bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

早春の四国・中国旅行-寺院巡り・吉備津神社(備中一宮)

吉備国と言われたときに真っ先に思い出すのはなんだろう。奈良時代の学者・政治家で遣唐使でもある吉備真備を浮かべる人は歴史に興味のある人だろう。奈良から平安時代にかけての貴族で、道鏡天皇になることを妨げた和気清麻呂を知っている人はさらに進んで歴史に詳しい人だろう。しかし歴史には関係なく、桃太郎の昔話を知っている人は多いだろう。お婆さんが川で洗濯しているときに桃が流れてきてそれを家に持ち帰ると、その中から桃太郎が生まれる。そして桃太郎は老夫婦に育てられる。成長した桃太郎は、きびだんごをもって鬼退治に出かける。途中で、犬・猿・キジに会い、きびだんごを与えて家来にし、鬼が島の鬼を見事に退治して、金銀財宝を持ち帰るという話である。この話の中に、きびだんごが出てくる。このきびは穀物の黍であるとともに、地名の吉備でもある。

ところで今回訪れた吉備津神社に伝わる神話に温羅退治がある。昔々吉備に温羅という鬼がいて、鬼城山を居城として村人を襲い、悪事を重ねていた。大和の王から温羅を退治するよう命じられた吉備津彦命は、吉備の中山に陣を構え、巨石の楯を築いて守りを固め、温羅も城から弓矢で迎え撃った。激しい戦いの末、傷を負った温羅は鯉に化けて逃走し、吉備津彦命は鵜に変身し、温羅を捕まえ退治したとのことである。

温羅退治の神話が桃太郎の昔話になったとのことである。このような伝説を持つ吉備津神社を尋ねた。ところで吉備津神社は3社ある。東から吉備津彦神社(岡山)、吉備津神社(岡山)、吉備津神社(広島)である。律令制が敷かれる前はこの辺は吉備国と呼ばれ、その総鎮守は吉備津神社であった。しかし律令制とともに吉備国は、備前、備中、備後の3国に分かれた。もともとあった吉備津神社は、備中国の一宮となり、備前、備後には分霊が祀られてそれぞれの一宮となり、吉備津彦神社と吉備津神社になったとされている。

友人に車で案内されて岡山県側の吉備津神社吉備津彦神社を参拝した。最初は備中一宮の吉備津神社である。
拝殿から本殿を見る。朱のところが本殿である。

本殿(左)と拝殿(右)。二つの建物はつながっているように見える。拝殿の中心の身舎(もや)は立ちが高く、屋根(右側上部)は檜皮葺で本殿の屋根(左側上部)に突き刺さるようにして一体化している。身舎の周りは裳階で囲われ、その屋根(左側下部)は本瓦葺で、本殿からは分離している。このため拝殿と本殿は、下部では独立した別々の建築である。

吉備津神社本殿。吉備津造り(比翼入母屋造り)という珍しい建築様式で、国宝に指定されている。

廻廊。全長400mある。

犬養毅像。五・一五事件で凶弾に倒れた総理大臣・犬養毅は、岡山の出身で、吉備津神社に縁のある家系とされている。遠祖犬飼健命(たけるのみこと)は、主祭神吉備津彦命の随神とされている。桃太郎の昔話に出てくる犬と想像を膨らませることもできるが、果たしてどうであろう。

そして備前一宮の吉備津彦神社を訪れた。夏至の日には朝日が鳥居の正面から昇ることから朝日の宮とも呼ばれているそうだ。
吉備津彦神社拝殿。

拝殿内部。

本殿は見損なった。現存の本殿は、寛文8年(1668)に岡山藩主の池田光政が造営に着手し、子の綱政が元禄10年(1697)に完成させた。流麗な三間社流造りの神殿で、飛鳥時代の社殿建築の粋がつくされ、吉備国の神社建築が伝統とする流造りの正統な姿を示しているそうだ。吉備津彦神社の境内ガイドに紹介されている。

今回見学した二つの神社を誕生させた吉備国は、大和国出雲国と並んで、古代には大勢力を有していたと考えられ、古墳を始めとする古代の遺物に優れたものがある。機会があれば、次はこれらを見学したいと思っている。