bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

松本の博物館・美術館を訪ねる

旅行5日目で最終日、市街の東と西にある博物館・美術館を見学の予定である。その間は5km近く離れていて、往復すると10kmになる。この距離だと公共の交通機関をうまく利用したくなる。嬉しいことに、松本市は観光客のために松本周遊バス「タウンスニーカー」を東西南北それぞれに用意している。今回は東と西のコースを利用した。

松本市の東にあがたの森公園がある。そして、そこに旧制松本高校の校舎がある。また、近くに松本市美術館もある。

西には、日本浮世絵博物館と松本市歴史の里がある。

この日、最初に訪れたのは旧制高校の一つである松本高校である。戦後80年も経っているので、旧制高校のことを知っている人は少なくなった。しかし、私が大学に入学した昭和40年(1965)には、旧制高校の名残はまだあった。旧制高校が廃止されたのは昭和25年(1950)である。当時はまだ廃止後15年しかたっていなかったので、旧制高校で教員をされた方が、新制大学の教養課程で講義を担当されていた。そして、何人かの先生から旧制高校の話を伺ったことを覚えている。旧制高校の学生は一言でいうとバンカラである。着古し擦り切れた学生服・マント・学帽・高下駄、腰に提げた手拭い、長髪など外見は粗野・野蛮に見えるが、内面は学究活動に全力を注ぐ若者たちで、喧々諤々の議論をしていた。

旧制高校は、第一高等学校のように最初に設置された8高校は、番号が校名でナンバースクールとも言われた。ナンバースクールの後に地名で呼ばれる高校が設置されるが、松本高校はそれらの中で最初に設立された一校である。それでは、建物を見ていこう。

重要文化財に指定されている本館、

同じく重要文化財に指定されている講堂、

正門から二つの建物を望む。両建物とも洋館で、左が講堂、右が本館である。

中庭、

本館に入る。復元された校長室、

教室の入口に付けられたクラス名、理科乙類は医学部・薬学部・農学部進学コースで、第一外国語がドイツ語であった。

教室の中。

松本高校だけでなく、全国の旧制高校の資料を集めた旧制高等学校記念館もあった。

学生寮の部屋。予想よりも小ぎれいなのでびっくりした。

学ぶための費用が紹介されていた。通学生比較で、当時も現在も卒業までにかかる費用が初任給の10倍ぐらいというのは偶然の一致なのだろうが面白い。

隣のあがたの森公園

次の見学場所に行く途中に松本市美術館があり、松本生まれの草間彌生の展示があった。そして、外には大きな作品が置かれていた。一群の花が「幻の華」、壁面の丸が「松本から未来へ」である。

公共交通を利用して、やっと日本浮世絵美術館についた。松本出身の紙の諸式問屋・酒井家5代が200年に渡って収集した浮世絵を展示している。その数は4万点に及び、初期の浮世絵から現在の創作版画まで網羅している。収集した経緯がホームページに紹介されていたので抜粋する。このコレクションは、酒井家6代目・酒井平助義明(1776~1842)の浮世絵収集に始まる。7代目・義好(1810~69)は寛政の頃、信州松本で有数の豪商となり、紙などを扱う問屋業の傍ら、書画骨董を愛した文化人であった。その姿は歌川広重の「百人一首鐘声抄」に描かれている。8代目・藤兵衛(1844~1911)は、明治3年、東京神田淡路町に、酒井好古堂を創設し、浮世絵の鑑定・復刻事業を行った。9代目・庄吉(1878~1942)は、雑誌「浮世絵」を刊行し、浮世絵の学問的な研究を行い、多くの研究者・鑑定家を育成した。10代目・藤吉(1915~93)は、日本国内ばかりでなく海外でも54回に及ぶ浮世絵展覧会を開催し、国際文化交流に貢献した。そして、昭和57年(1982)に博物館を設立した。

訪れたときは、「絵で読む『源氏物語』ー江戸と明治のひろがりー」が開催されていた。このとき鑑賞したのは緒形月耕(安政6年(1859)~大正9年(1920))の『源氏五十四帖』であった。その中のいくつかを載せておこう。

空蝉*1。空蝉と一夜を遂げたと思った源氏が、そうでないことを知った。目の前にある空蝉の薄衣を恨めしげに眺めている場面だろう。作品中の和歌は「うつせみの 身をかへてける 木のもとに なほ人がらの なつかしきかな」である*2

明石*3。源氏が都に戻る場面で、残してきた明石の御方を振り返り、名残を惜しんでいるところだろう。作品中の和歌は「秋の夜の つきげのこまよ わがこふる 雲ゐをかけれ 時のまも見ん」である*4

柏木*5。親友の柏木を失った夕霧が、未亡人となった落ち葉の宮を訪問している場面だろうか。作品中の和歌は「いまはとて もえんけふりも むすほほれ たえぬおもひの なをやのこらん」である*6

最後に隣の松本市歴史の里を訪れる。

朝ドラ「虎に翼」で法曹界の話題が頻繁に紹介されるので、旧松本区裁判所庁舎にも親しみを感じる。この庁舎は明治41年(1908)、松本城二の丸御殿跡に建てられた。明治後期の区裁判所庁舎の典型的な特徴を示し、全国で数多く建てられた和風の裁判所建築のうち、最も完成度が高く、歴史的価値があるものとして、国の重要文化財に指定されている。


庁舎の内部も見学した。法廷の復元、

捕物道具が展示してあった。

旧松本少年刑務所。昭和28年(1953)に建てられ、平成2年(1990)まで使用された独居房棟の一部である。創建当初の板張りの部屋と昭和50年代に改善された畳式の部屋を復元している。

工女宿宝来屋。江戸時代後期、松本と飛騨高山を結ぶ野麦街道沿いの集落・旧奈川村川浦に旅人宿として建てられた。明治から大正にかけては、飛騨地方から諏訪・岡谷の製糸工場へ向かう工女たちが大勢宿泊した。山里の民家としての暮らしもうかがえる。

野麦峠には工女の碑が建てられた。映画『あゝ野麦峠』では、大竹しのぶさんが主役を演じていた。主人公のみねは、過酷な職場環境の中で働かされて結核になり、兄の背中に背負われて故郷へと帰っていく場面を覚えている人は多いだろう。

旧昭和興業製糸場。平成7年(1995)まで操業していた蚕の繭から生糸を取り出す製糸工業である。座繰製糸で使用された設備・機械類も含めて移築された。

糸繰り機。

木下尚江生家。江戸時代後期に建てられた下級武士の住宅である。社会運動家木下尚江は、明治2年(1869)この家に生まれ、新聞記者・弁護士・小説家として活動しながら、普通選挙の実現など社会改革を目指して活躍した。

今回の旅行はこれで完了した。松本から東京への帰りは久しぶりの在来線特急である。かつて「あずさ2号」という歌が流行った。しかし、現在の時刻表を調べると、あずさ2号という列車は存在しない。以前とは異なり、偶数番号の列車は松本発に代わっていてあずさ4号から始まっている。2号はどこへ行ってしまったのだろう。

列車も変わっていた。少し前までは振り子式で、曲線の多い中央東線でも最高速度130km/hで走行できると自慢していた。しかし現在は新しい方式の車体傾斜装置である。古い方式のE351系では5度傾いたが、新しい方式のE353系では1.5度の傾きである。傾く角度が随分と小さくなっている。また、古いほうはカーブに入ってから傾いたが、新しいほうは手前から準備を始めるので、カーブでの動きがスムーズである。このような改良もあって、揺れの少ない列車となった(最高速度は変わっていない)。そのおかげで帰りの列車の中では長い時間読書を楽しむことができた。

来年も同級会をしたいと言っていたので、同じように前後に旅行を組み込もうと思う。時間をかけて最も良い場所を選べればと今から狙っている。

*1:ウィキペディアより光源氏17歳夏の話。空蝉を忘れられない源氏は、彼女のつれないあしらいにも却って思いが募り、再び紀伊守邸へ忍んで行った。そこで継娘(軒端荻)と碁を打ち合う空蝉の姿を覗き見し、決して美女ではないもののたしなみ深い空蝉をやはり魅力的だと改めて心惹かれる。源氏の訪れを察した空蝉は、薄衣一枚を脱ぎ捨てて逃げ去り、心ならずも後に残された軒端荻と契った源氏はその薄衣を代わりに持ち帰った。源氏は女の抜け殻のような衣にことよせて空蝉へ歌を送り、空蝉も源氏の愛を受けられない己の境遇のつたなさを密かに嘆いた。

*2:現代語訳:蝉が脱皮した後に残された殻に、憎くはあるがやはりあなたを懐かしく思う

*3:ウィキペディアより:連日のように続く、豪風雨。源氏一行は眠れぬ日々を過ごしていた。ある晩、二条院から紫の上の使いが訪れ、紫の上からの文を読んだ源氏は都でもこの豪風雨が発生している事を知る。この悪天候のため、厄除けの仁王会が開催されることになり、都での政事は中止されていることが使いの口から明らかにされた。源氏らは都に残してきた家族を案ずる。嵐が鎮まるよう、源氏と供人らは住吉の神に祈ったが、ついには落雷で邸が火事に見舞われた。嵐が収まった明け方、源氏の夢に故桐壺帝が現れ、住吉の神の導きに従い須磨を離れるように告げる。その予言どおり、翌朝明石入道が迎えの舟に乗って現れ、源氏一行は明石へと移った。入道は源氏を邸に迎えて手厚くもてなし、かねて都の貴人と娶わせようと考えていた一人娘(明石の御方)を、この機会に源氏に差し出そうとする。当の娘は身分違いすぎると気が進まなかったが、源氏は娘と文のやり取りを交わすうちにその教養の深さや人柄に惹かれ、ついに八月自ら娘のもとを訪れて契りを交わした。この事を源氏は都で留守を預かる紫の上に文で伝え、紫の上は源氏の浮気をなじる内容の文を送る。紫の上の怒りが堪えた源氏はその後、明石の御方への通いが間遠になり明石入道一家は、やきもきする。一方、都では先年太政大臣(元右大臣)が亡くなり、弘徽殿大后も病に臥せっていた。自らも夢で桐壺帝に叱責され重い眼病を患い、東宮(冷泉帝)への譲位を考えた朱雀帝は、母后の反対を押し切り源氏の召還を決意した。晴れて許された源氏は都へ戻ることになったが、その頃既に明石の御方は源氏の子を身ごもっており、別れを嘆く明石の御方に源氏はいつか必ず都へ迎えることを約束するのだった。帰京した源氏は権大納言に昇進。供人らも元の官位に復帰する。源氏は朱雀帝や藤壺の宮の元に参内し、親しく語り合うのであった。

*4:現代語訳:秋の夜に、月毛の馬よ、私が恋い慕っている空を駆けてくれ、ほんのつかの間でも恋しい人の姿を見たいと思う。

*5:ウィキペディアより光源氏(六条院)の48歳一月から四月までの話。病床に伏した柏木はこれまでと覚悟し、女三宮に文を送る。小侍従にせかされて女三宮もしかたなく返事を書き、柏木は涙にむせんだ。その後女三宮は無事男子(薫)を出産したもののすっかり弱り切り、心配して密かに訪れた朱雀院に出家を願った。傍らで見守っていた源氏(六条院)も今さらながら慌てて引き留めようとしたが、女三宮の決意は固く、当の女三宮からは源氏(六条院)の仕打ちを恨んでいた事を態度で示され、その宵のうちに朱雀院の手で髪を下ろしてしまった。朱雀院は「いずれ山奥の寺へと移す事になると思うが、そうなっても宮の事は見捨てないように」と源氏(六条院)に釘を刺し、自身が住む寺へと帰って行った。女三宮の出家を知った柏木は絶望、両親や兄弟たちに後のことを託し、離れ離れの妻落葉の宮も涙に暮れる。柏木の病状を哀れんだ今上帝は柏木を元気付けるために権大納言の位を贈った。彼の昇進を祝い、致仕の大臣邸には多数の人が詰め掛けていた。夕霧が心配して見舞いにやってくると、柏木はそれとなく源氏(六条院)の不興を買ったことを告げて、夕霧からとりなしてほしいと頼んだ。兄弟たちも皆悲しむ中で柏木はとうとう死去、とりわけ両親の嘆きは激しく、伝え聞いた女三宮も憐れに思って泣いた。三月に薫の五十日の祝いが催され、薫を抱き上げた源氏(六条院)はその容姿の美しさに柏木の面影を見て、さすがに怒りも失せ涙した。一方夕霧は事の真相を気にしながら、柏木の遺言を守って未亡人となった落葉の宮の元へ訪問を重ね、そのゆかしい暮らしぶりに次第に心惹かれていった。

*6:現代語訳:今となれば燃える荼毘の煙も解けなくなるほどにからみついて、絶えることのないあなたへの思いがなおもこの世に残るでしょう。

松本市内の博物館・歴史的建造物を見学する

4日目は松本城の見学だけではない。その周辺にある博物館や歴史的建造物も訪れた。それは下図のとおりである。

松本駅から松本城へ向かうときに伊勢町通りを利用した。道に沿って人工的な小川があるのを見つけ、巧みに水を流している仕組みに感心した。道の角では水が地中に誘導され、道の反対側で再び地上に現れる。歩道にさわやかな水の流れを造り、周りに緑を呼び込んでいる。最初は雪を除去するためと思ったが、松本は雪国ではないので、豊かな歩道を作り出すための策だと理解した。

中町通り。門前町・長野へと向かう善光寺街道は重要な交通路であった。町人地の中心であった中町通りには、江戸から大正にかけて蔵造りの家が道に沿って並んでいた。今もその景観の維持に努めている。

縄手通り。蔵の並びを楽しんだ後、女鳥羽川を渡って縄手通りに出た。昔は露天のような店が並んでいたが、平成13年(2001)に現在のような長屋風の店舗に生まれ変わった。


女鳥羽川には清流にしか生息しないカジカガエルが生存していたが、現在はその姿を見ることはできない。しかし、その復活と街おこしをかけて、縄手通りを「カエルの街」と呼び、通りの中程に「カエル大明神」を奉っている。

四柱神社天之御中主神高皇産霊神神皇産霊神天照大神を祭神とし、4柱の神を祀っていることに名称は由来する。

Harmonie Bien。昭和12年(1937)に、日本勧業銀行松本支店として建設された歴史的建造物である。

この後、松本市立博物館を見学した。令和5年(2023)年10月7日に移転開館した。1年も経っていない新しい博物館である。それでは館内を見ていこう。

おおきな城下町のジオラマにまず気が付いた。松本城の内堀、外堀に囲まれた様子が良く分かる。なお、分かりにくいが手前が一番外側にある総堀である。天守の奥が本丸、さらにその奥の内堀と外堀に挟まれたところが二の丸である。外堀の右側は三の丸で大名町と呼ばれ、武士地であった。

江戸時代は、善光寺街道が南北に走っていた。この街道に沿って城下町が形成され、南北に長い街並みとなった。総堀の南側は町人地であった(縄手通りのところで女鳥羽川を説明したがその場所、上図では三の丸のさらに右で写真の外、下図では手前)。城下町のジオラマを南側から城を望む。街道沿いに旅籠や店が並んでいる。

北側から見る。こちらは武家地であった。そして、城下町の外れ、下の写真の左隅に寺院が置かれた。

戦国時代も終わり、江戸時代になると甲冑は無用の長物となったが、武士にとっては貴重な装備で大切に保管されていた。たくさんの甲冑が展示されていた。そのすべてを見ていこう。
松崎金左衛門所用の甲冑、

戸田家専属医師・堀内家の甲冑、

軍使・青沼家の甲冑、

弓の名手・木村家の甲冑、

作事奉行から諸士に昇進した宮川家の甲冑、

戦場で使われた石川家の甲冑。

幕末になると藩での教育が盛んとなり、松本藩も例外ではない。藩校「崇教館」で用いられた教科書、

和田峠の戦いで家臣が着ていた生々しい胴着。元治元年(1864)に、水戸藩尊攘激派の天狗党が乱を起こして京都に向かったとき、松本藩は幕府から天狗党の討伐を命じられる。松本藩は中山道和田峠天狗党を迎え討つが負けてしまう。*1

福島安定所用の正装。明治維新のあと、松本藩の家臣とその子供たちはそれぞれの道を歩むことになる。徒士・福島家の長男として生まれた福島安正もその一人である。彼は江戸で英語を学んだ後、英語教員・司法省翻訳課などを経て陸軍省に入り、明治25年(1892)にはシベリア単騎横断を成し遂げ、大正3年(1914)には陸軍大臣となった。

歴史に関するコーナーは終了してここからは民俗である。

初市の宝船と七福神人形。宝船は、初市の神輿行列の際に本町5丁目の練り物として江戸時代後期に造営された。幕末の火災で焼失したが、明治時代中期に再建され、その大きさは全長5m、高さ4m、幅2mである。宝船と七福神人形は、平成5年(1993)に松本市立博物館に寄贈された。

石造道祖神。道端に佇む道祖神は松本を象徴する風景として知られ、市内だけでも700を超える。もともとは農村部の境に祀られ、外から悪いものが入らないようにする神であった。その後、豊作や商売繁盛、縁結びなど多様な願いが込められるようになった。形も多様化したようである。

蒸気ポンプ消防車。大正2年(1913)に1341軒被災の大火災が松本で発生した。その時の反省から蒸気ポンプ消防車が配備された。今までの手押しポンプとは比較にならないほどの放水力で人々を驚かせた。

博物館を後にして、松本城を超え北の方へと進む。総堀があったであろう所を超えると神社に出会った。

松本神社。前進は暘谷(ようこく)大明神で、後に今宮八幡宮、片宮八幡宮、共武大神社、淑慎大神社と合祀され、松本神社となった。松本城主ゆかりの神社でもある。

明治9年に完成した国宝の旧開智学校。地元の大工棟梁立石清重が設計、文明開化の時代を象徴する洋風とも和風ともいえない不思議な建築で、「擬洋風建築」と呼ばれた。訪れた時は、耐震工事のため一部しか見ることができなかった。

当時の授業風景を復元(旧司祭館で展示)、

伝統を受け継ぐ現在の開智小学校、

旧司祭館。ここは明治22年(1889)にフランス人神父・クレマンによって建築された西洋館である。外壁の下見板張りは遠くアメリカ開拓時代の船大工の技法を残し、アーリー・アメリカン様式の特徴を備えた貴重なものである。

部屋には暖炉もあった。

セスラン神父の和仏大辞典。セスラン神父が明治34年(1901)から27年の歳月を費やし、日本で初の本格的な日仏辞典『和仏大辞典』を編さんした。彼は松本教区の主任司祭として明治34年(1901)~大正3年(1914)に松本に滞在し、第一次世界大戦で動員されたあと、再び大正6年(1917)~昭和3年(1928)に松本に滞在した。

高橋家住宅。松本藩が藩士の住まいとして所有していた官舎で、建築年代は17世紀前半から享保11年(1726)までの間と推定されている。昭和44年(1969)に松本市重要文化財に指定され、古文書をもとに幕末から明治時代初めのころの姿に復元修理された。残念なことにこの日は休館で中を見ることができなかった。

この日は月曜日だった。日本中の多くの博物館は月曜日を休館にしている。反対に私の旅行は、ボランティア活動の関係から月曜日を含むことが多い。日程を組む時、月曜日の見学場所は詳しく調べておかないとしっぺ返しを食らう。今回の旅行では、松本市立博物館は月曜日が定休と勝手に思い込んでいて、火曜日の見学を予定していた。

松本城を見学するときに、博物館前で開館中という掲示があった。変だなと思って確認すると、火曜日休館となっている。急遽、予定を変更したが、もし気づかなかったらがっかりした事だろう。特に、城下町のジオラマは見応えがあったので後悔したはずである。幸運も伴い、歴史的建造物に富む美しい松本の街を楽しむことができよい一日であった。

*1:旺文社日本史事典によると天狗党の乱は次のように説明されている。徳川斉昭 (なりあき) の時代から水戸藩内の党争が激化し、尊攘派天狗党と称して保守派の諸生党と対立していた。文久3年(1863)の政変で尊王攘夷運動が挫折すると、翌年、天狗党首領藤田小四郎らは筑波山に挙兵、一時勢力を得たが、幕府の追討軍に敗北した。さらに武田耕雲斎を主将に西上したが加賀藩に降伏、幕命により藤田・武田らが処刑された。

国宝・松本城を見学する

旅行4日目。この日の第一の目的は国宝の松本城を見学することである。同級会でクラスメートに、2年生の遠足で松本城へ行ったでしょうと尋ねてみたら、覚えている人はいなかった。この記事を書くにあたって、誰も知らなかったので不安になり、手元にあった卒業論文集を調べてみた。当時は、ワープロなどはもちろん存在せず、ガリ版刷りだったので、製作はとても大変だったことだろう。何人かの人で手分けして作成したのだろう、100ページにも及ぶ思い出を残してくれていた。卒業もしていないのに、私の作文も含まれていてとても感謝している。そのなかに、私自身が松本の遠足について書いているのを発見してびっくりである。当時の私は文章を書くことが大嫌いで、作文の宿題が出ると、400字詰の原稿用紙が早く埋まってほしいと願いながら鉛筆を転がしていた。文章を読み返してみるとそれがはっきりと読み取れる。冒頭こそまともに始まっているものの、後半になるとがぜんやる気がなくなり文章がだれている。この文集は中学校の図書館にまだ残されているのだろうか。もしそうだとするととても恥ずかしいので、人目につかない奥の方にしまい込んで欲しいものである。

前置きはこのくらいにして、松本城の説明に移ろう。この城は天守閣が現在まで残されているものの一つで、姫路城、彦根城犬山城松江城とともに国宝に指定されている。観光案内の本などに、カラス城と紹介しているものがある。城の外壁面を覆っている板が黒い漆で塗られていることで黒が際立ち、このため黒い城すなわちカラス城と呼ぶ人がいるようだが、文献上ではカラス城という記述はない。一般には、烏城は岡山城である。

しかし、黒が印象に残ることは確かである。天守閣の各階の壁は、上部が白で下部が黒と際立った対照を見せている。上の部分が白漆喰仕上げであるのに対し、下の方は黒漆塗の下見板である。白漆喰で全面を塗ると雨に対して弱く、崩れることもあると考えたようで、雨が当たる下の部分に黒漆を塗ることで耐久度を高めたとのことである。次の写真が松本城である。

松本城の特徴をつかむために、この春訪れた岡山城と比べてみよう。下の写真の岡山城は上部の物見やぐらが下部の建物の上にのっており、その望楼を誇示しているように見える。そして、下部の構造は入母屋造りである*1

次に同じ時期に見学した弘前城と比較してみよう。望楼がそのまま地上に降りてきたようである。天守の下部を作っていないように見える。経費節減で高さを抑えて、望楼の部分だけ作ったのだろうと言われそうである。

しかし、そうでない例もある。ウィキペディアで紹介されている島原城は、高さがあるにもかかわらず、同じ形式が繰り返されている。

実は、天守には二つのタイプがあって、岡山城のような天守を望楼型天守と呼び、島原城のようなものを層塔型天守という。望楼型天守は初期の天守に多く見られる構造で、例えば、織田信長安土城もそうであったと言われている。その後に現れる層塔型天守は同じ形の建物を規則的に小さくしながら積み上げていく。これにより、効率的に巨大な天守が建造できるようになった。徳川将軍家は、層塔型天守江戸城大阪城名古屋城を次々と築き上げ、その権力を見せつけた。

松本城天守は、島原城のそれに似ており、層塔型天守である。しかし、内部を調べると構造は複雑である。2重目の屋根は望楼を支えているが、その内部は望楼を支えるために入母屋造りの構造になっている。2階屋根部分に3階が隠されていて、3重屋根の下に見えるのは実は4階である。このため、この天守は5重6階の建物である。望楼型から層塔型へと移行するときの貴重な建造物である。

松本市立博物館には、天守の構造を示す模型があるが、残念ながら他へ貸し出されていたため見ることができなかった。代わりに展示されていた写真をよく見ると、3・4階の部分が複雑に作られていることがわかる。

松本城の江戸時代の歴史をウィキペディアから抜粋すると次のようになる。

戦国時代の永正年間(1504-1520)に、信濃守護家小笠原氏が林城を築城し、その支城として深志城が築城されたのが始まりとされている。天文年間には甲斐国・武田氏が信濃侵攻を開始し、天文19年(1550)に林城・深志城を落とし、信濃守護・小笠原長時を追放した。そして、林城を破却して松本盆地支配下に置いた。その後、武田氏は信濃小県郡村上義清越後国長尾景虎と争い、その結果、信濃一帯を領国化した。しかし、天正10年(1582)、甲州征伐で武田氏が滅亡し、織田信長により木曾義昌に深志城は安堵されたが、本能寺の変後、小笠原旧臣の助力を得て小笠原洞雪斎が奪還し、さらに徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し松本城と改名した。天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ、当時の松本城小笠原秀政下総国古河へ移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行った。

関ケ原の合戦の後、家康が江戸幕府を創始した。そして、家康晩年の大久保長安事件で石川康長は改易となり、小笠原秀政が再び入城した。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などが松本城を松本藩・藩庁とした。城の主が頻繁に入れ替わったが、水野家の後は収まり、松平康長に始まる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。享保12年(1727)年には本丸御殿が焼失、以後の政務は二の丸で執られた。

明治5年(1872)に天守は競売にかけられたが、市川量造らの尽力によって買い戻された。明治9年(1876年)に二ノ丸御殿が全焼し、跡地には松本地方裁判所が建った。明治30年代頃より天守が大きく傾いたので、明治末から大正初頭にかけて明治の大修理が行われた。昭和5年(1930) 国の史跡に指定され、昭和11年(1936)には天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓の5棟が国宝に指定された。終戦から少し経った後、昭和の大修理がおこなわれ、現在に至っている。

それでは松本城を見学しよう。入口付近。

堀との対比が素晴らしい松本城

チケットの券売所、奥の建物が黒門、

黒門の正面、

黒門の裏側、たくさんの修学旅行の生徒と出会った。

正面からの松本城、左側下から月見櫓、その上が辰巳附櫓、中央が大天守、その横が渡櫓、右端が乾小天守である。戦国時代末期に戦略的な拠点として右側の3建物が、江戸時代初期の平和な時代に左の2建物が建造された。

天守1階部分、

途中の階では当時の鉄砲などが展示されていた。



天守最上階からの東側の眺め、手前の芝生が本丸御殿跡、売店の奥にわずかに見える芝生が二の丸御殿跡、さらに右奥の建物は松本市役所である。

南側、松本駅の方向になる。

西側、

北側、旧開智学校の塔がわずかに見える。

最上階の天井。

天守を見学した後、堀沿いに歩いた。埋の橋からの松本城、ここからの写真が最も良い。左が乾小天守、右が大天守、中央が渡櫓である。

太鼓門、工事中で作業の道具も置いてあった。

黒門を堀側から見る、

最後のワンショット、

中学生の時に松本城を見た時の印象はないに等しい。しかし、作文には城の中では急な階段を登ったと記述されている。今回も同じ思いが強い。城の中はかなりの混雑で、上の方の階段に行くほど急になると共にステップが広くなり、一段一段登るのに相当の時間がかかるようになる。さらに混雑がひどくなり、階段の前は人で埋め尽くされる。また、足に纏わりつくズボンやスカートだと、登ったり降ったりするときに次のステップに足がなかなか届かず往生する。階段の下のほうだったので良かったのだが、降りる人がステップを踏み外して滑り落ちた。もし上の方で同じことが起きたら怪我人が出たであろう。これほど急な天守は他にないそうなので、経験した後は話の種にはなるが、くれぐれも気をつけた方がよい。

帰宅してから写真をまとめてみると、現地で見ていた時よりもさらに美しい城だと感じる。そして、再び訪れるチャンスがあることを望んでいる。

最後に松本城を紹介しているブログからの案内図を載せておく。

*1:屋根の造り方には、①寄棟造:四方に屋根を葺き下ろした構造、②切妻造:屋根頂部の平らな部分である大棟から二方向に下ろす構造、③入母屋造:上部が切妻屋根の形で下部が寄棟屋根の形をした構造で、格式高い屋根とされている、④方形造:正四角錐形の構造(寺院建築)がある。

北信で高野辰之記念館・中山晋平記念館を訪ねる

旅行3日目。中学時代のクラスメートと小学唱歌で知られる高野辰之と童謡・新民謡で知られる中山晋平の記念館を訪ねた。クラスメートの中に音楽好きの人がいて、訪れた方が良いというので、それではということになった。高野辰之記念館は、飯山と中野の2か所にあるが、前者は終焉の地で、後者は生誕地である。今回訪れたのは前者の方で、野沢温泉村にある。中山晋平記念館も二つあり、生誕地の長野県中野市と別荘のあった静岡県熱海市にある。訪問したのはもちろん前者である。二つの記念館を地図で示すと以下のようである。新潟との県境に近く、長野県の北信と言われる地域である。

最初に訪れたのは高野辰之記念・おぼろ月夜の館である。中野市のホームページから抜粋すると高野さんは次のような方である。

彼は、明治9年(1876)、長野県水内郡永江村(現中野市)に生まれた。厳しい父のもとで躾けられた辰之は、農業の手伝いをするかたわら、土蔵に隠れて本をむさぼり読むという向学の志にあふれた少年だった。高等小学校を卒業後、母校の永田尋常小学校の代用教員を務め、その3年後には長野県尋常師範学校(現信州大学教育学部)に入学した。26歳の時、上田万年文学博士(円地文子の父)を頼って上京した。博士のもとで国語、国文学の研究に没頭し、やがて「文部省国語教科書編纂委員」に選ばれて、国文学者としての地歩を固めた。国が初めて発行した国定音楽教科書「尋常小学唱歌」を編纂する一方で、「故郷」「朧月夜」「春の小川」「春が来た」「紅葉」などの文部省唱歌、全国の校歌や中山晋平作曲の「飯山小唄」などを作詞した。明治後期からは、「日本歌謡史」「江戸文学史」「日本演劇史」を次々と書き上げ、これらは高野辰之の三大著作として近代の国文学に大きな功績を残した。大正14年(1925)に東京帝国大学から文学博士の学位を、昭和3年(1928)には帝国学士院賞を授与された。

建物の正面、

側面、

高野辰之さんの胸像、

記念館の展示を館長自ら説明してくれた。熱心に聞いていたので写真を撮る暇はなかったが、話が終わって帰るときに、印象に残ったものを撮影した。

一つは高野さんの学位論文『日本歌謡史』である。これにより東京帝国大学文学部より文学博士の学位を授与された。

残りの一つは東京・代々木山谷にあった書庫・斑山(はんざん)文庫である。戦災で住宅は焼けてしまったが、斑山文庫は免れ、その後ここに移築された。

次は中山晋平記念館である。同様に中野氏のホームページから抜粋する。

彼は、明治20年(1887)年、長野県下高井郡新野村(現在中野市大字新野)に生まれた。明治38年(1905)、ふるさとを後にして東京へ旅立った。島村抱月の書生となり、東京音楽学校予科に入学し、明治45年(1912)に卒業した。大正3年(1914)に「カチューシャの唄」を作曲し、松井須磨子が歌い大ヒットした。晋平は、5歳年上の詩人・野口雨情と出会い、雨情の新しい童謡・民謡の創作に対する情熱に刺激を受けた。新民謡の作曲活動は、大正12年(1923)の「須坂小唄」に端を発したが、昭和になると全国各地から作曲依頼が急増した。ふるさとのために作った昭和2年の「中野小唄」もその一つであった。さらに、晋平は、雑誌「金の星」に「證城寺の狸囃子」、雑誌「コドモノクニ」には「あの町この町」「毬と殿様」などを発表した。昭和27年(1952)に亡くなる。歌謡曲・童謡・新民謡・社歌・校歌などさまざまな分野の名作を残した。

記念館の入口、

周囲はバラがきれいだった。

中山晋平銅像

館内にはいって見学、説明を受けながら、晋平の歌を合唱したりした。館内は撮影禁止だった。

この後、小布施の竹風堂で栗おこわを食べ、長野駅まで送ってもらった。お互いに元気でいて、来年のこの時期にまた会おうと約束して、次の訪問地の松本へと向かった。

十日町市博物館であまたの国宝土器を鑑賞する

さて、今回の旅行の本命中の本命、国宝土器の見学である。縄文時代の遺品で国宝に指定されているものはそれほど多くなく、土偶5体とここ笹山遺跡出土の深鉢形土器だけである。土偶は個体ごとの指定である。しかし、深鉢形土器は笹山遺跡で発掘された土器類のセットで、これには火焔型土器を含む土器・土製品、石器・石製品、ベンガラ塊が含まれ、全部で928点である。国宝に指定されたのは平成11年(1999年)である。指定土器は、火焔型土器14点、王冠型土器3点、これらを含む深鉢形土器57点であった。さらに浅鉢形土器4点も加わる。これらはすべてを博物館のホームページで見ることができる。今年の夏は、さらに嬉しいことに、実物をすべて見ることができる企画展が開催されている。とはいっても前期と後期に分かれているので、それぞれでは半分しか見ることができない。それでも国宝をこれだけたくさん見られるという機会はそうそうあるものではない。

それでは見ていくことにしよう。まずは単独でガラスケースに収められていた火焔型土器である。見事な作品で、頭部の焔が壮大、胴体の上部・中部の渦巻き状の幾何学模様も美しい。下部はすっきり控えめで、頭部に輝きを与えている。

3点とも火焔型土器である。いずれも頭部の焔は大きな造形で芸術的である。上部・中部は右の2点は似た模様で、左は少し工夫を凝らしている。下部のつくりは同じように控えめの縦模様である。

左から火焔型土器、王冠型土器、深鉢形土器である。火焔型土器は、先のものと同じような傾向である。これに対して王冠型土器は頭部が簡素化され、胴体部分が賑やかである。深鉢形土器は、火焔型・王冠型土器を作成する前の学習段階の作品のように見える。

いずれも深鉢形土器である。左の二つは頭部への工夫が感じられ、右は胴体上部に複雑な模様が描かれている。

いずれも深鉢形土器で、今まで見てきたのから比較すると素朴な感じで、実用に徹したのではと思える。

やはり深鉢形土器である。左右の2点は前と同じように素朴な感じを受けるが、中央はこだわりの作品で、胴体の曲線と凸部に工夫がみられる。

これらも深鉢形土器である。左側は実用に徹したのだろうか、それに対して右の2点は頭部に注目し始めているように見える。

深鉢形土器である。頭部に工夫をこらし始めている。

左は深鉢形土器で、首の部分が閉まっているのが特徴である。右の二つは浅鉢形土器で、実用的な道具なのだろう。

これらの土器を比較すると、火焔型土器のユニークさが際立つ。縄文時代の美の極致とも思える。これらを見ていると、レビ・ストロースさんの『野生の思考』を思い出す*1。古代の人々は我々現代人に劣らない思考を有していたとレビ・ストロースさんは主張している。文明の発展は近代科学によってもたらされたと我々は考えがちだが、古代の人々は「具体の科学」によって我々に劣らない文化を築いたとレビ・ストロースさんは言う。

彼らの思考法は、身近にあるものを感覚的に抽象化し、それを別の物に具体化していく思考法である。例えば、雨が降ると水たまりができる。これから凹んだところには水をためることができると感覚的に抽象化する。また、ぬかるみの泥は乾くと固くなるということを感覚的に抽象化し、土の塑性を利用して様々な形のものをつくれることも理解したであろう。この二つを組み合わせて、土を用いて水をためるような容器の具体化を試みたことだろう。失敗の連続だったかもしれないが、土に熱を加えることでさらに硬い容器が得られることを知って、さらに具体化をしたことだろう。また、花びらを見てそこに幾何学的な連続性を見て、感覚的な抽象化をして、それを土器に具体化してみるということもしたであろう。このような思考法は、生活のあらゆる面で活用されていたとレビ・ストロースさんは見ている。さらに、万物の黎明を表したデヴィッド・グレーバーさんとデヴィッド・ウェングロウさんは、土器や土偶の実現は女性の力であることを強調している。原始以来ずっと男性優位な社会であったと考えられがちだが、原始の時代には女性によって文化が築かれていることを強調している。

少し哲学的なことを考えながら火焔型土器の見学を楽しみ、色々と収穫が多かったと感じて、中学時代のクラスメートが待つ飯山線豊野駅へ向かった。飯山線は、長岡と長野を結び*2信濃川千曲川に沿って山間部を走る風光明媚な路線である。十日町駅からの列車、

この辺は魚沼産コシヒカリで有名な場所である。

前の日の雨で増水した信濃川、長野県側に入ると千曲川と呼ばれる。

夕方から始まった同級会。個人的に話していたときは、話題もそれなりにあって楽しんでいたのだが、全員になったとたん疎外感を味わった。それもそのはずで、私との付き合いは2年しかないが、彼らは幼いころからずっと今日までの付き合いである。出てくる話題もローカルで、しかも、どれだけ詳しく知っているかを競っている。民俗学者宮本常一さん*3が地域の人の話題を聞いているのと似ていると感じ、宮本さんと同じ立場で彼らの話を聞くようにしたら意外と楽しめた。さらにこの術を磨くと、昔の人々の世界にも飛び込めるのではと思ったりもして、一日を楽しんだ。

*1:平凡社『改訂新版 世界大百科事典』より「野生の思考」の項目を抜粋すると、「フランスの人類学者レビ・ストロースの著作。1962年に公刊されると,たちまち多くの論議を呼び,現代西欧思想史の画期となった〈構造主義〉の時代の幕明けとなった。本書で彼は、トーテミズムなどにみられる未開人の心性と思考を、近代科学的思考と異なる非合理的なものとみる旧来の偏見を批判し、豊富な民族誌的資料と明晰な構造論的方法によって、それが〈野蛮人の思考〉ではなく、〈栽培思考〉(文明化した思考)に対する〈野生の思考〉であって、それ自体精緻な感性的表現による自然の体系的理解の仕方であり、〈具体の科学〉であることを明らかにした。それは、西欧の自己中心主義的認識原理と歴史観の批判・反省を喚起し、サルトル哲学の批判を含む60年代の西欧思想の転換に決定的な影響を与えた。またレビ・ストロース自身にとっても、本書はより本源的な神話的思考の探求の序章となった」と書かれている。

*2:正確には、飯山線越後川口と豊野間である。

*3:山川・日本史小辞典には次のように紹介されている。宮本常一(1907~1981)は昭和期の民俗学者山口県出身。大阪にでて、小学校教員のかたわら民俗学の道に入る。1954年(昭和29)上京、渋沢敬三のアチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)に入り、全国各地への旅を続ける。柳田国男民俗学とは一線を画し、非農業民を含めた常民文化の特質を追究した。とくに海からの視点をもち、離島振興に努めた。膨大な旅と、郷里で体験した生活記録を背景に、「忘れられた日本人」「家郷の訓(おしえ)」など数多くの著作をまとめた。奇遇だが、NHKの『100分de名著』で今月紹介されていることをこの記事を書いた後に知った。

国宝満載の十日町市博物館・常設館を訪れる

旅行に出て2日目。この日は忙しい。同級会があるホテルまで移動しなければならないが、途中、十日町市によって火焔型土器を見学しようと思っている。馬高遺跡のものは重要文化財であったが、ここは国宝である。新潟県で唯一国宝に指定されているのは、笹山遺跡から発掘された火焔型土器などを含む深鉢形土器57点で、これらは十日町市博物館に収納されている。

そして、運のよいことにこの日から夏季企画展『すべて見せます!国宝の土器』が開催されている。前期・後期の二回に分けての展示なので、全部というわけにはいかないが、半分は見ることができる。これほど恵まれたチャンスはそうそうないので夢膨らませて、早朝から行動を開始した。長岡駅7:28分発の飯山線戸狩野沢温泉行きの列車に乗り、十日町駅で降りる。この間、1時間足らずの乗車であった。信濃川に沿って形成された狭隘な平地を縫うように列車は進むので、車窓からの風景を楽しむことができる。

朝早い十日町駅。人影はまばら、右側にあるモニュメントは、おそらく火焔型土器だと思われるがどうだろう。

この辺りは豪雪地帯、冬場の除雪車が車庫で次の冬に備えて早々と待機していた。

車窓から見た家々はどの家も土台の部分をとても高くし、1階の部分が2階の高さになっている。積雪は雪の多い年だと2~3mにもなる。

開館前に到着したので、のんびりと周囲の写真を撮影する。これから見学しようとしている十日町市博物館、

博物館の前に飾ってある火焔土器

近代的な十日町市総合体育館、

定刻となり観客は私一人、館長自らの出迎えを受けて博物館の中に入る。まずは国宝展示室に飛び込む。ガラスケースに収められている国宝の火焔型土器を見学する。5000年前の美だが、現在の美と比較しても遜色はない。個人の作成なのだろうか、共同の作業なのだろうか、作品のアイデアはどのようにして浮かんできたのだろうか、一つの完成品を作るのにどれだけの試作品を作成したのだろうか、どのように作り上げたのだろうか、アイデアを出す人・作成者・焼く人は異なる人なのだろうかなどなどたくさんの疑問が湧いてくる。ボランティア仲間に土偶を見事に作る人がいた。すでに亡くなっていて叶わないのだが、彼に依頼すればこのようなものはできたのだろうかなどさらに疑問が湧いてきて尽きることがない。

国宝に指定されているのは、火焔型土器だけではない、笹山遺跡から発掘された同時期の異なるタイプの土器で価値あるものは国宝に指定されている。深鉢形土器も浅鉢形土器も仲間である。開口部の装飾もきれいだが、胴体が穏やかな曲線になっているのも魅力的である。

火焔型土器は先端がとがっているが、平たくなっているのは王冠型土器と呼ばれている。

小ぶりな火焔型土器、

中程度の大きさの火焔型土器、

寸胴の印象を受ける深鉢形土器、

開口部の模様が幾何学的な深鉢形土器、

小ぶりな深鉢形土器、

開口部の模様が縄文らしい浅鉢形土器、

続いて火焔型土器を詳しく知るための教育的な展示があった。最初は火焔型土器の文化圏を示した展示で、これからも信濃川流域に展開していたことがよく分かる*1。火焔型土器のクニの中心が今日の十日町にあったと説明されている。左から鉢形(野首)、台付鉢形(野首)、深鉢形(野首)、深鉢形(野首)、深鉢形(野首)。

次の説明は、日本各地の縄文土器文化についてである。左から浅鉢形(野首)、深鉢形(野首)、深鉢形(野首)、深鉢形(横割)、深鉢形(幅上)。

そして、火焔型土器の模様の説明である。5000年も前の人々が、このように複雑で繊細な模様を描いていたことに感動した。人類の美的センスに、今も昔も大きな差がないのではないかとさえ思わせてくれる。左から火焔型(野首)、火焔型(幅上)、王冠型(幅上)、火焔型(笹山)、王冠型(笹山)、火焔型(野首)。

最後は火焔型土器のスタイルがどのように変化したかを教えてくれる。この土器は5300年前から4800年前まで作られた。成立期は全体的に寸胴で、鶏頭冠突起も低く横長であった。最盛期は頭部が強くくびれ、胴部が強く引き締まっている。鶏頭冠突起は背が高く、大型になる。王冠型土器も火焔型土器とセットで出土する。左から火焔型(野首)、王冠型(野首)、火焔型(芋川原)、火焔型(森上)、火焔型(大井久保)、王冠型(大井久保)、火焔型(カウカ平A)。

引き続いて、縄文時代の道具類が展示されていた。石槍、

石鏃

装飾用品で勾玉など、

耳飾り、

祭祀用と思われる石棒、


土偶

続いて「織物の歴史」のコーナーにいく。この地域は織物が盛んでそれに関する展示があった。十日町の織物、

地機(じばた)、

原始機、

最後は、「雪と信濃川」のコーナーに行く。長くて辛い冬を想像させる雪国・十日町の日常生活の場面。妻は繕い物、夫はわら製品作りをしているように見える。


常設展の展示見学はこれで終わり。国宝の火焔型土器・深鉢形土器を見ることができとても満足した。さらに、縄文の文化圏やスタイルの変化など関係する情報も得られた。定住型の狩猟採集生活、いわゆる縄文時代について認識を深めることができ有益であった。また、博物館の展示も地域に密着していて素晴らしかった。次は、夏季企画展の見学である。

*1:展示の説明では信濃川上流から下流となっている。信濃川新潟県内を流れている部分だけの呼称で、長野県内は千曲川と呼ぶ。信濃川の長さは153km、千曲川の長さは214km。信濃川が一番長いと教わったけどどうなっているのだろう。実は、河川法上では千曲川を含めて信濃川水系の本流を信濃川と規定している。この規定に基づいて比較すると日本で一番長い川となるそうだ。信濃川を河川法上の名前で使っているのか、慣行で使っているのかによって、この地域が信濃川の上流・中流になるのか、下流になるのかが変わってくる。新潟県の人はきっと前者、長野県の人は後者と思うだろう。

新潟県立博物館と長岡・摂田屋地区を訪れる

馬高博物館を見終わり、次の見学場所は新潟県立歴史博物館である。徒歩で15分ほどのところだが、1時間近くも見学した後での荷物を引っ張りながらの歩きだったので、はたからはととぼとぼと歩いているようにきっと見えたことだろう。もう歩くのは嫌と感じ始めたころに到着した。嬉しいことに、疲れた体を元気づけてくれるような立派な入口である。

受付で、常設館と特別展のどちらを見るかと尋ねられた。特別展は「動物たちの浮世絵」とのことだった。見学してみたいという気分になったけれども足の方が持ちそうにない。常設館だけと言って、荷物を預けて展示室へと向かった。

「新潟の歩み」と書かれたところから入る。最初に展示されていたのは縄文土器である。氷河期が終わって温暖な気候になり、1万数千年前ごろには人々の生活が変わり始めた。日本では狩猟採集による定住生活が始まり、竪穴住居もつくられるようになったという説明文とともに、縄文土器が展示されていた。

そして農耕社会が始まり、身分差が生じ豪族が現れるようになったとの説明と展示があり、律令制度が始まって奈良・平安時代になったと説明されていた。展示には役人が木簡に文書を書いている姿があった。

文字の使用も始まったので、その証拠として墨書土器・木簡が展示されていた。

墓の跡である柿崎古墓も展示されていた。

鎌倉時代になると、鎌倉幕府から荘園に地頭が送り込まれる。奥山荘の絵図と源頼朝による地頭補任状*1とが展示されていた。

戦国時代には、上杉謙信が越後に勢力を張り、武田信玄織田信長と覇権を争う。武田信玄との川中島合戦の様子を表した紀州本川中島合戦図屏風が展示されていた。

佐渡で算出する金銀は江戸幕府の財政を支えていた。幕府へ納められる佐渡の「御金荷(おかねに)」は、おもに北国街道で江戸に運ばれた。佐渡・相川を出発した金銀は、海路出雲崎へ運ばれ、さらに、宿場から宿場へと馬で継がれて江戸に向かった。下図は「御金荷」の行列を示す。

明治に入って、高田盲学校が創設されたことを説明する展示があり、そのあと、現代へと展示が続いた。

肝心の火焔型土器の展示がなく、どこにあるのだろうと不思議に思いながらも、探す元気もなかったので、博物館を後にした。この原稿を書くに当たって改めて調べると、飛ばしてしまったようだ。Google Earth展示室の様子を知ることができる。それによれば次のようである。残念としか言いようがない。

話は変わって、新潟は日本一の米どころで日本酒の一大産地でもある。長岡には、酒造を含む醸造の街として知られている摂田屋地区がある。博物館見学を完了し、昼食をとった後、街の雰囲気を楽しみたくて訪ねてみた。長岡駅隣の宮内駅で降り、旧三国街道沿いに南の方へ歩けばよい。午前中に行った二つの博物館とこれから行く摂田屋地区を地図に落とすと次のようである。

最初に現れたのが、470年の歴史を持つ蔵元「吉乃川」であった。

内部を見学することができる。

長岡は花火でも有名なので、店内には尺玉が飾ってあった。その奥にあるのは、日本酒を絞るために使われる「槽(ふね)」である。

ここでは、「米こうじ」を用いたクラフトビール(発泡酒に属す)も作っている。その機械がこれである。

さらに歩を進めると、懐かしい日本家屋と蔵が見えてきた。看板には機那サフラン酒と書かれている。店のブログによれば、機那サフラン酒は、高貴なサフランを始め桂皮、丁子などの厳選された植物等で調整したリキュールだそうである。これを造った初代吉澤仁太郎が築いた吉澤邸(主屋、離れ、庭園、鏝絵(こてえ)の描かれた土蔵等)は、今でも越後名所の一つとして数えられているとのことである。

さらに進むと、星六味噌が現れた。故郷を思い出すような懐かしい味わいをテーマに長期熟成させたみそを製造しているそうだ。

ここから一本奥の道を駅の方へ引き返す。この道が旧三国街道である。吉乃川の工場内を抜けていく。

竹駒神社にであう。宮城県岩沼市にある竹駒神社は、京都・伏見稲荷、愛知・豊川稲荷とともに日本3代稲荷神社とされている。明治22年にこの地に勧請(分霊)された。

近くには三国街道の岐路を示す「道しるべ地蔵」があった。台石には右は江戸、左は山道と書かれている。

長岡藩時代の天保2年(1831)に創業、以来190年に渡り醤油造りをしてきた「越のむらさき」も間近にあった。

「江口だんご」も通りすがりにあった。

今回歩き回ったところは以下のとおりである。

長岡市は江戸時代は長岡藩であった。明治維新へとつながる戊辰戦争の時、長岡藩は河井継之助*2の主導のもと奥羽越列藩同盟に参加し、激しく薩長軍に対して抗戦したがあえなく敗北し、継之助は会津に落ち延びる途中で絶命した。河井継之助はについては、司馬遼太郎さんの『峠』や役所広司さん主演映画『峠 最後のサムライ』を始めとして、多くの人が紹介している。訪問した博物館で彼について触れている展示があることを期待していたのだが、果たせなかった。長岡駅近くに河井継之助記念館があることを後で知ったので、残念なことをしてしまった。おそらくまたの機会はないだろうから、本あるいは映画で、関連の情報を得ようと思っている。

*1:奥山荘の地頭式は相模国・和田宗実に与えられた。彼は和田義盛の弟である。和田合戦・宝治合戦による一族の反乱・没落に加わらなかったことにより、ここの地頭職は一族の三浦和田により継承された。

*2:長岡市のホームページには次のように紹介されている。河井継之助は文政10年(1827)元旦、長岡藩の中堅藩士・河井代右衛門秋紀の長男として城下に生まれる。江戸に出て佐久間象山に学び、備中松山を訪ねて山田方谷に師事。長崎を見学して西洋の事情を知り、攘夷論に反対した。後に継之助は異数の昇進を遂げると、長岡藩の上席家老となり、藩政改革を断行。藩の財力を養い、雄藩も目を見張る近代武装を成し遂げていった。戊辰の戦いには中立を唱えたが受け入れられず、遂に抗戦を決意。軍事総督となった継之助は、巧みな戦術で敵を惑わせ、一旦は敵の手に落ちた長岡城を、奇襲で奪還。雪深い越後の国の小藩・長岡藩の名に、新政府軍も恐れ慄いた。しかし、次第にふくれあがる敵の兵力には太刀打ちできず、再度の落城で長岡軍は会津へと向かう。傷を負った継之助も、再起をかけて会津をめざすが、途中、塩沢村(現在の福島県只見町)で悲運の最期を遂げた。慶応4年(1868)没、享年41。幕末の風雲を駆け抜けた継之助の生涯をまとめたのが司馬遼太郎の<峠>。読み進むうちに、継之助の手腕や思想に魅せられていく。

火焔土器を鑑賞するために長岡市・馬高縄文館を訪ねる

前回の記事で説明した建長寺を訪れる前日まで、実は、新潟と長野を旅行していた。身近な人から遊びまわっていると言われかねないのだが、暑くないこの時期にできるだけ色々なことをしておこうと思い、機会をとらえては行事に参加したり、自分で作ったりしている。

今回もその一環である。子供のころは転校に次ぐ転校で、小学校は4校、中学校は2校に通った。ほとんど毎年、始業式の日には転校の挨拶をしていたことになる。それぞれの学校にいた期間は短いのだが、嬉しいことにいくつかの学校の仲間とは今でも連絡を取り合っている。今回は、入学した中学のメンバーから、同級会をするので参加して欲しいと依頼された。この中学は卒業していないのだが、何かにつけて誘ってくれる。

開催場所は長野県北部の奥志賀高原である。ここを知っている人は少ないことと思う。有名な志賀高原の北の外れにあるスキー場で、スキーの好きな人になら竜王スキー場だと言えば分かることだろう。もちろん冬場だけが人気のエリアで、この時期は一軒を除いてすべての旅館は閉じている。アクセスも悪くちょっと躊躇するところである。

そのため、宿泊料を抑えて、近隣の人たちが利用しやすいように工夫を凝らしている。さらに、従業員に一年を通して働ける場を提供するという責務を果たすことも目論んでいる。同級会もホテル側のこの作戦にのってのことである。クラスメイトたちは普段の活動範囲から少しだけ足を延ばせばよいところなのだが、私にはこれだけではコスト・パーフォーマンスが悪すぎる。そこで、同窓会を挟むように、新潟県中越と長野県の中信への観光巡りを前後に入れて旅行することにした。決して遊びまわるためではなく、普段から見学したいと思っている場所を効率よく組み込んでのことである。

新潟県中越の目的は縄文時代の傑作ともいえる火焔土器を見ることである。縄文という名称は時代区分として用いられているが、これは日本史での話で、世界史のレベルでは新石器時代に当たるが、この区分に含めてよいのかについては議論が分かれている。学校教育では、縄文時代は定住型の狩猟採集生活をした時代と教わる。その開始と終了の時期も教えられたが、最近の研究では、地域ごとにそれぞれの時期を定めるようになりつつある。開始時期はおよそ1万5000年前、終了時期は九州では3000年くらい前、関東では2400年前ごろと教えているところも多くなったようだ。

昨年の秋に邦語訳が出版されたデヴィッド・グレーバーと デヴィッド・ウェングロウ著『万物の黎明』によれば、狩猟採集民は、移動型もあれば定住型もあり、また移動と定住を繰り返す折衷型もある。そして、きわめて自由で平等な社会を形成した人々がいる一方で、階層的な社会を営んでいた人たちもいる。あるいはその二つの社会を繰り返していた人もいると指摘している。さらに進んで、奴隷がいたり、資産の所有が始まったり、小規模な農業を始めたりということもあったようだ。著者は、狩猟採集民はきわめて多様な生活スタイルをしたと説明している。

これまで、日本史では縄文時代を「定住型という極めて特異な形態」の狩猟採集生活を送っていたと説明されてきた。しかし、彼らが指摘するように、狩猟採集生活がきわめて多様な社会を生み出していたということが正しいとすると、縄文の人々は単に一つの事例を過ぎないことになるかもしれない。さらに進めると、火焔土器を製作した人々は、「火焔土器文化」とでもいえる世界を作り出し、多様性の例を一つ提示してくれたのかもしれない。長岡へ向かう車中で、『万物の黎明』の中で展開されるユニークな考え方に特別な関心を抱き、そして、火焔型土器の時期にこの地域で何が起きていたのだろうと疑問をどんどん膨らませながら、現地到着を待ち望んだ。

火焔型土器が多く存在するのは、十日町市から長岡市にかけての信濃川流域である。十日町市広報広聴課が作成した歴史を歩くというブログに、下図のような火焔型土器の分布が掲載されている。図からも、信濃川に沿って遺跡が集中していることが分かる。もしかしたら、火焔型土器を特徴とする文化圏が縄文時代中期中ごろ(約5000年前)に、信濃川流域に存在したのではと思いたくなる。

上図には土器分布と合わせて、積雪量が示されていて、この地域は多雪地であることが分かる。縄文時代になると気温が上昇し海面も高くなる。草創期は依然として寒冷な気候が残り、海水準は現在より数十m程度低かった。その後温暖化し海水準も現在とほぼ同じレベルとなった。火焔型土器が製作された縄文時代中期頃には、気候は現在より温暖で、海水準は現在より2-3m高かったとされ、関東地方では海進が見られた。人々の住居は竪穴住居が多かった。旧石器時代に日本を覆っていた亜寒帯針葉樹林と比較すると、縄文時代に広がった落葉広葉樹林は、森林の中で採取可能な食べ物類に富んでいた。例えば、ドングリ・クリ・クルミなどの木の実(堅果類)、ウバユリ・カタクリ・ワラビ・ヤマノイモなど野生の植物性食料資源は質的にも量的にも大変優れていた*1

縄文時代は人々は定住生活をしたため、食物を貯蔵したり、料理したりするため、いろいろな土器を作った。それらの中での傑作はこれから見る土器である。開口部から焔(ほのお)が噴出している装飾性豊かな土器である。これらの土器の中で、最初に発見されたものは火焔土器と名付けられた。それ以降のものは、同じ形をしたものということで、火焔型土器と呼ばれる。火焔土器は、昭和11年(1936)の大晦日に、長岡市・馬高遺跡で、近藤篤三郎さんにより発掘された。これは重要文化財に指定されている。

その後、新潟県内で共通の形やデザインを持つ土器が多数見つかり、これらは同じ特徴を持つ土器と見なされ、火焔型土器と呼ばれている。平成11年(1999)には、十日町市の笹山遺跡から出土した火焔型土器を含む土器・石器類が国宝に指定されて広く知られるようになった。

火焔土器は、長岡市馬高縄文館で見ることができる。

重要文化財に指定されている火焔型土器もいくつか展示されている。


また、火焔型土器のように先がとがっていない形式のものを王冠型土器という。以下のものも重要文化財である。


火焔型土器・王冠型土器が整然としかもたくさん陳列されている。

土器の変遷を示した展示もあった。
右は火焔型土器・王冠型土器以前のもの、上段は火焔型土器の、下段は王冠型土器の変遷を示し、右から左へと変わっていった。

馬高縄文館の近辺には、縄文時代の中期から後期にかけて、馬高遺跡と三十稲葉遺跡とが存在した。馬高遺跡では、中期初めごろに北側にムラがつくられ、中ごろに中央部に拡大し、環状になった。中期の終り頃になると村の規模は小さくなり南のムラに移動した。その頃の土器、

沢を挟んだ西側の三十稲葉遺跡では、中期中ごろから小さなムラが北側につくられ始め、後期に入ると大きく広がり、やがてムラの中心は南側に移った。三十稲葉式土器を中心とした縄文時代後期の土器、

中期初めから中ごろの集落模型、右が馬高遺跡、左が三十稲葉遺跡。

縄文時代中期の土偶

同時期のひときわ大きな石棒。土偶とともに縄文時代の精神文化を表しているとされ、祭りや儀式で用いられたとされている。

やはり中期の土偶と石棒。

縄文時代後期の石製品も展示されていた。右は玉類、左は筋砥石。

左は磨製石斧、右下は石錘、右上は石鏃。

左は土偶、右は石棒。

馬高縄文館の外に、馬高遺跡の竪穴住居が復元されていた。


Google Earthで見ると次のようになる。左奥が三十稲葉遺跡、その手前が馬高縄文館、右が馬高遺跡である。

今回訪れた馬高美術館は、火焔型土器時代に特化させ、この地域の様子が良く分かるように工夫されていて、とても分かりやす展示であった。

火焔型土器文化圏が築かれたのかという車中での疑問に対する回答だが、『万物の黎明』はまだ読みかけで最後にどんでん返しがあるかもしれないが、この時点では次のように考えた。本では、広く伝わっている考え方とは異なり、「文化圏」とは広めるものではなく、他のものが入ってくることを拒絶するものであるとなっている。そうであれば、文化圏とは、そうと言えるものを維持し、保守するという性質を持っていることになる。

信濃川流域に沿って走っている鉄道は飯山線である。この路線は、大雪のために閉鎖されてしまうことが往々にしてある。縄文時代もこのように雪が多かったのだとすると、冬季には他の地域と交流することはかなわなかっただろう。そのため、豪雪地帯だけが成しえる文化圏、このケースでは「ユニークな土器つくりの共同体」を編み出したのではないだろうか。祭礼や儀式など特別な行事で使用する土器の製作に対して、つまらない土器を拒絶して、手間がかかり芸術作品の域にも達するような火焔型土器をひたすら製作するような仕事をこの時代のこの地域の人々は守ったと考えたが、いかがだろうか。しかし、後期になるとこの文化は失われてしまったようである。

*1:川幡穂高縄文時代の環境,その1-縄文人の生活と気候変動-」地質ニュース 659号、11 ― 20頁、2009年7月

鎌倉五山第一位の「建長寺」を見学する

天気がなかなか定まらないこの時期に、外での活動が楽しいものになるかならないかは、運次第ということになる。かつては雨が降ると、あなたが雨男/雨女だからと、責任のなすりあいをして、憂さを晴らしたものである。天気予報の精度があがり予測が大きく外れることがなくなった昨今だが、数日前の突然の雷雨に見られるように、どうも今年の天気はそうではないらしい。翌日の天気でさえ外れることがあり、天気予報士がMCに茶化される場面を見かける機会が多くなってきた。今回の鎌倉・建長寺の見学はラッキーなことに、天気予報よりもずっと素晴らしい日和となった。きっと誰だかわからないが、良い運を引き寄せてくれる人がいたのだろう。さらに良いことに、歴史博物館の館長を務められた方が案内をしてくれ、普段は見ることができないところも見学することができた。

建長寺はとても有名な臨済宗の寺院であるが、交通の便があまり良くないのが欠点である。来客とともに鎌倉を見物しようとするときは、あまり歩かせてはいけないと配慮するため、どうしても北鎌倉駅の裏手にある円覚寺へと足が向いてしまう。禅門・臨済宗では、特に寺格の高い五つの寺院を鎌倉五山としている*1建長寺が第一位、円覚寺は第二位の寺院で*2建長寺の方が上であるが、人気の方はどうなのだろう。

建長寺を開基したのは鎌倉幕府第5代執権・北条時頼である。時頼は執権権力を強化し(三浦泰村一族、千葉秀胤を滅ぼし、反北条氏傾向の御家人勢力を排除した)、御家人や民衆に対して善政(撫民)を敷いた。そして、鉢の木物語*3の逸話が残されるほどに質素かつ堅実で、宗教心にも厚い人物であったと見られている。建長寺の創建は建長5年(1253)である。開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)、第二世は同じく南宋の兀庵普寧(ごったんふねい)である。

開山の蘭渓道隆の足跡は、ウィキペディアをベースにしてまとめると次のようになる。彼は嘉定6年(1213)の生まれで、寛元4年(1246)に、渡宋した泉涌寺僧・月翁智鏡との縁で来日し、宋風の本格的な臨済宗を広めた。時頼の帰依を受けて鎌倉に招かれ、鎌倉・常楽寺の住持となった。そして、先に述べたように建長5年に建長寺開山となった。建長寺は、純粋禅の道場としては栄西の開いた筑前国聖福寺に次いで古い。創建当初の建長寺は、中国語が飛びかう異国的な空間で、住持はほとんどが中国人で、円覚寺開山となった無学祖元をはじめ、おもだった渡来僧はまず建長寺に入って住持となるのが慣例であった。

それでは、建長寺を参観することにしよう。最初に目の前に現れるのは三門である。山門とする寺院が多いが、ここはそうではなく、三解脱門*4の略称である。蘭渓道隆五百年忌に当たる安永4年(1775)の再建で、東日本最大規模の三間二重門である。建長寺大工・河内長兵衛が棟梁を務め、「建長興国禅寺」の大扁額*5をかけるために上層に軒唐破風が設けられている。この門は国重要文化財に指定されている。

楼上も参観できた。ここからの眺めは素晴らしい。入口方向を見る。三門を撮影している観光客の姿がある。

三門に向かって右手にある妙高院(建長寺塔頭の一つ)が見える。

嵩山門(すうざんもん)と鐘楼が見える。嵩山門奥の西来庵には、蘭渓道隆(大覚禅師)の塔所(たっしょ)がある。

三門の先の仏殿の景色、

楼上には釈迦如来像が安置されている。

その周りには銅像の五百羅漢が安置されている。各像ごとに変化をつけたとても丁寧な鋳造群で、江戸期の彫刻の良さがうかがえる。原作者は江戸仏師・高橋鳳雲である。木型は身延山三門に納められたが、焼失した。鋳物師は整珉と弟子の是行斎栗原貞乗解空居士である。天保安政ごろの作とみられている。

五百羅漢から選び抜かれた十六羅漢(反対側に8像ある)。

仏殿。禅門規式では「仏殿を立てずにただ法堂を構うるものは仏祖より親授せる当代を尊となすを表すなり」とあるので、禅門はもともとは仏殿を設けなかったようであるが、建長寺はそうなっていない。創建当初の仏殿は、左右に土地堂(つちどう)・祖師堂を従え、堂内には時頼の梁碑銘が掲げられていた。現在の建物は、正保4年(1647)に芝増上寺の霊屋を譲り受けたものである。霊屋に祀られていたのは徳川2代将軍秀忠公夫人崇源院(お江の方、織田信長の妹お市の方浅井長政との末娘)である。死後20年後に造替されたとき譲り受けた。方五間、重層の寄棟作りで、内部はすべて漆が塗られ、各所に透かし彫りの金具が使われている。仏殿は国重要文化財に指定されている。

仏殿には本尊の地蔵菩薩座像が安置されている。本尊は釈迦如来阿弥陀如来とする寺院が多いが、ここはそれとは異なっている。それには次のような話が伝わっている。ここの谷はもとは処刑場で地獄谷と呼ばれていた。そして、処刑された者の死後の救済をするために、地蔵菩薩を本尊とする心平寺*6が建てられていた。後に、建長寺が建立されると僧たちがその使命を引き継いだとされている。天井は格天井で絵が描かれているが、何が書かれているかは判然としない。

次の法堂(はっとう)に向かう。途中に樹齢760年と推定される柏槇(びゃくしん)がある。蘭渓道隆が中国から持ってきた種をまいたとされている。

最近テレビでも紹介された「さわる模型」がある。これは「誰もが共に生きる未来への道を照らす灯」となることを目指していて、そこには「見えなくても旅の感動を一緒に」と記されていた。

法堂。昔は建長寺全体が修行道場であり、鎌倉・山ノ内にいる僧侶全員がこの法堂に集まって住持の説法を聞き修行の眼目とした。今日では、修行道場は、先ほど出てきた西来庵に移り、雲水はそこで修行している。法堂は現在は法要・講演・展覧会などに使われている。法堂は七堂伽藍の制に則って、仏殿の後ろに建てられている。現在の法堂は文化11年(1814)に建立され、関東で最大である。


法堂にはその役割から本尊像を安置しないのが普通であるが、ここには大悲閣にあった千手観音坐像が祀られている。天井の雲竜図は創建750年を記念して、小泉淳画伯によって描かれた。

千手観音坐像の前面にある仏像は釈迦苦行像である。釈迦が極限の苦行・禁欲(断食)をしている姿を現している。パキスタン・ラホール中央博物館には、本物の菩薩苦行像が安置されている。これはシクリ(カイバル・パクトゥンクワ州)の伽藍跡から出土した2~3世紀ごろの作品である。平成17年(2005)の愛知万博でそのレプリカが陳列され、その後パキスタン国より建長寺に寄贈された。 

唐門。この門は桃山風向唐破風*7(むかいからはふう)で漆塗りの四脚門である。透彫金具が各所に使用され、仏殿の装飾技法とよく似ている。先に説明した秀忠公夫人霊屋の門として建立された。正保4年(1647)に、仏殿・西来門とともに移築された。

方丈。方丈は方一丈の居室の意味で、その由来は維摩居士が毘耶離城の一丈の部屋に居し、その部屋をもってよく三万二千の師子の座を入れたという不思議な珍事にちなむとされている。住職の日常生活の場であったが、後に現在のように独立した一堂として、檀信徒の法要・儀式などを行うところとなった。



庭園。方丈の後ろに蘸碧池(さんぺきち)を中心とする庭園がある。この庭園は、大覚禅師(蘭渓道隆)が作庭したもので、創建当時より存在している。この池の名は、緑の木々の色が青い水にひたって輝いていることを表している。

建長寺にはかつて49もの塔頭*8があったが、現在残っているのは12である。一番奥にある回春院を訪ねた。第21世玉山徳璇(仏覚禅師)の塔所である。写真には多くの見学者が映っているが、普段は閑散としている。ここの塔頭を説明してくれた住職の方は、多くの人が訪れて欲しいと希望されていた。

梵鐘。今回案内してくれた元歴史博物館長の方が、若いころに梵鐘に関する小論を書いたとのこと。思い入れが深かったのだろう、その時の経過などについて伺った。梵鐘は、建長7年(1255)、関東の鋳物師筆頭・物部重光が鋳造し、開山の蘭渓道隆が銘文を撰している。総高208.8cm、口径124.3cmで、平安時代の作風を踏襲している。梵鐘は国宝である。

夏目漱石が俳句「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」を作ったが、親友の正岡子規はこの句を参考に「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を作句した。今日では、後者の方が有名で、前者を知っている人は少ないだろう。

とても久しぶりの建長寺であった。高校生の時に天園ハイキングコースを歩くために、建長寺を通り抜けて以来のことではないだろうか。その時も歴史に詳しい1年先輩の方が色々教えてくれたが、今となってはさっぱり思い出すことができない。今回、建長寺について詳しい方の説明を受け、学び直しのいい機会となった。案内をしてくれた方にとても感謝している。

最後に建長寺境内図を載せておく。

*1:鎌倉時代末期にも五山制度はあったようだが定かではない。根幹ができたのは、室町幕府3代将軍・足利義満が、至徳3年(1386)に、南禅寺を別格としてて五山の上とし、京都と鎌倉に五山を決定したことと考えられている。

*2:第三位以下は、寿福寺浄智寺浄妙寺の順である

*3:大雪の夕暮れ、旅の僧が一夜の宿を求めた。家は貧しく、暖を取るたき木がなくなると、主人は大切にしていた松、梅、桜の鉢の木を折って火にくべた。主人は佐野源左衛門常世と名乗った。一族に所領をだまし取られて零落したが、武具と馬は残してあり、「自分も鎌倉武士の子、大事の時は、いの一番にはせ参じ、命懸けでご奉公する覚悟です」と言った。その後、鎌倉に一大事との報で一目散に駆け付けた常世の前に現れたのはあの日の僧で、鎌倉幕府執権・北条時頼だった。常世の本領だった36カ郷を返し、鉢の木にちなんで上野・松井田、加賀・梅田、越中・桜井などの所領を与えた。

*4:三解脱門とは、涅槃に至るために通過しなければならない三つの関門、すなわち空・無作・無相)を指す。

*5:宋僧西燗子曇(せいかんすどん)の筆と伝えられている

*6:心平寺は時頼により巨福呂坂に移され、現在は横浜三渓園に移設されている。

*7:向唐破風では、屋根の端の山形をなすところが、反曲した曲線状になっている。

*8:塔頭は、大寺のいわば寺内寺院で、 とくに禅寺では高僧の基所に建てられた塔、またその塔を守るための庵をいう。

飛鳥時代の復元倉庫を見学する

川崎市高津区に古代の高床倉庫が復元され、先日「橘樹歴史公園」として公開された。最寄り駅はJR南武線武蔵新城駅だが、1.6kmほど歩かないといけない。バスだと、JR南武線東急東横線武蔵小杉駅東急田園都市線鷺沼駅を結んでいる路線を利用し、影向寺(ようごうじ)で下車すると、歩いて5分程度のところにある。

今昔マップで明治39年ごろと現在を並べてみる。赤丸を付けた個所が影向寺で、今回の橘樹歴史公園はすぐその右である。これから、歴史公園は多摩川流域の扇状地に張り出した舌状の丘陵地の上にあることが分かる。

復元された高床倉庫は、古代と言っても奈良時代(710~794)ではなく、律令制(701年の大宝律令)が制定される前の飛鳥時代の建物であることに意義がある。現存する飛鳥時代(592~710)の建築物には、奈良・斑鳩法隆寺(推古天皇聖徳太子の建立)、大阪・天王寺四天王寺、奈良・飛鳥の法興寺(蘇我馬子)などがある。復元とはいえ、この時代の建物を関東で見学できるのはうれしいことである。

飛鳥時代での画期的な事件は大化の改新である。中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が、豪族の蘇我氏を中心とした政治から天皇中心の政治体制へと移行させて、律令国家への基礎を築いたとされる事件である。国の体制は、中央集権的な行政制度となり国・評・里*1が設けられ、さらに王族・貴族・豪族の私有であった人・土地ついても公地公民となった。

ところで、復元された倉庫はいつ頃を想定しているのだろう。大化の改新の前なのだろうが、それとも後なのだろうか。この近くに影向寺(ようごうじ)がある。この寺院は古代に建てられた寺院の跡に建てられたようで、ここからは古代の瓦が発掘されている。そして、そのなかに「无射志国荏原評」と刻まれている平瓦が見つかっている。

无射志国は、見慣れない国名だが、武蔵国となる前に使われていたようである。无射志国が武蔵国となった時期ははっきりしないが、日本書紀によれば685年、あるいは、713年に「諸国の国郡郷名は二字の好字を用いよ」の詔が出されたので、この時期に新たに「武蔵」の名と文字が選ばれたとも考えられている。なお、武蔵国は无射志国と知々夫国とを一緒にした後の国名である。

古代の影向寺は、平瓦に評が使われていることから、この瓦が造られたのは大化改新から大宝律令までの間とみるのが妥当なので、7世紀後半ごろの建立だろう。今回復元された倉庫もこれと同じ時代を想定しているようである。

大化改新前の民と土地に対する支配の制度は次のようになっていた。大化改新詔には、ミヤケ・タドコロを廃止するとなっているので、大化改新の前にはこれらがあったことになる。これらは、天皇や豪族の荘園ともいえるものである。ミヤケは天皇などが所有するもので、子代の民(領民)と処々の屯倉(領地)からなる。タドコロは貴族・豪族(臣・連・伴造・国造・村首(むらのおびと))が支配するもので、部曲(かきべ)の民(領民)と処々の田荘(たどころ))からなる。かつては、改新によって公地公民となり、領民に代わって封戸や禄(給与)が、領地に代わって位田・職田・功田・賜田が与えられたとされていた。

しかし長屋王家から発見された木簡などから、長屋王家の領地は代々継承されていることが判明し、ここはミヤケから引き継がれているという見方が有力となっている。このことから、大化改新後にも荘園(ミヤケ・タドコロ)が一部で残されたとされ、このような荘園は古代荘園と呼ばれている。かつては荘園の始まりは墾田永年私財法が始まった後で、この制度により形成された荘園は初期荘園と呼ばれた。新しい研究では、荘園には古代荘園と初期荘園の2系統があるとみなされている*2

橘樹歴史公園の周辺には、大化改新をさらにさかのぼる歴史がある。日本書紀には武蔵国造の乱(634年)について記されている。これは武蔵(无射志)国造の笠原氏の内紛とされる。国造の笠原直使主(おぬし)と同族の小杵(おぎ)は国造の地位を巡って争い、小杵は上毛野君小熊の助けを借り、使主を殺害しようとした。使主は逃げ出して朝廷に助けを求めた。そして、朝廷は使主を国造にすると定め、小杵を誅した。使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として献上した。この橘花屯倉の役所が置かれたところが、今回橘樹歴史公園として開設された場所だったのではないかと研究者の間ではみられている。

橘花屯倉と呼ばれたミヤケは、先ほど述べた大化改新前の制度の通りであれば、子代の民と処々の屯倉とからなっていたであろう。そして、ミヤケを経営・管理するための役所もあったはずである。大化改新によって橘花屯倉は橘樹評となり、評の倉庫がこの地に設けられたのだろう。それが今回復元された高床倉庫である。そして大宝律令により律令制が敷かれると、橘樹郡の郡家がここに設けられ、新たに正倉も建立された(評の時代の正倉とは向いている向きが異なっている)。発掘により、正倉の跡は発掘されているが、郡庁はまだである。

今回復元された倉庫の概要は、構造は板校倉造、高さは約9.3m、桁行・梁行は約5.94m、屋根構造は切妻造・茅葺である。そして、飛鳥時代の姿を再現するために、古代の大工道具である手斧(ちょうな)やヤリガンナを使用するなどして、古代の技術・技法を可能な限り採用して造られた。

それでは橘樹歴史公園を見学する。
入り口の近くに大きな看板があった。

その裏側は、橘樹官衙遺跡群の説明書きである。ペンキの匂いがしそうなくらいに新しく、また分かりやすい。律令制の前に建てられた建物跡は紫色、後のは橙色である。従って前者は飛鳥時代の橘樹評、後者は奈良時代橘樹郡の建物跡である。橘樹郡の郡庁は地図の真ん中あたりとみられている。また左側にあるのが影向寺で、やはり飛鳥時代にここに古代寺院があったとされている。

前置きが長くなりお待たせしたが、飛鳥時代の倉庫はこのように復元されている。
正面、

右側面、

左側面、


復元の過程が丁寧に説明されていた。

次に、影向寺を訪れた。
仁王門、



薬師堂。この寺院は、奈良時代天平12年(740)、聖武天皇の命を受けた僧行基によって開創されたと伝えられていた。しかし、瓦のところで説明したように、近年の発掘調査の結果、創建の年代は白凰時代末期(7世紀末)にまで遡ることが明らかになった。現在の薬師堂は、創建当時の堂宇とほぼ同じ位置にあり、江戸時代中期の元禄7年(1694)に建立された。棟梁は橘樹郡稲毛領清沢村(現在の高津区千年)の大工・木嶋長右衛門直政である。


太子堂と鐘楼、

ケヤキ造りの阿弥陀堂

参拝しているときに、散歩中の方に寺の由来を尋ねられ古代寺院であることを話してあげた。感謝されて、お返しにつつじが綺麗だという能満寺を紹介された。
その能満寺の入り口、

山門、

本堂、この寺院はもともと影向寺塔頭12坊の一つで、天文年間(1532~54)にここに移り、快賢によって開かれたといわれている。現在の本堂は天文4年(1739)に建て替えられた。

不動堂、

鐘楼。

残念なことに、能満寺のつつじの時期は終わっていた。

川崎市は、遊歩道・散歩道として下図の「たちばなの散歩道」を推奨している。今回訪れた三か所はこの中に含まれていて、全コースを歩くのに3~4時間かかる。古代の趣を楽しむことができるので、つつじの時期にでも挑戦したいと思っている。

*1:大宝律令(701)により評は郡になり、715年には里は郷になる。

*2:吉川真司責任編集『古代荘園』岩波書店(2024)。

藤沢宿を散策する

藤沢は、東海道五十三次の一つの宿場であるとともに、鎌倉、八王子、大山、厚木へと分岐する交通路の結節点でもある。そして、江戸、京、箱根、大山などへの旅行客で賑わった。現在の繁華街は駅周辺だが、江戸時代は遊行寺近くの宿場街であった。

変化の様子が今昔マップから分かる。下図で、左側が明治39年、右側が現在である。藤沢駅は右下にある。藤沢宿があったのは、左側の図で、赤い線で囲んであるところである。この当時はまだ走っていないが小田急江ノ島線藤沢本町駅の東側の部分である。旧東海道は、東海道五十三次にほぼ沿っているが、現在の国道1号(東海道)は、藤沢付近ではバイパスを利用していて、右側上部のピンク色の太い線である。

正月の箱根駅伝では遊行寺坂が難所で、選手たちが息を切らせながら登っていく。彼らが走るのは、右図で左下から右上への黄色の道路で、遊行寺坂は中央の少し上あたりである。遊行寺坂は現在は切通しとなっているため、幾分か傾斜が抑えられているが、江戸時代はそうではなく、かなりの急坂であった。歌川広重の浮世絵からもわかる(下図はWikipediaから転写)。手前を流れているのは境川である。この川は上流では武蔵国相模国を分けているが、このあたりの下流では相模国高座郡相模国鎌倉郡を分けている。手前が高座郡で、向こうが鎌倉郡である。架かっている橋は遊行寺橋、その手前にあるのが江の島一ノ鳥居、奥の山の上にあるのが遊行寺である。のぼり道が階段状になっているのが見える。健脚な江戸の人々は息を切らさず登ったのだろうか。

今回の大まかな行程は以下のとおりである。藤沢駅出発で、駅東側の遊行通り(上図では藤沢駅右側の黄色の道)を利用して、宿場街の江戸側の境である江戸見附に向かった。

途中にもいくつか見る箇所がある。まずは庚申堂である。中国の道教では、人の体内に三尸(さんし)という悪霊がすんでいて、庚申の日になると、天にのぼって主人の過失を生死をつかさどる神に告げるので,そうさせないためにこの日は徹夜しなければならないとされていた。これは守庚申と呼ばれたが、日本に入ってくるともとの意味が忘れ去られ,庚申という日が「庚申さん」として神格化される一方で、守庚申も単なる徹夜の集いになった。この堂は庚申待ちの宿や寄り合いの場所として使われたようである。明治時代には小説家のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が江の島を訪れた際に立ち寄ったとされている。

庚申塔は庚申の講が長く続いたことを記念して造られた。供養塔には、3匹の猿(申が猿であることで、見ざる、言わざる、聞かざるの猿となった)、青面金剛(仏教では庚申の本尊である)、猿田彦神(神道廃仏毀釈庚申塔も潰されるのではと考え、サルを猿田彦になぞらえた)が描かれたり、文字が書かれたりした。境内には、様々な庚申供養塔が連なっていた。

近くには江の島弁財天道標がある。この道標は管鍼術の考案者で江の島弁財天を厚く信仰した杉山検校が奉納したもので、江島神社を参詣する人々への道しるべである。この他にもほぼ同形の道標が12基ある。

境川を渡ってしばらく行くと舩玉(ふなたま)神社が現れてくる。昔は江の島からこの付近まで船が出入りしていたと言われている。鎌倉時代の三代将軍・実朝は、鎌倉へ拝謁に来た宋の工人・陳和卿から「将軍の前世は、医王山の長老だ」と言われ、医王山を参拝したいということで「唐船」の建造を命じたことが吾妻鏡に書かれている。伝承だが、実朝は船を造るための木材をここから切り出し、船で運んだとされている。この地は大鋸(おおぎり)と呼ばれており、大鋸引きの職人が住んでいて、船大工や玉縄城の仕事を引き受けていたようである。

そうこうしているうちに、藤沢宿の江戸側の境である江戸見附に着いた。見附はもともと見張りの番兵を置いた軍事施設で、江戸時代初期はそのように運用されたが、時代を経るにしたがって宿場町の境を示す標識となったようである。下図でも台形の土手が描かれている。

江戸見附周辺は遊行寺である。まず、小栗判官の墓を訪れた。常陸国小栗の城主であった小栗満重は、上杉禅秀の乱で禅秀方について敗れ、勝者の足利持氏に多くの領地を没収されてしまう。これを不満として反乱を起こし小栗城にたてこもるが落城する(応永29年(1422))。満重の子助重は、わずかな家臣を連れて三河国に逃げのびる途中、藤沢で毒殺されかける。しかし、妓女照手がその毒殺計画を助重に告げたため一命をとりとめ、遊行寺に駆け込んで保護された。その後、助重は勢力を盛り返し照手を妻に迎えた。助重の死後、照手は尼となり、菩提を弔って生涯を過ごしたと鎌倉大草紙は伝えている。これが長生院(別名小栗堂)の由来で、小栗主従と照手姫の墓石がある。
小栗堂、

小栗主従の墓、

照手姫の墓、

鹿毛の墓。照手に救われ遊行寺に駆け込むときに荒馬に乗ってのがれたが、その時の馬が鬼鹿毛である。

宇賀神社。ここに祀られている宇賀弁財天は、徳川氏の祖とされる有親の守り本尊とされている。有親と長男の親氏は、遊行十二代尊観上人の弟子となった。また、次男泰親も弟子となり、三河国大浜称名寺に移るとき、宇賀神社を奉納した。親氏はのちに三河国松平の酒井家の養子となった。また、泰親は松平家の養子となり、その子竹若丸は松平を、次男竹松は徳川信光と称した。これが徳川家の祖先といわれる由縁だが、しかし諸説ある。

遊行寺本殿。正中2年(1325)遊行4代呑海上人が、実兄である地頭俣野五郎景平の援助によって、極楽寺という廃寺を再興して、遊行引退後の住まいとしたのが始まりである。本堂の屋根に三の字が見えるが、これが時宗の宗紋である。開祖一遍上人の俗名は河野時氏で、伊予国土豪の家系である。河野家の家紋が「折敷(おしき)に三」であることからこれを継承した。家紋にも伝承がある。鎌倉幕府開府の時に、鎌倉で行われた酒宴の席順で、源頼朝北条時政に次いで河野通信は3番目で、彼の前に「三」と記した折敷の膳が置いたあった。このことから、河野家の家紋になったといわれている。

鐘楼は南北朝時代の正平11年(北朝・延文元年(1356))に造られた。

中雀門は安政6年(1859)に建立された、遊行寺境内で最も古い建造物である。四脚門で、高さ約6m、幅約2.7mである。大棟に皇室との深いつながりを示す菊の紋、屋根の下に徳川家の家紋である葵の紋が刻まれている。建立者は紀伊大納言徳川治宝(はるとみ)である。明治13年(1880)の藤沢宿大火の被害は免れたが、大正12年(1923)の関東大震災では倒壊した。その後、そのままの形で再建された。


御番方は信徒・団参の入り口である。明治13年(1880)の大火で類焼し、大正2年(1913)上棟された。関東大震災によって、本堂・大書院その他多くの建物と同様に倒壊したが、すぐに倒壊当時の古材をもって再建された。

遊行寺の黒門を後にすると、ふじさわ宿交流館がある。ここで一休みする。

室内に藤沢宿の模型があり、当時の風景を頭に描き出した。中央を横断しているのが境川である。架かっている橋は大鋸橋(遊行寺橋)で、冒頭で紹介した広重の浮世絵に出てきた橋である。手前は遊行寺、奥が藤沢宿である。ここから遊行寺橋を渡り、右側の藤沢宿へと向かう。

ふじさわ宿交流館には高札場がある。何が書いてあるのだろう。目の前をタンクローリーが塞いで読むことができない。

遊行寺橋。

藤沢宿には昔の名残をとどめているものがわずかにある。旧桔梗屋は茶・紙問屋を営んだ旧家で、市内に現存する唯一の店蔵と江戸時代末期の文庫蔵を含む3棟が国登録有形文化財に登録されている。

近くには蒔田(まいた)本陣跡の案内があった。本陣は、宮家・公家・大名が泊まった施設である。江戸時代初期は大久保町の堀内家が藤沢宿の本陣だったが、類焼のため坂戸町の蒔田家が明治3年(1870)まで約120年間務めた。総坪数約400坪の堂々たる家だったが、現在は妙善寺に墓域を残すのみである。さらに、しばらく行くと小松屋がある。ここの由来はもう少し後で述べる。

問屋場跡の案内がある。宿場において人馬の継ぎ立てを行う場所を問屋場と呼び、藤沢宿では大久保町と坂戸町に一ヵ所ずつあった。問屋場では問屋や年寄の指示のもと、人馬と荷物の割振り、賃銭の記録、御用通行の武家等の出迎え、継飛脚などが行われた。

常光寺、ここには明治5年(1872)に警察署の前身である邏卒屯所(らそつとんじょ)が置かれた。

栄勝寺、説明を後回しにした小松屋の墓があるところで美談がある。

この寺には、旅籠屋を営んでいた小松屋源蔵の墓を囲むように39基の飯盛女(めしもりおんな)の墓がひっそりと立ち並んでいる。天保6年(1835)には、主に大鋸から遊行寺橋にかけて、飯盛女を抱えている旅籠屋が27~28軒あった。飯盛女は私娼で、旅籠屋1軒につき2人までと決められていた。しかし、数人を置いていたところもあり、全盛期には100人近い飯盛女がいた。こうした女性たちの多くは、年貢課役に苦しむ近郊の出身で、借金の返済などのために働かされ、その扱いはひどかった。小松屋のように墓を建てて葬ることはとても珍しく、源蔵はとても奇特な人であったといえる。

さすがに歩くのに疲れてきたが少し我慢して歩いた先には、伝義経首洗い井戸があった。源義経は兄頼朝に鎌倉を追われ奥州平泉に逃げた。義経藤原秀衡によってかくまわれていたが、秀衡がなくなると、子の泰衡が文治5年(1189)に義経を攻め、衣川で自刃させた。平泉から鎌倉に送られてきた義経の首は、和田義盛梶原景時による首実検の後、無残にも片瀬の浜に捨てられた。義経の首は潮にのって境川をさかのぼり白旗神社付近に漂着した。これを里人がすくいあげ、この井戸で洗い清めたと伝えられている。


白幡神社は、古くは寒川比古命を祀っていた。そして、義経の首がこの地に葬られたと伝えられると宝地3年(1249)に義経も合祀するようになった。

源義経公鎮霊碑、

弁慶の力石は神石とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないといわれている。

藤沢宿の旅はここで終わりである。近くの藤沢本町駅で解散となった。この駅の反対側には宿場のもう一方の境を示す京見附がある。なお、ふじさわ宿交流館で入手した藤沢宿の地図は、当時の理解を深めるうえでとても役立った。

前回遊行寺を訪れたとき遊行寺宝物館館長に案内していただき、遊行寺一遍上人について詳しく史実を伺うことができた。今回は藤沢地区のガイドをしている方に案内していただいた。伝承されている物語をたくさん教えていただきとても楽しかった。伝承も一つの歴史なので、話題が豊かになった。散策に彩を添えてくれたガイドの方に感謝である。

横浜・長津田に旗本の菩提寺を訪ねる

退職してすぐのころに、知人に誘われて大分県を訪れた。その時に紹介された方々が、私の実家はXX藩の家老だった、私のところはYY藩の家老の末裔、私もまた同じなどと紹介され、大分県にはこんなにもたくさんの家老の子孫の方々がいるのかと驚かされたことがある。この県には、中津・杵築・日出・府内・臼杵・佐伯・岡・森と8藩も存在していたことを後で知った。それに対して、私が普段行き来している東京や神奈川は、小田原藩と二つの小藩を除けば、江戸幕府の直轄地か旗本の知行地だったので、家老の子孫に出くわしたことはない。

スーパーに買い物に行くとき、長津田の近くで大きな寺の横を通り過ぎる。由緒ありそうな寺だと思ってはいたが、訪れることはなかった。先日、たまたまこの近くに用事があったので、そういえばということで寄ってみた。門の前には少し古くなって読みにくい説明文があった。そこには長津田十景というタイトルが、さらに大林晩鐘(だいりんばんしょう)とサブタイトルがあり、次のような説明書きがあった。

大林寺は江戸時代に旗本岡野家の菩提寺として建立され、平成20年に再建された。晩鐘は夕やみに包まれた鐘の音を表現している。ここで見過ごしていけないものは、山門、正面の本堂、右側の客殿、左側には五百羅漢堂、座禅堂である。そして、裏の墓地には、領主岡野家の墓、関根範十郎、疋田天功、兎来(俳句の号)などの墓がある。領主岡野家の墓は横浜市の地域史跡に登録されているとなっていた。

旗本岡野家の菩提寺であることがわかったので、江戸末期の領主が誰であったかを確認するために、旧高旧領取調帳データベースを用いて、武蔵国長津田村で調べると次のようになっていた。岡野銖三郎知行1077石、大林寺領15石、若王子領4.5石、耕雲庵・竜盛寺・不動院の除地(年貢を免除された土地)がそれぞれわずかであった。

ウィキペディアによれば、岡野氏は戦国時代から江戸時代にかけての武家であった。そして、戦国時代末期に後北条氏に仕え、江戸期には徳川氏に仕えて旗本となった。家系は桓武平氏維将流北条氏支流で、鎌倉幕府得宗家の末裔とのことである。

さらに家伝によると、中先代の乱を起こした北条時行には3人子がいた。次男が伊豆国田方郡田中郷を領し、田中氏を称したという。田中泰行のとき小田原の北条氏康に仕えた。泰行の子・融成(とおなり:江雪斎)は北条氏政に仕えたが、氏政の命により北条氏重臣・板部岡康雄の遺領を継ぎ、名字を板部岡に改めた。小田原征伐後には、融成は豊臣秀吉の御伽衆となり、その命によって岡野氏を称した。秀吉死後は嫡男・房恒の仕えていた徳川家康方となった。関ヶ原の戦いにおいては、融成は小早川秀秋を内応させるための交渉役として活躍した。その後岡野家は旗本として存続した。融成の嫡男・房恒の子孫は武蔵国都筑郡長津田村を代々領し、菩提寺は大林寺であった。

新編武蔵風土記稿・大林寺の縁起では次のように説明されている。境内四千六十坪、小名(小字のこと)御前田にあり、禅宗曹洞派、相州愛甲郡三田村清源院の末にて、慈雲山と号す、開山は清源院五世の僧麟哲なり、当寺の開闢(かいびゃく)せし年代はたしかに傳へずといへども、この僧は慶長十三年(1608)七月二十二日示寂すと云ときは推てしるべし、開立の来由を尋ぬるに、此村の地頭岡野平兵衛房恒、天正十八年(1590)北条家に属し、岩槻の城に籠りしが、没落の後隣村恩田村に蟄居せしを召出されて、御家人に列しけり、その時采邑(領地)として当所を賜はり、この地へ陣屋をかまへたり、その後老父・坂部岡越中入道江雪が、菩提の為に当寺を起立せしと云、按(あんずる)に系図に江雪入道は、慶長中伏見にて没せしと云ときは、天正文禄の頃にや、江雪が此寺を開基せしも知べからず、本堂十間に八間半、本尊釈迦を安置す、当寺の寺領十五石余は慶安二年八月二十四日、大猷院殿(家光の法号)より御朱印を賜ひし所にして、今も寺領かはらず。

新編武蔵風土記稿では、創建された時期は1608年を下ることはないが不明とし、創建者は房恒となっている。しかし寺伝では、創建は1570年(元亀元年)長津田の初代領主である岡野平兵衛房恒の父、板部岡江雪となっている。どちらが正しいのかはわからない。

それでは大林寺の境内を参詣する。まずは山門、

山門の外側では仁王像が睨んでいる。右側は口を開けて物事の始まりを表現している阿形像、

左側は口を閉じて物事の終わりを表現している吽形像。

内側では四方を守護する四天王が安置されている。東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天である。
左側から金剛杵(こんごうしょ)を持つ増長天と戟(げき)を持つ広目天

左側から宝塔を持つ多聞天と宝剣を持つ持国天である。

本堂。


客殿。


五百羅漢堂、座禅堂。

鐘楼と梵鐘。

瑩山(けいざん)禅師と道元禅師。瑩山禅師は曹洞宗大本山總持寺の開祖で、道元禅師は曹洞宗の開祖である。

幼児の延命・利益を祈願する仏として信仰される延命地蔵

旗本岡野家歴代の墓所

岡野家の由来には、初代融成、2代房恒、11代成政、12代由成について記されてた。

最後に、大林寺付近の明治39年の地図を載せておく。横浜線の下方にある道路は大山街道で、長津田が宿場街であることが分かる。

江戸時代の旗本のイメージをつかむのに苦労していたが、岡野家(岡野銖三郎は長津田村に1100石弱、下総に400石強を有する)を知ったことで、1500石程度の旗本は長津田村一村を知行する身分であることが分かった。現在の長津田町から想像することは難しいが、明治時代の写真や地図を頼りに、さらに詳しいイメージをつかめればよいと思っている。

鯛と野菜のオーブン焼き

時々行く大量仕入れの安売り店で、鯛を丸ごとしかもとても安い値段で売っていたので、夕食に使おうと思って購入した。当初は、オーストラリアの友達から教わった、素晴らしいほどに手抜きのオーブン焼きにしようと思っていたが、料理をする時間に余裕があったので、少しだけ手間をかけて、鯛のオーブン焼きに挑戦した。とはいっても、ありあわせの野菜を使って、レモンで臭みをとって、焼くだけである。簡単なので、調理の順番に説明しよう。

一番厄介なのは、えら取りである。いろいろな方法が紹介されていて、いくつか試みたが、最近は最初に教わった包丁での方法に戻っている。えらがあちこちに飛び、後で掃除が大変なのだが、これが一番簡単と思っている。もちろん内臓も、この時取り除く。

後は鯛を囲むように野菜類を並べる。まずは玉ねぎ1個を櫛切りにして、オーブン用の皿に並べる。

鯛をその上に置く。

ジャガイモ1個を一口サイズに切って周りに並べる。

さらにブロッコリー半株を一口大に切って添える。

プチトマト4個も添える。

レモンを、2枚輪切りにし、残りは絞る。輪切りのレモンは食べる時に使用する。

オリーブオイルを大匙2杯、日本酒(白ワインでも可)を大匙1杯、レモン汁を混ぜる。

鯛の上にこの汁をかけ、さらに、にんにくも加える。この時は練ったものを用いた。

オーブンを200度で予熱した後、鯛と野菜が入っているオーブン皿をオーブンに入れ、20分間焼く。

焼き終わったら、塩を適量加えたオリーブオイルを鯛の上にかける。そして、先ほどの輪切りにしたレモンを載せる。これで出来上がりである。

スープやサラダを添えて、白ワインで頂くととてもおいしい。ちょっとだけ、調理に時間がかけられるときのおすすめの料理である。

新宿歌舞伎町で大歌舞伎を鑑賞する

新宿の歌舞伎町で歌舞伎を鑑賞した。歌舞伎が演じられるのは、銀座の歌舞伎座だろうと言われそうだ。確かに、町名は歌舞伎となっているが、古典芸能の歌舞伎のイメージはなく、憂世を浮世にしようとする「かぶきもの」で溢れている繁華街のイメージが強い。この町名はいつ頃から使われるようになったのだろう。ウィキペディア新宿コマ劇場について調べると次のように記述されている。この劇場を作るときに、阪急・東宝グループの創始者小林一三さんが、劇場を創設する時の理念を「新しい国民演劇(新歌舞伎)の殿堂を作る」としたそうで、ここからこの周辺がこのように呼ばれたと説明されている*1

今昔マップには、1947年(左側)と1967年(右側)の地図があり、この地域は新田裏から歌舞伎町へと変更されていることが分かる*2

今回の「歌舞伎町大歌舞伎」は、東急歌舞伎町タワーで演じられている。この建物は、新宿ミラノ座の跡地に建てられ、昨年完成した。かつてのミラノ座は大スクリーンを要する映画館であった。この近くの高校に通っていた私は、同級生と一緒にピーター・オトゥール主演の「アラビアのロレンス」を見にいった。アラビアの砂漠をラクダに乗って行軍するピーター・オトゥールの顔が巨大な画面に映し出され、憂いの籠った表情を今でも鮮明に覚えている。新築なったタワーの6~8階には、ミラノ座の名前を受け継いだ「THEATER MILANO-Za」が設けられた。開館してから1周年を迎え、満を持しての歌舞伎公開である。

歌舞伎の歴史をウィキペディアを参照しながら振り返ることにしよう。歌舞伎の語源は傾(かぶ)くである。世間の常識にお構いなしに、流行の最先端をいく奇抜なファッションで飾る人をかぶき者といった。これをまねて扮装して見せたのが、歌舞伎のルーツといわれる「かぶき踊り」である。「かぶき踊り」は女性の出雲阿国(いずものおくに)によって京都で始められた(慶長8年(1603))*3。その後、「かぶき踊り」は遊女屋で取り入れられ遊女歌舞伎、若衆(12~18歳の少年)の役者が演じる若衆歌舞伎が始まった。しかし、いずれも風紀を乱すということで幕府に禁止される。次に登場したのが、成人男性中心の野郎歌舞伎である。歌舞伎を男性だけが演じる過程で女方も生まれ、今日の歌舞伎の基礎ができあがった。

そして、元禄年間(1688~1704)には飛躍的な発展を遂げる。この時期の歌舞伎は特に「元禄歌舞伎」と呼ばれている。特筆すべき役者として、荒事芸を演じて評判を得た江戸の初代市川團十郎と、「やつし事*4」を得意として評判を得た京の初代坂田藤十郎がいる。また、狂言作者の近松門左衛門もこの時代の人物で、初代藤十郎のために歌舞伎狂言を書いた。江戸では、当初数多くの芝居小屋が生まれたが、次第に整理され、正徳4年(1714)には中村座市村座森田座の三座のみが官許の芝居小屋として認められた。

歌舞伎の舞台が発展したのは享保年間からで、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられ、後年、宙乗りや暗闇の演出などが可能になった。延享年間(1744~48)にはいわゆる三大歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』が書かれた。

これまで歌舞伎の中心地は京・大坂であったが、文化・文政時代(1804~1830)になると、四代目鶴屋南北が『東海道四谷怪談』『於染久松色読販』など、江戸で多くの作品を創作し、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。天保3年(1832)には五代目市川海老蔵歌舞伎十八番の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」を贔屓客に配り、天保11年(1840)に 『勧進帳』を初演し、現在の歌舞伎十八番となった。

明治時代になると、文明開化・欧化改良の政策の影響を受け、歌舞伎の近代化が行われる。シェークスピア劇の影響を受け、坪内逍遥が中心となって、新時代の国民演劇にしようという運動が起きた。逍遥が明治29年(1896)に発表した桐一葉は新歌舞伎の始まりとなった。これ以後、歌舞伎界の外部にいた文学者たちが、歌舞伎の脚本をさかんに執筆した。これらの作品は、いずれも伝統的な歌舞伎の内容を否定し、西欧の近代文明から学んだ思想や文芸思潮を主題として注入しながら、演技・演出の様式はできるだけ伝統的な方法を生かそうとした。「古い皮袋に新しい酒を盛るもの」と形容された。岡本綺堂との提携で生み出した「鳥辺山心中」「修禅寺物語」などは名作で、新歌舞伎の中でも古典的作品となった。

その後紆余曲折を経て、1960~1970年代には戦後の全盛期を迎え、明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要視されるようになった。昭和40年(1965)に重要無形文化財に指定され、国立劇場が開場した。また、平成21年(2009)に世界無形文化遺産に選ばれた。

今回鑑賞したのは、長唄の舞踊『正札附根元草摺(しょうふだつきこんげんくさずり)』、軽妙洒脱な舞踊『流星(りゅうせい)』、新作歌舞伎『福叶神恋噺(ふくかなうかみのこいばな)』であった。歌舞伎町大歌舞伎のホームページには舞台写真が公開されている。

正札附根元草摺*5は文化11年(1814)正月に、江戸・森田座で初演された。四世杵屋六三郎の作曲による長唄舞踏で、幸若舞*6「和田酒盛*7」での曽我五郎と小林朝比奈との力比べを題材とした曽我物*8である。初演では、七代目團十郎が五郎を、初代男女蔵が朝比奈を演じた。今回の劇では、五郎を留めるのは、朝比奈ではなく、その妹の舞鶴である。美しい女性が、思いもよらない力強さで留めようとしたり、無理だとなると色仕掛けとなる。留め役を男性ではなく女性とすることで、軽妙さ・滑稽さが増し、艶っぽさが加わっている。ジャンルは古くからの荒事舞踊に属す。そのため古風な趣も保ち、伝統芸術として楽しめる。曽我五郎時致の役を中村虎之助が、小林妹舞鶴中村鶴松が演じた。

流星は安政6年(1859)に江戸・市村座で初演された。演者は4世市川小団次ほか、作詞は2世河竹新七(河竹黙阿弥)、作曲は清元順三であった。内容は、七夕で牽牛と織女が久しぶりの逢瀬を楽しんでいるところに、流星が雷の夫婦げんかを報告にくるというものである。雷の夫婦・子ども・婆の4役をしわけるのが眼目である。流星の役を中村勘九郎が、牽牛と織姫の役を勘九郎の子である中村勘太郎中村長三郎がそれぞれ演じた。親子共演である。勘太郎と長三郎の愛らしい演技は観客を和ませてくれる。しかし、何といっても素晴らしいのは勘九郎の演技力である。4役を顔の表情だけで使い分ける。幸いなことに我々の席は前から10番目だったので、表情の変化を楽しむことができた。花道に来たときは目の前だったので、写楽が描いた似顔絵を思い出させてくれた。

福叶神恋噺は、落語の「貧乏神」を、歌舞伎用にアレンジしたものである。グータラだが憎めない大工の辰五郎は、家でブラブラしているだけで仕事をしない。その辰五郎に貧乏神のびんちゃんが取り付く。貧乏神の本来の役割は、取り付いた人から取れるだけ財産を奪って働かせ、ひたすら貧乏にするのが仕事である。しかし、辰五郎があまりに仕事に行かないので、質屋に入れてある大工道具を戻すためのお金を貸してやる。同じ貧乏神のすかんぴんがそのようなことをしてはダメだと忠告するが聞き入れない。案の定、辰五郎はニ三日働いたもののまた仕事に行かなくなる。仕方がないので、貧乏神のびんちゃんが内職をして、家計を支える。攻守が逆転してしまう。そうこうしているうちに、愛想をつかして家を出ていた妹のおみつが結婚することになる。しかし、兄の辰五郎はその席には招かないという。それを聞いた辰五郎は兄らしいことをしてやれない自身の不甲斐なさを恥じ、心を入れ替えてまじめに働くと誓う。ここから一気に好転してハッピーエンドだと思った瞬間、もっとすごいどんでん返しが待っていた。以前に買ったあみだくじが当たっていると教えられる。偶然にもそれを保管していたのはびんちゃんであった。貧乏神転じて福の神となる。辰五郎は一生働かなくてもよいほどのお金を手に入れる。ここで劇は終わりである。その後、辰五郎は悠々自適な生活をおくったのか、約束通りまじめに働いたのか、あるいは元のグータラな生活に戻ったのかは、観客の解釈に任される。おびんちゃんを中村七之助、辰五郎を中村虎之助、おみつを中村鶴松、すかんぴんを中村勘九郎が演じた。福叶神恋噺は、この公演が初演である。脚本を書いたのは、落語作家の小佐田定雄さんで、彼は落語「貧乏神」の作者である。歌舞伎の方はドタバタで終わるが、落語の方はもちろん「おち」で終わる。比較すると、それぞれの味があって面白い。

最後に、歌舞伎町タワーを写真で紹介する。まずは、入り口付近。歌舞伎を見終わった人たちが帰途についている。

1階は歌舞伎横丁。かつてのこの周辺の飲み屋街を再現したのだろう。



劇場内。黒・白・柿の三色は中村屋の定式幕である。


客席の外。タワーの中なので控えめなのぼりが立っていた。


ロボットは電気が切れてぐったり。

タワーからの景色。

今回は、福叶神恋噺の初演を鑑賞できてラッキーであった。我々にも「福の神のおびんちゃん」が来ることを願って帰路についた。

*1:ウィキペディアで歌舞伎町を調べると、1945年の東京大空襲でこの辺は焼け野原となった。戦後、石川栄耀や鈴木喜兵衛らによって「歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」という復興事業案がまとめられ、都市計画担当者の石川栄耀の提案で歌舞伎町と名付けられた。しかし、この構想は実現せず、新宿コマ劇場が建設されるにとどまった。

*2:左側の地図で、中央に文とマークのある所は府立第五高女(富士高校)で、戦災で焼失し中野区へ移転。下の方にあるのは府立六中(新宿高校)である。

*3:「かふきをとり」という名称が初めて記録に現れるのは『慶長日件録』である。

*4:やつし事は高位の若殿や金持ちの若旦那などが流浪して卑しい身分に落ちぶれた姿を見せる演技、またはその演技を中心にした場面をいう。

*5:草摺は鎧の下についている防具で、草摺を引っ張って留めることを草摺引きという。

*6:幸若舞は語りを伴う曲舞の一種。室町時代に流行し、福岡県のみやま市瀬高町大江に伝わる民俗芸能として現存している。

*7:和田義盛は、相模国山下宿河原の長者のもとで、3昼夜に及ぶ酒宴をおこなう。曽我十郎祐成の愛人である虎御前を、義盛は再三招くが応じてくれない。しかし、祐成の諫言で虎御前はしぶしぶ宴席に出るが、祐成とだけ盃のやり取りをしているため、義盛の不興を買ってしまい険悪になる。曽我五郎時致は夢で兄の危急を察する。祐成のもとに向かう五郎を朝比奈三郎義秀が留めようとし、草摺引きをする。その後宴席に加わって義盛を屈服させた。

*8:曽我物は、建久4年(1193)5月28日、曽我十郎祐成(すけなり)と五郎時致(ときむね)の兄弟が、源頼朝が行った富士の裾野の巻狩に乗じ、父の仇である工藤祐経(すけつね)を討った仇討物語を題材に、能・文楽・歌舞伎などで演じられる作品をさす。

神奈川県立歴史博物館で「近代輸出漆器のダイナミズム」を鑑賞する

神奈川県立歴史博物館で「近代輸出漆器のダイナミズム」が開催されている。3月には横浜市歴史博物館で「ヨコハマの輸出工芸展」が開催された。神奈川県での主要な二つの博物館がほぼ同時に輸出工芸品を取り上げたのには何かわけがあるのだろう。

横浜が開港されてから166年がたつ。ウィーン万国博覧会で日本の美術品や工芸品を紹介してから151年である。いつの間にか明治という時代は遠くなり、歴史の中でしか語られない時代になりつつある。いや逆に、取り上げやすくなってきたともいえる。

幕末から明治への激動期において、国の仕組みを変革することに成功した理由を明解に示したのはジャレド・ダイアモンドさんの『危機と人類』である。そこでは選択的変化が優れた策であったと言っている。

この激動の時代に最も大きな荒波にもまれた地域の一つは横浜だろう。武蔵国南東の外れの一寒村に過ぎなかった横浜村が、「一夜にして」と言っても言い過ぎでないほどの短い時間で、世界を相手に貿易する国際港となった。

横浜港からは、生糸や茶などの特産品が輸出され、富を求めて国内外の商人たちが集まってきた。江戸から明治へと不透明な時代を迎える中で、司馬遼太郎の『坂の上の雲』に代表されるように、人々は夢と希望を抱いて、新しい一歩を切り開いた。これまでのたまったマグマを吐き出すかのように、新しい時代を作っていった。

この激動の時代は、編年で追う歴史ではなく、地勢・社会・経済・文化など総合的な視点で見るのが良いだろう。そう、アムール派のように。オーストラリアの歴史家のアンソニー・リードさんの『世界史の中の東南アジア』は、大いに参考になると思う。

今回の特別展で取り上げているのは漆器だが、展示の半分近くは、幾何学模様が美しい寄木細工である。なぜ、この展示の担当者はこの点を強調せず、漆器としたのだろう。横浜港が開港された前後の状況を考察すると理解することができる。開国された後、江戸幕府万国博覧会へ浮世絵や工芸品を出品したが、この頃から、ヨーロッパの芸術家たちは大きな影響を受け、日本に関心を持ち始め、いわゆるジャポニズム(仏:Japonisme)が誕生する*1

それでは、ジャポニズムの語源となっているJapanは、何を意味するのだろう。固有名詞のJapanはもちろん日本だが、普通名詞のjapanは漆を表す(ちなみにchinaは磁器である)。Japanese furnitureは日本家具だが、japan furnitureは漆器家具である。この当時、日本の商品を取り扱っていた外国の人々が、漆器を利用して製作された家具とそうでないものとを厳密に区別していたとは考えられない。彼らは日本から輸入される工芸品や家具を一緒くたにし、ジャポニズムに象徴される東洋的神秘性にあふれたものとして、japan craft, japan furnitureと呼んだのではないだろうか(Oxford English Dictionaryによれば、japanという単語が現れるのは1577年で、日本由来の硬質ワニスを意味していた。後にそのようなものへと意味が拡張されたとなっている)。今回の展示の担当者の意図も、輸出された工芸品の性格を強調するために、輸出漆器にしたのだろう。

最初に、工芸品が欧米に紹介された経緯を説明する。輸出工芸品の歴史については、國學院大學の創立140周年記念企画「近代工芸の精華」の中で、述べられている。簡単にまとめると、次のようである。

日本の工芸品を初めて欧米に紹介したのはシーボルトで、日本で集めたコレクションをオランダで展示した*2シーボルトは、オランダ商館の医師として来日(1823年)し、長崎の鳴滝塾で、高野長明などの医者・学者に、西洋医学(蘭学)を教授した。5年間滞在した後、帰国時にシーボルト事件を起こす。帰国する際に、幕府禁制の日本地図を海外に持ち出し、それが発覚して国外追放となる。その時一緒に持ち出した美術品や工芸品などのコレクションを、オランダ・ライデンのシーボルトハウスで公開した。時を経て国王のものに、そしてライデン国立民族学博物館(現在はオランダ国立世界文化博物館)の所有となった。

日本が日米和親条約で下田・箱館の開港で開国(1854年)し、日本とオランダの間で修好通商条約(1858年)が結ばれると、シーボルトの国外追放は解除され、開国5年後に再来日した。3年ほど滞在の後に、収集品とともに帰国した。彼のコレクションは、オランダのアムステルダム、ドイツのヴュルツブルクミュンヘンで展示され、両国での日本の美術品・工芸品の紹介に貢献した。これらは、現在はミュンヘン五大陸博物館に所蔵されている。

工芸品や美術品は、当時始まった万国博覧会を通しても、紹介されるようになる。

幕府は文久遣欧使節(1862年)を送った。その中には福沢諭吉も含まれており、その時の様子を描いたのが『西洋事情』である。この時、ロンドン万国博覧会(第2回)が開催されており、そこにはイギリス初代大使オールコックが自身で収集した日本コレクションが展示されていた*3

パリ万国博覧会(第2回:1867年)で、幕府は美術品と工芸品などの紹介を行った。これはエピソードだが、HNKの大河ドラマ「青天を衝け」で、渋沢栄一が将軍徳川慶喜の弟・昭武に随行して、パリ万国博覧会に参加した場面があった。この時、油絵や浮世絵と一緒に民芸品も紹介され、銀象牙細工の小道具、青銅器・磁器、水晶細工などが出品された。この博覧会では、シーボルトの子であるアレクサンダーが日本の一行を助けているが、一行とフランスとの仲を悪くしようとするイギリス側のスパイでもあった。

明治維新の後、政府は殖産興業を促進するために、輸出品の模索を行い、工芸品を重要視した。そして、明治政府として初めて、ウィーン万国博覧会(1973年)に参加し、約1,300坪の敷地に神社と日本庭園を造り、白木の鳥居、神社、神楽堂、反り橋を配置したほか、産業館にも浮世絵や工芸品を展示した。展示品は、ヨーロッパで売買・譲渡され、長きにわたって、彼の地の人々の目に触れることとなった。

次に工芸品の輸出港となった横浜港について説明する。先に述べたように横浜は、開国されるまでは寒村であった。現在横浜港があるあたりは当時は砂州であり、横浜村と呼ばれていた。砂州の内側は内海であり、江戸時代以前は小舟が入って漁をしていたことだろう。江戸時代になると、内海の奥の方は吉田新田として開発された。さらに、幕末も近づいたころ、砂州と吉田新田に挟まれた内海も、横浜新田(西側・現在は中華街)と太田屋新田(東側)として開発された。

幕末に、米国を始めとして五か国と修好通商条約が締結(1858年)され、横浜は開港された。当初は、開港地として東海道沿いの神奈川宿(現在の東神奈川)が要求されたようであったが、江戸に近いということで、横浜村に代わった。砂州と横浜新田、太田屋新田を急いで整備し、この地域を長崎の出島のように三方を川で囲み、吉田橋という一か所だけで行き来できるようにして関所を設けた。現在、この地域は関内と呼ばれるが、関所の内側ということでこのように呼ばれるようになった。そして、関内の西側を西洋人が、東側を日本人が店舗を設ける場所と区分された。

開港とともに、イギリス波止場(通称象の鼻)とフランス波止場が作られた。港は急いで作られたために、大型船は入ることができず沖に停泊した。そして、はしけや汽艇が船と波止場を往復して荷や人を運んだ。明治の中ごろになって浚渫工事(1889年)が行われ、近代的な港に生まれ変わり、日本を代表する国際貿易港となった。

横浜開港資料館の資料の中に、明治と元号が替わった年の輸出に関する記事がある。それによれば、輸出額においては生糸が約50%、蚕種が約20%、茶が15%を占めていた。これに加えて、海産物・原綿・漆器などが輸出されていたとなっている。漆器の占める割合は、明治時代は1%前後であったようで額としてはそれほど多くなかった。

最後に漆器について説明する。江戸時代の支配体制は石高制である。大名・旗本・家臣などの身分や格式は石高で序列化され,知行石高によって軍役が課された(農民に対しては、検地により石高が測られ、領主へ貢納する年貢・課役の基準となった)。石高によって大名たちの格式が定まるため、石高の変更は大名間での格差の異動に直結する。実際、津軽への石高加増は、隣の南部藩との間で深刻な抗争を引き起こした。このように、石高の変更は争いの元となるため、幕府は江戸時代を通じて、実際の石高が増えたとしても、表向きの石高(知行石高)を変えることは少なかった。そして、表向きの石高を超えての収穫や、コメ以外からの収入は、領主の利益となったため、それぞれの藩では独自の殖産興業が実施された。

漆器は日本での伝統的な工芸品であったために、多くの藩で推奨されたようである。江戸時代の北前船で活況を呈した能登半島の輪島塗もこの例の一つである。残念なことに、元旦の能登半島地震により、輪島塗の産地は甚大な被害を受けて伝統産業の維持が危ぶまれている。多くの人々が心配し、早い復興を皆が願っている。輪島塗と並んで、紀州漆器(和歌山県)、会津漆器(福島県)、越前漆器(福井県)、山中漆器(石川県) なども有名な漆器である。

伝統的な漆器に対しては、経産省伝統的工芸品の指定をしている。それらは、津軽塗(青森県)、秀衡塗、浄法寺地塗(岩手県)、鳴子塗(宮城県)、川連漆器(秋田県)、会津塗(福島県)、鎌倉彫、小田原漆器(神奈川県)、村上木彫堆朱(新潟県)、新潟漆器(新潟県)、高岡漆器(富山県)、輪島塗、山中漆器、金沢漆器(石川県)、越前漆器、若狭塗(福井県)、木曽漆器(長野県)、飛騨春慶(岐阜県)、京漆器(京都)、紀州漆器(和歌山県)、大内塗(山口県)、香川漆器(香川県)、琉球漆器(沖縄県)である。ここに指定されていない地域でも、漆器を伝統としているところもあるので、japanと表現される漆器は日本を代表する伝統工芸品と言っていいと思う。

漆器とともに、寄木細工の家具・工芸品も、輸出された。その歴史については、先に説明した「近代工芸の精華」の中で、金子皓彦(てるひこ)さんが次のように説明している。

寄木細工の歴史は古く、西アジアで3000~4000年前ごろに始まったそうである。シリア・ダマスカスでは現在も生産され販売されている。1300年前に建てられた奈良の正倉院には、西アジア製の寄木細工製品がおよそ50点収められている。シルクロードを経て唐からもたらされたものである。当時の日本には、蒔絵・螺鈿漆器技術があり、寄木細工は筝などにとどまり人気が出るところまではいかなかった。

寄木細工が盛んになったのは江戸時代になってからで、それも静岡であった。幕末には静岡製の寄木細工が外国に輸出され、飾棚がウィーン万国博覧会(1873年)で展示された。静岡の寄木細工は乱寄木で貝をちりばめた文様に特徴がある。150年ぐらい前頃から、静岡から箱根へと主たる生産地が移動し始める。箱根が観光客でにぎわったのに対し、鉄道の開通によって静岡に立ち寄る人が少なくなったのが原因とされている。さらに、静岡の昭和15年の大火と20年の戦災によって絶えてしまった。一方、箱根では、受注を受けて海外に輸出されるようになった。輸出品であったために、同種のものは国内に残っておらず、金子さんが海外で買い戻しコレクションとして遺されている。なお、両地区の寄木とも漆が塗られている*4。このようにすることで、形や艶を長いこと保つことができる。寄木細工の小寄木文様は、異なる薄版の積層材を30度・45度・60度の角度で切って、三角柱や四角柱を素材として、それらを寄せ、張り合わせることで作られる。主な文様に、三枡、市松、毘沙門、青海波、麻の葉、亀甲、六角目玉、矢羽根などがある。


先に述べたように漆器はいろいろな場所で作られていたが、それらがすべて輸出されたわけではない。寄木細工のところで、受注を受けて輸出用のものを作ったと説明したが、漆器も似たような状況にあった。

輸出された家具として知られていたのは、芝山漆器である。江戸時代後期に、上総芝山村の大野木専蔵が江戸に出て芝山象嵌*5を考案し、名前も芝山専蔵と改め、芝山象嵌を広めた。幕末に、幕府直参であった村田鋼平が、横浜港からの輸出品とした。芝山象嵌が外国商人から高い評価を得たのを機会に、横浜に職人たちが移住し分業体制による輸出向けの生産が本格化した。

明治時代中頃に行われたシカゴ万国博覧会(1893年)で、芝山象嵌の工芸品が入賞したのを契機にして、これまでの芝山象嵌とは異なる芝山漆器を作り始めるようになり、横浜には芝山師と呼ばれる職人がおよそ100人いて、海外貿易を中心に盛んに生産が行われた。しかし、関東大震災第二次世界大戦で打撃を受け、職人は減り続け、現在では宮崎輝生さんと横浜芝山漆器研究会によってわずかに命脈を保っている。なお、芝山漆器には、①材料を彫って磨いて作った芝山細工を木地に埋め込む平模様、②木でレリーフ状に鳥の体の形を作り、そこに羽の形に切取細工した貝を重ねて張り合わせる寄貝、③花びらなどを1枚1枚別に作り土台に張り付ける浮き上げの工法がある。

明治時代に輸出された工芸品は、輸出を目的にしていたために国内には存在していなかった。金子皓彦さんが欧米から買い戻すことで、明治時代に輸出された家具・工芸品を目の当たりに観察することができる。当時の工芸品を作成する技術力・芸術力の高さには、脱帽させられる。それと同時に、海外の趣味に合わせて輸出品を生み出した思考の柔軟性も素晴らしい。ジャレド・ダイアモンドさんが、明治時代の成功は「選択的変化」と言ったが、ここにもそれを見ることができる。伝統技術を生かしながら、欧米の嗜好や生活スタイルに合うように変化させて輸出した。今日でも学ぶところが多いと思う。

*1:ジャポニズムは、日本からの陶磁器のパッキングや茶箱の外側に貼られた多色刷りの浮世絵の収集から起きたと言われている。特に歌川広重は、茶箱に貼られた浮世絵の絵師として知られ、茶箱広重と言われた。

*2:オランダとの貿易では、江戸時代初期はベンガルやトンキン産の生糸を輸入し、銀を輸出した。 中期以降は、羅紗・ビロード・胡椒・砂糖・ガラス製品・書籍などを輸入し、銅・樟脳・陶磁器・漆製品などが輸出した。

*3:万博で日本の美術品・工芸品が初めて紹介されたのは、このロンドン万国博覧会に先立つパリ万国博覧会(第1回:1855)で、オランダが日本の家具・陶磁器・板画・書物などを紹介した。

*4:本間寄木美術館のホームページでは、寄木に何を塗っているかの質問に対して次のように答えている。江戸・明治・大正までは漆を塗っていた。しかし、漆は透明でないため、薄い茶色の色合いになってしまう。そこで、木そのものの色を表現しようとして、昭和初期から50年頃まで蝋、ニス、ラッカーを塗っていたが、現在は透明なポリウレタン塗料を使っている。

*5:象嵌は英語でDamascening、シリアのダマスカスが語源とされている。