bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

デヴィッド・グレーバー&デヴィッド・ウェングロフ著『万物の黎明』を読む

早朝に目覚めてふとスマホの画面に目をやると、BBCのBreaking NewsでJoeが大統領選から離脱すると報じていた。13日にはDonaldに対する銃撃事件があり、短い期間に、世界の方向を変えかねない大きな事件が続いた。このような事件があるたびに、政治・経済・社会の流れがいかに偶発的な事件に大きく左右されるかを知らされ、歴史を体系立ててとらえることの難しさを感じる。

そのような状況を反映しているわけではないだろうが、近年はユヴァル・ノア・ハラリの『ホモサピエンス』に代表されるような「ビッグ・ヒストリー」が立て続けに出版され、衆目を集めている。こうした中にあって、それらはすべて神話であると切り捨てたデヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロフの『万物の黎明』の本が話題を呼んでいる。啓蒙主義時代の思想家のジャン・ジャック・ルソーとトマス・ホッブスは、狩猟採集民を未開の無垢の人あるいは野蛮な人と見立てて、そこから近代国家に至るまでの発展を説明している。しかし、両デヴィッドは、狩猟採集民が決して無垢でもなく、野蛮でもなく、住みやすい社会を作るために様々な実験をしてきたとしている。決して、彼らの能力は我々に劣るものでもなく、さらには、女性の能力が生き生きと活用されていた時代でもあったとする。

啓蒙主義に影響を及ぼしたのは、コンキスタドール(アメリカ大陸征服者、侵略者)がアメリカ人(先住民)との出会いである。コンキスタドールらはアメリカ大陸で彼らの文化とは全く異なる文化に接する。未開の人あるいは野蛮人と思っていた人たちが、政治的に訓練され、ディベートに優れた人であったことに驚かされる。例として、ウェンダット(北アメリカ北東部)の哲学者で政治家であるカンディアロンクとフランスの貧しい貴族ラオンタンとの対話が紹介されている。カンディアロンクは、当時のヨーロッパの人々を見て自由がなく、お金にとらわれていると非難する。確かな証拠はないのだが、ルソーらは、カンディアロンクたちのこのような話を当時はやりのサロンで聞いて、啓蒙主義を思いついたのではないかと筆者は見ている。さらに、彼らから教わったとは言いたくないので、彼らを未開人と貶めて、粗野だからこそ自由であったと話をすり替えていると見ている。そして、このすり替えが現在まで正当な考え方とされているのは間違っていると異議を申し立てている。

現在の歴史の考え方の多くは進化論に従っている。そこでは、人類は、最初は狩猟採集の生活をしており、その社会は自由で平等であった(あるいは粗野であるために喧嘩が絶えなかった)。そのような生活をする中で、動物の家畜化や植物の栽培化が始まり、牧畜や農業へと進み、定住生活を始める。このような生活が始まると余剰物資が生じるようになり、生産に携わらない人々を社会で支えられるようになる。このような人々がその社会の指導者あるいは支配者となり、土地や物資の私有化が始まり、世の中に身分差や貧富の差が生まれてくる。そして、王や貴族あるいは官僚が生まれて社会は複雑化し、最終的に国民国家が生まれるとなっている。このような考え方を示したのはエルマン・サービスで、社会はバンド・部族・首長制・国家へと進化論的に発展するとした。

筆者の両デヴィッドは考古学上の証拠を示しながら、進化論的な見方が誤りであることを指摘する。それらを見ていくことにしよう。

最初は、狩猟採集民たちの社会は決してバンドと呼ばれる単純なものではなかったとする。その例を、北アメリカの「ポヴァティ・ポイント」、スウェーデンフィンランドに挟まれたボスニア湾の「巨人の教会」などに見ることができる。日本では三内丸山遺跡がそれにあたる。

次は格差を誘因する所有に関するものである。所有という考え方が起きるのは、これまでは農耕が始まってからとされているが、そうではないだろうと主張する。狩猟採集民もすでに祭祀を行っていた。祭祀が行われる場所は、神聖なところであり、特別な人しか許されない不可侵な場所とされていた。所有権もこれと似ていて、例えば所用地には無断で入ることはできないので、やはり不可侵の場所である。祭祀が転じると所有になるので、所有という考え方は人類の始まりとともにあるのではないかと筆者は考えている。ただし、両者で異なるところもある。ローマ法の所有の概念は、①使用する権利、②所有物の産物を享受する権利、③損害を与えたり破壊したりする権利である。ローマ法での③は所有物に対しては暴力的でケアをほとんど含んでいない。これに対して、狩猟採集の人々は土地や資源には精霊が宿ると考えていたので、大切な場所としてケアが求められた。この違いは、奴隷の扱いでわかるように、大きな差となって表れてくる場合がある。

さらに次は国家の成立に関するものである。国家は農業が始まり社会が複雑化した後で生まれるとされている。国家を定義することは難しいので、筆者らは社会的支配の三原則を定義した。それらは、①暴力の統制(国家による暴力の独占)、②情報の統制(関係者だけが知り得るようにすること)、③個人のカリスマ性(誰もが納得できる人)である。そして、近代国家はこの三原則を満足し、それぞれは①主権、②官僚制、③競合的政治フィールド(民主主義)として実現されている。従来、国家の成立は、①の成立、続いて①と②の成立、そして①と②と③の成立というように、進化論で説明できると考えられていた。しかし、決してそうでないことを考古学的な証拠によって示している。新石器時代を観察すると、三原則の一つだけを満たしている社会(第一次レジーム)もあるし、二つだけを満たしている社会(第二次レジーム)もある。①の王権だけを有した社会(図でナチェズとシルック族)は、王が権力を使えるのは彼の視界の中に限られるので国家とは呼べない。①と②二つの原則を満たしているエジプトやインカは、国家形成の例として利用される場合が多い。これは、強力な王権としっかりとした行政組織を有していたためである。しかし、二つの原則を満たしたものの中で、王権と行政によるものはエジプトとインカだけで、他はそうではない。このため、エジプトとインカは例外と見るべきで、国家形成の道筋を示すものではない。

第一レジームから第二レジームへの進み方でさえ多様なので進化論が成り立つとは考えにくいが、アメリカ大陸での次の例は、狩猟採集と農耕が行きつ戻りつしながら、色々な社会的支配の形態を実験していることがわかる。

ところで、社会的支配と自由とは背反する性質を持っている。カンディアロンクは自由を次のように定義している。①移動する自由、②命令に従わない自由、③社会的関係を再編成する自由である。自由を確保した社会的組織を作ることは、難しい作業であるため、新石器時代の人々は、様々な組織を作っては壊し、さらにまた新たに作るという実験を繰り返した。

最後は女性の能力に関するものである。農耕、牧畜、土器、織物、食物の保存や調理などの知識は、レヴィ=ストロースが『野生の思考』で指摘している「具体の科学(感覚的な経験や具体的な事例を大切にし、それを理論的な枠組みと結びつけて考えること)」によるものであるが、残念なことに、レヴィ=ストロースはこれが女性の能力によることを指摘しなかったと筆者は嘆いている。女性たちによる織物・土器・工芸・かご造りなどの活動を通しての創意工夫は、数学的・幾何学的知識などの発展に寄与したと筆者は指摘している。この本では紹介されていなかったが、縄文時代の土器や土偶を見れば、女性たちの知識がいかに高かったか理解できる。

デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロフのこの本での取り組みは、①人類を、その発端から、想像力に富み、知的で、遊び心のある生き物として扱ってみること、②人類が平等な牧歌的状態からいかにして転落したかではなく、なぜみずからを再創造する可能性を想像することさえできないほどギチギチの思考の束縛に囚われてしまったのか、なぜ「閉塞」してしまったのか、と問いを転換させることであった。残念ながら、デヴィッド・グレーバーは原稿を書き終えた3週間後に生涯を閉じてしまった。彼に質問を投げかけることはできなくなってしまったことは残念なことである。しかし、彼が残した問「なぜ閉塞してしまったのか?」を考え続けていくことが大切である。「ビッグヒストリー」に見られるような人類の歴史を進化論的観点から見るのではなく、その枠組みを外して考えてみてはどうだろうか。