bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

白石典之著『モンゴル帝国誕生』を読む

モンゴル系民族の歴史として、杉山さんと島田さんの著書を紹介してきた。歴史学の手法は大別して、先人たちが残してきた文献資料を丹念に調べその当時の歴史をひもといていく文献史学と、遺跡を発掘して遺物からその当時の状態を解明していく考古学とがある。二人は文献史学に属するが、今回紹介する白石さんは考古学を専門としている。調査地域はモンゴル国である。モンゴル高原に存在する国だ。この国はかつてモンゴル人民共和国と呼ばれ社会主義国家であったが、ソ連・東欧の民主化に惹起され、1992年に国名を変え市場経済化がすすめられた。このころから日本・西洋の研究者との共同研究なども行われるようになり、白石さんはパイオニアである。2001年以来チンギスが首都としたアウラガ遺跡で調査を行っている。また1991年にはセルベンハールガ碑文の発見にも貢献された方である。
研究手法も先に紹介した2人とは随分と異なる。異分野の人たちとの共同研究が目を引く。本の中でも「ハブ」と考古学を位置付けている。理系・文系の異なる分野を結びつけ、相互に有意義な相乗効果をもたらしていると主張している。また、当たり前と言えばそれまでだが、外国文献の引用が多いことも特徴の一つだろう。日本人研究者という枠組みから飛び出て、世界の研究者と交流することの重要性を改めて認識させてくれる。

彼は本の末尾に近いところで、経営学的視点からチンギスの功績をまとめている。チンギスが抱いたヴィジョンは「モンゴルの民」の安全と繁栄の実現であり、この達成のために活動したと述べている。ヴィジョンの実現のため、「騎馬軍団の機動力向上」「鉄資源の安定確保」「高原内生産の活性化」という三つの戦略を立て、遊牧リテラシーに基づく「シフト」「コストダウン」「モバイル」「リスク回避」「ネットワーク」という五つの戦術を駆使したと著者は記している。チンギスの成功の理由は何かと尋ねられたら、確固たるヴィジョン、戦略の的確さ、戦術の巧みさにあったと答えるそうである。
それではその中の「シフト」についてみていこう。彼は、シフトを領域の移動という意味で使っている。殻の大きさが合わなくなった蛇が、それを脱ぎ捨てて新天地に向かっていくように、活躍の範囲が大きくなる場所を求めて、狭き場所より広い場所へと行動拠点を変えたことを指している。チンギスは、今日のモンゴル国の首都であるウランバートルから東に350㎞ぐらい離れたヘルレン川沿いに居住していた。この川はこの辺りでは北から南に流れている。北は森林地帯、中央は森林ステップ、南はステップと環境が変わる。彼は北から南へと拠点を変え、活動できる領域を広くしていく。
f:id:bitterharvest:20210514161844p:plain

モンゴルの民にとっての生活の糧は家畜(ヒツジ、ヤギ、馬、牛、ラクダ)である。家畜の主食であるステップに生える草は気候変動に敏感であり、わずかな変動であっても、壊滅的な打撃を与えることがある。家畜などを生育させる平原が持つ力を草原力、草原の中で生きてゆく遊牧民の知識を遊牧知といい、遊牧知を活用して草原力を発揮させることがいかに重要であるかについて述べている。これらは、我々には備わっていない、草原で生き抜いていくために必要とされる能力の源泉である。
ヘンティー山地オノン川谷で生まれ育ったチンギスは、タイチウトに敵視され、ヘンティー山地ヘルレン川上流に移動した。モンゴルでは有力な集団にキヤトとタイチウトの二つの血縁集団がいて、チンギスの父はキヤトの武将であった。チンギスが9歳のとき父はタタルに殺され、チンギスはケレイトの庇護のもとでヘルレン川上流に移った。史料には、落人のように落ち延び、貧しく暮らしたとなっている。しかし気象状態を調べてみると、当時の冷涼で乾燥傾向の強い気候を過ごすうえではきわめて適した場所だったことが分かったそうである。このときの移動には、彼の意思は余り働かなかったであろう。ある面でラッキーだったのではと感じる。もし、オノン川で住み続けていたならば、この川は東西に流れているので、環境の変化が少なく、草原力を知る機会も失われ、遊牧知も豊かにならなかったであろう。
f:id:bitterharvest:20210514161907p:plain

チンギスを飛躍させたのは、オルズ川の戦い(1196年)に勝利したときである。当時、中国北半の金と、中央アジアの西遼とのパワーバランスの下で、モンゴル高原は両国の代理戦争の場となっていた。チンギスは当初親遼派であったが、金とタタルが戦った時、金派に寝返り、金の指揮下の下でタタルと戦い、オルズ川の戦いで勝利した。父がタタルに殺されているので、敵の敵は味方ということで、金の勢力下にはいったと推察されている。この戦いで、金の将軍の完顔(ワンヤン)襄が戦勝碑文を残したと『金史』にあるが、著者の白石さんはこの碑文の発見に多大な貢献をされている。その秘話については本で楽しんで欲しい。

オルズ川の戦いの後、チンギスは凶暴な一面を見せ、ヘルレン川が北から南への流れを変えて東に流れ出す屈曲部への進出を図る。ここは水と草原に恵まれた豊かなところで、チンギスも属するキヤト族の本家が拠点としていた。1197年春チンギスは、再従兄妹で当主のジュルキンの本営を急襲、多数を殺害、多くを収奪した。
その後、チンギスは、ボヤン・オラーン山を冬営地とし、コデエ・アラルを夏営地とした。遊牧民の戦いは騎馬戦。優れた馬と武器の入手が戦略となる。新たに移り住んだ地域は、優れた馬と牧草で知られているところであり、チンギスが仕掛けてここに拠点を移したと著者はみている。馬具と武器の材料は鉄である。鉄についての知識は、前の拠点の近くに鉄を産出する山があったことから、そこで鉄を製造する一連の知識を得たと著者はみている。鉄の製造には、製錬・精錬・鍛錬の工程が必要である。製錬では、鉄鉱石を溶解させて鋳鉄を得る。精練では、鋳鉄から炭素を取り除いて強靭で軟性な鋼(インゴット)を得る。鍛錬では、インゴットを加工して製品を作る。チンギスは、コデエ・アラルの北10㎞のところに、宮廷としての大オルドを設営した。この地が著者の調査対象であるアウラガ遺跡である。ここからは、精練後に出る鉄滓が大量に発見されたので精練されていたことが、また、1300㎞以上も離れた金の国の金嶺鎮鉄山(山東省済南市郊外)から運ばれた良質のインゴットが発見され、鉄コンビナートと呼んでもいいような鍛冶工房がアウラガ遺跡には展開されていたと著者はみている。また、持ち運びに便利なインゴットは移動先でも鉄器生産に使われたであろうから、移動する鍛冶屋の役割も担い、革新的なことであると見なしている。

良質の馬と鉄を得たチンギスは、それらを利用して彼の子供たちとともに中央アジアの征服へと向かう。これらの様子については本でやはり楽しんで欲しいが、一つだけ付け加えておこう。著者はアウラガ遺跡の調査をとおして、チンギスの人となりを観察したようだ。ユーラシア大陸の大半を征服したのだから、金銀宝石がちりばめられた豪華なパビリオンの中で住んでいただろうと想像されていたが、発掘を通して余りの質素さにビックリしたそうだ。宮殿遺跡から発見されたのは、一辺が17mの天幕の跡で、基礎は掘立柱と日干しレンガを使った質素な構造だったそうだ。あまりのつつましさになぜだろうと疑問を抱き、彼の経営者としてのヴィジョン、戦略、戦術を考えるに至ったとのことであった。

コロナウイルスによって不確実さが増している中、為政者には、彼のような豊かな構想力、優れた戦略、巧みな戦術を有していて欲しいと思うのだが、現状はどこまで満足されているだろうか。残念ながら疑問に思うことのほうが多い。