「大阪・奈良へ古代を訪ねる旅」の最終日は、七世紀末ごろの墓制をたどる行程となった。飛鳥時代中期から後期は、日本の古代国家が形成されていく激動の時代であった。乙巳の変、白村江の敗戦、壬申の乱――立て続けに起こった政治的危機を経て、天武・持統朝のもとで律令国家の骨格が築かれ、初の本格的な宮都である藤原京の造営が進められた。
仏教を国家理念の中心に据える政策が進展し、政治的・社会的秩序が再編されていくなかで、葬送儀礼と墓制は大きく姿を変えていった。百舌鳥・古市古墳群に代表される巨大古墳は築かれなくなり、高松塚古墳やキトラ古墳のような、規模は小さいものの壁画を備えた新しい形式の墳墓が登場する。今回の旅では、まさにこうした古墳終末期に築かれた墳墓をたどることになった。政治史的には安定を見せ始めた天武・持統朝に属するこれらの古墳の特徴を中心に見ていきたい。
最初に訪れたのは高松塚古墳である。この古墳の壁画が発見されたのは1972年(昭和47年)3月21日。当時、日本の古墳には本格的な壁画は存在しないと考えられていた。石室内部から極彩色の壁画が確認されると、その報は瞬く間に全国へ広がった。3月27日には朝日新聞朝刊一面で、当時としては異例のカラー印刷による大々的な報道がなされ、古代史研究の常識を揺るがす発見として、当時の社会に強い衝撃を与えた。
高松塚古墳は小規模な二段築成円墳で、築造時期は藤原京期(694〜710年)と確定している。巨大前方後円墳の築造が終わり、小規模ながら高規格の王族墓へと転換した時期にあたる。小高い丘の頂部直下の斜面を利用して築かれている点も特徴的で、墳丘からは飛鳥の集落を見渡すことができる。当時の人々の暮らしの場からは墳丘がよく見え、日常の景観の中に強く存在感を放っていたに違いない。訪れた日は、厚い雲に遮られた淡い光の下で、枯草に覆われた墳丘は周囲よりも鮮やかに見え、その存在感を際立たせていた。
高松塚古墳


古墳の反対側の小高い場所には歌碑が立っていた。「立ちて思ひ 居てもそ思ふ 紅の 赤裳裾引き 去にし姿を」という、万葉集に収められた作者未詳の相聞歌である。壁画に描かれた「飛鳥美人」を思い起こさせるような、余韻のある恋の歌である。周囲には橘の木が多く見られた。飛鳥時代の宮廷では橘は特別な植物とされ、宮中の庭園に植えられ、儀礼や歌に登場し、皇族名にも用いられたという。明日香の景観の中で橘が目につくのも、こうした文化的背景を反映しているのだろう。
歌碑

橘の木

続いて、高松塚壁画館で壁画の模写を見学した。ここでは発見当初の姿を忠実に再現した模写が展示されており、壁画全体の構成を把握することができる。
男子群像(西壁)
青龍
女子群像
玄武(北壁)
女子群像(東壁)
白虎
男子群像
発見後、壁画は当時の最新技術を用いて保存が試みられたものの、カビの発生や漆喰層の剥離・剝落、顔料の退色が進み、現在では発見当初の鮮烈な極彩色とは大きく異なる状態となっている。石室は解体され、石材ごとに個別修理が進められている段階であり、現地で実物を目にすることができなかったのは残念であるが、保存のためにはやむを得ない措置であると感じた。
次に訪れたのは、高松塚古墳のすぐ近くにある中尾山古墳である。この古墳は、飛鳥の王権がどのように墓制を変化させていったのかを読み解くうえで欠かせない。近づいてみると、土が崩れた小山のようにしか見えないが、調査の結果、三段築成の八角墳であることが明らかになった。八角墳は天武・持統朝の王権を象徴する墓制であり、天皇陵に特有の形式とされる。
中尾山古墳

中尾山古墳は小規模で、築造時期は8世紀初頭の藤原京期と考えられている。宮内庁は別の古墳を文武天皇陵に治定しているものの、火葬を前提とした石槨*1構造や築造時期の整合性から、研究者の間では中尾山古墳こそ文武天皇の真陵であると有力視されている。ただし、なお議論は残されている。
次に訪れたのは、以前にも足を運んだことのあるキトラ古墳である。高松塚古墳と並び、古代東アジアの絵画文化を伝える稀有な遺構である。古墳は南斜面を削って造成した二段築成の円墳で、中央には凝灰岩の切石18個を組み合わせた石室が据えられている。築造時期は7世紀末から8世紀初頭、藤原京期と考えられている。
ここからも壁画が発見されている。四神図、十二支像(獣頭人身像)、そして世界最古級の中国式星図とされる天文図である。いずれも漆喰下地に繊細な筆致で描かれ、金箔や銀箔が用いられている点が特徴的だ。高松塚古墳の壁画に比べると、唐文化の影響がやや薄いとされ、制作時期の違いを反映していると考えられている。
キトラ古墳壁画保存管理施設では、期間を限定して実物壁画の公開が行われているが、今回は公開期間に当たらず、残念ながら実物を見ることはできなかった。その代わり、キトラ古墳壁画体験館「四神の館」でレプリカや関連資料の展示を見学し、壁画の構成や技法を改めて確認することができた。
キトラ古墳

復元された石室

玄武と白虎の壁画


ここまで見学したところで、明日香村の中心地である岡で昼食をとり、周辺を散策した。江戸時代の風情を今に伝える街並みが続き、歩いていると二階部分が不自然なほど低い家屋が多いことに気づく。関西にはこのような建物が多く、「つし(厨子・併屋)」と呼ばれる構造である。江戸時代には、防火上の理由や武家屋敷より高い建物を避けるための規制、街道沿いの景観統制などから二階建てが制限されていたという。そのため、つしは人が立って歩けるほどの高さはなく、穀物・味噌・道具類の収納や、機織りなどの軽作業に用いられていたとされる。
明日香村の街並み
岡寺へ向かう鳥居のそばには、江戸時代に描かれたこの角の風景と現在の景観がほぼ同じであることを示す掲示(4031)が貼られており、この街が長い時間をかけて景観を守り続けてきたことを改めて感じさせてくれた。
江戸時代に描かれた風景と変わらない場所

お腹が満たされたところで、天武・持統天皇陵へ向かった。宮内庁が治定している天皇陵は、研究者の推定と一致しない例が少なくないが、この陵は数少ない例外で、両者の見解が一致している。天武・持統天皇陵は五段築成の八角墳であり、天武・持統朝の王権を象徴する墓制を示す代表例である。
天武・持統天皇陵

石室には、天武天皇を葬った布張り朱塗りの夾紵棺(乾漆棺)と、持統天皇の火葬骨を納めた金銅製蔵骨器が安置されていた。持統天皇は、天皇として初めて火葬された人物として知られている。1235年(文暦2年)には盗掘を受け、その際の詳細な記録(『阿不幾乃山陵記』)が残された。この記録が『日本書紀』や『明月記』の記述と一致したことから、被葬者が天武・持統両天皇であることが確実視されるようになった。
天武天皇と持統天皇は、律令制度の整備や国号の確立など、今日の日本の基礎を築いた天皇として知られる。しかし、百舌鳥・古市古墳群に葬られた巨大古墳の首長たちと比べると、その陵は驚くほど小規模で、とても質素に見える。どこにでもある小山のような佇まいを前にすると、国家の骨格を築いた二人の天皇の眠る場所としては、あまりにも静かで控えめに感じられる。巨大前方後円墳の圧倒的威容を知る身には、その対比がかえって時代の転換を雄弁に物語っているように思われた。
次に訪れたのは、周囲の景観から際立って異質で、思わず足を止めるほどの存在感を放っている牽牛子塚(けんごしづか)古墳である。近づくにつれ、切り立った石材の質感と幾何学的な輪郭が視界に迫り、周囲の柔らかな丘陵とはまったく異なる人工的な緊張感が漂っていた。この古墳は、近年の発掘成果と復元整備によって全体像がようやく明らかになり、女帝・斉明天皇(皇極天皇)とその娘・間人皇女の合葬陵である可能性が高いと考えられ、終末期古墳の中でも特異な位置を占める遺構である。
牽牛子塚古墳

八角墳はきわめて限られた数しか確認されていないが、牽牛子塚古墳はその一つである。築造時期は7世紀中葉から8世紀初頭、飛鳥時代末から藤原京期にかけてとされる。巨大な凝灰岩をくり抜いて作られた横口式石槨は、内部が左右に分かれた二室構造となっており、合葬を前提に設計されたことがわかる。
横口式石槨

二室構造

現地に立つと、周囲の風景とは明らかに異質なこの構造物に、思わず圧倒される。おそらく当時の人々にとっても、強い印象を与える存在であったに違いない。これまで見てきた古墳は、木々が生い茂ってただの小山のように見えるが、築造当時は石で覆われ、山腹の目立つ場所に築かれていた。そうした姿を想像すると、古墳は単なる墓ではなく、王権の威厳を示す畏怖すべき存在であったことが改めて感じられる。
牽牛子塚古墳のすぐ下には越塚御門古墳がある。2010年の発見によって、その歴史的位置づけが大きく見直された遺構である。『日本書紀』には、斉明天皇と間人皇女を「小市岡上陵」に葬り、その陵の前に大田皇女を葬ったと記されている。牽牛子塚古墳が斉明・間人皇女の合葬陵と考えられるため、その前方に位置する越塚御門古墳は大田皇女墓と整合する。さらに、牽牛子塚古墳が八角墳であることが近年の発掘調査で確定したことで、記述との一致は一層強まった。越塚御門古墳の石槨は丁寧に加工されており、皇女級の被葬者にふさわしいと考えられる。宮内庁は別の場所を大田皇女墓に治定しているものの、今日では考古学的には越塚御門古墳が最有力とされている。現代とは隔絶した姿を見せる二つの墳丘は、史書の記述と発掘成果を静かに結び合わせながら、そっと時代を語っているように見えた。
越塚御門古墳の石槨(内部ではビデオの紹介があった)

いよいよ最後は、藤原京跡である。藤原京は、日本で初めて本格的な都城として造営された大規模な首都であり、飛鳥時代後期から奈良時代初頭にかけての国家形成を理解するうえで欠かせない存在である。持統・文武・元明の三代にわたり使用され、律令国家の中枢として機能した。
『日本書紀』には、天武天皇期(676年頃)に「新城(にいき)」の選定が始まったと記され、持統8年(694年)に飛鳥浄御原宮から藤原宮へ遷都したことで藤原京が成立した。藤原京は、中国・唐の都城をモデルにした条坊制(碁盤目状の都市計画)を日本で初めて採用した都で広大な規模をもち、後に造られた平城京や平安京を上回る可能性も指摘されている。
藤原京の大きな特徴は、都の中央に天皇の居所である藤原宮を配置したことである。これは中国古代の理想的都城像(周礼)を意識したものと考えられ、後の平城京・平安京のように北端に宮城を置く「北闕(ほっけつ)型」とは異なる独自の構造であった。藤原京はわずか16年で廃都となり、平城京へ遷都される。その理由については、立地条件や疫病・飢饉、都城としての限界など諸説あるが、遣唐使が長安の都城構造を知り、宮城を北に置く形式が最新であると認識したことがその一因とする見解もある。
世界遺産登録を目指しているにもかかわらず、藤原京を専門に紹介する独立した博物館はなく、農協の二階に設けられた資料室にジオラマが置かれているだけという現状に、思わず足を止めた。かつて律令国家の中枢であった都の展示としては、あまりにも慎ましい。跡地に立つと、視界いっぱいに広がるのは野原と空で、その中に建物跡を示す柱が静かに点在している。左手は大極殿院の閤門(こうもん)、右手は朝堂院の正門――説明板にそう記されてはいるが、目の前にあるのは風に揺れる枯草と赤い柱だけである。宮廷があったと推定される場所にも、簡素な構造物がぽつりと残るのみで、往時の壮麗さを直接に語るものはほとんどない。だがその何もなさこそが、わずか16年で消えた都のはかなさを、かえって雄弁に伝えているように思われた。
藤原京ジオラマ

藤原宮跡

結び
終末期古墳をめぐる今回の旅は、巨大古墳の時代が終わったのち、墳墓が小型化しつつも多様な形式へと展開していったことを実感させるものだった。壁画を備えた装飾古墳、天皇陵に特有の八角墳、火葬を前提とした石槨、皇女級の被葬者を想定した丁寧な石材加工――いずれも、この時代が新しい葬送理念と王権表象を模索する時代であったことを物語っている。
物量によって威容を示した巨大前方後円墳に代わり、八角墳という象徴的な形式、壁画に託された宇宙観、そして藤原京の都市構造そのものが、天武・持統朝の王権理念を可視化する舞台となった。王権はもはや巨大な墳丘の姿ではなく、理念や儀礼、空間の秩序といった象徴の体系の中に姿を現していく。
現地に立つと、これらの墳丘はいずれも驚くほど静かで控えめである。しかしその静けさの奥には、国家のかたちをめぐる緊張と創造の歴史が確かに息づいている。終末期古墳をたどる旅は、目に見えるものの小ささの中に、目に見えない大きな転換を読み取る旅でもあった。
*1:石槨(せっかく)と石室(せきしつ)は共に古墳の石造埋葬施設だが、主な違いは「規模」と「目的(密閉性)」である。石槨は主に木棺を密閉保護する小型の「箱・空間」、石室は死者が生活する空間を想定した、後から追葬可能な大型の「部屋」を指す。
















































































































































































