪れたいと思っている。

横浜市の郊外にある中山恒三郎家を訪ねる

桜の時期にはまだまだ早いけれども、ワシントンのポトマック河畔に桜の木を植樹することを最初に提案したのは、エリザ・シドモアさんである。この提案は何度も拒絶され、実現には24年を要した。彼女は紀行作家で、在横浜米国総領事館に勤務していた兄を訪ねて明治17年(1884)に来日、そのあとも何度か足を運んでいる。

これらの旅行をもとに明治24年(1891)に"Jinrikisha Days in Japan"を著した。昭和62年(1987)には恩地光夫さんが最初の1/3ほどを翻訳して、『日本・人力車旅情』として上梓された。横浜や東京の訪問地を紹介している(注:外崎克久訳『シドモア日本紀行』はすべてが翻訳されている)。

この記事では、知っている人の方が少ないことと思うが、横浜市都筑区川和町の豪商中山恒三郎さんを取り上げる。この旧家は江戸時代から酒類販売・荒物雑貨・呉服織物を手掛け、明治時代には醬油製造・製糸業などで家業を拡げた。

川和は平塚(徳川将軍家の御殿である中原御殿所在地)から江戸に抜ける中原街道に面した交通の要所で、中山家は地の利を生かして商売をしていたと思われる。

中山恒三郎さんは、商売の傍ら養菊の栽培にも力を入れ、明治末には1500種もの菊を栽培していた。自宅の菊園「松林圃」では、観菊展が開かれ各界から賓客が招かれた。シドモアさんもその一員だったのだろう、写真入りで訪れたときの様子を説明している。

私は、賓客たちが中山家に残した書画の話を聴くために、今週の日曜日(27日)に川和を訪れ、さらに中山家にも立ち寄り、いくつかの建造物を写真に撮った。

静かな佇まいの書院。この日もいっぱいの晩秋の陽を浴びて、訪問客はそれぞれに古き良き日を懐かしんでいたことだろう。

書院の庭先の向こうに、小高くなった場所に「松林社」がある。中山家の守り神だろう。

豪商であったころの名残りを伝える店蔵(左)と麴室(右)。

麹室の中は、民具・農具で溢れかえっていた。

横浜市歴史博物館では、中山家に残されている古文書を整理されているそうなので、いつの日か特別展が開催され、公開されることを楽しみにしている。

称名寺の黄葉を楽しむ

県立金沢文庫で運慶に関する講演があったので、ついでに称名寺の秋を楽しんだ。昨日(25日)は秋晴れの清々しい日で、ベンチに座っておにぎりを頬張った。近くではこの辺りの主と思われる猫が、邪魔な人が来たと言わんばかりの様子で、秋の温かい日差しをいっぱいに浴びていた。

称名寺は、北条氏の一族である金沢北条氏の菩提寺であった。一族は鎌倉ではなく、海洋交通の要所で風光明媚な六浦(当時はむつらといった)を拠点にしていた。草創の時期は明らかではないが、金沢氏の祖とされる北条実時(さねとき、1224~1276)が、六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂から発したと考えられている。実時の子の顕時(あきとき、1248~1301)の時代に、弥勒堂、護摩堂、三重塔などが建立された。さらにその子の貞顕(さだあき、1278~1333)のときに、伽藍の再造営が行われ、苑池を中心にして金堂、講堂、仁王門など、壮麗な浄土曼荼羅に基づく伽藍が完成した。しかし北条氏が滅亡したあとは維持が困難となり、江戸時代になると創建当時の堂塔の姿は失われた。現在の金堂は1681年、惣門(仁王門)は1771年、新宮は1790年、仁王門は1818年、釈迦堂は1862年に再建された。大正11年に国指定を受け、昭和62年に苑池の保存整備事業が行われた。

それでは、称名寺からの秋の便りを紹介しよう。
県立金沢公園からトンネルを抜けて称名寺境内に入ったところで、黄葉が見事な大きなケヤキ

お昼を一緒にした猫、

阿字ケ池越しに、そして稲荷山を背景に、反橋、平橋、金堂からなる伽藍、

3本のイチョウの大木は見事に色づいていた。

グラデーションが鮮やかなもみじ、

釈迦堂、

近いところから見たイチョウ

こちらはひねくれものの楓。紅葉することはない。謡曲「六浦」にその謂れが語られている。かつてはとても綺麗で歌にも詠まれたので、後進に道を譲り常盤木になったと伝えられている。

珍しい楷(かい)の木は、逆に、負けず劣らず頑張っていた。
この木は中国原産、日本ではあまり見かけないそうだ。孔子の逝去を悼んで墓所近くに様々な木が植樹された。そのひとつが楷の木で、孔子にちなんで学問の木と呼ばれている。

このあと、金沢文庫で、学芸員貫井裕恵さんから「運慶をめぐる史実と言説ー称名寺・鎌倉・東寺を中心に」を聴き、鎌倉時代の知識を深めて、金沢北条家の時代に思いを巡らしながら帰宅した。

家族システムの変遷(V):『中世武士たちの経済活動と基盤構造』について話しました

恒例のこととなったがある歴史のサークルで今年も「家族システム」に関連して発表を行った。退職後に始めた歴史の勉強も早いもので7年目となった。大学生に置き換えると、卒業したあと大学院に進んで修士論文を書く時期だろう。いまさらながらという気もするが、学校教育はとても効率的で必要な情報を過不足なく与えてくれるものだと感心している。それに反して今回の独学は、好き勝手なことができる代わりに、重要な事項がすっぽりと抜けていることが多く、あっちこっちに寄り道をしている感は否めない。

高校時代には、社会科は4科目の中から3科目を選択することになっていて、日本史は選ばなかった。大学受験は世界史と地理。日本史については、中学生と同じレベルの知識しかなく、退職後の勉強は一からのスタートだった。しかし学生時代の勉強と異なり、退職後の勉強は楽しい。特に面白いのは、進歩の度合いを客観的に見られることである。学生時代はともすると仲間との競争の面が強く、相対的にどれだけ理解が進んでいるのかを見がちであった。これに対して今回の日本史の学びは、どれだけの用語を脳に埋め込み、それらの相互の関連をどれだけ理解しているかなど、知識を構成していくシナプスの形成過程を客観的に観察することができ、とても面白い経験をしている。

発表に用いた原稿は下記のものだが、これだけだと硬い話になってしまう。特に聞き手は「うとうと」とすることが得意な高齢の方々が多い。しかし彼らはNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には興味を持っている。そして小栗旬が演じる義時が、「あんなに優しかったのに、この頃は冷酷になったので、嫌いだ」と思い始めているようだ。そこで覇権を目指さざるを得なくなった人の不条理を織り込みながら話をした。

織り交ぜる材料に使ったのは、政治学ミアシャイマーの『大国政治の悲劇』である。とても簡単に説明すると、「国家間の紛争を抑止するような機関が存在しないアナーキーな世界では、大国は生き残りをかけてその国の体制に関わらず、覇権国を目指す」である。中世は自力救済の時代で、同じようにアナーキーな世界と考えてよい。御家人たちは生き残りをかけて、その人が優しい人かそうでないかに関係なく、覇権者を目指すという味付けをした。

発表は80分と長い時間だった。やはり眠りかける人もいたが、興味を引く話になると目を覚ましてくれた。中には食い入るように聞き入ってくれた方もいた。好評だったと思う。コロナが心配だったので二次会は遠慮したが、たくさんの人から感想を聞けなかったことが残念であった。

秋を楽しむために昭和記念公園を訪問

先週は素晴らしい秋晴れの日が続き、多くの人が紅葉を楽しむために出かけたことだろう。我々も金曜日(11日)にテレビで紹介された国営昭和記念公園に出かけた。国営公園というものを知らなかったので、国土交通省のホームページで調べると「国が管理する都市公園」となっていた。この公園は、米軍の立川飛行場跡の一部を整備したもので、1983年に開園された。

電車を利用して西立川駅で下車。平日だというのにたくさんの人が降り、こんなにも見学者がいるのだと、自分のことも忘れてただビックリ。入場料を払って入り口でマップを入手した。

入ってすぐのところにある水鳥の池。池の周りの樹木が色づいていて、ベンチに座っている人も穏やかな日を楽しんでいるように見えた。


地図を持って今日の目的地である「かたらいのイチョウ並木」に向かった。
イチョウ並木へ通じる橋、

イチョウ並木の入り口付近、

鏡が用意されていたので、イチョウと空を映す。

イチョウ並木の中央付近。秋の陽を浴びてイチョウの黄色が一段と際立つ。


パークトレインに乗って園内を一周。60分かけての園内巡り、子供向けなのだろうが乗っているのは我々も含めて老人ばかり。

日本庭園に入って紅葉を楽しんだ。モミジの赤と空の青のコントラストが素晴らしい。



グラデーションにも見ごたえがあった。

竹を使った芸術もあった。

盆栽も展示されていた。

かりんの見事な実。

庭園の池に映ったモミジ。

子どもの森のイチョウも見事だった。

原種のシクラメン

歩いている途中で銀杏の実を見つけたので、10個ほど袋に入れて持ち帰った。紅葉の美しさを楽しめただけでなく、秋の味覚まで手に入りラッキーな一日だった。この公園は桜もきれいなので、次は春に訪れようと思っている。

町田市郊外に秩父平氏ゆかりの大泉寺を訪ねる

秩父平氏のことを調べていたら、ゆかりの寺が近くにあることが分かった。NHK大河ドラマで、畠山重忠(中川大志)が北条義時(小栗旬)と戦った場面を覚えている人は多いだろう。今回紹介する大泉(だいせん)寺は、ドラマでよく知られるようになった重忠ではなく、その叔父の小山田有重を弔うために建立されたものである。そして秩父平氏が生まれた秩父から遥かに離れた町田市下小山田にある。

19世紀初めの新編武蔵風土記には、次のように記されている。小山田村の東北にこの寺があり、補陀山水月院と号している。曹洞宗で、入間郡越生(おごせ)龍穏寺の末山で、寺領として八石の御朱印を受けている。安貞元年(1227)に起立された。伝わるところによれば、この寺の境内には小山田別当有重が居住し、有重のために開基されたようである。有重の法諡(はふし)は大仙寺天桂椙公で、寺の名前はこれに由来する(仙と泉は同音)。開山の僧は無極と言い、永享二年(1430)に寂した。Wikipediaによれば、無極が室町時代に開山したが、それより以前にはこの地に真言宗高昌寺があり、1227年に有重五男の行重によって創建されたとなっている。

有重は、武蔵国多摩郡・都築郡にまたがる小山田保、武蔵小山田荘を支配して、小山田別当を称し、小山田氏の祖となり、その子孫からは榛谷氏・稲毛氏が分出した。なお保は、平安後期に律令制での郡郷組織の解体編成に伴って成立した国衙領の単位の一つ。保は開発領主による田地開発の申請が国主により認可されたことでたてられ、開発申請者は保司職に補任された(律令制での郡司に近い役割)。従って、有重は、小山田の土地の開発を行い、その領主となって、小山田保をたてたのだろう。

有重の父は秩父重弘、兄は畠山重能である。有重が史料に初めて見えるのは『保元物語』である。保元の乱(保元元年(1156))には三浦義明・小山田有重・畠山重能は参加しなかったが、敗者となった源為朝が、父の為義に対して、この三人らと談合して関東で抵抗しようと提案している場面が描かれている。なお、保元の乱での勝者は、後白河天皇藤原忠通源義朝平清盛源頼政信西などで、敗者は崇徳天皇藤原頼長源為義平忠正などである。

平治の乱(平治元年(1159))では、平家が勝ち、源義朝藤原信頼らが敗れた。『平家物語』『愚管抄』では、重能・有重兄弟は、平家の郎党と記されているので、勝者側であろう。源頼朝が挙兵(治承4年(1180))したときは、重能とともに京都で大番役を務めていて、平家の忠実な家人であった。武蔵にあった秩父一族も、頼朝挙兵のときは平家方であったが、そのあとすぐに頼朝に帰伏した。

吾妻鏡』によれば、一族が源氏方についたことから平家棟梁の平宗盛に拘束されたが、平家の家人の平貞能のとりなしによって、重能・有重・宇都宮有綱は東国へ戻ったとなっている。しかし『平家物語』『源平盛衰記』では少し異なって記されている。

また『吾妻鏡』には、頼朝による一条忠頼(甲斐源氏武田信義嫡男)の謀殺(元暦元年(1184))の場面でも有重は見られる。しかし、これ以降は有重が史料に現れることはない。

それでは大泉寺を見てみよう。
惣門。


立派な構えの仁王門。

本堂。

本堂前の羅漢像。古い写真を見るともっと数が多いのだが、どこへ行ってしまったのだろう。

宝篋印塔。

小山田氏は、畠山重忠の乱(元久2年(1205))のときに没落し、甲斐国都留郡に入部したようである。そのあとの動向は不明だが、南北朝期には『太平記』に小山田高家の逸話がみられる。建武3年(1336年)までに高家新田義貞に従ったとされる。そして湊川合戦のときに義貞の身代わりとして討ち死にした。
小山田城址高家碑。

鐘楼。寺にもITが??

観音堂。武相卯歳観音霊場の一つであり、来年はうさぎ年なので、開帳されて中の観音様がみられるはずである。

境内には山茶花がみごとに咲いていた。

かつては大泉寺の鎮守社だった上根(かさね)神社。

秋晴れの素晴らしい日だったので、このあと1時間ほど近くの都立小山田緑地を散策した。
杉の木立や雑木の林に沿って小高い山の道を歩いていくと、うさぎ谷に差しかかる。ここにはつり橋がかかっている。

初夏には黄色い花が咲くアサザ池。

里山の風景。この辺は谷戸が多いので、かつてはこのような景色があちらこちらで見られたことだろう。

豹模様の蝶を見かけた。ツマグロヒョウモンだろう。アザミの花と戯れながら秋を楽しんでいた。この緑地では、オオムラサキに出会うこともあるそうだ。

最後に、秩父平氏の広がりを見てみよう。

秩父という地点から、武蔵国一円に広がっていく様子を見ることができる。土地を新たに開発して開発領主となって発展したのであろう。小山田氏の繁栄は、大泉寺からわずかに知ることができるのみであるが、この頃の武士たちがどのような場所に好んで進出したのかを肌身で感じることができた。また秋晴れの一日を、都内では貴重ともいえる自然の中で満喫できた。これから紅葉もきれいになるだろうから、そのときにもう一度訪れようと思っている。

畠山重忠の館跡にある嵐山史跡の博物館を訪ねる

東京のはずれというよりも、神奈川県の中央部と喩えた方が適切な場所から、3時間近くかけて、埼玉県中部の嵐山町を訪れた。

ここは鎌倉時代初め頃に活躍した畠山重忠(しげただ)の館があったところである。また木曽義仲が誕生したところでもある。義仲の父源義賢(よしかた)はこの町の大蔵に館を構えていたが、兄の悪源太義平に攻め込まれて敗北を喫した(久寿2年(1155)の大蔵合戦)。このとき義仲は2歳で、義平の家来であった畠山重能(しげよし)、斎藤別当実盛(さねもり)のはからいで、母とともに信濃国木曽に落ち延びた。

畠山氏は秩父平氏の一族で、重能は重忠の父である。源頼朝が挙兵したとき、重能が京で大番役をしていたため、重忠は17歳で一族を率いて平家方として頼朝の討伐に向かった。頼朝は大庭景親(かげちか)に大敗して潰走した(治承4年(1180)の石橋山の戦い)。このとき三浦義明・義澄はこの戦いに間に合わず、引き返した。その途中で、由比ガ浜で重忠に遭遇して合戦となった。ここでは双方は死者を出して兵を引いた。重忠は、河越重頼江戸重長(いずれも秩父平氏)とともに、三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、義明を打ち取った。

頼朝は安房国に落ち延びたが、千葉常胤、上総広常らを加えて大軍を組織し武蔵国に入ろうとした。このとき重忠は頼朝に帰服し、御家人となった。そして治承・寿永の乱(源平合戦)、奥州合戦などで活躍した。

武蔵国では比企氏と畠山氏が大勢力を張っていた。2代将軍頼家のとき、比企能員(よしかず)の変(建仁3年(1203))で比企一族は滅びた。3代将軍実朝の時代になったとき、北条時政が権力を握った。畠山一族を滅亡させて武蔵国を我がものとするために、時政は策略を巡らして重忠に鎌倉に参上するように命じた。重忠は鎌倉に向かう途中の武蔵国二俣川で、北条義時が大軍を率いて重忠討伐に向かっていることを知った。重忠はこの地に踏み留まり、少人数にもかかわらず奮戦したが、愛甲季隆に射られて討ち死にした。

嵐山町は以上のような歴史を持ち、これを伝えるために嵐山史跡の博物館が設置されている。「鎌倉殿の13人」で盛り上がっているこの時期、企画展「武蔵武士と源氏」が開催され、近くで講演会もあったので、チャンスととらえての見学であった。

とても可愛らしい嵐山駅

博物館全景

入り口近くで、畠山重忠のロボットが案内

平家に従っていた重忠が、白旗をあげて頼朝に参陣

奥州平泉出土の渥美焼袈裟襷文壺(左上)、常滑焼四耳壺(右上)、柱上高台(右下)、かわらけ(右下)

鎌倉出土の青白磁梅瓶

埼玉県吉見郡金蔵院出土の白磁四耳壺

黒漆太刀 銘 宝寿

畠山重忠奉納鐙

畠山重忠墓(模造)

二十八間二方白星兜鉢

馬場都々古別神社赤糸威鎧残闕

重忠が武蔵御嶽神社に奉納したとされる赤糸威大鎧(模造)

安達藤九郎盛長坐像

木造伝源頼朝像(北条時頼とも)

館外は、重忠の館があったとされる菅谷館跡。但し中世の館跡は発見されておらず、戦国時代のもの。


重忠像

このあと講演会に参加するために、国立女性教育会館へと向かった。国立の施設とあって、さすがに広く立派。

研修所

日本庭園

講演が行われた講堂

講演会のタイトルは「武蔵武士の中世ー鎌倉から室町へ」で、4人の講師の方からそれぞれ1時間ずつ話しを伺った。前々から知りたいと思っていた中世の武士団についての詳しい説明が含まれていて楽しんだ。埼玉県はかつての武蔵国の中心で、秩父平氏や武蔵七党が跋扈していた場所だ。武士団が活躍した地で講師の話を聞くと、臨場感があり、なるほどと納得することが多かった。しかし遠足とも思えるほどの遠さだったため、現地をゆっくり見る時間がなく、この点は残念だった。次に機会があれば、嵐山の街をじっくりと楽しみたいと思っている。

丸橋充拓著『江南の発展』を読む

世界の中での日本のGDP比は、ピークであった1994年には17.9%を占めていた。それに対して中国は2.0%であった。しかしこの構図は今では完全に逆転し、2021年には日本は5.1%、中国は18.1%である。経済・軍事大国として勢いを増す中国から逃げようとしても、物理的に離れることはできない。ロシアがウクライナに侵攻して東と西の対立が鮮明になるにしたがって、政治的には水と油の関係にある二つの国が隣り合って共存する方法があるのだろうかと思いを巡らすことがこの頃は多い。

先日、コロナ後の時代がどのようになるのかが知りたくて、朝日地球会議2022の録画撮りを聴講した。パネリストは、与那覇潤さん(評論家)、市原麻衣子さん(一橋大教授)、吉岡桂子さん(朝日編集委員)、そしてコーディネーターは長野智子さん。何と男性は一人だけ、これまでとは全く異なる光景を体験することになった。パネル討論に先立って、ドイツの哲学者のマルクス・ガブリエルさんと、人口統計学者のエマニュエル・トッドさんのインタビューが紹介された。彼らの話の中で、「ロックダウンは最悪、あれほどの人権侵害はなかった」と言っていたことが印象に残った。個を中心に考える彼らにとって、自由ほど大切なものはないのだろう。個と個とのつながりを大切にする日本人は、迷惑をかけないようにと自己規制する。このためコロナへの対応では、西洋と日本では異なることが多かった。

コロナ禍の中で大きく進展したのはオンラインによるコミュニケーションだ。便利なだけでなく、その弊害にも多くの人は気がついているようで、SNSは好きな人とだけ、興味のあるテーマだけ、素晴らしいと思っているものだけにつながりやすいと指摘されている。嫌いなものは面倒くさいことなので選ばれない、排除されるなどの傾向がみられ、これが社会の分断を招くと危惧されている。

我々が住んでいるコミュニティーは、隣の人を選ぶことはできない。偶然隣り合った人と、好きであろうと嫌いであろうと、付き合わざるを得ない。これはコロナと似ている。世界に蔓延してしまったコロナは、絶滅することはかなわず、ずっと生存し続けていくことだろう。われわれはコロナに偶然に罹患してしまう危険性に常にさらされている。しかしこれから助けてくれるのは、人間が持つ免疫力と、ワクチン。与那覇さんは、好きな人とばかり付き合うようにするのではなく、強制的に嫌いな人とも付き合うような、デジタル社会にしてはと述べていた。このとき、コロナと同じように、嫌いな人と付き合うためには、対応力(免疫力)とリテラシー・知性(ワクチン)が必要であると主張された。

各種の世論調査によれば、中国に対して良い印象を抱いている人は少ない。しかし中国が隣国という地理的関係は変えることができない。与那覇さんの言を借りれば、嫌いな国と付き合うためには、対応力とリテラシー・知性が必要だ。そこで、中国のことをもう少し深く知ってみようと思い、中国社会の原形が造られた時代について論述した丸橋充拓さんの『江南の発展』をもう一度読み直してみた。

丸橋さんは、中国の北と西の地域を「馬の世界」、南と東の地域を「船の世界」と呼んでいる。その二つの世界の真ん中は、「中原」と呼ばれる地域で、古代に古典国制が育まれたところである。馬の世界は遊牧(もっと北に行くと狩猟採集)を、船の世界は農業(水田稲作)、中原は農業(畑作)を生業としている。馬の世界ではシルクロードを介して、船の世界では海洋交通を利用しての貿易が盛んである。政治は中原あるいは馬の世界で権力を握った人々が行うことが多かった。船の世界の人々は、その配下に置かれることが多く、不満が高じた場合には、たびたび、大きな乱を起こした。

中国社会は、縦糸と横糸が織りなしていると考えることができる。縦糸は「国つくりの論理」で、横糸は「人つながりの論理」である。「国づくりの論理」は、一国万民で、一人の皇帝と、たくさんの民の一人一人とが、垂直的・放射状に主従関係で結ばれる。民は平等でそれぞれの間に差はないものとされていた。しかし、一人の皇帝と、膨大な数の民を主従関係で結ぶことは事実上不可能なので、官僚を通して、民は統治された。古代国家では、郷里制のもとに、郷や里を単位にして家々がまとめられ(編戸(へんこ))、それぞれに責任者の長が置かれた。さらにそれらの上部組織として県や郡が置かれ、そこの責任者は、官僚と呼ばれる人々である。中国の官僚制は、古くは貴族が牛耳り貴族制の存続を担保してきた。ところが唐から宋の王朝に移行したとき、いわゆる「唐宋変革」が起き、門閥主義から賢才主義へと移行し、科挙試験に合格すればだれでも官僚(士大夫(したいふ))になれた(大変な受験勉強をしなければならないので、実際は裕福な家の子供に限られた)。なお科挙の制度は、隋の時代に始まったが、唐の時代までは貴族は科挙の試験を受けずに官僚になれた。

人々は皇帝との主従関係だけでは生きていけず、相互に助け合う仲間を必要とした。このため幇(ほう)というつながりが隠れて作られた。幇は助けることを意味する。編戸に属す人々たちは、郷党や宗族を形成した。また税や兵役などから逃れるために、編戸から逃げ出したアウトローは、任侠的に結合した秘密結社を作った。官僚たちも朋党を作った。これらの任意団体は皇帝の圧政に耐えられなくなったとき、乱の主体となる。

「国つくりの論理」と「人つながりの論理」が、中国の歴史を貫く社会構造である。それぞれの王朝はこの構造の一つ一つの事例と見なすことができる。現在の中国社会もこれに通じるところがある。

『江南の発展』には、春秋戦国の時代から宋の時代まで、「国つくりの論理」と「人つながりの論理」を対比して、「船の世界」が描かれている。例えば、唐の国が亡びるころの対比は次のようになっている。

開元の治(国づくりの論理):第6代皇帝玄宗の8世紀前半に、募兵制(民の生活負担軽減)、節度使(異民族対策で辺境に配備)、括戸(逃戸の再把握による租庸調制の取戻し)などの新たな政策を導入し、開元の治と呼ばれる政治の安定期を迎えた。また漕運(自然河川・人工運河・海上交通を使用して米・秣・絹・粟などといった物資を輸送する行為)の制度改革を行い、江南の富を大運河経由で長安に円滑に輸送出来るようにした(これまでは水運の便が悪かったため、副都洛陽にその位置を奪われそうになっていた)。しかし玄宗はその後半は楊貴妃を寵愛するようになり、別の意味で長安の春となった。

安禄山の乱(人つながりの論理):玄宗皇帝の晩年は国が乱れ、安禄山が三地域の節度使を兼ね、大きな軍事力を擁するようになった。また宗室の李林甫、外戚楊貴妃一族、宦官高力士など私的な寵愛勢力も力を持つようになった。そして安禄山が乱をおこし、それは平定されるが、節度使軍閥化(藩鎮)し任地の税制を私物化した。

元和中興(国づくりの論理):藩鎮を抑えるために、戦火が及ばず無傷であった江南経済の再建が講じられた。8世紀の後半に、専売塩の間接税(官用物資を大運河で輸送するコストの捻出)、両税法(資産に応じて課税)などが導入され、江南の生産物を安定的に北送することが可能になった。9世紀初頭には憲帝によって、反抗的な藩鎮を制圧し、節度使の軍事的・財政権を削減して、「元和中興」と呼ばれる治世を迎えた。しかし些細なことから宦官に恨まれ殺害された。

黄巣の乱(人つながりの論理):宦官たちの力が強くなることに対し士大夫たちは対抗しようとするが、牛李党争(牛僧儒派vs李徳裕派)に見られるような派閥間での足の引っ張り合いをおこした。他方、基層構造でも、本籍地から逸脱したアウトローたちは、藩鎮や塩の密売集団に吸収されて膨れ上がっていき、裘甫(きゅうほ)の乱、龐勛(ほうくん)の乱、そして黄巣の乱が生じた。

上記のように、「国づくりの論理」と「人つながりの論理」を織り交ぜての説明が、春秋・戦国から南宋の時代までなされている。紙幅との関係で詰めこまれすぎているため、一行一行の記述が重く、姿勢を正してしっかり読まないと方向を見失うという難儀はあるものの、中国社会の構造とその上に築かれた歴史がよくわかる良書だと感じた。特に海上帝国へと進んだ南宋の時代は、鎌倉時代に大きな影響を及ばしたので、ワクワクした気分で読むことができた。さらには、現在に至っても社会構造の骨格が維持されていることが分かり、なるほどと感じた。

横浜市歴史博物館にプレ連続講座「鎌倉御家人の所領経営」を聴講に行く

横浜市歴史博物館は、この秋から開催する企画展「追憶のサムライ」に先立って、プレ連続講座を行った。先週末(9月17日)はその最後ということで、東大史料編纂所井上聡さんが「鎌倉御家人の所領経営」の話をした。話し上手な方で、またとても興味が湧く内容であった。話に惹かれ、久しぶりに身を乗り出し、一言一句に注意しながら、細かくメモを取った。

たびたびブログでも書いているように、今年は大河ドラマで鎌倉の御家人を扱っていることもあって、あちらこちらで関連のイベントが開かれている。それらのいくつかに参加したこともあって、随分と詳しくなった。しかし「武士」ということもあって、乱を扱ったものが多かった。どの様な事件があったのかについては詳細な知識を得たが、御家人はどのようにして生活が成り立つようにしていたのか、と改めて問われると、地頭として荘園の維持・管理をしたと言えるぐらいであった。まともな説明とは言えないので、もう少し突っ込んで知りたいとかねがね感じていた。今回の講演はまさにぴったりで、期待していた以上の知見を得た。

井上さんは、最初に「武士とは何か?」ということから始められた。我々が、学校教育で教えられた武士は、農村から登場し、荘園制と貴族社会を打ち壊し、新しい封建社会をつくった人々であった。自ら開発した農地を「一所懸命」に守るストイックな存在でもあった。

このブログの別の記事で、野口実さんの『源氏の血流』で紹介したが、近年においては「京武者」という言葉で表現されるように、武士は律令国家の武力組織からの転化と見なされるようにもなった。さらに最近になって、高橋修さんや田中大喜さんたちは、在地領主の領域支配の核に、流通・交通の結節点としての町場があることに注目して、開発領主・在地領主像の再検討をしている。そこには当初の農民から誕生したイメージはない。

これらを受けて、井上さんは次のように定義した。武士とは、開発領主・在地領主のうちで、中央集権や国衙とのつながりを背景に武力を持つことを承認された存在である。彼らは、都市を核とする荘園制の経済的ネットワーク(物流・交通・金融)を活用しながら、自ら都鄙を往復し、地域所領の開発・保存し、維持・経営した。

鎌倉時代の経済的な基盤は荘園制である。律令国家が始まってすぐあとに、墾田永年私財法(天平15年(743))が発布され、荘園発生の基礎ができた。摂関政治全盛時(11世紀)には、開発領主は有力貴族などに荘園を寄進するようになった。さらに院政期(12世紀)になると、上皇家・摂関家・大寺院などは、所有している小規模の私領を核に、広大な領域を囲い込み領域型荘園を誕生させた。

このころの荘園の所有関係を示すと次の図のようになる。本所は、今日の言葉で表すとオーナーで、荘園の実効支配者である。領家は、エージェントで、本所から荘園に関わる権利・利益の一部を付与されている。下司・公文(荘官)は、マネージャーで、現地管理者であり、井上さんの定義によれば、武士となる。

鎌倉時代に入っても荘園制は引き継がれた。鎌倉殿(鎌倉時代の将軍)と主従関係を結んだ武士は、特別に御家人と呼ばれた。鎌倉幕府成立以前には彼らは下司・公文であり、御家人となることで鎌倉殿より地頭職が与えられた。下司・公文は本所・領家から任命され、その身分は不安定であったが、地頭になることで本所・領家からの任命権が及ばなくなった。これにより地位が安定したため、本所・領家に納める年貢の割合を圧縮することが可能になり、実際実行された。

頼朝に地頭の設置が勅許されたのは文治元年(1185)である。地頭を頼朝の裁量で決められるようになったことが、鎌倉幕府にとっては最も重要なことであったと考えられるようになったのだろう。今日の教科書は、この年を以て鎌倉幕府のはじまりとしている(我々の世代はいい国(1192)造ろう鎌倉幕府だった)。このとき御家人には、関東の本領、平家没官領、源義経跡が地頭として与えられた。そのあと鎌倉幕府が対抗勢力を滅亡させるごとに 地頭は拡大した。奥州合戦(文治5年(1189))での勝利により奥州藤原氏跡が加わった。また承久の乱(承久3年(1221))では京方没収地が、新補地頭として与えられた。これにより御家人は、関東の本領のみならず、列島規模で所領を有するようになった。まるでバブルのように拡大した。

どの程度拡大したのかを見てみよう。安保(あぼ)氏は北武蔵の賀美郡を本領とする武士で、武蔵七党の丹党に属し、武蔵の典型的な武士団の一つである。安保氏が残した「安保文書」は、中世の武士の様子を知る上で貴重な史料である。安保光泰譲状(歴応3年(1340))から、鎌倉末期の安保氏の所領の分布を知ることができる。表で上の3国は安保光泰譲状によるものであり、他は表中に出展先が記載されている。井上さんは次のように領地を得たと見立てている。武蔵国は本領、出羽国奥州合戦で、播磨国近江国承久の乱で増えたもの。陸奥国は、鎌倉後期に得たものだろう。

安保直実は、歴応3年(1340)に、父光泰より次の領地を譲りうけた。

井上さんは、『太平記』(東国に居住して三百余箇度の合戦)、『東大寺文書』(播磨国大部荘地頭悪党交名→直実)、『祇園執行日記』(京四条に邸宅)、『余目(あまるべ)安保軍記』(余部安保氏の祖は直実)から、「直実は、武蔵と京都に屋敷をもちながら、播磨・但馬・出羽を股にかけ広域に活動した」と解釈した。そして本領と鎌倉・京都を軸に、所領のある地域を移動しながら支配の維持を図る姿が、鎌倉期以来の所領経営スタイルではないかと話された。

この見方を補強する例がさらに提示された。寺尾重員(為重)が、継母妙漣と異母兄弟重通から訴追された。その時の「尼妙漣等訴追状」(弘安元年(1278))から小規模武士の所領経営を伺い知ることができると説明された。なお寺尾氏は渋谷氏の庶家である。

少し寄り道をして、渋谷氏の家系を簡単に説明しておこう。渋谷氏は、桓武平氏の一流である秩父氏を祖とし、南関東に進出した河崎冠者基家が相模国に展開し、孫の重国が渋谷荘司となって渋谷氏を名乗った。源頼朝挙兵(治承4年(1180))のとき、重国は大庭景親らとともに平家方に与した。しかし佐々木定綱兄弟を庇護したこと、さらにはそのあと頼朝の麾下に入って子の次郎高重とともに戦功をあげたことなどが認められ、二人は御家人となった。そして重国は相模大名の地位を維持した。北条氏が和田氏を滅ぼした和田合戦(建保元年(1213))で、重国は和田義盛方につき戦死したが、太郎光重が渋谷荘を保った。北条氏が三浦氏を滅亡させた宝治合戦(宝治元年(1247))では渋谷氏は戦功をあげ、子の定心らは、千葉氏の旧領薩摩国薩摩郡入来院(いりきいん)、薩摩郡祁答院(けどういん)、薩摩郡東郷別府(とうごうべっぷ)、高城(たき)郡などの地頭となった。


さて本題に戻ろう。訴訟を起こされたのは定心の孫の重員、訴えたのは継母の妙漣とその子の重通であった。

訴えに対して重員は陳情で次のように反論した。(1)私為重(重員)が絶縁され、悪行を働いたというのは継母の嘘、(2)渋谷の屋敷もその他の所領も私のものなのに、継母が留守中に奪った、(3)幕府の召還に応じないと言っているが美作滞在中は何も言ってこなかった、(4)薩摩滞在中に、美作の妻に御教書を渡した、(5)私は強盗・山賊などではない、(6)判決が出るのは早すぎる、(7)妙漣・重通への譲り状が父親直筆というのは怪しい。

重員と妙漣・重通の一連のやり取りは、鎌倉時代の女性の権利が決して低くなかったことを説明するために使われることが多い。しかし井上さんは、そこに現れてくる重員の居所に着目した。鎌倉への召還から逃れるために重員は逃亡していると、妙漣は訴える。重員は、本領である相模渋谷荘から、入来年貢の中継地である備前方上津へ、そして所領である美作河会荘へ、さらに所領である薩摩入来院塔原村へ、最後に所領と思われる奥州へと移動している。重員は逃亡ではなく、いつもの行動と反論している。井上さんは、これから、鎌倉御家人による所領経営は安保直実や寺尾重員のようなスタイルが一般的で、「本領と京・鎌倉を軸に、所領のある地域を移動しながら荘園経営をしていた」と見ている。

飛行機も新幹線もない時代に、飛び廻るのは大変だったことだろう。しかしそれだけで全国に散在する所領を経営できるわけではない。それぞれの所領での生産を順調に進ませるための指揮も必要だし、在地での収穫を京(荘園領主への上納)や、東国・鎌倉(物資・富の移送)へ運ぶための流通も必要だし、幕府から要求される資金の提供に応じる必要もあった。このようにかなり複雑な荘園の経営をどのようにこなしたのだろうか。

安保氏のような小規模御家人がどのように荘園を経営していたかについての史料はこれまで見つかっていないので、井上さんは、延応元年(1239)の鎌倉幕府追加法「山僧・借上などを地頭代とすることを禁じる」に解決の糸口を見出した。山僧は比叡山延暦寺などの僧で経済的活動に長けており、借上は金融業者である。禁止の法律ができたということは、このようなことが横行していたことを示すもので、小規模御家人は、山僧・借上・商人などを地頭代にして経営を委託したと、井上さんは見ている。委託したことで、経営のプロである山僧・借上・商人に侵食されて、御家人たちの所領状況は悪化したと説明してくれた。

また、大規模御家人では、有能な経営のスタッフを抱えていたのではと見ている。千葉氏を取り上げて説明された。その内容に入る前に、ここでも寄り道をして千葉氏について簡単に説明しておこう。

千葉氏は桓武平氏で、平忠常の乱(長元元年(1028))をおこした忠常の子孫。千葉常胤は源頼朝の挙兵に応じ、下総の守護となる。同族の上総介広常が頼朝に討たれたこともあって大きく発展し、下総、上総、陸奥、美濃、伊賀、九州などの所領を得た。獲得した所領は、そのあと常胤の子の6人、胤正(千葉介)・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼がそれぞれ分割して受け継ぎ、それぞれの中心となる所領の地名を名乗った。胤正の孫の秀胤(上総権介)は、妻が三浦泰村の妹であったことなどから、宝治合戦では一族の多くが北条氏方につく中で、三浦氏に与した。秀胤の九州の所領は、先に見たように渋谷氏に渡った。なお胤綱と時胤は、家系図では親子としたが、吾妻鏡では兄弟となっている。

それでは元に戻ろう。有力御家人である千葉氏の場合には、中山法華経寺所蔵『日蓮聖教紙背文書』から所領経営の様子を知ることができる。千葉頼胤が千葉介を担っている頃と思われる文書の中に、家人の一人である西心(さいしん)が、やはり家人の富木常忍に宛てて、「介殿(千葉氏)が上洛のための銭200巻を介馬允(すけのむまのせう)という借上から替銭(支払い約束手形)で調達し、返済に小城郡の年貢を充てたので、借上が現地へ下向して銭の確保に奔走する様子」が書かれている。これに関連して、小城郡の人物とみられる弥藤二入道が返済に応じていること、しかし銭の調達が難しく、京都大宮の千葉氏の屋敷を質に入れ、利銭(借金)を調達することで馬允に返済しようとする様子が書かれている。

富木常忍の経歴を調べると、父の代に因幡国法美郡富城郷から上総に移住、常忍は識字率が高かったとされている。井上さんは、常忍は官人で、経営能力を有していたのではと見ている。そして経営能力を持ったスタッフ(吏僚)を集めて家産組織を編成し、金融業者による資金調達を媒介として、本領・鎌倉・京都を拠点に散在所領を経営していたとしている。しかしそれにもかかわらず、千葉氏の吏僚は、資金繰りの悪化に何度も直面した。やはり所領経営はなかなか難しかったようである。

13世紀後半以降、所領経営が特に難しい中小の御家人は、御家人の身分を維持しながら、北条氏の被官(得宗被官)として編成された。北条氏は、幕府内で最も多くの所領を列島各地に所有する存在で、(1)経営機関としての得宗公文所、(2)安藤蓮聖に代表されるような流通・物流に精通した被官の存在、(3)通用な交通路・津・港などの掌握によって、列島に物流・交通・金融のネットワークを構築した。人材・資金で劣る中小御家人は、北条家のネットワークを利用して所領経営を行ったと話してくれた。

14世紀中盤以降は、荘園制の最大庇護者であった鎌倉幕府・北条家の滅亡によってネットワークは崩壊、御家人らの所領も拠点所領の周辺に集約され遠隔所領は消滅、安保氏は本領である武蔵とその周辺地域に限定され、各地の安保氏は自立化(列島規模の移動は直実が最後)、また寺尾氏は薩摩入来院とその周辺にのみ集約され譲り状には遠隔所領も記載されるものの形式的なものとなったと、話を結ばれた。

武士を律令制度の武力組織の転化とする見方に対しては、在地領主・開発領主が武士から抜けているようで不満であったが、今回の井上さんの定義は分かりやすかった。また御家人たちが所領経営の上で、物流・交通・金融のネットワークを列島という広域にわたって構築・活用したことのすごさを知った。さらに列島を飛び回りながらネットワークを動かしていく御家人の躍動的な姿を浮かび上がらせてくれた。御家人たちの所領経営に関する理論的な組み立てを伺うことができ、久しぶりにすばらしい話を味わえて、有意義な一日であった。

あつぎ郷土博物館に縄文時代を特徴づける土器を観に行く

あつぎ郷土博物館に行ってきた(9月16日)。ボランティア仲間から特別展が開催されていることを聞き、そのホームページで調べたら終了間近だと分かったので、おっとり刀で出かけた。交通案内を調べたら途中の道路が渋滞していたので、電車・バスを使用した。

厚木駅北口から、あつぎ郷土博物館行きのバスを利用。どうせ空いているだろうと高を括っていたら、そんなことはなく、途中に大学があり通学生でほぼ満員。運良く座れたからよかったものの、そうでなかったら30分近く、若い人達の中に埋もれて立ち続けることになり、見学のための体力は失われていただろう。大学前の停留所に着き、列をなして学生たちが降りたあとには、やはり博物館を訪ねるのだろうと思しき身なりの方と私の二人が、ぽつんと取り残された。

さらに10分近く走った後、終点の博物館に到着した。ここの博物館は3年前に新築され、こじんまりとした綺麗な施設である。

館内には特別と常設の展示室がある。常設展では、1200万年前の化石から現在までの「あつぎ」の風土・考古・歴史・民族・生物について、分かりやすい構成で伝えている。今日の目的は常設展ではなく、特別展「有孔鍔(つば)付土器と人体装飾文の世界」である。縄文時代には、人々は1万年にもわたって定住型の狩猟採集生活をした。定住を始めたことで、採集に必要な道具だけでなく、生活を便利にさらには豊かにするモノを作り出して利用するようになった。その代表的なものが、移動には不便な土器である。縄文の人々は、様々な形態の土器を生み出したが、中期(4500~5500年前)には、口縁に孔が開きそして鍔を有する有孔鍔付土器を生み出し、さらには中央部に人体に似せた装飾を設けることもした。これらの土器は、関東地方や中部地方を中心に見られるが、出土量の多さでは中部高地が目立っている。今回はこれらも含めて展示されていた。

それでは展示を見てみよう。最初は、国重要文化財の有孔鍔付土器。甲府市の一の沢遺跡出土である。口縁の近くに孔があり、その下は鍔のように広がっている。

胴体部を拡大、目、口そしてまた目だろうか?

甲州市安道寺出土の山梨県重文、

胴体部、中央に見えているのは蛇だろうか?

山梨県大木土遺跡出土、

笛吹市釈迦堂遺跡出土、国重文のミニチュア有孔鍔付土器、

何に使われたのだろう?特殊な形をしている諏訪市ダッシュ遺跡出土(諏訪市博物館所蔵)、

渋さが優っている長野県井戸尻遺跡出土、

寒川町岡田遺跡出土、

厚木市林南遺跡第7地点出土(手前)

胴体部、両側に蛇?それとも両手?

有孔鍔付土器が終焉を迎えるころの伊勢原市西富岡・向畑遺跡出土の小把手付壺、

ここからは人体装飾文がより鮮明な土器たちである。
元代表だろうか?厚木市林王子遺跡出土、

胴体部を拡大、神奈川県立歴史博物館にある頭部だけの土偶(?)と表情がよく似ている。

国重文の笛吹市釈迦堂遺跡出土、

胴体部を拡大、横に広げているのは手だろうか?先端は手首のように見える。

平塚市上ノ入B遺跡出土、

胴体部、対称性を強調した抽象化された人間だろうか?構図がとても面白い。

相模原市指定有形文化財の大日野原遺跡出土の人体文付土器、

胴体部を拡大、きれいな幾何学模様だ。魚のようにも感じられる。

調布市指定有形文化財の原山遺跡出土、

胴体部を拡大、怒っているのだろうか?目と口を強調しているのが印象的。

諏訪市ダッシュ遺跡出土(諏訪市博物館所蔵)、

胴体部を拡大、ひょうきん!印象に残る表情である。

有孔鍔付土器はなぜ使われるようになったかについてはいまだに解明されていない。有力な説は太鼓。

もう少し有力な説は酒造。縄文後期になると、注口土器が現れる。これは酒を注ぐためと説明する研究者もいるようだが、果たしてどうなのだろう。

縄文時代中期の土器は、装飾性に優れていて、見る人の目を楽しませてくれる。今回の有孔鍔付土器も、胴体部の装飾から、この時代の人々の精神的な豊かさを伺い知ることができ楽しめた。常設展も厚木の歴史が分かり、優れた展示であった。

1時間おきにしか出ないバスに乗り込んで帰路に就いた。例の大学の前では、学生たちが長い列を作ってバスを待っていて、乗り切れない。朝にもまして詰め込まれ、学生たちは身動きができない。さらに途中の停車所からは、杖を突いた老人たちが、入り口のステップへと乗り込んできた。押し合いへし合いになるほどの混雑で、老人たちが転ばないかと心配になった。はるか昔の高校生のころにしか経験したことのないような光景に出会い、びっくり(もっともその頃は若い人だけで、老人が乘ってくることはなかった)。長い車中だったのだが、その長さを感じることはなく、学生たちの毎日の通学の苦痛とこの路線上に住む人々の不便さに胸が痛んだ。博物館の余韻もすっかり冷めたころ、終点の厚木駅に到着した。博物館で味わった楽しさと、満員のバスに対する不安・不満とが入り混じった、複雑な一日だった。