bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

長野・善光寺を訪れる

この季節は日が長い。長野に戻り、ホテルにチェックインしてしばらく休んだ後でも、陽が高かったので、善光寺詣りをすることにした。善光寺には子供の頃からたびたび訪れているので、よく知っているはずの寺だが、その由来については知らない。Wikipediaで調べてみると、その創建は不明であった。善光寺縁起に関する一番古い記録の『扶桑略記』(1107年以前成立)によれば、「欽明天皇13年(552)10月13日、百済国から阿弥陀三尊が渡来し、摂津国難波津に着いた。その後37年を経て仏法が一般に行われるようになった。この三尊がわが国最初の仏像であるところから本師如来と呼ばれるようになった。推古天皇10年(602)4月8日、仏の託宣があり、信濃国水内郡にお移しした。この仏像がすなわちいま善光寺の三尊である。ある記に云う。信濃国善光寺阿弥陀仏がすなわちこの像である。推古天皇の御時壬戌4月8日、秦巨勢大夫に命じて信濃の国にお送りした。」となっている。

善光寺長野駅から2kmの距離にあり、歩いて30分弱である。歩き疲れたと感じた頃、仁王門に辿りついた。流石に立派な門である。大正7年(1918)に再建された。

高村光雲作の仁王門。


山門へと向かう参道

釈迦堂。本尊の銅造釈迦涅槃像は重要文化財

重要文化財の山門。寛延3年(1750)に完成。


大勧進天台宗の本坊。善光寺無宗派の単立仏教寺院である。山号は「定額山」で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって維持・運営されている。

国宝の本堂。


重要文化財の経堂。宝暦9(1759)年に完成。内部には元禄7年(1694)に寄贈された鉄眼黄槃版『一切経』全6771巻が納められている。

むじな灯籠。下総国のむじなが、殺傷をしなければ生きていけない自らの罪を恥じ、人の姿に化けて参詣した。むじなは灯籠を寄進したいという願いを持っていたが、宿坊でむじなの姿のまま入浴したところを人に見つかり逃げ去った。むじなの思いを宿坊の住職が知って灯籠を立てた。

日本忠霊殿。戊辰戦争から第二次世界大戦までの戦没者を祀る慰霊塔で三重塔の形になっている。

ぬれ仏。明暦の大火を出したといわれる八百屋お七のためという伝承があるため「八百屋お七のぬれ仏」ともいわれる。

帰りは流石に疲れたので、長野電鉄善光寺下駅よりホテルに戻った。

善光寺はいつ訪れても混んでいたが、この日は夕方だったためか、山道にはそれなりの人数の参拝者がいたが、境内に入るとがら空きで、初めてゆっくりと参拝することができた。また国宝や重要文化財の建物も人に邪魔されることなく、その重厚な姿を写真に収めることもできた。

森将軍塚古墳館で大規模な竪穴式石室を見学する

古墳を見学した後は、出土品を展示している古墳館を見学した。2階の展示室に入室してまず目につくのは、中央部に設けられた大きな竪穴式石室である。古墳での埋葬方法は、竪穴式石室、粘土槨、横穴式石室など複数種類ある。竪穴式石室は、他の埋葬施設と同じように棺を納める場所であるが、その納め方に次のような特徴がある。棺を収納した後、側壁をさらに積み上げ、大きな石などで蓋をして、棺を守るように包み込むように守る施設で、縦方向からの作業に特徴がある。

森将軍塚古墳の竪穴式石室は、長さ7.6m、幅2m、高さ2.3mで日本最大規模、床面の幅が特に広いのが特徴である。この石室は、「墓壙」と呼ばれる二重の石垣で構築された穴の中に築かれる。墓壙は、長さ15.0m、幅9.3m、高さ2.8mである。石室内には先ほど説明したように木棺が納められる。
竪穴式石室を見てみよう。石を並べていくだけの構造物だが、科野のクニの王の遺体を埋葬するために、多くの人の労力と協力を必要とする作業を伴っている。そして置石で内部の空間を維持させる工法も持ち合わせていなければならないことも分かる。


森将軍塚古墳のジオラマ。古墳が築かれた時代の人々は、田の作業に疲れた時、一休みしながら、遠くに目線を置いてこの大きな構造物を山の中腹に眺めたことだろう。

埴輪。左奥から円筒埴輪、壺型埴輪、円筒埴輪。手前は左から家形埴輪片、匏(ふくべ)型土製品。埴輪で墓を囲むことで、死者が住む特別な聖域にしたのだろうか。このころの宗教観については、あまり分かっていないようである。

墓の中に埋葬されていた副葬品。三角縁神獣鏡の一部と模型。ヤマト王権との繋がりを示すもので、それが強い場合には中国製の大型の鏡が、弱い場合には和製の小さな鏡が贈られたようだ。とても貴重なものだったことだろう。

剣。鏡と同様、これも威信材の一つ。

剣と管玉。

矢じりと管玉。

埴輪を棺として利用。この時代は幼児の死亡率が高かった。幼児を葬るときに、二つの埴輪を向かい合わせにして繋げ棺にした。

須恵器大甕。5世紀初め、日本で須恵器が焼かれ始めた頃のもので、形の特徴や材質の分析から大阪府堺市近くで作られ、ここに運ばれてきた。古墳時代の物流を示す貴重な遺物である。鏡や剣だけでなく、日用品も交流品として使われていたことを示す。

古墳から出土した土器。

この時代の土器(灰塚遺跡)。土師器が多い。須恵器はまだ貴重品だったのだろう。

また屋外には古墳時代のムラが復元されていた。人々は竪穴住居で生活していた。

倉庫は、湿気ないように、高床になっている。

住居をもう少し詳しく見ていこう。



見学が終わった後、しなの鉄道で長野へ向かった。列車は一時間に1~2本しか来ない。全ての人がと言っていいくらい、車での生活になっているので、極めて補助的な役割しか担っていない。

昨日、森将軍塚古墳を見学してきたと、ボランティアの仲間に紹介したところ、長野と東京を行き来している人がいて、新幹線からも見えると教えてくれた。大きな構造物をつくったものだと、いまさらながら感心させられた。古墳を作る技術が、農業技術の発展をもたらし、この発展が、さらなる土木工事の発展をもたらしたのだろう。技術史の観点からも、この古墳が教えてくれるものは大きい。

長野県千曲市の森将軍塚古墳を訪れる

多くの人がコロナは収束したと思っているのだろう。そして堰を切ったように集まる機会が増えた。今回もそのひとつ。中学2年まで在籍した学校の仲間から、クラス会を開催するので参加して欲しいと連絡があった。これには高校時代と退職する頃に参加しただけで、同級生たちの顔はほとんど思い出せない。どうしようかなと悩んでいたのだが、前後に楽しい古墳巡りを入れて、参加することにした。

前に入れたのは長野県千曲市にある森将軍塚古墳。少し変わった古墳で、尾根の上にあり、地形の関係で変形の前方後円墳になっている。ここへは、北陸新幹線長野駅に行き、JR信越本線しなの鉄道に乗り換えて屋代高校駅前で下車。さらに歩いて23分。

長野駅で昼食をとろうと予定していたのだが、乗り換え時間があまりなく、降車駅にお店ぐらいあるだろうと東京の感覚で向かったのが大間違い。そこには自販機の他は全くなにもない。駅からは、山の中腹に古墳が見えているが、随分と遠くにあるように感じられる。

当然のこと、駅にはバスやタクシーなどの交通手段は見当たらない。仕方がないので、目的地までの間でコンビニに出会うことを期待してトボトボと歩いた。住宅だけが並んでいる道に沿ってだいぶ歩いたと思った頃、大きな公園が現れ、子供たちが賑やかな声を上げ走り回っている。そこは目指した森将軍塚古墳近くの公園だった。

公園内にある古墳館に入ると、やはり自販機以外はなにもない。昼食はあきらめて、近くにいた学芸員に古墳まではどのくらいかかるのかと聞くと、バスがあるという。歩くと坂道で20分以上かかると言われた。先々のことを考えて、体力を残しておきたかったので、バスで上がることにした。乗り場を教えてもらいそちらに向かった。乗客は私だけ、貸切状態での利用となった。古墳に着いたところで40分後に迎えにきて欲しいと依頼して、バスを降りた。

この辺りは古事記では科野(しなの)のクニと呼ばれていた。古墳時代前期(4世紀初めから中葉)のものとして、長野県内の各所で前方後方墳が発見された。その後ヤマト王権とのつながりができたのだろう、前方後円墳が各所で構築された。特に長野市南部から千曲市にかけて、森将軍塚古墳、川柳将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳など県内最大級の前方後円墳が集中して築造された。6世紀になると、前方後円墳の中心地は善光寺平から飯田盆地へと移動した。また7世紀になると科野のクニは、令制国信濃国となった。

それでは森将軍塚古墳を見てみよう。この古墳は4世紀末築造、全長が約100メートルである。古墳の前方部から後円部を望む。地形の関係で、前方部と後円部を一直線上に構築できなかったようで、後円部が右側に傾いているのが特徴である。前方部も後円部も円筒埴輪で囲まれ、前方部は祭祀を行うところで、後円部は墓である。

前方部から後円部を望む。祭祀は上にある墓を拝みながら行ったのだろう。

後円部を見る。景色の良いところで、墓の中に眠っている王は、眺望を楽しめたことだろう。

古墳から善光寺平を見る。古代の景色を想像してみる。一部は水田で、他は雑木林だったのだろうか。

古墳館を上から見る。

古墳を側面から見たところ。前方後円墳は、階段のようになっているものが多いが、この古墳にはそのようなものは見かけられない。狭隘な場所のため、余地がなかったのだろう。葺石が綺麗に並んでいる。今日に続く大型土木工事の始まりとも言える。また古墳の周りには幾つもの組合式箱型石棺が発見されている。これは古墳との関係が深かった人々の墓と考えられている。

有明山将軍塚古墳。全長が33mの小規模な前方後円墳で、6世紀代の築造と考えられている。林となっているため、全容を写真に収めることはできない。

森将軍塚古墳の後、尾根に沿って13基ほどの小円墳が築造された。これらは森将軍塚古墳を祖先と仰ぐ人々の墓として築造されたのであろう。

2号墳。上の写真で一番右側にあるもので、小円墳の中では最も大きく最初に築造された。

前方後円墳の周りにあるる組合式箱形石棺の復原展示で、13号石棺である。

この古墳はテレビでも紹介されたことがあり、一度訪問してみたいと思っていたが、今回、願望が叶ってよかった。テレビでは、俳優がかなりの急坂を息を切らせながら登っていく様子が映し出されていたが、今回は古墳までのバスが利用できとても快適であった。変形した前方後円墳は、葺石できれいに整備されていて、古代の出来立ての頃を余りあるほどに想像させてくれた。また古墳からの善光寺平の眺望は素晴らしく、千曲川によって作られた盆地の様子がよく分かった。この後、古墳館に戻って見学した。

横浜開港とともにやってきたハード家の子孫とゆかりの地を訪ねる

カリフォルニアの友人から、知人が日本を訪れるので、案内して欲しいと依頼があった。先日、その彼女からメールがきて、日本の歴史に特別に興味を持っているという。横浜開港直後に、最初に日本を訪れた商人とゆかりがあるとも書かれていた。少し調べてみると、商人の名前はオーガスティン・ハードで、中国で商売をしていたと分かった。1859年に彼の代理人が来日し、ハード商会を開設した。子供のいない彼は、甥の4人を子供のように思い、商売を手伝わさせた。今回訪問される彼女の夫は、甥の子孫とのことである。

早速インターネットでさらに詳しく調べてみると、横浜開港資料館にハード商会のコレクションがあることが分かった。資料館のホームページには、「ハード商会は、19世紀半ばに広東で設立されたアメリカの有力商社で、中国から欧米向けに茶と絹を主力製品として交易し成長を遂げた。日本が開国されると直ちに日本へ進出し、長崎・横浜・神戸に支店・代理店を構えた」となっている。

また平成9年の横浜開港資料館館報58号には、「開港後、横浜に最初に進出した外国商社は、「英一番館」という名前から受ける印象や、当時東アジアで最大の商社であったところから、ジャーディン・マセソン商会だという俗説が存在するが、事実はそうではない。最初に商船を派遣したのはハード商会というアメリカの商社で、船の名をウォンダラー号という。その代理人をドアといい、アメリカの神奈川駐在の初代領事だった。ウォンダラー号は、総領事から公使に昇格したハリスが乗ってきた軍艦ミシシッピー号と一緒に、開港前日の安政6年6月1日(これは旧暦の日付、新暦では1859年6月30日)に入港した。入港手続きは条約発効期日の翌2日に行なっている。ハード商会とは、アメリカのマサチューセッツ州出身の商人、オーガスティン・ハードが1840年に広東に設立した貿易商社で、1856年に香港に本店を移した。当時東アジアで最大のアメリカ系商社をラッセル商会といい、オーガスティン・ハードはその出身である。また「アメ一」として知られる横浜のウォルシュ・ホール商会の設立者トーマス・ウォルシュもそうである。ハード商会は、一時ラッセル商会と並び称せられるほどの有力商社になるが、1870年以降衰退し、明治9年(1876)には横浜から撤退した」と説明されている。

二代目の代理人であるフィールドが着任後、1860年に海岸通り6番(1064坪)と水町通り27番(554坪)に新社屋を建設し、乗り出したことも分かっている。

さらに調べていて分かったことだが、1860年オーガスティン・ハードの甥の家に、女の子エミーが誕生する。この年は、リンカーン大統領が大統領になる前の年、また、南北戦争が始まる前の年である。今回来日された方はエミーの孫と結婚された。そのお嬢さん、すなわちエミーの曽孫になる方が、祖先に興味を持たれ、今回の散策に加わられた。お嬢さんは日本のある付属中高校で英語の先生をしている。また曾祖母と同じ名前でもある。曽祖母の若いころの写真をホームページから得ていたので、これを見せると、お嬢さんにそっくりなのでみんなでビックリした。さらに彼女には食物アレルギーがあるが、これもハード家の血を引くものの宿命だそうだ。

この日のコースは下図の通りである。横浜中華街で食事をとり、ハード家がオフィスを設けたとされる場所を訪ね、横浜開港資料館の資料室でコレクションを閲覧し、時間があれば神奈川県立歴史博物館を訪れる予定であった。

運の悪いことに天気に恵まれず、小雨の中、時々土砂降りに会いながらの散策となった。中華街は、雨にもかかわらず、若い人たちでごった返していた。食事は、アレルギーの対応をしてくれるという王府井酒家でした。写真を撮らなかったので、お店のホームページから。

この店は小籠包がお勧めらしいのだが、小麦粉が含まれているので断念した。醤油も小麦粉を含んでいるということなので、全て塩味に変えてもらい、単品料理を4種類オーダーし、皆でシェアした。味のよい店だったので、次回は小籠包に挑戦しようと思っている。

ハード商会がオフィスを開設した場所は、ホテルニューグランド神奈川県立県民ホールの間の場所である。ニューヨーク公共図書館には、1861年に橋本貞秀が描いた『再改横浜風景』が所蔵されている。これからは開港当時の横浜の建物は、一棟を除いて、全て日本家屋であることが分かる。ハード商会の建物も日本家屋であったと推測される。

慶応2年(1866)には、港崎遊郭の西にあった豚肉料理屋五郎宅から出火、遊郭が燃え上がり、遊女400人以上が焼死、外国人居留地日本人町も焼き尽くされた。その後、遊郭高島町に移り、遊郭跡地は1876年には避難所も兼ねた洋式公園(現在の横浜公園)となり、横浜居留地の日本家屋は西洋風へと改められたいった。

ちなみにホテルニューグランドは1927年に開業した。設計は渡辺仁。下の写真はウィキペディアから。ハード商会が建てられた場所は、この右側になる。

この日は、ワールドトライアスロンシリーズが行われており、雨の中を選手たちは一生懸命に走っていた。

寄り道をしたわけではないのだが、道々にあったいろいろなものを見たためか、横浜市開港資料館に着いたのは3時近く。あらかじめ資料館の方に連絡をしておいたので、参考になりそうな文献やコレクションのリストを用意してくれていた。ハード家ゆかりの二人は、資料を閲覧したりそのコピーをとったりして、短い時間の中で、たくさんの情報を得たようであった。こちらはこの春に撮影した横浜市開港資料館である。

今回の散策はここで切上げた。あいにくの雨で手がふさがってしまい、写真を撮れる状況になかった。ハード家ゆかりの二人の写真が残らず、残念なことをしたが、ルーツ探しをした二人には満足な一日となったようである。我々も思いがけない出会いによって、日本と米国の懸け橋となった家族と親しく話をすることができ、素晴らしい一日であった。

下の写真は、英語版のウィキペディアからで、1860年当時のオーガスティン・ハードの香港の邸宅。日本での写真も残されていると良かったのだが、活動している期間が短すぎたようだ。

追伸:横浜開港の頃の状況を簡単にまとめておこう。英国は三角貿易でインドから中国へは阿片、中国から欧米へは絹・茶、英国からインドへは綿製品を輸出していた。米国の商社も同じような状況にあったのだろう。アヘン戦争(1840-42)で中国との貿易が縮小しそうになる中で、次の新天地の日本を目指し、日米友好通商条約(署名1858年、発効1859年)を締結した後に、欧米の商社が横浜などに事務所を開設し、絹・茶、陶器などを扱った。ハード家もその一翼を担った。ちなみに曽祖母のエミーはパリで誕生し、波乱万丈の人生を送られたようで、お孫さんが800ページにも及ぶ本で紹介している。

江ノ電沿線巡り

4月の中頃に歴史を楽しんでいる仲間と、江ノ電沿線巡りをした。外国人の姿は多く見かけたが、まだ連休前ということもあり、日本人の観光客はそれほどではなかった。最近は、江ノ電は大変人気のある路線で、地元の人たちの利用もままならないほど、観光客で混んでいるようである。いい時期に行って良かったと感じている。

この散策は、藤沢駅で集まり、極楽寺まで行って、江の島の方に戻ってくるルートである。訪れた主な場所は、社会的弱者の救済で知られる忍性ゆかりの極楽寺新田義貞の幕府討伐で有名な稲村ケ崎、鎌倉入りを許されない義経が頼朝への書状を書いたとされる満福寺、日蓮上人法難の地に建てられた龍口寺などである。

それでは沿線巡りに出発してみよう。極楽寺駅で降りて、左手の坂を上り詰めるとT字路になる。右側に行くと成就院を過ぎ、極楽寺切通しに至る。有料の湘南道路が開通する昭和30年ごろより前は、江の島方面から鎌倉に行くためには、極楽寺切通しを通るしか道はなかった。ここは元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めを行った時の激戦地である。T字路左側に行くと極楽寺である。ここでまず目につくのは、江ノ電極楽寺のトンネルである。これは全長が200m、日露戦争が終了し、恐慌が始まった明治40年(1907)に竣工した。

T字路を左に曲がった後、極楽寺には向かわずにまっすぐ進んで、熊野新宮に向かう。ここは極楽寺の鎮守で、文永6年(1269)に忍性が信仰していた熊野本宮から勧請した。

境内には千服茶臼があり、これは忍性が悲田院癩病所を設けたときに使われたとされている。

戻って、極楽寺の山門(文久3年(1863)に建立)。

極楽寺は、創建が正元元年(1259)で、奈良・西大寺叡尊が中興の祖、空海が高祖で、開山は良観房忍性である。忍性は、福祉と土木事業で貧民・庶民の救済にあたったことで有名である。開基は、北条重時で、彼は鎌倉幕府二代執権・義時の三男で、三代執権泰時の弟である。六波羅探題を17年間務め、その後鎌倉に戻り、五代執権時頼を連署として補佐した。極楽寺は、かつては広大な土地を有し、講堂・塔・七堂伽藍・四十九院を持つ鎌倉有数の大寺院であった。忍性は、域内に、施薬院悲田院(身寄りのない老人・孤児)・福田院(貧困者)・癩病院・馬病屋などの施設を設け、貧民の救済慈善を行った。また、極楽寺切通しの開削をはじめとして多くの道路の改修、橋の造営を行い、和賀江嶋の管理も任され、財源とした。
客殿。

次は、稲村ケ崎後醍醐天皇天皇親政に燃え、鎌倉幕府を倒すために、大社寺や畿内の小武士団を主力に挙兵したが一旦敗北する。しかし護良親王楠木正成らの執拗な軍事行動で幕府軍は分裂。関東の豪族足利尊氏新田義貞らが幕府に背き、元弘元年(1333)の夏に、六波羅探題足利尊氏に、鎌倉は新田義貞に攻められる。新田荘から出陣した義貞は、鎌倉街道を通り、途中、分倍河原の戦いなどを経て、鎌倉へと進軍し、3隊に分割し、化粧坂極楽寺坂、巨福呂坂のそれぞれの切通しから総攻撃をするが、いずれも失敗した。その2日後に義貞は極楽寺方面の援軍として、稲村ヶ崎へと駆け付け、翌未明に、潮が引いたときを利用して、稲村ケ崎を突破し鎌倉へと侵入し、幕府軍を壊滅した。その稲村ヶ崎

新田義貞が、稲村ヶ崎の岩頭に立って黄金の太刀を捧げて海神に祈ると、みるみると潮が引いて兵が鎌倉に入ったと「太平記」は伝えている。その碑がこれ。

逗子開成中学の生徒が、明治43年(1910)に海難事故で亡くなったことを悼んでの碑。

北里柴三郎が、師のベルト・ゴッホの来日を記念して建てた碑。二人は鎌倉の霊山山を訪れている。

次は義経ゆかりの満福寺。

義経に因んだ鎌倉彫の襖絵がたくさん飾られている。静御前の舞。

腰越状」を書く義経

雪の中、都を逃れる常盤に抱かれた牛若丸。

弁慶とともに雪の中を平泉の藤原氏のもとに向かう義経

本堂。

腰越状」を書く時に墨を摺る水を汲んだといわれる硯の池。

次は常立寺。この寺があるところは、鎌倉時代には「誰姿森(たがすのもり)」と呼ばれ、龍ノ口刑場で処刑された人たちを埋葬する墓域であった。真言宗の回向山利生寺という廃寺があったそうだが、武蔵の碑文谷吉証院法華時の僧・日豪が天文元年(1532)に鈴木隼人という人の寄進を受けて常立寺を建てた。
その本堂。

「元使塚」は建治元年(1275)に斬首となった、蒙古からの使者、杜世忠以下5人の供養塔で、白鵬をはじめとしてモンゴル出身の力士が折に触れて参詣している。

山門。

鐘楼。

7代将軍・徳川家継法名・有章院殿と刻まれた増上寺の石灯篭がある。

最後は龍口寺。ここは日蓮上人が法難にあった地に建てられ、威風堂々とした伽藍の本山である。建立は、延元2年(1337)で、高弟六僧に次ぐ日法上人が一堂を建立した。龍口法難のときに座らされた「首の座の敷石」と「自作の日蓮像」を安置したのが始まりと言われている。慶長6年(1601)に、日蓮宗の信心篤い加藤清正が、池上本門寺12世日尊上人に祖師堂(敷皮堂)の建立を願い出て、御堂が完成した。明治19年(1886)までは住職が不在で、近隣の八ヶ寺が輪番で守務を行っていた。
刑場跡。文永8年(1271)は、前年からの干ばつで大飢饉だった。日蓮禅宗・浄土宗・真言宗真言律宗鎌倉幕府を激しく非難した。鎌倉の混乱を危惧した幕府は、日蓮をとらえて佐渡への流刑を命じるが、実は途中で首をはねるつもりであった。龍ノ口の刑場まで連れてこられた日蓮は、石の上に座らされて太刀で首をはねられようとした時、江の島方面から光の玉が飛んできて、太刀は三つに折れ、他の武士たちも弾き飛ばされて、刑を執行できなくなった。一晩留め置かれたのち、佐渡へ流され、文永11年(1274)に赦免された。

仁王門(昭和48年(1973)竣工)と仁王像(浅草の宝蔵寺の金剛力士などを制作した村岡久作氏の作)



山門。元治元年(1864)に、大阪の豪商・鹿嶋屋が寄進した。

山門の彫刻。江戸彫師の流れをくむ彫師による中国故事の透かし彫り。

大本堂。天保3年(1832)竣工、欅造り銅板引きで、県内の代表的な木造建築物である。

五重塔明治43年(1910)竣工、欅造り銅板引きの禅様式の簡素な造りで、県内唯一の本式木造五重塔である。

猛威を振るったコロナもやっと収束し、久しぶりの集団での散策で、それぞれの知識を披露しあいながら、江ノ電沿線の旅を楽しむことができた。このような機会が増えればよいと思うのだが、観光客がこれ以上増えた折には収拾がつかなくなるのではと、余計な心配もしなくてはならない。どちらにしてもなかなか上手くはいかないようである。

スティッキオで魚介類のマリネと豚肉巻きに挑戦した

野菜に恵まれた季節なので、JAに立ち寄って珍しい食材をあさっていたら、針葉樹のように細い葉が目立つスティッキオに興味を惹かれた。ハーブの一種で、イタリア野菜のように見える。

ネットで調べると、トヨタ種苗が鱗茎があまり大きくならないように、フェンネルを品質改良したそうだ。鱗茎に価値がありそうなので、レシピを調べて、魚介類のマリネと豚肉巻きを作った。
マリネのために、近くのスーパーで刺身を購入。

スティッキオ1本を2mm間隔で斜め方向に細切りにし、たまねぎ1/4個を同じく2mm間隔で繊維を切るようにスライスした。

マリネの液は、酢大匙4杯、オリーブオイル大匙4杯、砂糖小匙1杯、塩小匙1/4杯、黒胡椒適量で作った。

容器に、魚介類の上に野菜、さらにもう一回繰り返して魚介類の上に野菜を積んだ。

上からマリネ液をかけ、容器に蓋をして、冷蔵庫で数時間寝かせた。

豚肉巻きは、鱗茎の束から一本一本外して、適当な長さに切断。

薄切りの豚肉に、小麦粉をまぶし、鱗茎に巻いた。

ニンニクひとかけを細かく切って、オリーブオイルで軽く焦がした。

その後、茎に巻いた肉を入れて焼いた。

それぞれお皿に盛って、アルゼンチン産のマルベック種のワインで、食した。

スティッキオは、臭みも無く、魚貝類と調和し、さらにはワインともよく合って、楽しむことが出来た。

端午の節句に大凧まつりを見学する

相模原市で、「相模の大凧まつり」が4年ぶりに開催されていると聞いたので、見学に行った。この祭りは天保年間に始まり、大凧をあげるようになったのは明治の中頃、天保から数えると200年も続いているそうだ。当初は個人的に子供の誕生を祝って揚げられていたのが、次第に地域的なつながりを持つようになり、豊作祈願や若者の意思や希望の表示、さらには国家的な思いを題字に込めて揚げられるようになったそうである。相模川新磯地区の川べりの4会場で催されている。私は、JR相模線の相武台下駅から最も近い新戸会場へと向かった。

会場には10時半ごろに着いたが凧は一つも揚がっていなかった。風を待っていたのだろうか、会場の周囲を一当たり見学して、どこか座る場所を確保しようと考えた頃、最初の凧を揚げるというアナウンスがあった。しかし揚げる人が足りないのだろうか、お手伝いしてくださいという放送が何回か流れた後、やっと凧が揚がり始めたらすぐに失速し、地表に戻されてしまった。

3度目の挑戦で、やっと天高く(?)舞い上がった。中ぐらいの大きさの凧で、題字は今日の世情を反映して「平和」。

しかし、残念ながら長いこととどまることができず、選手交代となった。

次は小ぶりの凧で、こちらの方は難なく揚がり、いつまでも天空にとどまっていた。
写真では小さすぎてよくわからないが、凧が揚がり切ると、凧を引っ張っているひもに沿って、鯉のぼりも上がっていった。端午の節句にちなんだひとコマ。

隣の広場では、「勝風」と書かれた大ぶりの凧(縦・横14.5m,950kg)が舞っていた。この題字は、今年度の公募によって決められたもので、「災いに勝ち抜く頼もしい風が吹くことを祈念する」という意味が込められているそうである。

目の前に大凧があり、これが揚がるのを見届けたかった。

風しだいのようでいつその時が来るのか不透明なので、後はテレビのニュースで楽しむこととし、この場を離れた。保存会の人々は、伝統の行事を継承していくことに生きがいを感じ、凧が上がった時の快感を忘れられないことだろう。4年ぶりとなった祭りを、神様も祝福したのか、昨日・今日と晴天に恵まれ、観客にとっても思い出に残る良い祭りであった。

ウクライナのボルシチに共同で挑戦

久しぶりに夕飯を作った。と言っても共同作業。このところずっと、朝を作るのは私、昼と夜は妻と固定し、日常生活もそれに合わせて組み立てられている。数日前、散歩をしている時、朝の食材を得るために、通り道にあるJAに立ち寄った。珍しそうな野菜を探していると、「渦巻きビーツ」が目に入った。長く立派な茎の先に、赤い塊がついている。ビーツはボルシチに使われるが、近くの八百屋さんでは見かけることのない食材である。ビーツだけでもおやっと思ったが、さらにサラダとなっていたので、試してみようという気になった。

次の日の朝、茎の部分をベーコンと一緒に炒めて食した。そして塊はそのうちサラダにしようと思っていたら、妻は端からボルシチにと思ったのであろう。携帯でレシピを調べて、情報を伝えてくれる。サラダに使うつもりだと言う機会を逸し、ボルシチにいつの間にかなってしまった。そして少し離れた大型のスーパーで必要な材料を仕入れ、トライした。今回利用したのは、以下の食材。

野菜は、ビーツの他に、玉ねぎ、にんじん、キャベツ、じゃがいも。ビーツが2個であとは1個ずつ。キャベツは適当にである。さらにトマト水煮缶。
肉は、牛肉の塊を300g。
油として、オリーブオイルとバター。
香辛料として、塩、胡椒、マギーブイヨン3個、ニンニク。
飾りとして、サワークリーム、パセリ(本格的にはディル)。

ビーツをざく切りにしてビックリ。中まで真っ赤だろうと予想していたが、赤と白の輪が交互に繰り返されている。ボルシチ特有の真っ赤なスープにならないのではと、この段階で心配になった。

ビーツを柔らかくする必要がある。本格的に料理するときは、お鍋に水とビーツを入れて、時間をかけて茹でるのだが、ここはサボって、電子レンジを使って、串が楽に通るくらいまでの柔らかさにした。今回はビーツの重さが160gで、600Wで、3分10秒を要した。

玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、キャベツを手頃な大きさに切った。

肉も同じように、

肉の表面に焦げ目をつけるために、お鍋にオリーブ油とバターを入れ、肉を入れて、表面を焦がした。


野菜も入れて炒め、水700cc、マギーブイヨン3個、ニンニクを加えて煮た。


煮立ったところでカットトマト(1/2缶)を加えてさらに30分ほど煮込み、塩と胡椒で味を整えた。

ワインは、懐かしい南オーストラリア・マクラーレンヴェイルのカベルネ・ソーヴィニヨンを選んだ。と言っても選択できるほどたくさんの瓶数はないのだが。

お皿にボルシチを盛りつけ、サワークリームとパセリをつけた。恐れていたスープの色も、トマトのおかげもあって赤色になり、ボルシチらしくなって感激。

出来上がったボルシチは、サワークリームの酸味が効き、ビーツの泥臭い独特な味と奇妙にマッチングしていてクセになりそうなほど美味しかった。またワインはとてもハードだったが、マクラーレンヴェイルのテイストで料理とよくあっていた。

四国・中国旅行ー縮景園

旅行を始めて6日目、最終日である。この日はバークレイ時代の友人との再会。前々から広島に行くので会おうと通知したのだが、返事がなくて諦めていた。ところが旅行を始めた数日後に、突然、電話があって、是非ということになり、旅行を一日延ばしての再会となった。彼とは、新婚旅行先のハワイで再会したときと、つくば万博中に彼の研究所を訪れたとき以来で、本当に久しぶりだ。世界の一線で活躍していた彼が、すっかりお爺さんになっていたのにはビックリしたが、同じように私の方もそう見えたことだろう。毎日、New York Times, Scientific American, そして物理の学会誌を読んで過ごしているとのこと、彼が話題にしたのも最先端の物理学の動向で、精神的な若さはかつてと変わりがなかった。奥さんと一緒に、広島駅近くの縮景園を散策しながら話に興じた。もっとも彼の方がほとんど話していたが。

縮景園は、広島藩主浅野長晟(あさのながあきら)によって、元和6年から別邸の庭園として築かれた。作庭者は茶人として知られる家老の上田宗箇だが、現在の庭園の原型は、京都庭師の清水七郎右衛門による後の大改修によって形成された。

公園の案内図。

案内図に中央に池があるが、右上にあずま家があり、そこからの池の風景。



案内図の池の左上あたりからの風景。

お昼には、駅前近くの店で、釜揚げシラスをご馳走になり、夕方の新幹線に乗るまでの間ずっと話し続け、何十年ぶりともなる再会を懐かしんだ。

四国・中国旅行―宮島

旅行5日目は宮島訪問である。案内してくれたのは、かつての職場の同僚で、私が退職した後に広島で新たな職場を獲得し、この地に移られた方。現在は日本国籍を得られているが、元は中国の人。文化大革命後の厳しい大学入学試験に勝ち抜き、英国に留学して博士の学位を取得し、日本で職を得たとても優秀な学者である。その彼に宮島を紹介してもらうのも少し変だったが、しばらくしてその役割が逆転し、日本の中世という時代を話してあげることとなった。それでは宮島を紹介していこう。

安芸・宮島は厳島とも呼ばれ、平清盛により海上に大きな社殿が造営されたことで有名である。陸奥・松島、丹後・天橋立ともに日本三景の一つで、ユネスコ世界遺産にも登録されている。

厳島が文献に現れるのは、『日本後記』の弘仁2年(811)7月7日条で、「安芸国佐伯郡伊都伎嶋神社」と記されている。また『延喜式』(927年成立)に佐伯郡速谷(はやたに)神社、安芸郡多家(たけ)神社とともに、名神大社(日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々を祀る神社)に列せられている。天慶3年(940)の藤原純友の乱(同じ時期に平将門の乱が発生、律令制度が衰退し、武士の起こりを象徴する乱)では追捕祈祷が行われた。

平安時代末期の久安2年(1146)から保元元年(1156)まで、平清盛は安芸守となり、神主・佐伯景弘との結びつきを強めた。最初の参詣は永暦元年(1160)で、治承4年(1180)までに記録に残っているだけでも10回参詣した。長寛2年(1164)に法華経を書写して奉納、山県郡志道原荘を寄進した。仁安3年(1168)に佐伯景弘は本宮・外宮を造営、現在みられるような回廊で結ばれた海上社殿が完成した。後白河法皇・建春門院の参詣(1174)、平氏一族の千僧供養・舞楽(1177)など、一気に都の文化が開花した。弘法大師が開基したと伝承される弥山(みせん)には、平宗盛によって「弥山水精寺」銘のある梵鐘が寄進され、神仏習合も進んだ。

寿永3年(1185)の壇ノ浦の合戦後、佐伯景弘は源頼朝から長門国での宝剣探索の命を受け、厳島社では奥州藤原泰衡追討が祈祷されるなど、平氏滅亡後もその隆盛は変わることはなかった。承久3年(1221)の承久の乱の後、鎌倉幕府は各地に地頭を配置した。草創以来の神主佐伯氏に代わって、関東御家人周防前司藤原親実(ちかざね)を厳島神主とした。後に彼は安芸国守護となった。

元寇に際しては、異国降伏の祈祷が行われた(1293年)。一遍や二条尼の参詣、各地からの華厳経などの写経の奉納、足利尊氏や大内義弘の造営料寄進、博多商人からは釣灯篭、堺商人からは絵馬「三十六歌仙之図」が奉納された。

平安末期には、島内には巫女のみが居住、祭祀に使える社家や供僧は対岸の外宮に居住していた。参詣人や商人たちが多数集まるようになると島内に住むようになり、山麓には神社が立ち並び、その周辺に民家が並ぶ町が形成されるようになった。参詣者でにぎわいを見せる交易・商業都市、瀬戸内海海上交通の要所としての港湾都市の性格が加わり、俗化が進んだ。戦国時代には、大内義興毛利元就、さらには豊臣秀吉から庇護を受けた。江戸時代になると厳島詣が広まり、参詣者でにぎわった。

それでは厳島神社を見学しよう。
まずは境内図、左上に海上の大鳥居、中央部に厳島神社の本社、左下に大巌寺、中央右上に五重塔と豊国神社がある。

神社に近づくと、有名な海上に浮かぶ厳島神社大鳥居が目に入る。本社から108間はなれている。創建は明らかではない。記録に残る最古のものは仁安3年(1168)で、平清盛の造営。現在の形式になったのは、天文16年(1547)大内義孝らによる再建のときとされている。現在の鳥居は、明治8年(1875)建立。国の重要文化財

境内に入ると荘厳な厳島神社本社が見える。仁治2年(1241)再建の社殿が基本で、平清盛の厚い庇護を受けて整えられた平安末期の構成を踏襲している。国宝。


右楽房。写真の左側で観察されるように、観光客の多くが、この先の突端で、写真を撮っていた。左楽房とともに、平清盛によって寄進。国宝

能舞台。慶長10年(1605)に福島正則により造営、1680年に浅野綱長により現在の姿に再建、1991年の台風で倒壊、1994年に再建された。国重要文化財

天神社。弘治2年(1556)に毛利隆元が寄進造営。重要文化財

和様と唐様とが融合した優美な厳島神社五重塔室町時代の応永14年(1407)の創建と言われている。重要文化財

厳島神社末社豊国神社本殿。豊臣秀吉が毎月一度千部経の転読供養をするために天正15年(1587)発願,安国寺恵瓊を造営奉行として同17年(1589)ほぼ完成した。


大巌寺は真言宗、開基は不明で、鎌倉時代建仁年間(1201~1203)に了海により再興されたと伝えられている。山門。

護摩堂。

本堂。

宮島ロープウェイ獅子岩展望台より瀬戸内海の眺望


同じく弥山を望む

宮島で「あなごめし」を頂いた後、広島市郊外の彼の家へと向かった。連れて行かれた場所は、いわゆる家々が離れて建てられている散村で、その中に赤い色のフィンランド製のログハウスが異彩を放っていた。そしてそれが彼の家であった。午後は家の中でおしゃべりしたり、村を散策したりと、楽しい時間を過ごした後、近くのイタリア・レストランで夕飯を食べた。地元の人とも仲良く付き合われているとのことで、彼の生きていく力の強さを改めて感じた。そして旧交を温められ、とてもよい一日を過ごした。

四国・中国旅行ー鳴門

旅行日4日目。愛媛・松山から徳島・鳴門まで行き、最初に鳴門海峡で渦潮を見学。満潮時と干潮時には、それぞれ、瀬戸内海と太平洋の間で、海面に高さの差が生じ、高い方から低い方へと潮が流れる。鳴門付近では、本州と四国の間に、淡路島があり、特に狭い海峡を作っている。このため潮が激しく流れ、渦が生じる。この日の干潮は13時10分。我々が到着したのは11時半ごろ。大潮だったので、前後2時間ぐらいが見ごろ。ぎりぎりで枠内に入り、見事な渦潮を観察できた。


次に訪問した大塚国際美術館は、皆によく知られた名画で溢れかえっている。名前から想像できるように、大塚製薬が創業75周年事業として、平成10年(1998)に開館した。陶板により、世界の名画を千点余り、元の絵と同じ大きさで展示している。通常の絵画は、時間の経過とともに退行していくが、陶板の場合には2000年を超えても大丈夫と言われている。余りにも作品が多く、全てをじっくりと見ることはかなわなかった。走り抜けるように鑑賞したが、どれも素晴らしく、見応えがあった。その中から12点を選んだのが次である。

1. レオナルド・ダヴィンチ作「モナ・リザ」(1503-1506年頃) 所蔵:ルーヴル美術館(パリ)。ルーブル美術館で見たときは小さいと感じたが、ここではそのようなことはない。絵が明るい空間の中に置かれているためだろうか。他の人も小さくはないねと言っていた。この作品は、魅惑的なところがとても気に入っている。

2. ボッティチェリ作「ヴィーナスの誕生」(1483年頃) 所蔵:ウフィツィ美術館(イタリア・フィレンツェ)。古代文明の復活という文化運動が行われたルネサンスの時代を説明するときには、必ずと言っていいほどよく使われる作品で、子供のころから印象に残っている。暗い中世の時代から抜けて、人間らしさを取り戻し、「再生」する姿を良く表した作品である。

3. ヨハネス・フェルメール作「真珠の耳飾りの少女」(1665年) 所蔵:アムステルダム国立美術館(オランダ・アムステルダム)。オランダを旅行中のカリフォルニアの友達から、この作品を見たと写真を送ってきてくれた。なんといっても青色の使い方が大好きである。

4. レオン・ベリー作「メッカに行く巡礼者」(1861年) 所蔵:オルセー美術館(パリ)。高校生のときに、ピーター・オトゥールの「アラビアのロレンス」を見たかんどうしたが、そのときの場面を思い出させてくれる作品である。

5. ジャック=ルイ・ダヴィッド作「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠」(1805年) 所蔵:ルーヴル美術館(パリ)。ナポレオンが、本来教皇から授けられる王冠を自らの手で戴冠し、「フランスの領土を保全し、国民の権利と平等と自由を尊重する」と宣言した。歴史の大きな転換期を描いた作品である。

6. ジャン=フランソワ・ミレー作「落穂拾い」(1857年) 所蔵:オルセー美術館(パリ)。小学校のとき美術室に飾ってあって、懐かしく思い出させてくれる。

7. ピエール=オーギュスト・ルノワール作「ピアノに向かう娘たち」(1892年頃) 所蔵:オルセー美術館(パリ)。ルノワールは大好きな画家。淡い色使いが印象的で、彼の作品を鑑賞するために、ボストン美術館に出かけた。

8. エドゥアール・マネ作「フォリー・ベルジェールのバー」(1882年) 所蔵:コートールド・ギャラリー(ロンドン)。モネとともに印象派を代表する作者で、白色がとても鮮やかに描かれていると思う。

9. ウジェーヌ・ドラクロワ作「民衆を導く自由の女神」(1830年) 所蔵: ルーヴル美術館(パリ)。これも時代の転換点を描いた作品で、フランス革命での庶民・女性の活躍を知らせてくれる。

10. フィンセント・ファン・ゴッホ作「ひまわり」(1888年) 所蔵:ナショナル・ギャラリー(ロンドン)。ひまわりと言えば最近はウクライナを連想するが、ゴッホの代表的な作品である。

11. エドヴァルド・ムンク「叫び」( 1893年) 所蔵:オスロ国立美術館(ノルウェーオスロ)。人間の内面を表わした素晴らしい作品。

12. パブロ・ピカソ作「ゲルニカ」(1937年) 所蔵:ソフィア王妃芸術センター(スペイン・マドリード)。ドイツ空軍による無差別爆撃を受けた1937年に描いた絵画・壁画。反戦を強く訴えた作品。

大学の同級生と一緒の四国旅行はここで終了。東京方面へ帰る友達とともに新神戸まで送ってもらい、そのあとは単独行動。新幹線で宿泊地広島に行く。列車が広島駅に近づくと、道路上を所狭しと、赤い服を着た人々が、練り歩いているのにびっくり。見た瞬間は、お祭りあるいはデモと思ったのだが、ここはカープの本拠地と気がついて納得した。それにしても余りの大きな集団に二度ビックリした。この日の行程は次の通り。

四国・中国旅行ー松山城・道後温泉

浄土寺石手寺を参拝し、それぞれから御朱印もいただいた。午前中にはもう少しいくつかの寺をまわる予定でいたが、後半の見学が窮屈になるということで寺巡りを切り上げ、ミシュラン2つ星の評価を受けている松山城へと向かった。ここには国の重要文化財がひしめいている。松山市の中心街にあり、交通が便利なところで、多くの人々から親しまれている城である。その沿革は次のようである。

標高132mの勝山山頂に本丸があり、西山麓に二之丸や三之丸が設けられている。本丸と曲輪(二之丸と三之丸)を連なるように並べた連郭式の平山城である。本丸の中枢である本壇には、天守・小天守・櫓を四方に配置して渡櫓でつないだ連立式天守がそびえている。広大な城構えである。

創設者は、賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名な加藤嘉明である。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでの成功を認められ20万石の大名となった嘉明は、居城を正木城(愛媛県松前町)から道後平野の中央にある勝山に移し、この地を「松山」と命名した。

着工から25年たった寛永4年(1627)に、松山城の完成を目前にして嘉明は会津へ転封となる。代わって入封したのは蒲生氏郷の孫・蒲生忠知(がもうただとも)である。二之丸を完成させたが、同11年8月、参勤交代の途中の京都で病没し、嗣子なく断絶した。

寛永12年(1635)7月、伊勢桑名城主・松平定行が伊予松山15万石に封じられた。定行は寛永16年から3年をかけて本壇を改築し三重の連立式天守を築造した。

天明4年(1784)、9代定国のとき天守が落雷で焼失した。すぐに復興許可は下りたものの、財政難などにより工事は難航し、12代勝善の嘉永5年(1852)にようやく竣工し、安政元年(1854)に落成式典が盛大に行われた。現在の天守はこのときのもので、幕末に造られたにもかかわらず創建時の桃山文化様式が見事に再現されている。 

明治維新後は、公園として整備・活用された。昭和に入って放火や戦災により櫓など一部が焼失したが、昭和41年(1966)から全国にも例を見ない総木造による再建が進められ、現在は重要文化財21棟を含む51棟が建ち並び、往時の姿を取り戻している。

それでは見学を始めよう。松山城へはいくつかの登り口があるが、我々は労を惜しんでロープウェイを利用した。お客さんの多くは外国からの観光客。みんな旅行ができることを待ちわびていたのだろう。特に物価が安い日本は、格好の観光地になっているようだ。晴れた日にはロープウェイからの眺望もよいのだろうが、小雨の中ではひたすら到着するのを待つしかなかった。
やがて到着してロープウェイから降り、小降りの雨の中、松山城を目指した。

戸無門(重要文化財)

隠門(重要文化財)

右側の建物は隠門続櫓(重要文化財)

太鼓門

文丸より見た天守(重要文化財)



一ノ門(重要文化財)

二ノ門(重要文化財)

三ノ門(重要文化財)

筋鉄門(重要文化財)

天守入口。右側の門は、中側より見た筋鉄門。

天守より外側を見る。あいにくの雨のため、天守から松山市内の眺望を楽しむことはできなかった。


ロープウェイから降り、建物の外に出たところには、坊ちゃんとマドンナの像があった。夏目漱石の小説「坊っちやん」の舞台となった松山市を宣伝するために、民間団体から寄贈されたそうだ。

この後、安藤忠雄さんが設計した「坂の上の雲ミュージアム」で、司馬遼太郎さんが書かれた『坂の上の雲』に関連する資料を閲覧した。同じ敷地内には、萬翠荘があった。この建物は、大正11年(1922)旧松山藩主の子孫にあたる久松定謨(ひさまつさだこと)伯爵が、別邸として建設した。陸軍駐在武官として長くフランスに滞在し、その好みで純フランス風に設計された建物は、当時、最高の社交の場として各界の名士が集まるところとして利用された。

お昼は、「宇和島鯛めし」を食べた。鯛めしにしようと言われたので、米と鯛を一緒に炊き込んだものと想像したが、宇和島の鯛めしは、新鮮な鯛の刺身にタレをかけて、食べるものであった。

この後、万葉集にも登場し、『坊ちゃん』にも登場する道後温泉に戻った。道後温泉本館は修理中。

伊予鉄道後温泉駅明治44年(1911)に建築の旧駅舎が明治洋風建築そのままの外観で復元されている。

復元された坊ちゃん列車。

現在の路面電車

からくり時計。

今日で四国旅行を終える二人を松山空港まで送った後、大街道商店街の中で夕食をとり、市内に宿泊した。
この日の行程。

四国・中国旅行―浄土寺・石手寺

旅行3日目午前は、たくさんの寺院をまわって御朱印集めをしようと目論んだが、あいにくの雨。ずぶ濡れになるのも嫌なので、厳選して2寺だけ見学することにした。

最初は浄土寺ウィキペディア浄土寺は次のように紹介されている。寺伝によれば、天平勝宝年間(749-757)に、孝謙天皇の勅願を受けて恵明(えみょう)上人が開創、本尊として行基が刻んだ釈迦如来像を祀った。当初は法相宗であったが、空海(弘法大師)が伽藍を再興した際に真言宗に改宗した。平安時代中期の天徳年間(957-960)に、天台宗の僧空也がこの寺に滞在し布教に努めた。建久3年(1192)に源頼朝が堂宇を修復するが、応永23年(1416)には兵火で焼失。河野通宣(かわのみちのぶ)によって文明14年(1482)に再建された。現在の本堂はそのときのものである。慶安2年(1649)には大規模な修繕、昭和36年(1961)には解体修理が行われている。

それでは、浄土寺を見ていこう。
山門(仁王門)。

正面が本堂、文明14年(1482)に創建、本瓦葺き、寄棟造りで、重要文化財にも指定。左が阿弥陀堂、右が太師堂。本堂には国の重要文化財である空也上人像が安置されている。空也上人(903〜972)は、腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき、鉦をたたきながら行脚し、「南無阿弥陀仏」と唱え、言葉を仏として吐き出した。上人は、道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救い、また広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養した。彼は遊行僧で念仏聖である。空也上人像は、この様子を表し、6体の阿弥陀小化仏を口から吐き出している。

阿弥陀堂

愛染堂。

弘法大師が祀られている太師堂。

鐘楼と山門。

次は石手寺(いしてじ)。ウィキペディアで紹介されている寺伝によれば、石手寺は次のような寺である。神亀5年(728)に伊予国太守・越智玉純(おちのたまずみ)が、夢でこの地を霊地と悟り、熊野十二社権現を祀った。聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729)に行基薬師如来を刻んで本尊として安置し、開基した。創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改められた。

寛平4年(892)に石手寺に改められる。その逸話は後述する。河野氏の庇護を受けて栄えた平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院であった。永禄9年(1566)に長宗我部元親による兵火をうけ建築物の大半を失ったが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れている。

石手寺の名前の由来については、衛門三郎の伝説が残っている。

衛門三郎は、巡礼の途中であった弘法大師に無礼を働いたために全ての子を失い、改心して大師の後を追って四国各地を巡り歩く(この行為が遍路の始まりとされる)。そして臨終の間際に再会。大師に望みを尋ねられると、伊予の国主である河野家の家に生まれ変わりたいと言った。そこで大師は路傍の石に「衛門三郎再来」と書くと、それを左手に握らせた。これが天長8年(831)のこと。

それからしばらくの後、伊予の国主・河野息利(こおのやすとし)が男子を授かった。ところが、その子は生まれつき左を固く握ったまま開こうとしなかった。困り果てた息利は、安養寺の住職に祈祷を依頼した。そしてその甲斐あって、男子は手を開けた。手の中には小石があり、そこには「衛門三郎再来」と書かれてあった。この奇瑞を喜んだ息利は、安養寺にこの不思議な石を奉納した。そして寛平4年(892)に、安養寺はその伝承にならって石手寺と改名した。

国宝の仁王門。

重要文化財の本堂、鎌倉末期建立。

阿弥陀堂

重要文化財の三重塔、鎌倉末期建立。

絵馬堂。

弘法大師が祀られている太師堂。

護摩堂(左)と弥勒堂(右)。

鐘楼。

洞窟入口。洞窟の中には、お地蔵さんがいくつも並んだ「地底マントラ」がある。

強くなったり、小やみになったりする雨の中をお寺を巡拝しているお遍路さんたちに出会った。晴れているときにあったお遍路さんたちは、楽しそうに談笑したりしていたが、雨のときは、声も出さずに、黙々とただひたすら歩いている。自然から受ける仕打ちにただ身を任せ、耐え抜いているようである。暑い日もあり、寒い日もあり、非情な移り変わりの中で、ひたすら、安らぎを求めているのであろう。無事に、修了されることを願ってやまなかった。

このあと松山城に向かった。

四国・中国旅行ー善通寺

旅行2日目の午後は善通寺市。昼食後に訪れた善通寺偕行社は、陸軍将校の親睦と研究を目的とし、社交の場として明治10年(1977)に建築された。以前滞在したオーストラリアの大学では、スタッフの社交の場としてファカルティ・クラブが設けられていて、毎金曜日、地元の美味しいワインを味わっていたことを思い出させてくれた。
正面入り口、

会議室。

このあと近くにある陸上自衛隊善通寺駐屯地の乃木館を訪問。ここにはかつて旧陸軍第11師団司令部があった。現在は資料館として、代々の師団長が使用した執務室や、乃木将軍を記念する品が展示されている。自衛隊の施設なので写真を撮ることは控えた。

そしてこの日の最後の目的地である善通寺。今年は空海生誕1250年、生誕の地とされる善通寺にとっては節目の年である。善通寺は、空海の父の佐伯田公を開基として、平安時代初頭の大同2年(807)に創建された。境内は、創建の地である東院と、空海生誕地とされる西院からなる。空海(宝亀5年(774)-承和2年(835))は、弘法大師とも呼ばれる。平安時代初期に、天台宗を開いた最澄と一緒に、遣唐使とともに唐に渡った(延暦23年(804)) 。そして彼は、長安青龍寺の恵果(けいか)に真言密教を学ぶ、真言宗の開祖となった。

四国の文化の一つは「お遍路さん」。これは空海が修業したとされる88か所の霊場を巡礼すること。全ての霊場をまわると1400㎞、東京から鹿児島まで歩くのと同じ長さになる。善通寺は第75番の札所である。同行の友2人は、白衣を着用しお遍路さんになって参拝した。白衣の背には「南無大師遍照金剛」とあり、その横に「同行二人」と小さく書かれている。これは、お遍路さんが空海と一緒に巡拝しているという意味で、一緒に歩いている友達の数ではない。

それでは西院の駐車場から進んでいこう。

橋を渡って、左手側に見えてくるのが聖天堂。「聖天さん」と親しまれている大聖歓喜自在天が祀られている。平成16年(2004)に再建。

左手奥に聖霊殿。昭和15年(1940)に日中戦争戦没者慰霊のために「忠霊堂」として建立された。戦後に「聖霊殿」と改称された。

ほやけ地蔵堂。子供の頬やけの治癒をこの地蔵菩薩に3年間お願いしたところ、きれいにとれたとの言い伝えがある。

さらに奥に護摩堂。不動明王が祀られ、現在の建物は昭和15年(1940)の落慶

右手に御影堂。西院には空海の生家である佐伯家の邸宅があった。鎌倉時代にその跡地に御影堂を中心とした「誕生院」が整備された。

西院から東院へ向かう。仁王門。金剛力士像(仁王)が立つ。明治22年(1899)に再建。

右側に観智院。最盛期の弘安年間には49の塔頭が散在。観智院は、当時十善坊と称し、筆頭として寺務を掌握していた。

善通寺中門、江戸時代末期再建。


左手に金堂。空海密教を学んだ唐の青龍寺に模して建立されたと伝えられている。永禄元年(1558)の兵火によって消失、江戸時代、讃岐の大名の生駒家・京極家によって再建された。

右手に鐘楼堂、江戸時代末期再建。

さらに五重塔。高さ44m。国内の木造塔としては3番目の高さ。創建以来倒壊・焼失を繰り返し、現在の唐は4代目。明治35年(1902)に再建。

正面に釈迦堂。仏教の開祖である釈迦如来十大弟子を安置。現在の建物は江戸時代の延宝年間(1673-1680)に建立された。

その奥の南大門。日露戦争戦勝を記念して1908年頃再建。

お店で、御朱印帳を購入し、御朱印を押して貰った。
今日のルートは、以下の通りで、このあとは今夜の宿泊地である道後温泉に向かった。

四国・中国旅行ー金比羅神社・芝居小屋

旅行2日目午前は琴平町。宿泊した敷島館の前は、「こんぴらさん」として知られている金比羅宮に通じる参道。この神社の祭神は、大物主神崇徳天皇である。大物主神は三輪氏の祖神。また大国主神の異名ともされている一方で、大国主神の分身として国造りに協力し、国譲りののちは諸々の国津神を率いて宮廷を守護したともいわれている。崇徳上皇は、藤原頼長とともに、皇位継承問題や摂関家の内紛に起因する保元の乱(1156年)で、後白河天皇藤原忠通に敗れ、上皇は讃岐に配流され、金比羅宮に合祀された。

金比羅宮は、象頭山の中腹に位置している(写真でクレーンで重なっている山の左あたり。山の右側が象の頭に似ているとされている)。

本宮までは、785段もの長い階段が続く。

本教総本部。

大門

こんぴら名物となっている加美代飴は、大門内にある5軒の飴屋(特別に五人百姓と呼ばれている)のみに販売が許されている。先祖が御祭神の供養を行なっていた功労が称えられ、神事における役目となった。

表書院。入母屋造、檜皮葺で、万治年間(1658-60)の建設と伝えられている。

祓戸社。

旭社。総欅材、2層入母屋造、天保8年(1837)建立の重要文化財

賢木門(さかきもん)。唐破風と千鳥破風の棟が交錯、檜皮葺。長宗我部元親の寄進(天正12年(1584))。

本宮。檜皮葺、大社関棟造、1878年再建。


楽殿

金毘羅宮に参拝したあと立ち寄ったのは、旧金毘羅大芝居「金丸座」。天平6年(1835)に建てられた、現存している中では最古の芝居小屋。金丸座という名称も明治33年に付けられた。昭和45年に国の重要文化財に指定され、昭和47年から4年間かけて現在の地に移築復元された。
正面。

入り口の下足場。履物札が並んでる。

客席。マスの中にかつては4人座ったが、現在では3人

天井。紙吹雪を流せるように格子穴となっている。

控部屋。



回り舞台の下部

付近にあった琴平町の公会堂。昭和7年(1932年)の建造。

金陵の郷。江戸時代からの酒蔵をそのまま残し、酒造りの歴史と文化を紹介していた。

昼食は土器川から少し入ったセルフうどん「おかだ」で取った。昨日に続いてさぬきの食文化を堪能し、午後の見学場所へと向かった。