bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

江戸時代の学び方

歴史の同好会で年に一度の発表の時期が巡ってきた。昨年まではほぼ秋だったのが、今年はなぜか早春に回された。発表予定の順番が決まるのが12月も押し詰まった年末である。これまでは半年以上も時間をかけて構想を練ればよかったが、今年は短い期間の中での準備となってうまく纏められるか、スケジュールが発表されたときは心配になった。

70歳で退職してすぐに、基礎的な知識さえ持ち合わせていなかった日本史の勉強を始めた。一人では持続できそうもないので、仲間を求めて入会したのが今の同好会だ。ここでは毎月2名の会員が発表することになっている。入会した次の年から発表する仲間に入れてもらった。教科書にしたがって、古い時代から始めて新しい時代へと話題を見つけながら、これまで話を続けてきた。昨年は室町時代雪舟について話題を提供したので、今年は江戸時代にして、この時代の人々がどのように学んできたかについての話をすることにした。

同好会での研究発表は、自由な雰囲気が良い。在職していたときも論文執筆は年がら年中だったし、国際会議にも頻繁に出かけた。しかしそこでの論文は審査を受けたいわゆる公的な論文である。それに対して同好会でのそれは、審査などはないし、発表の形式も自由である。のびのびと自分の意見を仲間たちに話をできることが楽しい。

現在の学びの場はもちろん学校である。それに対して江戸時代は藩校や寺子屋である。前者は教える枠組みが定まっている公教育であるのに対して、後者は教える側の自由意思に任された私教育と言っていいだろう。ちょうど退職前に書いていた論文が前者に当たり、退職後のそれが後者に当たる。どちらの方がよいのだろう。

それにしても江戸時代の学びの場はとても大きな広がりを持っていた。庶民から武士階級まで、これほど多くの人たちが学び舎に通ったことは奇跡に近いように思える。多くの人たちが社会からの要求にこたえて知識を身に付けることを強いられたともいえそうだし、あるいは持て余している時間を潰すために本を読むという娯楽に没頭したともいえそうである。いずれにしても識字化率が高まったことで、明治という新しい時代に脱皮できたといえる。このように考えるといくつもの疑問が沸き起こってくる江戸時代の学びについてまとめてみようと考えて以下の報告を行った*1

*1:著者名だけペンネームに変えてある

横浜北部で菜の花と桜を愛でる

先日、横浜市郊外の川和町で菜の花と桜がきれいに咲いている様子がテレビで紹介された。午前中になんとも消耗な会議に出席し、気が滅入ったので、憂さを晴らすべく帰りに立ち寄ってみた。場所は横浜市営地下鉄グリーンラインの川和駅で、2番出口からは目と鼻の先である。

桜の木は一本だけなのだが、薄紅色に綺麗に咲いていて、菜の花の黄色とのハーモニーが素晴らしい。桜の種類は「大漁桜」で、原木は熱海市網代漁業組合の網干場にある。花の色が鯛の色に似ているのでこの名がつけられたそうである。角田春彦さんというかたが作られた品種で、早咲きの大島桜の種を熱海市営農場で種まきし、育成した苗から選別されたそうである。すべての花に旗弁(花の内側に旗をあげたような小さな花びら)があるそうだ。
別の角度から、

さらに別のところから、右の白い駅舎は川和駅である。

また、中央と左の葉を落としている樹木はシドモア桜である。エリザ・R・シドモアさん(1856~1928)は、アメリカの著作家・写真家・地理学者で1885年から1928年にかけて日本をたびたび訪れて、"Jinrikisha Days in Japan"(『日本・人力車旅情』・『シドモア日本紀行:明治の人力車ツアー』)を始めとして、日本に関するいくつかの本を出版されている。1885年にワシントンに帰国する際にワシントンDCに日本の桜を植える計画を着想したが、その後彼女の関心は他の方に向かってしまった。彼女の計画が現実となったのは、1909年に大統領となったウィリアムス・タフトの妻ヘレンが興味を示したことによる。そして西ポトマック公園(Tidal Basin of the Potomac River)などに植えられた。1991年に、横浜外人墓地にあるエリザの墓碑の傍らに里帰りした桜が植えられ、シドモア桜と名付けられた。川和のこの地には2012年春に植えられた。今年も3月末にはきれいに咲くことだろう。

桃の花と思われるが、早春を迎えたもう一つの光景があった。

そして最後は一面の葉の花畑。

シドモア桜が咲くころまで、菜の花がこの美しさを保ってくれることを願って、帰路についた。

川崎市北部の五反田川に河津桜を見に行く

私が子供のころは、桜と言えば入学式と一緒に思い浮かべる光景だった。もう何十年も前になるが、この年は桜の開花が遅れて、4月12日に入学式をする大学に進学した私は、希望にあふれた祝いの日を、綺麗に咲きそろった桜に囲まれて寿いだ。しかし近頃は、気候変動による温暖化が続き、桜が咲く時期はいつのころからか卒業式の頃となり、さらに卒業式の頃にはもう散っているという事態にまでなっている。最近は、節目の行事と一緒にというわけにはいかないようである。

日本人に好まれているソメイヨシノは今年も我々を楽しませてくれることだろう。しかし多くの場所では老木となり、名所と言われていたところでも、衰えが目立ち始めている。ソメイヨシノは江戸時代の後期に開発された品種で、今のソメイヨシノの樹木はその時の木からのクローンである。このため植えられた時期は新しいとしても、すべての木はそろそろ200歳という年を迎える。木の寿命についてはよくわからないが、ソメイヨシノはそろそろお年ではと思わないでもない。

私が住んでいる住宅地の周辺を始めとして多くの場所で、老木となったソメイヨシノを切り倒し、他の品種に植え替え始めているようである。その中でも際立って好まれているのは河津桜ではないだろうか。この桜は1955年に伊豆の河津町で発見された。当初は、河津川に沿って苗木が植えられ、いつのころからか早春の桜として皆の目を楽しませるようになった。そして評判が高まるにしたがって、あちらこちらで植えられるようになり、目に触れる機会が多くなった。

珍しいニュースがないかとブログをたぐっていたら、川崎市北部の生田でも河津桜がきれいに咲いているという記事を見かけた。そこで出かけたついでに立ち寄ってみた。小田急生田駅から線路沿いに向ヶ丘遊園駅のほうに歩いて5分ほどのところで、五反田川沿いである。

ここに25本ほどの河津桜が植えられている。



メジロも蜜を求めて飛び回っていた。


川面の河津桜も綺麗である。

花見をしているのは地元民だろうと思っていたら、日本語以外の言語があちらこちらから耳に入ってきたのにびっくり。インバウンドの人々がこのようなところまで見学に来ていることに驚いた。有名な観光地はオーバーツーリズムになっていて、普段の日本を楽しもうと思うインバウンドの人たちは、どこからか情報を仕入れて、我々にとっても珍しいところに来ているようだ。インバウンドへの認識を新たにした。

日銀・東証を訪れる

あるグループの仲間と連れ立って、金融の中心である日本銀行東京証券取引所を中心に、日本橋兜町の界隈を散策した。東京駅の日本橋口に、通勤時間帯さなかでの集合であった。最近は通勤ラッシュの時間帯に出かけることはないので、どの程度の込み具合かの認識がない。そこで安全第一と考えて新幹線で向かった。朝方は新横浜駅から東京駅までは指定席も自由席となるので、快適に都心に向かうことができる。さらにアップルウォッチをかざすだけで在来線から新幹線へとすり抜けられるので、切符を購入する手間も省けてとても便利でもある。

皆が集合したところで日銀へと向かった。途中、「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一像を見る。彼については、後で詳しく説明するので、まずはその姿だけを目にとめておく。戦前、ここに像が建てられていたそうだが、戦争中の金属供出で撤去され、戦後になって立て直されたそうである。

さらに行くと常盤橋門跡がある。江戸城と街道を結ぶ江戸五口(他に田安門・神田橋門・半蔵門・外桜田門)の一つで、江戸城から本町通り(現在の大伝馬本町通り)・浅草橋門を経て奥州道へと通じる交通の要衝であった。

そして日本銀行。この銀行は、銀行の銀行ともいうべき存在で、その目的は「我が国の中央銀行として、銀行券を発行するとともに、通貨及び金融の調節を行うこと」および「銀行その他の金融機関の間で行われる資金決済の円滑の確保を図り、もって信用秩序の維持に資すること」だそうである。

今回の目的は、旧館(本館)の見学である。見学にはあらかじめ予約しておくことが必要で、予約を取るのはなかなか大変だったと世話人の方が苦労話をしてくれた。

日本銀行は、明治15年(1882)に永代橋のたもとで開業したが、手狭なうえ、都心からやや遠かったこともあり、開業の翌年には早くも店舗の移転が決定されたそうである。現在の本館の設計者は、当時の建築学界第一人者の辰野金吾(帝国大学工科大学教授)である。彼は日本銀行の支店(大阪・京都・小樽など9店舗)や東京駅、旧両国国技館などの設計も手がけた。なお、この建物は昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定された。

本店の場所として日本橋が選ばれたのは以下の理由からだそうである。①江戸時代から両替商が軒を連ねていて金融・商業の中心地であった、②大蔵省や同省印刷局が常盤橋を隔てた大手町にあった、③日本橋は、本館建設にあたって建設資材の運搬に活用できるなど水運の利便性が高く、江戸時代には街道の起点で、交通の要所であったことである。

辰野金吾博士は、日本銀行本店の設計にあたって、欧米各国を訪れて銀行建築を調査し、ベルギー国立銀行を設計したアンリ・ベイヤールに学び、調査のためイングランド銀行を度々訪れてロンドンで設計原案を作ったことから、これらの銀行を模範に日本銀行を設計したとされている。外観は古典主義様式で秩序と威厳を表現し、中庭の1階の列柱はドリス式様式、正面・中庭・西面の2階から3階を貫く双柱はコリント式の様式で、正面中央はドーム(丸屋根)を冠している。


内部に飾ってあった写真から全体が分かる。

外壁は外装材の石と内装材のレンガを積み上げ、石の種類は地階と1階は花崗岩、2階以上は安山岩である。大正12年(1923)に起きた関東大震災では、建物自体はびくともしなかったが、近隣火災からの延焼でドームや一部フロアが焼けた。現在のドームはその後復元したものである。
内部は一部写真を撮ることが許された。1億円の束は10kgの重さがある。

7月に発行される新札もお目見えしていた。

地下金庫の中はイギリス製の分厚い扉で守られていた。

お札を運んだマニ車の模型。

天井付近。建てられたころはガラス窓で覆われて太陽光が差し込んでいた。関東大震災でここから火が入ったため、そのあと防火上の理由から塞がれた。

日銀見学後は隣にある貨幣博物館に寄った。ここには古代の貨幣から次の新札までの貨幣の移り変わりと、偽造防止のために各国のお金にどのような工夫がなされているかについての紹介があった。残念ながら撮影は禁止だった。唯一許されたのが、ヤップ島で使われていたという大きな石貨である。

日本橋に向かう途中で三浦按針屋敷跡の碑を見る。

日本橋で、魚市場発祥地の碑を見る。

日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・按針町の広い範囲で魚市が開かれ、江戸時代もとてもにぎわっていた。浮世絵『東海道五十三次(隷書東海道)』「日本橋」(歌川広重 - ボストン美術館)からもその様子が分かる。

明治時代に作られた旧道路法で、日本橋は国道の起点とされた。東京市道路元標は、大正12年(1923)の関東大震災から復興したことを記す日本橋のモニュメントとして昭和3年(1928)に建てられた。

東京市道路元標は都電の架線柱として使用されていたが、その廃止(昭和47年)に伴って北西側袂に移設された。同時に、東京市道路元標があった場所に、50cm四方の日本国道路元標が埋め込まれた。

現在の日本橋明治44年(1911)に架橋されたルネサンス様式の石造り2連アーチ橋である。照明灯の柱などには和洋折衷の装飾が施されていて、中でも妻木頼黄(よりなか)考案の麒麟や獅子のブロンズ像は完成度の高い芸術作品である。

日本橋郵便局は郵便発祥の地でもある。

この後は東京証券取引所を目指した。途中、日本最古の銀行の第一国立銀行があった場所に立ち寄った。設立者は渋沢栄一である。彼の生誕地・深谷市のホームページに、彼の紹介があるので、そこから抜粋して紹介する。

天保11年(1840)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の深谷市血洗島)の農家に誕生し、幼少の頃より、家業の藍玉製造・販売、養蚕を手伝い、父市郎右衛門から学問の手ほどきを受け、7歳頃から従兄の尾高惇忠のもとで「論語」などの四書五経を学んだ。

文久3年(1863)、尊王攘夷思想の影響を受け、高崎城乗っ取り・横浜外国人商館焼き討ちを企てた。幕府からの追手を避けるために故郷を出た後、一橋家に仕える機会をえて、財政の改善などに手腕を発揮した。徳川慶喜の弟・昭武の欧州視察の随行員に抜擢されて渡欧し、先進的な技術や産業を見聞した。

帰国後、蟄居した慶喜のいる静岡で地域振興に取り組んだのち、明治政府に招かれて新しい国づくりに関わった。その中の一つに富岡製糸場の設立がある。明治6年(1873)、官僚を辞めた後は、第一国立銀行の総監役となり、民間人として近代的な国づくりを目指し、生涯に約500もの企業に関わり、約600の社会公共事業・教育機関の支援や民間外交に尽力した。昭和6年(1931)、91歳で没した。

明治時代の浮世絵師・小林清親は、浮世絵「海運橋・国立第一銀行 」(小林清親、 浮世絵名作選集より)を描いている。

東京証券取引所の正面近くにある「鎧の渡し」にも寄ってみた。その由来が説明書に次のように記されていた。平安時代(1050)の奥州平定の途中、源義家渡し船に乗っていて暴風にあい沈みそうになった。そこで鎧を沈めて龍神に祈りを捧げたところ無事に渡れたそうである。

明治5年(1872)に橋が架けられ渡しはなくなった。江戸の名所の一つだったのだろう。浮世絵『名所江戸百景』「鎧の渡し小網町」(歌川広重)が残されている。

最後は、東京証券取引所だ。

ここは、日本最大の金融商品取引所である。かつては立ち合いでディーラーが激しくやり取りをして熱気を帯びた場所であったが、現在では取引はコンピュータで行われるため人影がほとんどない。大きな電光掲示板に株価の変化が示されるだけである。訪れた日は4万円を超えることが期待され、報道陣がその瞬間を今か今かと待ち構えていた。

直径17メートルのガラスシリンダーで覆われたマーケットセンターは、市場の透明性と公正性を表現するためにガラス張りになっている。

センターの上をぐるぐると回っているチッカーは、一周が約50mの大きさの電光掲示板で、売買が成立した株価が次々と表示される。売買数が多くなると回転速度も速くなる。

証券史料ホールには東証の歴史を中心に展示・解説がなされていた。江戸時代の古い地図もあった。東京駅(写真の真ん中)から東京証券取引所(真ん中から少し下がったところ)まで、まっすぐに運河があるが、ほぼこれに沿って歩いたことになる。

歩くだけだと小一時間の距離だが、日銀と東証では係の人に案内してもらい、途中でも世話人の方がブラタモリに倣って詳しく説明してくれ、しかもお昼を抜いての強行軍だったのでいささか疲れたが、簡単には見ることができない場所を詳しく説明してもらい、有意義であった。

證菩提寺の阿弥陀三尊像を鑑賞する

昨年の今頃、證菩提寺*1を紹介したが、その中で国の重要文化財阿弥陀三尊像について簡単に触れた。その三尊像が横浜市歴史博物館の「横浜市指定・登録文化財展」で展示されている。しかも撮影もOKということなので、早速出掛けた。まずはお揃いのところから、

中央が阿弥陀如来坐像、写真の左側が右脇侍の勢至菩薩立像、右側が左脇侍の観音菩薩立像である。三尊像はそれぞれ木造で漆箔が施され、平安時代末期に造立された。12世紀ごろの和様彫刻の典型的な作風で、仏師は京都、奈良で活躍した一流の仏師と推定されている。また国の重要文化財に指定(1925年)されている。

阿弥陀如来は、大乗仏教で信仰の対象となっている如来(釈迦や諸仏)の一尊である。浄土教系の仏教では、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、浄土に往生できると説いている。そして阿弥陀如来は西方にある仏国土(浄土)の教主とされている。

平安時代初期に、入唐した最澄空海によって密教がもたらされたが、中期から後期になると、辛苦を伴う修行をしなくても、単に念仏を唱えるだけで浄土に往生できるという浄土教が主流になった。これに伴って、宇治の平等院、平泉の中尊寺、鎌倉の永福寺のように極楽浄土を思わせるような寺院が建立され、その本尊として阿弥陀如来三尊が祀られた。證菩提寺阿弥陀如来三尊は、どこの寺院の本尊として造立されたかは不明である*2

それでは一躰ずつ見ていこう。最初は阿弥陀如来坐像、

右脇侍の勢至菩薩立像、

左脇侍の観音菩薩立像、

最後は再びお揃いで、

このように間近で見るチャンスはそうそうないので、とても良い機会を得ることができ、とてもよかった。

*1:平安時代の末に源頼朝が伊豆で挙兵した。東に向かう途中の石橋山の戦いで頼朝は敗れたが、そのとき身代わりとなって戦死したのが佐奈田与一義忠(岡崎義実の息子)である。そのの菩提を弔うため、頼朝によって證菩提寺は建てられたといわれている

*2:横浜市文化財保護審議会副会長の山本勉さん(講演:仏像が語る横浜の平安時代)によると、阿弥陀三尊像が造立されたのが1175年頃で、岡崎義実が佐奈田義忠菩提堂を建立したのは1189年なので、この間に14年間の開きがある。そこで、岡崎義実が頼朝の父の義朝の菩提を弔うために鎌倉亀谷に建立した仏堂の本尊を證菩提寺に移した可能性があるのではないかと見ている。また仏師も奈良仏師・成朝ではと見ている。ちなみに勝長寿寺は頼朝が発願した義朝の菩提寺で、本尊は成朝(定朝系)が造った。

千葉市美術館で「鳥文斎栄之」展を鑑賞する

鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)は、旗本出身で、10代将軍家治が逝去(天明6年(1786))し、田沼意次が老中を辞したころの時代の変わり目に本格的に活動を始めた絵師である。喜多川歌麿と拮抗して活躍したが、栄之の作品の多くは明治時代に海外に流出した。この度、ボストン美術館大英博物館から里帰りして、世界初となる鳥文斎栄之展が千葉市美術館で開催された。千葉市美術館は、家から2時間以上もかかる遠い場所にあるのだが、彼の浮世絵をまとめて鑑賞できるのはこれが最初で最後の機会だろうと考えて、思い切って出かけた。

千葉市美術館は、1955年に開館し、2020年にリニューアルオープンした。

エレガントな雰囲気を漂わせている1階の空間は、さや堂ホールである。ここにはかつて川崎銀行千葉支店があった。この銀行は、矢部又吉によってネオ・ルネサンス様式で設計され、1927年に建てられた。現在は、かつての銀行を覆うように美術館が建てられている。古い建物をこのように覆って残す方式は「鞘堂方式」と呼ばれる。川崎銀行は川崎財閥の川崎八右衛門(彼の先祖は水戸藩の為替御用達であった)によって設立され、1936年に第百銀行に改名し、戦時下に三菱銀行に吸収合併された。

鳥文斎栄之は、宝暦6年(1756)に500石取りの直参旗本細田家の長男(名は時富)として生まれ、祖父は勘定奉行を務めた。安永元年(1772)に17歳で家督を継いだ。絵を狩野派の狩野栄川院典信(えいせいいんみちのぶ)に学び、師の号を貰って栄之と名乗った。天明元年(1831)から同3年まで、10代将軍家治の小納戸役に列し、絵具方を務めた。天明元年(1781)に布衣を着すことを許され、天明3年には無職の寄合衆(3000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者)に入っている。天明6年に家治が死去、寛政元年(1789)に34歳で隠居した。浮世絵は鳥居文竜斎に学んだ。天明の時期から浮世絵師として活動していたが、本格的に作画活動したのは、隠居した寛政元年からである。

展示は、プロローグと七つの章とエピローグに分かれていた。プロローグ「将軍の絵具方から浮世絵師へ」では、狩野派の師匠の栄川院が描いた田沼意次領内遠望図と、自身が描いた関ケ原合戦図絵巻などが飾られていた。

1章は「華々しいデビュー 隅田川の絵師誕生」である。喜多川歌麿葛飾北斎はデビューのころは細判の役者絵からスタートしたのに対し、栄之はデビュー間もないころから大判の見ごたえのある続絵を描いた。写真撮影可であった「川一丸舟遊び」。大型の屋形船が、5枚続きで、華やかな女性が描かれている。

同じく撮影可能であった「新大橋橋下の涼み舟」では、大きな屋形船に品の良い美人たちが集い、船上での穏やかな時の流れを感じさせてくれる。

2章は「歌麿に拮抗ーもう一人の青楼画家」である。栄之が錦絵で活躍したのは、喜多川歌麿が活躍した寛政期(1789~1801)とも重なっている。歌麿と同様に、寛政三美人や吉原の遊女を題材とした作品を多く出した。栄之は独自の様式を確立し、後に青楼の画家と呼ばれるようになり、歌麿と拮抗する存在となった。栄之の主要な版元は西村屋与八で、歌麿を見出し育てたのは蔦屋重三郎である。版元同士も競争関係にあった。代表的な作品「青楼芸者撰図 - いつとみ」(Wikipediaよりの転写)も飾られていた。歌麿美人画が妖艶であるのに対し栄之は静謐である。

3章は「色彩の雅ー紅嫌い」である。源氏物語などの古典が、江戸の風俗に置き換えられて「やつし絵」として描かれていた。品の良い画風に加えて、「紅嫌い」(赤い色をわざと避けた錦絵で、紫を多用することから紫絵ともいわれた)の手法を栄之は用いた。展示の一つの「風流やつし源氏 松風」(Wikipediaよりの転写)。会場の展示の方が、紫色が映えていて、見ごたえがあった。

4章は「栄之ならではの世界」である。武家出身の栄之は、上流層の女性風俗や教養を感じさせる古典主題の作品を描いた。

5章は「門人たちの活躍」である。栄之は、細田派という流派を創始し、鳥橋斎栄里、鳥高斎栄昌、鳥園斎栄深、一楽亭栄水、一掬斎栄文、栄鱗、文和斎栄晁、鳥喜斎栄綾、鳥玉斎栄京、鳥卜斎栄意、酔月斎栄雅、桃源斎栄舟、葛堂栄隆、栄波、春川栄山、一貫斎栄尚、酔夢亭蕉鹿、五郷など多くの優秀な門人を輩出した。撮影されることが許されたのが、鳥高斎栄昌の「郭中美人競大文字屋内本津枝」である。寛政9年の「吉原細見」からは、大文字屋に本津枝(もとつえ)という遊女を確認できるそうで、郭中美人競(びじんくらべ)というシリーズの最後に出された図と推察されている。明るい表情の本津枝とかんざしをいじっている猫が印象的である。

6章は「栄之をめぐる文化人」である。天明狂歌と呼ばれるほどに狂歌が流行した天明期(1781-1789)には、武家と町人が相まじりあって狂歌に熱中するグループが登場した。栄之も、山東京伝などが執筆した洒落本に挿絵を描くなど、町人文化にも親しんでいた。次の「猿曳き図」(Wikipediaよりの転写)は、会場にあった絵と異なり左側に猿を操る男性が描かれていないが、この男性と猿を北尾重政が描き、右側の遊女・禿・新造を栄之が描いた。

さらに「女房三十六歌合」では、和歌を江戸長谷川町花形義融門下の少女が書し、栄之が美しく精緻な歌仙絵を手掛けた。

7章は「美の極みー肉筆浮世絵」である。寛政10年(1798)ごろより、錦絵を離れ、肉筆画に集中するようになる。このころから寛政の改革により出版業界に対する統制が強まった。歌麿たちはこれに抗したが、武家出身の栄之はそうはできなかったようで、依頼者の手元にしか残らない肉筆画を描いた。フランス語版のWikipediaには、「Oiran in Summer Kimono」が掲載されている(会場では見ることができなかった)。

エピローグでは、売立目録が紹介されていた。

江戸の豊かな文化を伝える美術品は、明治の頃にたくさんのものが国外に流出したために、海外の美術館に行かないと見れないものが多い。そのような中にあって、今回多くが里帰りし、鳥文斎栄之の作品を一堂に介して鑑賞することが出来てとても良かった。落ち着いた優雅な作品が多く、良い雰囲気の中で楽しく鑑賞できた。

追伸:かつての川崎銀行の横浜支店も昔の建物が保存され、それを覆うように新しい建物(損保ジャパン日本興亜馬車道ビル)が建てられている。横浜支店も、千葉支店と同様に矢部又吉の設計で、1922年に建てられた。様式も同じくネオ・ルネッサンスである。ちなみに、矢部又吉は横浜生まれで、ドイツで学んだ。
旧川崎銀行横浜支店の正面。

側面。

神奈川県立歴史博物館で「華ひらく律令の世界」を見学する -仏具-

前回のブログでは国や郡の有力な初期寺院を紹介したので、今回はこれに次ぐ寺院からの出土品を中心に説明する。国分寺の造営によって仏教は地方に浸透し、8世紀から9世紀にかけては集落に隣接した場所で、仏教寺院が建立された。このようなものを「村落内寺院」と呼んでいる。

愛名宮地遺跡(厚木市)も、厚木市を含む古代東国の集落内に仏教信仰が浸透していたことを裏付けてくれる。この遺跡から発掘された瓦塔は、木造の塔を模倣して作られた土製の小塔で、仏教信仰の対象とされていたであろう。基壇の上に軸、屋蓋、相輪が重ねられ、平安時代(9世紀前半頃)に製作されたと考えられている。瓦塔が出土したところからは、「寺」と書かれた墨書土器、鉄鉢形土器、大量の灯明皿、鉄釘などが出土しているので、仏堂などの仏教関連施設であったと想定されている。
瓦塔

土師器と須恵器

鉄製品の釘

8世紀後半から9世紀にかけては、仏教が一定の浸透を見せたとされ、その一端に葬送方法がある。奈良・平安時代には土葬・火葬で埋葬され、火葬では土師器・須恵器・灰釉陶器の蔵骨器が用いられた。
野川南耕地古墳群(川崎市宮前区)の蔵骨器

武蔵国国分寺周辺からも仏教関連の遺物が発掘されている。観世音菩薩像は、武蔵国分寺尼寺寺域確認調査時(昭和57年)に、僧寺と尼寺の間を南北に走る東山道武蔵路に当たる道路遺構上面から発見された。頭部に阿弥陀如来の化仏を施した低い三面宝冠をいただいている。白鳳時代後期(7世紀後半~8世紀初頭)頃に制作されたと考えられている。

武蔵国分寺関連遺跡の緑釉陶器

多喜窪横穴墓群(国分寺市)の緑釉陶器

武蔵国都築郡からの仏教関連の遺物が見つかっている。
北川表の上遺跡(横浜市都筑区)の灰釉陶器、

須恵器。

武蔵国橘樹郡からの仏教関連の遺物が同じように発見されている。
有馬古墓群台坂上グループ(川崎市宮前区)の須恵器、

細山古墳群大久保古墓(川崎市多摩区)。

最後は神事に関連する遺物である。荷物の輸送のために川が利用されたようで、高座郡では小出川の旧河道が発見され、川津(荷の積み下ろしをする場所)があった。そこからは木製の人形が出土している。これらはケガレを払う儀式によって川に流されたと考えられている。ケガレを移す先は人形で、多くは木製であった。同じように人の顔が書かれた土器も発見されている。これらも祓いなどに使われたと考えられている。
箱根田遺跡(三島市)の土師器(人面墨書)。


南鍛冶山遺跡(藤沢市)の人面墨書、

灰釉土器。

この展示は素晴らしいと思う。律令制が敷かれたころの地方の状況については書物を読んだだけでは具体的なイメージが湧かず、どの程度、行き渡っていたかについてはかなり疑問に思っていた。今回、神奈川県下の国衙、郡家、官寺などから出土した遺物により、かなりはっきりとイメージを得ることができた。これは県下での高速道路を始めとする大型工事の恩恵ともいえるのだが、他方で大型工事が過去の遺産にダメージを与えてもいるので、文化遺産の保護を徹底して欲しいと改めて思った。

神奈川県立歴史博物館で「華ひらく律令の世界」を見学する -寺院の瓦-

国や郡の役所については前回のブログで記したので、ここでは国や郡に建立された有力な寺院をみていこう。ここで紹介する神奈川県内の有力な初期寺院は、国分寺、下寺尾廃寺、千代廃寺、影向寺、千葉地廃寺、宗元寺である。これまで下寺尾廃寺、影向寺、千葉地廃寺を郡寺とする見方があった。しかし近年では、評衙・郡衙(郡家)と密接な関係を有する準官寺とする見方や、郡司一族・在地共同体の結束を強化するための氏寺(私寺)という見方も出されていて、結論を得るには至っていない。

寺院から出土する遺物の中で特に目立つのは瓦で、軒丸瓦には蓮を模した文様の蓮華文が見られるのが特徴である。また土師器や須恵器などの土器も多く出土しているので、これも併せてみていこう。

相模国分寺跡(海老名市)の軒瓦。丸瓦は蓮華文で、平瓦は唐草文である。

土師器。寺院で使われた土器には内側が黒くなっているものがあるが、これは灯明皿として使われたためと思われている。

水煙。国分寺には七重塔があり、そのてっぺんに水煙が取り付けられていた。

下寺尾廃寺(七堂伽藍跡:茅ヶ崎市)の鬼瓦。地元には昔から大きな寺院があったという言い伝えがあり、その場所を七堂伽藍跡と呼んでいた。近年の発掘により貴重な遺物が発見され、高座郡の郡司層やその一族によって建立された寺院と考えられている。

丸瓦と平瓦、

土師器と須恵器、


硯と絵馬、

通貨。

千代廃寺(小田原市)の瓦。この寺は師長国造域の豪族によって建立され、その後補修され、10世紀半ばまで存続したと考えられている。軒丸瓦には蓮華文で飾られている。


影向寺(川崎市宮前区)の瓦。この寺はこの地方のネットワークの中で建立・維持されたと考えられ、氏寺(私寺)としての性格を有している。軒丸瓦は同じように蓮華文である。

千葉地廃寺(今小路西遺跡:鎌倉市)の瓦。ここには鎌倉郡の官寺があったとされている。

宗元寺(横須賀市)の瓦。御浦郡の有力な古代の寺である。

まだ続きます。

神奈川県立歴史博物館で「華ひらく律令の世界」を見学する -国衙・郡家-

神奈川県立歴史博物館で、律令制の時代を中心とする遺跡展が開催されている。律令制下での神奈川県は、西の地域が相模国、東が武蔵国であった。律令制では国の下部組織として郡が置かれた。相模国には8郡、武蔵国には22郡が設けられそのうちの3郡が現在の神奈川県に属していた。役所として、国には国衙が、郡には郡家が置かれた。また仏教による鎮護国家であったため、国には男性の僧のために国分僧寺が、女性の僧のために国分尼寺が、郡には郡寺が官寺として設けられた。

郡家としてよく知られていたのは長者原遺跡である。ここは武蔵国都筑郡の郡家跡である。残念ながら東名高速道路の開通に伴って遺跡の西半分は調査することなく破壊された。残りの東半分が10年後の1979~81年に調査され、郡庁、正倉院、郡司舘、厨が発見され、横浜市歴史博物館にはその模型が展示されている。都筑郡の隣の橘樹郡の郡家は近年発掘が進み、正倉院跡が発見され、一棟が復元中である。また近くの影向寺(ようごうじ)は郡寺で、現本堂の下は金堂であった。

相模国内の郡家で発掘が進んでいるのは下寺尾官衙遺跡群である。2002年に茅ケ崎北稜高校の校舎の建て替え工事が計画されたとき遺跡が発見された。その結果、校舎の建て替えは中止され、移転先を探している。ここは高座郡の郡家跡で、郡庁院・正倉院が発見された。また地元では古くから古代寺院があったことが伝えられ、1957年には「七堂伽藍跡」の碑が建てられた。2000~10年にかけて調査がなされ、大型掘立柱建物跡が見つかった。金堂と講堂があったとされているので、そのいずれかであろう。また伽藍区画溝も発掘された。そのほかに郡家の施設として郡津、交通路、祭祀遺跡が見つかった。

相模国国衙についてははっきり分かっていない部分が多いが、近年では、平塚市から国府国庁脇殿推定建物が発見され、少しずつ成果が出ている。武蔵国国衙は東京の府中市である。

相模国国分僧寺国分尼寺は海老名市にあり、武蔵国のそれらは東京の国分寺市にある。

律令制が整う前のヤマト王権(古墳時代)では、国造が置かれた。相模には師長国造、相武国造、鎌倉別、武蔵東部には无邪志国造が設置された(なお北西部は知々夫国造で、それ以外のところについては諸説あり、武蔵国造も候補の一つである)。律令制に伴って、師長国造は足上・足下・余綾(よろぎ)郡に、相武国造は高座・大住・愛甲郡に、鎌倉別は鎌倉・御浦郡になった。

それでは展示物を見ていこう。最初はヤマト王権の頃である。この時代は古墳時代とも呼ばれ、3つの時代に分けられる。畿内と神奈川では様相が異なる。

畿内では次のようであった。前期は円墳・方墳・前方後方墳前方後円墳が作られ、鏡・玉・碧玉製腕飾りなど司祭者的・呪術的宝器が埋葬された時代である。中期は巨大な前方後円墳が作られ、甲冑・馬具などの軍事的なものや農具など実用的なものが埋葬された。後期になると、小規模の前方後円墳・円墳・方墳・群集墳・横穴墓群となり、金属製の武器や馬具、土師器・須恵器などの副葬品が一緒に埋められた。豪族たちの威信材が墓から副葬品へと変化していった。

神奈川の古墳時代は、古墳の数もそれほど多くなく、規模も小さいのが特徴である。前期後半に比較的規模の大きい前方後円墳が現れ、中期には古墳がほとんど見られなくなり、後期になると群集墳や横穴墓が爆発的に増えた。

入り口には千代廃寺の軒瓦がある。この寺は師長国造の豪族によって建設され、足下郡の郡寺であっただろうと推測されている。

白山古墳(川崎市古墳時代前期)の銅鏡が飾られていた。銅鏡は生産国や大きさの違いによって、ヤマト王権と地方の豪族との結びつきの程度が分かる。

登尾山古墳(伊勢原市古墳時代後期)は、金目川の支流である鈴川流域の比々田神社周辺に存在する古墳群である。古墳からは河原石を積み上げて造られた横穴石室が確認され、多くの副葬品が発見された。
銅椀、

直刀、

雲珠、

五獣形鏡。

須恵器(高坏)と土師器(坏)。

また唐沢・河南沢遺跡(松田町)には、横穴墓群があり、須恵器が発見されている。

律令制が始まると、官人たちは木簡を用いて文書主義で業務した。
官人の大事な七つ道具、

宮久保遺跡(綾瀬市)の木簡。これは、鎌倉郷が記載された最古の資料であり、田令・郡稲長などの郡雑任や軽部という部姓氏族の資料で、古代の地方行政について語ってくれる。

居村B遺跡(茅ヶ崎市)の木簡。茜などが記載された古代税制や染色の様子などを伝えてくれる。

北B遺跡(茅ヶ崎市)の漆紙文書付土器。下寺尾官衙遺跡群から発見された県内最古の漆紙文書である。漆を入れた容器に文書が書かれた用紙を蓋として使い、漆がしみて乾燥し遺物として残った。

それでは武蔵国衙からの出土品を見ていこう。律令制が敷かれたころには、釉薬を塗った陶器が現れるが、その中で緑釉陶器は貴ばれた。
軒丸瓦、

緑釉陶器、

須恵器、

緑釉陶器。

律令制の時代には、国衙や郡家が設置されていたところだけでなく、官人たちが住んでいただろうと思われるところからも遺物が発見されている。
富裕層や在地化した官人の住居跡からと考えられる本郷遺跡(海老名市)の緑釉陶器と土師器、

本郷遺跡(海老名市)の灰釉陶器。

このようなところから発見されることは珍しいが、小規模な竪穴式住居から出土した上吉井南遺跡(横須賀市)の灰釉陶器、

国衙や郡家の建設に携わった関係者の居住域であったと考えられる梶谷原B遺跡の三足壺。

国府出先機関の一つがあったと考えられる厚木道遺跡(平塚市)の金属製品の鍵と焼印、

相模国府の国庁の建物址が見つかった六ノ域遺跡(平塚市)からの金属製品の八稜鏡、

ここまでが国衙・郡家に関する展示である。国分寺を始めとする宗教関係の遺跡については続きで紹介する。

ビッグな1ポンドステーキを料理する

今年になってからあまり車を使っておらずバッテリーが上がってしまうと困るので、それを避けるため遠出の買い物をしようということになり、普段あまり使っていないスーパーを訪れた。野菜や魚を買い物かごに入れた後に物色していた肉売り場で、普段は見かけることがない分厚い牛肉を発見した。商品名は1ポンドステーキとなっている。このように厚いステーキ肉は日本ではほとんど売られていない。

分厚いステーキに最初に出会ったのはもう何十年も前のことである。アメリカに留学して間もないころにホストファミリーの方が自宅に招いてくれるという機会があった。その頃のアメリカと日本の格差は大きく、途中でドルショックがあって円が切りあがったものの、渡米したときは1ドルは360円だった。最近は円安で、海外の人に日本がチープであることが知れ渡り、たくさんの観光客が訪れてくれるが、当時の格差は今日の比ではなかった。

留学前にステーキなどは食べたことはなかったし、アイスクリームだってそのころの日本にはソフトクリームぐらいしかなかった。留学先でアメリカ人の女性におごってあげる*1からと言われて、アイスクリーム屋さんに連れていかれたときは、その種類の多さにびっくり仰天したのを今でも思い出す。

ホストファミリーの方は、夕方迎えに来てくれ、美味しい料理をと考えてくれたのだろう、自宅ではなくレストランに連れて行ってくれた。英語のメニューを見てもわからないのでお任せした。最初にサラダがたっぷり、その後にスープが出てきて、さらにメインと思ってしまうような料理が出され、おなかが十分にいっぱいになったとき、次はメイン料理が出てくるといわれてぎょっとした。ウェイトレスが運んできたものを見ると、大きなジャガイモを一回りも二回りも大きくしたような肉の塊であった。せっかく招いてくれたのだからと、一生懸命に食べるには食べたが、苦しくて死にそうだった。最後のデザートは入る余地はなく、こちらは丁寧にお断りした。

それ以来大きな肉の塊を見ると当時のアメリカの豊かさを思い出す。今日の肉はアメリカ産ではなく、オーストラリア産である。オーストラリアは日本に向けて肉牛の飼育の仕方を変えているので、我々の口にはよく合う。

今回は、肉と一緒に焼き方が記載されたレシピが置かれていたので、これを参考に料理した。手に入れた肉はこのように厚い。冷蔵庫から料理する30分前に出し、肉の温度を室温にした。焼く直前に塩2gを肉の表面にかけ、さらにオリーブ油15ccを表面に塗った状態である。

IHクッキングヒーターの温度を7にする。焼き終わりまでこの状態で、火加減をする必要はない。フライパンにオリーブオイルを入れて熱する。レシピには230℃と書かれていたが、測れないので適当に判断した。初めに脂身がある側面を1分焼く。

横に倒して、表面を再度1分焼く。

裏返してもう一方の表面を1分焼く。

さらに残った側面を1分焼く。

同じように側面、表面、表面、側面と1分ずつ焼く。




合計で8分焼いたことになる。この後フライパンから取り出し、アルミホイルに包んで3分間休ませる。

そのあと塩3ccと胡椒適当量を肉の各面にまぶす。

包丁で食べやすい厚さに切る。

スープとサラダを添えて食した。

赤身肉がとてもジューシーで、塩加減もよく、おいしくいただいた。

*1:英語で"I'll treat you."という。この表現は知らなかったので、何ですかと尋ねたらいいからついてきてと言われた。

横浜市歴史博物館で「ヨコハマの輸出工芸展」を観る

横浜市歴史博物館で、ヨコハマの輸出工芸展が開催されていたので、見学に行ってきた。現在でこそ、横浜は日本を代表するような巨大都市となっているが、幕末の頃は小さな寒村に過ぎなかった。ペリー来航後に開港の地と定められると、外国人のための居留地が作られ、欧米の商人が店を開き、貿易の中心地となった。当時は生糸・茶・陶器などが輸出されたが、横浜で作られたものもそれらに混ざって輸出されるようになった。今回の展示ではそのような四つの工芸品が紹介されていた。

最初に紹介するのは陶芸の横浜真葛焼で、創業者は宮川香山である。ウィキペディアによれば、香山は天保13年(1842)に京都の真葛が原で、陶工真葛宮川長造の四男虎之助として誕生した。長造は朝廷用の茶器を製作し、香山の称号を受けていた。父が亡くなった後、虎之助は香山を名乗り、25歳の時には色絵陶器や磁器を制作、御所献納の品を幕府から依頼されるまでの名工になっていた。明治4年、横浜・太田村に輸出向けの陶磁器工房・真葛窯を開いた。当初は欧米で流行した薩摩焼を研究したが、金を多量に使用して制作費に多額の資金を必要とするので、それに代わる高浮彫(たかうきぼり)という新しい技法を生み出した。金で表面を盛り上げるのではなく、精密な彫刻を掘り込むことで表現した。真葛焼は明治9年のフィラデルフィア万国博覧会で絶賛されて世界で知られるようになった。しかし高浮彫は生産効率が悪かったので、晩年になると窯の経営を養子の宮川半之助(2代目)に任せ、自らは清朝の磁器をもとに釉薬の研究をし、釉下彩の技法をものにした。3代目は2代目の長男葛之輔が継いだ。3代にわたって高い技量で名声を得たが、1945年の横浜大空襲で窯・家は全焼、家族・職人計11名が亡くなった。4代目の智之助の死をもって真葛焼は廃業となった。

それでは展示されている作品を見ていこう。高浮彫の陶器で、「鷹ガ巣細工花瓶(たかがすさいくかびん)」。親鷹が雛にえさを与えている場面が見事に再現されている。羽根の細かいところまで写実的に制作されている。

側面から見たところ。枝のごつごつした感じもよい。

同じく高浮彫の「氷窟二白熊花瓶(ひょうくつにしろくまかびん)」。氷の垂れ下がっている様は工夫のあとが見られる。

洞窟とその中にいる白熊に手の込んだ技法であることを感じる。

高浮彫から脱皮して次の流行となる釉下彩の「黄釉鶏画花瓶(きゆうけいがかびん)」。

二代香山の「祥瑞意遊輪付染付花瓶(しょうずいいゆうりんつきそめつけかびん)」、

「色染付鷹柏木圖(いろそめつけたかかしわぎず)」。

初代または二代香山「黄釉青華寶珠取龍文花瓶(きゆうせいかほうじゅしゅりゅうもんかびん)」。

次は漆器で、横浜芝山漆器である。ある年齢以上の人は、芝山町と聞くと成田闘争を思い出すことだろう。時代は遡って江戸時代後期に、下総芝山村出身の大野木専蔵(安永4年(1775)生まれ)が芝山細工を考案したと伝えられている。この細工は、箱や櫛などの漆塗りした下地を浅く彫り込んで、そこに花鳥人物などに象った貝・象牙・サンゴなどを埋め込んで、立体的に装飾したものである。芝山細工は専蔵(後に芝山仙蔵)が江戸で奉公しているときに考案し、大名や富裕層の人々から好評であった。螺鈿や蒔絵と異なり立体感のある文様が来日した外国人からも評価され、輸出されるようになった。輸出が増えてくるにしたがって、運搬の手間を省くために横浜でも製作されるようになり、横浜で作られるものを横浜芝山漆器、東京で作られるものを本芝山と呼ばれた。先に述べたフィラデルフィア万国博覧会でも展示された。しかし関東大震災や横浜大空襲などの災害・被害を受けて職人が離散するなどして、昭和30年には作られる数もわずかになっていった。追い打ちをかけるように昭和46年(1971)のドルショック(ドルの切り下げ)で輸出量も大幅に減少した。現在、横浜市は伝統的地場産業育成事業の一環として支援している。
Wikipedia(英語版)には、Yokohama Chickenの説明がある。フランス人宣教師が、尾長鳥をヨーロッパに持ち込んだようで、英国ではこの鳥をYokohamaと呼ぶようになった。Yokohama Chickenを意識してと思うが、綺麗に象られている。

こちらも鳥を象っている。

アルバムの表紙にもなった。

そして花鳥屏風。

次は横浜彫刻家具である。これらの家具は宮彫り*1で、龍・松竹梅・鳳凰などの東洋的意匠を、椅子・テーブル・箪笥などに用いた和洋折衷である。輸出用のため、国内に残されたものは多くないが、ここに展示されているのは坂田種苗株式会社のオーナーの家に嫁がれた方の嫁入り家具である。

最後は横浜輸出スカーフ。開港間もない頃にハンカチーフの製造が始まった。昭和初期に「スクリーン捺染(なっせん)*2」が導入されて輸出が始まり、大岡川沿いに捺染工場が多く建てられた。太平洋戦争からの復興とともに、手ごろな服飾品として海外からも好まれ、生産量が増え、最盛期には世界の生産量の約60%、国内の約90%を占めた。このころ意匠侵害防止のためにスカーフ製造協同組合が作られ、輸出品の見本が組合に提出された。今回展示されているのはその見本の中からのものである。
アフリカに輸出されたスカーフ「ニワトリ王子」、

オーストラリアに輸出されたスカーフ「孔雀柄」、
8329
フィリピン・マニラに輸出されたスカーフ「像ペルシャ」、
8328
同じくアフリカに輸出されたカンガ*3

今回の展示会を通して、そういえば日本はモノ作りの国だったと感慨深く思い出した。大正大学地域構想研究所の主任研究員・中島ゆきさんのレポートに衝撃的な図が掲載されていた。産業別就業者割合の推移を示したものだが、2015年には第三次産業に従事している人の割合が71.9%で、第二次産業の25%を大きく上回っている。第一次産業にいたっては4%に過ぎない。高度経済成長が始まった1960年ごろは第一次産業32.7%、第二次産業29.1%、第三次産業38.2%と均等に従事していた。しかし年を追うごとにモノをあまり作らない国に、割合と速い速度でなっていくことがわかる。このような大きな潮流の中で、華々しく輸出されていた横浜発の工芸品も一緒に廃れてしまったことに寂しさを感じた。

*1:宮彫りは、寺社の建築物に精巧に施された彫刻をいう。

*2:あらかじめ防染糊で模様をプリントしてから染色することで、糊で伏せたところが染まらないように柄を出す方法

*3:東アフリカ、タンザニアやケニヤの女性たちに愛されている一枚布

増田晶文著『稀代の本屋 蔦屋重三郎』を読む

来年の大河ドラマは蔦重三郎である。蔦重と愛称される彼は、歌麿写楽など、この時代のエンターテイナーともいえる戯作者・絵師を生み出した。クリエイターにしてプロデューサーであり、また新しい時代を作り出した町人でもある。ドラマの主演は横浜流星さん、脚本は森下佳子さん。森下さんは「女城主直虎」や「大奥」など多くのテレビドラマの脚本を手掛けているのでご存じの方も多いだろう。他方、流星さんは2月末に配信される映画「パレード」で長澤まさみさんと共演される若手の有望株である。このように書くと、本を読むきっかけになったのは、大河ドラマだと思われてしまいそうだがそうではない。江戸から明治への激動の時代を、なぜ日本が近代化への道を進むことができたのかを調べている中で、木版印刷が普及したことが大きな要因だったのではないかと考えたことによる。

人口学者で歴史学者であるエマニュエル・トッドさんが彼の研究の集大成ともいえる著書『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』の中で、15世紀中ごろにグーテンベルグ活版印刷術を開発し、16世紀初めごろにルターがプロテスタンティズム宗教改革の幕を切って落としたことが、識字化を誘引したと記している。これらがドイツで起きたことから、長子相続・プロテスタンティズム・識字化には相互関係があると説明している。彼はこの関係を利用して「文字表記/長子相続」の連続展開の中に一つのロジックが展開できるといっている。彼のこの考え方に魅力を感じて、出版物が急激に増えていく時代の流れに身を委ねたというより、大河を作り出したといえる蔦重三郎はどのような人だったのかを知りたくなり、関連の出版物を漁った。アマゾンのサンプル本で引っかかったのがこの本である。これは歴史の解説書ではなく小説なので、時代のとらえ方は増田さんの感性によっている。著者の優れた才能によって、この時代を生きた人の考え方や生き方が、解説書では得られない生々しさで、時には滑稽に描かれていてなかなか面白い。

本の最初のほうで蔦屋重三郎について要領よくまとめられている。主なところから紹介すると次のようである。蔦屋重三郎が、本屋稼業を始めたのは、安永3年(1774)である。吉原で頭角を現し、9年後に日本橋に進出した。吉原の遊女から廓までを街ごとに網羅した細見、浄瑠璃の稽古本、そして狂歌本・黄表紙・洒落本と手を広げ、錦絵、艶本(えほん)の分野でも好調であった。これらは町人の機微を穿っていて、これらの書籍や絵は江戸の町において紙価を高めた。重三郎は蔦重と親しみを込めて呼ばれ、この名前に江戸の人々は「粋」や「通」へのあこがれを重ねた。

蔦重は吉原生まれで本名は柯理(からまる)、父は尾張の人で丸山重助、母は江戸の人で広瀬津与である。蔦重が7歳の時に両親は離婚し、尾張屋という引手茶屋を営む叔父(姓は喜多川)に引き取られた。遊郭へ向かう粋な客は、直接はそこに向かわず、まずは茶屋に上がり一服する。吉原細見を見て遊女の品定めをしたり、茶屋から紹介してもらうなどして、遊女を茶屋に呼び出す。遊女の遊郭から茶屋への道行きは花魁道中となる。引手茶屋では酒や料理だけでなく芸者・芸人・幇間(ほうかん)も手配し、どんちゃん騒ぎをする。そのあと一夜の妻を伴って遊郭へとしけこむ。

蔦重が青年期を迎えたときは、田沼意次江戸幕府の実権を握っていて、市場経済の発展を促す重商政策を押し出していた。全業種において株仲間が組織され、本屋もそうであった。限られた商人だけが市場をわがものにでき、豪商は見返りとして運上金や冥加金を収めた。このころの江戸は、品物が動き銭が回り、多くの人がかかわり、流通が活性化され、商人の時代となっていた。

蔦重が出版への手掛かりを得たのは、地本(じほん)問屋の鱗形屋(うろこがたや)から吉原細見の改所(あらためどころ:編集者)を請け負ったことである。彼が改所をした細見は評判となり、おろし小売りへと権利を拡大していく。そして初めての本づくりとなったのが『一目千本(ひとめせんぼん)』である。花器にいけられた花がたくさん描かれていて、それぞれの花にお上臈(じょうろう:格の高い遊女)の名前が添えられている(図は国書データベースより)。本屋で売られたのではなく、ここに名前が載っているお上臈たちの手元に置かれ、その上客が大枚を払って手に入れた。お上臈たちがあらかじめ何冊必要とするかを申告しその分だけしか刷らなかったので、まったく損をすることはなかった。本の内容でも販売方法でも蔦重はクリエイティビティーをいかんなく発揮した。

鱗形屋が不祥事を起こした隙をついて、蔦重は細見版元となり、細見『籬(まがき)の花』と『青楼美人合姿鏡(せいろうびじんあわせすがたかがみ)』(画工は北尾重政と勝川華章、図はWikimediaより)の開版を手掛けた。

ここまで義兄の営む茶屋の店先を借りて商売をしていたが、安永6年(1777)に書肆として独立し、吉原で耕書堂を始めて、浄瑠璃の稽古本や往来物を手掛ける。そうこうしているうちに鱗形屋がまた不祥事を起こし、さらには日本橋通油町で地本問屋を営む丸谷小兵衛が株や店舗を身売りする機会をつかんで日本橋に進出し、吉原という限られた土地ではなく江戸を相手とする商売へと拡大を図った。

蔦重は、15歳年上の朋誠堂喜三二(出羽国久保田藩定府藩士・江戸留守居)、6歳年上の恋川春町(駿河小島藩滝脇松平家の年寄本役・石高120石)と親交を結び、黄表紙で大評判となった。かちかち山と仮名手本忠臣蔵のパロディである『親敵討腹鼓(おやのかたきうてやはらつづみ)』*1で、朋誠堂喜三二が文を、恋川春町が画を担当した(図は国書データベースより)。

蔦重はまた多くの作者と画家を育てた。鳥山石燕の弟子である喜多川歌麿(生年・出生地・出身地など不明)、志水燕十(幕臣だが小禄)を活躍させた。北尾重政に浮世絵を学んだ山東京伝(質屋・岩瀬伝左衛門の長男)は黄表紙の画工として出発させ、黄表紙『御存知商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』は彼の出世作となった(図は国書データベースより)。

同年代の大田南畝(御徒の大田正智・母利世の嫡男)は協力者とも言える。黄表紙『嘘言八百万八伝(うそはっぴゃくまんぱちでん)』*2を出版し(図は国書データベースより)、また山東京伝の才能を見出したとされている。

ところが田辺意次が失脚し、松平定信寛政の改革(1787~93)を始めると出版に対する規制も強まる。蔦重は身上半減、京伝は手鎖50日という処罰を受けた。喜三二は藩主佐竹義和より叱責を受けて筆を断ち、春町は当局の召喚を受けたが応ぜず、ほどなく没した(おそらく自害)。喜三二の黄表紙『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくとおし)』(図は国書データベースより)、類似書である春町の『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』が、松平定信の文武奨励策を風刺しているというのが理由であった。

松平定信が失脚すると蔦重は新しい分野を開拓する。期待したのは喜多川歌麿であった。蔦重はかねてより黄表紙・洒落本・狂歌本を出版する中で、歌麿の画の才能を高めるために心を砕いてきた。狂歌絵本『画本虫撰(えほんむしえらみ)』で虫を本物であるかのように描かせた(国書データベースアーカイブがある)。さらには狂歌絵本『潮干(しおひ)のつと』で貝を描かせた(図は国書データベースより)。準備の整ったところで艶本『歌まくり』を世に送り出した。

松平定信が失脚して規制緩和が期待されるなかで、蔦重は江戸の人々に楽しんでもらおうと歌麿美人画艶本を企画したが、歌麿から蔦重の支配は受けないと断られてしまう。そこで蔦重は、美人画の向こうを張って役者絵に挑む。しかも名が売れている絵師ではなく、コンテストで選ぶことにした。それぞれの絵師に、特異な役者絵を持ち寄らさせ、その中から未開化の才能を見出すという方法をとった。この網に引っかかったのが東洲斎写楽である。蔦重に嫌というほどの注文を付けられながら何回も何回も絵を描かせられ、名人の域に達したというところで、28枚の黒雲母摺大首絵の役者絵を完成させた(図はウィキペディアより)。

写楽の絵は役者の良い面も悪い面も強調した絵で、現代流にいうとデフォルメされ、これまでにない創造性に優れたものであった。しかし彼の活動は長くは続かず、しばらくして姿を消した。同じように蔦重の体の衰えも激しく、享年49歳で新しい文化を切り開いた稀代の本屋も命を閉じた。

読後感である。蔦重と戯作者・絵師(喜三二・春町・歌麿写楽など)との日常でのやり取りは、作者の創作の部分が多いことと思われるが、見事に描かれていて、読者をひきつけてくれる。江戸の人々が大衆文化の時代を切り開いていく様子がその時代に一緒にいるかのように感じさせるほどに、身近に書かれている。小説家の存在が大切だと改めて認識させてくれた。

ところで次の時代に向けてこの時代の若者たちは、儒学特に朱子学の勉強に励んだ。寺子屋・藩校・私塾などを利用しながら考える力を身につけていった。これには世の中全体での識字化率を高めることが必要であったが、漢字・仮名を書記言語とする日本においては、アルファベットをそれとするヨーロッパ諸国と比較するとそのハードルは高い。これを緩めるためのバッファとして、いわゆる大衆本の黄表紙狂歌本、洒落本などが大きく働いたと考えることができる。その意味において、蔦屋重三郎の業績は高く評価されてよいと思う。

*1:この本の中での言及なし

*2:この本の中での言及なし

豪徳寺・松陰神社を見学する

世田谷のボロ市を楽しんだ後は、お昼ご飯も食べずに周囲の歴史散策へと向かい、中世の吉良氏の世田谷城、彦根藩井伊氏菩提寺豪徳寺吉田松陰を祀った松陰神社を巡った。

最初は世田谷城で、ウィキペディアには次のように説明されている。貞治5年(1366)に吉良治家に世田谷郷が与えられ、応永年間(1394~26)に居館として整備された。吉良成高の頃に城郭として修築、天正18年(1590)に吉良氏朝の代に小田原征伐をした豊臣氏に接収・廃城された。

吉良氏といえば、忠臣蔵で悪者とされる吉良上野介を思い出す。こちらの方は本家筋で、世田谷の吉良氏は分家筋に当たる。室町時代の将軍は足利氏であり、吉良氏はその一族である(鎌倉時代足利義氏の庶長子の長氏が地頭職を務めた三河国吉良荘を名字にした)。室町時代三河吉良氏と奥州(武蔵)吉良氏とに分かれた。江戸時代には、三河吉良氏は家格の高さから高家とされた。高家は一人だけという事で、奥州(武蔵)吉良氏は蒔田氏に改姓した。赤穂事件で改易となった吉良家は、浅野家とともにその後再興された。蒔田氏と三河吉良氏分家の東条家が吉良に復姓し、この両家が明治維新まで続いた。吉良氏一族の墓は、豪徳寺に隣接する勝光院にある。

下図は明治晩年の頃のもので、その中央部は世田谷城があったところである。崖のマークがあるところが空堀で、豪徳寺のあたりも世田谷城に含まれていた。

空堀の現在の様子。

次は隣の豪徳寺で、その歴史もウィキペディアによれば次のようである。豪徳寺付近は先に説明したように、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。文明12年(1480)に世田谷城主・吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだ。当初は臨済宗に属していたが天正12年(1584年)に曹洞宗に転じた。寛永10年(1633)に彦根藩2代藩主・井伊直孝が井伊家の菩提寺として伽藍を創建し整備した。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」によった。平成18年(2006)に猫の彫り物が施された三重塔が新たに建立された。なお豪徳寺は江戸表の墓所で、国許彦根墓所清凉寺(滋賀県彦根市古沢町)である。

山門。山門の扁額には「碧雲関」と書かれており、「外の世界と境内を隔てるために建てられた門」を意味すると言われている。

内側からの山門。

地蔵堂

三重塔。高さは22.5メートルで、釈迦如来像、迦葉尊者像、阿難尊者像、招福猫児観音像が安置されている。

仏殿。延宝5年(1677)に建立。正面に篆額「弎世佛」があり、現在・過去・未来の三世を意味する阿弥陀如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒菩薩坐像が安置されている。


招福猫塔。ある日、この地を通りかかった鷹狩り帰りの殿様が、寺の門前にいた猫に手招きされて立ち寄り、寺で過ごしていると、突然雷が鳴り雨が降りはじめた。雷雨を避けられ和尚の話も楽しめた殿様は、その幸運にいたく感動したそうだ。その殿様が彦根藩主の井伊直孝だったと伝えられている。

招福殿。昭和16年(1941)に建立、令和4年(2022)に改修された。

招福猫。何匹もの招き猫が所狭しと並べられていて、その多さに仰天させられる。お店で招福猫を販売していたが、大きいものはすべて売り切れだったのにもびっくりした。

法堂(本堂)。昭和42年(1967)に造営され、聖観世音菩薩立像、文殊菩薩坐像、普賢菩薩座像、地蔵菩薩立像が安置され、井伊直弼肖像画が飾られている。

納骨堂。昭和12(1937)年に建立、令和3年(2021)に改修された。

豪徳寺での最後の見学場所は井伊家の墓所である。NHK大河ドラマでは井伊家が持て囃されているようで、昨年の「どうする家康」では伊那谷からやってきた美少年ということで井伊直政(板垣季光人)が、また5年ほど前の「おんな城主直虎」では井伊直虎(柴咲コウ)が、そして大河ドラマ最初の作品とされる「花の生涯」では井伊直弼(尾上松緑)が取り上げられた。直政(1561~02)は彦根藩井伊家初代藩主、直弼(1815~60)は16代藩主、そして直虎は真実ははっきりしないが直政の養母と伝えられている。直政は徳川四天王と言われる人物で、家康の天下取りに貢献した功臣である。直弼は、ウィキペディアには次のように紹介されている。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、開国派として日米修好通商条約(1854)に調印し、日本の開国・近代化を断行した。また強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄:1858)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変:1860)。

豪徳寺を井伊家の菩提寺とした井伊直孝の墓(久昌院殿正四位上前羽林中郎將豪徳天英大居士)。

幕末に開国をした井伊直弼の墓(宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士)。

豪徳寺から松陰神社へ向かう途中に山門が見事な朱色の勝國寺があった。この寺は世田谷城主吉良家の祈願寺および世田谷城の鬼門除けとして天分23年(1554)に創建、 太平洋戦争時に焼失、昭和29年(1954)に旧本堂が再建され、平成12年(2000)に現本堂が建立された。

山門。吉良家並びに徳川家15代にわたりご朱印寺として年12石が寄進され、格式の高い朱塗りの山門となっている。

本堂

最後は松陰神社である。この神社は名前が示すように吉田松陰を祀っている。吉田松陰(1830~59)は、幕末の尊王論者で長州藩士であった。ペリーが浦賀に再来した時、海外密航を企て失敗し、萩の野山獄に入れられた。出獄後に玉木文之進が創設した松下村塾を継ぎ、尊王攘夷運動の指導者を育成した。日米修好通商条約が締結されると、尊王論者であった松陰は反幕府的言動を強め、老中間部詮勝(まなべあきかつ)暗殺の血盟を結ぶ。藩も捨てておけず、野山獄に再収容した。幕府も疑惑をもち、江戸へ呼んで伝馬町の獄に投じ、安政の大獄で刑死した。

ウィキペディアによれば、松陰神社の場所にはかつて長州藩主の別邸があり、松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬され、明治15年(1882)に門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は1927年から1928年にかけて造営されたとされている。

松陰神社(鳥居の写真は、観光客が大きく入り込んだ写真しかなく、残念ながら掲載できない)。

松下村塾。ここの建物は、山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものである。

縁側の上がり口の所に、棕櫚縄を十文字に掛けた石があるが、これは止め石(とめいし)という。日本庭園や神社仏閣の境内において、立ち入り禁止を表示するために用いられる。

松陰の墓所には、彼の他にも維新の時に亡くなった烈士達が弔われている。

世田谷ボロ市の後の歴史散策巡りはこれで終わり、世田谷線三軒茶屋駅まで戻って遅いお昼をとった。食事中にも出た話だが、幕末の頃は世田谷は当時の政争からは離れた長閑な農村であったと思われるが、激動の時代を代表するような不倶戴天の二人の墓が、この地でしかも隣接して設けられていることになんとも不思議な気がした。二人の業績に対する評価は、彼らがなくなった後の時代でも、高く評価されたり低く評価されたりと、彼らが生きていた時代と同じように激しい変化の中にある。この後の時代でも同じことが繰り返されることが想像され、直弼も松陰もいまだに平穏ではいられないだろうと心配になった。しかし我々は満腹になったので、無地行事を終えたことの解放感もあり、幸せの絶頂にあった。

世田谷のボロ市を見学する

昨年の11月ごろより、近くの駅のポスターや電車のつり広告で、世田谷のボロ市の宣伝を多く見るようになった。さらに開催日が近づくと、臨時電車を出しますという広告まで現れた。人気が高いという話は聞いていたが、これまではそれほど行ってみたいとは思っていなかった。

しかし江戸時代の百姓たちに関する本を何冊か読み、その中に江戸の市場の説明があった。それらは主に日本橋を中心とする大店や魚河岸についてであったけれども、この時代は辺鄙であった世田谷でも市が開かれたことに興味を覚えた。ボロ市は12月の15,16日、さらに年が明けて1月の同日に開催される。暮れは他に用事があり機会を逸してしまったので、1月に行こうと予定していた。そうしたら突然、ボランティアの仲間からボロ市に行こうという誘いがあり、一人で行くよりは楽しそうなので、これに便乗した。

行程は、世田谷線の世田谷駅で降りて、ボロ市の会場を巡りながら、途中で代官屋敷・区立郷土博物館を見学し、その後、世田谷城阯公園・豪徳寺松陰神社を訪れ、世田谷線松陰神社前に至る都合2.8㎞であった。

世田谷区のホームページによると、ボロ市のはじまりは安土桃山時代まで遡るとのことである。関東一円を支配していた北条氏政(後北条氏4代目当主)が、天正6年(1578)世田谷新宿に楽市を開いた。毎月の1と6の日の都合6回開催されたので、六歳市と呼ばれた。北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、徳川家康が江戸に幕府を開き、世田谷城は廃止されて城下町としての意義を失う。同時に六歳市も自然消滅し、いつのころから暮れの年一回だけ開かれる歳の市(市町と呼ばれた)になった。

明治になって、新暦が使われるようになると正月15日に開かれるようになり、やがて暮と正月の15,16日の両日に開催されるようになった。明治20年代頃には、これまでの農機具や正月用品に代わって古着やボロ布の扱いが主流になり、その実体に合わせてボロ市と呼ばれるようになった。

下図は明治末頃の世田谷である。道沿いに集落がみられるが、殆どは田圃である。左図中央に家が立ち並んでいる街路があるが、これが今回のボロ市の会場であった。

会場に行ってみると、人で埋め尽くされていた。


お店を覗くのも大変なのだが、空いているお店を探して写真を撮った。ガラス細工、

着物、

瓢箪。

ボロ市の通りの中ほどに代官屋敷がある。


徳川家光(3代将軍)は、彦根藩井伊直孝(2代藩主)に世田谷領の一部を江戸屋敷の賄料として与えた。その時、代官になったのは大場市之丞であった。北条氏が関東一円を支配していたころ、この地域を防御するために世田谷城が設けられ、そこの城主は吉良氏、大場氏はその家臣であった。北条氏が秀吉との戦いに敗れ、吉良氏が滅びると、大場氏は帰農した。井伊氏が世田谷に所領地を得たときに、その代官として登用された。以後、大場家は明治維新に至るまで235年間代官を務めた。屋敷は住宅兼役所として使われた。建物は茅葺・寄棟造で、建築面積は230㎡、玄関・役所・役所次の間・代官の居間・切腹の間、名主の詰め所などが設けられた。現存の建物が建築されたのは元文2年(1737)である。


建物の外には白洲跡もある。江戸時代は訴訟が多かったとされているが、ここではどのようなことが裁かれたのか知りたいところである。

代官屋敷敷地内には世田谷区立郷土博物館がある。入り口には庚申塔・石像などが並んでおかれていた。左端に見えるのは臼。その右は三界萬霊塔。三界は一切の衆生の生死輪廻する三種の世界(欲界・色界・無色界)をいい、三界萬霊とはこの迷いの世界におけるすべての霊あるものを指す。その隣は地蔵菩薩立像。さらに隣は狐の石像。主神に従属しその先ぶれとなって働く神霊や小動物のことを「使わしめ」といい、狐は稲荷の使わしめである。右端は、青面金剛(しょうめんこんごう)で、この供養塔の本尊である。病魔・病鬼を払い除くとされ六臂三眼・憤怒相で、三尸(さんし:体中にいるとされる虫)を模した「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿を踏みつけている。

郷土博物館には、旧石器時代から近現代までの世田谷区の歴史が分かるように要領よく展示されていた。世田谷区のホームページには世田谷デジタルミュージアムがあり、いつでも見られるようになっている。そこで郷土博物館の展示の中で、興味を持ったものだけをここでは紹介する。

古墳時代には、世田谷にもいくつかの前方後円墳や円墳がつくられた。その中の一つが野毛大塚古墳で、その複製の円墳と石棺があった。


そして鎧の複製。

さらにはこのころから使われ始めたカマドの模造も展示されていた。

鎌倉時代には江戸氏傍流の木田見氏が御家人であった。

室町時代から戦国時代の領主であった吉良氏の説明もあった。

さらに、江戸時代のボロ市の様子を示した模型もあった。

そしてまた人混みのボロ市へと戻った。名物の代官餅を食べてみようとも思ったが、長い行列ができていることだろうと想像し、次の目的地へと向かった。

出かける前は、ボロ市は大きな広場の中で開かれるのだろうと勝手に思っていたが、そうではなく、道路沿いであることに驚いた。江戸時代は戸板を使ってお店を開いていたことと思われるが、今回もほとんどのお店は戸板の大きさ程度で、当時の雰囲気を醸し出してくれた。ただ道沿いにある家は、店を開いている場合は良いものの、そうでないときは出入りが不便になってかわいそうな気もした。

また5年ごとに代官行列が行われると紹介されていた。江戸時代には市が開かれているとき、治安を維持するために代官が見廻りしたそうである。それを模しての行事とのことだが、これほどの人混みの中で実行するのはさぞかし大変なことだろうとも思った。今回はコロナ開けという事もあり特に混雑していて、買い物を楽しむというわけにはいかなかったが、落ち着いた頃に、代官行列を見がてらもう一度来たいと思っている。

江戸時代の百姓に関連した書物を読む

正月の人気番組の一つに駅伝がある。元旦は実業団のニューイヤー駅伝、2・3日は大学の箱根駅伝である。特に本人や家族に関係者がいるときは、応援に熱が入ることだろう。我が家もその例外ではなく、今年は両方とも好成績をあげたので、和やかに観ることができた。駅伝はタスキをつなぐことが最も大切な使命で、選手たちはその為に、歯を食いしばり、時には倒れそうになりながらも、次の人へつなごうと必死にもがく。多くの人たちは、もちろん勝ち負けもあるが、そこに繰り広げられるチームの連帯感に感動を覚える。この絆は国民性とも思えるときがあるが、いつの頃から芽生えたのであろう。

暮れから正月にかけて、江戸時代の百姓に関連する本を読んだ。大名や武士たちがどのような生活をしていたかについては、テレビドラマなどを通して、不正確かもしれないがかなりの知識がある。しかしこの時代の人口の8割以上を占める百姓についてはどうであろう。年貢が厳しく、百姓一揆がたびたび生じたこと程度の知識しか持ち合わせていない。そこで一念発起して、百姓に関連する本を読んでみることにした。

先ずはタイトルに惹かれて、渡辺尚志著『言いなりにならない江戸の百姓たち』である。最初の章で江戸時代後期の村についての説明があり、それ以降を読み進めていくうえでの適切な導入であった。

平均的な村の村高は400~500石、耕地面積は50町、戸数は50~80戸、人口は400人程度で、村の数は天保5年(1834)には63,562であった。村は百姓の家屋が集まった集落を中核に、その周囲に田畠、その外側に林野からなっていた。農業を主要な産業とするのが大半だったが、漁業や海運業を中核とする村、林業が重要産業である村、商工業を中心とする都市化した村などもあった。

住民の身分は百姓(一部に僧侶・神職)だった。百姓身分には、土地を所持する本百姓とそうでない水呑百姓などの階層区分があった、農村住民でも、農業以外に商工業・運送業年季奉公・日雇いなど多様な生業を兼業とし、兼業農家が一般的であった。村人たちは、入会地、農業用水路の共同管理、村の中の道や橋の維持管理、寺院や寺社の祭礼の挙行、治安維持、消防災害対応など様々な面で協力していた。田植えや稲刈りなどでは結(ゆい)と呼ばれる労働力交換や、「もやい」と呼ばれる共同作業もあった。村の家々は五人組を作り相互に助け合い、年貢納入などの際は連帯責任を負い、相互扶助組織としても重要な役割を果たした。

村は、領主の支配・行政の単位であり、村の運営は村役人(名主・組頭・百姓代)が行った。名主は、世襲制の所もあれば任期制の所もあった。任期制の場合は入札で後任を選ぶこともあった。しかし最終的には領主が任命した。村の運営は名主を中心に行われたが、重要事項は戸主全員の寄り合いで決められた。村運営の必要経費は共同で負担し、運営は自治的に行われ、村自身の取り決め(村掟)も制定された。戦国時代には村の上層農民(在地領主・地侍)の中には大名の家臣になる者も大勢いたが、兵農分離によりこれらの人は城下町に移住させられた。武士は城下町から文書によって村に指示を出し、百姓たちも文書を用いて武士に報告や要求を伝えた。これにより文書行政が発達し、百姓たちはこれに対応するため読み書きを学び、寺子屋が増えていった。

百姓の負担は年貢と小物成であった。年貢は検地帳に登録された田畑・屋敷地に賦課された石高から定まった。小物成は、山野河海の産物や商工業の収益にかけられた。年貢などの負担は村請制であった。領主は毎年村に対して年貢の総額を示し、名主を中心にして各自の負担額を確定し、名主が全体の年貢を取りまとめて上納した。江戸時代の貨幣制度は、金・銀・銅の三貨で、金は計数貨幣、銀は秤量貨幣であった。

この後の章は、下総国葛飾郡幸谷村(現在千葉県松戸市)の酒井家文書を用いての説明である。幸谷村の村高は、17世紀末に388石、18世紀半ばに512石弱で、明治5年(1872)に戸数62戸、人口360人であった。江戸時代初めは村全体が幕府領だったが、寛永3年(1626)にその一部が旗本古田氏の知行地に、17年末までには幕府領が旗本春日氏・曲淵氏の知行地になり、領主が3人の相給村落となった。名主も領主ごとに置かれた。酒井家は領主春日氏の有力百姓で名主や組頭を長く務めた。

最初に紹介されている文書は、宝暦8年(1758)に幸谷村の百姓11人(戸主全員)が春日氏の役人森新兵衛・野本文右衛門にあてて提出した願書で、「年貢が、定免*1ではなく検見*2に代わってしまったので、元に戻して欲しい」という願いであった。この願いはすぐには認められなかったものの、宝暦11年に定免法が復活した。

2番目の文書は、春日氏領の百姓たちが名主(酒井)又一に年貢に関わる帳面類の記載内容を確認したいと願ったところ、帳面類を全て提出してくれ、全てが正しく処理されていることを確認できたことに対する礼状である。百姓たちの行政上の処理能力の高さに驚かされる。3番目の文書は村掟で、耕作に励むことや盗人などへの対応などが記されている。村での自治の様子が分かる。

4番目の文書は、名主となった四郎兵衛が不正を働いていると、組頭の喜左衛門と杢左衛門と百姓代の常右衛門を代表にして春日氏領の土地所持者18人が春日氏に訴えた。これに対して幸谷村の曲淵氏領の名主武左衛門と春日氏領の組頭又一は四郎兵衛を擁護する側に立ち、二人は幸谷村のもう一人の領主である古田氏の家臣根沢市郎兵衛に対して願書を提出した。杢左衛門らが、自分たちの主張に根拠がなかったことを認め訴えを取り下げたことで、この一件は落着した。5番目は水利権を巡る隣村との争いで、訴訟は出したものの話し合いで解決した。

6番目の文書は春日氏の知行所6か所が共同して、借金に苦しんでいる春日氏に対して、財政再建策を具体的な金額をあげて提案したものである。7番目の文書は春日兵庫の御用役矢嶋応輔の公金横領などを指摘して罷免を要求したものである。8番目の文書は、又一が名主をしている余裕がないことで辞任を春日氏に申し出たものである。これは認められなかったようである。9番目の文書は、領主春日氏が自身の借金を百姓に転化しようとした時に、その撤回を願った嘆願書である。結末は不明である。

この後は肥料購入に伴って生じたトラブルが紹介されている。これらの文書から、高い年貢に苦しめられていたとされていたこれまでの見方とは異なり、勇敢にも武士に注文を付けるしたたかな百姓たちの姿が目立つ。

このように自立した百姓たちがどうして生まれたのかを知りたくなり、次に読んだのが佐々木潤之助著『大名と百姓』である。この本は、1960年代に滅茶苦茶に売れたとされる中央公論社の『日本の歴史』の中の一冊である。日本の本はページ数が少ないとこれまで感じていたが、この本はなんと550ページ近くに及ぶ大作で、データを駆使してとても詳細に記述されている。

さて書かれている内容だが、江戸時代初期(17世紀)における小農を中心とした村の成立過程である。渡辺さんは酒井家の文書を紹介していたが、佐々木さんも同じように、静岡県三島市の高田家に残された文書をベースにしてこの時代を紐解いている。高田家のこの時代の当主は与惣左衛門で、父子以来代々、譜代下人(家内隷属的な農民)を何人か所有していた。その中の一人が七右衛門である。貞享2年(1685)の時点で彼(34)の家族は、弟与左衛門(27)、女房さん(31)、亀蔵(3)、母つる(68)であった。

譜代下人とは、身売りされたり、先祖代々主人に所有される家内奴隷であった人たちである。与惣左衛門の屋敷地は1反歩の大きさがあり、その片隅に長屋風の粗末な建物が並んでいて、37人の下人・下女が寝起きしていた。七右衛門の父も同じ七右衛門という名前である。父は与惣左衛門から3畝の土地を分けてもらい、事実上自分の土地として耕し、4斗ぐらいの収穫を挙げていた(1人が1年に食べる米の量は1石。1反の土地の収穫量は1石)。父は母と共に、与惣左衛門が必要な時はいつでも彼に使役されていた。これは徭役・賦役と呼ばれ、150石に及ぶ与惣左衛門の田畑の耕作などを行った。

父が亡くなって息子の七右衛門に代わった。この頃、与惣左衛門が土地をドンドン増やしているのに、父や母が賦役させられる耕地はそれほど増えていないと母が言った。これは時代の変化を表していた。変化が起きる前は、与惣左衛門は年貢の納入に困った農民から土地を買っていた。買った土地は、永代買いといい、購入者の家が耕したので、下人の賦役が増えた。ところが寛文10年(1670)頃、与惣左衛門は永代買いを改め、土地を質として取るようになった。すなわち債務者にその土地を耕作させ、そこからの収穫で借金を返済させた。これは質地小作関係の始まりである。さらに進んで、質として取った土地を債務者以外の百姓に耕作させるようにした。これは質地別小作関係と呼ばれる。

貞享元年(1684)の人別帳*3を作成したときに、与惣左衛門は七右衛門を含む7人の下人に、来年の人別帳では彼らを地借百姓(屋敷地を借りている百姓)にし、今まで分けて与えている田を彼らの名請地*4にしてやると言った。

百姓の階層についてはさまざまに説明されるが、大きな括りは、地主*5・本百姓*6・水呑百姓*7である。七右衛門は、下人だったので水呑百姓であったが、貞享2年の人別帳で、地借百姓と記載されたことで、本百姓として認められるようになった。この時期、下人から本百姓への移動が全国で確認される。他方、大地主の与惣左衛門は、困窮者から土地を購入するのではなく質地として活用し始めた。また隷属的な下人を地借百姓にすることで、戦国時代からの主従関係を、仲間関係へと変更した。このような傾向は各所に現れ、本百姓の割合が高くなり、勤勉な小農家が増加した。

佐々木さんは、与惣左衛門と七右衛門に生じたこのような現象をデータを駆使して分析した。大地主(佐々木さんは家父長的地主と呼んでいる)と下人が本百姓に収斂していく様を、この時代の学術的傾向をうけて階級闘争と捉えている。その部分の説明については抵抗があるものの、小農家化の分析そのものは面白い。それについては、この書籍を読んで欲しい。

硬い本を読んだのでその次は寝っ転がりながら気楽にということで、戸森麻衣子著『仕事と江戸時代』を読んだ。一言で言うと、貨幣経済が浸透したことにより、江戸時代の終わりごろには各身分とも非正規化・パートタイム化が進んだということである。大学での講義を意識したのであろうか、14章で構成されていて、各章が1講義にあたる。そのうち武士に関係する部分が1/3を占めている。広い意味の百姓については3章、農村の百姓については1章があてられている。ここでは、百姓について考えているので、その章を紹介する。

江戸時代の年貢は前述したように土地所有者に課せられた貢租で、土地を所持するものは、田や畠などの面積や土地条件により算定された年貢を負担した。そして土地情報は検地により確認された。検地は太閤検地後も江戸時代前期においては継続的に行われた。この頃は新田の開発も盛んであったことから、検地帳に把握されていないものも増えていった。17世紀後半、4代将軍家綱(在職1651~80)から5代将軍綱吉(在職1680~09)のころ新田畠を対象に検地が追加実施されたが、この後検地はほとんど行われなかった。

時代の推移とともに農業技術が向上し土地面積当たりの収穫量は増加したにもかかわらず、帳簿上は当初の見積もりのままで、増加が反映されることはなかった。このため年貢は現在の固定資産税に近く、土地を所有している百姓がどれだけの収穫量をあげているのかに関係なく年貢量は決まった。このため領主が求める稲を植えるよりも商品価値の高い作物を植えて、収益の増大を図るようになった。

畑作も同じような傾向をたどり、麦や大豆で納めることとされていたが、収益面で有利な作物が植えられるようになると金銭を替わりとする代金納が認められるようになった。田についても同じである。米を地域市場で換金したり、商品作物を販売して現金を手に入れる環境が整ってきた。租税の金納制度の普及・地域経済の発展・農業経営の多様化が一体となって推進された。なおこの頃の商品作物には、木綿・綿・麻・砂糖黍・甘藷・煙草・藍・紅花などがある。

商品作物は栽培に手間がかかり、収穫時期・時間に制限がある。生産規模が大きくなると家族労働では賄えないようになり、手伝いの人が雇われるようになった。もともと機械化されていない前近代の農業は家族労働の範囲でおさまるものではなく、村の百姓相互の協力によって成り立っていた。しかし農村地域に貨幣が普及しだすと、労働の対価として賃金を払うことが一般化し、村の百姓でなくても構わなくなり、遠方の村からグループでやってきて繁忙期のみの手間取り労働に従事する者もあらわれた。また水呑百姓もある程度の割合でいたので、彼らは手間取りなどの日雇い労働をして、収入の不足を補った。

地主は小作させるよりも商品作物を作付けした方が有利だと見ればそのように積極的にしたし、さらには、商品作物の産地仲買や産地問屋を兼業するものも現れた。このようなものは豪農と呼ばれたが、そのもとで働く日雇い者の需要は増加した。また単身者や女性のみの家庭では、農地を他の百姓に預け、自身は日雇い労働をして稼ぐという選択肢もあった。さらには百姓が農業以外の副業(農間余業)に就くこともあった。例えば旅人が行き来する甲州街道の八王子では、草履草鞋(わらじ)小売渡世・糸繰渡世・紙漉(かみこし)渡世・笊目籠(ざるめかご)渡世などがあった。これらは、原材料を自身の村で調達し商品を作って売る副業である。

ここまでに得た知識をまとめるために、戸石七生さんが2018年に論文誌『共済総合研究』に発表された研究報告「日本における小農の成立過程と近世村落の共済機能ー「自治村落論」における小農像批判ー」を読んだ。戸石さんは、白川部達夫さんの百姓株式論に依拠しながら小農が成立した政治的・社会的背景を次のように説明している。

江戸時代の農業は、土地だけでは成立せず、水利と草山を必要不可欠としていた。入会は緑肥及び耕作用の牛馬の飼料の供給源として重要であり、入会権は水利権とともに土地所持と密接にかかわっていた。そして土地所持は、単なる土地の所有を意味するのではなく、水利権・入会権とセットとなって、村のメンバーシップである「百姓株式」の所持を意味した。村は百姓株式の管理を通じて個別の百姓の農業経営をコントロールした。つまり村は、水利権・入会権だけでなく、土地についても「村の土地は村のもの」という所持権を主張した。その証拠に村の「村借り・郷借り」という行動を見ることができる。村が困窮したときは村の土地を担保に借金したが、返済できないときは好きな土地を取ってよいとするものである。これは個々の所持権よりも村の所持権の方が優先することを意味した。

さらには個別の百姓の農業経営の存続にも責任を負っていた。そうしなければ百姓は村を去り、より厚遇してくれる他の村へ行ってしまうためである。百姓は「土地に緊縛」されていたというイメージがあったが、他村の百姓株式を手に入れることで移動は大いに行われていた。後期には、一家で長期の出稼ぎに出るような百姓も多くいた。挙家離村しようとする百姓を必死に引き止め、残された耕作放棄地の荒廃を必死に食い止めようと、村や村役人は並々ならぬ努力をした。農業経営は労働集約化すればするほど人手を必要とする。近世村落は何としてでも個々の百姓が村で営農できるようにその家の存続を保障する必要があった。このため共済は村の存続にかかわった。

しかし小農レベルの百姓と村の間のこのような関係の構築には時間がかかった。江戸時代において、小農層の発言権の基盤は、検地帳で土地の名請けにされ、年貢担当者として登録されることであった。村が年貢収納に責任を負うという村請制のもとで、国家権力によってその効力が保証された検地帳に年貢担当者として登録されることは、小農にとって村のメンバーであることを国家権力が保証してくれることと同義であった。国家権力の承認のもとに村のメンバーシップを獲得したことは、村の運営に参加するうえで大きな前進で、国家権力の承認が近世村落の小農にとっては、村役人層のような上層農に対するうえでの権原となった。

検地が行われなくなると、村によって管理される百姓株式に正統性を求めるようになる。これは小農の権利強化につながった。そうしなければ人的資源を他の村に奪われてしまう。上層農はそれまで持っていた既得権を放棄し、小農に譲歩して村における彼らの政治的・社会的地位を制度的に強化し、村の運営を安定させるという選択肢しかなかった。名主の選定方式が領主の任命や上層農同士の相互承認から、小農レベルの家を含んだ村人による委任に変化し、「公」としての村が創出された。名主が、国家権力のみならず小農層を含む村人からも「村の代表」として認められたことはとても重要で、村人が名主を「村の代表」として承認し、主体的に支配に組み込まれるメカニズムが初めて生まれた。そして、小農は「検地名請と百姓株式の二重規定性の中に権原を置いていた」としている。

50年前に出版された書籍から最近の研究報告まで江戸時代の百姓に関係する書物をこのように読んできたが、ここでまとめることにしよう。江戸時代の百姓の形成に一番大きなインパクトを与えたのは、これは年貢・諸役を村全体の責任で納めさせるようにした村請制であろう。この制度により土地所有者全員に対して村の維持・運営に対しての責任が共同で課せられるようになった。次に大きなインパクトを与えたのは小農の拡大だろう。江戸時代が始まる頃は、彼らの多くは大地主(有力な土地所持者)に隷属する下人であった。しかし村請制が始まると、大地主たちは自分たちに及ぶ危険を分散させるために、下人たちにそれまで耕していた小規模農地を与え、これを名請地とし、年貢の納入に責任を持たせたことである。地借百姓(屋敷地を借りている)となった彼らは、公的に村のメンバーとして認められたと自覚し、自律的に勤勉に働き、反当りの収穫量を増やした。

これらに加えて大きなインパクトを与えたのは貨幣経済の発展であろう。検地での石高によって現物を治めることで始まった村の経済は、肥料の活用や商品作物の拡大などにより、年貢を貨幣で納め始めるようになった。これによって、米や麦に代わって、高い利益を生み出す商品作物への転換が可能になり、土地所持者たちはこれからより多くの余剰金を得ることが可能になった。また資金力に富む百姓は、困窮したものの土地を買い取るのではなく質として担保でとり、引き続きそこで働かせあるいは他のものに耕作させることで、資金を投資に回せるようになった。これは江戸時代後期の豪農を生み出す要因ともなった。

そして多くの小農の人々を含んだ村の土地所持者の間には、村の維持・管理において運命共同体であるという意識が生まれた。「駅伝の襷のように」、彼らはさらに村を良くしようとする強い絆で結ばれたことであろう。

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*1:過去数ヵ年の収穫量の平均を基礎として向こう3,5,10ヵ年あるいはそれ以上,年の豊凶にかかわらず一定の年貢額を請け負わす方法。

*2:田畑の農作物を見分けたうえ坪刈りをし,稲の豊凶に従い租税を決定する。

*3:現在で言う戸籍原簿や租税台帳で、宗旨人別改帳とも呼ばれる。

*4:名請は年貢負担を請け負うことで、名請地は検地帳に登録された田畑,屋敷地は名請地である。

*5:土地を貸し付けて、それで得た地代を主たる収入として生活。

*6:石高・永高に換算できる田畑・屋敷地を持つ者、高持百姓ともいう。

*7:田畑を所有していないため年貢などの義務はない。