ある人に勧められて『第二のオスマン帝国──近世政治進化論』を読んだ。オスマン帝国については、高校の世界史で学んだ記憶があるものの、知識としてはほとんど残っていない。本を読み返すことは滅多にしないのだが、今回は見慣れないカタカナの用語や馴染みのない人名がなかなか覚えられず、ページを行きつ戻りつしながら、悪戦苦闘して読んだ。
そんな折、ふとした会話の中で「いまオスマン帝国の本を読んでいる」と話したところ、「『オスマン帝国外伝』をネット配信で楽しんだよ」という人がいた。驚いたことに、そのドラマは全312話もあるそうで、しかもすべて観たというのだから感心してしまった。
これは『オスマン帝国外伝』の宣伝用ポスターである。

中央に描かれている男性は、このドラマの主人公である第10代皇帝スレイマン1世。その右隣には、のちに皇妃となるヒュッレム、さらにその右には寵妃マヒデブランが並ぶ。スレイマンの左側には母后ハフサ・アイシュ、その隣の男性は、現在は小姓頭だが、のちに大宰相となるイブラヒムである。そしてその左には、皇女ハティジェが控えており、彼女の母もまたハフサである。
これらの人物たちは、スレイマン1世の治世を彩り、時代を動かしていくことになる。私にとっては驚きだったが、この時代を生きた人々にとっては常識だったのだろう。側室のヒュッレムも、役人のイブラヒムも、いずれも奴隷出身であるという事実が、この時代を物語っている。
スレイマン1世は、いわゆる「第二のオスマン帝国」へと進化する以前の、古典的帝国としての最盛期を象徴する存在である。まずは、その時代背景を見ておこう。スレイマン1世(1494~1566年)が活躍した時期は、日本で言えば戦国時代にあたり、戦乱が続いたという点で両国には共通点があると言える。同時代の日本の武将と比較すると、スレイマンは武田信玄より27歳年上であり、東アジアとの貿易や文化交流に積極的だった大内義隆よりも13歳年上である。
スレイマン1世は26歳で皇帝の座に就いた。彼はバグダード遠征によってサファヴィー朝から南イラクを奪取し、さらに海軍力を駆使して北アフリカへの支配を拡大した。それだけにとどまらず、中央ヨーロッパにも進出し、ハンガリーを征服、1529年にはウィーンを包囲してヨーロッパ諸国に大きな脅威を与えた。さらに1538年のプレヴェザの海戦では、スペインとヴェネツィアの連合艦隊を打ち破り、地中海の制海権を手中に収めた。黒海もまた、この頃には事実上オスマン帝国の内海と化していた。次の写真はスレイマン1世である(出典:ウィキペディア)。

スレイマン1世が登場する以前、オスマン帝国の領土は次のような拡張の歴史をたどってきた。
11世紀初頭のアナトリアは、ギリシャ系やアルメニア系の人々が農耕を営み、キリスト教が支配的な地域であった。この地にトルコ系遊牧民が流入しはじめたのも同じく11世紀初めとされる。
1071年、セルジューク朝がマルズギルトの戦いでビザンツ帝国を破ると、トルコ系民族の進出は一気に加速し、13世紀前半にはルーム・セルジューク朝がアナトリア全体を支配下に置いた。しかし13世紀中葉、モンゴル軍に敗れてルーム・セルジューク朝は衰退し、その後のアナトリアは、複数のトルコ系小国家が並立する群雄割拠の時代へと移行していった。
オスマン帝国の創設者とされるオスマンは、当時アナトリアに無数に存在していた無頼集団の一つのリーダーだったとされる。彼は1299年ごろ、ビザンツ帝国の衰退に乗じて勢力を築き、帝国の礎を築いた。彼の息子オルハン1世は1326年、ブルサを攻略してそれをオスマン政権(当時は侯国)の最初の首都と定め、国家の体制づくりを本格化させていった。
1396年、バヤジット1世はニコポリスの戦いでバルカン諸国に加え、フランス・ドイツの連合軍を撃破した。しかしその後、1402年には東方から進撃してきたティムール軍にアンカラの戦いで大敗を喫し、帝国は一時的に弱体化する。その後、国力を回復させたメフメト2世は、1453年にコンスタンティノープルを攻略し、長く存続していたビザンツ帝国をついに滅ぼした。この都市はオスマン帝国の新たな首都とされ、やがて「イスタンブール」という呼称が広まっていく。
一方、セリム1世はサファヴィー朝の脅威に対抗し、イラン方面へと遠征。これを制したのち、さらにシリアへと軍を進め、1517年にはマムルーク朝を打ち破ってエジプトを併合した。こうしてオスマン帝国は、アナトリアから中東、北アフリカにいたる広大な領域を支配下に収めていく。これに続いたのがスレイマン1世である。
これは、オスマン帝国がどのように領土を拡大してきたかを示すものである(図の出典は:Encypropedia Britanica)。

それでは、スレイマン1世の時代におけるオスマン帝国の社会構造を見ていこう。この時代の社会は、制度的枠組みによって二重の構造を成しており、支配階層であるアスケリー(士分)と、被支配階層であるレアーヤー(群民)とに大別されていた。
アスケリーとは、国家に奉仕する身分の者たちであり、軍人(イェニチェリや騎兵)、官僚(宰相や州総督)、さらにはウラマーと呼ばれるイスラム法学者(カーディー、ムフティーなど)などが含まれていた。彼らは納税義務を免除され、一般の法廷では裁かれないといった特権を有していた。
一方、レアーヤーは国家に税を納める一般民衆であり、農民、職人、遊牧民、そして商人などがこれに含まれた。宗教の別を問わず、ムスリム・非ムスリムを問わず、すべてのレアーヤーには納税と国家への従属が義務づけられていた。彼らは人口の大多数を占め、帝国の経済的基盤を支える存在であった。
軍事力は主に騎兵(スィパーヒー)と常備歩兵(イェニチェリ)によって支えられていたが、それぞれの役割や背景は大きく異なり、帝国の軍事制度の二本柱を成していた。
スィパーヒーは、「ティマール制」と呼ばれる土地制度に基づいて徴税権を与えられた地方騎士であり、多くはトルコ系ムスリムの自由民で、地方に居住していた。彼らは国家から委託されたティマール(土地)からの収益を生活の糧とし、平時にはその土地の統治と農民の監督にあたり、戦時には自らの従者を率いて軽装の騎兵として出陣した。弓や槍を用いた機動性の高い戦法を得意とし、戦場で重要な役割を担っていた。
この制度は、鎌倉時代の御家人による「御恩と奉公」の関係と類似している面もあるが、決定的な違いとして、スィパーヒーには土地の所有権や相続権は認められていなかった点が挙げられる。あくまで国家から一時的に徴税権を与えられた存在であり、土地を私有することはできなかった。
イェニチェリは、デヴシルメ制度によって徴用されたバルカン半島出身のキリスト教徒の少年たちをイスラム教に改宗させ、厳格な訓練と教育を経て編成された、スルタン直属の精鋭歩兵部隊であった。構成員の多くは異教徒出身の改宗ムスリムであり、忠誠心と規律がとくに重視された。彼らは当時としては非常に近代的な軍備を整え、火器(とくにマスケット銃)を装備した常備歩兵として軍の中核を担った。イスタンブールの兵営に常駐し、妻帯は原則として禁止されていた(のちに一部緩和)。その代わり、高い俸給と免税などの特権が与えられていた。
また、前述のように徴用された少年たちは改宗後、厳格な教育を受け、特に優秀な者はイスタンブールのエンデルン(宮廷学校)に進み、行政・法制度・言語・礼儀作法といった幅広い分野を修めた。その後は「カプクル(皇帝の奴隷)」として、書記官(カーティブ)や財務官(デフテルダール)、地方総督(ベイレルベイ)といった要職に就くことが可能であり、最終的には大宰相(ヴェジール=アーザム)にまで昇進する者も現れた。
ところで、スレイマン1世の時代は、軍事技術の大きな転換点でもあった。イェニチェリは比較的早い段階から火器を導入し、16世紀にはマスケット銃を装備した近代的な常備歩兵部隊として本格的に整備されていた。この時代には火器の重要性が一層高まり、それに伴ってイェニチェリの規模と軍事的役割も拡大していった。彼らは首都イスタンブールのみならず、帝国各地に駐屯し、軍の中核を担う存在となった。一方、ティマール制に基づいて地方に配置されていた騎兵(スィパーヒー)は、次第に時代遅れの戦力と見なされるようになり、その軍事的地位は徐々に低下していった。
このような歩兵主体への軍制転換は、実は日本の戦国時代にも見られる。たとえば、1575年の長篠の戦いでは、織田信長の鉄砲隊が武田軍の騎馬隊を打ち破ったことで、日本でも騎馬戦から鉄砲を用いた歩兵戦術への移行が決定づけられた。スレイマン1世の時代に起きた変化も、まさにこれと同様の軍事的転換であったと言える。
イェニチェリの重用は、オスマン帝国の軍事・政治・社会構造に大きな変化をもたらした。スレイマン1世の時代の帝国は、「カプクル(皇帝の奴隷)」制度に象徴されるように、領土や人民がスルタンの私的所有とみなされ、国家の統治権と君主の所有権が分離されない家産制国家として構築されていた。
しかし、イェニチェリの台頭により、ティマール制に基づいて組織されていた封建的な騎兵(スィパーヒー)の役割は次第に縮小し、代わって火器を装備する常備歩兵(イェニチェリ)が中心となる中央集権的な常備軍体制へと移行していった。さらに、イェニチェリは次第にスルタン直属の軍人という立場を離れ、独立した政治勢力としての性格を強めていく。すなわち、当初はスルタンに絶対的忠誠を誓う「国家の息子たち」であったものの、17世紀以降には世襲化と妻帯化が進行し、軍紀は大きく緩んだ。彼らは都市のギルドや商業活動にも関与し、次第に経済的利権を保有する既得権益層へと変質した。その結果、宰相の更迭やスルタンの廃位にまで関与するなど、政治への介入が常態化するようになった。このような変質と制度疲労の過程を詳細に描き出しているのが、冒頭で挙げた『第二のオスマン帝国──近世政治進化論』である。
この本は、オスマン2世の廃帝で始まる。オスマン2世(在位1618–1622年)は、オスマン帝国の第16代スルタンであり、若干14歳で即位した改革志向の君主であった。しかしその理想と行動は、最終的に彼自身の命を奪うことになった。彼は軍の規律の乱れや既得権益層の腐敗に強い危機感を抱き、特に強大な影響力を持っていた近衛歩兵団「イェニチェリ」の改革を試みた。彼は新たな軍団を創設し、イェニチェリに代わる軍事力を構築しようとしたのであるが、これが彼らの強い反発を招いた。1622年、オスマン2世はメッカ巡礼を名目にシリアへ向かう計画を立てたが、これは実際には新軍団創設のための布石だったと見なされた。イェニチェリたちはこれに危機感を抱き、反乱を起こした。彼らはオスマン2世を捕らえ、「七塔の砦(イェディ・クレ)」に幽閉し、最終的には絞殺したとされている。オスマン2世はオスマン帝国史上、反乱によって殺害された最初のスルタンであり、享年わずか17歳であった。
20世紀の歴史学においては、オスマン2世の絞殺をオスマン帝国衰退の始まりとする見解が主流であった。しかし、本書の著者デズジャンはこれを、民主化の萌芽が見え始めた「プロト民主化」の時代と位置づけている。たとえば、イギリスでは1649年に清教徒革命によってチャールズ1世が処刑され、1688年には名誉革命によりジェームズ2世が退位に追い込まれた。同様の動きはオスマン帝国にも見られ、1648年にはイブラヒム1世*1が暗殺され、1687年にはメフメト4世*2が退位させられている。これらの出来事は、絶対君主制に対して制限を加えようとする中間層の出現、すなわち制限君主制を求める動きの表れと捉えることができる。
こうした変化は複数の制度改革に表れている。それまで帝位の継承時には、皇位継承権をめぐる内紛を避けるために「兄弟殺し」が慣例とされていたが、この時代には最年長者が即位する「年長制」へと移行した。これは、皇帝を神輿のように象徴的存在と見なし、人物にこだわらない傾向が背景にあったと考えられる。また、政治体制も皇帝と側近奴隷による中央集権から、大宰相を中心とする官僚機構へとシフトしていった。加えて、後述するように、有力家系による権力の分有も見られるようになった。
この時代において顕著であったのは、中間エリート層の台頭である。デヴシルメ制度の廃止に伴い、父親の身分を子が継承できるようになったことで、支配階級の特権を活用して経済的成功を収めたイェニチェリは、自らの家系の再生産を可能とした。このような背景の下、従来の階層構造の隙間を埋める形で、中小ブルジョアジーが新興社会層として台頭したのである。
ティマール制がイリティザーム(徴税請負制)へと移行したことは、オスマン帝国における社会構造の重大な変容をもたらした。イルティザームとは、国家が税の徴収業務を民間人(徴税請負人)に委託する制度であり、16世紀末以降、急速に制度化・普及していった。その基本構造として、徴税請負人は一定期間の徴税権を競売により取得し、国家に対して所定の金額を前納する見返りに、徴収によって生じる利益を享受することが可能であった。
この制度の導入によって、国家は徴税業務の負担を軽減し、即時の財源確保が可能となる一方、請負人による過度の徴収が発生し、農民層への圧迫という負の側面も顕在化した。1695年には、マリクハーネ(終身徴税請負制)が導入され、徴税権の終身化および実質的な世襲化が進められ、徴税権の地方固定化が一層強化されるに至った。
こうした制度的変化は、地方における有力者層、すなわちアヤーン(地方名士)の台頭を促す要因となった。彼らは当初、徴税請負人の下請けとして徴税業務に携わっていたが、次第に地方行政や軍事動員の分野にも関与し、実質的な影響力を及ぼすようになっていった。アヤーンの職能は、徴税にとどまらず、治安の維持や軍事力の動員など多岐にわたり、中央政府と地方社会をつなぐ媒介的存在として、帝国統治の一端を担うに至った。
アヤーンは、フランスにおける法服貴族、イギリスのジェントリー、あるいは日本の村における庄屋といった社会的存在に通じる役割を果たしており、近世に共通する中間層の形成という観点からも注目に値する。
統一市場の形成、市場経済の拡大、さらには通貨の統一に伴う金融の発展といった経済的基盤の変化は、イェニチェリから成長した中小ブルジョアジー層をも巻き込みつつ、町人文化および伝統文化の形成を促した。この現象は、下級武士層を包含するかたちで町人文化が展開した江戸時代の状況と類似している。また、18世紀前半においては「チューリップ時代」*3と称される安定期が続いたこともあり、文化的繁栄が見られた点は、江戸後期の文政文化の隆盛と相応するものと考えられる。
しかし、近代化に向けた諸改革を着実に進めつつあったオスマン帝国にも、江戸時代の日本における黒船来航に類似するかたちで、産業革命を経たヨーロッパ諸国の圧力が押し寄せた。宗教的・文化的多様性を内包しつつ、ある種のグローバルな秩序を維持してきたオスマン帝国であったが、ヨーロッパ列強による経済的・軍事的浸透により、その独自性は徐々に侵食されていった。さらに、民族意識の高揚と国民国家形成の潮流が帝国内部にも波及し、各地で分離独立運動が起こったことによって、領土の縮小は不可避のものとなっていった(図の出典:ウィキペディア)。

約600年にわたり(日本の鎌倉時代から大正時代に相当)、一つの王朝として存続してきたオスマン帝国も、第一次世界大戦後の1922年にその幕を閉じた。同時期には、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国といった他の大帝国も相次いで崩壊している。これらの帝国はいずれも、多民族・多宗教を包含する旧来の帝国モデルであり、第一次世界大戦後に高まった民族自決の理念と国民国家形成の潮流の中で、歴史の表舞台から姿を消すこととなった。まさに、「帝国の終焉」と呼ぶにふさわしい時代であった。
以上が、『第二のオスマン帝国──近世政治進化論』を出発点として私が得た、オスマン帝国に関する主たる知見である。ただし、この一書のみでは把握しきれない論点や理解の空白も多く見受けられたため、宮下遼著『オスマン帝国全史 「崇高なる国家」の物語 1299-1922』、小笠原弘幸著『オスマン帝国──繁栄と衰亡の600年史』、および林佳世子著『興亡の世界史 オスマン帝国500年の平和』を併読し、理解の補完と視野の拡張に努めた。
本稿の最後に、オスマン帝国における社会構造の変化を視覚的に明示するため、二つの図を作成した。最初の図は、古典的なオスマン帝国の構造を示すものである。この時期の帝国は、スルタンを中心とする家産的統治構造のもと、明確な身分差と階層的秩序を特徴としていた。

図においては、支配層であるアスケリー(Askerî)と、被支配層であるレアーヤー(Reâyâ)をピラミッド構造の上層と下層に配置し、社会的ヒエラルキーの明確な区分を表現した。アスケリーの内部はさらに機能別に区分されており、左側には軍事および行政機構が位置づけられる。軍事部門は、常備騎兵であるスィパーヒー(Sipahi)と、常備歩兵であるイェニチェリ(Yeniçeri)から構成され、帝国の軍事的基盤を支えていた。これに対して右側には、司法を司るウラマー(‘Ulamā’)が位置しており、宗教的正統性と法の執行を担う重要な役割を果たしていた。
このように、古典的オスマン帝国における社会構造は、軍事・行政・司法という三位一体的な支配装置を軸としながら、宗教的秩序と階層的統制のもとに構築されていたことがわかる。
次に示す図は、王権が一定の制約を受けるようになった「第二のオスマン帝国」における社会構造を視覚化したものである。

中間層の登場により、王権は彼らからの政治的な働きかけを受けるようになり、両者の関係は上下の支配被支配という構図ではなく、相互に影響を及ぼし合う関係として捉えられる。そのため本図では、階層的なピラミッドではなく、同心円構造を用いて表現した。
中央には、行政および司法を担う王権が位置し、その外側に中間層を配している。中間層は、内側の王権と外側の一般庶民との間に介在し、王権に対して一定の制約を加える存在として機能している。最も外側の円は、町人・職人(ギルド)、農民、遊牧民などから構成される一般庶民を表している。
また、日本の中世から近世にかけての社会構造の変容についても、本図と同様の形式で表現することが可能である。地理的には遠く隔たっていた両国でありながら、近代化へと至る過程で、類似した中間層を媒介とする社会構造が形成されていたことを図式化によって把握できた点は、極めて示唆に富み、有意義な発見となった。
オスマン帝国の旧領のうち、これまでに訪れたのはセルビアのベオグラードのみである。今後機会があれば、イスタンブールをはじめとして、オスマン文化の面影を今に伝える静かな町々を訪ね、その歴史と暮らしの余韻に触れてみたいと願っている*4。
*1:オスマン帝国第18代スルタン・イブラヒム1世(在位:1640–1648年)はその奇行と専制的な振る舞いから「狂人スルタン(デリ・イブラヒム)」と呼ばれ、最終的に政変によって廃位・殺害された。イブラヒムの治世末期、彼はハレムの女性や宦官ら約280人を袋詰めにしてボスポラス海峡に投げ込むという残虐な行為を行い、宮廷内外の反感を一気に買った。さらに、近衛軍イェニチェリへの課税を試みた大宰相ヘザルパレ・アフメト・パシャに対してイェニチェリが反乱を起こし、ウラマー(宗教学者)や母后キョセム・スルタンまでもが反乱に同調した。その結果、イブラヒムは廃位され、幽閉ののちに絞殺された。彼の死は、オスマン帝国におけるスルタンの絶対的権威が揺らいでいる象徴的な事件とされている。
*2:メフメト4世(在位:1648–1687年)は、在位期間が約39年と長く、狩猟を好んだことから「アヴチ(狩人)・メフメト」とも呼ばれた。しかし晩年には国政への関心を失い、実権は大宰相や母后に委ねられた。退位の直接的な引き金となったのは、1683年の第二次ウィーン包囲の失敗と、それに続く「大トルコ戦争」での連敗である。この軍事的敗北により、帝国内では不満が高まり、イェニチェリを中心とする軍部が反乱を起こした。1687年、メフメト4世はイスタンブールでの暴動と軍の圧力に屈し、弟のスレイマン2世に帝位を譲って退位させられた。
*3:「チューリップ時代」(1703〜1730年、アフメト3世の治世)は、オスマン帝国における平和と繁栄を背景に、華やかな宮廷文化と都市文化が花開いた時期として知られています。以下にその文化的特徴を整理してご紹介する。①美と洗練を追求した耽美主義的文化:この時代は、花鳥・美酒・歌舞音曲といった感覚的な享楽が上流階級の間で重視され、耽美主義的なライフスタイルが広まった。チューリップは単なる観賞用植物ではなく、富と教養の象徴として扱われ、宴席や庭園、衣装、陶磁器などに頻繁に登場した。②ヨーロッパ文化の受容と融合:特にフランス文化の影響が顕著で、建築や装飾芸術においてはロココ様式が取り入れられた。イスタンブールのサーダバード離宮はその代表例で、西洋趣味とオスマン的装飾が融合した空間として知られている。③園芸と細密画の発展:チューリップの品種改良や栽培技術が高度化し、園芸文化が洗練された。また、細密画家レヴニーのような芸術家が活躍し、チューリップをモチーフとした絵画や装飾芸術が数多く制作された。④都市文化と祝祭の活況:イスタンブールを中心に、祝祭や夜会、詩の朗読会などが盛んに行われ、都市住民の間でも文化的活動が活発化した。チューリップはこうした場でも装飾や贈答品として重要な役割を果たした。
*4:Copilotからのお勧めの場所は、サフランボル(Safranbolu)。この町は、オスマン時代の木造建築と町並みがよく保存されており、ユネスコ世界遺産にも登録されている。観光地化されすぎていない落ち着いた雰囲気の中で、当時の生活文化を体感できるとのことである。