久しぶりに、小金井公園の中にある江戸東京たてもの園を訪ねた。現役の頃、この近くに職場があり、小金井公園はよく足を運んだ場所である。仕事の合間にテニスを楽しんだこともあれば、天気の良い昼休みには同僚と散歩をした。とりわけ桜の季節は格別で、吉野桜の並木を歩き、大木の大島桜を愛でた思い出が鮮やかに残っている。たてもの園にも数度入ったことがあったが、記憶は断片的なままだった。
退職してから十年が経ち、懐かしさが募ってきたこともあり、昨年知り合った新しい仲間とともに、改めて江戸東京たてもの園を訪れることにした。
江戸東京たてもの園は、江戸東京博物館の開館と同じ1993年(平成5年)に開園した施設である。都市の更新の陰で姿を消しつつあった建物を、まとめて体感できる場所でもある。この地にあった武蔵野郷土館を継承し、郷土館で展示されていた光華殿、鍵屋、吉野家住宅などを含め、文化的価値は高いが、現地での保存が難しくなった建造物を、移築・復元して公開している。江戸時代から昭和初期までの約30棟の建物が集められ、往時の暮らしや街並みを今に伝えている。
この園の入口にはビジネスセンターがある。この建物もやはり歴史的な建造物で、1940年(昭和15年)に皇居前広場で行われた紀元2600年記念式典のために建設された式殿である。1942年(昭和17年)に小金井大緑地(現在の小金井公園)に移築され、光華殿と命名された。

江戸東京たてもの園を有名にしたのは、なんといってもスタジオジブリの『千と千尋の神隠し』である。映画制作の際、参考にされた場所でもある。特に「武居三省堂」や「子宝湯」などが作中のモデル地として知られ、ジブリファンにとっては映画の世界観を体験できる重要な参照点となっている。
江戸東京たてもの園は「西」「センター」「東」の三つのゾーンに分かれているが、ジブリ作品に関連する建物が集まっているのは東ゾーンである。
その東ゾーンに向かうと、まず都電が目に入る。その左側に1928年(昭和3年)に建てられた村上静華堂が現れる。昭和前期には化粧品クリームや椿油、香水などを製造し、卸売や販売を行っていた店である。

正面には人造石洗い出しでイオニア式の柱を表現するなど、当時としては非常にモダンな造りとなっている。

さらに進むと「下町中通」に入る。レトロな建物が並ぶ通りの一番奥にあるのが「子宝湯」である。『千と千尋の神隠し』では油屋のモデルの一つとされる銭湯で、内部も当時の雰囲気がよく残されている。

銭湯の中。内部も当時の雰囲気がよく残されている。

「子宝湯」の左隣には、1856年(安政3年)に建てられたと伝わる「鍵屋」がある。台東区下谷・言問通りにあった居酒屋で、震災・戦災を免れた貴重な建物だ。1970年(昭和45年)頃の姿に復元されており、『千と千尋の神隠し』では千尋の両親が豚になった居酒屋「かえる屋」のモデルとして知られている。

続いて右側の並びを見ていく。「子宝湯」に近いところには「萬徳旅館」がある。青梅街道沿いにあった旅館で、江戸末期から明治初期に建てられたとされ、現在の建物は1950年(昭和25年)頃の姿を復元したものだ。

その右隣が「武居三省堂」である。明治初期に神田須田町で創業した文具店で、震災後に建てられた看板建築の一つ。茶色のタイル張りの外観と、途中で勾配が変わるギャンブレル屋根が特徴的だ。

店内には200本近い筆を収める桐箱が整然と並び、この空間はジブリ作品では釜爺のボイラー室のモデルとして使われた。

さらに右隣には1927年(昭和2年)建築の「花市生花店」がある。全面を立て板状にし、銅板を張って防火対策を施した建物で、1991年(平成3年)まで営業していた。

通りを進むにつれて、昭和初期の商店街が一気に立ち上がってくるようだ。その横には昭和初期に建てられた荒物屋「丸二商店」が続く。小さな銅板片を組み合わせて模様を作り出した外観が特徴で、昭和10年代の姿を再現している。

左側の並びに移ると、奥には1933年(昭和8年)建築の「小寺醤油店」がある。港区白金で味噌・醤油・酒類を扱っていた店で、庇の下の腕木とその上の桁が特徴的だ。

一軒飛ばした左側には「大和屋本店」がある。港区白金台にあった乾物屋で、1928年(昭和3年)の創建当初の姿を復元している。木造3階建てで、軒下の腕木や出桁構造を持つ一方、間口に比して背が高く、2階のバルコニーや窓下に銅板を用いるなど、看板建築の特徴も備えたユニークな建物である。

その左隣には昭和初期に建てられた植村邸が続く。全体が銅板で覆われ、関東大震災後に多く建てられた看板建築の特徴をよく示している。2階には和風の高欄が取り付けられ、和洋折衷の趣を見せている。左右を見比べながら歩くと、同じ看板建築でも表情の違いがよく分かる。

続いて中央ゾーンへ向かう。ここには「旧自証院霊屋(おたまや)」がある。尾張藩主・徳川光友の正室である千代姫が、母・お振の方(三代将軍徳川家光の側室)を供養するために建立した霊廟である。

次に現れるのが、「高橋是清亭」である。港区赤坂に1902年(明治35年)に建てられた建物で、明治から昭和初期にかけて国政を担った高橋是清の住まいの母屋部分にあたる。総栂普請で造られ、食堂の床は寄木張り、2階は是清の書斎や寝室として使われた。1936年(昭和11年)の2・26事件の現場としても知られる。静かな住宅の佇まいからは、当時の緊張感は想像しがたい。

最後に西ゾーンを歩く。まず目に入るのは「前川國男邸」である。1942年(昭和17年)、品川区上大崎に建てられた住宅で、前川國男建築事務所による設計。戦時下で資材の入手が難しい時期に竣工した建物で、外観は切妻屋根の和風、内部は吹き抜けの居間を中心に寝室・書斎を配したシンプルな構成となっている。前川國男(1905〜1986)は東京文化会館(1961)、東京都美術館など公共建築を多く手がけ、日本の近代建築の発展に大きく寄与した。

「小出邸」は1925年(大正14年)に建てられた住宅で、日本のモダニズム運動を主導した建築家・堀口捨己が、ヨーロッパ視察から帰国した直後に設計したものだ。オランダで流行したデザインと日本の伝統的な造形を巧みに折衷している。

「三井八郎右衞門邸」は1952年(昭和27年)、港区西麻布に建てられた邸宅である。客室と食堂部分は1897年(明治30年)頃に京都で建てられた建物を移築したもので、戦後に現在の地へ移された。

なお、東京都指定文化財には「旧自証院霊屋」「前川國男邸」「小出邸」「三井八郎右衞門邸」の四件が指定されている。
見学時間は二時間ほどで、すべての建物を見ることはできなかった。それでも、かつての断片的な記憶が目の前の建物と少しずつ結びつき、途切れていた映像が連続した時間の流れとして立ち上がってくる、その過程を味わうことができた。
現役の頃は、日本の歴史について十分な知識を持たないまま見学していたため、どうしても「何となく眺める」にとどまっていたように思う。しかし退職後にあらためて学び直したことで、それぞれの建物の細部や背景にも目が向き、楽しみの幅が確実に広がったことを実感した。
同じ場所を再び訪れることは、過去の記憶を編み直す行為でもある。学び直すことで風景の見え方が変わり、時間の経過が新しい意味を与えてくれる。今回の訪問は、これからも視点を更新し続けることの大切さを思い起こさせる機会となった。