bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

島田正郎著『契丹国』を読む

東京に出されている非常事態宣言は、大方の人が予想していた通り、ゴールデンウィークで終わるわけはなく、月末までの延長となった。さらなる延長がなければと願うばかりだが、イギリス株やら、さらに怖そうなインド株の広がりも予想され、予断を許さないようだ。

ゴールデンウィーク中の課題であった原稿の執筆作業は順調に進み、期限の月末までには何とか間に合いそうだ。久しぶりの英語での論文で思うようなスピードでは進まなかったが、翻訳関係のソフトが、かつてとは比べようがないほどに進歩していて助かった。

一つはDeepLである。これは翻訳ソフトだが、出来上がった英語の論文を、日本語に翻訳させることで、内容が正しく伝わるのかを調べるのに役立った。翻訳された日本語が怪しい時には、英語の方に表現上の問題があることを教えてくれた。表現を変えて、分かりやすい日本語が出てくるようにすると、大丈夫ということになる。逆に、日本語の文を入れると翻訳例がいくつか提示されるので、このような表現もあると知り活用できた。

さらに役立ったのがGrammarlyである。こちらは英文チェックソフトで、誤字・脱字は言うに及ばず、幼稚な表現かどうかまで指摘してくれる。言い換えは有料なので使わなかったが、指摘がなくなるまで書き換えて文章のブラッシュアップを図った。

このような生活を送る中で、大分古い本だが、島田正郎さんの『契丹国』を読んだ。1993年に初版本が発行され、2014年に新装版なって発売され、読んだのは2018年の電子版である。30年近く前に書かれた本で、著者も2009年に亡くなられている。80年代の後半ころに明治大学の総長をされていたのでご存知の方も多いだろう。私も名前は存じ上げていたが、専門については知らなかった。

高校時代の世界史では、契丹(キタイ)については建国者の「耶律阿保機」と講和条約の「澶淵の盟」ぐらいしか触れないので、それほど馴染みのある国ではない。しかし論文を書いているときに、モンゴルの軍事・行政組織である千人隊(ミンガン)が、契丹の影響を受けたものであるということを知って、興味をもって調べていたらこの本に出合った。

契丹という国が存在したのは、菅原道真大宰府で憤死したあとの頃から、後鳥羽上皇が鎌倉の北条氏に争いを仕掛けた承久の乱の前までの時期で、摂関期から院政期までの時代に当たる。始めの2/3強はモンゴル高原を中心とした遼の国として、終わりの1/3弱は中央アジアを根拠地として西遼の国として存在した。

それでは耶律阿保機が初代皇帝になったころの遊牧国家の様子を見てみよう(下図)。9世紀の半ばに、北アジアを支配してきたトルコ系ウイグル帝国が崩壊、中央アジアを抑えてきたチベット系の吐蕃帝国では内乱、さらには唐帝国も財政難で北アジアを抑え込めなくなったため、多くの遊牧民族が一斉に活動を開始した。モンゴル高原では勢力を伸ばしてきたモンゴル系のタタル人の攻勢によってトルコ系のキルギス人が力を失い、トルコ系民族活躍の時代の終わりを告げた。北モンゴリア東部のタタルからは黄頭室韋が嫩江(のんこう)流域に遊牧し、その南に面したシラ=ムレンの流域には契丹が、さらにその南のラオハ=ムレンの上流域に契丹と同系統の奚が遊牧した。これらの西には黒車子室韋が、その南の大同盆地にはトルコ系の沙陀が遊牧した。大同の西南には、のちに西夏王国となるチベット系の党項が遊牧していた。さらに西には、タタル人から逃げてきたキルギス人が、その南には故郷を失ったウイグル人が遊牧していた。
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この中で最初に力を得たのは沙陀で、五代王朝後唐(李克用)・後晋(石敬塘)・後漢(劉知遠)を建国した。また、後周・宋の建国者たちも沙陀系軍閥出であり、沙陀が大きな影響を与えている。

多くの国々には誕生神話がある。契丹も例外ではない。それによれば、昔白馬に乗った神人がラオハ=ムレンに来て、青牛にひかせた車に乗ってシラ=ムレンを下ってきた天女と、その合流点で出会い、夫婦となって8人の子を産んだ。それぞれが氏族の祖となって、八部族が生まれた。それぞれの部族はバガトールと呼ばれる首長に統率され、時に激しく争うこともあったが、そのうちに結合する意識が芽生え、八部首長の中から3年交替制で君長を選ぶようになった、とのことである。

さて、契丹国の初代の皇帝の耶律阿保機(やりつあぼき)は、契丹八部の一つである迭剌(てつら)部の出身である。当初、遙輦(ようれん)氏の痕徳菫(こんとくきん)可汗に仕え、彼が没したとき、選挙交替制のしきたりを守らずに、古式に従って自ら君長に就き(907年)、さらには中国式の天皇帝を称した(016年)。阿保機の一生は戦いに明け暮れた。部族内の内乱を鎮めたあと、北のタタル、西のウイグル、隣の沙陀などへ、大きな成果を得ることはなかったが、侵入し続けた。そして東の渤海国を滅ぼして東丹国を樹立し、長男の図欲(とつよく)を国王に据えた。契丹の皇帝を継承したのは、次男の堯骨(ぎょうこつ)であった。図欲は芸術の才に恵まれ、堯骨は戦い上手であった。東丹国は彼一代で滅したが、契丹国を継承したのは彼の子孫となった。運命の皮肉というべきである。

耶律阿保機は数々の改革を行った。一つ目は、これまでの契丹八部連合を、皇族を中心とする部族連合へと再編したことである。阿保機の妻の出身氏族は述律(じゅつりつ)氏で、ウイグル人の子孫とされた。遊牧民族では、男子は狩猟や戦闘などで家を空けることが多く、家庭を守る女性が高い地位を占めていることが多かった。契丹も例外ではなく、皇帝がなくなった後、皇后が摂政を行うことも多かった。述律氏の子孫は耶律氏の子孫と互酬的な通婚関係を結び、多くの皇后を輩出し、簫(しゅう)氏と名乗るようになった。また、再編された部族連合の中でも、后族として特別に遇された。

二つ目は親衛隊の設置である。後に斡魯朶(オルド)と呼ばれるが、阿保機は豪健二千余人を選抜し、最も信頼する一族のものに統率させた。皇帝は春・夏・秋・冬にそれぞれ決まった幕営地を移動して暮らしていた。これは捺鉢(なば)と呼ばれるが、斡魯朶を伴ってのものであった。これは皇帝の私兵とも呼ばれるもので、皇帝が入れ替わるたびに新たな斡魯朶が形成された(古い方は亡くなった皇帝の墓守などになる)。この制度は、契丹が強い軍事力を持つ源泉となった。

三つ目は二元体制である。阿保機は農耕民の漢人華北から東北に徙民(しみん)させて、農耕に従事させた。農耕の地域には城郭を築き、中国伝来の郡県制により支配した。一方遊牧民に対してはこれまで通り、契丹の制度で統治をおこなった。次の堯骨の時世に、主要な民族の中心地に五京と呼ばれる五つの城市を建設した。上京臨潢府(りんこう、契丹人)、中京大定府(奚人)、東京遼陽府(渤海遺民)、南京析津府(せきしん、漢人)、西京大同府(沙陀人)である。これに先立って後晋の建国を支援したことにより、華北の燕雲十六州を得た(図で濃い青が雲、薄い青が燕の州である)。これ以降五代の国々がこの地を奪還しようとするが、一部を奪還したに過ぎなかった。宋の王朝になったとき、契丹はこれをもう一度奪い返すために軍を送り、宋もこれに応じるものの、膠着状態となり和平交渉がもたれ、その結果が澶淵の盟である。宋を兄とし、契丹を弟とし、宋から契丹に対して年間絹20万匹・銀10万両を送ることなどが決められた。
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四つ目は、契丹文字の制定であろう。阿保機の弟の耶律迭剌がウイグル文字を参考にして考案した。その後に起きた仏教の興隆も特筆すべきことである。

以上が『契丹国』からの抜粋だが、1章で契丹の歴史が、2章で契丹の制度と社会が、3章で図欲(長じて倍と称した)について書かれている。

本を読んでいると、この部分は史料がなく不明という部分が少なからず現れる。筆者が活躍されたころは、中国との交流もなく、苦労されての研究だったろうと想像された。しかし戦前に中国で研究に携われているので、そのときに得た情報が生かされているのだろうとも想像された。いずれにしても大変にご苦労されての研究だっただろう。頭が下がる思いである。