bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

氏家幹人著『江戸藩邸物語 戦場から街角へ』を読む

時代の変わり目にうまく対応できないと感じる人は、決して少なくない。情報社会に生きる私たちも例外ではなく、デジタル化の進展は目覚ましく、買い物ひとつとっても新しい手続きへの対応を求められる場面が頻繁にある。外食の場面でも同様で、近年では人手不足の影響もあり、可能な業務は機械に任せる傾向が強まっている。そのため、気軽に昼食を楽しめるような店でさえ、電子的なやり取りが当たり前になりつつある。

厄介なのは、店ごとに電子化の状況が異なることである。初めて訪れる店では操作方法が分からず戸惑うことが多い。後ろに人が並んでいると「迷惑をかけてはいけない」と焦ってしまい、かえって時間がかかってしまうこともある。そうした経験を何度か重ねるうちに、新しい店を開拓しようという意欲が薄れ、つい慣れた店ばかりに足を運ぶようになってしまう。

江戸時代にも、似たような状況があった。戦乱の続いた戦国時代から、平和な江戸時代へと移り変わる中で、武士たちは刀よりも筆を重んじることを求められるようになった。生活様式もそれに応じて変化したが、かつての生き方から離れられない者たちは、社会との摩擦を引き起こすことになった。

時代に適応できず事件を起こした例として、赤穂事件の浅野内匠守長矩が思い起こされる。一方で、むしろ新しい時代を積極的に切り開こうとした人物として、田沼意次を挙げることもできる。しかし、氏家幹人の著書が焦点を当てるのは、こうした著名な人物ではない。彼が丹念に描き出すのは、大名や旗本に仕える家臣や、さらにその下層にあたる「陪臣」と呼ばれる人々である。名もなき彼らの姿は、水戸の支藩であった守山藩(現在の福島県郡山市)の江戸藩邸日記『守山御日記』や、会津藩や旗本の記録をもとに浮かび上がる。

その中でも特に印象的なのが、十四歳の少年が面子を守るために選んだ死である。『守山御日記』には、友人との些細な諍いから門前で切腹したという衝撃的な記録が残されている。少年は友達とセミの抜け殻の取り合いをしていたが、友人がそれを奪って自宅へ逃げ込み、従者が門を閉ざしてしまう。現代の子どもであれば、悔しさを呟いて立ち去るか、せいぜい石を投げる程度の反応で済ませるだろう。しかし、この少年は、恥辱を晴らすために門前で切腹したのである。すべての武士がそうだったわけではないにせよ、面子を潰されたときに「切腹」しか選択肢がないと信じられていた時代だったのだろう。この事件は友人の家にも深刻な影響を及ぼし、知行の没収という処分が下された。

主君の死に際して命を捧げる「殉死」が尊いとされた時代には、忠義を示すために命を賭すことが武士の精神とされた。しかし平和な世に入り、血を見ることを忌避する風潮が強まると、こうした行為は次第に否定されるようになる。1663年、四代将軍家綱の時に殉死は禁止された(それ以前から抑制の方針はあったが、この年に明確に禁じられた)。死に場所を求めていた一部の武士にとっては、それ以降の時代は生きづらく感じられたことだろう。従来の生き方を守ろうとした者たちが刃傷事件を引き起こし、それらは日記などに記録として残された。

氏家幹人が取り上げる「時代に乗り遅れた武士たち」は、五代将軍綱吉から八代将軍吉宗の時代にかけての人々である。武家諸法度は、1615年に二代将軍秀忠によって制定され、1635年には三代将軍家光のもとで参勤交代や諸規制が明文化された。その後も改訂を重ね、1663年には殉死禁止の法令も出される。さらに、浪人や改易家臣への処遇は厳格化され、元禄期以降には「奉公構*1」と呼ばれる仕組みが整えられていった。

江戸時代が安定期に入り、戦乱が遠い過去となる中で、武士の存在意義は大きな転換点を迎えていた。もはや刀を振るって戦場を駆ける役割は失われ、代わって平和な社会を維持・統治する役割が求められるようになった。しかし、戦国以来の気風を引きずる武士たちの意識を変えるのは容易ではない。そうした時代背景の中で、綱吉と吉宗はそれぞれ異なる形で「新しい武士の生き方」を示す政策を打ち出した。

綱吉は「文治政治」を掲げ、武士の粗暴さを抑え、教養と礼儀を重んじる姿を理想とした。「生類憐みの令」はその象徴であり、命を軽んじる風潮を改めるとともに、武士に「力で制する存在」から「徳で導く存在」への転換を迫った。また、朱子学を重んじて学問を奨励し、武士に倫理的自覚を促すことで、幕府の学問方針の基盤を築いた。

一方、吉宗は「享保の改革」を通じて、武士に現実的で実務的な姿勢を求めた。財政の逼迫に対応するため、質素倹約を徹底し、勤倹の精神を促した。「足高の制」によって才能ある者を身分を超えて登用し、実力主義的な意識を育てた。また、「目安箱」の設置により庶民の声を政策に反映させ、さらに蘭学の導入を進めることで知識の幅を広げた。

こうして比較すると、綱吉と吉宗は方法こそ異なれど、いずれも「平和の時代に適応した武士の再定義」を行ったといえる。綱吉は「徳と教養」を重視し、武士の内面的な規範を整えようとしたのに対し、吉宗は「倹約と実務能力」を重んじ、社会的な役割を果たす実際の行動を促した。すなわち、綱吉は理念的改革によって武士の心を変えようとし、吉宗は制度的改革によって武士の行動を変えようとしたのである。

両者の取り組みは、戦乱を生き抜いた武士の旧来の意識を転換させ、平和の長期化に耐えうる新しい統治層を形成する過程で、大きな意味を持った。綱吉と吉宗という二人の将軍の政策は、武士に対して「時代に即した生き方」を模索させる連続的な営みであり、江戸社会の安定を支える精神的・制度的基盤を築いたのである。

さて、話を氏家幹人に戻そう。彼は、役人としての習慣を身につけられず、遅刻を繰り返す武士の姿や、火事や犯罪が発生しても外部の者の侵入を防ぐことができた大名・旗本屋敷の「聖域」としての特権が、徐々に失われていく様子を描いている。さらに、僧侶が処刑されようとしている罪人に袈裟をかけることで命を救うといった、かつては通用していた常識が崩れていく事例なども紹介されており、驚くほど多くの逸話が列挙されている。

これらの記録は、制度のほころびや価値観の揺らぎを映し出すものであり、武士たちが新しい時代に適応しきれず、戸惑いながら生きていた姿を浮かび上がらせる。氏家の筆致は、歴史の断片を単なる逸話としてではなく、制度と精神の交差点として提示している点で、非常に示唆に富んでいる。

そして最後に紹介されるのが、武士から役人へと脱皮した模範例としての旗本・天野弥五右衛門長重である。彼は長寿を生きがいとし、日々の心得を記した教訓的備忘録『思忠志集』を残した。そこには、健康管理や心構え、日々の節制に関する具体的な記述が並び、武士の生存戦略としての「長生き」が、自己犠牲的な忠義とは異なる新しい価値観として提示されている。

「七十歳の壁」「八十歳の壁」といった言葉に親しみを覚える現代のシニア世代にとっても、この記録は興味深く、時代を超えて共感できる部分が多い。武士が命を賭して忠義を示す時代から、命を守りながら生き抜くことに価値を見出す時代へと移り変わる中で、天野の姿は「生き延びること」そのものが忠誠のかたちとなりうることを示している。

私も、新しい時代に乗り遅れないようにするために、生成AIを友としてこの文章を作成した。骨格や内容は私自身のものであるが、文章表現の洗練さにおいては、AIの示唆に多くを学び、随所にその助言を生かした。

*1:奉公構(ほうこうかまい、ほうこうかまえ)は、安土桃山時代および江戸時代において、武家が家中の武士(家臣)に対して科した刑罰の一つで、将来の奉公が禁ぜられることである。構(かまえ)とは集団からの追放を意味するが、奉公構は旧主からの赦しがない限りは将来の仕官(雇用)が禁止されるため、通常の追放刑よりも一層重い罰であった(ウィキペディアより)。