bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

朱喜哲著『バラバラな世界で共に生きる』を読んで──内と外のあいだを生きる私の経験

小学校の高学年のころ、東京の郊外から地方の町はずれにある小学校へ転校した。それまでクラスの仲間たちは互いを名字で呼んでいたが、転校先では名前で呼び合うのが当たり前だった。名前で呼ばれる相手といえば、家族や親戚、近所のおばさんくらいだった私にとって、クラス全員から名前で呼ばれる体験は、子どもながらに文化的な衝撃を伴うものだった。「家庭は内、それ以外は外」と感じていた世界が、そこではすべて「内」として広がっているように思えたのだ。

引っ越し先の隣家は農家で、近所の人たちが頻繁に出入りしていた。不在のときでも勝手に上がり込み、お茶を飲んでいくことも珍しくない。母は誰かから聞いたのだろう、「野沢菜をちゃぶ台にいつでも置いておき、近所の人が勝手に食べられるようにしておくものらしいの」と、少し困惑気味に話していた。ここでは家というものの境界が曖昧で、地域全体がひとつの大きな「家」の延長のような、親密な共同体を自然に形づくっているように見えた。

その頃、地域では農業振興が盛んになっていたのだろう。隣家では子牛を飼い始め、やがて乳が出るようになると、「今朝採ったばかりの牛乳ですよ」と、我が家にもおすそ分けをしてくれた。おそらく近所の家々にも同じように配っていたのだと思う。こうした助け合いの背後には、地域特有の親密さと同時に、集団の調和を保つための無言の規範が働いていたのだろう。

そうした固有の文化や規範のもとで、そこに暮らす人々は、ほとんど意識することなく生活していたのだと思う。私のように外から入ってきた者には、初めのうちは大目に見てくれた。しかし、仲間の輪の中に入るにつれて、文化の規範から外れる行動をすると、「かっこつけて」と揶揄されることがあった。

これとは逆に、今私が住んでいる地域には、もはや共同体と呼べるようなものが存在しない。一世代前には、新しく造成された住宅街へ同じ時期に移り住んできた人々が、「街づくり協定」などを結び、自分たちの街を住みやすくしようと努力していた。しかし、その時代を担った人々が世を去り、次の世代へ移るにつれて、かつての絆は徐々にほぐれ、今では自治会を維持することさえ難しくなっている。「隣は何をする人ぞ」という言葉どおり、街はゆっくりとバラバラな方向へ向かっているように感じられる。

かつての農村社会は、親密で閉じられた「プライベート(私的)」な空間であり、今日の都市社会は、互いに異質な他者が共存する「パブリック(公的)」な空間であると言える。前者では、互いに顔の見える関係の中で自分をさらけ出して生活できる反面、同調圧力を伴う。これに対して後者では、隣人が同じ価値観を共有しているとは限らず、互いに一定の距離を保ち、気を遣いながら生活することになる。

朱喜哲(ちゅ・ひちょる)著『バラバラな世界で共に生きる──リチャード・ローティの哲学』では、こうした「私的空間(クラブ)」と「公的空間(バザール)」という比喩を用いながら、分断された社会で私たちがどう生きるべきかを考える手がかりとして、アメリカの思想家リチャード・ローティの哲学を紹介している。

かつての農村に存在した共同体は、それぞれ固有の文化を持ち、場所が変われば違っていた。異なる文化を持つ村同士が、互いに利用している河川を改修しようとするとき、利害の対立が生じる可能性があるだけでなく、工事の前にお茶を出すか出さないかといった些細な習慣の違いからも、思わぬ摩擦が生じることがあっただろう。公共的な工事は公的な空間の営みであるが、実際には、異なる私的空間に属する人々の交わりによって進められる。そして、その私的空間は一様ではなく、どこまでも多様なのである。

このように、異なる文化、すなわち異なる「私的空間」を生きる者同士が、どのようにして関係、すなわち「公的空間」を築き、衝突を避けながら共に生きていくのか──その課題を考えるうえで手がかりを与えてくれるのが、ローティの哲学である。

かつて米国に留学していた頃は、公民権運動が勢いを増していた時期であった。地域の白人と黒人の人口比率に合わせて、各学校のクラスの人種構成も揃えることが求められ、黒人の居住区から子どもたちがバスで白人の居住区の学校へ通わされ、逆に白人の居住区からも同じようなことが行われていた。その仕組みを知ったとき、私はアメリカ人の平等に対する徹底した姿勢に驚嘆すると同時に、どこか行き過ぎているのではないかとも感じた。そこに暮らす人々の文化や生活の文脈が、あまりにも無視されているように思われたからである。

この本で紹介されているように、20世紀アメリカを代表する哲学者ジョン・ロールズは『正義論』を著した。それまで、平等な社会を実現するためには、人々が共有する「道徳的な善」が平等に保障されることが重要だと考えられることが多かった。しかしロールズは、人々の善に対する考え方はそれぞれ異なるため、社会が目指すべきなのは、特定の善の価値観ではなく、より広く共有可能な「公正なルール」であると考えた。先に述べたような人種統合を目的としたバス通学政策も、広い意味では、こうした平等や公正を実現しようとする動きの一つとして捉えることができる。

これに対してローティは、普遍的な概念としての「公正さ」そのものにも懐疑的である。西洋哲学はこれまで、環境が変わっても、歴史が変わっても揺らぐことのない「真実」を追い求めてきた。しかしローティは、そうした普遍的真理の探究そのものが誤った前提に立っていると考え、主著『哲学と自然の鏡』において、絶対的な正しさを基礎づけようとする従来の哲学の営みを根本から問い直したのである。

ローティに言わせれば、普遍的な「絶対的真理」や「客観的な正義」を、人間の価値判断から独立した形で確定することはできない。人々が掲げる正しさや価値観は、それぞれの時代や地域、文化という特定のコンテクスト(文脈)の中で育まれた「私的な語彙」に基づいているからだ。

ここでローティが提示するのが、「私的領域」と「公的領域」の鮮やかな切り分けである。自己探求や独自の価値観を追求する「私的領域(クラブ)」においては、各自が自由に自らの語彙を深めればよい。しかし、異なる価値観を持つ他者と共存する「公的領域(バザール)」においては、特定の絶対的真理を他者に押しつけてはならない。公的領域で優先されるべきなのは、他者に不必要な苦痛を与えないこと、すなわち「残酷さを減らすこと」という最小限の配慮である。

このローティの思考を読んだとき、私はかつての二つの体験を思い出さずにはいられなかった。

一つは、子どもの頃に経験した農村共同体である。そこには「ひとつの大きな家」のような温かな親密さがあった一方で、共同体の規範から外れる者を「かっこつけて」と揶揄し、同一化を迫る同調圧力──いわば「私的な規範の公的強制」──が存在していた。

もう一つは、留学先の米国で見かけた人種統合のためのバス通学である。それは、「普遍的な公正さ」という理念を追求するあまり、人々の具体的な生活文脈や地域文化という私的領域を、十分に考慮できなかった政策の一面を示しているように、当時の私には思えた。

どちらのケースも、私的な価値観や普遍的理念を「正解」とし、それを公的空間全体に押し広げようとした点において、私には共通するものがあるように思える。そして今日、私たちが暮らす都市社会やインターネットの空間では、互いに異なる「私的語彙」を持った人々が、互いの文脈を理解しないまま、それぞれの「正義」をぶつけ合い、分断を深めている。まさに「隣は何をする人ぞ」どころか、隣人の存在そのものが脅威や摩擦の原因となりうるのが現代の姿である。

では、このようにバラバラになった世界で、私たちはどう生きればよいのか。朱喜哲氏が本書を通じて手渡してくれるローティの処方箋は、他者を自分と同じ価値観に従わせようとしない「アイロニスト*1」としての姿勢であり、同時に、他者の痛みに想像力を働かせる「共感」の姿勢である。

私たちが公的空間で出会う他者は、同じ歴史や文化を共有しているわけではない。お茶を出すか出さないかといった些細な作法の違いや、生活様式の違いに直面したとき、それを「間違い」と断じるのではなく、「単に異なる語彙や文脈を生きているのだ」と受け止めること。そして、お互いに「残酷な仕打ちをしない」という最低限の約束だけを頼りに、緩やかな会話を続けていくこと──それこそが、バラバラな世界をともに生きていくための一つの道なのだと、この本は主張している。

かつて「すべてが内」であった農村社会の温かさと息苦しさを知り、現在の「すべてが外」である都市社会の自由さと孤立感を生きる私にとって、本書が示してくれたローティの哲学は、双方の狭間で他者とどうつながり、しなやかに折り合いをつけていくべきかについて、確かな視座を与えてくれた。

ここまでが、この本を読み終えたときに私が抱いた素直な思いである。

しかし、その後、ニュースで米国の共和党大会の様子を目にして、愕然とさせられた。そこには、ローティが公的領域における最低限の規範として掲げた「他者に残酷な仕打ちをしない」という姿勢が、ほとんど見られないように感じられたからである。さらに、大会が開かれていた同じ時期、オンライン上では、対立する相手候補を貶めるためのフェイク動画を使った広告が流れていた。こうした映像は、まさに「残酷」という一語に尽きるように思える。それ以上に、こうした表現が政治的な広告として流され、それを受け入れる人々がいることに、私は深い絶望感を覚えた。

せめて、ローティが示したこの最低限のルールだけでも守ることはできないのだろうか──そう強く思わずにはいられなかった。個人でできることには限りがあるが、私が親しくしてもらっている人たちやグループには、実にさまざまな人がいる。そうした人たちとの間では、反論の余地のない普遍論を押しつけるのではなく、おしゃべりでもいいから会話を続けることで、人との輪を、少しずつ豊かなものにしていきたいと願っている。

*1:ローティのアイロニストとは、冷めた目ですべてを否定する『皮肉屋』ではない。『自分が今信じている常識は絶対ではない』と自覚し、新しい言葉や他者の視点を取り入れながら、一生をかけて自分を新しくアップデートし続ける人のことである。

英文の構文に悩んだ学生時代、生成AIに助けられる今──『The Ride of Her Life』を読む

学生の頃、英語の学習で一番苦労したのは、構文の解析でつまずくことであった。英文法の知識をすべて頭に詰め込んでいるわけではないので、複雑な英文に出会うと、文章の構造を解析し、文法書と照らし合わせながら読み進めることになる。しかし、そこで得られた解釈が本当に正しいのか、確信を持てないまま先に進まなければならないことも多かった。

今回、『The Ride of Her Life』を読んでいても、時々、構造の複雑な英文に出くわした。そのたびに、意味を正確に理解するために構文を解析したが、生成AIを利用できるおかげで、ずいぶん助けられた。

以下に挙げるのは、本を読み進める中で、構文が分かりにくく、解釈に苦労したフレーズのいくつかである。倒置、後置による表現、前置きの名詞句など、英文を読む際に戸惑った例を、参考のために紹介しておきたい。

1.倒置

英語では、否定語句や強調したい語句を文頭に置くことで、通常とは異なる語順になることがある。また、疑問文や反語的な表現では、語順そのものが意味や感情を伝える働きをする。

1)And isn’t that what hope is?

これは、Andを省き、通常の語順に戻して考えると、次のような単純なSVC(主語―動詞―補語)の構文になる。

That is what hope is.
(それこそが希望というものだ。)

ただし、これをそのまま述べると少し説明的で味気ない。そこで、否定疑問文の形にして、反語的な問いかけ(修辞疑問)として表現することで、感情や余韻を持たせている。

Isn’t that what hope is?
(それこそが希望というものではないだろうか?)

ここでは、Isn’t ...? が相手に答えを求める純粋な疑問ではなく、「そうではないだろうか」と同意を促す表現になっている。

2)For out in the world we find Success begins with a fellow’s will— And it’s all in the state of mind.
これは、ウォルター・D・ウィンタル(Walter D. Wintle)の詩 『Thinking』 の一節からの引用である。詩なので改行によって語句が分断されており、通常の文章とは異なる語順になっているため、構造が分かりにくい。

まず、文頭の For は接続詞で、直前の内容を受けて「なぜなら~だからだ」「というのも~だからだ」という理由を付け加えている。

通常の語順に戻して考えると、次のようになる。

For we find out in the world [that] success begins with a fellow’s will—and it’s all in the state of mind.

(というのも、世の中に出てみれば分かることだが、成功はその人自身の意志から始まり、すべては心の持ちようなのだから。)

ポイントは、out in the world が「世の中に出て」「実社会に出て」という意味で、we find に先行して強調されていることである。また、find の目的語となるthat節の that は省略されていると考えられる。

したがって、詩の改行を取り除いて構造を示すと、

For / out in the world / we find [that] / success begins with a fellow’s will— / and it’s all in the state of mind.

となる。

それぞれの部分を訳せば、

For out in the world we find
(というのも、世の中に出てみれば分かることだが、)
Success begins with a fellow’s will—
(成功は、その人自身の意志から始まり、)
And it’s all in the state of mind.
(すべては心の持ちようなのだ。)

となる。

ここでの a fellow’s will は、「その人自身の意志・意欲・決意」ほどの意味であり、state of mind は「心の状態」よりも、文脈上は「心構え」「心の持ちよう」と訳すのが自然である。

3)Who did she think she was to imagine that she could grasp hold of the family end of a pipe dream and make it real?

(彼女は、自分がいったい何様だと思っていたのか。家族の夢の端をつかんで、それを現実にできると想像するなんて。)

この文は構造が入り組んでいて、一読しただけでは理解しにくい文章の一つである。

構造を理解するには、まず、

Who was she?

(彼女はいったい何者なのか。)

という単純な疑問文を考えると分かりやすい。

そこに did she think が入り、

Who did she think she was?

となる。

つまり、

Who did she think she was?
(彼女は自分をいったい何様だと思っていたのか。)

という構造である。

ここでは who が was の補語になっている。

さらに、その後ろに

to imagine that she could grasp hold of the family end of a pipe dream and make it real

が続いている。

to imagine ... は、「~と想像するなんて」「~などと考えるとは」という意味で、Who did she think she was? という非難・あきれの気持ちを補足する不定詞句と考えると分かりやすい。

したがって、

Who did she think she was to imagine that ...?

は、

「~などと考えるなんて、彼女は自分をいったい何様だと思っていたのか?」

という意味になる。

なお、grasp hold of は「~をつかむ」という意味で、ここでは文字どおりの「端をつかむ」というより、「夢をつかみ取り、それを現実のものにする」という比喩的な表現になっている。

また、pipe dream は「実現しそうにない夢」「夢物語」という意味である。

したがって、この一文を自然な日本語にすると、

「家族の夢物語の一端をつかみ、それを現実のものにできるなどと考えるなんて、彼女は自分をいったい何様だと思っていたのか。」

くらいになる。

4)Not since she’d ridden along the truckers’ route in New Jersey had she encountered so much traffic.

(ニュージャージーでトラック運転手たちの走るルートを走ったとき以来、これほどの交通量に遭遇したことはなかった。)

これは、否定を表す語句が文頭に置かれたため、主語と助動詞が倒置されている文である。

文頭に Not since ...(~以来、一度も…ない)という否定の副詞句が置かれているため、後続の節では通常の

she had encountered

ではなく、

had she encountered

という、疑問文と同じ語順になっている。

倒置を解除して通常の語順にすると、

She had not encountered so much traffic since she’d ridden along the truckers’ route in New Jersey.

となる。

したがって構造は、

Not since ~ / had she encountered ~.
(~以来、彼女は一度も~に遭遇したことがなかった。)

である。

この倒置によって 「これほどの交通量には、それ以来まったく出会っていなかった」という否定が強く意識され、通常の語順よりも文章に強い印象を与えている。

2.後置による表現

英語では、名詞や文の中心となる語句を先に示し、その後ろに説明を付け加える「後置」の表現がよく使われる。日本語では修飾語を前に置くことが多いため、長い英文では構造がつかみにくくなることがある。まず中心となる語句を見つけ、後ろから加えられた説明を順に読み取ると理解しやすい。

1)With the weather this fine, she didn't want to be cooped up in a car.
これは With+名詞+補語 の形で、「~が…の状態で」「~なので」という付帯状況・理由を表す構文である。

ここでは、

the weather:名詞(状態の主体)
this fine:補語(天気がどのような状態かを示す)

という関係になっている。

ここでの this は「これ」という指示代名詞ではなく、形容詞 fine を修飾する副詞(「こんなに/これほど」)である。

the weather this fine の this fine は、weather を後ろから修飾する形容詞句のようにも見えるが、正確には、the weather を意味上の主語とする補語である。

つまり、the weather is this fine(天気がこれほど良い)というSVCの関係が、with を伴って the weather this fine という形になっている。

2)The Christian theologian Richard R. Niebuhr wrote, “Pilgrims are persons in motion—passing through territories not their own—seeking something we might call completion, or perhaps the word ‘clarity’ will do as well, a goal to which only the spirit’s compass points the way.”

(キリスト教神学者リチャード・R・ニーバーはこう書いている。「巡礼者とは、動き続ける存在である──自分たちのものではない領域を通り抜けながら、完成と呼んでもよい何か、あるいは『明晰さ』という言葉でもよいだろう、そんなものを求めている。そこは、霊の羅針盤だけが道を指し示す目的地なのである。」)

長く複雑な文だが、ここでは、名詞の後ろに修飾語句を置く後置修飾と、前に出てきた内容を別の名詞で言い換える同格が組み合わされている。

① 後置修飾(territories not their own)

territories not their own

では、not their own が直前の territories を後ろから修飾している。

territories [that are] not their own
(自分たちのものではない領域)

と考えることができる。

つまり、

passing through territories not their own

は、

「自分たちのものではない領域を通り抜けながら」

という意味になる。

ここで their own は「彼ら自身のもの」という意味で、territories を受けている。

② seeking something ~ の構造

次の部分も少し注意が必要である。

seeking something we might call completion,
or perhaps the word ‘clarity’ will do as well,
a goal to which only the spirit’s compass points the way

まず中心になるのは、

seeking something
(ある何かを求めながら)

である。

その something を、

we might call completion
(私たちなら「completion(完成)」と呼ぶかもしれない)

と具体化している。

つまり、

something we might call completion

は、

「私たちが『完成』と呼んでもよいような何か」

という意味である。

さらに、

or perhaps the word ‘clarity’ will do as well

と続き、

「あるいは、『明晰さ』という言葉でもよいだろう」

と、completion に代わる別の呼び方を示している。

ここで will do は「役に立つ」という通常の意味ではなく、「それでよい」「その言葉で間に合う」という意味である。

③ 文末の a goal ~ は何を説明しているのか

そして最後に、

a goal to which only the spirit’s compass points the way

が置かれている。

これは、それまで述べてきた something(completion / clarity と呼ばれるもの)を、さらに a goal という名詞で言い換え、具体的に説明している部分と考えられる。

つまり、

something ... , a goal ...

という関係である。

「すなわち(namely)」を補って、

something ... , namely, a goal ...

と考えると構造が分かりやすい。

ここで to which は a goal を先行詞とする関係代名詞で、

a goal to which only the spirit's compass points the way

は、

「霊の羅針盤だけが道を指し示す目的地」

という意味になる。

直訳に近くすれば、

「霊の羅針盤だけがそこへ至る道を指し示すような目的地」

となる。

④ 文全体の骨格

この文は、まず、

Pilgrims are persons in motion.
(巡礼者とは、動き続ける人々である。)

という非常に単純な文が基本になっている。

そこに、

passing through territories not their own

(自分たちのものではない領域を通り抜けながら)

と、

seeking something ...

(ある何かを求めながら)

という二つの現在分詞句が加わっている。

さらに seeking の目的語である something の内容を、

we might call completion
or perhaps the word ‘clarity’ will do as well

と説明し、最後に、

a goal to which only the spirit’s compass points the way

と something を a goal と言い換えて、その性質を説明している。

構造を簡略化すると、

Pilgrims are persons in motion
├─ passing through territories not their own
└─ seeking something
  ├─ we might call completion
  ├─ or perhaps the word ‘clarity’ will do as well
  └─ a goal to which only the spirit’s compass points the way

となる。

3.前置きの名詞句

英語では、文の冒頭に名詞や名詞を中心とする語句を置き、それを後に続く文全体に対する視点・時間・状況などの枠組みとして使うことがある。日本語では「~について言えば」「~になれば」「~の立場から見ると」などと表現するところを、英語では比較的簡潔な形で文頭に置くことができる。

1)The way Annie figured it, he was hoping some movie producer in the crowd spot him and want to cast him as a Wonder Horse.
(アニーの見立てでは、彼は観客の中の映画プロデューサーに見つけてもらい、ワンダーホースとしてキャスティングしてもらえることを期待していた。)

文頭の The way Annie figured it は、直訳すれば「アニーがそう考えた仕方では」となるが、ここでは「アニーの見方では」「アニーの考えでは」「アニーの見立てでは」という意味で、文全体の内容に対する視点を示している。

The way Annie figured it, ...
(アニーの見立てでは……)

これは、As Annie figured it, ...(アニーが考えたところでは……)などと言い換えることもできる。

このように、文頭に The way+主語+動詞 という形を置き、後に続く文を「誰の見方から述べているのか」という枠組みの中に置く表現は、特に口語や小説の文章でよく見られる。ここでは、「これはアニーから見ればこういうことなのだ」という視点を、文の冒頭でさりげなく示している。

なお、hoping の後ろの

some movie producer in the crowd spot him and want to cast him ...

は、通常の文法からすると spots / wants となるはずなので、ここは注意が必要である。

これは、

he was hoping [that] some movie producer in the crowd would spot him and want to cast him...

という形をもとに、that と would が省略された、かなり口語的な表現と考えると分かりやすい。

つまり、

some movie producer ... spot him
(誰か映画プロデューサーが彼を見つけてくれて)

want to cast him ...
(彼を~役に起用したいと思ってくれる)

という、彼が実現を期待している内容を表している。

したがって、ここを「仮定法現在」と説明するよりも、hope の後に続く内容を表す節で、would が省略されている口語的な表現と説明するほうが正確である。

2)She could stay as long as she liked, and maybe she’d like it so much, come spring she’d decide she’d traveled far enough.
(彼女は好きなだけそこにいられるし、もしかしたらそこがとても気に入って、春になれば「もう十分遠くまで来た」と決心するかもしれない。)

ここで注目したいのが、文の途中に置かれた come spring である。

come spring, she’d decide ...
(春になれば、彼女は……と決心するかもしれない。)

come spring は、「春になれば」「春が来るころには」という意味の、時間を表す慣用的な表現である。

一見すると come+spring という単純な語の組み合わせに見えるが、ここでは come を「来る」という通常の動詞として逐語的に訳すより、「~の時期になれば」「~が来るころには」という一つの副詞的な表現として捉えると分かりやすい。

come spring
(春になれば/春が来るころには)

come winter
(冬になれば)

come next Tuesday
(次の火曜日になれば)

などの形で使われる。

この表現は、when spring comes(春が来たら)とほぼ同じ意味だが、come spring のほうが簡潔で、また小説などでは「季節が巡ってくれば……」という時間の経過を印象づける効果がある。

この文では、

maybe she’d like it so much, / come spring / she’d decide ...

と、come spring を文の途中に挿入することで、「そして春になったころには……」という時間の経過を読者に意識させている。

こうして見てくると、英語の文章は、単語の意味が分かっていても、それだけでは正確に読み取れないことが改めて分かる。倒置や後置、文頭に置かれた表現など、語句が通常とは異なる位置に置かれることで、文の構造が見えにくくなるからである。学生の頃なら、文法書を何度も読み返しながら手探りで解析していたところだが、今は生成AIに構文を示してもらい、自分の解釈と照らし合わせることができる。もちろん、AIの説明をそのまま鵜呑みにするのではなく、自分でも文の構造を考え、納得できるかを確かめることが大切だと思う。今回の読書では、生成AIは単に英文を翻訳する道具というより、英文の構造を読み解くための頼もしい助けになってくれた。

運命に向かって歩み出す勇気──『The Ride of Her Life』を読む

医者から余命いくばくもないと告げられ、これまでの生業(なりわい)を続けることもできず、頼れる家族も親類もいない。人をここまで追い詰める状況に置かれたとき、あなたならどうするだろうか。ほとんどの人が「まさか、そんなことはしない」と思うような行動に踏み出したのが、エリザベス・レッツ(Elizabeth Letts)の作品『The Ride of Her Life』の主人公、アニー(Annie Wilkins)である。

レッツの作品はまだ日本語訳されておらず、日本での知名度は高くないかもしれない。しかし彼女は、馬にまつわるノンフィクションを手がける著名な作家であり、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーに何度も選ばれるなど、その著書は多くの言語に翻訳されている。

本作の主人公はアニーだが、物語を支える存在として彼女に劣らぬ魅力を放つのが、二頭の馬──ターザン(Tarzan)とレックス(Rex)──、そして犬のデペチェトイ(Depeche Toi)である。彼らはアニーと一体となって旅を続け、数々の難局をともに乗り越えていく。

時代は1950年代半ば。第二次世界大戦の終結からわずか十年ほどしか経っていないころである。当時のアメリカではモータリゼーションが急速に進み、高速道路網の整備によって物流が活発化するとともに、古い生活様式がみるみるうちに姿を消していった。アニーが暮らしていたのは、メイン州の田舎町マイノット(Minot)。雪深いその土地で、62歳の彼女は年老いた叔父ワルドー(Waldo)とともに、テレビどころか電気すら通っていない農家で暮らしていた。手押しポンプで水を汲み、薪ストーブで暖を取るという、時代の変化から完全に取り残されたような生活である。

1954年の冬、アニーは病に倒れてしばらく入院生活を送った。退院して家に戻ると叔父はすでに亡くなっており、彼女を出迎えてくれたのは愛犬のデペチェトイだけだった。さらに医師からは結核であること、癌の可能性もあることを告げられ、余命は2〜4年だろうと言い渡される。身寄りはなく、体力も衰え、生業であった農業を続けることも難しい。途方に暮れる彼女の前に、深い絶望が広がっていた。

そんなとき、彼女は子どものころに母と交わした会話を思い出す。「いつかここを離れて、馬車を牽かせて西へ行きなさい。そしてカリフォルニアへ。お母さんは人生で一度でいいから太平洋を見てみたいの」──母のその言葉が胸に蘇り、アニーはカリフォルニアを目指す決意を固める。

旅の準備を進める中で、彼女は一目で気に入った馬ターザンを、なけなしの金をはたいて手に入れた。自分自身がカリフォルニアまでの長旅に耐えられる保証などどこにもない。それでも厳しい冬が訪れる前に、男物の服を幾重にも着込んだアニーは、故郷メイン州を後にした(Minot Maine Historical Society には当時の写真と新聞記事が残されている)。手元にはわずかな金しかなく、地図も懐中電灯も持たない、傍目には無謀としか言えない旅立ちだった。

一泊目は古い知人の家に泊まり、二泊目は若いカップルに温かく迎え入れられ、旅は順調な滑り出しを見せた。ところが三泊目、納屋への宿泊を頼むも断られ、ようやく敷地内の野原で野営することを許される。しかし、女性が屋外で一夜を過ごすのを心配した家主が警察へ連絡したことで、警官はアニーをドクター・ベネット(Dr. Bennett)の家へ案内した。ベネットは下半身不随の医師で、その診療活動を看護師である夫人が献身的に支えていた。夫人は診療の補助に加え、養護ホームの運営や子どもの養育まで担っており、言葉に尽くしがたい重労働の中でも他者への気遣いを忘れない彼女の姿に、アニーは深く心を打たれる。

旅に出て一週間ほどが過ぎると、アニーは宿探しに難儀するようになる。訪ねる家々で断られ続け、夜の十時を過ぎたころ、すがるような思いで叩いたドアからようやくひとりの男性が現れた。人をよこすので納屋で待つよう言われ、やがてやって来たのは警官だった。突然の事態におびえるアニーに、警官は言う。「簡易ベッドとトイレ付き、床はコンクリートで、鉄格子はあるが窓のない部屋だ。それでもよければ泊まっていきなさい」──ほかに選択肢のないアニーは、結局その部屋、すなわち「牢屋」に身を寄せることとなった。

だが、この「投獄」が思わぬ幸運をもたらす。地方新聞が彼女の旅を記事として取り上げたことで、それ以降、訪れる町々でアニーは温かく歓迎されるようになるのだ。無一文に近い状態でありながら、ターザンとデペチェトイ、そしてテネシー州スプリングフィールド(Springfield)で新たに加わった馬のレックス(Rex)とともに、彼女は幾多の困難を乗り越え、アメリカ大陸横断という壮大な旅を進めていく。

アニーが旅を続ける中には、接する人々を勇気づける場面がいくつもある。そのひとつが、カンザス州でハイウェイ36号を進んでいたときに起きた出来事だ。40歳ほどの一人の女性が車で追いかけてきて、「一緒にサンドイッチを食べましょう」と声をかけてきた。彼女の話によれば、医師から余命いくばくもないと宣告されたのだという。それを聞いたアニーは、静かに、しかしきっぱりとこう語りかけた。「諦めてはいけませんよ。所詮、医者にだって運命がどう定められているかなど分かりはしないのだから」──。

この言葉がどれほど女性の心に届いたかはわからない。だが、余命宣告を受けたアニー自身が旅の中で掴み取った「アメリカの真実(American truth)」の核心が、まさにこの言葉に凝縮されている。

原文では、この場面を次のように記している。

Maybe your destiny is foreordained, but what is to stop you from riding straight out to meet it? When she bid goodbye to this lovely woman, Annie reminded her that hope is an endless well that never runs dry—all she needed to do was keep hold of her bucket and keep going down for another draw.
(訳:たとえ運命がすでに決められているとしても、その運命に向かって自らまっすぐ歩み出すことを、誰が止められるだろう。その美しい女性と別れるとき、アニーは彼女に、希望とは決して涸れることのない井戸なのだと伝えた。あとはただ、バケツをしっかり手にして、何度でも井戸の底へ降り、水を汲み上げればいいのだ、と。)

この旅には、胸を引き裂かれるような深く悲しい出来事もある。最終目的地のロサンゼルスへと続く、カリフォルニア州ハイウェイ99号でのことだ。マーセド(Merced)へ向かう道端には車から投げ捨てられたごみが散乱しており、ある場所には木箱が砕けた鋭い木片が広範囲に散らばっていた。アニーたち一行が慎重に歩みを進めていたその時、一台の車がスピードを落とさず猛スピードで走り抜ける。その爆音に驚いたレックスが、散乱した木片を踏みつけてしまったのだ。

その後、レックスが足をかばうように歩くのを心配したアニーは、途中の厩舎(きゅうしゃ)に立ち寄り獣医に診てもらおうとする。しかし、厩舎の主は「獣医は不在だが、資格がないだけで腕は獣医に引けを取らない」と主張した。彼が調べると、蹄(ひずめ)と蹄鉄の間に釘が挟まっていたという。主は「もう大丈夫、旅を続けられますよ」と言い、アニーが「本当に獣医に見せなくてよいのか」と重ねて尋ねても「大丈夫だ」と言い張るため、彼女はそれを信じて旅を続けることにした。

旅を進めるうちにアニーはレックスのどこか落ち着きのない様子に気づくが、見た目には元気そうだったため深刻には捉えなかった。しかしテューラ(Tulare)で休息をとっていた際、通りかかった若い男が「この馬は目を回している」と異変を指摘する。「今すぐ獣医に診せなければだめだ」という言葉に従い呼び出されたブラジル医師(Dr. Brazil)は、レックスが「破傷風」を発症していると診断した。カリフォルニア大学デービス校を卒業した正真正銘の獣医である彼は、最近は素人が勝手な手当てをすることが多いのだとアニーに告げ、手遅れになる前に適切な診察を受けるべきだったと諭す。

ブラジル医師は「もう手遅れかもしれない」と漏らしながらも、アニーに支払い能力がないことを知った上で、毎日無料で診察に訪れることを申し出た。アニーの受けた衝撃は大きく、それからというもの、彼女はほとんど眠らずにレックスの傍らに寄り添い続けた。しかし、懸命の看護も虚しく、レックスはついに息を引き取ってしまう。

アニーは、己の軽率さがレックスを死なせてしまったのではないかと深い罪悪感に苛まれ、どうしても現実を受け入れることができなかった。あらかじめ決められた運命など変えられず、あの余命いくばくもない女性にかけた自分の言葉さえ偽りだったのではないかと、自責の念に押し潰されそうになる。ゴールである最終目的地まであとわずかという土壇場で、彼女は旅をここで終わりにしようと真剣に考えるようになった。

そんなアニーの深い悲しみに寄り添い、温かく励ましてくれたのが、馬の調教師であるベル夫妻(Bell夫妻)だった。また、町で出会ったある女性は、アニーたちの集合写真を、普段は10セントで売っているものを、資金援助の思いを込めて10ドルで購入してくれた。そしてロサンゼルスでは、人気テレビ番組の司会者アート・リンクレター(Art Linkletter)が、アニーの番組出演を心待ちにしていた。レックスを失った悲劇を知った彼は、彼女に新しい相棒となる馬「キング(King)」を寄贈する。人々の善意、そして残されたターザンとデペチェトイに支えられながら、アニーは再び前を向き、ロサンゼルスを目指して歩みを進めた。

ついに到達したロサンゼルスで、アニーはリンクレターの人気ゲームショー『People Are Funny』に出演。彼女の存在と物語は大反響を呼び、大きな名声とともに思いがけない収入をも手にすることとなった。こうして彼女の過酷で美しい旅は、人々に勇気を与える奇跡の物語として、後世に語り継がれることとなったのである。

アート・リンクレターは、アニーについて次のように語っている。

Perhaps Art Linkletter captured Annie best when he explained why he’d felt an immediate kinship when he met her: “Not only was her calm assurance infectious, but she also transmitted to our audience the quiet strength of her personal philosophy—that happiness comes only to those who participate in the adventure of life, and that true security is, in essence, a state of mind.”
(訳:アート・リンクレターが、アニーという人物を最もよく言い表しているのかもしれない。彼が初めて彼女に会ったとき、なぜすぐに親近感を覚えたのかについて、こう語っている。「彼女の穏やかな自信に満ちた態度は、周囲の人にも伝わっていった。それだけではない。彼女は、自らの人生哲学が持つ静かな強さを、私たちの番組の視聴者にも伝えていた。幸福は、人生という冒険に自ら参加する人にのみ訪れる。そして、本当の意味での安心とは、つまるところ心の状態なのだ、と」)

この作品は、2021年にノンフィクション部門で全米ベストセラーとなった。パンデミックの渦中、感染の恐怖におびえながら自宅に閉じこもっていた多くの人々に、力強い勇気と希望を与えたのだろう。また本作は、古き良き時代のアメリカン・ドリームを体現した物語でもある。乗り越えられそうもない絶望的な困難に直面したとき、みずからの夢や希望に向かって勇気を振り絞り、一歩を踏み出す。すると周囲には温かい支援の輪が広がり、最後には想像を超える実りとなって報われるのだ。

しかし、もし今日の現代アメリカでアニーのような行動を起こしたとしたら、人々は果たして変わらず手を差し伸べてくれるだろうか。それとも、単なる愚かな暴挙として見過ごしてしまうのだろうか──。読み終えたあと、そんな問いが頭をよぎらずにはいられない。いまの社会に真に求められているのは、かつてアニーの旅を支えた人々の姿に象徴されるような、互いの夢や挑戦を尊重し、助け合う共同体的な絆なのではないか。読後、そう思わずにはいられなかった。

安藤優一郎著『幕末下級武士のリストラ戦記』を読む

東京の地名には、江戸時代の名残をとどめるものが少なくない。上野駅の南隣、東京駅寄りの次の駅は御徒町(おかちまち)である。その線路沿いの高架下には、年末のテレビニュースで必ずといってよいほど取り上げられるアメヤ横丁が広がる。第二次世界大戦後の闇市を起源とし、売り子たちの掛け声が響くこの一帯は、現在では昭和の趣を色濃く残す街として知られている。

さらにJR御徒町駅の東側には、ルビーストリートやサファイアストリートなど、宝石名を冠した通りが並ぶ。江戸時代、この周辺は武家地であったが、明治維新後に屋敷が払い下げられると、町屋・商家・工房などが進出した。上野の山下(麓の繁華街)という立地もあり、職人や小商人が多く集まる地域へと変貌していったのである。江戸期の刀装具や仏具などの技術を受け継ぎながら、簪(かんざし)や帯留めといった装飾品への転換が進み、戦前には宝飾品の製造・加工が盛んになった。さらに戦後の高度成長期には、宝飾品産業の中心地として確固たる地位を築くに至った。

御徒町という地名は、江戸時代にも現在と同じく用いられていた。「御徒(おかち)」とは、江戸幕府や諸藩に属する徒歩の武士を指し、将軍や主君の警護、移動時の護衛などを務めた下級武士である。幕府の御徒が多く住まわされていた組屋敷(武家屋敷街)が、まさにこの地に置かれていた。


(図1:江戸時代の御徒町。この時代、上野の不忍池の南東部には、御徒組に拝領された御徒町が存在した。今回の主人公である下級武士・山本政恒はこの地に住んでいた(地図では山本安之進となっている)。現在、この地域はアメ横商店街や宝飾品産業の街として賑わっている。)

幕末期、この地に敷地を与えられていた御徒の一人に山本政恒(まさひろ)がいる。彼は詳細な自分史を残しており、江戸末期から明治初期にかけての生活を、当時の下級武士の日常感覚とともに今に伝えてくれている。これを紹介したのが、安藤優一郎『幕末下級武士のリストラ戦記』である。

御徒の重要な任務の一つが、将軍の身辺警護である。そのため、彼らは時として「影武者」のような役割を担ったという。すなわち、将軍に危険が迫った際には、自らが身代わりとなって将軍を守る役割である。

たとえば、鷹狩などで将軍が城外へ移動する場合を考えてみたい。こうした外出時には、将軍を狙う刺客に警護の隙を突かれる危険が高まる。随行する御徒たちは、ふだん黒縮緬(ちりめん)の無紋羽織を着用して駕籠(かご)を囲んでいた。いざ危急の事態が生じると、将軍はこの黒縮緬の羽織をまとって駕籠を降り、御徒たちの列に紛れ込んで姿を隠す。

一方、御徒には毎年、将軍と同じ絹(羽二重)の黒羽織が支給されていた。将軍に随行する際、御徒はこの黒羽織を携帯することが義務付けられていたのである。危険が迫った瞬間、御徒の一人がこの絹の黒羽織を身にまとって空の駕籠に乗り込み、将軍の身代わりとなって標的となった。

御徒は単なる警備要員にとどまらず、いざという時には将軍の生命を守るため、自ら盾となることまで求められた存在であった。山本政恒の記録は、こうした過酷な任務の実態を、当時の武士の生々しい感覚とともに今に伝えている。

政恒は、幕府から約二百坪の敷地を拝領していた。下級武士の組屋敷(大縄地:幕府が組全体に一括して与えた宅地)としては、比較的広い規模である。本書に掲載された絵図によれば、門を入ると正面に主屋(六畳と八畳がそれぞれ二間)があり、左手には貸家が建てられていた。主屋の裏手には花壇が設けられ、南側には庭園が広がっていた。庭園には池や橋、石灯籠、庭石などが配され、池には魚が泳いでいたことも記されている。

敷地そのものは幕府からの拝領地(所有権は幕府)であるが、主屋・貸家・庭園などの建物や造作は、政恒やその先祖が自費で整えたものである。また、組屋敷の敷地内に貸家を設けて家賃収入を得ることも、当時としては珍しいことではなかった。政恒が誰に貸していたかは記録から明らかではないものの、この周辺では御坊主衆や学者、医師などが「地借(じかり)」として入居する例が多かったという。

上級武士である旗本は知行地を有していたが、大半の幕臣は俸禄を御蔵米で支給されていた。御徒も御蔵米取りであり、政恒の俸禄は七十俵(二十四石五斗)であった。年貢米などを財源とする御蔵米が俸禄に充てられ、支給の際には御蔵まで受け取りに赴く。しかし実際には、札差と呼ばれる商人に受け取りや換金を代行させるのが一般的であった。多くの幕臣は札差に借金を抱えていたため、受け取る段階でその分が差し引かれ、手元に残る米はさらに少なくなった。

俸禄として支給される蔵米(くらまい)の質は必ずしも良好ではなく、御家人などの下級武士には格の低い米が回された。また、俸禄とは別に、実質的な手当として「扶持米(ふちまい)」も支給された。一人扶持は1日あたり玄米五合であり、政恒の場合は五人扶持で年間九石に相当した。

扶持米は蔵米に比べれば質が良かったため、彼らは質の良い扶持米を売却して換金し、その代金で安価な蔵米を買い、日常の飯米に充てていた。しかし、そうして口にする蔵米は5年以上前の古米で、「ポチポチ米」と呼ばれる赤黄色に変色したものだったという。その味のほどは推して知るべしである。

食事内容は、朝食が味噌汁と香の物、昼食は野菜の醤油煮、夕食になってようやく魚に野菜が添えられる程度であった。それでも一日五合の米を食したとされ、総摂取カロリーは現代の私たちを上回っていた可能性が高い。質素なおかずに大量の米を組み合わせるという食生活からは、当時の下級武士に特有の栄養構造と生活様式の一端がうかがえる。

政恒が誕生したのは天保十二年(1841)である。彼の教育は六歳のとき、武家の公式書体である「御家流(おいえりゅう)」の手習いから始まった。翌年には漢学の素読も学ぶようになる。十一歳になると、上野・寛永寺の真覚院へ奉公に出され、寺院での勤めを通じて実務感覚と厳格な規律を身につけていった。

政恒は十六歳のとき、婿養子として山本家に入ると同時に「御徒御抱え席(一代限りの身分)」となり、二十二歳で世襲が認められる「御徒御普代席」へと進んだ。御徒組内部においても、御抱え席から御普代席への昇進は、勤仕年数や実務能力などが評価された結果だったと考えられる。

青年期を迎えるまで、政恒の人生は順風満帆とまではいかないものの、比較的平穏に推移していた。しかし、泰平を誇った江戸社会は、長年の蓄積によって構造的な歪みが表面化し、自然環境の変動とも絡み合いながら軋みを上げ始めていた。彼が生まれる前には天保の大飢饉があり、誕生後にも安政の大地震、黒船来航、将軍継嗣問題をめぐる幕府内部の権力抗争、井伊直弼が倒れた桜田門外の変、さらには約230年ぶりとなる将軍上洛など、彼の周囲では時代の激変を肌で感じさせる出来事が相次いだ。

二十六歳(1866年)になると、幕府の西洋式軍制改革に伴い、御徒組は「銃隊」へと編成替えされる。そもそも御徒は単独ではなく、「御徒組」という組織に属していた。幕府には20組、約600名の御徒組があり、旗本である「御徒頭」を頂点に、実務を担う「御徒組頭」、その下に「御徒」、さらに「足軽」や「武家奉公人」などが配置される階層構造をなしていた。御徒は、現代でいえば「係長級の現場指揮者」のような位置づけであったと考えれば分かりやすい。

将軍の身辺警護を担う職務から、御徒たちは強い誇りと特権意識を持っていたと考えられる。しかし銃隊への再編により、西洋式の軍装へ改められ、さらには農民までもが銃隊に編入されて同じ制服を身にまとうようになると、御徒としての特権的な自負は大きく揺らいだことであろう。

そうした激動のただ中、政恒は翌二十七歳で「銃隊取締役」に抜擢され、上洛して二条城に詰めた。伝統的な徒士(徒歩武士)から近代的な銃隊への転換が急速に進むなか、若くして取締役に任ぜられたことは、彼が組内で高く評価され、信頼を寄せられていたことを示している。

しかし、時代の流れはあまりにも急速であった。まもなく大政奉還、そして王政復古の大号令が相次ぐ。政恒は将軍・慶喜を追って江戸へ帰着するも、やがて上野戦争の悲惨な戦場の光景を間近で目撃することになる。

幕府瓦解後、徳川家は旧幕臣に対して「朝臣(新政府に仕える)」「御暇(帰農・商売)」「無禄移住(徳川家に従う)」という選択を迫った。徳川家達が駿遠70万石に減封されて静岡(駿府)へ移ると、政恒は慶喜警護のため「遊撃隊」の一員として静岡へ下る。この警護隊はのちに「大番組」と改称され、政恒も家族を呼び寄せて600坪の屋敷に居を構え、市中取締の任に当たった。

三十一歳のとき、廃藩置県によって徳川の世は完全に終焉を告げ、政恒は浜松県の役人(巡査等)に転身する。三十三歳で牢上番(牢屋敷の警備)となり、さらに「二等捕亡吏(犯人逮捕を担う役職)」へと昇進した。しかし三十四歳のとき、囚人護送中に逃亡者を出す失態を犯し、責任を問われて免職となってしまう。

しかし、これで終わりではなかった。三十五歳、幕府時代の同僚の縁を頼って熊谷県(現在の群馬県・埼玉県の一部)で再び奉職。暢発(ちょうはつ)学校の俗務掛(事務方)に任命される。その後、府県統合により群馬県の役人となり、非職となる五十歳まで粘り強く勤め上げた。

武士の世が去り、官吏の職も退いた後、政恒にはさらに『第二の人生』が始まった。五十一歳で東京・下谷に家屋を購入し、店舗に改装して娘たちに小間物屋と紙張物屋を開業させた。五十三歳からは帝国博物館(のちの帝室博物館)に入り、館内業務に従事して六十歳まで勤める。その後は日本美術院の書記として採用され、翌年まで勤務。さらに六十五歳からは料理茶屋「梅川楼」の帳場(会計・事務)に勤め、六十八歳で退職。そして最後は東京帝室博物館の筆耕(文字の清書・代筆業務)に従事し、なんと七十五歳まで現役で勤め上げたのである。大正五年、七十六歳でその波乱に満ちた生涯を閉じた。

政恒の生き残りの知恵として見逃せないのが、見事なマネーリテラシーである。彼は住居を移転する際などに、所有する不動産(主に家屋)を売却して利益を上げ、明治初期の厳しい経済的難局を切り抜けていった。

もちろん、幕兵時代に培った役人としての実務能力や手先の器用さも大きな武器となった。明治の世になっても主に官吏として実務をこなしながら、六男五女(うち一人は誕生後すぐに死亡)という子だくさんの家庭を支え、長寿を全うしたのである。

当時、職を失った旧幕臣たちが慣れない商売に手を出して次々と破産し、「武士の商法」と揶揄されるなか、政恒が五十歳を過ぎてから手掛けた商売は、それなりに繁盛した。ちなみに、このとき開業した紙張物屋は、かつて静岡藩で職を失い東京へ戻った際、内職として張り子作りをしていた経験が見事に活かされたものだろう。過去の挫折や苦しい時期の経験さえも、のちの人生の糧へと変えていったのである。

プライドに固執せず、時代の変化に合わせて自らのスキルを更新し続けた山本政恒。彼はまさに、激動の時代をたくましく、そしてしなやかに切り抜けた「リストラサバイバー」の先駆者と言えるだろう。

落合恵美子著『21世紀家族へ(第4版) 家族の戦後体制の見方・超えかた』を読む

子どものころ、何よりの楽しみは普段とは異なる経験ができる夏休みであった。次に楽しみだったのはお正月である。もちろん珍しい正月行事を味わえることも理由の一つだが、最大の魅力はお年玉だった。父は十二人兄弟、母も六人兄弟だった。祖父(祖母は両家ともすでに亡くなっていた)と叔父の家族、さらに未婚の叔父や叔母が同居しており、ここに住むみんなからお年玉をもらえた。一人ひとりからは少額でも、人数が多いため総額は子どもにとって思いもよらないほどになった。

当時住んでいたのは川崎市である。多摩川に沿って細長く伸びる市域のほぼ中程に位置する地域だった。現在の住宅密集地からは想像しにくいが、第二次世界大戦前までは豊かな農村地帯であった。日中戦争が始まった直後、日本電気や富士通などの工場が相次いで開設され、勤労者向けの戸建て住宅が大戦期に建ち始めた。戦後になると集合住宅の建設も進み、復興の波がこの地域にも押し寄せた。父の勤務する工場は戦時中に地方へ疎開していたが、終戦とともに戻り、わが家もこの住宅街に住み着いた。

(左は戦前の1931年〔昭和6年〕、右は戦後すぐの1947年〔昭和22年〕に作成された川崎市域中程の地図である。両者を比較すると、戦後直後の段階で、この地域が農村から勤労者向けの住宅街へと姿を変え始めていたことが分かる。)

戸建て住宅街には、一戸建ての住宅か二戸一棟の住宅が並び、どの家も似たような間取りだった。南側に二〜三室、北側に玄関・台所・トイレ(当時は男子用小便器も設置されていた)がある構造である。住民のほとんどは川崎の工場勤務者で、どの家にも二〜三人の子どもがいた。しかも多くが団塊の世代で、夕方や休日には道路が子どもたちの声であふれ返った。母親たちはほぼ全員が専業主婦で、夕方になると買い物帰りの井戸端会議で住宅街は賑やかだった。長話が続くので、付き添わされた私はいつも早く終わらないかと願っていたものだ。この住宅街は若い家族が中心で、老人を見かけることはほとんどなかった。

子どものころには気づかなかったが、友達の家と比較すると、わが家は叔父・叔母が多いことに驚かされる。叔父・叔母の親、すなわち私の祖父母は明治の生まれである。この時代は、たくさんの子どもを産むが成人まではなかなか育たない「多産多死」の時代とされていた。父方も母方も、幼児期に亡くなった人数は把握できないものの、戦争で亡くなった叔父・叔母はおらず、成人した者はすべて還暦を迎えることができた。

そして、私の叔父・叔母たちには、二〜三人の子ども(私の従兄弟たち)がいた。これは当時の都会の平均値に近い。一方で地方では五〜六人の家庭も多く、全国平均は四人程度だったそうだ。この世代(団塊の世代)の人々は、同窓会などで得た情報によれば、若くして亡くなった人はほとんどいなかったようである。親たちはたくさんの子どもを産み、無事に育て上げたといえる。この世代の親たちは、人口転換の過程における「多産少死」の特徴を備えていた。一方、団塊の世代の人々が大人になって形成した家族の多くは子どもを二人前後に抑えており、「少産少死」の傾向をもつ世代と位置づけられるだろう。私が目撃してきた身近な風景は、近代日本の人口転換──すなわち多産多死から多産少死を経て少産少死へと移行するダイナミックな過程──をまさに体現していたのではないだろうか。

こうした移行期のリアルな家族像を、社会科学者はどのように観察し、どのような家族変容のドラマとして捉えているのか。興味を覚え、落合恵美子著『21世紀家族へ(第4版)』を手に取ってみた。

社会の近代化や経済発展に伴い、人口の増減を左右する出生率と死亡率は「多産多死」から「少産少死」へと段階的に変化していく。多産多死の段階では出生率・死亡率ともに高く、特に医療や衛生環境が未発達なため乳幼児死亡率が高い。結果として人口増加率は低い水準にとどまる。一方、少産少死の段階では、都市化や生活水準の向上、子育てコストの上昇などによって出生率が低下し、死亡率も低い水準で安定する。そのため人口増加率は低下し、やがて少子高齢化や人口減少へと向かう。

この二つの段階の間に位置するのが「多産少死」である。経済発展や医療・衛生技術の向上によって死亡率が急激に低下する一方、高い出生率が維持されるため、人口が爆発的に増加する時期にあたる。

人口ピラミッドは、国や地域の人口構成を年齢・性別ごとに示した図である。「多産多死」の段階では、出生率も死亡率も高いため、人口ピラミッドはすそ野の広い「富士山型」となる。死亡率が低下し出生率が高いままの「多産少死」の段階では、若年人口が急増するため、より典型的な「ピラミッド型」となる。さらに出生率も低下する「少産少死」の段階では、「つり鐘型」や「壺型」に近づいていく。落合は伊藤達也の研究(1990年代末)を引用し、1925年から1950年頃に生まれた人々、すなわち大正末期から昭和25年頃までに生まれた人々を「多産少死」の段階=「第2世代」と位置づけている。これに対し、それ以前の「多産多死」を第1世代、その後の「少産少死」を第3世代とする。

落合はさらに、それぞれの家族類型を示している。第2世代の代表例として挙げるのが『サザエさん』と『ちびまる子ちゃん』の一家である。いずれも三世代家族として描かれているが、サザエさんの家にはサザエの弟妹が同居し、夫のマスオさんは妻方の家に入りながら、姓は磯野ではなくフグ田のままである。落合はこうした過渡期的な三世代家族を「直系家族の変形(拡大家族)」として捉える。

従来の日本の家族システムは「家」を基盤として構成されてきた。家の維持が最重要とされ、長男が家を継ぐことが原則であり、継承が難しい場合には娘に婿養子を迎えるなどの方法がとられた。第1世代では子どもは多く生まれるものの幼児死亡率が高く、成人に達する子どもの数は親世代と大きく変わらない。そのため、長男が家を継ぎ、次男・三男は養子に出るか他家へ出るという構造が繰り返された。

しかし第2世代になると、成人に達する子どもの数が親世代を大幅に上回る。長男は家を継承できても、その他の子どもたちは生家を離れ、自ら新しい家を構える必要が生じる。そこで、親から独立した夫婦と子どもだけの二世代家族、すなわち「核家族」が大量に形成されることになる。こうして第2世代では、直系家族と核家族が同時に並存することになる。特に農村部では、農業経営の継承から長男夫婦が三世代家族を構えて村に残り、次男・三男は都会へ出てサラリーマンとなり、核家族を形成するという構造的な変化が生じた。

第2世代のもう一つの大きな特徴は、専業主婦の爆発的な増加である。結婚するまでは働く女性も多かったが、結婚や出産を機に退職する人がほとんどで、いわゆる「寿退社」「寿退職」が一般化した。落合は、この専業主婦という存在が歴史的に見れば決して古くから存在したわけではないと指摘する。かつての農家や商家では、妻は夫とともに家業に従事する「労働手」であり、専業主婦という形態は成立しなかった。明治・大正期に存在した専業主婦は上層サラリーマン家庭に限られており、しかもそうした家庭には女中や子守がいたため、妻が単独で家事を担っていたわけではない。妻が主として家事や育児を担う「近代型専業主婦」が一般化したのは、戦後の高度経済成長期にサラリーマン家庭(新中間層)が急増したからである。

また落合は、「家事」という概念自体も昔から自明にあったわけではないと述べる。かつての仕事は生活と一体化しており、家事と生産活動の境界は曖昧だった。市場経済が発達し、あらゆる労働が賃金労働(商品化)されていく過程で、市場から排除され対価が支払われない無償労働(アンペイド・ワーク)の領域が「家事」として立ち現れてきたのである。

さらに、第2世代の重要な特徴として落合が挙げるのが「再生産平等主義」である。やや専門的な表現だが、ここでの「再生産」とは主に出産・育児を指す。ほぼすべての女性が結婚し、ほぼすべての夫婦が二人程度の子どもを持つという、結婚・出産行動の画一化が進んだ現象である。政府が中国の計画生育のような「ひとりっ子政策」を強制したわけではないにもかかわらず、社会的な規範として「子どもは二人」という家庭像が定着していった。

これまで述べてきたように、第2世代は人口学・社会学の双方において決定的な「移行期」に位置する。これらの特徴(核家族化、専業主婦化、再生産平等主義)を総合し、落合は第2世代の家族像を「家族の戦後体制」と呼び、現代日本の家族構造を形作った決定的な時期として位置づけている。

時代が進み、第3世代が社会の主役となると、親への支援や介護をめぐって、それまでとは異なる複雑な構造的問題が生じる(第3世代が抽象的に思える場合には、団塊ジュニアをイメージするとよい)。第3世代では核家族化の傾向がさらに強まる。落合は直接には言及していないが、私には、こうした変化の背景には、女子の高等教育進学率の上昇や都市への人口集中もあったように思われる。大学や職場で知り合った「友達感覚の夫婦」が増え、「家」制度的な結婚観は一層希薄化していった。

第3世代では兄弟数が平均して二人程度となるため、仮に全員が結婚したとすると、親世代の家族数と子ども世代の家族数は同数になる。一見すると第1世代と同じ構造である。しかし第1世代では「家」の継承を前提としていたため、長男夫婦が親と同居し家族が統合された。これに対し、核家族規範が定着した第3世代では同居は一般的ではない。すべての夫婦が別居して核家族を形成すれば、親世代と同数の核家族が新たに独立して存在することになる。

ここで問題となるのが親への支援・介護である。親世代の中に「娘二人」という家族が生じる比率は、単純化すれば約4分の1である(男女の出生比をほぼ1:1と仮定した場合)。もし第3世代が「夫側の親を優先して支援する」という従来の父系的原則を踏襲すると、これら4分の1の親たちは子どもからの支援を受けられないことになる。そこで第3世代で立ち現れたのが、夫は自分の親を、妻は自分の親をそれぞれ支援・介護するという「双系的な支援(継承)関係」である。従来の単系(父系)的な家継承ではなく、夫婦双方がそれぞれの実親を対等に支えるという意識と行動が一般化していったのである。

こうした双系的支援の広がりは、抽象的な人口学的構造だけでなく、実際の生活場面にも確かに表れていた。身近な例になるが、第三世代に属する義妹が結婚する際、「それぞれが、それぞれの親を別々に見る」という約束を夫婦間で交わしたと聞いたとき、第二世代の私たちは大いに驚いた。しかし今振り返れば、これは時代の変化を的確に捉えた、きわめて合理的な考え方であったと感心している。

この傾向は都市部で先行して進行し、実は第2世代の段階でもすでに双系的な芽生えが見られた。親が高齢化した際、娘夫婦と同居・近居するケースが少なからず生じ、玄関に「姓の異なる表札が二つ並ぶ」という新たな住宅街の風景が現れたことは、その象徴といえよう。

ここまでは「全員が結婚する(皆婚)」という前提で議論を進めてきた。しかし第3世代になると、未婚率の上昇、離婚によるシングルマザー(単親世帯)、単身世帯(おひとり様)の増加が顕著になる。第2世代が高齢期を迎えた際には、子ども世代(第3世代)による双系的な家族内支援によって支えることが、負担は大きいものの、一つの解決策である。しかし、多様化した第3世代自身が高齢期に達したとき、もはや従来の家族機能だけに高齢者を支えさせることは限界を迎える。家族の形態は決定的に多様化・流動化しており、「家」や「家族」の絆だけにケアを依存することは不可能である。こうした家族の多様化・単身化が先行した都市部では、やがて「孤独死」も社会問題として顕在化していった。

落合はこうした限界を踏まえ、ケアや保障の単位を「家(家族)」から切り離し、「個」を基盤として社会全体で支え合うシステムへと転換することが不可欠であると主張する。

現在の日本の福祉政策を考えるうえで重要な転換点となったのが、1980年代半ばの中曽根内閣期である。エズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』で日本の経済的成功を称賛し、日本社会が自信を取り戻すとともに「日本的価値観」への誇りが高まっていた時代である。そのため、政策決定においても「日本型福祉社会」という標榜のもと、家族(とりわけ専業主婦による介護や育児)を基盤とするケア機能を前提とした制度設計が強固になされた。

ちょうどこの頃、欧米では、サッチャーやレーガンに代表される新自由主義的な政策が影響力を強め、手厚いヨーロッパ型福祉国家からの転換(小さな政府化)が図られていた。日本もこうした世界的な流れと同調する政策を採用したが、落合は、欧米諸国が長期不況の中で福祉の見直しを迫られていたのに対し、当時の日本はバブル景気へと向かう好景気の只中にあったことを指摘する。背景の異なる日本が欧米と同じベクトルで「家族への福祉依存(公的福祉の抑制)」を進めたことが、果たして妥当であったのかと疑問を呈している。

その後、1990年代に入ると、少子化の加速や高齢者介護の問題が深刻化し、家族だけにケアを負わせることの限界が明らかになった。政府も家族の機能を社会的に支援する方向へ政策転換を試みたが、直後に起きたアジア通貨危機や国内の金融危機といった経済的混乱に見舞われ、制度改革は中途半端なまま挫折してしまった。

現在の日本社会の構造について、落合はこれを「縮んだ戦後体制」と呼ぶ。第2世代の時期に確立した「家族の戦後体制(夫=標準勤労者、妻=専業主婦、子ども二人)」の制度的枠組みが依然として温存される一方で、第3世代以降にもたらされた多様で流動的な家族形態が混在している状態を指す。前者の層は安定した雇用と安定した家族に守られ、社会保険や年金制度の手厚い保護を享受できているのに対し、後者の層は不安定な雇用と不安定な家族構造を抱え、制度のセーフティネットの外側に置き去りにされている。たとえば第3号被保険者制度に象徴されるように、専業主婦を含む「標準世帯」を前提とした制度が維持されてきた一方で、シングルマザーや非正規雇用の単身者に対する公的支援はきわめて脆弱なままである。

こうした格差が生じた原因として、落合は「日本的家族観」という文化的なノスタルジーに基づいて政策を決定してしまった誤りを指摘する。人口動態や家族形態の変化は人口学的に十分予測可能であったのだから、感情的な家族観ではなく、構造的変化に対応した現実的な政策を打つべきだったというのである。

「家」や「標準世帯」という前提が崩壊した現代において、福祉や社会保障の対象とすべきはもはや「家族」ではなく「個人」である。単位を「個」へと完全にシフトさせる制度改革を行ってこそ、専業主婦も、シングルマザーも、非正規雇用者も、あらゆる人々を排除することなく等しく保護・支援する包摂的な社会を構築できるはずだと、落合は強く訴えている。

落合の分析は明瞭であり、十分に首肯できる。しかし一歩踏み込んで、「個」をどのように守り、支えていくのかという具体的な処方箋に対しては、いまだ決定的な解が得られていないのも事実である。それどころか、これは日本一国にとどまらず、近代化を経た世界共通の重い課題となっている。国家(行政)だけでは支えきれない領域を、新たなコミュニティや地域ネットワークが補完しようとする動きが試みられつつあるが、その実効性のあるあり方はまだ模索の途上にある。多様な家族形態が不可逆的に広がる現代社会において、どのように「個」を保障し、同時に人々のつながりを再構築していくのか──この難題に対しては、さまざまな角度から実践的な試みを重ね、社会の仕組みを更新し続けていくほかないのではないだろうか。

思えば、冒頭に書いた私の子どものころの正月は、まさに「家族の戦後体制」へ移行する途中にあった社会の一風景だったのかもしれない。大勢の叔父や叔母、従兄弟たちが一つの家に集まり、子どもたちはそこにいる大人たちからお年玉をもらった。家族や親族のつながりが、生活を支える大きな基盤になっていたのである。

しかし、その後の社会では、家族は小さくなり、「家」という枠組みも弱まった。いま私たちに求められているのは、「家族に戻ること」でも「個人だけで生きること」でもないのだろう。個人を保障しながら、同時に、人と人との新しいつながりをどうつくるか。その答えを探し続けることこそが、これからの社会に課された大きな課題なのではないだろうか。

付録:データで見る世代間ギャップと家族の変容

第2世代と第3世代の大きな違いの一つは、結婚や出産と「仕事」との関係にある。本文でも述べたように、第2世代では、結婚や出産を機に退職し、専業主婦になる女性が多かった。「寿退社」という言葉が定着したのもこの時代である。一方、第3世代になると、出産に伴って一時的に離職することはあっても、その後、職場に復帰して就業を継続する女性が増えていった。

こうした変化は、統計データからも明確に確認できる。図1は、総務省統計局「労働力調査」に基づき、1975年以降、10年ごとの年齢階級別女性の労働力率の推移を示したものである。


(図1:年齢階級別女性の労働力率の推移。1975年には、結婚・出産期に労働力率が大きく低下する「M字カーブ」が見られる。2025年にはその落ち込みがほとんど消え、台形に近い形へと変化している。)

青線で示した1975年の労働力率を見ると、20代前半では比較的高いものの、20代後半から大きく低下し、いわゆる「M字カーブ」を描いている。これは、結婚や出産を機に労働市場から離れる女性が多かったことを示している。30代後半になると労働力率は再び上昇するものの、20代前半の水準には戻っておらず、家事・育児に専念する女性が多かったことがうかがえる。

これに対して、緑線で示した2025年の労働力率では、35歳前後にわずかな落ち込みが見られるものの、M字カーブの「底」は極めて浅くなり、全体として台形に近い形へと変化している。これは、結婚や出産を経ても労働市場から離れず、就業を継続する女性が増えたことを示している。

また、1975年から2025年にかけて、労働力率が最も低下する年齢が徐々に高年齢側へ移っている点にも注目したい。ここからは、初婚年齢や第1子出産年齢の上昇、すなわち晩婚化・晩産化の進行も読み取ることができる。

さらに、コーホート(同時期に生まれた世代)の変化を見るため、1950年生まれと1980年生まれの女性について、各年齢時点の労働力率をそれぞれ赤丸と黒丸で示した。1950年生まれは第2世代、1980年生まれは第3世代に相当する。

1950年生まれの女性では、結婚・出産期に労働力率が低下し、子育てが一段落した30代後半以降に再び上昇するという、「M字カーブ」に対応した軌跡が見られる。再就職後の仕事はパートタイムなどが多かった。一方、1980年生まれでは、出産期に多少の停滞が見られるものの、その後も比較的高い労働力率を維持している。ここにも、第2世代から第3世代への家族と仕事の関係の変化が表れている。

図2は、女性の労働力率と合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子どもの数を示す指標)の推移を、1950年から5年刻みで示したものである。ここでは、第2世代(1925~1950年頃生まれ)と、その後の第3世代の時代を中心に見ていきたい。

なお、第2世代は「多産少死」の時期に出生した世代であり、その人口は急速に増加した。とりわけ第2世代の後半には、戦後の出生数が集中し、のちに「団塊の世代」と呼ばれる巨大な人口集団が形成された。

  • ピンク色の領域(1950~1975年頃):第2世代の先頭集団が青年期から成人期に入り、戦後の人口急増が収束していく時期である。若年人口の増加によって経済成長を支える労働力が豊富に存在する、いわゆる「人口ボーナス」の時期とも重なる。一方、出生率は急速に低下し、多産少死から少産少死へと人口動態が転換していく。この時期には、従来の家族のあり方にも大きな変化が始まっていた。
  • 緑色の領域(1975~2000年頃):第2世代が社会の中核を担い、その家族モデルが社会的に定着していった時期である。落合が「家族の戦後体制」と呼ぶ家族モデル、すなわち夫が標準勤労者(サラリーマン)として働き、妻が専業主婦として家事・育児を担い、夫婦が二人程度の子どもを持つという家族像が、社会の標準モデルとして強い影響力を持っていた。
  • 青色の領域(2000年頃~):第2世代が現役世代から徐々に退き、第3世代以降が社会の中心となっていく時期である。未婚化や少子化、単身世帯の増加などによって家族形態はさらに多様化し、「家」を前提とした従来の家族規範が弱まっていく。一方で、人口減少も現実の問題として明確になっていった。


(図2:女性の労働力率と合計特殊出生率の推移。1950年以降の変化を通して、人口動態の転換と女性の就業行動、さらに家族形態の変化との関係を読み取ることができる。)

なお落合は、こうした人口転換と家族変動は先進国に広く見られる現象であるものの、日本では近代化・経済発展と人口転換が比較的短期間に進行したため、その変化への社会的対応も短期間に迫られたと指摘する。とりわけ、第2世代の時期に形成された「家族の戦後体制」が、その後の人口動態や家族形態の変化にもかかわらず制度として長く維持されたことが、現在の家族政策や社会保障制度との間に大きなずれを生み出したのである。

「誇り」の失墜とコミュニティの再建──アーリー・ホックシールド『盗まれた誇り』を読む

「武士は食わねど高楊枝」というフレーズを覚えているだろうか。私がまだ学生だったころ、少し背伸びした料理を勧められて気後れしたとき、この言い回しでその場を凌いだことがある。黒澤明監督の映画『用心棒』(1961)で、三船敏郎演じる素浪人・桑畑三十郎が爪楊枝をくわえる姿も、どこかこの言葉の持つ独特の気概や可笑しみを思い起こさせる。

もともと「武士は食わねど高楊枝」は、江戸末期から幕末にかけて用いられ、時代の変化に取り残された武士を揶揄する表現であった。名誉や体面を最優先する武士社会において、清貧は美徳とされた。しかし幕末、急速に浸透する貨幣経済の中で下級武士たちは著しい困窮に陥る。その日の食事にも事欠きながら、武士としての体面を保つためにやせ我慢を続ける姿は、町人たちにとって格好の皮肉の対象となったのである。

社会のメインストリームから追いやられた彼らの理不尽さや恥の意識は、やがて「自分が悪いのではない。社会の仕組みが悪いのだ」という感情へと転じていったはずだ。黒船来航以降、下級武士たちは尊王攘夷運動や新選組、あるいは倒幕のテロルへと身を投じ、多様な政治行動へと駆り立てられていく。そして明治維新を経て、武士階級そのものが消滅した。

社会構造の激変によって周縁へ追いやられ、存在価値を脅かされていく人々──。この現象は、決して過去の日本に限った話ではない。現代のアメリカ社会にも、驚くほど似た構造が生じているのではないか。

この疑問を確かめるべく、まずは金成隆一のルポルタージュ『トランプ王国』『トランプ王国2』を読んだ。ラストベルトやアパラチア地方における製造業・石炭産業の没落と、そこに生きる人々の姿が見事に描き出されていた。そこにはまさに、「武士は食わねど高楊枝」的な気概と誇りを抱えたまま取り残された人々の叫びがあった。

名著であることは疑いない。だが同時に、彼らの内面深くで何が起きているのかという「感情の深層」にまで迫るには、ジャーナリズムの域を超えたアプローチが必要なのではないかとも感じた。人々の生活世界に入り込み、その語りを直接汲み取れる社会学者の視点──そう考え、辿り着いたのがアーリー・ホックシールドの『盗まれた誇り』である。

本書の導入部は、まるで黒澤明監督の『七人の侍』の冒頭のように巧みに構成されている。『七人の侍』が、麦の収穫期を控えた村を野武士が襲うという不穏な予兆から始まるように、『盗まれた誇り』もまた、強い緊張感を孕んだ場面で幕を開ける。ネオナチのグループが、ケンタッキー州パイクヴィル市のメインストリートでデモを行いたいと申し出てきたのだ。直前に他都市で実施された彼らのデモでは暴力事件が起きており、市にとっては看過できない危機であった。

パイクヴィル市が属するパイク郡は、ケンタッキー州東部の白人比率の高い貧困地域である。かつては石炭産業で栄え、「俺たちがこの国の明かりをともしてきた」と住民が誇りを語った街だった。しかし今日では産業が衰退し、ドラッグが流入し、深刻な社会問題に苛まれている。長らく民主党の地盤だったが近年は共和党へ急速に傾斜し、憲法修正第2条の「銃所持の権利」を神聖視するほど典型的な保守派の拠点となっている。

暴力行為を引き起こしかねない極右団体を受け入れるべきか──市の責任者は深く葛藤する。しかし最終的には、言論の自由を尊重しデモを許可する決断を下す。ネオナチが現れたとき何が起きるのか。読者の不安が募るなか、ホックシールドはこの結末をあえて焦らし、そこに至るまでにパイクヴィルの住民がどのような価値観と感情を抱えて生きてきたのかを丁寧に解き明かしていく。

ルイジアナ州南部を舞台にした前著『壁の向こうの住人たち』で、彼女は保守派の人々の奥底に眠る「ディープ・ストーリー(感情の物語)」を掘り起こしていた。それは「アメリカンドリームに向かう列に並んでいるのに列は進まず、女性や移民、難民が割り込んできている」という納得のいかない被害意識であり、トランプ支持の原動力となる「怒り」の描写であった。

これに対し、近年の作である『盗まれた誇り』は、その怒りがさらに増幅・変質し、「報復」や「奪還」という言葉が公然と語られるようになった時代の深層を踏まえている。ホックシールドの観察は一段と深まり、人々の感情構造をより精密に解読していく。

彼女がここで提示するのが「プライド経済」という概念だ。従来の「物的経済(所得、資産、所有といった豊かさの指標)」に対し、「プライド経済」とは敬意、承認、尊厳の階層を指す。人々は「自分はこの程度の敬意を得る権利がある」という自負心を形成して生きている。本来、アメリカンドリームにおいては「物的成功」がそのまま「敬意(プライド)」に直結していた。マイホームや自動車は、努力の証たる「誇りのトロフィー」だったのである。

だが石炭産業の衰退に伴い、その誇りを体現する場そのものが消失した。プロテスタント的な自助自立の精神を重んじるこの地域の人々は、政府の援助を受けることを猛烈に恥じる。しかし背に腹は代えられず給付金に頼らざるを得ない。「誇り高くありたい」と願うほど、依存せざるを得ない現実に自己嫌悪を深めていく──このジレンマをホックシールドは「プライド・パラドックス」と名付けた。

本来、自助自立の文化では「うまくいかないのは自己責任だ」という猛烈な「恥」が内省的に生じる。しかし、恥は人間にとって耐えがたい感情だ。耐えかねた心は、内省を回避するために「自分が悪い(恥)」から「他者が悪い(非難)」へと感情をスライドさせる。

この感情の転換を決定的に加速させたのが、右派ポピュリスト政治家や極右勢力のナラティブである。「あなたが苦しいのは努力不足ではない。リベラルエリートや多様性政策によって、正当な誇りが『盗まれた』のだ」──この言葉を受け取った瞬間、人々は自己嫌悪から解放され、「不当に奪われた被害者」という道徳的正当性を手に入れる。

こうして個人の内面で完結するはずだった自責と恥(プライド・パラドックス)は、政治的扇動によって「怒り」と「他者への非難」へと反転し、集団的な攻撃性へと変質していく。ホックシールドが描き出したのは、現代アメリカを揺るがす「感情の増幅回路」そのものなのである。

さて、最初の場面に戻ろう。ネオナチの極右グループがパイクヴィル市でデモを行うと申し出たとき、町はどのように対応したのだろうか。住民の感情が「自分が悪い」から「他者が悪い」へとスライドしつつあった当時、極右集団から見れば自分たちが歓迎される可能性すら期待できる状況だった。しかし市は彼らの思惑に反し、万一の事態に備えて州兵を目立たぬ場所に待機させつつも、過度に刺激することなく静かにデモ隊を通過させた。市の責任者は、言論の自由が保たれ、破局が回避されたことに安堵したという。

本書ではパイクヴィルが「とても貧しい地域」と描写される。だが実際の街並みを調べてみると、その印象は見事に裏切られる。洪水対策と土地確保のために山を切り崩して造られた「パイクヴィル・カット・スルー」は壮大な景観を生み出し、馬蹄形に人工造成された町は、むしろ理想的なアメリカの姿を思わせるほど美しく整っている。このような美しく整った街並みの中で、人々が深い悲嘆に沈んでいる姿を直感的に想像することは難しい。だが、まさにこの外観と内面の激しいギャップこそが「パラドックス」の本質なのである。

ネオナチのデモはトランプ前政権が発足した当初の出来事だ。その後、この地域では再生への動きが少しずつ現れ始めた。ドラッグ依存から立ち直り、厚生施設で同じ苦しみを抱える人々の回復を支える者。知識を求めて市内の大学に通い始める者。地域病院ではイスラム系の医師が働き、住民に温かく受け入れられている。わずかではあるが、地域再生の光が確かに差し始めているのだ。

ホックシールドは、この「プライド・パラドックス」を生み出す根源に、アメリカンドリームそのものが抱える構造的問題があると指摘する。子どもは親より「多く」稼ぎ、「多く」を所有し、「多く」を成し遂げる──これまで理想とされてきたこの「より多く(More)」という価値観は、本当に人々を幸せにするのだろうか、と彼女は問いかける。

そして、ホックシールドはこう提案する。

それよりも、十分な物資を蓄え、強固なコミュニティを築き、この脆弱な地球を大切にすることを目標としてはどうだろうか。極端なまでに過剰な富を減らし、中間層を再建し、わたしたちの民主主義を守るガードレールの強化に努めるのだ。そうした目標を誰もが平等にめざせるようにすることで、最も手痛い打撃を受けた地域に蔓延する恥の感情をやわらげることもできるだろう。

非常に強く深く肯首させられる提起である。ジョン・ロールズが『正義論』で正義の原理を提示して以来、私たちは「公正な社会とは何か」を長年問い続けてきた。未だ決定的な解は見つかっていないが、過剰な競争主義の果てに、多くの人々がコミュニティの重要性を再び認識し始めている。パイクヴィルで芽生えた小さな変化にも、その兆候が確かに見て取れる。

かつてトクヴィルが『アメリカの民主主義』において見出した古き良きコミュニティの精神──互いに支え合い、公共善を担う市民同士の結びつき──は、いま再びその価値を取り戻しつつあるのではないか。日本においても、かつて存在していた地域コミュニティが家族構成の変化や高齢化によって弱まり、孤立や無縁社会といった課題が深刻化している。アメリカのアパラチア地方やラストベルトで起きている「誇りの失墜と再生の試み」を単なる対岸の火事とせず、私たち自身の足元にあるコミュニティの再建について、改めて丁寧に考え直してみたい。

町田市薬師池公園で、大賀ハスを愛でる

7月中旬、町田市の薬師池公園に古民家を見に訪れた際、咲き始めたばかりのハスの花を目にした。それから一か月が過ぎたので、さすがに盛りは過ぎているだろうと思っていたところ、「今が見頃です」という思いがけない記事を見つけた。ハスの花は朝方に咲き、昼を過ぎるころにはしぼんでしまうという。見頃は7時から9時頃までとされている。

薬師池公園は交通の便があまり良い場所ではなく、公共交通機関を利用する場合は町田駅からバスに乗ることになる。今年のような暑さの中でバスを待つのは気が進まず、車で向かうことにした。しかし、公園沿いの鎌倉街道は幹線道路であり、この周辺は信号が多いため、朝方は渋滞しがちである。そこで、9時頃には到着できるよう、少し余裕をもって家を出た。

普段散歩している恩田川にほぼ沿うように上流端まで進み、菅原神社の交差点で鎌倉街道に入る。鎌倉に幕府が置かれると、鎌倉から東国各地へ放射状に道が整備され、これらが総称して鎌倉街道と呼ばれるようになった。このため、鎌倉街道は一つの道を指すのではなく、鎌倉へ向かう複数の道の総体を指している。薬師池公園の前を通る道も、その一つである。

鎌倉街道の先には御家人に与えられた領地が広がり、その管理のために人々の往来があった。鎌倉で緊急事態が生じれば、武士たちはこの道を通って鎌倉へ馳せ参じた。鎌倉時代には、薬師池公園の前を鎌倉へ向かって駆ける武士の姿があったに違いない。

鎌倉幕府滅亡後には、最後の執権・北条高時の遺児である時行が、幕府再興を目指して信濃から鎌倉へ向かった際、この鎌倉街道を通ったとされる。菅原神社付近では、足利尊氏の弟・直義と戦火を交えた。この戦いの地は「井出の沢」と呼ばれている。

このように歴史的なゆかりのある鎌倉街道だが、心配していた渋滞もなく、予定通りの時間に到着することができた。駐車場に車を置き、薬師池公園へ向かおうとすると、公園関係者と思われる男性が声をかけてきた。

「ハスの見学ですか」

そう話しかけてくる。

「そうです」

と答えると、「今年はなかなか咲かなくて」と言う。記事には「見頃」と書かれていたのに、と不審に思い、

「まだ見頃ではないのですか」

と尋ねると、

「なかなか咲きそろわなくて。ぽつりぽつりと咲いているだけなんです」

と続けた。

せっかく訪れたのに、と少し残念に思っていると、「去年も同じでした。毎日来ている人もいて、残念がって帰っていきます」とも語る。どうやら、一斉に花が咲きそろうのは難しく、今年も昨年同様、少しずつ、長い期間にわたって、まるで出し惜しみするかのように咲いているらしい。

「あの辺に綺麗なところがありますから、暑さに気をつけて楽しんでください」

そう言い残し、彼は仕事場の方へ戻っていった。私たちは、教えてもらった場所へと向かった。

公園関係者が勧めてくれた場所では、いくつかの花が開花しており、同じくらいの数の蕾が次の順番を待っていた。ハスの花は開花してから四日ほど咲き続ける。朝に開き、昼には閉じるという動きを繰り返し、四日目の最後の日には昼を過ぎても開いたままになり、その後、花びらが散っていくという。

ハスは葉も大きいが、花もまた大輪である。大きいものでは20〜30センチほどにもなるという。

ハスは一つの茎に一つの花をつける。その凛とした姿には、高貴な雰囲気が漂っている。

花が散った後に残る花托には、種子がいくつもできる。蜂の巣のように穴が並んだ独特の形をしている。

これは四日目の花だろうか。花びらが今にも散りそうになっている。

花が落ちて花托だけになると、どこか少し不気味な印象を与える。

蕾。明日には開花するのだろうか。

これらのハスは「大賀ハス」と呼ばれている。大賀一郎が1951年、千葉県の検見川遺跡で2000年以上前のハスの実を発掘し、そのうち一粒が発芽に成功したことから「大賀ハス」と名付けられた。発芽した株は国内外の多くの施設へ根分けされ、町田市の円林寺や個人宅にも伝わった。1982年には、これらから株の一部が薬師池公園のハス田へ移され、現在に至っている。

2000年以上前の種が発芽するという事実自体が驚異的だが、ここで見たハスの花が、かつて古代の人々が目にしたであろう姿を受け継いでいるのかと思うと、その生命力と悠久の時間の流れを感じずにはいられなかった。

ハスは仏教では貴重な花とされ、如来や菩薩が座る台座はハスの花を象った蓮華座である。また、極楽浄土にはハスの花が咲き乱れているという。泥の中から清らかな花を咲かせる姿だけでも特別なものに思えるが、その種が2000年以上の時を経て蘇ったのである。こうして大賀ハスを目の前にすると、ハスが古くから特別な花として見られてきたことも、なるほどと思えてくる。大賀ハスの奇跡的な蘇りも、さもありなんと思った。

リベラリズムの行き着く先──自由と共同体は本当に対立するものなのか

昨今の世界の状況を見ていると混乱ばかりが目に入り、「これから社会はどうなってしまうのか」と強い不安を覚える。このような思いを抱いているのは、私一人ではないだろう。実際、その関心の高まりを示すかのように、リベラリズム*1の危機や、そのあり方を論じた書籍が近年多数出版されている。これまでブログでもその一部を紹介してきたが、ここで一度、それらを思想の流れとして整理しておきたい。

フクヤマの有名な「歴史の終わり」という議論を念頭に置きつつ、私が考えてみたいのは、「リベラリズムの行き着く先」である。結論を先取りすれば、そこには、トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で描いたような「中間団体や市民的結社」を、現代社会にどのように活かすかという問題がある。

リベラリズムの基本原理を擁護するフクヤマにとって、共同体は、多様な人々がそれぞれの「良い生き方」を模索し、実現していくことを可能にする「器」と捉えることができる。一方、リベラリズムそのものの転換を求めるデニーンにとって、共同体とは、受け継がれてきた伝統や文化を守り、次の世代へと伝えていくための場である。アプローチは異なるものの、過度な個人主義による分断を乗り越えるため、孤立した個人をつなぐ共同体を再発見しようとしている点では共通している。

トクヴィルが近代民主主義の黎明期に見出した共同体の価値が、個人主義の行き着いた先で生じた社会の分断や孤立を前にして、再び求められている。これは、一見すると歴史の皮肉のようにも見える。しかし、数百年におよぶリベラリズムの歩みを経験した私たちが、いま改めて共同体の意味を問い直すことには、深い意味と重みがあるのではないだろうか。

自由と共同体は本当に対立するものなのか。それとも、共同体こそが自由を支える条件なのだろうか。

これからの社会のあり方を考えるうえでの一つの整理として、これまで読んできた本を手がかりに、この問題について考えてみたい。

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小論文:自然権・自律・正義──近代自由主義と共同体思想の系譜

はじめに
近代政治思想の展開は、人間の自由と政治秩序の関係をめぐる長い探究の歴史として理解できる。中世ヨーロッパにおいて政治権力の正統性は、神的権威や伝統、王権に依拠していた。しかし17世紀以降、思想家たちは政治秩序の根拠を超越的権威から切り離し、人間そのものの自然的・理性的性質に求めようとした。これらの概念は、それぞれ異なる時代に形成されながら近代政治思想の骨格を形づくった。

本稿は、ホッブズからロック、ジェファーソン、ルソー、カント、ロールズ、コミュニタリアニズム、ネオリベラリズム、アイデンティティ政治、そしてポスト・リベラリズムに至るまでの思想的展開を、「自由の概念の変容」という観点から整理することを目的とする。すなわち、自然権としての自由から、自律としての自由、そして正義としての自由へという思想史的変遷を跡づけ、現代政治思想が直面する課題を明らかにする。

第一章 自然権と社会契約──ホッブズからロック、ジェファーソンへ
近代政治思想の出発点として位置づけられるトマス・ホッブズは、17世紀イングランドの内戦と宗教対立の混乱を背景に、人間社会がいかにして秩序を維持し得るのかという根源的問題に取り組んだ。ホッブズは『リヴァイアサン』において、人間は生まれながらに自己保存のための自然権を持つと主張する。しかし、すべての人が同じ権利を持つ自然状態では、相互不信と先制攻撃の連鎖が「万人の万人に対する闘争」を生み出す。

この混乱を回避するため、人々は社会契約を通じて自己保存に必要な権利を除き、自然権の行使を主権者に委ねることで、強力な国家権力を樹立する。ホッブズにとって国家は自由を抑圧する存在ではなく、むしろ自由の前提条件である。無秩序の状態では自由は成立しないからである。

これに対し、ジョン・ロックは自然状態をより穏やかなものとして描き、人間を理性的存在として評価した。ロックにとって自然権とは生命・自由・財産であり、国家はこれらを保護するために設立される。政府の正統性は人民の同意に基づき、権力は厳しく制限されなければならない。政府が自然権を侵害する場合には人民に抵抗権・革命権があるとされる。

ロックの思想は18世紀後半のアメリカ独立革命に決定的な影響を与えた。独立宣言を起草したトマス・ジェファーソンは、ロックの「財産」を「幸福追求」に置き換え、自由をより包括的な人間形成の権利として再定義した。また彼は、自立した市民によって支えられる共和国の維持を重視し、自由を市民的徳と結び付けて理解していた。こうして自然権論は民主主義の正統性原理へと転換されるとともに、自由主義と共和主義の要素を併せ持つアメリカ政治思想の基礎を形づくった。そして、この市民的徳や公共精神への関心は、後にトクヴィルが民主主義社会における自由の条件を論じる際の重要な主題へと受け継がれていく。

第二章 自由の再定義──ルソーとカントの自律概念
18世紀後半、思想家たちは「どのような権利を持つか」という議論から、「自由とは何か」というより根源的な問いへと向かった。その中心に位置するのがジャン=ジャック・ルソーである。ルソーは、欲望のままに行動することを自由とはみなさず、共同体の構成員として市民が主権者として一般意志の形成に参加し、その結果として成立した法に自ら従うことこそが真の自由であると主張した。

この考え方は一般意志の概念に結実する。一般意志とは、個々の利害の総和ではなく、市民全体の共通善を志向する公共的・道徳的判断である。ルソーはこれを単なる多数者の意見(全体意志)と区別した。市民が一般意志に基づく法に従うとき、それは他者への服従ではなく、自らの理性的かつ公共的意志への服従であり、したがって自律である。

ルソーの思想を継承したイマヌエル・カントは、自律を近代道徳哲学の中心概念へと高めた。カントにとって人間は、欲望や感情に支配される存在であると同時に、理性によって自己に法を課す能力を持つ存在である。真の自由とは、外的な制約からの解放ではなく、理性が自ら立法した道徳法則に従うことによって成立する自律である。

カントは、自由を「自律的主体の自己立法」として定式化した。ここにおいて自由は、単なる外的な権利としてではなく、理性が自らに課した道徳法則に従う自律にその根拠を求めるものとして理解され、近代の自由概念は根本的に再構築された。

第三章 市民社会と民主主義──トクヴィルからミルへ
19世紀に入ると、自由をめぐる政治思想は新たな課題に直面した。自然権や自律の理論が発展する一方で、民主主義社会が実際にどのような問題を生み出すのかが問われるようになったのである。

その代表的思想家が アレクシ・ド・トクヴィル である。トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』において、民主主義の進展が人々の自由と平等を拡大する一方で、「多数者の専制」という新たな危険を生み出すと指摘した。民主社会では人々が平等化する反面、国家に依存しやすくなり、公共問題への関心を失う可能性がある。

トクヴィルが注目したのは、国家と個人の間に存在する中間団体であった。地方自治、宗教団体、市民結社などの自発的な共同体は、人々に公共精神を育み、自由な政治参加を支える役割を果たす。彼にとって自由は単なる権利の保障ではなく、市民が共同体の中で公共生活に参加することによって維持されるものであった。

一方、 ジョン・スチュアート・ミル は『自由論』において、個人の自由を民主社会において擁護する理論を展開した。ミルは「他者危害原理」を提唱し、他人に危害を加えない限り、個人は自己の生き方を自由に選択できるべきだと論じた。

しかしミルの自由論は単なる放任主義ではない。彼は自由な討論や多様な生き方の実践を通じて人格が発展すると考えた。自由とは欲望の充足ではなく、人間の能力を開花させるための条件なのである。

トクヴィルとミルはともに民主主義社会の到来を肯定しながらも、自由を維持するためには制度だけでなく、市民的徳や公共精神が不可欠であることを強調した。この問題意識は、後のコミュニタリアニズムや現代のコモングッド論へと受け継がれていく。

第四章 正義としての自由──ロールズと20世紀リベラリズム
20世紀に入り、ジョン・ロールズはカントの人格概念を政治的リベラリズムへ再構成した。ロールズは功利主義を批判し、社会全体の幸福の最大化が少数者の犠牲を正当化する危険を指摘した。彼は『正義論』において、原初状態と無知のヴェールという思考実験を提示し、人々が自らの能力や地位を知らない状況で社会制度を選ぶならば、誰にとっても公平な原理を採用するはずだと論じた。

ロールズの正義論は、自由で平等な人格が合意する原理として正義を定義し、カント的自律の理念を、現代民主社会における制度設計の原理として再構成した試みと理解できる。ここで自由は、個人の権利や自律だけでなく、社会制度の公正さを通じて実現されるべき価値として位置づけられる。

ロールズの理論は、20世紀後半のリベラリズムを代表する思想となり、政治哲学の中心的議題を「正義の原理の探究」へと移行させた。

第五章 共同体の再評価──コミュニタリアニズムのロールズ批判
ロールズの理論は大きな影響を与えたが、同時に強い批判も招いた。1980年代に登場したコミュニタリアンたちは、ロールズが共同体から切り離された抽象的個人を前提にしていると批判した。

マイケル・サンデルはロールズの人間像を「負荷なき自己」と呼び、実際の人間は家族、地域社会、宗教、文化といった共同体的文脈の中で形成されると主張した。アラスデア・マッキンタイアは、徳倫理の観点から、共同体の伝統の中で徳が培われるのであり、正義の原理だけでは社会は維持できないと論じた。チャールズ・テイラーは、個人のアイデンティティが共同体的承認によって形成されることを強調した。マイケル・ウォルツァーは、正義は共同体ごとに異なる社会的意味に依拠すると論じ、普遍的な分配原理には限界があると主張した。

コミュニタリアニズムは、自由や正義の議論に共同体の役割を再導入し、近代リベラリズムの個人主義的前提を問い直す思想的潮流として重要である。ここで自由は、個人の権利や自律だけでなく、共同体的文脈の中で形成される価値として再評価される。

コミュニタリアニズムは、共同体から切り離された個人という近代リベラリズムの前提を批判した。しかし、この批判にもかかわらず、20世紀後半の自由主義社会は、経済的自由の拡大と承認要求の拡大という二つの方向へ進んでいく。そして後にデニーンらは、これらが対立する現象ではなく、同じ個人主義的前提から生じたものではないかと問い直すことになる。

第六章 自由の分岐──ネオリベラリズムとアイデンティティ政治
コミュニタリアニズムが共同体の重要性を訴えた一方で、20世紀後半になると、リベラリズムはさらに異なる方向へと展開していった。経済領域では市場における個人の選択を重視するネオリベラリズムが広がり、文化領域では承認を求めるアイデンティティ政治が台頭した。こうして自由主義は経済領域と文化領域において大きく分岐していく。

経済学者のフリードリヒ・ハイエクは、市場経済を人々の自由な相互作用から生まれる「自生的秩序」と理解し、国家による計画経済は自由を脅かすと論じた。一方、ミルトン・フリードマンは、市場競争が個人の選択の自由を最大化すると考え、小さな政府や規制緩和を提唱した。こうした思想は、市場メカニズムを資源配分だけでなく社会運営全般においても重視するネオリベラリズムへと発展した。ネオリベラリズムは、市場競争の原理を経済活動のみならず教育、医療、福祉など公共政策の分野にも広く応用しようとし、その結果として規制緩和や民営化、小さな政府を推進する政策へと結び付いていった。

しかしその一方で、市場原理の拡大は経済格差の拡大や地域共同体の衰退を招き、人々の社会的連帯を弱めたとの批判も生み出した。自由が市場における選択能力へと還元されることで、自由の社会的基盤そのものが損なわれるのではないかという懸念が提起されたのである。

一方、文化・社会領域では、1960年代の公民権運動やフェミニズム運動などを背景として発展したアイデンティティ政治が、冷戦終結後には政治の中心的課題の一つとして大きな影響力を持つようになった。人種、民族、宗教、性別、性的指向など、社会的に周縁化されてきた集団が平等な尊厳と承認を求める運動が政治の重要なテーマとなった。

この流れの中で、 チャールズ・テイラー や アクセル・ホネット は承認論を展開し、人間の自由や尊厳は社会的承認によって支えられていると論じた。自由とは単に外部から干渉されないことではなく、自らの存在や価値が他者から認められることによって初めて実質的な意味を持つというのである。

こうして現代リベラリズムは、市場における自由を重視する方向と、承認と平等を重視する方向へと分岐した。両者はしばしば対立するように見えるが、いずれも個人の選択や自己決定を重視する点で共通している。そのため近年では、ネオリベラリズムとアイデンティティ政治は対立する思想ではなく、むしろ同じリベラルな個人主義から派生した二つの形態であるという批判も現れている。もっとも、この見方には異論もあり、両者はそれぞれ異なる歴史的背景と思想的系譜を持つため、同一の思想的起源に還元することはできないとする見解も存在する。こうした対立は、自由主義そのものをどのように捉えるべきかという、より根本的な問題へとつながっていく。

さらに、ネオリベラリズムに対する批判は、共同体主義や保守思想の側からだけでなく、リベラリズム内部からも提起された。ジョセフ・スティグリッツは、フリードマンと同じ『資本主義と自由』という題名の著書で、、市場経済そのものを否定するのではなく、市場が本来の力を発揮するためには、公正な競争を支える制度と公共財への投資が不可欠であると主張した。その上で、自由市場が十分に機能するためには、強固な制度的枠組みと適切な公共的規制が必要であると論じた。彼によれば、規制緩和や金融自由化を過度に進めた結果、競争は十分に機能せず、巨大企業や金融資本への権力集中を招き、結果として個人の自由と民主主義の基盤が弱体化した。自由が市場における選択そのものへと還元されると、教育、医療、情報アクセスなど、人々が実際に選択を行うための条件が損なわれる。その結果、形式的には自由が保障されていても、それを実際に行使できる人とできない人との格差が拡大するという逆説が生じるのである。

スティグリッツの批判は、ネオリベラリズムが自由の拡大を目指しながら、その基盤となる競争条件や公共的制度を弱体化させた結果、かえって自由を支える条件を損なったという構造的問題を指摘する点に特徴がある。彼は、自由を市場競争の拡大として理解するのではなく、すべての人が実質的に選択できる条件――公共財、社会的インフラ、透明な情報環境――が整備されていることを不可欠の前提として強調する。このような内部批判は、ネオリベラリズムの限界を示すだけでなく、自由を支える制度や共同体のあり方を問い直す議論へとつながっていく。

ホッブズやロックにおいて国家によって保障される権利として理解されていた自由は、ここに至って市場における選択の自由と、自己のアイデンティティを承認される自由という二つの方向へと展開した。さらに、市場自由を重視する立場の内部からも、その自由を支える制度的条件を問い直す批判が現れ、リベラリズムそのものをどのように修正すべきかという問題が浮かび上がってきたのである。

第七章 リベラリズムの自己修正──フクヤマと自由主義の再構成
ベルリンの壁崩壊やソ連の解体に象徴される東側の政治・経済体制の瓦解により、資本主義陣営と共産主義陣営の冷戦が終結した頃、フランシス・フクヤマは『歴史の終わり』を著し、自由民主主義が、ファシズムや共産主義との競争を経て、人類が到達しうる最終的な政治体制となったと論じた。しかしその後、市場の自由化やグローバル化が深刻な経済格差を生み出す一方、文化・社会領域ではアイデンティティをめぐる政治が活発化し、それぞれの領域で新たな対立や分断が生じるようになった。こうして、フクヤマが想定した「歴史の終わり」の後には、むしろリベラリズムそのもののあり方が問われる状況が生じることとなった。

他方、文化・社会的自由をめぐっては、構造主義やポスト構造主義などの思想的影響も受けながら、既存の社会規範や権力関係を問い直す動きが強まった。ミシェル・フーコーらは、普遍的・客観的な真理として受け入れられている知識や規範について、それらが成立する歴史的・社会的条件と権力との関係を問い直した。こうした思想的潮流は、人種や性などをめぐる既存の規範や差別を批判し、社会的に周縁化されてきた人々の承認と解放を求める運動にも影響を与えた。こうしたアイデンティティをめぐる政治的対立は、右派にも反作用を及ぼし、対抗的なアイデンティティ政治やポピュリズムが台頭する一因ともなった。左右がそれぞれ極端化するにつれ、社会には深刻な分断が生じ、両派は激しく対立するようになった。

こうしたリベラリズムの危機が叫ばれる中で、フクヤマはリベラリズムの基本原理を擁護しつつ、今日の課題に応答するための再構成案を提示する。第一に、政治の質を高めること。第二に、権力を最も適切で低位の統治レベルへ委譲すること。第三に、インターネットの普及によって複雑化した言論環境の中で、言論の自由を確保すること。第四に、寛容の価値を再確認することである。これらを通じて、フクヤマはリベラリズムを放棄するのではなく、その制度的・文化的基盤を再構成することで、リベラリズムが本来備えている自己修正能力を再活性化しようとしている。しかし、リベラリズムの問題は制度の修正によって解決できるものなのだろうか。リベラリズムそのものの前提を問い直すべきだという立場も現れている。

第八章 ポスト・リベラリズムの台頭──自由の限界と共同体の再建
こうした問いに対して、リベラリズムを内部から修正しようとする動きと、その前提そのものを問い直そうとする動きの双方が現れている。21世紀に入り、自由主義の限界が明らかになるにつれて、自由を維持しながらその制度的・社会的基盤を再構築すること、そして共同体や共通善をいかに再建するかという問題が重要になってきた。

前章で見たように、ネオリベラリズムは経済的自由を拡大することで個人の選択を最大化しようとしたが、その帰結は経済格差の拡大、共同体の弱体化、民主主義の機能不全といった深刻な問題を生み出した。こうした問題に対して、スティグリッツのような制度改革派リベラルは、リベラリズムそのものを否定するのではなく、誤った市場観によって歪められた制度を修正し、自由の条件を再構築することを提唱した。

また、リベラリズムを維持しながら、社会を支える共通の価値そのものを再構築しようとする動きもある。ロバート・ライシュは、市場の自由な活動だけでは社会を支える価値や倫理を維持できないと考え、社会の成員が共有できる公共的な価値として「コモングッド(共通善)」を捉え直そうとしている。これは、自由を制限して共同体を再建するというよりも、自由な社会そのものを維持するために、私たちは何を共同で大切にするのかを問い直す試みといえる。

しかし、こうした制度改革や共通善の再構築によって、リベラリズムが抱える問題を十分に克服できるのだろうか。ここから、リベラリズムそのものの前提を問い直す思想潮流が登場する。

パトリック・デニーンは『リベラリズムはなぜ失敗したのか』において、現代社会の分断や共同体の崩壊は、リベラリズムが失敗したからではなく、むしろ成功した結果であると論じた。リベラリズムは個人を伝統や共同体から解放することで自由を拡大したが、その結果として、家族、地域共同体、宗教的結びつきなどが弱体化し、人々は孤立した個人へと向かうことになったと論じる。ネオリベラリズムは市場の論理を社会全体に浸透させ、アイデンティティ政治は共通善よりも個別の承認要求を強調した。デニーンは、これらが対立するように見えても、共通する個人主義的前提から生じたものと指摘し、中間共同体の再建を政治の中心課題とすべきだと主張する。

もっとも、共同体再建の具体的制度設計については十分に示されていないとの批判もある。こうした議論は、近年「ポスト・リベラリズム」と呼ばれる思想潮流の一つとして位置づけられている。

結論──自由の先にある共同体
ホッブズ以来の近代政治思想は、人間の自由と政治秩序の関係をめぐる探究の歴史であった。ロックとジェファーソンは自然権を基礎として近代自由主義を築き、ルソーとカントは自由を自律として再定義した。さらにロールズは、自由で平等な人格が合意しうる公正な社会制度の原理を探究し、自由を正義の問題と結びつけて捉え直した。

しかしその一方で、民主主義社会における自由の維持という課題も提起された。トクヴィルは、中間団体や市民的結社が自由を支える基盤であることを指摘し、ミルは個人の自由な人格形成と公共的討論の重要性を論じた。彼らはともに、自由な社会を維持するためには制度だけでなく、市民的徳や公共精神が不可欠であることを示した。

20世紀後半には、自由主義は異なる方向へと展開した。フリードマンやハイエクらは市場における自由を重視し、ネオリベラリズムの思想的基盤を形成した。一方で文化領域では、承認を求めるアイデンティティ政治が台頭し、自由の意味はさらに多様化した。しかし両者には、個人の選択や自己決定を重視するという、共通するリベラルな個人主義的前提が見られる。

コミュニタリアニズムは、この前提を批判し、人間が共同体の中で形成される存在であることを強調した。さらに、ネオリベラリズムがもたらした格差や社会的分断に対して、スティグリッツは市場経済そのものを否定するのではなく、公正な競争を支える制度や公共財への投資によって、リベラリズムを内部から修正する道を示した。フクヤマもまた、リベラリズムの基本原理を維持しながら、政治の質や統治のあり方、言論の自由、寛容の価値を見直すことで、その制度的・文化的基盤を再構成しようとした。

しかし、こうした体制内部からの修正によって、リベラリズムが抱える問題を十分に克服できるのだろうか。近年、デニーンに代表されるポスト・リベラル思想は、自由主義が成功することによってかえって共同体を衰退させたのではないかという問題を提起している。こうした議論を踏まえると、共同体は自由の対立物なのではなく、むしろ自由を支える条件なのではないかという問いが浮かび上がる。

近代政治思想の流れを一つの軸で捉えるならば、それは「自然権としての自由から、自律としての自由へ、そして正義としての自由へ」という歩みであった。しかし、その先には、自由や正義を支える社会的基盤をいかに維持するのかという問題が残されている。トクヴィル以来繰り返し提起されてきた「自由を支える共同体はいかに維持されるのか」という問いが、今日再び重要な意味を持ち始めているのである。政治思想は現在、「正義を実現しながら、共同体をいかに維持するのか」、そして「自由を保障しながら、自由を支える共同体をいかに維持するのか」という新たな課題に向き合っている。

参考書
1. フランシス・フクヤマ(会田弘継訳)『リベラリズムへの不満』新潮社(2023)
2. フランシス・フクヤマ(渡部昇一訳)『歴史の終わり』三笠書房(1992)
3. ロバート・B・ライシュ(雨宮寛、今井章子訳)『コモングッド―暴走する資本主義社会で倫理を語る』東洋経済新報社(2024)
4. アンガス・ディートン(松本裕訳)『大脱出――健康、お金、格差の起原』みすず書房(2014)
5. アン・ケース、アンガス・ディートン(松本裕訳)『絶望死のアメリカ――資本主義がめざすべきもの』みすず書房(2021)
6. ジョセフ・E・スティグリッツ(山田美明訳)『資本主義と自由』東洋経済新報社(2025)
7. パトリック・J・デニーン(角敦子訳)『リベラリズムはなぜ失敗したのか』原書房(2019)
8. 先崎彰容『知性の復権:「真の保守」を問う』新潮新書(2025)
9. 宇野重規『ルソー『社会契約論』-民主主義をまだ信じていいの?』中央公論新社(2026)
10. 西研『カント 純粋理性批判: 答えの出ない問いはどのように問われるべきか?』NHK出版(2023)
11. 宇野重規『トクヴィル 平等と不平等の理論家』講談社(2019)
12. 関口正司『J・S・ミル 自由を探究した思想家』 中公新書(2023)
13. 玉手慎太郎『ジョン・ロールズ 誰もが「生きづらくない社会」』講談社 (2024)

*1:「リベラル」という語は、本来「自由の」あるいは「自由主義に関する」という意味内容を有する概念である。ヨーロッパの政治思想史においては、主要なイデオロギー的潮流として「保守主義(Conservative)」「自由主義(Liberal)」「社会主義・社会民主主義(Socialist / Social Democratic)」の三系統が伝統的に区別されてきた。これに対し、アメリカ合衆国の政治的スペクトラムは、広義の「自由主義」的枠組みの内部で右派・左派が分化している点に特徴がある。すなわち、市場経済の自律性や政府規模の縮減を重視する勢力が「保守(Conservative)」とされる一方、政府による再分配政策や社会的公正の確保を重視する勢力は「リベラル(Liberal / Social Liberal)」と位置づけられる。この用語法は、ヨーロッパにおいて「リベラル」がしばしば市場重視の中道右派を指示することと対照的であり、両地域間で語義のずれが生じる要因となっている。本稿では、以上の混同を避けるため、「リベラル」という語を原義に即して自由主義一般を指す概念として用いる。また、アメリカ政治における中道左派を指示する場合には、混乱を避ける目的から「左派」と表記することとする。

パトリック・J・デニーン著『リベラリズムはなぜ失敗したのか』を読む

現在のアメリカ政治の行方に関心を寄せる人々にとって、2026年6月は見逃せない時期であった。2018年に『リベラリズムはなぜ失敗したのか』を刊行し、大きな反響を呼んだノートルダム大学の政治学者パトリック・デニーン教授が初来日し、各地の大学や団体で講演を行ったからである。彼の著書は、アメリカ大統領を務めたバラク・オバマが「読むべき政治思想書」の一冊として取り上げた一方、現副大統領のJ・D・ヴァンスの思想的支柱ともされる。政治的立場では対極に位置する二人が同じ書物に価値を見出しているという事実は、一種の奇異さを伴うが、それだけデニーンの議論が今日の政治状況を読み解くうえで真摯に検討する価値があるということなのだろう。

デニーンが問うのは、リベラリズムが掲げる「個人の自由」が、共同体の基盤を掘り崩し、結果として自由そのものを空洞化させてしまうという逆説である。彼の議論の核心を踏まえて来日時の講演を振り返ると、その内容がより鮮明に立ち上がってくる。

講演は動画として公開されており、日本記者クラブでの講演では、冒頭の挨拶に続いて、真鶴町の小学校で見学した給食の様子を深い感銘を受けた様子で語っていた。あどけない児童たちが、ぎこちないながらも互いに協力しながら昼食の準備を進める姿に触れ、彼は自身の幼少期に経験した小さな共同体の記憶を呼び起こし、そこに育まれる絆の存在を見出したという。こうした光景は、アメリカではすでに失われつつあると、彼は嘆息していた。

しかし、デニーンが児童たちに見出した共同体の姿は、日本でもすでに揺らいでいるように思われる。私の住む住宅地は、約五十年前に丘陵地を切り開いて造成された。当初の住民たちは新しい街を自ら築こうという気概にあふれ、互いに協力しながら街づくりに励んだ。住環境を守るための住民憲章を制定し、街路と家屋の境界には塀ではなく樹木を植えるなど、共同体としての機能を自ら育てようとしていた。駅から続く並木道には商店街が形成され、店主と住民が言葉を交わしながらその日の献立を決めていく光景が日常的に見られた。

しかし、近郊に大型ショッピングセンターが開業すると、商店街は急速に衰退し、いまではシャッター通りと化してしまった。地域の生活圏にあった「顔の見える経済」は縮小し、住民は単なる消費者として広域的な商業施設に組み込まれていった。さらに、コロナ禍を契機に地域活動は停滞し、町内会を離れる住民も増えた。その結果、かつて自律的に機能していた共同体は見えないところでその輪郭を失いつつある。デニーンがアメリカ社会の危機として描いた共同体の衰退は、程度の差こそあれ、日本でも決して無縁の問題ではない。

アメリカでは、共同体の崩壊がさらに深刻に進行している。一般には、このような現象は行き過ぎた個人主義、すなわちリベラリズムが十分に機能しなかった結果として理解されることが多い。しかしデニーンは、そうした見方を根本から覆す。リベラリズムは失敗したのではない。むしろ、その理念と論理が社会の隅々まで浸透し、成功を収めたからこそ、今日の社会的病弊が生じたのだという。

では、彼がいう「リベラリズムの成功」とは何を意味し、それはいかなる仕組みによって共同体の衰退をもたらしたのだろうか。

リベラルという語の基礎にある「自由」という概念は、古代ギリシャ・ローマにまで遡ることができる。古代において自由とは、共同体の秩序の中で徳を実践し、自らを律しながら生きることを意味していた。自由は共同体から切り離されたものではなく、規範や義務に支えられて初めて成り立つものと理解されていたのである。

ところが近代になると、この自由観は大きく転換する。人間は本来、伝統や共同体、慣習などの制約から自由であるべきだという思想が前景化し、自由は共同体的規範から切り離された「束縛されない自由」として理解されるようになった。古代の自由が「徳と共同体の秩序を前提とした自由」であったのに対し、近代の自由は「個人の選択を可能な限り拡大する自由」へと変質したのである。この転換を思想として体系化した代表的人物がホッブズやロックである。

ホッブズやロックは、人間には国家に先立って自然状態において有する権利があると考えた。これが自然権であり、ロックはその中心を生命・自由・財産に求めた。しかし、自然状態のままでは暴力や不安が支配する不安定な社会に陥るため、人々は自然権を守る目的で社会契約を結び、国家を樹立すると考えたのである。

このような「束縛されない自由」という近代的理念を共有しながら、リベラリズムは大きく二つの方向へ展開した。ひとつは経済的自由を重視する古典的リベラリズムであり、もうひとつは家族・宗教・伝統的慣習など既存の社会的規範からの解放を重視する革新的リベラリズムである。

古典的リベラリズムは、アダム・スミスの「見えざる手」に象徴される市場の自律性を重視し、20世紀にはハイエクやフリードマンの新自由主義へと受け継がれた。政府の役割を最小限に抑え、市場競争を通じて個人の自由を実現しようとする立場である。一方、革新的リベラリズムは、国家が社会的不平等の是正に積極的な役割を果たすことを認め、公民権運動や女性解放運動などを経て、人種・性・ジェンダーなどの差別からの解放を目指すアイデンティティ政治へと展開したとデニーンは捉えている。両者は対立しているように見えるが、デニーンによれば「個人の自律を最優先する」という同じ理念的基盤を共有している点を見逃してはならない。

第二次世界大戦から冷戦期にかけては、イデオロギーが激しく競合する時代であった。リベラリズムはファシズム、そして冷戦期には共産主義と対峙し、ソ連の崩壊によって唯一の普遍的な政治理念であるかのような地位を占めるに至った。フクヤマはこれを「歴史の終わり」と呼び、リベラリズムが人類の最終的な政治理念に到達したとの見方を示した。しかし、この勝利によって、これまで他の思想との競争の中では見えにくかったリベラリズムの内在する論理が、社会の隅々にまで及ぶようになった。

今日のアメリカ保守派は、古典的リベラリズムを掲げながら、自由市場を擁護すると同時に、伝統的な家族観や地域共同体を守ろうと主張するようになった。これに対して革新的リベラリズムに基づく革新派は、経済的格差を是正し、大企業や富裕層の暴走を抑え、より平等な社会を実現しようとする。しかし、両者はそれぞれ危険な自己矛盾を抱えている。

革新派は文化や道徳の領域で「個人の完全な自由(性的・文化的解放)」を推進することで、家族や地域の絆といった互助の基盤を弱体化させる。その結果、人々は家族や地域共同体に代わって国家と市場に依存するようになり、やがて孤立した「単なる消費者」と化していく。一方、保守派は経済領域で「規制なき市場と個人の自由な経済活動」を推進することで、金儲けと欲望の解放を最優先する社会を生み出す。その結果、効率と消費文化が伝統的な町並みや家族の時間を侵食し、保守派が守ろうとする「伝統的な道徳」や地域文化が、市場原理によって飲み込まれてしまう。

このように、両者は互いに対立しているように見えながら、その根底では同じ自由観を共有している。そのため、自らの理念を徹底して実現しようとすればするほど、共同体という自由を支える基盤を掘り崩し、結果として自らの立場をも危うくしてしまう。デニーンは、この自己破壊的な構造こそが、今日のリベラリズムの危機であると考える。そして、既存の政治勢力に見放されたと感じた人々は、自らの不満や不安を率直に代弁してくれる新たな政治指導者を求めるようになる。近年のポピュリズムの台頭も、このようなリベラリズムの自己矛盾が生み出した現象として理解できる。

こうしてリベラリズムは理念どおりに成功したからこそ、共同体を支える基盤を自ら掘り崩し、その結果として社会の分断や政治的不信を招いたのである。デニーンが「リベラリズムは失敗したのではない。成功したからこそ失敗した」と論じる所以は、まさにここにある。

本書を読んで強く印象に残るのは、デニーンの議論がもつ先見性である。『リベラリズムはなぜ失敗したのか』が出版されたのは2018年であり、トランプがアメリカ大統領に就任した翌年にあたる。このため、本書はトランプ現象を分析した著作と受け止められがちである。しかし、本人が来日時の講演で語ったところによれば、本書の基本的な構想はトランプ登場以前から長年にわたって練り上げられてきたものであり、そのような政治指導者が現れること自体を、リベラリズムの帰結として予想していたという。フクヤマがリベラリズムの最終的な勝利を語った時代に、デニーンはすでに、その成功の内側で進行する自己崩壊の構造を見抜いていたのである。

保守派にしても革新派にしても、実際に利益を享受してきたのは、それぞれの陣営を主導するエリート層であった。一方、中間層の人々にとっては、「明日は今日より良くなる」という近代社会の約束はもはや現実味を失い、むしろ近年の流行歌が歌うように「日に日に世界が悪くなる」という感覚が広がっている。こうした状況のもとでは、既存の政治秩序を揺さぶり、エリート支配に挑戦する人物へ期待が集まるのは、決して不自然なことではない。

それでは、リベラリズムがその成功ゆえに今日の危機を招いたのだとすれば、私たちはこれからどのような道を選ぶべきなのだろうか。デニーンは真鶴町の小学校で、小さな共同体がいまも息づく姿を見学したが、同じころ私は大規模団地での町おこし運動を調査する機会を得た。

高度経済成長期には、都市への人口集中が進み、その受け皿として都市周辺には大規模な住宅団地が次々と造成された。近郊農村にすぎなかった地域は、丘陵地まで開発され、広大な住宅団地が次々と出現した。当時の団地は、サラリーマンとその家族で活気に満ち、未来への期待にあふれていた。しかし、造成から五十年を迎えた現在、そこには高齢者だけが残り、若者は去り、街は少しずつ衰退している。かつて賑わいを見せた商店街もシャッター街と化し、地域の生活圏は大きく縮小した。

その商店街の会長となった人物は、このままでは街が機能不全に陥ると強い危機感を抱き、再生への取り組みを始めた。「ココチよさがかなうまち」を掲げ、小さな活動を継続的に積み重ねることで、地域住民が自分たちの街に関心を持つよう働きかけた。さらに、こうした取り組みを外部へ発信することで、団地の存在が徐々に知られるようになり、新たな店舗を呼び込むことにも成功した。その結果、地域に人の流れが戻り始め、少しずつではあるが若い入居者も増え始めているという。

ここでの取り組みは、大々的な再開発ではない。むしろ、住民参加型の地道な町おこしである点にこそ価値がある。小さな活動を積み重ねることで、共同体の再生がゆっくりと、しかし確実に進んでいるのである。そこでは、住民が互いの存在を認識し、緩やかな協力関係を築き、地域の生活圏を自らの手で再編していくという、デニーンがいう「徳に支えられた自由」が具体的な形を取って現れていた。

デニーンも、人間同士のつながりを基盤とする共同体の重要性を強調している。近代リベラリズムが束縛のない自由を追求した結果、社会は「隣は何をする人ぞ」という言葉が示すように、互いに関係性を持たない個人と、それを支える国家と市場という構造へと収斂してしまった。自由を最大化するはずの体制が、結果として人々を孤立させ、自由そのものを空虚なものにしてしまうという逆説が生じたのである。

こうした状況を踏まえ、デニーンは「徳(virtue)あるいは善によって律せられる自由」の回復を提唱する。自由は放埓ではなく、共同体の規範と相互扶助の中でこそ健全に機能するという古典的な理解を、現代において再評価しようとする立場である。したがって、彼の構想は中世的共同体への回帰ではない。むしろ、リベラリズムを経験した現代社会が、その知見を踏まえたうえで新たに構築し直すべき「ポリスの生活」、すなわち市民が相互に支え合いながら公共の生活を営む小規模共同体の再生を提案しているのである。

デニーンの提案は、決して過去への懐古ではない。リベラリズムがもたらした自由を否定するのでもない。その自由を支える基盤として、人と人とのつながりや共同体の役割をもう一度見直そうという試みである。真鶴町の小学校や、私が訪ねた団地の町おこしの現場で見た小さな共同体の営みは、その可能性を確かなものとして示しているように思われた。

戦国から江戸へ ― 古民家が語る多摩丘陵の暮らしと建築の変化 ―

歴史的建造物として知られる城や寺院を訪ねると、その時代を代表する建築技術や意匠に触れることができる。時には、その精巧さに感嘆することもある。しかし一方で、庶民がどのような家に住んでいたのかにも強い興味を覚える。庶民の住宅には、当時広く用いられていた技術だけでなく、日常生活の具体的な姿が刻まれているからである。

ところが、民家は城郭や寺院に比べて保存例が極めて少ない。現存する最古級の民家として知られるのが箱木家住宅(神戸市北区山田町)であり、これに次ぐ古さとされるのが旧古井家住宅(姫路市安富町)である。いずれも室町時代の建築とされ、2025年にともに国宝に指定された。

関東地方では、江戸時代以前に建築された民家はほとんど残っていない。地面に柱を直接埋める掘立柱構造であったため柱脚が腐食しやすかったこと、さらに中世の戦乱による破壊が多かったことが主な理由と考えられている。

しかし江戸時代に入ると、民家でも礎石建てが採用されるようになり、江戸時代初期に建てられた民家の中には、改修を重ねながら昭和期まで使われ続けたものもある。以前ブログで紹介した町田市薬師池公園の旧永井家住宅もその一つで、江戸時代前期の特徴をよく残している。この住宅を見学したことがきっかけとなり、江戸時代初期の多摩丘陵地域における民家の姿を調べてみようと思い立った。

多摩丘陵地域では、昭和中期頃までは農家を比較的身近に見ることができた。そこで目にした特徴は茅葺屋根と土間である。この性格は江戸時代の農家にも共通するが、17世紀、すなわち江戸時代初頭の農家には、当時特有の様式が認められる。

昭和期の農家でも室内は薄暗い印象があったが、江戸初期の農家はさらに暗く、入口とわずかな窓以外に採光部がほとんどない。部屋には畳が敷かれていると考えがちだが、畳は江戸時代を通じて特別な部屋に限られ、一般の居住空間では板敷きはまだ少なく、土間や竹床の上に莚などを敷いて生活していた。

床材として木の板が広く使われるようになるのは18世紀以降である。長い板材を製材する大型の鋸が普及する以前は、丸太に楔を打ち込んで割り、それを手斧で削って板を仕上げていた。鉋もまだ十分に発達していなかったため、板の表面には手斧の跡が波状に残ることが多かった。このため板材は高価であり、一般の民家では容易に用いることができなかった。そこで竹材が豊富な多摩丘陵地域では、竹を並べて床材とするなど、木材を節約する工夫が見られた。

また、江戸初期の民家では、上屋・下屋構造と呼ばれる特徴的な架構が用いられていた。下の写真は、以前のブログで薬師池公園に復元されている旧永井家住宅を紹介した際に用いたものである。本来、屋根(上屋)の荷重を支えるためには、青色で示した位置に柱を立てる必要がある。しかしそのままでは室内に柱が並び、広い空間を確保することが難しい。そこで上屋を支える構造は維持したまま、下部の柱だけを外側へ移し、梁で荷重を受ける工夫が行われた。その結果、室内には柱の少ない広い空間が生まれ、さらに外側へ延長された屋根が下屋となる。このように四方へ下屋を巡らせた形式を四方下屋造といい、武蔵国南部をはじめ東日本の農家で広く見られる代表的な構造である。

(四方下屋造)

今回調べたのは、川崎市の日本民家園に移築されている旧清宮家住宅と旧伊藤家住宅である。両住宅とも、もとは日本民家園の近隣に位置していた。旧伊藤家住宅は国指定重要文化財、旧清宮家住宅は神奈川県指定重要文化財である。以下、建築年代が古いと考えられる順に見ていこう。

(旧伊藤家・旧清宮家の移設前の所在地)

旧清宮家住宅は17世紀後半の建築とされるが、後世の改修が多く、建築当初の形式はやや判然としない。ただし復元された姿を見る限り、次に述べる旧伊藤家よりも古い時代の様式が用いられていることから、この時期の建築と推定されている。さらに、江戸時代前期にまで遡る可能性も指摘されている。

次の写真は外観である。屋根は寄棟造りで、その棟に草が生えているように見える。これは手入れ不足ではなく、棟から雨水が浸入するのを防ぐための工夫で「芝棟」と呼ばれる。棟に植えられている植物はアヤメ科のイチハツで、5月上旬には紫色の花を咲かせる。右側の写真は正面を別角度から撮影したもので、右手の入口が日常的に用いられた土間大戸口である。中央の格子窓はひろまへの採光や通風のために設けられた「ししまど」で、猪や狼の侵入を防ぐためと伝えられている。真偽は定かではないが、防犯や採光・通風を兼ねた開口部であったとも考えられている。このししまどには板戸しかなく、後の障子付きの窓と比べると、採光を重視する方向への様式変化が読み取れる。

(旧清宮家住宅の外観)

次に梁の構造である。土間側の柱や梁には大きく曲がった材が使われていることに気づく。こうした曲がり材が用いられた理由としては、①入手できる材の形状をそのまま活かした、②曲がり材のほうが力学的に有利な場合がある、③製材技術の制約により真っ直ぐな長材が得にくかった、などが挙げられる。曲がり材を巧みに組み合わせ、堅牢な構造物を築き上げた当時の高い技術力には驚かされる。

(梁)

この写真は、先に説明した上屋・下屋構造のうち、下屋部分の屋根裏を写したものである。竹を縦横に組んで下地を作り、その上に茅を敷き詰めて屋根を構成している。


(梁)

次の図は間取りである。この時代の間取りは「ひろま型」が一般的で、表から裏まで一体となったひろまを中心とする。しかし旧清宮家では、ひろまの裏に小部屋があり、でえの裏の部屋と続き部屋になっている。ひろま裏の部屋は納戸として、でえの後ろの部屋は寝室として使われたと考えられる。裏に小部屋を備えてはいるものの、18世紀後半に現れる四間取り型とは異なり、基本的には当時一般的であったひろま型の構成とされる。

(間取り:川崎市のホームページより改変)

次は「ひろま」である。この時代のひろまは一般農家では竹簀子が使われていたが、上層農家では板敷きはこの頃になると導入が始まり、清宮家も名主級だったため、板敷きを用いたようである。また、左の写真で、うらべやとの境の壁が少し凹んでいるのが分かると思う。これは押板と呼ばれる。押板は室町時代に上流住宅の座敷飾りとして使われ、床の間の前身と見られている。民家に取り入れられた押板はお札を張ったり、棚板に灯明皿を置いたりしていたようなので、信仰・祭祀と関係を持っていたものと思われる。ひろまには囲炉裏も切られており、ここは家族の食事や憩いの場であった。

(ひろま)

次は「でえ」である。ここは僧侶や村役人など、身分の高い客を迎える部屋であり、そのため畳敷きとなっている。

(でえ)

次の写真は「でえどこ」である。ここは土間になっており、食事の調理や日常の作業を行う場である。農家は職住一体であり、家は生活の場であると同時に仕事場でもあった。でえどことひろまの間は、腰板壁に格子窓を設けた構えになっている。これも古い防御的な形式の一つと考えられている。また、この場所は家の中心に近く目につきやすいため、一般には他の柱より太い柱を用いて家格を示すことが多いが、旧清宮家ではその傾向は見られない。

(でえどこ)

次は家の正面である。左の写真はでえへの入口で、庇が張り出しており、客を迎える場所としての性格がうかがえる。右上の写真は、でえどこへの入口である大戸口で、右下の写真は正面を斜め方向から撮影したものである。

(正面)

側面を見ると、ほぼ全面が土壁で覆われ、開口部は設けられていない。当時の民家がいかに閉鎖的な構造であったかがよく分かる。

(側面)

最後は裏側である。こちらも土壁で覆われ、正面以外には開口部がほとんどない、極めて閉鎖的な構造であることが分かる。

(裏側)

旧清宮家住宅は、開口部の少ない閉鎖的な外観、ひろま型の間取り、上屋・下屋構造、そして曲がり材を巧みに用いた架構など、江戸時代前期の民家の特徴をよく残している。一方で、ひろまの板敷きや押板には、名主級の家としての格式もうかがえ、後の農家建築へとつながる過渡的な姿を見ることができる。

次は旧伊藤家住宅である。旧清宮家住宅の平面積が102㎡であったのに対し、旧伊藤家は143.5㎡と約1.4倍の広さがある。屋根は入母屋造となり、開口部が多く、より開放的な印象を与える。右の写真で手前に見えるのが客室の「でい」で、正面側と側面側の双方に開口部が設けられている。

(旧伊藤家住宅概観)

土間の大戸口には、兜の鍬形のような形をした大きなマグロのひれが取り付けられている。この地方では魔除けのまじないとして取り付けられ、水の王者ともいえる大魚の力によって火災などの災厄を防ぐ意味があったという。名古屋城天守の金の鯱も、水にちなむ霊力によって火除けを願うという点では共通する発想といえる。

(大戸口に飾られているマグロのひれ)

土間の上の梁は、旧清宮家と比べると曲がりが少なく、柱の太さもそろっている。左上の写真に見える内部の入口は「みそべや」へ通じている。左下の写真からは、内部空間を広く確保するための工夫である四方下屋造の構造がよく分かる。

(梁)

間取りは典型的なひろま型である。土間の一部を仕切って「みそべや」とし、樽などを置いて味噌や漬物などを仕込み、貯蔵する部屋である。

(間取り:川崎市のホームページより改変)

次は土間である。ひろまとの境は腰板壁のみで仕切られている。腰板壁は、大戸口から入る風によって囲炉裏の灰が舞うのを防ぐために設けられたものである。また、土間の奥にはひろまから張り出した床があり、その奥に「すわり流し」が設けられている。旧清宮家では屋内に流しがなかったため、野菜などの洗い物は屋外で行われていたとみられるが、旧伊藤家では内部での作業が可能になった。流しの右上には穴があり、洗い物に使った水を外部へ排出できるようになっていることが分かる。

(土間)

ここは「ひろま」である。竹簀子の上には筵が敷かれている。断熱性や座り心地を改善するためであったと考えられる。この頃は板敷ではなく竹簀子が一般的であった。右下の写真では、奥の方に畳敷きの「でい」が見える。ここは、客を迎えるための特別な部屋である。

(ひろま)

次は正面である。左上は土間へ通じる大戸口、右上は客室の「でい」への入口、右下はひろまの採光のための格子窓である。格子窓は、旧清宮家住宅でも説明したように、「ししまど」とも呼ばれる。

(正面)

側面はほとんどが土壁であるが、「でい」の部分だけは縁側が付いた出入口があり、ここでも居住性が向上していることが分かる。

(側面)

旧伊藤家住宅は、旧清宮家住宅に比べて規模が大きく、開口部が増え、内部設備も充実している。屋内にはみそべややすわり流しが設けられ、居住性や作業性が向上していることが分かる。また、曲がり材の使用が減り、柱や梁の構成も整然としており、17世紀後半から18世紀にかけて民家建築が機能性と快適性を重視する方向へ発展していく様子が読み取れる。

(裏側)

建物の様子が分かったところで、この時代の庶民(百姓)がどのように暮らしていたのかを考えてみたい。下図は明治末期と現在の地図に、旧伊藤家と旧清宮家の位置を重ねたものである。この一帯は典型的な多摩丘陵地で、旧伊藤家は谷戸に、旧清宮家は沖積地に位置している。とくに旧清宮家周辺は、16世紀末に開発された二か領用水の恩恵を受け、豊かな水田地帯であったと考えられる。

江戸時代後期の石高を旧高旧領取調帳で見ると、旧伊藤家のあった金程村は85石と小規模な村であり、旧清宮家の登戸村は931石と大規模である(武蔵国では平均的な村がおよそ400石前後とされる。)。こうした村の規模の違いは、農地の生産力や村の構造、名主の役割にも影響していたと考えられる。

江戸時代の百姓は、夫婦と子どもを中心とした家族で暮らす例が多かったとされる。朝になると土間で朝食を作り、囲炉裏を囲んで食事をとり、日中は野良仕事に出るか、土間で農作業の準備や整理を行った。夕食もまた囲炉裏を囲んで過ごしたことであろう。祭礼や寺社への参詣などが、農作業の合間の楽しみであった。名主の家や寺に集まって村の運営について話し合うなど、共同体としての活動にも参加していた。

こうした民家は、単なる住居ではなく、一家の生活の場であると同時に、農作業や村の運営を支える拠点でもあった。建物の細部を丁寧に観察すると、その時代の人々が何を大切にし、どのような暮らしを営んでいたのかが少しずつ見えてくる。古民家の魅力とは、まさにその「生活の痕跡」が建物の中に息づいている点にあるのではないだろうか。

おわりに

町田市薬師池公園の旧永井家住宅について専門家から教示を受けたことをきっかけに、同時期に建築された川崎市日本民家園の民家を訪ねることにした。歴史博物館でともにボランティアをしている仲間の中に、日本民家園でも活動している方がいたため、案内をお願いし、調査を兼ねて見学した。単独で見学すると、帰宅後に写真やメモを整理して初めて「これは見落としていた」と気づくことが少なくない。旧伊藤家の大戸口に取り付けられていたマグロのひれなどは、ひとりで見学していたら気づかずに通り過ぎてしまったに違いない。効率よく調査を進めることができたことに、深く感謝している。

江戸時代初期の民家は、近隣の民家園にもいくつか保存されている。今後はそれらも見学し、地域全体としての特徴を把握していきたい。今回見学した二棟からは、戦国の世から平和な江戸時代へ移行する中で、民家が防御性を重視した閉鎖的な構えから、居住性や作業性を重視した開放的な構えへと変化していく様子をうかがうことができた。建築様式は、単なる建築技術の変化ではなく、その時代の社会や人々の暮らしを映し出す鏡でもあることを改めて実感した。今後も事例を積み重ね、多摩丘陵地域における農家建築の変遷を、より立体的に理解していきたい。

迎賓館赤坂離宮を訪ねる

ニュース映像で外国の賓客を迎える迎賓館赤坂離宮(以降、迎賓館とする)を目にすることはあったが、実際に訪れたことは一度もなかった。そもそも一般公開されていることすら知らなかった。昨年知り合った仲間たちと「東京の街歩きを楽しむ会」を作り、楽しんでいる。その仲間から「迎賓館が公開されており、事前に申し込めば和風別館も見学できる」と誘われ、皆で訪れることになった。

梅雨が明けていない曇天の日、四ツ谷駅に集合し、迎賓館へ向かった。これまでは気づかなかったが、東京の地図を眺めてみると、中央線に沿って東京駅から新宿方面へ向かう一帯に、広大な緑地が断続的に続いていることが分かる。東から皇居、赤坂御用地(迎賓館・東宮御所)、明治神宮外苑、新宿御苑、明治神宮御苑と連なる。江戸時代の地図を重ねてみると、これらは江戸城や紀州徳川家、内藤家、井伊家など大名家の広大な屋敷地であったことが分かった。これらの土地の多くは、明治維新後、版籍奉還や廃藩置県を経て国有地となり、その後、皇室施設や公園などとして利用されるようになった。

四ツ谷駅から、ユリノキの並木が美しい外堀通りを南へ歩くと、ほどなく本館正面へ向かう道路に行きつく。ここは外国からの国賓が車列をなして入ってくる場所で、テレビのニュースでもよく目にするところである。しばらく進むと高貴な雰囲気を帯びた正面入口が見える。

(迎賓館赤坂離宮の入口)

そして、その先に本館が姿を現す。一瞬、ヨーロッパの宮殿に迷い込んだかのような、絢爛豪華な建築が視界に飛び込んでくる。

(迎賓館赤坂離宮の本館)

本館の建築を総指揮したのは、工部大学校の第一期生であり、英国人建築家ジョサイア・コンドルに師事した片山東熊(かたやまとうくま)である。彼が設計したこの建物は1909年(明治42年)に東宮御所として完成し、日本唯一のネオ・バロック様式による宮殿建築として知られている。戦前は東宮をはじめとする皇族の住まいとして使用され、戦後は公館として利用された。そして1974年(昭和49年)からは、海外からの国賓や公賓を迎える場所として使用され、今日に至っている。

本館は左右対称の構成で、華麗な装飾が随所に施され、全体として力強い印象を与える。また、西洋的な意匠と日本的な要素を巧みに融合している点も、この建物の大きな特徴である。左右の屋根には、金色の星をちりばめた天球儀と、それを囲むように翼を広げた金色の霊鳥が飾られている。さらに、正門上部の緑青の屋根の左右には青銅製の鎧武者像が鎮座している。写真では分からないが、一体は口を開け、もう一体は口を閉じており、阿吽の仁王像のように本館を守護している。

本館がネオ・バロック様式となったのは、単なる美的選択ではない。そこには、日本が近代国家として欧米列強と対等であることを建築そのものによって示そうとする、明治政府の強い意図があった。片山東熊はヨーロッパの宮殿建築を徹底的に研究し、その成果をこの建物に結実させた。この建物は、美しい建築であると同時に、国家の威信を象徴する「近代日本の顔」として建設された。建築意匠、構造技術、室内装飾のいずれも極めて高い価値を有することから、迎賓館は2009年(平成21年)に国宝に指定された。

この日は予約時間の都合もあり、まず和風別館から見学することになっていた。事前に聞いていた話ではいつも混雑しているとのことだったが、この日は空いており、入口付近で待たされることもなく荷物検査を終え、チケットを購入した。見学時間までは涼しい室内で談笑しながら過ごした。時間になるとスタッフが現れ、和風別館へ案内してくれた。原則として写真撮影は禁止だが、数か所のみ撮影可能であること、見学場所にはトイレがないことなどの注意点を教えていただいた。和風別館は「遊心亭」と呼ばれ、谷口吉郎によって設計され、1974年(昭和49年)に完成した。

和風別館に入ってまず紹介されたのが、ヒマラヤスギの大樹である。ヒマラヤスギは明治時代以降に日本へ導入された樹木で、堂々とした姿が印象的だった。

(ヒマラヤスギの大樹)

続いて、和風別館の入口へ向かう。左手には五七桐をあしらった照明が設けられていた。桐は、中国では鳳凰が宿る神聖な木とされ、日本でも古くから皇室ゆかりの文様として用いられてきた。現在では菊紋に次ぐ格式をもち、日本国政府の紋章としても慣例的に用いられている。

(別館入口)

正面玄関から渡り廊下を抜けて主和室へ向かう途中、坪庭があり、孟宗竹の植栽に京都の白川砂や貴船石が趣を添えていた。和室の案内を受ける前に、庭園の風情を味わうことができた。池には錦鯉が泳いでいた。この庭では田中角栄首相の一言で錦鯉が放たれ、坪庭では中曽根康弘首相の発案で貴船石が据えられたという。こうした逸話からも、当館が時代ごとの要人たちによって磨かれてきたことがうかがえた。

(「遊心亭」の庭園)

庭園の隅に置かれていた盆栽は、賓客の訪問をまるで待ち遠しくしているようであった。

(賓客の訪問を待つ盆栽)

和室には、もちろん靴を脱いで入る。外国からの賓客も同様に靴を脱ぐそうである。かつてエリザベス女王が訪れた際には、靴を脱ぐのは難しいのではないかと心配されたが、女王は「構わない」と言い、あらかじめイギリス王室から足型の資料が送られてきたため、それに合わせて和室用の履き物を用意したとのことであった。今回のガイドの方は、立て板に水のような説明ぶりで、時折挟まれる逸話も興味深く、感心させられた。

落ち着いた中に気品が漂う和室を見学した後、茶室や即席料理室を巡りながら、海外からの賓客をもてなす日本のおもてなしの心と、そのために工夫された空間づくりの一端に触れることができた。和風別館の見学を終え、続いて本館の南側へと向かった。北側の正面から見る姿とは異なり、屋根の装飾などは裏側からの眺めとなるが、代わりに二階部分に施されたネオ・バロック様式のダブルコラム(連柱)が目を引く。これは、柱を二本ずつ密着させて並べ、単調さを防ぎ、光と影の陰影を生みだす様式である。また一階部分のアーチも、奥行を感じさせるネオ・バロック様式の特徴である。

(本館南側)

本館の南側には主庭が広がっていて、その中央に噴水がある。噴水の縁にはグリフォン、中央にはシャチの彫刻が配され、西洋宮殿らしい壮麗な雰囲気を醸し出していた。

(主庭の噴水)

噴水越しに眺めた本館は、東京の都心にありながら、まるで別世界の宮殿のような静けさを漂わせていた。

(主庭から噴水と本館を望む)

それでは、本館内部の見学へと進む。創建当時の平面図を見ると、一階部分は東側が皇太子、西側が皇太子妃の居室で、二階には舞踏室、饗宴の間、そして二つの客室が配置されていた。1968年(昭和43年)から5年をかけて、建築家・村野藤吾の設計による大規模な改修が行われ、国の迎賓施設として本格的に利用されるようになった。現在、一般公開では二階にある四つの主要な部屋を見学することができる。

最初に見学したのは、かつて舞踏室と呼ばれていた部屋である。天井画に謡曲『羽衣』が描かれていることから、現在は羽衣の間と名付けられている。ボランティアの方の説明によれば、各部屋は異なる世紀の様式でデザインされており、羽衣の間は18世紀末のルイ16世様式に基づいているという。舞踏室として造られたため、オーケストラ用の演奏台が設けられており、かつては軍楽隊がここで演奏したという。その際、演奏者の姿が見えないように幕を下ろしていたという逸話も聞かせてくれた。

このボランティアの方は、明るい色彩のジャケットを身にまとい、淀みなく丁寧に説明してくれた。細部にまで行き届いた解説に感心し、どれほどの経験があるのか尋ねたところ、10年になるとのことだった。迎賓館を深く愛し、熱心に学び続けてこられたのだろうと思った。服装も身のこなしもここの雰囲気に溶け込んでいた。

次に訪れたのは、客室として利用されていた朝日の間である。こちらも18世紀後半のルイ16世様式、すなわちフランス新古典主義を代表する優美で洗練されたデザインが採用されている。47色で織り上げられた桜花の絨毯や、天井に描かれた「朝日を背にした女神」の油彩画が、空間に華やぎを添えていた。

この部屋にはドレス姿の女性ボランティアがいて、質問をきっかけに興味を持ってくれたのか、部屋の中を案内しながら、調度品の一つ一つについて丁寧に説明してくれた。特に興味深かったのは、ライオンや船の壁画である。どの位置から見ても正面を向いているように見える不思議な描法で、曲面画法と呼ばれるものだという。球面状の下地に描くことで、そのような効果が生まれるのかと尋ねると、まさにその通りだと教えてくれた。まだまだ説明してくれそうな雰囲気だったが、次の部屋が控えているため、丁寧にお礼を述べて退出した。

次に見学したのは採鸞の間である。部屋に入ると、案内の方が説明の機会をうかがっている様子だったので、「この部屋の説明をお願いします」と声をかけたところ、同行した仲間にも席を勧め、まるで即席の授業のように解説を始めてくれた。

この部屋は19世紀初頭のアンピール様式(帝政様式)で、ナポレオン一世の時代に流行した荘重で威厳あるデザインを特徴としている。壁には白地に金箔の装飾が施され、スフィンクスや兜・剣など、軍事的なモチーフが随所に見られた。その中に日本の楽器が描かれているので探してみてください、と促され、皆で「どこにあるのか」と探し合いながら楽しむことができた。

さらに、向かい合う鏡の間に立つと、シャンデリアが果てしなく連なるかのような幻想的な光景が広がり、その幻想的な視覚効果に感嘆した。

最後に訪れたのは花鳥の間である。饗宴の間として使用され、16世紀のアンリ2世様式で装飾されている。木目を生かした重厚でダークな板張りの壁面が特徴で、ルネサンス調の落ち着いた雰囲気を醸し出していた。部屋の壁には、渡辺省亭画・涛川惣助作による七宝焼の花鳥図が飾られており、深みのある色調が空間に格調を添えていた。

ここでも説明員の方に説明をお願いしようと、「この部屋はどの時代のデザインですか」と尋ねたのだが、その点についてはあいにく詳しい話を聞けず、少し残念ではあったが、深追いして迷惑になってもいけないと思い退出した。

おわりに

迎賓館を巡って改めて感じたのは、この建物が単なる迎賓施設ではなく、西洋建築や美術を通してヨーロッパの歴史を体験できる空間であるということである。18〜19世紀のフランスは、政治の世界では革命や政体の変遷が相次ぎ、理想の国家の姿をめぐって激しく揺れ動いた時代であった。一方、芸術の世界でも、古典への回帰や新たな美の探求が進み、18世紀後半にはルイ16世様式に代表される新古典主義が広まり、19世紀初頭にはナポレオン一世の時代にアンピール様式へと発展した。ここでは、そうした歴史的な変遷を、一つひとつの部屋を巡りながら実際の空間として体験することができる。まるで18〜19世紀のフランスをそのまま現代へ運んできたかのようであり、その価値の大きさを改めて実感した。

また、今回の見学で強く印象に残ったのは、ボランティアの方々の存在である。長い年月をかけて培われた知識や経験が、わずかな時間の中で聞き手へと受け継がれていく。それだけではなく、その知識の背景にある考え方や迎賓館への深い愛情までもが自然と伝わってくるように感じられた。歴史を刻んできた建築の美しさと、それを語り継ぐ人々の情熱に触れることのできた今回の見学は、私にとって忘れがたい一日となった。そんな充実した思いを胸に、迎賓館を後にした。

ジョセフ・スティグリッツの『資本主義と自由』を読む

今年に入り、中東ではアメリカとイランをめぐる軍事的緊張が高まり、地域紛争の拡大が強く懸念される状況が続いている。また、2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、四年が経過した今なお戦況が膠着し、出口は依然として見えない。国際社会は、冷戦終結後に期待された「平和と繁栄の時代」とは程遠い現実に直面している。

フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」を唱えたのは1989年のことである。冷戦の終結を背景に、自由主義・民主主義・資本主義こそが人類史の到達点であると論じた(彼の著書の英語題名 The End of History and the Last Man における end は「終焉」だけでなく「目的地・到達点」の意味を含む)。当時、政治・経済の領域で理論的推進力となった新自由主義は、まさに時代精神を体現するかのように勢いを増していた。しかしその後、新自由主義的政策の行き過ぎは金融危機や格差拡大という深刻な問題をもたらした。

アンガス・ディートン(ノーベル経済学賞受賞)は『絶望死のアメリカ』で、学歴による経済格差が拡大し、とりわけ非大卒の中年層で薬物依存や自殺など「絶望死」が増加している現実を描き出した。政治の領域ではポピュリズムが台頭し、「アメリカ第一主義」を掲げるトランプが大統領に選出され、社会の分断はさらに加速した。

冷戦終結後には、市場経済と民主主義が世界を豊かにするという期待があった。しかしその後の現実は、金融危機、格差の拡大、ポピュリズムの台頭、国際秩序の不安定化など、当時の期待とは大きく異なるものとなった。では、自由市場を支えると考えられてきた資本主義は、どこで道を誤ったのだろうか。その問いに真正面から取り組んだのが、ノーベル経済学賞受賞者ジョセフ・スティグリッツの『資本主義と自由』である。

本書のカバーを一瞥すると、「オオカミにとっての自由は、往々にしてヒツジにとっての死を意味する」という衝撃的な一文が目に飛び込んでくる。これはイギリスの政治哲学者アイザイア・バーリンが引用した言葉として広く知られ、自由市場主義が抱える本質的なジレンマを鋭く突いている。オオカミの自由とは規制なき市場競争や自己責任論を指し、ヒツジの死とは貧富の格差拡大や社会的弱者の切り捨てを象徴する。スティグリッツは、この比喩が現代資本主義にも当てはまると考える。市場の自由は、それが誰の自由であり、誰に負担を強いているのかという視点を欠けば、公正な社会は実現できないのである。

日本でも、21世紀初頭の小泉政権期には新自由主義が強い影響力を持ち、「構造改革」の名のもとに市場原理が重視され、「自己責任」という考え方が広く語られるようになった。だがその背後では、競争のルールが公平であるか、敗者が再起できる社会的基盤が整っているかという、より根源的な問いが置き去りにされていた。スティグリッツの議論を読むと、問われるべきなのは競争そのものではなく、その競争を支える制度が公正であるかどうかだという点がよく分かる。

新自由主義経済学を主導したのは、ノーベル経済学賞受賞者のフリードリヒ・ハイエクとミルトン・フリードマンである。フリードマンは『資本主義と自由』を著し、経済的自由こそが政治的自由の基盤であると強調した。前述したスティグリッツの著作と同じタイトルだが、もちろんフリードマンの方が先であり、スティグリッツはその思想的系譜を批判的に乗り越えるため、あえて同名の書物を上梓したのである。

ハイエクとフリードマンの主張の核心は、経済的自由と政治的自由が密接に結びついており、政治的自由を維持するためには経済的自由が不可欠だという点にある。彼らの考えでは、束縛のない自由な市場は本来効率的であり、政府が介入しさえしなければ競争的な市場が自動的に民主主義を健全に機能させる役割を果たす。もし「隷従」へと転落したくなければ、政府の役割は法の支配や財産権の保護などに限定し、市場への介入や再分配はできる限り抑えるべきである――これが彼らの信念であった。スティグリッツは、この考え方そのものを全面的に否定しているわけではない。しかし、そもそもの前提に疑問を投げかける。市場は放置すれば自動的に公正で効率的になるのではなく、適切な制度やルールがあって初めて健全に機能すると考えるのである。

コロナウイルス流行期、日本社会では政府が推奨したマスク着用やワクチン接種が広く受け入れられたのに対し、アメリカではマスクやワクチンをめぐって自由を重視する考え方が強く現れ、感染対策は大きな政治的対立の対象となった。マスクをつけない自由、ワクチンを打たない自由を政策として認めると、対策を取らなかった人が感染すること自体は自己責任で済むかもしれない。しかしその行動は他者を危険にさらし、社会全体の感染リスクを高めることになる。

ここには、冒頭で述べた「オオカミとヒツジ」の比喩がそのまま当てはまる。マスク着用やワクチン接種を拒否する自由を絶対視すれば、その自由は感染症に対して脆弱な人々の安全を脅かし、社会全体の感染リスクを高める可能性がある。自由は一般に、他者に重大な不利益を与えない限り尊重されるべきとされる。しかし、その行使が他者の生命や健康を危険にさらす場合には、一定の制約が正当化される。

すなわち、経済活動や社会生活において個々人は決して孤立して存在しているわけではなく、互いの行動は少なからず他者に影響を及ぼす。スティグリッツは、このようにある人の行動が市場を介さずに他者へ利益や不利益を与える現象を「外部性」と呼ぶ。そして外部性が放置されれば、市場は効率的にも公正にも機能せず、結果として一部の人々が利益を得る一方で、その負担を他者に押しつける略奪的な取引や経済活動が生まれかねないと警鐘を鳴らす。

では、スティグリッツは「自由」そのものをどのように捉え直しているのだろうか。彼は、自由とは人が実際に持つ選択可能な機会の広さによって測られると考える。経済学では、この選択可能な範囲を「機会集合(opportunity set)」と呼ぶ。一般に裕福な人の機会集合は大きく、貧しい人のそれは小さい。特に窮乏状態では、生存のための選択肢しか残されていない。取引を行う両者の間に経済的・政治的・社会的な権力の差が大きいとき、取引はしばしば略奪的な性質を帯びる。それにもかかわらず、新古典派経済学では完全競争市場を前提として、すべての主体が完全な情報を持ち合理的に行動すると仮定する。このモデルは数理的分析には都合がよいが、現実とは大きく乖離している。スティグリッツらは、このような理想化された前提が成り立たないことを明らかにし、「ある人の自由が他の人の不自由を生む」だけでなく、場合によってはもっと悲惨な結果をもたらす可能性があると指摘する。自由の名のもとに弱者が追い詰められ、実質的な選択肢を奪われるのであれば、それは自由の擁護というより、自由そのものを損なう結果になりかねない。

20世紀を代表する哲学者ジョン・ロールズは『正義論』の中で公正の原理を強調した。彼は、権力や財力などを一切持たない状態──「無知のベール」に覆われた状態──で社会の制度を設計するならば、人々は、自らが最も不利な立場に置かれる可能性を考慮し、すべての人の基本的自由を保障するとともに、最も恵まれない人々にも利益が及ぶ制度を選択すると考えた。またロールズは、不平等な分配を全面的に禁じているわけではない。もっとも弱い立場の人々にとっても利益となる不平等であるならば、それは正当化されうるとする「格差原理」を提示した。ここには、自由と平等を対立させるのではなく、弱者の自由を守るためにこそ一定の平等が必要だという深い洞察がある。スティグリッツの議論もまた、このロールズの問題意識と響き合っている。市場の効率性だけでなく、最も弱い立場にある人々の自由を実質的に保障する制度こそが重要だという点で、両者には共通する視点が見られる。

現実の経済活動の中でウェルビーイング(人々が心身ともに満たされた良好な状態)を実現するためには、経済的営みが公正でなければならない。スティグリッツは、そのためにはハイエクやフリードマンが主張したように政治から切り離された市場に委ねるだけでは不十分であり、市場は自然に公正さを生み出すものではなく、公正な市場は適切な制度によって初めて成り立つとし、その制度を整えることこそが政治の重要な役割であると主張している。

スティグリッツは、公正とは言えない経済活動の例をいくつか挙げているが、その中で興味を持ったのはレントシーキングとネットワーク効果による市場の寡占化である。ジョン・ロックは、人は生まれながらに自然権を持ち、その内容には生命・自由・財産が含まれると考えた。ロックが想定していた財産は主として土地や動産などの有体財産であった。しかし現代では、その概念は著作権や特許権などの知的財産にも拡張されている。知的財産の多くは、これまでの知的活動からの恩恵によって得られたものである。現代のソフトウェアには、Linuxをはじめとするオープンソース・ソフトウェアや多くの共有ライブラリの成果が幅広く利用されている。既存の技術やオープンソース・ソフトウェアを基盤として新たなアプリケーションを開発した場合でも、それを有料にしたり、その成果に強い排他的権利を認めたりすることがどこまで正当化されるのかという問題が生じる。

特にIT産業では寡占化の傾向が目立ち、公正な競争が成り立たなくなっている分野で不当に高い価格を設定することは問題である。スティグリッツは、知的財産権の過度な保護によって生じるレント(超過利潤)の獲得や、ネットワーク効果によるデジタル・プラットフォームの寡占化を、現代資本主義における新たな不公平の例として挙げている。そこでは、経済力だけでなく情報やデータの集中によっても強者が有利となり、市場競争は次第に公正さを失っていく。だからこそ、市場を公正に機能させるためのルールづくりや適切な規制が不可欠であると彼は主張する。

市場が公正に機能するためには、ルールや規制が必要であることは理解できる。しかし、それらは過度であっても、不十分であっても望ましくない。では、その適切な水準はどのように考えればよいのだろうか。その問いを考える上で、再びロールズの正義論に立ち返ってみたい。ロールズは、「無知のヴェール」のもとでは、誰もが望むであろう「基本財(primary goods)」を公平に保障する制度が選ばれると考えた。その基本財には、権利、自由、機会、所得・富、そして自尊心の社会的基盤が含まれる。この中で、外部性との関係で重要なのは、自尊心の社会的基盤であろう。自尊心の社会的基盤が失われれば、人は自らの価値を信じられなくなり、新しいことに挑戦しようとする意欲や選択肢そのものを狭めてしまう。逆に、自尊心が育まれれば、人は積極的に社会へ参加し、多様な活動に挑戦することができる。この点は、ロールズを批判的に継承・発展させるコミュニタリアニズムの視点とも共鳴する。人は孤立した個人として生きるのではなく、共同体の中で他者から認められ、自らの存在価値を実感することによって、自尊心を育んでいくのである。そのため、規制やルールを設計する際には、人々を社会から孤立させず、多様な人々が共同体の一員として参加できる包摂性が求められる。

しかし、そのような包摂的な制度を実現することは容易ではない。ノーベル経済学者のダロン・アセモグルとジェイムズ・ロビンソンが『自由の命運』で述べるように、自由は国家と社会が互いに均衡を保ちながら緊張関係を維持する「狭い回廊」の中でしか育まれない。政府も市民も、制度を改善し続ける不断の努力を怠れば、自由は容易に損なわれてしまうのである。スティグリッツは最後に教育の必要性を強調するが、彼の言う教育とは、単に知識や技能を与えるものではなく、必要とされる価値観を育み、個人を社会的強制から解放し、その自主性を高める営みである。教育によって人々が自らの可能性を認識し、社会に積極的に参加できるようになることこそが、公正な制度を支える基盤となる。

このようにスティグリッツが目指すのは、市場そのものを否定することではない。市場の持つ効率性や創造性を活かしながらも、公正なルールと包摂的な制度によって自由をすべての人に保障する「進歩的資本主義」の実現である。自由を守るためには、制度の設計とその不断の改善が不可欠であり、政治と市民社会がともに責任を担わなければならない。

私はこれまで、自由と規制は対立するものだと考えがちだった。しかし、本書を読んで、真に自由な社会とは規制のない社会ではなく、誰もが実質的な選択肢を持ち、公正な競争の中で能力を発揮できる社会なのだと理解した。自由を守るためには、市場を支える制度と、それを維持しようとする市民の不断の努力が欠かせないのである。

早朝の恩田川散策と夏の風景

東京ではまだ梅雨明けが発表されていない。ひところの梅雨空から一転して、この頃は晴れ間がのぞき、堪えがたいほどの蒸し暑さが続いている。日中はクーラーをつけっぱなしにし、本を読んだりパソコンに向かったりしながら、家に閉じこもることが多い。唯一といってよい外出は早朝の散歩である。鶴見川の支流である恩田川に沿って、一時間を少し超えるほど歩く。私が歩くのは、東京都と神奈川県の境界付近から横浜市側に入るあたりである。

川の名前はどこか柔らかい響きを持ち、小説の中に登場してもよさそうなのだが、私の知る限りでは、その名が小説に登場した例は思い当たらない。ただ、都県境から町田市側にかけては桜並木が続き名所として知られているため、「恩田川」という名称は比較的広く認知されていると思われる。これに対して横浜市側には豊かな水田が広がる。横浜市北部も宅地化が進み、かつての農村風景は失われたと考えられがちだが、この地域は例外的に農地が残存している。

町田市側にはいくつもの谷戸が形成され、その水が恩田川へ流れ込み、横浜市側には小規模な沖積低地が形成され、そこに水田が開かれている。今昔マップを見ると、明治40年前後には谷戸や沖積地に水田が開かれ、その周囲の丘(多摩丘陵)には桑畑や雑木林が広がっていたことが分かる。そして最近の地図と比較すると、丘陵部は宅地化が進み往時の景観とは全く異なる様相を呈している一方、沖積地の水田はほぼそのまま残されていることが確認できる。

このように、近世あるいはそれ以前から続いてきたと思われる水田地帯を散策するのはとても楽しい。川の中を大きな鯉が悠々と泳ぎ、今年生まれた小ガモに気を配りながら親ガモが川を上り下りする姿を見ると、心が癒される。また、背中のコバルトブルーやエメラルドグリーンを輝かせ、細い草の葉の上から水面の小魚を狙うカワセミの姿は、自然の優雅さを感じさせてくれる。決定的瞬間を待ち構えるカメラマンが本格的な望遠レンズを構えている姿もまた、風景の一部として印象的である。

そんな風景を眺めながら歩いていると、昨日はいつも以上に道端の花々が目に留まった。そこで、恩田川周辺のスナップ写真をいくつも撮ってみた。

この時期に目立つのはメマツヨイグサである。あちらこちらで群生し、長い期間楽しむことができる。北アメリカ原産の帰化植物で、一般には「月見草」と呼ばれることも多いが、植物学的にはメマツヨイグサである。

水田の風景。川の北側に平地があり、その地形を利用して水田が広がっている。五月の連休が終わるころに田植えが行われ、稲の間にはまだ水面が残っている。今年は稲の育ちが良いように見えるので、このまま順調に育てば、秋には豊かな収穫が期待できそうである。

水田を畑に転換した場所も見られる。背景には、水管理の負担や農業を取り巻く環境の変化など、さまざまな事情があるのだろう。小区画に分けて貸し農園として利用されているところもあり、その一角では大輪のヒマワリが咲いていた。

左側の写真は小規模なハーブ園に植えられていたコモンマロウ。いわゆる「マロウブルー」と呼ばれるハーブティーの原料で、湯を注ぐと鮮やかな青色になり、レモン汁を加えると一瞬でピンク色に変わる不思議な茶の正体がこの花である。右側の写真で、橙色の花はクロコスミア、白い葉の植物はハンゲショウである。橙と白が良い対比をなしている。右に咲く白い花はクリナム(インドハマユウ)の仲間だろうか。一本の花茎の先にユリを思わせる清楚な花をそっとつけ、周囲の緑の中でひときわ目を引いていた。

左はツユクサ。万葉集にも「月草」として詠まれた親しみ深い野草である。右上は収穫が済み、出荷できずに取り残されたジャガイモとツユクサ。右下は庭先に咲いていたノウゼンカズラ。中国原産で、平安時代にはすでに渡来していたとされる。

公園に咲いていたムクゲ。中国を中心とする東アジア原産で、日本へは古く渡来し、平安時代初期にはすでに植えられていたという。

道端で見つけた花々。左上はアカバナユウゲショウで、明治時代に観賞用としてアメリカ大陸から持ち込まれたものが野生化した。夕化粧という名だが、朝から咲いていることが多い。左下はアカツメクサで、ピンク色の丸い花が特徴。白い花はシロツメクサで、どちらも身近な野草である。右はオニユリである。

田園都市線の長津田車庫。通勤時間帯に向けて、停まっていた車両が次々と仕事に出ていく。

横浜線の踏切からの眺め。左が横浜方面、右が八王子方面である。

恩田川沿いを歩いていると、宅地化が進んだ横浜・町田の境界にも、今なお昔ながらの田園風景や四季折々の草花が残されていることに気づかされる。何気ない早朝の散歩ではあるが、そのたびに新しい発見があり、この風景がこれからも受け継がれてほしいと願わずにはいられない。

薬師池公園・旧永井家住宅を訪ねて──古民家が伝える暮らしの記憶

先日、機会があって町田市の薬師池公園にある古民家「旧永井家住宅」を訪ねた。1974年(昭和49年)に移築された建物である。思い返せば、その5年前には、当時住んでいた川崎市で「日本民家園」が開園し、見学に行ったことがあった。どうやらこの頃から全国的に古民家保存の機運が高まり始めたのではないかと思い調べてみると、実際にその通りであった。

全国的な保存運動が本格化したのは高度経済成長期である。しかし、その思想的源流は大正期の民藝運動や民家研究にまでさかのぼる。この時期、思想家の柳宗悦らが名もなき職人の手による日常の道具に美を見出して「民藝運動」を起こし、地方の民家建築にも美的価値があることが注目されるようになった。また、建築学者の今和次郎が全国の民家を調査し、民家がその土地の気候や生活の知恵を体現した結晶であることを学術的に示したことも、民家への関心を高める契機となった。

戦後の高度経済成長期(1960年代以降)を迎えると、日本全国でダム建設や都市再開発、住宅の近代化が一気に進み、多くの古民家が取り壊しの危機に瀕した。これに危機感を抱いた自治体や有志が、消えゆく民家を別の場所へ移築して保存する運動を始めた。川崎市の日本民家園もその一つだ。さらに1975年(昭和50年)には文化財保護法が改正され、「伝統的建造物群保存地区(伝建地区)」制度が発足し、妻籠宿(長野)や萩(山口)、白川郷(岐阜)などの宿場町や農村集落が地域単位で保存されるようになった。

古民家が地域の文化遺産として評価されるにつれ、かつて人々が日常的に接していた農家の暮らしも、改めて歴史的価値を持つものとして見直されるようになった。

現在の高齢世代には、藁葺き屋根の農家を見たことがあるだけでなく、実際に暮らした経験を持つ人も少なくない。私自身、小学生のころ東京近郊に住んでいたが、ほとんどの同級生は戦後に新しく建てられた住宅に暮らしていた。その一方で、古くから農家を営む家の子もいた。その家に遊びに行くと、大きな門、庭の石塔やほこら、家の中の広い土間などがあり、まるで異世界に足を踏み入れたように感じたものだった。こうした農家は身近では見られなくなり、時代の大きな変化を実感するが、民家園のような施設で保存されているおかげで、私たちは今も伝統的な文化に触れることができる。

さて、今回訪れた旧永井家住宅であるが、この家は17世紀後半に建てられたとされる。今から約350年前の建物であり、その後の改築によって当初の姿は失われていたという。そのため移築の際には、建設当初の姿に復元したうえで再建された。古民家として公開されている建物は名主など村の有力者の家が多いが、旧永井家住宅は、多摩丘陵に広く見られた一般的な農家の形式を伝える建物であり、当時の庶民の暮らしを伝える貴重な建築である。この価値が認められ、国の重要文化財にも指定されている。

調べたところによれば、17世紀後半の多摩丘陵の集落は、谷底の低い平地(谷戸田)を見下ろす斜面の際に点在していた。そのため平地が少なく、この時期の民家の規模は比較的小さく、屋根も極めて単純な寄棟造の茅葺屋根であった。間取りは、土間の横に板敷きの「ヒロマ」、奥に寝室の「ナンド」のみという素朴な構造が多く見られたが、旧永井家住宅では「ヒロマ」「デエ(出居)」「ヘヤ(部屋)」という間取りを持っていた。丘陵の斜面から吹き降ろす冬の寒風を防ぐため、窓は最小限で壁が多く、薄暗い、文字通り「寒さをしのぐ」ための閉鎖的な空間であった。ヒロマやナンドの床には竹簀子(たけすのこ)が敷かれ、土間には藁を敷く形態が残っていたという。

現在の旧永井家住宅も、斜面の山際に佇むかのように建てられている。かつてはこのような景色をあちらこちらで見かけることができた。非常に懐かしい気分にさせられる。

旧永井家住宅の平面図は次の通りである。中心にあるのが家族の生活空間である「ヒロマ」。右側が台所兼作業場の「土間(平面図ではダイドコロとなっている)」、右下が客室の「デエ(出居)」、右上が寝室の「ヘヤ(部屋)」という配置だ。


(図:旧永井家住宅平面図(出典:東京都重宝旧永井家住宅・旧荻野家住宅修理報告書))

正面(南側)に近づくと、採光のための開口部が極めて限定されていることが分かる。土間の入口、ヒロマの格子窓、デエへの出入り口しかない。

ヒロマの格子窓は「ヒヒマド」とも呼ばれるが、この頃はまだ障子が使われていない。そのため雨戸だけであり、閉めてしまうと室内は真っ暗になる。柱の下を見ると石が置かれており、石場建てであることが分かる。この時期の農家住宅としては比較的新しい構法である。この地域で石場建て住宅が見られるようになるのは17世紀後半以降で、名主層や比較的豊かな農家を中心に普及し始めた。背景には、明暦の大火(1657年)後の木材事情の変化や建築技術の進歩、石の形に合わせて柱を加工する技術の発達、さらに家族構成や生活様式の変化に伴って、より耐久性の高い住宅が求められるようになったことなど、複数の要因があったと考えられている。

側面(東側)は土壁で塗り固められ、地面に近い部分には石が埋め込まれている。これも当時の民家の特徴の一つである。この時代の土壁は、竹小舞を粗く編んだ簡素な下地に、粘土質の原土へ藁スサを混ぜた荒壁土を押し付けて作られた。

裏面(北側)も開口部が少ない。茅葺屋根が竹で支えられている様子がよく分かる。この地域の茅葺屋根は、木の梁の上に丸竹・割竹を格子状に組む「竹組」が特徴で、藁縄で強く締めて下地を形成した。茅は厚く葺き、外側から細竹で押さえて縫うように固定する。竹材が豊富な地域性を反映し、軽量で強度の高い屋根構造が江戸前期の農家で広く用いられた。

側面(西側)には、土間を広くするための張り出し部分が設けられている。右側の写真は4年前のもので、屋根の頂に後で述べる芝棟が乗っているのが分かる。

実際に中へ入ると、外から見た以上に室内は暗い。現代の住宅に慣れた目には閉鎖的に感じるが、冬の寒風を防ぐには合理的だったのだろう。

ヒロマには竹簀子が張られ、囲炉裏が掘られている。現在のような板張りの床はまだ一般的ではなく、厚みや幅の揃った床板は非常に高価で、一般農家が室内一面に敷き詰めることは容易ではなかった。その理由の一つは、丸太を縦に挽いて板を作る大型の鋸(大鋸〈おが〉)が全国の農村へ普及するのが江戸時代中期以降だったためである。それ以前は、丸太に楔(くさび)を打ち込んで引き割り、「釿(ちょうな)」や「槍鉋(やりがんな)」で削って板を仕上げていたため、多くの手間と時間を要した。一方、竹は関東の農村周辺で容易に入手でき、加工もしやすかったことから、少ない労力で床材として利用できる竹簀子が一般農家には適していた。

土間は、地面を掘り下げて赤土に消石灰や「にがり(苦汁)」を混ぜた土を入れ、道具や足で踏み固める「三和土(たたき)」という工法で作られた。水をまいては叩く作業を繰り返すことで、非常に硬く、水にも強い床に仕上げられている。

「デエ(出居)」は客室として用いられた。この頃の農家にとって木材は貴重であったが、家の中で最も格式の高い空間であるデエにだけ板を張り、村役人や名主などの名誉ある来客を迎える場として整えられていたと考えられる。

ヘヤは現在は物置として使われているが、当時は寝室であった。ここも竹簀子で、当時の寝心地がどうだったのかと想像が膨らむ。

屋根裏の柱を見ると、曲がりくねった材木を巧みに使っていることが分かる。左下の二枚の写真は、土間を広くするために「四方下屋造(しほうげやづくり)」という工法が用いられている例である。四方下屋造は、主屋の周囲四方に下屋をめぐらせた伝統的民家形式で、平面・構造・生活動線の合理性から武蔵国南部など東日本の農家で広く見られる形式である。写真では、主屋を支える柱を伸ばすと青色の部分となるが、そこには柱を入れず、半間ほど脇にずらして支持することで空間を広く確保している。

「芝棟(しばむね)」は寄棟造の屋根の最も高い部分に設置され、雨水の侵入を防ぎ、棟を保護する役割を持つ。現在は安全のため屋根から降ろされ、地面に置かれて展示されていた。芝棟にはイチハツとイワヒバが植えられている。イチハツはアヤメ科の植物で乾燥に強く、初夏には紫色の花を咲かせる。イワヒバはシダ植物で、屋根上の厳しい環境にも耐えて根を張る強さを持つ。

桶の後ろにある少し凹んだ板面は「押板(おしいた)」と呼ばれ、部屋を飾るために設けられたとされる。押板は床の間の原型の一つと考えられている。

旧永井家住宅は薬師池公園の中にあるため、周囲の豊かな自然も同時に楽しむことができる。この時期は特に蓮の花が見頃で、この日も大賀ハスのピンク色の大輪を愛でることができた。

さらに、旧永井家住宅に向かう小径に沿って季節の花々を楽しむこともできる。この日はヤマユリとオニユリが美しく咲き誇っていた。

歩き疲れたので薬師池公園で休息をとり、あわせて歴史ある野津田薬師堂も見学した。

いつもは漫然と見ていた古民家であったが、今回はあらかじめ専門家の話を聞いたうえで見学したため、当時の農家の高い建築技術や、その背景にある時代との繋がりを深く理解する有意義な機会となった。

聞けば、この旧永井家住宅は移築前には「田の字型(四間取り)」の間取りになっていたという。当初の「広間型(三間取り)」から生活の変化に合わせて改修されたものであり、一つの建物の中でさえ、時間の流れに伴う暮らしの変化を読み取ることができる。

川崎市の日本民家園にも、同時代の多摩丘陵の民家が保存されている。今度はそれらと見比べながら、この地域の農家建築の知恵とその背景について、さらに探求を深めてみたい。

ディートンの「大脱走」を読む──独立宣言250年とアメリカの理念と現実

7月4日はアメリカにとって特別な日であり、イギリスからの独立を祝う記念日である。今年は独立宣言公布から250周年という節目の年でもある。しかし、この日を迎えるアメリカ人の表情には、必ずしも晴れやかな喜びが満ちているようには見えない。独立宣言が掲げた理想と現実との隔たりを、多くの人々が改めて意識せざるを得ない時代になったように思われる。

独立宣言の前文は、「すべての人は生まれながらに平等であり、生命・自由・幸福追求という奪うことのできない権利を与えられている」と高らかに謳い上げる。これはアメリカのみならず、人類普遍の理想ともいえる高邁な理念である。しかし今日のアメリカでは、拡大する経済格差によって、この平等の理念が十分に実現されているとは言い難い。さらに深刻化する社会的分断は、人々が生命・自由・幸福追求の権利を等しく享受できる社会への信頼を揺るがしているようにも見える。

こうした閉塞感が広がる現在から振り返ると、わずか12年ほど前の空気はずいぶん異なっていた。2014年当時、アメリカでは、2009年に「Yes, We Can」を掲げて誕生したオバマ政権のもとで、未来への期待がなお残されていた。その頃に出版されたアンガス・ディートン著『大脱走』も、世界が依然として大きな格差を抱えながらも、人類全体としてはかつてない繁栄を実現しつつあるという前向きな見方を示していた。

人類は誕生以来、そのほとんどの期間を貧困と困窮の中で過ごし、明日への希望すら抱くことが難しい生活を送ってきた。しかし、約250年前に始まった産業革命以降、寿命は延び、生活水準は向上し、多くの先進国では一般の人々でさえ、かつての王侯貴族にも及ばなかった豊かな暮らしを享受できるようになった。ディートンは、世界にはなお貧困から抜け出せない人々が存在するものの、人類全体としては「貧困と困窮からの大脱走」を成し遂げつつあると論じていた。

この書名は、60年前の映画『大脱走』に由来する。ドイツ軍の捕虜となった連合軍兵士たちが大規模な脱出計画を立て、収容所から76名が脱出を試みたものの、多くは再逮捕され、50名が処刑されるという悲劇に終わる。史実に基づくこの映画は、過酷な状況に置かれながらも自由を求めて行動する人間の果敢さと緻密さを描き出している。そしてディートンは、自由のない収容所を貧困に見立て、人類がそこから脱出しようとする営みを重ね合わせて論じている。

独立宣言の中で掲げられた自然権は、生命・自由・幸福追求である。ディートンも『大脱走』の中で、これらの権利がどの程度、そしてどのような形で達成されてきたのかを論じている。まず生命から始めることにしよう。この権利がどれほど守られているかを測る指標はいくつか考えられるが、ディートンは平均余命を中心に議論を展開している。誕生時の平均余命は、250年前までは30〜40年程度にすぎなかったが、今日の先進国の多くでは80年を超えている。

産業革命が最初に起きたイングランドとウェールズのゼロ歳児の平均余命の推移を見ると、第一次世界大戦期の死亡率の急上昇によって1918年に大きく落ち込んでいるものの、この時期を除けば、1850年の約40年から2000年の約80年へと、ほぼ一貫して上昇している。ところが、同時期の15歳からの平均余命を見ると興味深い現象がみられる。1850年から1920年頃まで、15歳の平均余命はゼロ歳児のそれとほとんど変わらない。すなわち、1850年当時、ゼロ歳児の平均寿命は約40年であったのに対し、15歳まで生き延びれば、その後さらに同じ約40年間生きることが期待できた。しかし1920年を過ぎる頃からは、ゼロ歳児も15歳児もそのあと同じ年限を生きられるという状況が変わる。2000年には幼児死亡率が劇的に低下したため、ゼロ歳児も、15歳まで生存した人も、等しく80歳前後まで生きられるようになる。

この変化は何を示しているのだろうか。1920年頃までは、15歳まで生き延びること自体が難しく、幼少期の死亡率が極めて高かったことを意味する。それが2000年頃には、幼児期に死亡することがほとんどなくなったことを示している。水道・下水道の整備による衛生環境の改善、細菌感染症への医療技術の進歩などが、幼児死亡率を劇的に低下させた結果と考えられている。

ディートンの著作では日本の状況は扱われていないため、厚生省の完全生命表を参照すると、次のような傾向が確認できる。平均余命が顕著に改善するのは第二次世界大戦後であり、1891年から1936年にかけてのゼロ歳児の平均余命は、男性で42〜43年、女性で40〜42年にとどまっていた。また、20歳時点の平均余命も、男性が39〜41年、女性が40〜42年であった。この時期、20歳まで生きた人の平均死亡年齢はおよそ60歳である。これらの数値から、日本では幼児期死亡率の低下がイングランドよりも遅れて進行したことが読み取れる。

日本の場合、江戸末期の都市では、し尿やごみを資源として再利用する循環型の仕組みが発達し、廃棄物の処理という点では当時のロンドンやパリより整った面があったとされる。一方、明治初期には急速な都市化の影響もあり、衛生環境が一時的に悪化した側面もあった。

イギリスと日本という二つの例を挙げたが、いわゆる先進国はイギリスに少し遅れる形で幼児死亡率の低下が進み、それに伴って平均余命が改善した。開発途上国や後進国では、第二次世界大戦後しばらく時間を置いてから平均余命の改善がみられるようになった。しかしディートンは、経済成長と命を救うこととの間には直接的な因果関係はほとんど存在しないと指摘する。それよりも、衛生や医療を改善し、それを持続的に維持するための制度こそが決定的に重要だと述べている。

この視点に立てば、江戸の都市で循環型の衛生システムが機能していたことも、制度的な要因から理解することができる。共同体による清掃や廃棄物の再利用の仕組みが整っていたことが衛生環境を支えていたのであり、経済的な豊かさそのものが衛生をもたらしたわけではないという点で、ディートンの議論と通じるものがある。

ディートンの本で次に扱われる話題は「お金」である。所得そのものは独立宣言で掲げられた「自由」と同義ではない。しかし、自由を実際に行使するためには一定の経済的基盤が不可欠である。その意味で、所得は自由を支える重要な条件の一つと考えることができる。

ディートンはアメリカの事例を用いて議論を展開する。国民の富を測る代表的な指標は一人当たりGDPである。その推移を見ると、1929年には8,000ドルを超えていたが、1933年の世界大恐慌期には5,695ドルまで落ち込んだ。しかし、2012年には43,238ドルに達し、1929年の水準を5倍以上上回った(なお、各年の数値は2005年ドルに調整した実質値である)。世界大恐慌期を例外とすれば、一人当たりGDPは長期的に増加してきたと言える。

貧困率の推移も興味深い。1959年には、全人口の22%、黒人の55%、65歳以上の35%が貧困状態にあったが、2011年にはそれぞれ15%、28%、9%となった。全人口の貧困率は1973年に11%まで低下し、その後は増減を繰り返している。また高齢者の貧困率は、高齢者向け社会保障制度の整備によって1970年代に急激に低下し、現在まで低水準を維持している。これらの統計から、アフリカ系アメリカ人とヒスパニック系アメリカ人の貧困率が依然として高く、高齢者の貧困率が最も低いことが分かる。

貧困の基準は国や組織によって異なるが、一般には「人並みに生活できない状態」とされる。先に示した数値もこの基準に沿ったものである。しかしディートンは、アメリカのような社会では、社会参加に必要な財源が不足していること、家族や子どもが隣人や友人に囲まれて「人並みの生活」を営めない状態こそ貧困とみなすべきだと主張する。この観点に立てば、貧困率は先の数値よりもはるかに高くなると考えられる。

年代別の貧困率を詳しく見ると、20世紀前半の後期から低下し始めた貧困率は、21世紀を迎える前頃から、65歳以上を除いて再び増加傾向にある。この傾向は、所得格差が拡大していることを示唆する。特に所得上位層の総所得に占める割合を見ると、世界大恐慌直前には上位1%が24%を占めていた。それが第二次世界大戦後から1980年代のレーガン政権下の税制改革までの期間には10%前後にまで低下した。しかしその後は急上昇し、リーマンショック前には23%に達した。リーマンショック時に一時的に低下したものの、現在は再び23%に戻り、高水準を維持している。

ここまではアメリカにおける貧困と格差を見てきたが、では世界全体はどのような状況にあるのだろうか。中国とインドという巨大な人口大国が、20世紀後半以降に急成長したことで、一人当たり国民所得の平均が大幅に上昇し、両国の国民の多くが貧困層から脱却した。これにより、世界全体で見ると、数十億もの人々がこの時代に豊かさを手にし、ディートンが本の表題に掲げた「貧困からの大脱出」を成し遂げたと言える。

一方で、開発から取り残されたサハラ以南のアフリカ諸国の多くは、依然として深刻な貧困状態にとどまった。その結果、世界全体では貧困人口が大きく減少した一方で、地域間の経済格差は依然として大きな課題として残されることになった。

ところで、ディートンは格差の発生そのものについて、必ずしも悲観的な見方をしていない。イノベーションは社会を変革する力を持つ。そしてイノベーションを起こした者は、その成果から得られる収益によって莫大な利益を手にし、一時的に格差は拡大する。しかし、こうした新しい技術や手法が社会に広く浸透するにつれて、より大きな集団がその恩恵を受けるようになり、社会全体が豊かになるとともに格差は縮小していく。

ディートンは、このプロセスが産業革命以後の世界で繰り返し観察されてきたと述べる。すなわち、イノベーションが格差を一時的に拡大させるが、やがてその果実が広く共有されることで社会全体の生活水準が上昇し、格差は再び縮小する。この循環こそが近代以降の経済発展の特徴であるというのが、ディートンの基本的な見立てである。

ここまで物質的な豊かさの拡大について論じてきたが、それでは精神的な充足も同時に達成されたのだろうか。アメリカ独立宣言では、幸福の追求が自然権の一つとして掲げられている。しかし「幸福」という概念は、時代や文化によって意味が大きく異なる厄介な語である。独立宣言における幸福も、今日一般的にイメージされる「快い感情」や「一時的な喜び」とは異なり、「自由な環境の中で、自らの意志と責任に基づき、徳を高めながら意味ある人生を追求すること」を指していた。すなわち、単なる一時的な喜びではなく、「人間としての尊厳を伴う生き方そのもの」を意味していたのである。

ディートンが『大脱走』で用いる「幸福」も、この概念に近い。原書では well-being という語が使われている。これはWHOの健康の定義にも用いられる概念であり、「身体的・精神的・社会的に良好で満たされた状態」を意味する。感情的で瞬間的な「happiness」とは異なり、持続的・長期的な満足や充実を表す概念である。今日のウェルビーイングの概念に近い側面を持っていると考えることができる。

ウェルビーイングのうち、身体的・社会的側面については、平均余命、一人当たりGDP、貧困率などが、その一端を示す指標として用いられる。それでは、精神的側面が良好であるかどうかは、どのように評価すればよいのだろうか。質的な側面を測定することには困難が伴うが、一つの方法はアンケート調査である。生活に満足しているか、人生に充足感を感じるか、この一週間でストレスを感じたかなどを問う設問を作成し、その回答を分析することになる。しかし、質問項目の設計や評価方法には慎重な検討が必要であり、容易ではない。

それでも、幸福感には長期的・持続的なものと、瞬間的・感情的なものがあるという区別は可能である。本書では前者を「満足度」、後者を「幸福度」と呼んでいる。満足度は「人生をどれほど満足と感じるか」を10点法で評価し、幸福度は「昨日ストレスや不安を感じたかどうか」で測定する方法が採られている。後者は他の要因との因果関係が捉えにくいのに対し、前者には収入との間に相関関係がみられると説明されている。

本書に掲載された図は細かく見づらいが、世界銀行のデータを用いた人生満足度と所得水準の散布図を参照すると、ディートンの説明と一致する傾向が確認できる。すなわち、高所得国(先進国)の人生満足度は高く、低所得国(貧困国)は低い。また、中南米諸国は概して満足度が高い一方で、東アジア諸国は低い傾向がみられる。さらに、図中の矢印は満足度の変化方向を示しており、いずれも右上を指していることから、収入の増加とともに満足度が上昇していることが分かる。

図1:人生満足度の国際比較

この本が出版された2013年当時には、人類の進歩に対する楽観的な見方がなお成り立っていた。しかし、その後の世界は『大脱走』で描かれたような楽観的な方向へは必ずしも進まなかった。格差は縮小に向かうどころか、むしろ拡大し、社会は深刻な分断へと向かっていく。そして7年後、ディートンは『絶望死のアメリカ』を上梓することになる。

彼はそこで、学位をほとんど持たない中年の白人層の間で、自殺だけでなく、薬物の過剰摂取やアルコール性肝疾患による死亡が急増していることを明らかにした。これらは単なる個人の問題ではなく、医療や教育をはじめとする社会制度の歪みがもたらした構造的な危機であると分析し、その是正を強く求めている。

こうした近年の暗い影を知るにつけ、私がかつて留学していた1970年代初頭の頃に肌で感じた「アメリカの希望」の記憶が鮮烈によみがえる。当時、同国では公民権運動が盛んで、社会を改善するためのさまざまな制度が実施されていた。同じ研究科にいたアフリカ系アメリカ人の友人も、公民権運動の成果によって広がった教育機会や社会的な機会の恩恵を受けた一人である。なかでも彼にとって最大の恩恵は、長く抱いていた夢が実現したことであった。

ある日、テニスをしていると、彼が突然コートに駆け込んできて、「白人の女性と結婚することになったよ」と満面の笑みで告げた。「え、誰と」と聞き返すと、「研究科の事務室の女性だよ」と答えた。そのときの彼の嬉しそうな表情は、今でも忘れることができない。当時のアメリカでは、異人種間結婚は法的には認められていたものの、社会的にはまだ珍しく、偏見も残っていた。だからこそ、彼にとってそれは単なる結婚ではなく、人種による壁を越えて一人の人間として認められたという深い喜びでもあったのだろう。このとき、アメリカは確かに夢をかなえることができる国なのだと、強く実感した。

しかし、分断が進み、建国250周年を素直に祝えない現在の姿を見ると、深い懸念を覚えざるを得ない。それでもアメリカという国家は、歴史的に卓越した復元力を示してきた。独立宣言が掲げた理念は、単なる歴史的文言ではなく、制度を通じて不断に更新され続けるべき規範的課題である。アメリカが再びウェルビーイング(幸福)を実現しうる社会を築き上げることは、自由と尊厳を求める世界の人々にとっても大きな意味を持つ──今日、建国250周年祝賀のテレビニュースを眺めながら、そう強く感じた。