bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

白内障の手術によって、若い時の目を取り戻しました

子どもの頃からずっと目が良かったので、まさか白内障の手術を受けるようになるとは、つい2年前まで夢にも思わなかった。視力が落ちていることを思い知らされたのは、自動車運転免許の更新時の視力検査であった。若い時のように全てがきれいに見えることはないだろうが、1.2程度で難なく合格だろうと高を括って視力検査に望んだところ、驚いたことに右目があまりよく見えない。視力検査をしてくれた女性の方から、今回は合格ですが、一度、眼科で調べてもらった方が良いですよとアドバイスを受けた。

早速近くの眼科医に調べてもらったところ、核白内障ですと言われた。ただ本を読むことに苦労していないようなので、当分手術はしなくてもよいだろうとも言われた。そのとき、奥の方に赤い塊のようなものがあるので、専門医に見てもらったらとアドバイスされた。紹介された方は大学の先生で、この病院にも定期的に診療に来ていたので、予約をお願いした。赤い塊は網膜細動脈瘤で、視野とは関係のないところなので、様子をみましょうということになった。ただこの先生からは、核白内障は進行が速いので早いうちに手術をした方が良いと言われた。お医者さんから異なる見解を聞かされると、患者としてはとても困るのだが、網膜細動脈瘤が決着してから改めて考えようと勝手に決めた。

網膜細動脈瘤は、一度白くなって良い方向に進んだが、1年たったころに再び赤い塊となった。そのときも経過観察でということになり、今年の3月には再び白くなり、6月の観察でも変化はなかった。さらに白内障については進んではいるけれども、視力があるのでまだ様子見でよいということであった。

それでも将来の手術に備えて白内障について調べておこうと思い、インターネットを探っていると、著名なプロフェッショナル・ドクターが近所で開業したというニュースを見つけた。開業してから日も浅いのでそれほど混んでいないだろうと想像し、二度と訪れない好機ともとらえて、次の日の午後訪れた。

予想は的中、院内には数人しかいない。判断は間違っていなかったと気分を良くして、目の検査をしてもらったあと、ドクターの診察を受けた。目を見て、白内障であることを確認したあと、手術には、保険診療自由診療があり、自由診療の方は眼鏡なしで遠くから近くまで見えるようになるという。どちらにしますかと聞かれたので、本を読むときは、眼鏡をかけても不便を感じることはないだろうと判断して、保険診療でとお願いした。

そのあと、ビデオで保険診療での手術の説明を受けた。その最中に、受付のところにあった、保険診療単焦点と、自由診療の多焦点との説明が思い出され、眼鏡なしの生活の方が、高いお金を払っても、生活の質がずっと良いのではと悩み始めた。そして看護師さんに自由診療のビデオも見せてくださいとお願いした。両方の目を自由診療にすると車一台買えそうなとてつもない値段なのだが、毎日のことなのでと考え直して、自由診療に切り替えたいとお願いした。再度ドクターとの打ち合わせに入り、手術日を決めた。何と5日後、考える暇もないほどにあっという間に決まってしまった。

手術そのものに恐れはないのだが、実は目だけは例外だった。目にメスが刺さるのを想像して気持ちが悪いということもあるが、頭を動かさないでくださいと言われると緊張して頭が瞬間的に小刻みに震えるという習性を、いつの頃からか身に付けてしまった。目の手術では間違いなく顔を動かさないように言われるだろうから、そのときに動いてしまったら、メスがほかの場所を切ってしまわないかと心配していた。そこで思い切ってドクターに尋ねてみた。緊張すると頭が動いてしまうが大丈夫ですかと尋ねたところ、「私はプロのドクターです。手術中に頭が動く患者さんはいます。私の手は患者さんの顔に触れているので、顔の動きとともに私の手も動くので、動いても問題ありません。心配しなくても大丈夫です」とのことだった。そしてこのときが、この方は優れた手術医だと信頼した瞬間でもあった。

手術に当たっては目をきれいにしておく必要があるとのことで、3日前から使用する点眼薬を一種類もらい、手術日の昼に来院するように言われた。言われたとおりに点眼薬を投与し、指定の時間に病院に行くと、前回とは打って変わって、待合室は足の踏み場もないほどに混みあっていた。後で分かったことだが、この日の手術を受ける患者さんとその付き添いの人たち、そして手術後の経過観察に来ている患者さんたちで、溢れかえっていたのであった。

手術前の点眼薬を投与し、目の検査をしたあとで、ドクターのところで、レンズの確定が行われた。遠くまですっきり見えるのとぼんやり見えるのとどちらがいいか問われる。この種の質問に答えることは難しい。それぞれのレンズを試すことができないので、確信を持つことができない。若いころは目がよく遠くまでくっきり見えたが、とても目が疲れる経験をしたので、ぼんやりの方をお願いしますと答えた。今でもこの選択が良かったのかは確信が持てない。

手術室は二階にあり、階段を上っていく。付き添いで来てくれた妻に、13階段上るのだといったところその意味が分からなかったようだ。この日、一緒に手術を受ける仲間は7人、全員、手術着に着替えて、さらに点眼薬の投与を受ける。手術が開始されるまでの時間を利用して、待合室と手術室の間の窓を閉じていたブラインドが開けられ、最新の機械で装備された室内を観察できるようにしてくれた。また、手術しているときは、その付き添いの人は希望すれば見ることができるということで、アシスタントの方が希望者を募ったが、手を挙げる人はいなかった。

次に手術が行われる患者は、待合室から待機室に移り、そこで、点眼薬による局所麻酔と入念に目とその周りの消毒が行われる。前の人の手術が終わりそうなころを見計らって、目を閉じたまま、待機室から手術室へと移動する。私のときは、前の人が予想に反して時間がかかったようで、一度待機室に戻され、再度の入室となってしまった。手術台に座ると、椅子が倒され、仰向けにされ、手術する目のところだけを切り抜いた布を顔全体に被せられる。様々なことを思いめぐらして緊張する。相当に緊張していたのだろう、ドクターにまだほとんど何もしていませんからと言われてしまう。明るい光を見ているようにと言われていたのだが、色々なことを考えているうちに疎かになったのだろう。ぼけ老人と思われたか、アシスタントに患者さんは何歳と聞いている。このようなことも重なり、かなり緊張していたのだろう。レンズが入りにくいので、少し気を楽にしてくださいと言われる。苦労してやっと少しだけ緊張を解くと、この瞬間を狙っていたようで、ドクターがうまく入ったという。そしてすぐに終わりですと言われ、緊張が解け、どっと疲れが出た。ドクターには緊張していましたねと言われ、目のことですからと答えた。さらにきれいに入りましたと言われて安心して手術室をでた。待機室を通って、待合室に戻る。待合室で待機している患者さんが、一斉に私の方を見る。彼らの最大の関心事は、見えるかどうかだ。すぐに、どうですかと質問が飛んでくる。眼帯をしていないので、目を開ければ様子が分かる。瞳孔が開いているので、ぼっとしているが、その影響を除くと、とても明るく明瞭に見えていると思えたので、よく見えますよと伝えてあげると、もう見えるのですかと質問者はびっくりしていた。

受付で、手術後の点眼薬の説明を受け、保護メガネを購入し、それをつけて自宅に戻る。この日は入浴なし。翌日に病院に行く。目の検査を受けて、ドクターの診察を受ける。「素晴らしい、予想以上に素晴らしい」という。残りの目も一週間後に手術してはいかがですかといわれ、同意した。翌々日にも診察を受け、同じように素晴らしいと言われる。視力は1.2に、また、近いところに対する視力は1.0で、検診してくれた助手の方よりもよく見えていて、羨ましいとのことだった。

2回目の手術。この日の手術仲間はなんと13人だった。2回目の手術を受ける人が半分くらい。1回目の人が心配そうな顔つきなのに対して、この人たちは慣れたものという感じで、女性の方はおしゃべりに興じていた。先に手術をした女性は、1回目は緊張していて何もわからなかったが、今回はどのようなことをしているのかが手に取るようにわかったと言っていた。

一度経験すると落ち着いて手術を受けられるようになるはずだと自身に言い聞かせて、手術台に上がった。ドクターは、今度は、光を見てくださいとは言わない。前回の様子を見て諦めたのだろうか、それとも覚えているはずだと思ったからだろうかと思いめぐらしているうちに手術が始まった。メスで目に切り口を入れているようだ。いろいろなことを思いめぐらさないようにして、光をしっかりと見つめて手術に対応する。女性が言っていたような正確さでは判断できなかったが、レンズを砕いているようだとか、それを取り出しているのかとか、人工のレンズを挿入している最中とか、それを拡げようとしているらしいなど、大まかな作業は推察することができた。ドクターからは、「よく頑張りましたね。きれいに入りました」とお褒めの言葉を頂き、ほっとして手術室を出た。

今日で2回目の手術をして4日目。見えにくさを感じていたパソコンの作業も、今までとは全く異なる鮮明で明るい画面が見え、快適に作業をしている。もちろん、遠くの景色はとてもきれいに見える。本の方はまだ少し見づらいが、ドクターから、近いほど見えやすくなるのに時間がかかるようだと言われているので、そのうち落ち着いてくることだろう。

手術によって、若いころの目が戻ってきたようで、とても嬉しく感じている。

とても簡単なスペインのアーモンド・ケーキを作る

カルフォルニアの知人とZoomミーティングをしているときに、とても簡単に作れるという触れ込みで、スペインのアーモンド・ケーキを紹介された。彼らはワクチン接種が終了してから数か月経っており、日常生活を取り戻している。このケーキも明日ディナーを共にするお客さんに出すということで、ちょうど焼きあがったところを見せてくれた。これまで我慢していた分を取り戻すべく、お客さんを招いたり招かれたりということを繰り返しているようだ。また、いつも参加しているもう一組の夫婦は、長期のキャンピング旅行に出かけるため荷造りの時間が欲しいということで、今回のミーティングは欠席した。ワクチン接種が進んでいる彼らに、いつもながらの自由が戻っており、羨ましく感じた。

さて、紹介するケーキは、タルタ・デ・サンティアゴ(Tarta de Santiago)と呼ばれ、その意味は「聖ヤコブのケーキ」である。ポルトガルの北部に接したスペイン北西端のガリシア州で、中世に生まれた。小麦粉ではなくアーモンドを原料にしている。作り方はいたって簡単で、アーモンドの粉と、鶏卵と、砂糖を混ぜてオーブンで焼くだけである。

材料は6点、
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アーモンドパウダー 200g
ラニュー糖 200g
玉子 3個
シナモン 4g
レモンの皮(すりおろし) 少々
粉糖

写真ではシナモンはアーモンドパウダーの下にもぐって見えない。
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アーモンドパウダー、シナモン、レモンの皮をよく混ぜる。
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ラニュー糖に卵を一つ加えては混ぜていく。
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全ての卵を混ぜた。
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ここに、先ほどの混ぜたアーモンドパウダーを少しずつ加えて、さらに混ぜる。
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全てが混ぜ終わった。
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耐熱皿に平らになるように、混ぜ合わせた材料をしく。
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180度にしたオーブンで30分ほど焼き上げる。楊枝を指して、材料がついてこないようであればOK。
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10分ほど蒸らして取り出す。
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冷めたところで、紙で切り抜いた聖ヤコブの十字架をのせ、粉糖を上からふりかける。
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出来上がり。
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ちょっと甘すぎたので、粉糖はもっとパラパラ程度の少な目でよかったかもしれない。中世の人々が、長い巡礼地を歩いたあとで、修道院で疲れをいやしながら味わったであろう、とてもクラシックな味を楽しむことができた。手間暇なく簡単に作れるので、これからも材料さえあればいつでも楽しめるケーキとなるだろう。

上田信著『伝統中国』を読む

グローバリゼーションによって、色々な国の人と付き合うようになった。文化が異なる人々とはそのつもりで構えるので、異質なことに出会っても気になることはない。しかし顔かたちでは区別ができず、漢字文化なので多くのことを共有していることだろうと思っている中国の人が、予想もしない行動や考え方を示したしたときには、かえって面食らってしまう。これもそのひとつである。中国の大学との交流を始めるために、かつては長安、現在は西安と呼ばれているところの大学を訪問した。案内を兼ねて中国人同僚が同行してくれたが、会議のあとで、同僚が普段は見ることがないほどに憤慨していた。聞いてみると、相手の対応が礼を欠いていたという。中国での大学への進学は、全国統一の大学入学試験の結果によって決まる。この試験制度は、文化大革命で中断されて鄧小平が復帰したあと、復活された。最初の数年間は、それまで機会を与えられなかった若者たちが殺到したために、競争は想像を絶するほどに熾烈だった。同僚は信じられないほどに優秀な成績だったのだろう、開始された2年目に17歳(通常は18歳、このころは希望者が山積していたので20歳以上も普通)で入学を許された。訪問した大学で対応してくれた学部長クラスの教授も、同じ年に合格したようだった。ところが彼の態度が威圧的だったようで、同僚はとても憤慨していた。詳しく聞いてみると、統一試験の結果は、学部長クラスの方が劣っていたので、点数の高かった同僚の方を敬うべきだと言う(同僚はただの教授なので、身分から言うと相手が上)。中国の人たちを観察していて、なにかを基準にして上下関係をつけているとは感じていたが、試験での成績までもがその対象となっていることにビックリ仰天した。彼らは、見つけにくい時でも何とかして基準を見出し、上下関係を決めないといけないのだろう。

このような経験があったので、益尾知佐子さんの『中国の行動原理』を読んでいるときに、あれ?と思うところがあった。全体的には、この本はなかなか優れた本で、分かりにくい中国の行動を、エマニュエル・トッドの家族構造を基本にして解き明かしてくれる。トッドは、中国のそれは権威的で平等な「共同体家族」、言葉を変えると、「家父長制」であると言っている。彼女もそのように説明している。それに基づいて、中国の社会秩序は、①権威が最高指導者に一点集中する、②組織内分業についてはボスが独断で決める、③同レベルの部署同士では上の指示がない限り連絡を取らず、助け合わない、④トップの寿命や時々の考え方によって波が生じる、という特徴があると説明したうえで、中国の歴史を紐解いてくれる。魅力的な説明なのだが、私が体験した「上下関係」と、彼女がよって立っているところの「権威的で平等(父親が絶対的な力を有し、子供たちの間ではそれぞれに差がない)」との接点が見つからず、消化不良を起こした。

その後すぐに、文庫本として今月発売された講談社の「中国の歴史」シリーズの最後の巻『日本にとって中国とは何か』を講読した。この巻は5人の著者により執筆されていて、その中の一人である上田信さんが「中国人の歴史意識」について書いている。冒頭に母親が子をあやす言葉が出てくる。何と、おじいさんやおばあさん、おじさんやおばさんをどのように呼んだらよいかを教えている。父方なのか母方なのか、兄(姉)なのか弟(妹)なのかによって、呼び方が変わる。幼いころから、子守歌を介して教えてもらわないと覚えきれそうもないほど、複雑である。親族での上下関係は、この呼称によって著わされている。小さい時から身に付けておかないと、礼を失することになる。同僚が礼を知らないと憤慨したようなことが起きてしまう。中国の社会はやはり上下関係だということを確信して、もう少し詳しいことが知りたくなり、同じ著者が若いころに書いた『伝統中国』を図書館から借りて読んだ。

上田さんは、三つの民族を例にして、家族構造を分類している。タイ族の親族関係が「何をしてくれたから何を返す」という互恵性に基づいていることから動詞的社会関係とよび、日本では「ホンケ」や「ブンケ」のように名詞を用いて親族の関係を規定していることから名詞的社会関係とし、中国に対しては始祖から数えたときの世代(世輩)の上下(尊卑)や年齢の老若(長幼)に基づく相対的な関係(あなたより尊い、あるいは年を取っている)、すなわち形容詞で親族の関係が規定されることから形容詞的社会関係と呼んでいる。トッドの分類を用いれば、動詞的社会関係は核家族(タイ族はさらに詳細な分類では母系一時的同居核家族)、名詞的社会関係は直系家族(詳細では父方居住直系家族でいとこ婚可)、形容詞的社会関係は共同体家族(詳細分類では父方居住共同体家族)となる。

上田さんが伝統中国を研究するためのフィールドワークの地として利用したのは、諸曁県(しょき、浙江省)である。杭州市から南に50km下ったところで、周囲は山に囲まれた盆地である。彼はこの地点での、景観の変化、親族関係の形成、中国王朝とのかかわりという観点から、伝統中国を読み解く。なお、このような研究の仕方を彼は史的システム論と名付け、生態システム、社会システム、意味システムの三視点からの観察としているが、これについては触れないでおこう。
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景観の変化では、諸曁盆地の風景が歴史の歩みとともにどのように変化してきたかについて説明している。その概略は次のようである。①唐代ごろまでにこの盆地に来た人々は、図の中心にある河川の合流点周辺の低湿地を望む微高地に定住した。当時は、あたりは照葉樹林で覆われていた。②宋代には浙東・徽州などの盆地から移住民が流入し、生産技術を身に付け、照葉樹林を焼き払い、開墾しながら丘陵の脚部や山麓に居住した。③明代になると丘陵は飽和状態になり、それまで人手の及んでいなかった扇状地の内部を開拓し、丘陵の足元にある母村を飛び出し、新たな村落を形成する。また盆地底部にも、排水工事(水路・堤防)を施し、住み着く。④清代には盆地内は開発しつくされているので、新たに移住してきたものは山地の内部に入り込み(棚民と呼ばれた)、トウモロコシやタバコなどを生産し、2~3年耕作しては他の山へと移住した。

諸曁盆地への人の移動は把握できたが、それではこれらの人々は何族なのだろうか。古代にはこの地を含む中国東南部の盆地には、「越」と呼ばれる民族が住んでいたと考えられている。唐代までこのような状況が続き、宋代になると先に見たように新しい住人が移動してくるが、彼らが漢民族である。漢民族は、身体的な特徴によって識別されるのではなく、文化的な特質によって識別される人々で、華北で発達した定住農耕を行い、積極的に商業活動に参加し、余裕があれば漢字を学習して『論語』などの古典の暗記に努める人々をさす。

漢族の社会関係は、先に説明したように、尊い/卑しい・年長な/年少なという形容詞により上下関係が決定される形容詞的社会関係である。それでは彼らはどのように家族・親族を構成しているのだろう。近世日本には、イエという概念があり、その実体は家督・家産であった。イエは分割されることなく長男に相続され、次男以下はそれぞれ独立して新たなイエを形成した。前者はホンケと呼ばれ、後者はブンケと呼ばれ、別々のものと見なされた。このような別れ方を分化と呼ぶ。しかし、漢族では、別れたものは、異質ではなく同質と見なされ、分節と言われる。その仕組みは、①系譜の流れは父からムスコへと引き継がれる、②系譜の継承は、祖父を祭る資格を引き継ぐことで、不動産の保有権がそれに付随する、③ムスコが複数いる場合は、ムスコたちは同等の資格で系譜を継承する、である。益尾さんもトッドさんも、共同体家族では子供たちは平等といっていたが、その根拠は③である。しかし、上田さんは、ここの部分をもう少し上手に説明してくれる。即ち、同類であるということは、平等であることではないと言っている。

日本の「親族(血族)」に当たるものは、漢族では「宗族」である。親族には同じ「血」が流れていると考えられているが、これと同様に、宗族にも同じ「気」が流れていると考えられている。「気」は宇宙を活動させている活力ともいうべきものだが、これは骨を媒介として親から子へと流れていると考えられている。そして骨は父親から肉は母親から引き継ぐと信じられている。ムスコは父親から継承した「気」を子供たちに引き継げるが、ムスメは産んだ子に引き継ぐことはできないとされている。「気」の継承した順序と早さによって、宗族中での上下関係が決まる。大きな枠組みは、始祖から始めて何世代目(世輩)、すなわち尊卑関係によって上下が定まる。世輩が小さいほど、すなわち、始祖に近いほど、上となる。また、同世輩のときは早く生まれたほうが上である。そして名前の付け方にも特徴がある。『ワイルド・スワン』の中で、祖母の名は「玉芳」で、「玉」は一族の同世代に当たる子供たち全員に与えられた字という説明がある。この「玉」が世輩である。男子の場合にはこれに続けて、何番目の子であるかを示す番号が、宗族の中での通しとして付けられる。例えば、32番目の男子であれば、玉三二となる。このようになっていると、宗族での会食があったときに、たとえ初対面であったとしても、どちらが上であるかが容易に認識でき、席決めが容易となる。宗族は族譜を有し、そこには構成員の名前と簡単な略歴が記されている。巨大な宗族であったり、遠隔地の人々を含んでいたりする場合には、その維持・管理は大変だっただろうと容易に想像できる。

宗族を可視化したのが下図である。この図で三角は男、丸は女、塗りつぶされているのは現存者、中抜きは物故者、青枠のものは、「気」を共有していると見なされている人々で、同じ宗族に属する人たちである。枠が橙色の人たちは、この宗族には属さない人たちで、嫁いできた人たちである。
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左側下にある水色の枠の人々は、同一の家屋に住んでいる家族で、両親と男子二人がおり、一人は結婚している。結婚すると宗族の「気」とは別に、もう一つの「気」が流れると考えられ、これは「房」と呼ばれた。漢族では、男子が結婚すると、両親の家屋の傍らに建てられた部屋で生活した。「房」は傍ら(方)の部屋(戸)をイメージしているとのことである。

右側の家族は、男子二人、女子一人で、男子はどちらも結婚しているので、二つの房となっている。この家族で父親がなくなると、耕地や家屋は男子の間で均等配分され、房は独立した家族となる。それを示したのが下図である。そして、新たな家族で、男子が結婚するとまた「房」が作られる。
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宗族は同じ「気」を有するものを結びつける機能を有するが、「房」は別れさせる要素を有している。

宗族の構造が分かったところで、宗族はどのようにしてできるのであろうか。宗族を構成する人々の系図を示したものは、族譜と呼ばれる。日本の家系図に相当する。族譜は、宗族の始まりの人、すなわち始祖から始まり、現在のメンバーまでの「気」で繋がった人たちの関係を示している。上田さんがフィールドワークをした諸曁県での宗族のいくつかが紹介されている。それぞれの宗族の始祖は、この地に移動してきたときの人、あるいはその後継者で特に顕著な業績を上げた人となっている。偉大な人の「気」を受け継いでいるという自負心が自然に湧いてくるように、宗族は人為的に作られているようである。中国で最も大きな宗族は、おそらく、孔子を始祖とするものであろう。私も、孔子の子孫ですという方にお目にかかったことがある。

宗族は固定的ではなく、流動的である。宗族がくっついたり、分離したりということもある。地域の支配をめぐって宗族間で争いが生じるが、その優劣は宗族の大きさによって決まりがちである。そのため、婚姻関係を利用して、二つの宗族をくっつけて一つの宗族にしたという事例もある。このときは、構成メンバーの尊卑長幼の順序に基づいて、名前の付け替えなども行われた。また宗族から分離して新しい別の宗族を形成するということもあった。多分に宗族は人工的な構成物であった。しかしどの宗族も、その内部では族譜、祖先祭祀、族産などをともにした。

宗族は私的な組織であり、それとは別に役所のような公的な組織がある。そして私的な組織と公的な組織での上下関係が逆転することがある。公的な身分では、甥の方が叔父よりは上ということが生じる。このようなことが起きたとき、中国の社会ではどのように解決しているのであろうか。これについては最後の章で記述されている。ここではその説明は省く。中国の家族構造には、宗族内の結合が強く、宗族という組織力で生き抜いていこうとする意識が強く感じられる。王朝が頻繁に入れ替わることに代表されるような不安定な社会で生き抜いていくことの知恵として、自己防衛が働いた結果がこのようになったのではと考えている。

神奈川県立歴史博物館で特別展「錦絵に見る明治時代」を鑑賞する

コロナウイルスの一回目のワクチン接種が済んだので、少し気楽な気分となって、先週は歴史博物館に足を運んだ。鳥獣戯画の展示会が東京国立歴史博物館(トーハク)で再開されたので、その当日に見学に行った。大勢の人が訪れることを防ぐために予約制をとっており、参加者数は限られていたにもかかわらず、見学者の列が、展示ケースに沿って間隔がないほどに、つくられていた。列は一列だけで普段のように幾重にもはなっていなかったので、十分に堪能できたものの、変異株のウイルスに対しては緩和し過ぎのように感じた。

トーハクを楽しんだのでさらにもう一つということで、神奈川県立歴史博物館(県博)をと考えて、インターネットでの予約を試みた。前の夜に予約が取れるかどうか確認しておいたので、自信をもってアクセスしたのだが、予約の画面に行くことができない。不思議だと思って色々な方法を試している最中に、知り合いから、警備員の人が感染したために今日からしばらく休館になるというメールが入った。世の中上手くいかないこともあると感じた数日後に、同じ人から土曜日に再開されるという知らせがあった。早速お昼頃の時間帯を予約して、ここも再開当日に訪問した。

県博で開催されていた特別展は「錦絵に見る明治時代」であった。錦絵は浮世絵の一種で、多色刷りの版画を指す。県博には、丹治恒夫さんが収集された錦絵が6000点ほど保存されていて、その中の1000点は明治時代の作品だ。今回の展示では明治時代の出来事を伝えてくれる錦絵が展示され、当時の様子をビジュアルに伝えてくれる。展示品は撮影してホームページに載せても構わないということだったので、興味を引いたものをいくつか紹介しよう。なお、特別展は前期と後期で展示物がそっくり入れ替わった。ここに紹介するのは後期の展示である。

最初の作品は、「東京八ッ山下海岸蒸気機関車之図」。作品が作られたのは明治3~5年。新橋・横浜間に鉄道が開通したのが明治5年9月なので、開通前にこの作品は作られたのであろう。奇妙なことに線路が描かれていない。また列車の車輪が、馬車のそれと似ているので、想像で描いたのであろう。
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次は「上州富岡製糸場之図」。明治5年、群馬県富岡市に創業した製糸場の様子。レンガ造の建物に、女工さんが一列に並んで糸をくくっている。
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次は「板垣君遭難之図」。自由民権運動の指導者で、自由党総理であった板垣退助明治15年4月6日に、岐阜県で演説中に相原尚褧(しょうすけ)に襲われて負傷する。のちに「板垣死すとも自由は死せず」という表現が広く使われるようになった場面である。
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次は「賊魁の首級実検之図」。明治10年西南戦争で敗れた西郷隆盛の首実検をしている場面。何ともおどろおどろしい。
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次は「憲法発布式桜田之景」。憲法発布を祝うために、天皇・皇后が桜田門を出て、青山練兵場に向かう場面。右上に皇居、左上に富士山、その下の中ほどに茶の着物の雀踊り集団、左隅に山車と、祝賀ムードいっぱいである。
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次は「第二会廿五年国会議事堂」。明治25年開会の議会で、議長は星亨。上の一覧表にはこのときの衆議院議員の名前が記されている。
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次は「靖国神社大祭執行横綱式場之図」。一時期、靖国神社の相撲場がよく見える会議室をよく利用した。人影もなく土俵だけが寂しそうに待っている景色を見て、どの様な時に利用されるのだろうかと不思議に思ったが、この錦絵を見て、かつては大いに利用されたのだと納得した。
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次は「大日本東京吾妻橋真画」。墨田川では初の鉄橋となった吾妻橋明治20年、原口要により設計された。現在は真っ赤な橋に生まれ変わっている。
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最後は「上野公園地第三回内国博覧会之図」。この作品は明治23年につくられた。西洋人のように背が高く、足も長く描かれているのが印象的である。そして空は華やかに真っ赤である。皇太子も軍服姿の正装で参加している。
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特別展の会場で全体を見渡すと、赤の色に驚かされる。一つ一つ紹介するとそれほどでもないが、全体を並べてみるとこの色が目立つ。明治錦絵の色ともいえるのだろう。県博の方は所々に見学者がいる程度だったので、それぞれの作品をじっくりと鑑賞することができ、安全な環境の中で堪能できた。

西谷正浩著『中世は核家族だったのか』を読む

住宅街を歩いていると、苗字が異なる表札がかかっている家が、割合に多いことに気がつく。かつての日本は、男系の直系相続だったため、異姓の親子が同居していることはまれであった。しかし近年の現象は、娘に老後の面倒を見てもらう親が多くなったため、異姓の同居が増えたようである。三世代が同居している割合が最も高いのは平成22年の調査では山形県で、その割合は21.5%である。ちなみに核家族の方は48.3%である。国税調査で、家族類型を調べ始めたのは平成7年からのようだが、今日に至るまで三世帯同居の割合は減少している。ここで紹介する『中世は核家族だったのか』では、今とは逆の現象が起きていたようである。すなわち、現在と同じように核家族が優位であるが、その割合が減少していく方向にあったとのことである。それでは紹介に移ろう。

本のタイトルが疑問形になっていたので、正解を先に知ってしまおうと思い、今回はエピローグからプロローグへと、これまでとは異なる読み方を試みた。結果的には成功と思っているが、これを確認する方法はない。後ろから読んできたにもかかわらず、読み返すことがなかったので、悪くはなかったと考えている。当然と言えば当然なのかもしれないが、結果を知って、理由を読んでいるので、頭に入りやすかったのだと思う。しかしここでの紹介はいつもの通り前から後ろへと、普通に進めていくこととしよう。

この本は、タイトルの通り、中世の民衆の家族構造について論じたものだが、冒頭でその前の時代の状況を簡単に説明している。古代末期(9・10世紀)は、大飢饉・疫病そして大地震・火山噴火が頻繁に発生し、国土は荒れ果て、農村には荒田や不安定耕地が多く存在し、荒涼たる景観であったとのことである。古代の農業は支配者層に依存する共同体であっただろうが、困難に直面して、従来の共同体の存在を背景としない新しい勢力、大農を営む農民が出現しただろうと見ている。貧しい人たちや困った旅人を援助したことで天長10年(833)に勲位を得た安芸国佐伯郡の三人の力田(りきでん、富裕層)を『続日本紀』から引用し、それぞれ30町歩(36ha)有していたと大農の例を示している。さらに10世紀後半に成立した『うつほ物語』からも富裕層の様子を紹介している。

古代末期は温暖で乾燥した時代であったが、11世紀以降、気温は次第に降下し、湿潤で冷涼な気候となり、江戸時代中頃に最も寒冷となる。このような気候変動の中、平安時代後期になると11世紀をピークに大開墾時代となったと次のように説明している。開発された土地は私領となり、その所有者は領主・地主となった。開発された土地は荒野だけではなく、荒田の再開発も含んでいた。また公田(公領)の中に開発された私領(公田私領)もあった。開発者は国司に開発を申請し、その認可(立券)をえて私領とした。しかし開発領主は、国司からの干渉によって私領を奪われることを防ぐために、貴族や寺院などの有力者に寄進した。摂関家や大寺院などにはたくさんの土地が寄進され、これは荘園と呼ばれる。あまりにも多かったのだろう、永久4年(1072)には後三条天皇が、荘園整理令を出すような事態となった。また、開発領主はのちに述べる荘司や田堵となり、現地での実質的な所有者となった。

中世は荘園制社会となるが、初期の頃はまだ未分化な組織で、単純化すると、領主と呼ばれる所有者、荘司の管理者、田堵の農業経営者によって荘園は運営されていた。田堵の経営規模は大小さまざまで、田堵の中には五位の位を持つような有力者もいた。またある荘園では田堵だが、他の荘園では領主であったり荘司であったりすることもあった。また領主と田堵は、「一年請作」の契約を結んだ。大開墾時代には開発すべき土地が大量で、それを担う人の方に希少価値があったため、田堵は移動しやすい立場にあり、放浪の時代ともいえた。

大開墾時代には農民たちは放浪することも厭わなかったが、他方で同時に定住し始め、村々が簇生(そうせい)した。鎌倉時代は、不安定な耕地での粗放農業の平安時代後期から、安定した耕地での集約農業の室町時代への移行期に当たり、農民は定住化したが、開発の余地があったので、よそ者の浪人を積極的に受け入れた。『定訓往来』からこれに関する記述を引用している。中世荘園では、組織化が進み、本家→領家→預所下司(地頭)・公文→名主(みょうしゅ)・百姓、となる。本家は大貴族・大寺院で荘園のオーナー、領家・預所は中央のエージェント(代理人)、荘官下司・公文は現地の管理責任者、名主・百姓は荘園の労働者である。百姓は荘地の耕作を請けおい、請作者である限り領主の支配を受けたが、自分の意志で領主との関係を解消し移住する権利も有していた。また身分格差もあって、荘官の職には侍身分(六位クラス)のものがなり、平民の百姓はなれなかった。

この時代の在地社会では、名主職を務める中農層が農業生産の中心を占めていた。また鉄の価格が大幅に下がったため、零細農家でも鉄製農具を所持できるようになった。さらに中農層は役畜、馬鍬、犂(かんすき)を駆使して先進的な農業を実践した。中世前期はこのように中農の時代であったと筆者は述べている。

中世前期の荘園の村落では、名主・小百姓が村落共同体を形成していた。そこでの家族の形態については次のように説明されている。名主の家族は、溝や土塁により外部とは明確に区画された広い屋敷地の中で、複数の核家族世帯を統合した屋敷地共住集団を形成していた。名主層の大家族は近親者を中心に組織されていたが、非親族者もオープンに受け入れていた。これは、中農層である名主一家の経営規模は、数人の男子では賄いきれるものではなかったことによるとしている。名主の大家族のきずなは深かったが、居住だけでなく、食事や家計も核家族ごとに独立していたと述べている。一方、小百姓の場合には、その屋敷地には1~2棟、多い場合には3棟の家屋が立てられていた。複数存在する場合には、親子と兄弟・姉妹がそれぞれ夫婦ごとに暮らしていたとみている。

このころの民衆の家族構造は、単婚の家族構造で、分割相続を基本とし、女性も財産相続をうけた。民衆は姓名も有していて、結婚により姓が変わることはなく、母の財産を相続した子は異姓相続となるが、これにこだわることはなかった。すなわち母方の親族に戻すということはなかった。名主職の相続に関しては、領主から補任を受ける前に、譲り状を荘官や同輩に示して承認を得ることが慣習となっていた。また順位は低かったが、女子でも可能であった。

中世前期の集落は散村であったが、地域によって時間的な差はあるものの、後期になると家々がコンパクトに集まった集村となる。この本では、山城国上久世荘(京都市南区)での例を説明している。明治末と現在の上久世は下図(埼玉大学今昔マップ)の中心にある。明治末でも集村の様相を呈しているが、現在は都会の一部となっている。
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上久世は、鎌倉時代には垣内(かいと)ごとに家々が距離を置いて分布する散村だったが、末期には集村に生まれ変わっていた。後期には北条得宗家領であったが、建武3年(1336)に足利尊氏が地頭職を東寺八幡宮に寄進して東寺領となった。歴応4年(1341)の上久世荘実検名寄帳を調べると、土地所有において圧倒的に優位に立つ土豪的な所有者が存在し、村の主導権を握っている一方で、農業経営に関しては、規模の大きい経営では自作分の比率が小さく、大部分を中小農民に委託して小作分が中心になっているとともに、小百姓層の経済的成長と農業環境の改善による生産性の向上を受けて、小農が村の農業の主役を担うようになったと説明されている。山城国では、地主のことを「名主」、領主に対して直接的に年貢・公事の納入義務を負うものを「百姓」と呼んだ。さらに、下作している百姓を脇百姓ともいった。

後期の農村について筆者は次のように説明している。鎌倉時代の村では、開発可能な荒地が残り、耕地の安定化も道半ばだった。名主=中農家族は、耕作だけでなく、開発者の性格も期待されていた。しかし、村内の満作化と耕地の安定化が達成されると、開発者の存在は不要となり、中小農民の力だけで村の農業は事足りるようになる。上久世荘では14世紀後半には百姓名体制が崩れ、特権身分としての百姓名の名主も消滅した。農業環境の改善で生産性が向上した中世後期の集村では村の庇護のもとで自立した小農が農業生産の主力を引受ける時代を迎えていた。地侍層を中心とする有力農民は、自身が農耕に従事するとともに、不在地主と村人の媒介項として管理者的な役割を担った。また、中世後期には後半に存在した名主層の屋敷地共住集団も、こうした社会状況の変化の中で次第に存在意義を失い消滅していったと述べている。

このような集落を基礎に住民は地縁的な結びつきを強め、支配単位である荘園や郷(公領)の内部にいくつかの自然発生的な村が形成され始め、農民たちが自らの手で作りだしたこのような自律的・自治的な村を惣村というようになる。惣村には、一般の百姓(地下分)とともに、殿原と称される侍身分の者が住んでいた。長禄3年(1459)の徳政一揆の際に室町幕府に提出した起請文では、上久世荘には、侍分21名、地下分85名、下久世荘には、侍分11名、地下分56名となっている。侍分は名字・実名を有し、地下分は仮名(けみょう)のみを称していた。その他に主人から扶持を受ける下人、耕地を任された自立的な農民である作子もいた。農繁期や農閑期では必要とする労力に差があったので、作子はその埋め合わせを担った。前期には名主は百姓の身分であったが、後期になると彼らは侍分となることで侍身分となった。なお、惣村によっては侍がおらず、平百姓だけのところもあった。その例に同じ東寺領の上野荘(京都市南区)がある(下図、上久世荘の約4㎞北)。ここでは、経済力・政治力を蓄え、経験を積んだ長老格の者たちがヘゲモニーを握っていたが、15世紀後半になると長老支配体制が交代し、やがて庄屋(百姓政所)という突出した存在が現れたとの説明がある。
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それでは中世後期の民衆の家族構造はどのようになっていたのだろうか。筆者は次のように述べている。中世後期の畿内村落では、多くの青年が結婚前に実家を出て、親の家の近辺に小屋を建てて暮らし、独身のあいだは母親の世話になった。一方、娘の方は、親元で暮らしたらしいと説明した後で、核家族であり、親夫婦と成人した子供はそれぞれ夫婦単位で世帯を構成したと説明している。さらに、中世民衆の家は寿命の短い掘立柱式の建物であり、相続財産としての価値は低かった。しかし室町時代には、礎石建ての耐久性のある本格的農家住宅が出現し、世帯を超えて代々相伝されるようになる。一家にとって共通の場である家を相続したものは、やはり特別な存在としてみなされるであろう。財産相続慣習や居住形態には、その地域・時代の家族関係や社会の価値体系が姿を現すと述べている。このあと、近世の直系家族へと説明は繋がっていくので、本でどうぞ。

いわゆる支配階層に対する家族構造について記述した本はそこそこあるが、百姓と呼ばれる民衆に対してのものはあまり見かけない。この本を読む前までは、直系家族に移行してたのではないかと勝手に想像していたが、この本によりそうではなく核家族であったという説明を受け、見直しているところである。

五味文彦著『武士論』を読む

緊急事態宣言のために東京国立博物館は閉鎖され、楽しみにしていた「国宝 鳥獣戯画の全て」をゴールデンウィーク中に鑑賞することはかなわなかった。幸いなことに再開されるということなので、早速チケットを入手、明日実現できることになった。擬人化された動物たちを通して、平安時代末期から鎌倉時代初期の様子を伺えることを楽しみにしている。

この時代の歴史学の第一人者である五味先生は、一次史料のみを良としてきた歴史研究の中に、これまでは二次史料とされていた物語や絵巻を積極的に活用して、一次史料には現れない日常の出来事を掘り起こし、歴史学に一石を投じてきた。今回の『武士論』でもその姿勢がいかんなく発揮されている。

表紙を開くと、「男衾三郎絵詞」の口絵が11枚ほど並んでいる。これは都に上って宮仕えをし、都の美しい女房を娶り、きれいな娘を得たが、山賊に襲われて死んでしまう兄の吉見二郎と、関東一の醜い女を妻にし、同じように醜い娘を得たが、武芸一筋に励み、残された兄の妻子を引き取り使用人としてこき使う弟の男衾三郎によって、当時の武士の相異なる典型的な生き方を描いた作品を見せることで、この本が何を語ろうとしているのかを教えてくれる。なお、男衾三郎絵詞国立文化財機構所蔵品統合検索システムから閲覧することができる。その中の一場面だが、男衾三郎の館の様子が次のように描かれている。中央上が、三郎と縮れ毛の妻。その左の空間に同じように縮れ毛の娘。
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筆者は、「はじめに」という章で武士という言葉を整理しており、古代に対しては、「続日本紀」から、武士とは朝廷に武芸を奉仕する下級武官で、文人と対をなす諸道の一つと定義されているとしている。また、中世に対しては、「十訓抄」を例に引いて、武士とは朝廷に武を以て使えるものと定義されていると紹介している。古代の定義から下級武官を省けば、同じことになるとも説明している。武士と同じ意味合いで、「兵」もしくは「武者」が頻発して使われるようになる10世紀から武士論を考えるのが良いとしたあとで、本論に移っている。

本論は「今昔物語集」の中の一節で始まる。芥川龍之介の「芋粥」でも紹介された部分なので、知っている人も多いと思う。越前国敦賀の豪族の藤原有仁の娘婿になった利人(平安時代前期、従四位下鎮守府将軍)は、芋粥をたらふく食べたいという、うだつの上がらない「五位の侍」を実家に招待した。彼は、あきれるほどに芋粥を大量に見せられ、飽きてしまったという話である。この逸話から、都の武者(五位の侍)、国の兵(藤原有仁)、その本拠の宅(有仁の住まい)など、当時の日常生活を推し知ることができる。筆者はとても簡潔に要領よく記述しているので、詳細を知りたいと思うことであろう。そのときは、今昔物語集を読むと面白い。五位の侍を家に招いたときの手厚い接待の様子が細かく描写されているので、あやかりたいと思わせてくれる。利人の流れをくむ子孫の兵は、加賀斎藤氏、弘岡斎藤氏、牧野氏、堀氏、富樫氏、林氏となって、北陸道に広がっていたとのことである。

その次も、「今昔物語集」から、平将門藤原純友などを紹介している。そしてこれら兵の住家である「宅」については、『宇津保物語』から紀伊牟婁郡(むろぐん)の長者の宅を解説した後で、古志田東遺跡(出羽国置賜郡)と大島畠田遺跡(日向国諸県郡)の復元図を紹介している。古志田東遺跡は、河川跡の東側に、母屋・馬屋・倉庫と思われる建物跡7棟が確認され、母屋は10間x3間と大型で、三方に庇(ひさし)がある。この時代の兵の生活を想像するのに必要な資料を与えてくれる。

そして、京・九州の武者たちの紹介のあと、兵・武者から武士へと移行する前九年の役へと進む。かなりのスペースを割いて、『陸奥話記』を引用しながら、この戦いで大活躍した源頼義が紹介される。黄海(きのみ)の戦いから衣川関の戦いを経て厨川柵の戦いまでの安倍貞任との攻防は、なかなかにすさまじい。下図は国立文化財機構のColBaseより、前九年合戦絵巻の一つの場面を転写したものである。この時代の戦いの様子が分かる。
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前九年の役安倍氏が滅んだあと、東北の覇者となった清原氏に内紛が発生する。前九年の役で活躍した武則が没し、その後を継いだ武貞も亡くなったあと、その子供たちの間で内紛が発生し、紆余曲折の末、武貞の妻の連れ子であった清衡が勝利をおさめ、父方の藤原氏へと姓を改めたため、清原惣領家は滅亡するが、ここに四代にわたって栄華を極める奥州藤原氏が成立する。この戦いで、源頼義の子の義家が活躍する。しかし朝廷からはこの戦いは私戦と見なされたため、関東から出兵してきた将士たちに、義家は私財を投じて恩賞を出した。この二つの戦いを通して、武士の間の主従関係が強化されたと言われている。著者はこの戦いを『後三年合戦絵詞』を利用しながら見事に描いている。ここにもその一場面を載せておこう。前と同様に、国立文化財機構ColBaseの前九年合戦絵巻からの転写で、清原軍の放った矢が16歳の鎌倉権五郎景政の右目に刺さり、三浦平太郎為次が矢を抜こうとしている場面である。二人のやり取りが面白いが、それは本でどうぞ。
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後三年の役の後、武士は家を形成してゆく。鎌倉権五郎景政は、先祖伝来の私領を伊勢神宮に寄進、そして開発し、大庭御厨を成立させた。また三浦平太郎為次の子孫は三浦郡を中心に勢力を広げた。この例に見るように東国の武士たちは、領主支配を通して家を形成していった。それらには、武蔵の秩父氏とその支族である河越・江戸、房総半島には上総氏・千葉氏、相模では梶原・大庭などの鎌倉党、三浦半島には三浦一族、相模西部には波多野・中村、上野の新田、下野の足利、常陸の佐竹、甲斐の武田、越後から会津にかけて城氏などが勢力を広げた。

京ではもちろん平氏と源氏が巨大な勢力を有することになる。そして朝廷・貴族の間で、武士を戦力とする衝突が発生する。保元・平治の乱である。保元の乱は、皇位継承権問題と摂関家の内紛が絡み、朝廷は後白河天皇方と崇徳天皇方とに分かれ、関白家は忠通と忠実・頼長が対立し、源義朝平清盛源為義・平忠貞が武士同士で戦うことになった。結果は後白河方の勝利で、義朝は父為義を、清盛は叔父忠貞を、何とも恐ろしいことに武士の習いによって斬った。そして平安京ではこれまで実行されることのなかった死刑の復活となった。2年後に起きた平治の乱は、勢力を増してきた後白河院近臣たちのあいだで争った、すなわち院の寵臣であった藤原信頼と急速に勢力を増してきた信西との争いで、清盛が熊野詣をしているすきをついて、信頼・源義朝が兵をあげた。信西は逃げきれずに自害し、帰京した清盛によって信頼・義朝は滅ぼされた。これらは、物語の『保元物語』『平治物語』と絵巻の『平治物語絵巻』を用いて、描かれている。信西の首を掲げているところは随分とむごい光景である。

このあと、源平の合戦・奥州藤原氏との戦いを経て、鎌倉幕府の成立、北条政権の樹立、承久の乱、蒙古襲来を経て、鎌倉幕府の滅亡、足利尊氏・直義の活躍、南北朝時代、そして武士政権の頂点である義満の時代へと、同じように物語や絵巻を利用しながら導いていく。このあとは読んでの楽しみとしたいが、中世の時代に確立した「家」に興味があるので、残りの部分ではこれについて、記しておこう。

兵・武者と呼ばれていた時代の家は、宅と呼ばれていて、これについては既に紹介した。鎌倉時代になると、武士たちは立派な館を構えるようになる。モンゴルが襲来したときの竹崎季長の活躍は『蒙古襲来絵詞』で語られている。その中で恩賞が与えられないことに不満を持った季長が、鎌倉に赴いて安達泰盛に直訴する。九大コレクションの蒙古襲来絵詞には泰盛の館での様子が描かれている。
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さらに絵巻の『一遍聖絵』のなかに、筑紫国の武士の屋形で念仏をしている場面がある。舘の遺跡としては、今小路西遺跡(鎌倉市)と中山舘(飯能市)があり、詳しい説明がある。また、国人の居館として、伊豆出身の江馬氏が飛騨に移ったのちに築いた絵馬氏館も例に挙げられている。

家にはこれまで述べてきたように物理的な建物としての家と、代々にわたって先祖から継承する有形・無形の概念的な家とがある。概念的な家は、武士の階級ではいつ頃に生じたのだろうか。筆者はその時期を北条幕府が皇族将軍を迎えたころとしている。源頼朝・頼家・実朝と三代の源氏将軍が続いたあと、将軍が存在しなくなったわけではなく、摂関家から藤原頼経・頼嗣(よりつぐ)を迎え、5代執権北条時頼のときには、宗尊(むなかた)親王を6代将軍として迎えた。親王の鎌倉下向に伴い、飛鳥井・難波など和歌・蹴鞠の家の人々をはじめとする公家の廷臣たちが一緒についてきたため、将軍家は武家宮廷の体をなした。これに刺激されるように武家にも家職の概念が生まれるとともに、継承されるようになったと筆者は説明している。

その例として、3代執権泰時から5代執権時頼を補佐した北条重時は、北条氏惣領の得宗への対処法を子孫への武家家訓に残した。重時の子の長時は6代執権となったが、これは幼い時宗が成人するまでの代官としての役割であった。代官を置くことで執権を家職とする得宗家が誕生し、併せて長時の極楽寺家が確立し、さらには名越・赤松・大仏・金沢などの北条一門と外戚の安達は評定衆・寄合衆・六波羅探題となる家を形成したと筆者は述べている。また、得宗に仕える尾藤・長崎・平氏御内人(みうちびと)の家を、源氏一門の足利・武田・小笠原、諸国の守護となった三浦・佐原・長沼・結城・佐々木などは守護職を継承する家を、政所・門柱所・引付などの幕府機構の実務・事務を担う二階堂・太田・矢野・摂津は奉行人の家を形成したと説明している。

家職は有形無形の家の財産を継承していくことであり、相続制度とは切っても切れない関係にある。武士が出現した頃は分割相続であったが、家の成立とともに変化していく。それについては本書で確認して欲しい。

さて読後感。この本の一行一行の情報量の多さには感心する。気を抜くと、その内容が分からなくなってしまうので、読んでいる間はとても緊張を強いられる。海外の本だと、数倍もの厚さにして出版されることだろう。機会があれば、関連する書籍を参考にしながら、もう一度じっくりと読みたいと思っている。

藤田達生著『災害とたたかう大名たち』を読む

コロナに対する戦い方は、国によってさまざまである。自由が大好きな国民たちの米国や西ヨーロッパの国々は、ロックダウンによる強い規制を敷いて国民の行動を抑えようとしたが、コロナの蔓延は防ぎきれず、最後は科学を信じてワクチン投与を早い時期に開始し、集団免疫の獲得により重い空気から脱しようとしている。それに対して東アジアの国々は、お互いを気遣って自己規制する国民の協力をてこにして感染者が爆発的に増えることを抑えていたが、この春以降はウイルス変異による感染力の増強に伴ってこれまでの政策がほころび、あたふたとした状況が続き、さらにはワクチン対応にも遅れて国民を失望させている。

このような状況の中で、面白い本が出版された。藤田達生著『災害とたたかう大名たち』である。今でこそ災害は非日常的なものであるが、江戸時代は年がら年中生じていた。地震、大噴火、水害、旱魃、飢餓、疫病、そして火事との戦いは、今日世界が戦っているコロナウイルスとは比較にならないほど、壮絶であっただろう。

この本の著者は、伊勢・伊賀の藤堂藩を主に例にしながら、江戸時代の対応を紹介している。財政が豊かであった前半には、藩は被災者の小屋掛けから食料までの面倒を見たばかりか、町人や百姓たちの焼失した家屋の再建に取り組んだと説明している。さらに財政が破たんしていた幕末の安政地震でも、藩は藩庫を空にしてまで金子(きんす)や米穀を領民に与えて支援の手を差しのべたばかりか、死者を弔うための大規模な鎮魂の儀式まで行ったと述べている。

江戸時代の藩と農民との関係については、イメージ的には「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」(『昇平夜話』)という家康の有名な言葉が思い出されるが、決してそのような粗野なものではなかったと著者は述べている。

江戸時代の幕藩体制の基本的理念をなしていたのは、「預治思想」であると著者は言う。聞き慣れない言葉であるが、著者は、「天下の領知権、具体的には領地・領民・城郭については、天(万物の創造主である天帝・上帝のことで、北極星がそのシンボルとされる)から天皇を介して天下人(将軍)が預かっており、天下人は器量に応じて諸大名にその一部を預けるものである。従って、領知権は天下人と諸大名による共有制と位置付けられる」と説明している。

天という言葉を聞くと、中国の儒教思想を思い出す人も多いだろう。著者も、「かかる思想は、『周礼(しゅらい)』(中国周代の理想的な王朝西周の制度を記した儒教の古典で、周公旦の作とされる)を始めとする儒教に由来するものであり、古代律令制の導入により都城の建設に伴い浸透した。即ち、藤原京に始まり平城京平安京などの首都の位置は、「天」が地上の中心点として指定した場所であり、天命によって諸侯に君臨する天子の居住地とされた」と述べている。

さらに、信長や秀吉がこれを彼らの正当性を示すために用いたとも説明している。すなわち、「天から統治権を預けられた天皇は、律令国家建設に当たって、地方豪族出身の官人たちを都城に住まわせて、律令制度に基づく官僚として位置づけたのである。ふたたび天下を統一するにあたり、信長や秀吉がその正当性を古代律令国家の思想に求めたのであり、家康を始めとする徳川将軍も基本的にこれを継承した」としている。

預治思想では、領地は私的な財産ではなく、公共財ということになる。著者は、「この確認システムが、将軍と藩主の間で行われる国替と江戸の拝領屋敷替、藩主と藩士の間では城下町における屋敷替である」と述べている。即ち、藩主・藩士を移封・移転させることで土地を私有していないことを認識させるとともに、藩主に対しては城郭が、藩士に対しては武家屋敷が「官舎」としてあてがわれていることを認識させたということである。

それに加えて、百姓にとって田畑は公儀からの預かり物、すなわち古代のように「公田」であると、著者によれば位置づけられている。これに対する立証として割地制度をあげている。これは村内の土地を共有財産として、一定年限これを農民の持ち高に応じて割り当て、年限が来ると再び割り当て直すというものであった。

江戸時代は、預治思想に基づく官僚制と、将軍―藩主―藩士という身分制による主従制を融合して統治が行われたとしたあとで、先に示した災害のときに、被害者を手厚く保護するという政策がどこから出てくるのかについての説明がある。著者は前期と後期に分けて述べている。

前期については、藤堂高久(藤堂藩)、池田光政(岡山藩)、細川忠利(熊本藩)、保科正之(会津藩)の前期明君と呼ばれる人たちを例に挙げ、「無私」を掲げて「仁政」に基づく国家感を浸透させていくことに努めたと説明している。ここで、無私は恣意的な支配を否定することを、仁政は百姓成り立ちのために尽力することを意味する。

例えば、池田光政は預国論で、人民は天から預かったものなので、安心して暮らせるように、藩主、家老、藩士は努力していかなければならないと、次のように紹介している。
上様(将軍)は、日本国中の人民を、天より預けなされ候、国主(藩主)は一国の人民を上様より預かり奉る。家老と士(藩士)とは、その君を助けて、その民を安んぜん事をはかるもの也。一国の民の安きと安からざるは、一国の主一人にかかるべき事なれども、天下の民の一人も、そのところを得ざるは、上様お一人の責となれば、その国の民を困窮せしむるは、上様のご冥加(利益)を減らし奉る義也。不忠なることこれより甚だしきはなし。上に不忠、民に不仁、国主の罪、死にも入れられず。今時何事もあらば御用に立たんと、乱世の忠を心掛け候もの、あまたこれありと聞き候へども、上様ご冥加減りて何事あらんには、忠を存ずるとも益あるまじく候。寸志ながらこの国においては、上様の冥加を増し奉り、長久のお祈りを致し、無事の忠を致さんと存ずるもの也と、かねてご趣意を仰せ出されけり。

しかし、江戸時代も中期から後期に差し掛かると、諸事物入りの藩財政の逼迫と、郷方には商品経済が浸透し、地主制が広く根付き、身動きが取れないような軋みが生じ、幕藩体制を支えた預治思想は、私有化の激しい本流によって風前の灯火となる。このような中にあって、上杉鷹山(米沢藩)、松平定信(老中)、松浦静山(平戸藩)、鍋島直正(佐賀藩)ら江戸時代を代表する明君が中・後期に登場し、殖産産業、洋式技術導入、義倉制度(災害や飢饉に備えて穀物を備蓄すること)開始、藩校設置などをした。藤堂藩でも、九代藩主高嶷(たかさと)が藩政の改革(借金棒引きなどの金融政策、殖産興業、均田制の導入-これにより一揆発生)を開始し、次の高兌(たかさわ)が、義倉積米制度、藩校開設などを行ったと、説明されている。

それでは災害に対する藤堂藩の対応を見ていこう。最初は、財政が厳しくなっている後期の事例である。日本列島では、安政年間(1854-60)に巨大群発地震が発生した。安政2年(1855)には安政江戸地震によって関東は大きな被害を被った。今年の大河ドラマ「青天を衝け」を観ている人は、この地震藤田東湖が死去し、竹中直人演ずる水戸藩主斉昭が慟哭している姿を覚えているだろう。これに先立つ1年前に、安政伊賀地震が発生した。6月15日午前2時ごろ、マグニチュード7.25の直下型地震により、藤堂藩の伊賀領で、死者597人、負傷者965人、全壊家屋2028軒、半壊家屋4357軒の被害が発生した。当時の伊賀領の人口は90,000人を少し超える程度であったので、大半の人が被害を被ったことだろう。これに対する藩の対応は、藩主が江戸にいるにもかかわらず、素晴らしく速い。日ごとにその対応を追ってみると次のようになる。

15日:地震当日夜が明けると、城内と城下に被災した武士と町方のために仮小屋を設置。被災町人には、藩から雨露をしのぐための竹や渋紙、炊き出しとして玄米粥、味噌が支給され、火の用心と盗難防止のため拍子木が一晩中鳴り響いた。
16日:町中の倒家・けが人に対して御救米(玄米1日2合/1人)が下行。
17日:郷方にも下行(玄米1日2合/1人)。郷方・町方に100俵下行。棟梁2人・大工50人・人夫150人の派遣を要請。寺社に地震の鎮まりを祈願させる。
18日:医師の派遣を命じる。謝礼は藩もち。
29日:町方に再度の御救米。
7月1日:報告書を江戸藩邸に送付。
6日:十一代藩主高猷(たかゆき)の名代が江戸から上野に到着。
7日:藩士に対して金子下賜(100石につき15両)と無利息年賦の金子貸与(100石につき15両)。
その後:町方に見舞金(全壊:金2両・米4俵、半壊:金1両・米2俵)、
    郷方に見舞金(全壊:金3両・米1俵、半壊:金2両・米2斗)、
    町方・郷方:死者を葬るため米1俵、負傷者の養生に米3斗、無被害に鳥目200銅。
16日:施飢餓の儀式を予定するも風雨のため中止、20日に改めて挙行。
18日:町方・郷方に対して米6000俵余りと金1万2000両余りが追加給与。
1年後:一周忌法要。

この地震での藩の出費を筆者は概算している。下行した米は町方に対して138俵、村方に対して459俵の合計597俵である。また下行した金子は、全壊家屋に対して町方に878両(1億1414万円)、村方に4767両(6億1971万円)、半壊家屋に対して町方に716両(9308万円)、村方に7282両(9億4666万円)で、合計で1万3643両(17億7359万円)である。なお、1両13万円となっている。下行された金子は、追加給付を加えると2万5643両となる。藤堂藩は、伊勢も含めて総収入は3万5600両であった。先の金子は伊賀の分だけなので、伊勢の分も含めると金子だけで総収入を越えたと予想され、藩士や領民の生活復興を最優先したことが分かると筆者は説明している。

それでは前期にはどのような手当てがなされたのかを見ていこう。史料は藤堂藩伊賀付家老石田氏の懐中手控である「統集懐録」である。ここには火事にあったときの救済の仕方が書かれていて、間口1間につき、松10本、竹3束、米2俵だそうである。藩より、建物再建に必要な資材と再建期間の食料までもが提供されていることが分かる。町方の家といえども、藩士の家のように舎宅としてみなされていたことが伺える。藩主が国替になると城下町も入れ替えとなり、町人も一緒に移住したので、家屋も藩の持ち物と見なされ、再建は藩主の努めと考えられたのだろうとやはり筆者は述べている。

コロナウイルスに対する政府の対応と、江戸時代の藤堂藩の災害に対する取り組みを比較すると、今日の政府の対応があまりにも後手後手であることが浮き彫りになり、大丈夫なのかと不安になってしまう一方で、江戸時代には予想を越えてしっかりと対処していたことに感心した。

白石典之著『モンゴル帝国誕生』を読む

モンゴル系民族の歴史として、杉山さんと島田さんの著書を紹介してきた。歴史学の手法は大別して、先人たちが残してきた文献資料を丹念に調べその当時の歴史をひもといていく文献史学と、遺跡を発掘して遺物からその当時の状態を解明していく考古学とがある。二人は文献史学に属するが、今回紹介する白石さんは考古学を専門としている。調査地域はモンゴル国である。モンゴル高原に存在する国だ。この国はかつてモンゴル人民共和国と呼ばれ社会主義国家であったが、ソ連・東欧の民主化に惹起され、1992年に国名を変え市場経済化がすすめられた。このころから日本・西洋の研究者との共同研究なども行われるようになり、白石さんはパイオニアである。2001年以来チンギスが首都としたアウラガ遺跡で調査を行っている。また1991年にはセルベンハールガ碑文の発見にも貢献された方である。
研究手法も先に紹介した2人とは随分と異なる。異分野の人たちとの共同研究が目を引く。本の中でも「ハブ」と考古学を位置付けている。理系・文系の異なる分野を結びつけ、相互に有意義な相乗効果をもたらしていると主張している。また、当たり前と言えばそれまでだが、外国文献の引用が多いことも特徴の一つだろう。日本人研究者という枠組みから飛び出て、世界の研究者と交流することの重要性を改めて認識させてくれる。

彼は本の末尾に近いところで、経営学的視点からチンギスの功績をまとめている。チンギスが抱いたヴィジョンは「モンゴルの民」の安全と繁栄の実現であり、この達成のために活動したと述べている。ヴィジョンの実現のため、「騎馬軍団の機動力向上」「鉄資源の安定確保」「高原内生産の活性化」という三つの戦略を立て、遊牧リテラシーに基づく「シフト」「コストダウン」「モバイル」「リスク回避」「ネットワーク」という五つの戦術を駆使したと著者は記している。チンギスの成功の理由は何かと尋ねられたら、確固たるヴィジョン、戦略の的確さ、戦術の巧みさにあったと答えるそうである。
それではその中の「シフト」についてみていこう。彼は、シフトを領域の移動という意味で使っている。殻の大きさが合わなくなった蛇が、それを脱ぎ捨てて新天地に向かっていくように、活躍の範囲が大きくなる場所を求めて、狭き場所より広い場所へと行動拠点を変えたことを指している。チンギスは、今日のモンゴル国の首都であるウランバートルから東に350㎞ぐらい離れたヘルレン川沿いに居住していた。この川はこの辺りでは北から南に流れている。北は森林地帯、中央は森林ステップ、南はステップと環境が変わる。彼は北から南へと拠点を変え、活動できる領域を広くしていく。
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モンゴルの民にとっての生活の糧は家畜(ヒツジ、ヤギ、馬、牛、ラクダ)である。家畜の主食であるステップに生える草は気候変動に敏感であり、わずかな変動であっても、壊滅的な打撃を与えることがある。家畜などを生育させる平原が持つ力を草原力、草原の中で生きてゆく遊牧民の知識を遊牧知といい、遊牧知を活用して草原力を発揮させることがいかに重要であるかについて述べている。これらは、我々には備わっていない、草原で生き抜いていくために必要とされる能力の源泉である。
ヘンティー山地オノン川谷で生まれ育ったチンギスは、タイチウトに敵視され、ヘンティー山地ヘルレン川上流に移動した。モンゴルでは有力な集団にキヤトとタイチウトの二つの血縁集団がいて、チンギスの父はキヤトの武将であった。チンギスが9歳のとき父はタタルに殺され、チンギスはケレイトの庇護のもとでヘルレン川上流に移った。史料には、落人のように落ち延び、貧しく暮らしたとなっている。しかし気象状態を調べてみると、当時の冷涼で乾燥傾向の強い気候を過ごすうえではきわめて適した場所だったことが分かったそうである。このときの移動には、彼の意思は余り働かなかったであろう。ある面でラッキーだったのではと感じる。もし、オノン川で住み続けていたならば、この川は東西に流れているので、環境の変化が少なく、草原力を知る機会も失われ、遊牧知も豊かにならなかったであろう。
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チンギスを飛躍させたのは、オルズ川の戦い(1196年)に勝利したときである。当時、中国北半の金と、中央アジアの西遼とのパワーバランスの下で、モンゴル高原は両国の代理戦争の場となっていた。チンギスは当初親遼派であったが、金とタタルが戦った時、金派に寝返り、金の指揮下の下でタタルと戦い、オルズ川の戦いで勝利した。父がタタルに殺されているので、敵の敵は味方ということで、金の勢力下にはいったと推察されている。この戦いで、金の将軍の完顔(ワンヤン)襄が戦勝碑文を残したと『金史』にあるが、著者の白石さんはこの碑文の発見に多大な貢献をされている。その秘話については本で楽しんで欲しい。

オルズ川の戦いの後、チンギスは凶暴な一面を見せ、ヘルレン川が北から南への流れを変えて東に流れ出す屈曲部への進出を図る。ここは水と草原に恵まれた豊かなところで、チンギスも属するキヤト族の本家が拠点としていた。1197年春チンギスは、再従兄妹で当主のジュルキンの本営を急襲、多数を殺害、多くを収奪した。
その後、チンギスは、ボヤン・オラーン山を冬営地とし、コデエ・アラルを夏営地とした。遊牧民の戦いは騎馬戦。優れた馬と武器の入手が戦略となる。新たに移り住んだ地域は、優れた馬と牧草で知られているところであり、チンギスが仕掛けてここに拠点を移したと著者はみている。馬具と武器の材料は鉄である。鉄についての知識は、前の拠点の近くに鉄を産出する山があったことから、そこで鉄を製造する一連の知識を得たと著者はみている。鉄の製造には、製錬・精錬・鍛錬の工程が必要である。製錬では、鉄鉱石を溶解させて鋳鉄を得る。精練では、鋳鉄から炭素を取り除いて強靭で軟性な鋼(インゴット)を得る。鍛錬では、インゴットを加工して製品を作る。チンギスは、コデエ・アラルの北10㎞のところに、宮廷としての大オルドを設営した。この地が著者の調査対象であるアウラガ遺跡である。ここからは、精練後に出る鉄滓が大量に発見されたので精練されていたことが、また、1300㎞以上も離れた金の国の金嶺鎮鉄山(山東省済南市郊外)から運ばれた良質のインゴットが発見され、鉄コンビナートと呼んでもいいような鍛冶工房がアウラガ遺跡には展開されていたと著者はみている。また、持ち運びに便利なインゴットは移動先でも鉄器生産に使われたであろうから、移動する鍛冶屋の役割も担い、革新的なことであると見なしている。

良質の馬と鉄を得たチンギスは、それらを利用して彼の子供たちとともに中央アジアの征服へと向かう。これらの様子については本でやはり楽しんで欲しいが、一つだけ付け加えておこう。著者はアウラガ遺跡の調査をとおして、チンギスの人となりを観察したようだ。ユーラシア大陸の大半を征服したのだから、金銀宝石がちりばめられた豪華なパビリオンの中で住んでいただろうと想像されていたが、発掘を通して余りの質素さにビックリしたそうだ。宮殿遺跡から発見されたのは、一辺が17mの天幕の跡で、基礎は掘立柱と日干しレンガを使った質素な構造だったそうだ。あまりのつつましさになぜだろうと疑問を抱き、彼の経営者としてのヴィジョン、戦略、戦術を考えるに至ったとのことであった。

コロナウイルスによって不確実さが増している中、為政者には、彼のような豊かな構想力、優れた戦略、巧みな戦術を有していて欲しいと思うのだが、現状はどこまで満足されているだろうか。残念ながら疑問に思うことのほうが多い。

島田正郎著『契丹国』を読む

東京に出されている非常事態宣言は、大方の人が予想していた通り、ゴールデンウィークで終わるわけはなく、月末までの延長となった。さらなる延長がなければと願うばかりだが、イギリス株やら、さらに怖そうなインド株の広がりも予想され、予断を許さないようだ。

ゴールデンウィーク中の課題であった原稿の執筆作業は順調に進み、期限の月末までには何とか間に合いそうだ。久しぶりの英語での論文で思うようなスピードでは進まなかったが、翻訳関係のソフトが、かつてとは比べようがないほどに進歩していて助かった。

一つはDeepLである。これは翻訳ソフトだが、出来上がった英語の論文を、日本語に翻訳させることで、内容が正しく伝わるのかを調べるのに役立った。翻訳された日本語が怪しい時には、英語の方に表現上の問題があることを教えてくれた。表現を変えて、分かりやすい日本語が出てくるようにすると、大丈夫ということになる。逆に、日本語の文を入れると翻訳例がいくつか提示されるので、このような表現もあると知り活用できた。

さらに役立ったのがGrammarlyである。こちらは英文チェックソフトで、誤字・脱字は言うに及ばず、幼稚な表現かどうかまで指摘してくれる。言い換えは有料なので使わなかったが、指摘がなくなるまで書き換えて文章のブラッシュアップを図った。

このような生活を送る中で、大分古い本だが、島田正郎さんの『契丹国』を読んだ。1993年に初版本が発行され、2014年に新装版なって発売され、読んだのは2018年の電子版である。30年近く前に書かれた本で、著者も2009年に亡くなられている。80年代の後半ころに明治大学の総長をされていたのでご存知の方も多いだろう。私も名前は存じ上げていたが、専門については知らなかった。

高校時代の世界史では、契丹(キタイ)については建国者の「耶律阿保機」と講和条約の「澶淵の盟」ぐらいしか触れないので、それほど馴染みのある国ではない。しかし論文を書いているときに、モンゴルの軍事・行政組織である千人隊(ミンガン)が、契丹の影響を受けたものであるということを知って、興味をもって調べていたらこの本に出合った。

契丹という国が存在したのは、菅原道真大宰府で憤死したあとの頃から、後鳥羽上皇が鎌倉の北条氏に争いを仕掛けた承久の乱の前までの時期で、摂関期から院政期までの時代に当たる。始めの2/3強はモンゴル高原を中心とした遼の国として、終わりの1/3弱は中央アジアを根拠地として西遼の国として存在した。

それでは耶律阿保機が初代皇帝になったころの遊牧国家の様子を見てみよう(下図)。9世紀の半ばに、北アジアを支配してきたトルコ系ウイグル帝国が崩壊、中央アジアを抑えてきたチベット系の吐蕃帝国では内乱、さらには唐帝国も財政難で北アジアを抑え込めなくなったため、多くの遊牧民族が一斉に活動を開始した。モンゴル高原では勢力を伸ばしてきたモンゴル系のタタル人の攻勢によってトルコ系のキルギス人が力を失い、トルコ系民族活躍の時代の終わりを告げた。北モンゴリア東部のタタルからは黄頭室韋が嫩江(のんこう)流域に遊牧し、その南に面したシラ=ムレンの流域には契丹が、さらにその南のラオハ=ムレンの上流域に契丹と同系統の奚が遊牧した。これらの西には黒車子室韋が、その南の大同盆地にはトルコ系の沙陀が遊牧した。大同の西南には、のちに西夏王国となるチベット系の党項が遊牧していた。さらに西には、タタル人から逃げてきたキルギス人が、その南には故郷を失ったウイグル人が遊牧していた。
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この中で最初に力を得たのは沙陀で、五代王朝後唐(李克用)・後晋(石敬塘)・後漢(劉知遠)を建国した。また、後周・宋の建国者たちも沙陀系軍閥出であり、沙陀が大きな影響を与えている。

多くの国々には誕生神話がある。契丹も例外ではない。それによれば、昔白馬に乗った神人がラオハ=ムレンに来て、青牛にひかせた車に乗ってシラ=ムレンを下ってきた天女と、その合流点で出会い、夫婦となって8人の子を産んだ。それぞれが氏族の祖となって、八部族が生まれた。それぞれの部族はバガトールと呼ばれる首長に統率され、時に激しく争うこともあったが、そのうちに結合する意識が芽生え、八部首長の中から3年交替制で君長を選ぶようになった、とのことである。

さて、契丹国の初代の皇帝の耶律阿保機(やりつあぼき)は、契丹八部の一つである迭剌(てつら)部の出身である。当初、遙輦(ようれん)氏の痕徳菫(こんとくきん)可汗に仕え、彼が没したとき、選挙交替制のしきたりを守らずに、古式に従って自ら君長に就き(907年)、さらには中国式の天皇帝を称した(016年)。阿保機の一生は戦いに明け暮れた。部族内の内乱を鎮めたあと、北のタタル、西のウイグル、隣の沙陀などへ、大きな成果を得ることはなかったが、侵入し続けた。そして東の渤海国を滅ぼして東丹国を樹立し、長男の図欲(とつよく)を国王に据えた。契丹の皇帝を継承したのは、次男の堯骨(ぎょうこつ)であった。図欲は芸術の才に恵まれ、堯骨は戦い上手であった。東丹国は彼一代で滅したが、契丹国を継承したのは彼の子孫となった。運命の皮肉というべきである。

耶律阿保機は数々の改革を行った。一つ目は、これまでの契丹八部連合を、皇族を中心とする部族連合へと再編したことである。阿保機の妻の出身氏族は述律(じゅつりつ)氏で、ウイグル人の子孫とされた。遊牧民族では、男子は狩猟や戦闘などで家を空けることが多く、家庭を守る女性が高い地位を占めていることが多かった。契丹も例外ではなく、皇帝がなくなった後、皇后が摂政を行うことも多かった。述律氏の子孫は耶律氏の子孫と互酬的な通婚関係を結び、多くの皇后を輩出し、簫(しゅう)氏と名乗るようになった。また、再編された部族連合の中でも、后族として特別に遇された。

二つ目は親衛隊の設置である。後に斡魯朶(オルド)と呼ばれるが、阿保機は豪健二千余人を選抜し、最も信頼する一族のものに統率させた。皇帝は春・夏・秋・冬にそれぞれ決まった幕営地を移動して暮らしていた。これは捺鉢(なば)と呼ばれるが、斡魯朶を伴ってのものであった。これは皇帝の私兵とも呼ばれるもので、皇帝が入れ替わるたびに新たな斡魯朶が形成された(古い方は亡くなった皇帝の墓守などになる)。この制度は、契丹が強い軍事力を持つ源泉となった。

三つ目は二元体制である。阿保機は農耕民の漢人華北から東北に徙民(しみん)させて、農耕に従事させた。農耕の地域には城郭を築き、中国伝来の郡県制により支配した。一方遊牧民に対してはこれまで通り、契丹の制度で統治をおこなった。次の堯骨の時世に、主要な民族の中心地に五京と呼ばれる五つの城市を建設した。上京臨潢府(りんこう、契丹人)、中京大定府(奚人)、東京遼陽府(渤海遺民)、南京析津府(せきしん、漢人)、西京大同府(沙陀人)である。これに先立って後晋の建国を支援したことにより、華北の燕雲十六州を得た(図で濃い青が雲、薄い青が燕の州である)。これ以降五代の国々がこの地を奪還しようとするが、一部を奪還したに過ぎなかった。宋の王朝になったとき、契丹はこれをもう一度奪い返すために軍を送り、宋もこれに応じるものの、膠着状態となり和平交渉がもたれ、その結果が澶淵の盟である。宋を兄とし、契丹を弟とし、宋から契丹に対して年間絹20万匹・銀10万両を送ることなどが決められた。
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四つ目は、契丹文字の制定であろう。阿保機の弟の耶律迭剌がウイグル文字を参考にして考案した。その後に起きた仏教の興隆も特筆すべきことである。

以上が『契丹国』からの抜粋だが、1章で契丹の歴史が、2章で契丹の制度と社会が、3章で図欲(長じて倍と称した)について書かれている。

本を読んでいると、この部分は史料がなく不明という部分が少なからず現れる。筆者が活躍されたころは、中国との交流もなく、苦労されての研究だったろうと想像された。しかし戦前に中国で研究に携われているので、そのときに得た情報が生かされているのだろうとも想像された。いずれにしても大変にご苦労されての研究だっただろう。頭が下がる思いである。

カリフォルニアからの贈り物:オレンジケーキ

ゴールデンウィークは非常事態宣言が発令され、うんざりとする中で巣ごもりをしている人も多いことだろう。私は3月の初旬ごろに断り切れないところから原稿を頼まれた。なんとかテーマを定め、そして下調べにと10冊近くもの関連書籍を読み、構想がおぼろげながらまとまり、文字化する作業にやっとたどり着いた。連休中はこのことに追われ、好むと好まざるとにかかわらず、巣ごもりだ。

Zoomでおしゃべりをしているカリフォルニアの友人から、またレシピが送られてきた。今度のレシピは妻あてなので、彼女がメインで、私がサブになって、挑戦することとした。頂いたレシピは6人前用である。アメリカでは多くの人たちのワクチン接種が終了し、日常生活が取り戻されつつある。知人宅でもお客さんを招き始めたと聞いていたので、そのために使ったレシピを送ってくれたのだろう。このようなことは我が家ではまだかなわないので、取り敢えず量を半分にして作ってみた。

材料: カッコ内の量は送られてきたレシピのもの。
・クッキングオイルスプレイ
・バター 100g (1カップ)
・グラニュー糖 240g (1 1/4カップ)
・卵 中2個 (大3個)
・オレンジ 1個 (2個)
・薄力粉 275g(2 1/2カップ
・塩 小匙1/8 (1/4)
重曹 小匙1/8 (1/4)
・ベーキングパウダー 小匙1/4 (1/2)

・粉砂糖 3/4カップ(1 1/2カップ)
・オレンジジュース 18cc(大匙2杯と小さじ1杯)

作り方
1) オーブンを170℃で余熱を始める。
2) 型にクッキングオイルをしっかりとスプレイしておく。
3) 大きなボールにバターとグラニュー糖をハンドミキサーでミディアムスピードでふわふわになるまで混ぜる。
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4) 卵を加えてさらにかき混ぜる。
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5) 水洗いしたオレンジを、半分ぐらい皮をそぎ落とし、6等分ぐらいに切り分け、フードプロセッサーで、ピューレ状になる前の、ほぼ粒がなくなるくらいまで、細かくする。
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6) 5)のオレンジを4)のボールに加え、さらに混ぜる。
7) 薄力粉と塩と重曹とベーキングパウダーを混ぜて、6)のボールに加えて、さっくり混ぜる。
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8) 型に入れる。
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9) オーブンで40分焼く。
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10) 型をオーブンから取り出して、ひっくり返して、皿の上にのせて冷ます。
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11) 粉砂糖とオレンジジュースを小さなボールで混ぜる。
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12) ケーキの上から霧雨のように11)をかけて、糖衣をつける。
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13) 紅茶とともに頂く。
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カタチのよいケーキができ、ブランチにして美味しくいただいた。

読んでいて気がついた人も多かったことと思うが、グラニュー糖が実は半分になっていない。アメリカから送られてきたレシピとは別に、参考のためにネットで調べたレシピには240gとなっていたので、勘違いも手伝って、この量を用いたそうだ。もともとのアメリカのレシピには甘さ控えめとなっていたので、そのうたい文句のようにはなっていないが、日本のケーキ程度の甘さになっている。甘味を抑えたいときは、グラニュー糖は半分でよい。

ペリー提督から国書を受け取った井戸石見守ゆかりの町田市堂之坂公苑と東雲寺

恩田川の桜が満開になったのではと思い、出かけてみた。
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しかし余りにも人手が多いので、わき道にそれて散策していると、門構えが立派な公苑を見つけた。
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由緒正しそうな公苑で、恐る恐るのぞき込んでみると、案内の看板があった。
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そこには、井戸石見守の名前がある。先日、『ペリー提督日本遠征記』(角川ソフィア文庫)を読んだばかりだったので、この名前は記憶にあった。その部分を引用すると、

「提督と幕僚が接見の部屋に入ると、左側に座っていた二人の高官が立ち上がってお辞儀をし、提督と幕僚は右側に用意された肘かけ椅子に案内された。通訳がこの日本高官の名前と称号とを告知した。ひとりは戸田伊豆守すなわち伊豆侯戸田で、もうひとりは井戸石見守すなわち石見侯井戸〔弘道。戸田と同じく浦賀奉行〕であった。二人ともかなりの年配で、前者は五〇歳くらい、後者はそれより一〇歳から一五歳年長らしかった。戸田侯は井戸侯より風采が良く、知的な広い額や端正な親しみやすい容貌は、皺だらけで貧相で、彼より知的に劣っていそうな顔つきをした同僚の石見守と好対照をなしていた。二人とも非常に豪華な服装をしており、衣服は精巧に金銀の模様をちりばめた重々しい絹の紋織だった」と書かれている。


これは、1853年7月14日(安政2年7月26日)に、アメリカ大統領からの国書を日本側に引き渡すために、ペリー提督が久里浜(横須賀市)に上陸し、浦和奉行の戸田氏栄(うじよし)と井戸弘道(ひろみち)とに対面したときの様子である。井戸弘道の会見時の役職は浦賀奉行、ペリーとの接見を無事にこなしたことによるのだろうかその年に大目付に就任した。しかし残念なことに在職中の2年後(1855年)に亡くなっている。ペリーは、井戸がしわだらけのみすぼらしい顔で、戸田より知性がないようだと、記述している。

井戸弘道は、成瀬村・小川村(現在は町田市)に450石余りの知行地を与えられた旗本で、旗本の役職としては最高位の大目付まで出世したのだから、ペリーの見立てとは異なり、優秀な実務官僚だったのだろう。たまたま訪れたこの公苑は、井戸氏の米蔵の跡であった。

公苑にはクリスマスローズ
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ハナニラ
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そして、椿がきれいに咲いていた。
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明治になると、俸禄を失った井戸弘道の妻と子が、米蔵があったこの地に身を寄せ、明治2年に妻が亡くなり、遺体は近くの東雲寺に埋葬された。

ついでに東慶寺も訪れてみよう。なかなか立派で、
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境内にあった可愛いらしい掃除小僧と梵鐘、
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小ぶりの釈迦堂、
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そして井戸石見守の墓所へ、
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お墓(なお、弘道の菩提寺は池上の法養寺である。ここの墓は妻が亡くなった時に一緒に造られた)。右は顕彰碑、
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満開の墓地の桜並木、
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地蔵菩薩
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となりは杉山神社杉山神社はこの辺ではとても一般的で、あちらこちらにあり、家の近くにもある。
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春爛漫の一日、平日にもかかわらず、老若男女が列をなして花見を楽しんでいた。コロナ感染者は増えることはあっても減ることはないだろうと、好ましいことではないがこのように確信した。みんなのワクチン接種が済むまで、何とか持ちこたえて欲しいと寺と神社に祈って、人込みを離れた。

追:
明治39年と現在を比較できるように、この地域の地図を参考までに加えておく。今ではこの辺りは横浜線成瀬駅を中心に住宅街が広がっているが、明治末期の頃は、横浜線は走っているものの、成瀬駅はなく、恩田川に沿って田んぼが広がり、谷戸に沿ってところどころに小さな集落が展開していることが分かる。また東雲寺の西500mのところに杉山神社があるので、東雲寺と杉山神社神仏分離によって分離したのではなく、後から杉山神社が東雲寺の隣に移転してきたことが分かる。地図からは、この地に学校があったことも分かる。明治6年に「成高学舎」が東雲寺に設置され、明治13年に「成瀬学校」に、明治41年に「南尋常小学校」と改称された。現在はここより南300mのところで「南第二小学校」として伝統を引き継いでいる。
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アメリカからの要望に応えて:豚ひき肉とコーンのスープ

日本料理のレシピを紹介して欲しいとアメリカから依頼が来た。いろいろ考えた末に、我が家に伝わるスープと、アメリカ人には人気が高い鳥の照焼き、そして付け合わせの簡単サラダピクルスを送ることにした。ここで紹介するのは、最初のものだ。私が好きな料理ということで、私の母から妻に伝えられた料理である。妻に伝えられているので、作ってもらうことにし、今回は横で写真を撮るだけだ。

まずは材料だ。主役は豚ひき肉とねぎ(玉ねぎも加えるとさらに良い)とコーンの缶詰である。脇役は生姜で、ピリリとした優雅な味を醸しだしてくれ、欠かすことができない材料である。
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材料
1) 豚ひき肉:100g
2) ねぎ:1本
3) 玉ねぎ:1/4
4) 生姜:1片
5) 水:1000cc
6) マギーブイヨン:3個
7) コーン缶詰:435g
8) 塩と白コショウ:少々
9) 片栗粉またはコーンスターチ:少々

本番に入る前の下ごしらえをしておこう。
1)ねぎは小口切り、
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2)玉ねぎをみじん切り(今回は使わなかったが、味が良くなるので加えることをお勧めする)、
3)生姜はすりおろし、
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それでは、本番に移ろう。
1)鍋にサラダオイルを熱し、豚ひき肉とねぎと玉ねぎと生姜を加えて炒める。
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2)水とマギーブイヨンを加えて、沸騰させる。
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3)沸騰したら灰汁を取り除く。
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4)コーン缶を加える。
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5)塩、胡椒で味を調える。
6)片栗粉を水で溶き、とろみをつける。(ポイント:必ず沸騰したところに加え、かき混ぜながら1分加熱)
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出来上がったスープをカップに入れて、食卓へと運ぶ。
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子どもの頃から慣れ親しんだ味で、とても美味しく頂くことができた。アメリカ人の彼らにも、気に入ってもらえると嬉しいのだが、あとで感想を聞いてみることにしよう。

アメリカからの要望に応えて:鶏もも肉の照焼き

アメリカからの要望に応えての、日本料理の紹介の続きである。ブログをいろいろ調べていたら、アメリカ人に好評なのは鶏肉の照焼きであった。甘辛い醤油味が彼らの舌に会うのだろう。

春爛漫が近づいている。レシピとともに、桜の写真を添えておこう。近くの恩田川の桜だ。前にも述べたように、ここは町田市では有名な桜の名所。2kmにわたって川の両側に桜の木が植えられ、その数は400本。しかし老木になってきたために、見事さは年々弱まりつつあるが、それでもまだまだ見ごたえはある。都心は満開というのに、都下はやはり寒いのだろうか、まだ5~8分咲きである。この川は、町田市を起点に横浜市へ流れ込み、鶴見川へとつなぐる。大きな鯉が群れを成し、それと競うかのように鳥たちも群れている。今日もカモが、小さな水の段差を利用して戯れていた。
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それでは料理の説明に移ろう。材料はいたって簡単で、主役は鳥のもも肉である。調味料に特徴があって、日本料理に頻繁に使われる、醬油、酒、みりん、砂糖である。混ぜ方はそれぞれの家庭の味でということだが、今回は砂糖を除いて等量で、砂糖を1とすると、他はその1.5倍を用いた。鶏肉や焼く前に塩、胡椒した後で、片栗粉を表面に軽くまぶして、サラダオイルで焼く。いたって簡単なので、時間がない時は便利な料理だ。しかも美味しいので利用しない手はない。

材料
1)鶏もも肉:150~200g
2)調味料
・醤油:大匙1 1/2
・酒:大匙1 1/2
・みりん:大匙1 1/2
・砂糖:大匙1
3)片栗粉:少々
4)サラダオイル:少々
5)塩、黒胡椒:少々
調味料は、
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作り方
1)皮目にフォークで穴をあける。
2)一様な厚みになるように広げる。
3)肉両面に塩、胡椒を少しふる。
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4)調味料を混ぜておく。
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5)片栗粉をビニール袋に入れ、肉を入れて振りながら表面にまぶす。
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6)フライパンに油をひいて、十分に熱する。
7)鶏肉の皮を下にして強火で焼く。
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8)表面に焼き色がついたら裏返し、蓋をして、弱火で中まで火を通す。
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9)合わせておいた調味料を加え、肉にかけながら煮詰める。
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10)汁が煮詰まり、表面に照りが出たら出来上がり。
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11)食べやすいように切る。
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ということで、試してください。お酒は、辛口の日本酒が合うと思いますが、なければ、白ワインのシャルドネがあう。

アメリカからの要望に応えて:簡単サラダピクルス

日本の本格的な漬物を好むアメリカ人は少ないだろうということで、油を使わないサラダ感覚で食べられるピクルスである。

調味液は酢と砂糖を用いるが、米酢などの穀物酢が手に入らないときは、白ワインビネガーを用いるとよい。野菜は好きなもので構わないし、量も好みでよい。

材料
1)調味液
穀物酢または白ワインビネガー:大さじ5
・砂糖:大匙5
・塩:大匙1/2
2)キュウリ:1/3
3)にんじん:1/6
4)玉ねぎ:1/6
5)赤パプリカ:1/5
6)黄パプリカ:1/5
7)セロリ(茎のみ):1/6
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料理の仕方もいたって簡単。用意した酢、砂糖、塩を混ぜ合わせ、スティック状に切った野菜を漬けるだけである。
作り方
1)調味液の材料を混ぜ合わせる。
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2)野菜をスティック状に切る(4cm程度の長さ)
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3)容器(またはジップロック)に2)の野菜を入れ、1)の調味液を注いで、冷蔵庫で半日ほど漬ける。
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出来上がりはこのような感じ。
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野菜は好みに応じて、そして季節に合わせて変えるといい。ラディッシュや大根(アメリカでは入手しにくいらしい)なども美味しい。半日程度つけておくと美味しくなるが、1時間程度でも大丈夫なので、急ぎのときでも間に合う優れものである。

Quick Steak Stir-Fryに挑戦

横浜市へと流れる恩田川は、町田市側の方は2kmにわたって、400本の桜の木が植えられている。この辺が開発されたころに植栽されたので老木になっているが、まだ頑張って毎年見事なショーを繰り広げてくれる。満開の頃には桜祭りが開催されるが、今年は、昨年に引き続いて中止である。楽しみにしていた人々にとっては、寂しいことだろう。今年の桜は早く、もう咲き始めている。来週になると綺麗に咲きそろうことだろう。コガモもそれを心待ちにしているようで、大勢集まって、川面でえさをついばんでいる。
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同じころに作られた住宅街の桜の並木は、やはり老木となっていたが、倒木の危険があるということで、若い桜の木にとってかわられた。今までのソメイヨシノではなく、ピンク色が少し濃い、華やかな色合いのジンダイアケボノである。ソメイヨシノより開花時期が早いので、いま満開である。何年か経てば桜の名所として復活することだろう。
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アメリカから来たレシピの2つ目。やはりJamie Oliverの”5 Ingredients Quick and Easy”からである。タイトルにstir-fryという単語が使われているが、「(かき混ぜながら)強火ですばやくいためる」という意味である。fryは、油で炒めるあるいは揚げるという意味だが、日本語でのフライとはニュアンスが異なり、炒めるに近い。小麦粉やパン粉を使って揚げる場合には、deep-fryが正しい使い方である。

さて今日の役者は、
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オッと出遅れてしまったものがいる。また白コショウは先走りだ。黒コショウの出番である。
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主演から端役へと列挙すると、
1) ヒレステーキ肉:2x150g(頂いたレシピには4.5オンスの肉2枚)
2) アスパラガス:200g(レシピは12オンス、これは少し多すぎるのではという気もする)
3) 豆鼓醤(トウチジャン):大さじ2杯(レシピはテーブルスプーンとなっていた)
4) ニンニク:4片
5) 生姜:4㎝程度
6) 赤ワインビネガー:大さじ1杯
7) オリーブオイル:大さじ1杯
8) 塩と黒コショウ:適量

まずは下準備。アスパラガスは底の固い部分は切り落とし、2分する。
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生姜は皮むき器を利用して、薄くはぎ取る。
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にんにくは薄切り。
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肉の両面に塩と黒コショウをかける。

それでは、本番に移ろう。
フライパンにオリーブ油大さじ1杯を加え、生姜をのせ、強めの中火で炒める。
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カリカリになったところで、生姜を皿に移す。油はそのまま。
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ニンニクをフライパンに入れ、やはりカリカリに焼く。
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ニンニクも皿に移す。
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アスパラガスをフライパンに移して炒める(レシピにはさらに熱を上げてとなっていたが、IHを利用していて、フライパンは中火までとなっているので、強火にすることはできない。仕方なく熱めの中火のままで調理した。stir-fry、すなわち強火でとはならないが堪忍してください)。
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火が通ったら、肉をフライパンに移し、蓋をして片面を2分焼き、裏返しして、反対の面を1分焼く(焼き上がりはミディアムレアになる)。
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豆鼓醤を大さじ2杯、赤ワインビネガーを大さじ1杯加える。
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蓋をして1分ほど焼く。なお途中で一回ひっくり返す。そのあと、食べやすいように肉を切る。
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肉、アスパラガスを皿に盛る。
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さらにカリカリになった生姜、にんにくをのせる。
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そして食卓へ。
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豆鼓醤は、我々に馴染みのあるところでは麻婆豆腐で使われていて、黒豆を塩漬けして発酵させたもので、にんにくが加えられている。この料理を作った人のブログの中に、辛すぎたという書き込みがあったので、好みに合わせて調整するとよい。今回は大さじ2杯を用いたが、私には少しから過ぎたが、妻にはちょうど良かったようだ。ワインは昨日の残りの白を用いたが、料理がからかったので、赤ワインの方がよかった。