bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

丸橋充拓著『江南の発展』を読む

世界の中での日本のGDP比は、ピークであった1994年には17.9%を占めていた。それに対して中国は2.0%であった。しかしこの構図は今では完全に逆転し、2021年には日本は5.1%、中国は18.1%である。経済・軍事大国として勢いを増す中国から逃げようとしても、物理的に離れることはできない。ロシアがウクライナに侵攻して東と西の対立が鮮明になるにしたがって、政治的には水と油の関係にある二つの国が隣り合って共存する方法があるのだろうかと思いを巡らすことがこの頃は多い。

先日、コロナ後の時代がどのようになるのかが知りたくて、朝日地球会議2022の録画撮りを聴講した。パネリストは、与那覇潤さん(評論家)、市原麻衣子さん(一橋大教授)、吉岡桂子さん(朝日編集委員)、そしてコーディネーターは長野智子さん。何と男性は一人だけ、これまでとは全く異なる光景を体験することになった。パネル討論に先立って、ドイツの哲学者のマルクス・ガブリエルさんと、人口統計学者のエマニュエル・トッドさんのインタビューが紹介された。彼らの話の中で、「ロックダウンは最悪、あれほどの人権侵害はなかった」と言っていたことが印象に残った。個を中心に考える彼らにとって、自由ほど大切なものはないのだろう。個と個とのつながりを大切にする日本人は、迷惑をかけないようにと自己規制する。このためコロナへの対応では、西洋と日本では異なることが多かった。

コロナ禍の中で大きく進展したのはオンラインによるコミュニケーションだ。便利なだけでなく、その弊害にも多くの人は気がついているようで、SNSは好きな人とだけ、興味のあるテーマだけ、素晴らしいと思っているものだけにつながりやすいと指摘されている。嫌いなものは面倒くさいことなので選ばれない、排除されるなどの傾向がみられ、これが社会の分断を招くと危惧されている。

我々が住んでいるコミュニティーは、隣の人を選ぶことはできない。偶然隣り合った人と、好きであろうと嫌いであろうと、付き合わざるを得ない。これはコロナと似ている。世界に蔓延してしまったコロナは、絶滅することはかなわず、ずっと生存し続けていくことだろう。われわれはコロナに偶然に罹患してしまう危険性に常にさらされている。しかしこれから助けてくれるのは、人間が持つ免疫力と、ワクチン。与那覇さんは、好きな人とばかり付き合うようにするのではなく、強制的に嫌いな人とも付き合うような、デジタル社会にしてはと述べていた。このとき、コロナと同じように、嫌いな人と付き合うためには、対応力(免疫力)とリテラシー・知性(ワクチン)が必要であると主張された。

各種の世論調査によれば、中国に対して良い印象を抱いている人は少ない。しかし中国が隣国という地理的関係は変えることができない。与那覇さんの言を借りれば、嫌いな国と付き合うためには、対応力とリテラシー・知性が必要だ。そこで、中国のことをもう少し深く知ってみようと思い、中国社会の原形が造られた時代について論述した丸橋充拓さんの『江南の発展』をもう一度読み直してみた。

丸橋さんは、中国の北と西の地域を「馬の世界」、南と東の地域を「船の世界」と呼んでいる。その二つの世界の真ん中は、「中原」と呼ばれる地域で、古代に古典国制が育まれたところである。馬の世界は遊牧(もっと北に行くと狩猟採集)を、船の世界は農業(水田稲作)、中原は農業(畑作)を生業としている。馬の世界ではシルクロードを介して、船の世界では海洋交通を利用しての貿易が盛んである。政治は中原あるいは馬の世界で権力を握った人々が行うことが多かった。船の世界の人々は、その配下に置かれることが多く、不満が高じた場合には、たびたび、大きな乱を起こした。

中国社会は、縦糸と横糸が織りなしていると考えることができる。縦糸は「国つくりの論理」で、横糸は「人つながりの論理」である。「国づくりの論理」は、一国万民で、一人の皇帝と、たくさんの民の一人一人とが、垂直的・放射状に主従関係で結ばれる。民は平等でそれぞれの間に差はないものとされていた。しかし、一人の皇帝と、膨大な数の民を主従関係で結ぶことは事実上不可能なので、官僚を通して、民は統治された。古代国家では、郷里制のもとに、郷や里を単位にして家々がまとめられ(編戸(へんこ))、それぞれに責任者の長が置かれた。さらにそれらの上部組織として県や郡が置かれ、そこの責任者は、官僚と呼ばれる人々である。中国の官僚制は、古くは貴族が牛耳り貴族制の存続を担保してきた。ところが唐から宋の王朝に移行したとき、いわゆる「唐宋変革」が起き、門閥主義から賢才主義へと移行し、科挙試験に合格すればだれでも官僚(士大夫(したいふ))になれた(大変な受験勉強をしなければならないので、実際は裕福な家の子供に限られた)。なお科挙の制度は、隋の時代に始まったが、唐の時代までは貴族は科挙の試験を受けずに官僚になれた。

人々は皇帝との主従関係だけでは生きていけず、相互に助け合う仲間を必要とした。このため幇(ほう)というつながりが隠れて作られた。幇は助けることを意味する。編戸に属す人々たちは、郷党や宗族を形成した。また税や兵役などから逃れるために、編戸から逃げ出したアウトローは、任侠的に結合した秘密結社を作った。官僚たちも朋党を作った。これらの任意団体は皇帝の圧政に耐えられなくなったとき、乱の主体となる。

「国つくりの論理」と「人つながりの論理」が、中国の歴史を貫く社会構造である。それぞれの王朝はこの構造の一つ一つの事例と見なすことができる。現在の中国社会もこれに通じるところがある。

『江南の発展』には、春秋戦国の時代から宋の時代まで、「国つくりの論理」と「人つながりの論理」を対比して、「船の世界」が描かれている。例えば、唐の国が亡びるころの対比は次のようになっている。

開元の治(国づくりの論理):第6代皇帝玄宗の8世紀前半に、募兵制(民の生活負担軽減)、節度使(異民族対策で辺境に配備)、括戸(逃戸の再把握による租庸調制の取戻し)などの新たな政策を導入し、開元の治と呼ばれる政治の安定期を迎えた。また漕運(自然河川・人工運河・海上交通を使用して米・秣・絹・粟などといった物資を輸送する行為)の制度改革を行い、江南の富を大運河経由で長安に円滑に輸送出来るようにした(これまでは水運の便が悪かったため、副都洛陽にその位置を奪われそうになっていた)。しかし玄宗はその後半は楊貴妃を寵愛するようになり、別の意味で長安の春となった。

安禄山の乱(人つながりの論理):玄宗皇帝の晩年は国が乱れ、安禄山が三地域の節度使を兼ね、大きな軍事力を擁するようになった。また宗室の李林甫、外戚楊貴妃一族、宦官高力士など私的な寵愛勢力も力を持つようになった。そして安禄山が乱をおこし、それは平定されるが、節度使軍閥化(藩鎮)し任地の税制を私物化した。

元和中興(国づくりの論理):藩鎮を抑えるために、戦火が及ばず無傷であった江南経済の再建が講じられた。8世紀の後半に、専売塩の間接税(官用物資を大運河で輸送するコストの捻出)、両税法(資産に応じて課税)などが導入され、江南の生産物を安定的に北送することが可能になった。9世紀初頭には憲帝によって、反抗的な藩鎮を制圧し、節度使の軍事的・財政権を削減して、「元和中興」と呼ばれる治世を迎えた。しかし些細なことから宦官に恨まれ殺害された。

黄巣の乱(人つながりの論理):宦官たちの力が強くなることに対し士大夫たちは対抗しようとするが、牛李党争(牛僧儒派vs李徳裕派)に見られるような派閥間での足の引っ張り合いをおこした。他方、基層構造でも、本籍地から逸脱したアウトローたちは、藩鎮や塩の密売集団に吸収されて膨れ上がっていき、裘甫(きゅうほ)の乱、龐勛(ほうくん)の乱、そして黄巣の乱が生じた。

上記のように、「国づくりの論理」と「人つながりの論理」を織り交ぜての説明が、春秋・戦国から南宋の時代までなされている。紙幅との関係で詰めこまれすぎているため、一行一行の記述が重く、姿勢を正してしっかり読まないと方向を見失うという難儀はあるものの、中国社会の構造とその上に築かれた歴史がよくわかる良書だと感じた。特に海上帝国へと進んだ南宋の時代は、鎌倉時代に大きな影響を及ばしたので、ワクワクした気分で読むことができた。さらには、現在に至っても社会構造の骨格が維持されていることが分かり、なるほどと感じた。