来週、神奈川宿をガイドすることになっている。神奈川宿を歩くと、わずか数百メートルのあいだに景色が大きく変わる。低地の川沿いから台地の縁へと道が折れ上がり、視界が一気に開ける。この地形の変化こそが、神奈川宿の歴史や街並みを形づくってきた背景である。今回は下見を兼ねて歩いた記録をまとめてみたい。
神奈川宿は東海道の宿場の一つで、品川宿・川崎宿に続く宿場として栄えた。宿場町としての規模も大きく、幕末の横浜開港時には、いくつかの寺院が外国の領事館や公使館として利用された。
実は、この神奈川宿の歴史や街並みは、この地域のユニークな「地形」と深く結びついている。
周辺の地形は、約12万5千年前の最終間氷期における海面上昇(下末吉海進)によって形成された海岸地形を基礎としている。この時期に海岸沿いには波によって削られた平坦面や海成堆積面がつくられ、その後の海面低下と地盤の隆起によって、現在の下末吉台地へと発達した。さらに約6,000年前の縄文海進では海が内陸深くまで入り込み、その後の海退によって河川沿いや海岸部に沖積低地が形成された。
そのため、神奈川宿の東半分は滝ノ川が形成した沖積低地の上にあり、西半分は下末吉台地が海に向かって張り出した地形となっている。江戸時代の東海道は、東側(江戸側)では自然堤防上の平坦な道を通り、西側(京都側・台町方面)では海を見下ろす台地の裾や崖の上をたどるように敷設された。

(図:東側は沖積低地、西側は下末吉台地(全国q地図 を利用))
現在、江戸時代の建物が現存するのは本覚寺のみであるが、このアップダウンに富んだ往時の面影をたどれるよう「神奈川宿歴史の道」が整備されている。主要ルートには茶色のレンガタイルが敷かれており、滝ノ川周辺の低地から台地へと移り変わる地形を体感しながら、歴史的な場所を散策するのに便利である。
江戸時代の東海道の様子を知る資料としては、名所案内として編まれた『江戸名所図会』『東海道名所図会』、幕府道中奉行所による測量地図『東海道分間延絵図』、長大な絵巻物『東海道絵巻』、歌川広重の『東海道五拾三次』、葛飾北斎の『東海道五十三次』などがある。しかし、神奈川宿に限っていえば、『金川砂子(かながわすなご)』ほど詳しい資料はない。『金川砂子』は1824年(文政7年)に刊行された地誌で、著者は神奈川宿の住人であった煙管亭喜荘である。全三巻からなり、神奈川宿とその周辺の歴史・名所・寺社・風俗などが豊富な挿絵とともに描かれている。神奈川宿版の『名所図会』ともいえる貴重な資料である。
横浜市のホームページには、「神奈川宿歴史の道」が紹介されている。

(図:神奈川宿歴史の道)
一方、『金川砂子』にも神奈川宿の絵地図が描かれていて、東側は沖積低地が豊かに広がり、西側は下末吉台地が海に迫っている様子がわかる。

(図:神奈川宿東半分)

(図:神奈川宿西半分)
東側と西側とでは地形が異なることに注意を払いながら、江戸側から京側へと神奈川宿を訪ねてみよう。
長延寺
歴史
長延寺は横浜開港時、オランダ領事館として使用された寺で、幼少期の岡倉天心が過ごした場所としても知られる。『金川砂子』では街道沿いに本堂が描かれ、神奈川宿の江戸側入口に位置していた。
現在の見どころ
寺院は1965年に横浜市緑区へ移転し、旧地には建物は残っていないが、周辺の地形や道筋から「江戸見附」が置かれていた宿場入口の雰囲気を感じ取ることができる。街道の始まりを意識しながら歩くと、当時の旅人の視点がよみがえる。

(図:長延寺)
良泉寺
歴史
開港当時、屋根を壊して「修理中」と偽装し、外国人宿舎への転用を免れたという逸話が残る。また、生糸貿易で財を築いた「天下の糸平」田中平八の墓所がある。『金川砂子』では「良仙寺」と表記されている。
現在の見どころ
境内には田中平八の墓が整然と残り、静かな空気の中に往時の繁栄を感じられる。『金川砂子』の表記ゆれ(良仙寺)を現地で確認できるのも興味深いポイントで、歴史資料と現地の対応関係を楽しめる。

(図:良泉寺)
能満寺と神明宮
歴史
1299年、海中から現れた虚空蔵菩薩像を安置したことに始まる古寺で、『金川砂子』には本堂・不動堂・神明社が描かれている。明治の神仏分離により神明宮が独立した。
現在の見どころ
能満寺と神明宮は現在も隣接しており、神仏習合の名残を感じられる配置になっている。境内の高低差や参道の向きなど、絵図と照らし合わせると地形と信仰の関係がよく分かる。

(図:下は能満寺と右上は神明宮)
東光寺
歴史
太田道灌の守護仏を由来とし、道灌が詠んだ歌が寺名の由来とされる。
海山をへだつ東のお国より
放つ光はここもかわらじ
『金川砂子』には東光寺のほか妙仙寺、地蔵堂、仲木戸横町が描かれている。
現在の見どころ
現在の東光寺は住宅街の中に静かに佇み、境内の配置から江戸期の寺院群の密集を想像できる。仲木戸の地名は今も残り、絵図と現代地図を重ねる楽しみがある。

(図:東光寺)
熊野神社
歴史
平安期に紀伊国から勧請された古社で、江戸中期に金蔵院境内へ移された。『金川砂子』には参詣客や神楽、神輿が描かれ、宿場の賑わいを象徴する場面が残る。
現在の見どころ
境内には樹齢約400年のイチョウが現存し、関東大震災や大火を耐え抜いた生命力を感じられる。絵図に描かれた賑わいとは対照的な静けさが、時代の移り変わりを物語る。

(図:熊野神社)
金剛院
歴史
『金川砂子』では熊野神社と東西に並んで描かれているが、明治以降の神仏分離や境内整理により現在とは位置関係が異なる。
現在の見どころ
現在は熊野神社の北側に位置し、絵図との違いを比較することで、明治期の宗教政策が地域の景観に与えた影響を実感できる。

(図:金剛院)
農村と漁村の風景
歴史
滝ノ川周辺は沖積低地で、山側には田畑、海側には漁村が広がっていた。『金川砂子』には吉祥寺を含む農村・漁村の風景が描かれている。
現在の見どころ
現在は都市化が進んでいるが、滝ノ川の流路や周辺の地形から、かつての農村・漁村の境界を読み取ることができる。地形を意識して歩くと、江戸期の生活圏の違いが浮かび上がる。

(図:左は田畑の様子で、中央を流れる滝ノ川、右は漁村の風景)
宿場町の様子
歴史
神奈川宿の中央部には本陣が置かれ、旅籠や商家が軒を連ねていた。『金川砂子』には旅人や荷物運搬の様子が描かれ、宿場の賑わいが伝わる。
現在の見どころ
現在は商店街や住宅地となっているが、道幅や曲がり方に宿場町の名残がある。絵図の「しろはた屋」「飴屋」などを現在の地図に重ねると、街道の生活文化が立体的に見えてくる。

(図:左はしろはた屋、中央は飴屋、右上は夜の風景、右下は問屋)
成仏寺
歴史
成仏寺は、幕末の横浜開港時にアメリカ人宣教師の宿舎として利用され、宣教師ブラウンやヘボンが滞在したことで知られる。ヘボン式ローマ字の基礎となる研究も、この周辺で進められたといわれる。
現在の見どころ
現在の境内は静かな住宅街の中にあり、往時の建物は残っていないものの、周辺を歩くと『金川砂子』に描かれた寺院群(本堂・熊野社・見松院・福泉院)が密集していた地形を実感できる。かつて飯田町と呼ばれた一帯の面影を、地形の起伏と路地の配置から読み取ることができる。

(図:成仏寺)
慶運寺
歴史
横浜が開港したばかりの幕末期、フランス領事館が置かれた寺で、浦島伝説の遺物が移されたことから「浦島寺」とも呼ばれる。
現在の見どころ
境内には浦島太郎ゆかりとされる観音像や石碑が残り、伝説と歴史が交差する独特の雰囲気がある。近くを滝ノ川が流れていることから、沖積低地に建てられた寺院の特徴がよく分かる。

(図:慶運寺)
本陣
歴史
神奈川宿には、滝ノ川を挟んで江戸側に神奈川本陣(石井家)、京都側に青木本陣(鈴木家)が置かれていた。宿場の規模が大きかった神奈川宿では、本陣2軒・脇本陣3軒という東海道でも有数の体制が整えられていた。『金川砂子』には石井本陣の建物が描かれ、周囲には宗興寺や権現山、宮之町などの地名が記されており、宿場の中心としての賑わいがよく伝わる。大名行列や幕府役人の往来が多く、神奈川宿の繁栄を象徴する場所であった。
現在の見どころ
現在、本陣の建物は残っていないが、滝ノ川を中心とした地形と道筋に、宿場の中心地であった名残がはっきりと読み取れる。川を挟んで本陣が向かい合う配置は、地形的にも合理的で、絵図と現地を重ねるとその意図が理解しやすい。周辺の道幅や曲がり方、わずかな高低差には、宿場町の骨格が今も残っており、歩きながら『金川砂子』の構図を思い浮かべると、江戸期の神奈川宿の中心が立体的に浮かび上がる。

(図:左上は神奈川本陣、左下は滝ノ川、右は滝ノ川周辺)
浄瀧寺
歴史
横浜開港時にはイギリス領事館として使用された。かつては領事が植えたとされる「多行松」があり、横浜十名木として知られた。
現在の見どころ
堂宇は横浜大空襲で焼失したが、境内の地形や残された石碑から、領事館時代の面影を感じ取ることができる。周辺の道筋は当時の寺域を想像する手がかりになる。

(図:浄瀧寺)
青木本陣
歴史
『金川砂子』には大名行列が青木本陣へ入る場面が描かれ、宿場の繁栄を象徴する。
現在の見どころ
本陣跡周辺は住宅地となっているが、道幅や曲がり角に宿場の中心地らしい風格が残る。周囲の地形を観察すると、滝ノ川を挟んだ本陣配置の合理性が見えてくる。

(図:青木本陣)
宗興寺
歴史
宗興寺は、神奈川宿の中心部に位置する寺院で、幕末の横浜開港期にはアメリカ人宣教師ヘボン博士(J.C.ヘボン)が施療院として使用した場所として知られる。ヘボンはこの地で診療活動を行い、地域住民の治療にあたったことが、後のヘボン式ローマ字考案や聖書翻訳などの活動につながる基盤となった。『金川砂子』にも宗興寺の堂宇が描かれ、本陣や滝ノ川、宮之町などとともに、宿場の中心的な景観を形成していたことが分かる。
現在の見どころ
現在の宗興寺は、かつての宿場中心部の面影を残す一角にあり、周囲の道筋やわずかな高低差から、江戸期の街道の骨格を感じ取ることができる。施療院として使われた当時の建物は残っていないものの、境内に立つと、ヘボン博士が地域医療に携わった歴史を静かに偲ぶことができる。『金川砂子』の絵図と現在の地形を重ねると、宗興寺が本陣や滝ノ川に近い“宿場の中心”に位置していた理由が理解しやすい。

(図:左はヘボン博士も利用したとされる神奈川の大井戸、中はヘボン博士施療院の碑、右は宗興寺)
権現山
歴史
戦国期の古戦場で、北条早雲方の砦が上杉方に攻め落とされたと伝わる。『金川砂子』には合戦図が収録されている。
現在の見どころ
鉄道敷設で山容は大きく削られたが、崖地の一部に往時の姿が残る。台地の縁に立つと、かつての軍事的要衝であったことが地形から理解できる。

(図:権現山)
洲崎大神
歴史
ご神木「オハキ」が地名「青木」の由来とされる。旧暦六月の例祭では神輿を海へ担ぎ入れる「お浜下り」が行われた。
現在の見どころ
現在は市街地に囲まれているが、台地のふもとに鎮座する位置関係は『金川砂子』と共通している。境内から見上げる台地の高さが、かつての海岸線を想像させる。

(図:洲崎大神)
普門寺と甚行寺
歴史
普門寺は横浜開港後、イギリス士官宿舎として利用された寺である。一方、甚行寺はフランス公使館に転用され、当初は江戸・芝の済海寺に置かれていた公使館が、1861年(文久元年)にここへ移された。甚行寺本堂は公使館として使うために改造されたと伝わり、幕末外交の現場となった。
現在の見どころ
両寺は下末吉台地のふもとに位置し、坂の上り下りを通して地形の変化がよく分かる場所にある。『金川砂子』の絵図と現在の地形を重ねて見ると、なぜ外交施設がこの位置に置かれたのか、地形的な理由が理解しやすい。

(図:右上は普門寺、下は甚行寺)
本覚寺
歴史
アメリカ領事館として使用され、ハリスやドーアが滞在した。領事館時代の逸話も多く、幕末外交の重要拠点であった。例えば、領事ドーアが庭の松を伐採して星条旗を掲げたことや、本堂の本尊を板囲いで覆い、山門を白く塗って日本人の立ち入りを制限したことなどが逸話として伝えられている。
現在の見どころ
境内には岩瀬忠震の顕彰碑があり、外交史の舞台であったことを示す。『金川砂子』に描かれた「樹木に囲まれた奥まった寺」の雰囲気は薄れたが、周囲の地形から当時の静けさを想像できる。

(図:本覚寺)
台町の茶屋
歴史
台町周辺は、江戸時代を通じて神奈川湊を見下ろす屈指の景勝地として知られていた。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』には、
ここは片側に茶店軒をならべ、いずれも座敷二階造りにて、浪打ちぎわの景色いたってよし
と記され、旅人が海を眺めながら休憩する人気の場所であったことが分かる。『金川砂子』に描かれた「さくらや」は、現在の料亭田中家付近にあったと伝えられ、富士山と袖ケ浦を望む絶景の茶屋として名高かった。
現在の見どころ
現在の台町は住宅地が広がっているが、旧東海道の道筋と台地の縁の地形はよく残っており、坂を上りきった瞬間に視界が開ける感覚は、江戸の旅人と同じ体験に近い。料亭田中家周辺に立つと、かつて茶屋が並んでいた高台の雰囲気を感じ取ることができる。また、歌川広重『東海道五拾三次・神奈川』の構図が、台町からの眺望を思わせることから、絵と現在の景観を重ね合わせる楽しみもある。

(図:台町の茶屋)
神奈川台関門
歴史
横浜開港後、生麦事件をはじめ外国人襲撃事件が相次いだため、各国領事は幕府に警備強化を要求した。その結果、幕府は神奈川宿の台町最高所に「神奈川台関門」を設置し、街道を往来する人々の監視を行った。
この関門から京都側へ坂を下るあたりは、当時は海が間近に迫る街道で、眺望の良さから旅人に人気の場所でもあった。神奈川宿の京側境界は諸説あるが、一般にはこの坂を下った付近が宿場の終わりと考えられている。
現在の見どころ
現在、関門そのものは残っていないが、台町の最高所から京都側へ下る急坂は当時の地形をよく伝えている。坂の途中からは、かつて海が迫っていた地形を想像でき、台地の縁に宿場の境界が置かれた理由が理解しやすい。また、周辺の道幅や曲がり方には旧街道の名残があり、地形と歴史が重なり合うポイントとして散策のハイライトになる。

(図:神奈川台関門)
まとめ
1859年(安政6年)の横浜開港に際しては、条約上の開港地が「神奈川」とされていたことから、各国は神奈川宿への外交施設設置を求めた。その結果、本覚寺にはアメリカ領事館、浄瀧寺にはイギリス領事館、長延寺にはオランダ領事館が置かれた。なお、外交交渉の中心となる公使館は主として芝・高輪地区に設けられたが、フランス公使館のみは後に神奈川宿へ移転した。その後、横浜港の整備が進むにつれて、各国の施設は次第に横浜居留地へ移転していった。
神奈川宿は東海道有数の大規模な宿場であり、幕末期には約1,300戸、人口約5,000~6,000人を擁し、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠約60軒を数えた(1843年(天保14年)『東海道宿村大概帳』を参考にした)。宿場の西側は海を見下ろす台地上にあり、眺望に恵まれていた。なかでも台町の茶屋から望む富士山と袖ケ浦の景観は名高く、とりわけ坂本龍馬の妻・お龍が働いていたと伝えられる『田中家(当時は諸賞庵)』や、絵図に描かれた『さくらや』などからの眺めは、神奈川宿随一の絶景であったといわれている。

(図:歌川広重『東海道五十三次』、青木橋付近から横浜駅西口方面にあった袖ヶ浦を望む、坂を上り詰めた所に「さくらや」の看板がある。Wikipediaより)
神奈川宿は、このように地形・歴史・外交の舞台が凝縮された場所である。坂を上り下りしながら歩くと、江戸の旅人や幕末の外交官たちの息づかいがふっと蘇るように感じられる。そして、絵図と現在の景観を重ねるたびに、この宿場が歩く者に語りかけてくるものの多さに気づかされる。
























































































