bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

早春の四国・中国旅行-寺院巡り・倉敷の神社(阿智神社・本栄寺)

四国・中国旅行の最終日は一人旅となり、かねてから訪れたいと思っていた倉敷の町に赴いた。前日までは案内してくれる友達に伴われての見学だったので、効率的に要所を見ることができたが、この日は足の赴くままである。とりあえずの目標を決めて、山陽本線を利用して岡山駅から倉敷駅に向かった。

倉敷駅の案内板で美観地区を見つけたので、そこを目指して歩くことにした。親切なことに全ての角で美観地区への道が示されていた。時たまどちらの道に行っても良いと案内されている。この旅行中に仲間内で話題になったbifurcation(分岐)である。もっとも仲間との会話では、人生の分岐というもっと重い話だったのだが、このような些細な分岐でもどちらを選択したら良いか迷う。それぞれの道にどのような差異があるのかわからないので、運を天に任せるしかない。

いい加減な選択をしながら歩いていると、阿智神社という目印を見つけた。ちっぽけなbifurcationだが、どうしようかと迷った。博物館の開館時間までまだ間があるので寄ってみることにしたものの、少し急な細い道が続き、行けども行けどもそれらしきものが見えてこない。引き返したほうが良いのかと悩みながらも、せっかくここまで来たのだからと登り続ける。道案内もなかなか現れずどこかで間違えたかと思った矢先、やっと阿智神社の方向を示す標識が現れた。丘の頂上にたどり着いたようだと思った時、神門が現れた。

阿智神社は鶴形山の上にあり眺めがよい。雨のためくすんではいるが、倉敷の美観地区を目の当たりにすることができた。

阿智神社のそばには鶴形山公園が隣接していて、季節ごとにきれいに花が咲くそうだが、今年は桜の開花が遅れていたので、残念だった。

日本書紀』「応神天皇二十(二九一)年九月条」に「倭漢直の祖阿知使主、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率いて、来帰けり」とある。阿知使主(あちのおみ)の一族が渡来した事が記されており、この一族の一部がこの周辺に定住した事が「阿知」の地名の発祥となったそうだ。また神社名の由来であるとも伝えられている。

この周辺は古くは阿知潟と呼ばれる浅い海域であったが、高梁川の沖積作用による堆積が進み、天正12年(1584)には宇喜多秀家が新田開発をおこない、それ以降広く開拓された。江戸時代の寛永19年(1642)に幕府直轄地となった後、物資輸送の一大集散地として、また周辺新田地帯の中心地として繁栄した。江戸時代は神仏混淆で妙見宮と称していたが、明治2年(1869)に神仏分離令により阿智神社となった。倉敷中心街の鎮守神として篤く崇敬を集めている。

神門の階段を登り拝殿に行った。主祭神は「宗像三女神」で、航海の安全や水難から守ってくれる神様である。

阿智神社から美観地区に下っていく途中に、鶴形山の鐘楼がある。江戸時代に村の時刻を知らせる鐘として造られた。その当時の鐘は倉敷・新田の白入庵に寄付されたと伝えられている。明治38年に現在の位置に建物と鐘を大原幸四郎が寄付した。鐘は戦争中に回収され、戦後になって大原総一郎が新たに寄付したとのことである。

さらに下ると観龍寺がある。平安時代の寛和元年(985)に倉敷市北部の西岡の地で創建され、室町時代に現在地に移転された。
本堂(左)と大師堂(右)。本堂は寛延2年(1749)に再建され、大師堂は享和年間(1801〜1804年)に建てられた。

鐘楼。左後方に見えるのは鶴形山の鐘楼である。

足の赴くままに、倉敷・鶴形山の寺院を見学した。倉敷の町を守り続けた寺院にふさわしい建築で、雨の中ではあったが良い巡り会わせを体験できた。

これで寺院巡りは終了で、次回は民俗芸能巡りである。