民主主義の歴史は古いが、その足取りは軽やかなものではなくいばらの道で、隘路をやっと潜り抜けて、今日を迎えていると言える。将来も決して楽観することはできないが、これまでの足跡を検証して、今後に生かしていこうというのがこの本の趣旨である。
冒頭で民主主義が今日迎えている危機を4つほど挙げている。それらは、①民主主義が好ましくない方向に展開して衆愚政治を引き起こすポピュリズムの台頭と、②秩序と国民生活の安定・発展を保障できるならば、AIとグローバル化時代にいち早く政策決定ができる「チャイナ・モデル」が望ましいとする独裁的指導者の増加と、③人工知能・生命工学の発展によって、有力者による「デジタル専制主義」と多くの人々を「無用階級」に至らしめる第四次産業革命と目される技術革新と、④人々の生命を守ることを大前提にして、人々の自由を拘束する政策をもたらしたコロナ危機を挙げている*1。これらをどのように克服したらよいのだろうと話は始まる。
学校教育で民主主義が始まったのはギリシアと学んだが、そうでもないようだ。ギリシアに先立つバビロニアやアッシリアであるという研究者もいる。また、最近は北米先住民たちの自治の伝統も注目を浴びている。おそらく、民主主義(議論によって合意を生み出し、その合意によって人々が自発的に服従すること)は、人間の集団が組織化されるときに例外的に起こったことではなかったようである。しかし、古代ギリシアの民主主義がきわめて徹底化されていたので、これからスタートすると著者は記している。
古代文明は遊牧民と農耕民さらには商業民が交錯する場所で生まれ、多様な都市国家が競う中で統合が進み、大帝国が生まれた。メソポタミアも同じで、バビロニア、アッシリア、ペルシャと大帝国が出現した。ギリシアはメソポタミア文明の周辺に位置し、その恩恵を享受した。イオニア地方(現在はトルコ)を含むギリシア的世界は、ポリスと呼ばれる都市国家群が並立し、帝国的な組織(巨大な官僚制・傭兵中心の職業軍人・神官による宗教的権威の独占)を有しなかった。
アリストテレスが『政治学』で政体を君主制・貴族性・民主政(これらの堕落したものを僭主政、寡頭政、衆愚政という)に区別したが、古代ギリシアのポリス世界では多様な政治の仕組みが試された。ポリスは1500に及び、それぞれは都市の内部と周辺の田園地帯が城壁で区別された。都市内部も公共の領域(神殿・劇場・広場)とそれ以外とが区別された。都市の外には田園が広がり、市民は少数の奴隷を使役して農業を行った。生産活動の農業と公共的活動の政治とを市民は区別していた。
アテナイでは直接民主政が行われた。重要な決定は市民(父親がアテナイ市民である成人男性)全員参加の民会で多数決によってなされた。さらに、公職も抽選であった。このようなアテナイでのポリスによる支配、すなわち政治的支配は、自由で独立した人々の間における「相互的(主従関係のような一方的でなく双方的)な支配」である。
アテナイの国政は、スタート時点で王政や僭主政などを経験した後で、様々な改革が行われて民主政に代わった。民主主義が確立した画期は、クレイステネスが各種の改革(民主的にするために行政・軍政の区分を血縁から地縁へ変更、僭主の出現を防止するために陶片追放という制度の設置、民会を最高の議決機関に設定、裁判での陪審員の抽選制など)を行ったBC508年とされている。しかし、アテナイで民主主義が花開いたものの、その最盛期は短く、ペリクレスのような優れた指導者を失った後は、衆愚政治に陥った。
古代ギリシアに生まれた民主政と対比されるのが古代ローマの共和政(国家は市民にとって公共のものであり、王の私的利益ではなく、国家全体の公共の利益に基づいて運営されるべきであるという理念)である。民主政は「多数者の利益の支配」、共和政は「公共の利益の支配」である。ローマの共和政は、一つの政治体制の中に君主政・貴族政・民主政の要素を組み込むことで、政治体制の堕落を食い止めようとした。
古代ギリシアで民主主義が廃れた後、再びその兆候が現れるのには長い年月を要した。11世紀ごろ、北・中イタリアでコムーネと呼ばれる都市国家が発展した。コムーネの都市貴族たちは、貨幣経済の発展を背景に封建領主と戦い自治権を獲得し、中下級の都市貴族で寡頭的な門閥支配を行ったが、党派争いで混乱しポデスタ制(利害関係のない外国人貴族の執政官を任命)を採用した。やがて平民(ポポロ)が台頭して自らの組織(アルテと呼ばれるギルド組織)を持つようになり、その最高委員(プリオーリ)が都市の政府に加わるようになった。ここまでの過程は古代ギリシアでの民主主義の発展に似ている。しかし、都市内部での党派争いが再び生じ、最終的にはシニョーリア制と呼ばれる有力貴族による独裁制(フィレンツェのメディチ家はその例)が成立し、コムーネは自己解体した。
本格的に民主主義が問われるようになるのは、封建社会が崩壊して近代社会を迎える時である。封建社会では王権が存在していたものの、実質的な権力は各地に散らばる封建領主であった。封建領主は、軍事・司法を掌握して領地を治安し、国王に対しては奉仕義務(戦時の軍隊の派遣)があった。国王は直営地から歳入を得たが、大規模な常備軍や官僚制を有しなかった。やがて国王は司法権の拡大などで権力を増大し、戦争の必要性から、国土全体に徴税権を拡大し、家産的国家から租税国家へと成長した。
これにより、国家は課税を課すようになったが、しかし、これには身分制議会からの承認を必要とした。このため、課税を巡って国王と身分制議会とが対立することとなった。1215年のマグナカルタ(イングランド・ジョン王の無茶苦茶な課税に対する制限)はその一例である。この過程の中で、西洋における国家のシステムは整備され、中央集権化が進んだが、同じように社会の力も強まっていった。政治学者のフクシマは、「この時点から政治制度の発展は、集権化する国家とそれに対抗する社会集団の間の対決の物語であった」と論じている。経済学者のアセモグロと政治学者のロビンソンは「国家の要求と社会の反応がせめぎあう中で平和的な均衡を見出すのは並大抵なことではなかった」と言っている。国家と社会とが危うい均衡を実現することを「狭い回廊」と呼ぶが、これを抜けた国だけが、自由と繁栄に近づいた。
政治学者のムーアは、イングランドは土地囲い込み運動などを通じて、領主や地主が早くから商業社会に適応し、商業化に反対する強固な地主・貴族階級が存在しなかったことが発展につながったとしている。ドイツなどの多くの国では、農村に基盤を持つ貴族・地主階級が保守・反動勢力となり、民主化に反対した。フランスでは、中央集権国家の形成が進み、常備軍と官僚制を備えた強力な国家が形成され、同時代のヨーロッパを代表する君主となったのがルイ14世である。その後、フランス政治の不安定を招いた。
次にアメリカを見ていこう。独立当初のアメリカは独立国家の連合体で、中央政府の連合会議は、課税権・通商規制権・常備軍を有していなかった。しかし、各州政府による所有権侵害への危惧から、強力な連邦政府樹立へと後押しされて憲法が制定された。憲法では、直接的な政治参加の拡大には警戒的で代表制を採用して上院と下院が設置され、それぞれの議員は、上院では各州同数とし州議会から選出(後に直接選挙)され、下院では人口比に応じて直接選挙で選ばれた。
『ザ・フェデラリスト』の著者である「建国の父たち」は、代表制を伴う共和国の方が大国にも適応可能なうえに、派閥の弊害を除去する点でも優れているという政治学の「常識」を打ち立てた。この影響を強く受けて、代議制民主主義こそが、近代の領域国家において唯一可能な民主主義であると今日の我々は強く信じるようになっている。
アメリカのデモクラシー(この本ではアメリカの民主主義を述べる時この言葉を用いている)を発見したのはフランス人貴族のトクヴィルである。彼は連邦政府の政治家の水準には失望したものの、タウンシップで出会った名もなき人々には驚かされた。彼らの原動力が自治であり、地域の問題を自分たちのそれとしてとらえ、政府の力が及びにくい学校、道路、病院などにたいしても、自分たちで資金を集め、結社(アソシエーション)を設立して、事業を進めていく姿に、トクヴィルは民主主義の可能性を見出した。
トクヴィルは民主主義の本質は人々が自ら統治を行うことであるという。アメリカの民主主義には、一般市民によるコミュニティの自治を基層にし、その上に地域の統治が、さらにより広域な統治が置かれていることに優れた点があるとした。そこでは、まずそれぞれの市民が自らにかかわる利害について判断し、それを超えた社会的に共有する諸利害については、平等な相互調整によって決定することで、自治という小国のメリットと、人口や経済力における大国のメリットを兼ね備えられると考えた。また、デモクラシーが政治的な面だけではなく、生き方・考え方にも及んでいることに注目した。
奴隷解放が進んだ近代社会では、人々は自ら労働し生産するようになった。このような近代人は、自分の私的な生活を平穏に享受できることこそが「自由」であった。市民が公共の利益を考えることは時代遅れのものとなり、個人の自由は民主主義においても抑えるべきものではなかった。このような時代の流れの中で、この時代の思想家たちは次のように考えた。
フランス革命に大きな影響を与えたフランスの哲学者ルソーは、『社会契約論』の中で「相互に自由な個人による社会契約によって国家を打ち立てる」ことを主張した。トクヴィルは先述したようにアメリカの政治を観察することでデモクラシーを見出した。ミルは、『自由論』の中で、「自由の名に値する唯一の自由とは、他人の幸福を奪ったり幸福を得ようとする他人の努力を妨害したりしない限り、自分自身のやり方で自分自身の幸福を追求する自由である」と言っている。また彼は、『代議制統治論』において、自由主義の立場から代議制民主主義が最善の政治体制であると明確に指摘した。同時代に活躍したバジェットは、立法権と執行権がバラバラのアメリカの大統領制度より、英国の議院内閣制の方が、議会政治家に責任を与え官僚制との機能的連携を可能にするため、政治的にはるかに安定しているとして英国の立憲民主制を評価した。
19世紀に本格化した議会制民主主義は、世紀後半になると欧米諸国を超えてひろがり、日本でも帝国議会が開催(1890年)された。19世紀の議会制が特権者たちの寡頭制的なものであったのに対し、20世紀は大衆民主主義の時代に突入し、「民主主義の世紀」と呼ばれるようになり、長いこと否定的な含意で用いられていた民主主義は完全に意味を逆転した。それを象徴するのが君主政国家の存在で、世紀初めには150か国あったのが、第二次世界大戦後は30を切った。
しかし、民主主義が順調に発展したわけではなかった。ドイツの社会学者ウェーバーの対応は、この世紀の民主主義が置かれていた状況をよく表している。第一次大戦でのドイツの敗戦の後、ウェーバーは「国家とは特定の領域の内部で正当な暴力行使の独占する人間共同体」であると定義している。そして、当時最も民主的とされたヴァイマル憲法の設定にも彼は関係した。ウェーバーは、国民に直接選出される大統領制を主張し、首相の任命権、議会の解散権、さらには、緊急時に国民の権利を停止する大権を、大統領に与えた。彼がこのような選択をした理由についてはこの本を参照して欲しいが、大統領に巨大な権限を持たせたことで、後にナチスに利用されることとなった。
第二次世界大戦直後の民主主義ははるかに抑制的であった。イノベーションで有名なシュンペータは一時期政治にも関心を持ち、新たな民主主義論の中で民主主義において重要なことは、人民が自ら決めることではなく代表者を選ぶことであると主張した。「古典的民主主義」では、人々は個別的問題について自らの意見を持ち、代表者を通じてそれを実行するとされてきたが、シュンペータは優先順位を逆にすべきだと主張した。このような民主主義は「エリート民主主義論」とも呼ばれた。そこでは、政治家の高い資質、政治的決定の範囲を広げすぎないこと、官僚制、民主的な自制(政治家はやたらと政府の転覆を議会ではからず、投票者も次の選挙まで政治家を信頼すること)が求められた。
アメリカの政治学者のダールは、シュンペータに近い考え方から出発して、そのあと多元的な集団の競争を強調した。彼の民主主義論は「多元主義」と呼ばれ、社会での多元的な集団が、相互に競争しつつ協調を実現することで、ポリアーキー(複数の支配)を実現するとした。彼の考え方は民主主義論にとって大きな意義を持ち、資本家・富裕層と労働者間との間で福祉国家に対する共通理念を確立し、戦後民主主義の安定期を迎えることに貢献した。
英国のサッチャー政権の成立(1979年)、米国のレーガン大統領の選出(1980年)により、規制撤廃による自由競争の促進が図られ、大規模な減税策による経済刺激策が進められ、中国では鄧小平の改革・開放運動(1978年)がスタートし市場経済の導入が始まった。これにより、世界はあらたな「市場の時代」となり、後のグローバリゼーションへとつながった。
フランスの経済学者のピケティは、1970年以降に格差が拡大し、相続による富が経済の主要部分を占めるようになり、中間層が減少し、不平等が20世紀初頭に戻ってしまったと主張した。民主主義を支えるとされる中間層の没落は、政治の分極化を招き、民主主義の運営を困難なものにした。
ドイツ出身のアーレントは『全体主義の起源』を著作した女性として有名である。全体主義は、ドイツやロシアの特殊事情によるものではなく、19世紀以来のヨーロッパ社会全体の変容によってもたらされたと主張している。この時代、ブルジョアや労働者の政党が発達し、代議制民主主義が発展し、黄金期を迎えた(金融的には金本位制、国際的には勢力均衡体制がとられた)。アーレントが注目したのは、このような社会のことではなく、このような階級社会から落ちこぼれた人々である。脱落者は「モッブ」と呼ばれた。「モッブ」は、下層階級の人とは限らず、上層階級も含まれ、社会に対して反逆的な行動をとるようになり、反ユダヤ主義や人種主義の思想に喜んで飛びついた。アーレントは、社会からも国民国家からも排除された人々を大量に生み出し、自分たちの味方となってくれない議会制民主主義を彼らの憎しみの対象にし、自分たちを導く強力な指導者を求めたことに着目した。
アメリカの政治学者ロールズは『正義論』を発表(1971年)した。彼は人々を道徳的に平等な存在としたうえで、社会的協働を実現できるかを考えた。そして、功利主義ではなく、人格の個別性を重視して、多様な善の構想を抱く人々が、公共的な仕方で正義のルール(①平等な自由、②構成と機会均等のもと、最も恵まれない人の境遇を最大限に改善する限りで格差は認める)を承認すれば、多様性と秩序を両立させることが可能であるとした。
ロールズは、現実の福祉国家に対しては、資本主義が不動産の甚大な不平等を許容すると考えて批判的であった。そこで、「財産所有の民主主義」を訴え、富と資本の所有を分散させ、事前の分配を重視する政策に着目し、教育を通しての人的資本の確保を強調し、「適当な程度の社会的・経済的平等を足場にして、自分自身のことは自分で何とかできる立場にすべての市民を置くこと」を主張した。
日本の民主主義の歴史がこの後に続くが、ここでは触れずにおこう。読者自身の楽しみのために残しておく。
読後感:退職後は小さな組織でボランティア活動をしているが、各グループが少人数で構成されているにもかかわらず、ごく稀だがどこかで諍いが生じることがある。諍いの発端は、一人に負担がかかったり、さぼる人が出たり、担当の順番がおかしいなどと不公平が生じていると認識されているときに、何らかのきっかけで爆発する。そのようなときは長い時間をかけて話し合い、全員が納得するまで策を考えることになる。小さな組織にもかかわらず問題の解決にはそれ相応の労力が必要である。町、国、さらには世界という大きなレベルになると、問題の解決は格段に難しくなる。著者は民主主義によっての解決をもちろん推奨している。この本の中で紹介されているように、民主主義の道はいばらの道であり、何とか今日まで生きながらえてきたと言った方が適切のようにも思える。冒頭で民主主義を脅かす四つの問題が挙げられていたが、それらと対峙することは容易なことではない。そこで、大きな組織からではなく小さな組織からボトムアップ的に始めて、問題解決の能力を高めていくことが重要で、そのためには、身近な近辺の中で抱えている問題を、「参加と責任」という意識を持ち「自由と平等」を大切にしながら、自律的に解決するアソシエーションをまず作り上げていくことが肝要であると読んだが如何であろう。