bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

仲正晶樹著『悪と全体主義』を読む

この本はハンナ・アーレント(Hannah Arendt)さんの代表作『全体主義の起源』とニューヨーカー誌に発表した『エルサレムアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』を紹介したもので、著者(紹介者)は仲正晶樹さんである。アーレントは、ドイツ・ケーニヒスベルクの古い家柄の出で、ドイツ系ユダヤ人である。生誕地はリンデン(ハノーファー郊外)。マールブルク大学で学び、マルティン・ハイデッガーに会っている。そしてフライブルク大学でエトムント・フッサールに学び、ハイデルベルク大学で、カール・ヤスパースの指導をうけ、『アウグスティヌスの愛の概念』で博士号を取得した。ナチス政権がユダヤ人の迫害を始めたころ、フランスに亡命(1933年)。1940年にフランスがドイツに降伏すると、アメリカに亡命(1941年)。バークレー、シカゴ、プリンストン、コロンビア各大学の助教授・教授などを歴任。1951年に『全体主義の起源』を著し、1963年に『エルサレムアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』を発表。1975年に自宅で死去した。

アーレントは、全体主義*1について、ソ連邦でのボリシェヴィズム運動や中国・毛沢東の「百花斉放」についても説明しているが、この本では主にドイツのナチズムについて言及し、19世紀の西洋社会に広がった「反ユダヤ主義」を中心に説明している。シェイクスピアの『ベニスの商人』にみられるように、異教徒や異質な人間に対する漫然とした憎悪は中世から存在していたが、19世紀に起きた反ユダヤ主義は、それ以前の漫然とした嫌悪とは異なり、国家の構造やイデオロギーと密接に結びついたものであることを示し、条件が整えばどこででも生じるとしている。それでは順を追って説明して行こう。

アーレントは、ナポレオン戦争(1803-15年)が全体主義の起源になったとしている。この戦争は、西洋が絶対君主制から「国民国家」へと移行する時期に起きた。ナポレオン戦争の当初の目的はフランス革命を他国の反革命勢力の干渉から守るためであったが、次第にヨーロッパ制圧の侵略戦争へと性格を変えていった。侵攻された国々では、これをきっかけとして、「国民」の連帯や統一された国民国家(nation state)が必要であるという意識が一気に高まった。例えば、ドイツでは、哲学者フィヒテによって、「ドイツ国民に告ぐ」という講演がなされた。この時生まれた国民国家というイデオロギーは、文化的アイデンティティの共有を含意していた。

国民国家は、統治機構としての国家の境界線と国民(文化的アイデンティティが同じ人々)が居住する地域が、一致しているかどうかによって、その生まれやすさが異なる。両者がかなり一致していたイギリス・フランスは、国民国家に早い時期に移行したのに対し、そうでなかったドイツ・ロシア・東欧は遅れた。例えばドイツ人の居住地は、数十の連邦国家に分かれ、その中でオーストリア(神聖ローマ帝国皇帝のハプスブルグ家)と新興の軍事国家プロイセンが有力国家であったが、いずれも領土内にスラブ系やハンガリー系などの異なった民族を抱えていた。

国民国家は、外部の敵から国を守るために、国の内部では人々の一体感・連帯感を強めようとする。このため国の内部では異質なものを排除する傾向にある。異質な集団では、排除を避けるために、同化しようとするものも現れる。しかし全てが同化を望むわけではなく、一部はその文化を維持しようと努め、異質なものとしてあり続ける。国家が困難な局面を迎えた時、その原因を究明しようとする。国家の中で異質なグループの人々が、国家の中枢にある程度の割合を占めているとき、例えば経済的に大きな力を発揮しているときや、大学などのアカデミックな世界でかなりの数の人たちが活躍しているとき、たとえその人々が同化していたとしても、社会の中枢を握り乗っ取ろうとしているのではないかと疑われ、でっち上げられた陰謀論までもが現れることがある。

この本には次のような例が挙げられている。1880年に発生したフランスのパナマ運河疑獄では、パナマ運河建設を主導した民間会社の社債を、国債であるかのように見せかけて購入させられた。民間会社が破綻したとき、それが大臣や議員に賄賂が渡されたことに起因しているにもかかわらず、会社の財務担当をしたユダヤ人二人の所為であったと報じられると、市民の間で反ユダヤ感情に火がついた。また1894年には、フランス軍ユダヤ系将校ドレフェスがドイツ帝国のためにスパイ活動をしたとでっち上げられる事件が生じ、潔白が示されたにもかかわらず、ユダヤ人であるがために嫌疑がなかなか晴れることはなかった。これらはユダヤ人に対する差別の根深さを示す一例である。さらに1903年にはロシアの新聞に「シオンの賢者たちの議定書」が掲載され、そこには、シオンの賢者と呼ばれるユダヤ人たちが企てた世界征服・世界支配の計画書が書かれていた。もちろん捏造である。

国民国家としての政治統一を遂げた西洋諸国では、資本主義が定着し始め、工業製品の原材料や市場などを求めて、アフリカ・アジア・隣接地域へと進出し始める。この時、文化的アイデンティティが同じである人々の集まりを前提としていた国民国家が足かせとなる。国民国家という考え方を貫くのであれば、すなわち文化的アイデンティティの一致を貫こうとすると、進出先の人々を制圧し、同化するしかない。失敗すればナポレオン戦争の時と同じように、進出先の人々が反抗して自身の国民国家を築くことになる。

複数の政治単位を統治して広域的支配を行うことを帝国という。資本主義の発達によって、西洋諸国はアフリカやアジアの地域を自身の統治体制の中に組み込んで、国民国家から帝国へと脱皮しようとした。帝国の古い例はローマ帝国である。ローマ帝国においては、万人に等しく適応される法に基づいての統治が行われた。そして被支配地の人々でも、一定の基準を満たすという条件はあったものの、(文化的アイデンティティが異なっていたとしても)市民として認められた。

ところが19世紀に西洋諸国が目指した帝国は、国民国家をベースとしたため、文化的アイデンティティが同じであることを要求した。これは古代の帝国の在り方とは矛盾していた。この矛盾を解決するために新たに利用された考え方は、人種、社会進化論、優性思想である。この当時、西洋人が見たアフリカやアジアの人々は、身体的にも文化的にもあまりにも異質であった。また彼らに先だってこの地に住み着いた西洋の人々は、彼らを隷属させ特権的な立場に立っていることが多かった。そこで彼らは人種という概念を導き出し、人種間には進化論的な差があると見做すようになった。そして白人が非白人よりも、植民地がそうなったように、優位な立場に立つのが必然であるとした。

遅れて国民国家となったロシアやドイツでは、海外の地はほとんどが占有されていたために、隣接する地域に進出先を求めた。侵攻の理由に使われたのは、同じ民族(同じ血が流れている人々)の救済である。同じ民族に属す人々が、他の地で迫害されている、あるいは、かつての居住を回復するなどの恣意的な理由で侵攻した。国民国家は同一の文化的アイデンティティを求めたため、自ずとこれを満たす地域には限界があったのに対し、民族が同じであるという定義は曖昧でいくらでも拡張できる。このため含まれる地域に限りがないことになる。特にドイツとロシアに挟まれた地域は、ゲルマン系とスラブ系が入り混じって居住していたために、激しく奪い合う地となった。イギリス・フランスのようにアフリカ・アジアに進出したものを海外帝国主義と呼び、これに対してロシア・ドイツのように隣接地(特に東側)に領域を広げようとしたのを大陸帝国主義という。海外帝国主義での人種の優位性は、大陸帝国主義では民族の優位性へとすり替わった。これにより次の全体主義への入り口が開かれた。

ドイツとロシアの争いは、第一次世界大戦(1914-18年)さらにはロシア革命(1917年)を引き起こす。これにより、それぞれの文化的アイデンティティに含まれない人々は、国を持たない人々、即ち無国籍者として吐き出された。無国籍者は、法で保護されないため、人間としての最低限の人権さえも与えられない立場に置かれた。今日でも難民問題は解決されていない大きな課題であるが、この時初めてそれまでの法や理性では解決できな新たな問題が発生した。

第一次世界大戦後の経済状態は劣悪で、特に多大な賠償を課せられたドイツは困窮の極みにあった。この困難から逃れるために、虚構の世界観が、人種主義・進化論・優性思想を利用して構築された。それは次のようなものである。本来自分たちは優れた国民である。それにも関わらす、他の民族が企てている世界制覇によって犠牲にされている。この民族を倒し、彼らの地位に取って代わることで、本来自分たちに定められている運命を享受できるようになる。このようなもっともらしい物語である。安定した平和なときであれば、そこに潜んでいる虚偽性を冷静に見抜けるのだろうが、経済が破綻したアナーキーな状態では、現実から逃避し、もっともそうな夢を信じ、それを擁護する行動をとりがちである。

ドイツでは、ユダヤ人たちがターゲットにされた。この当時のドイツ政界ではユダヤ人の政治家が大臣になるなどして活躍していた。このことがドイツを乗っ取るたくらみではないかと疑われ、経済・学術の分野でのユダヤ人の進出で裏打ちされ、最後には確信へと変わっていった。そして彼らを排除しようという運動が生じ、政府がこれを巧妙に利用・主導した。基本的人権さえ有しない無国籍者の出現が、ユダヤ人たちからもそれらを奪うことに躊躇させなくなり、最悪の殲滅へと向かう運動「ユダヤ人問題の最終解決」に変質した。

ドイツが敗れた後では、全体主義の首謀者たちは極悪非道の悪人として裁かれた。アウシュビッツ強制収容所への大量輸送に関わったアイヒマンが、逃亡先のアルゼンチンで捕えられ、イスラエルで裁判に掛けられた。アーレントは裁判を傍聴し、アイヒマンについての記事を書いた。そこには、極悪非道と見られていたアイヒマンは普通の人で、ナチスから受ける恐怖心からこのような行為に及んだだけだと書かれていた。この記事はユダヤの人たちからは非難轟々で、彼女は多くの友達を失った。しかし強い恐怖心を感じている時は、人は残忍な行為に及ぶものだという心理実験が、スタンレー・ミルグラムによってなされ、彼女の正しさが証明された。

それでは普通の人たちが、なぜ全体主義へと向かったのであろうか。この本から、その説明の部分を抜き出すと、「アーレントは政治の(理想とする)本質は、物質的な利害関係の調整や妥協形成ではなく、自立した人間同士が言葉を介して向かい合い、一緒に多元的なパースペクティヴ(見方)を獲得することとしている。異なった意見をもつ他者と対話することがなく、常に同じ角度から世界を見ることを強いられている人は、次第に人間らしさを失っていくとも述べている。ナチス全体主義支配下に置かれ、言葉によって人々が結びつく「政治的領域(公的領域)」が崩壊した状態で生き続ける人たちは、プロパガンダの分かりやすい言葉に反応し、他者とのつながりを回復しようとするが、それは動物の群れを同一の方向に引っ張って行こうとする合図の叫び声のようなものだ」である。

アーレントは、全体主義に陥らないようにするためには、各人が多元的なパースペクティヴを獲得することだと言っている。これは、言葉を介して異なる意見を述べ合い、それぞれの考え方を尊重するということになる。今日のように世界が二極化すると、それぞれの立場を理解することは困難になり、お互いに非難し合うことになるが、言葉を通して相互に理解し合うための努力が必要であると、アーレントは言っている。現在の世界情勢を見るとき、アーレントの言葉をもう一度思い出してみることが大切だろう。

*1:ブリタニカ国際大百科事典によれば、個人の利益よりも全体の利益が優先し,全体に尽すことによってのみ個人の利益が増進するという前提に基づいた政治体制で,一つのグループが絶対的な政治権力を全体,あるいは人民の名において独占するものをいう。