bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

たましん美術館に企画展「浮世絵 歌川広重《名所江戸百景》」を鑑賞に行く

毎日、毎日、暑い日が続いて、あまり外に出ていく気になれないが、歌川広重の展覧会がそろそろ終わりに近づいてきたので、思い切って出かけてみた。訪れたのは、たましん美術館である。中央線の立川駅から10分程度のところにある。立川駅前は綺麗に整備されていて人の流れが絶えない。多摩地区の中心地の一つとして栄えている。

また、たましん美術館はモノレール線の下に整備された道沿いにある。Cafeと書かれた大きなビルの右が多摩信用金庫で、その1階に美術館はある。この通りは道幅が広く、車も入ってこないので、散策するのにはうってつけだ。ただし、暑くなければという条件付きである。美術館には開館時間と共に入場した。入場者は私だけで、しばらくの間、一人だけでゆっくりと鑑賞することができた。また、写真を撮ることも許されていたので、パチリパチリとたくさん撮った。このブログに載っている広重の浮世絵は、全てたましん美術館でのものである。

百科事典マイペディアでは、 歌川広重は次のように紹介されている。「歌川広重(1797~1858)は浮世絵師である。江戸八代洲河岸の火消同心の子として生まれる。姓は安藤氏である。画号は一遊斎、一立斎などを名のった。歌川豊広に学ぶ。狩野派、南画、円山四条派(円山派、四条派)などにも学び、西洋画風をも取り入れた幅広い画風を形成した。初め美人画を描いたが、葛飾北斎に刺激されて風景画に転向した。1831年《東都名所》シリーズを版行、続いて名作《東海道五十三次》(保永堂版)を出し、風景画家としての名声を決定的なものとした。雪月花に装われた四季の景がしみじみとした旅情とともに描かれる広重の風景版画は、幕末のすさんだ世相の中で安らぎを求める庶民の共感を受けた。《近江八景》《江戸近郊八景》《木曾街道六十九次》《名所江戸百景》などのほか、花鳥画にも名作を残す。ゴッホなどヨーロッパの画家にも影響を与えた。門人が2代、3代広重を襲名した。

展覧会のパンフレットには次のように紹介されていた。歌川広重は、安政5年(1858)に62歳で亡くなった。今回の展覧会では、主に《名所江戸百景》を紹介する。この作品は、亡くなる2年前の安政3年(1856)から制作され、空前の大ヒットとなり、題名の「百景」の100枚をこえ118枚まで描き続けられたほどであった。浮世絵師人生の集大成となった本作は、江戸時代の情緒あふれる春夏秋冬の風景が、人々の度肝を抜くような斬新な構図と鮮やかな色彩で描かれた。江戸の名所をとらえた洒落と遊び心ある絵は、江戸時代の人々を、そして150年以上を経た現代の私たちをも楽しませてくれる。

広重にまつわる話題は後回しにして、印象深かった作品の中から紹介していこう。広重の特徴は、構図の大胆さにある。特に、近くにあるものを極端に大きく描き、独特の遠近感を生み出している。

「四谷内藤新宿」:甲州街道の最初の宿場がここに置かれていた。この街道は、多摩や秩父でとれる鉱物や野菜を運ぶ道で、牛や馬の行き来が盛んだった。馬の脚が画面の半分近くを占めている大胆な構図に力強さを感じる。そして、ここは私が高校の3年間を過ごした思い出の地でもある。江戸時代は新宿は江戸の端だったが、高校生の頃は東京の中心になりつつあった。ここは、時の流れの速さを感じる場所である。

「深川万年橋」:上下と左側の薄茶色は何だろうと目で追ってみた。手桶の柄の部分であることが分かりびっくりした。そして、大きく描かれた亀が手桶から吊り下げられている。ドキッとする構図に圧倒される。万年橋の手すりの間から、隅田川と富士山が見える。また、手すりの上に描かれている船頭の上半身には、帆掛船と共に、動きが感じられる。

「高輪うしまち」:右側に大きく描かれた牛車の車輪に思わず目が行ってしまう。そして、その陰で遊んでいる子犬に目が向く。そばには、牛車を引く人足が夏の暑さを凌ぐために食べたと思われるスイカが転がっている。見上げると、雨あがりなのだろう、虹が出ている。海の青さとの対比が鮮やかである。また、ペリーが来航した後に急遽造られた台場が遠くに見える。大きな車輪と小さな帆掛け船の対比が素晴らしい。

「水道橋駿河台」:画面いっぱいの鯉、そして、その眼はまるで生きているかのように感じられる。下を流れている川は神田川、橋は水道橋である。武士の子供は7歳になると吹き流しやのぼりで祝われた。しかし、町人は吹き流しを許されず、その代わりこいのぼりをあげた。5月の澄んだ空に、勢いよく泳いでいる鯉と遠くに見える富士山の対比が素晴らしい。

「上野山内月のまつ」:現在の上野恩賜公園の清水観音堂に、枝が輪になった「月の松」があったそうで、この輪を中心に据えて、不忍池と向こう岸を描き出している。火の見櫓が見えるのは、火消同心であった広重の想いであろう。

「上野清水堂不忍ノ池」:「月の松」を少し遠方から鑑賞した絵である。

「はねたのわたし弁天の社」:この作品も大胆な構図である。船に乗っている人の目線からであろう、櫓をこぐ船頭の毛むくじゃらの手と足の向こう側に、江戸名所の弁天堂(左)と常夜灯(中央)を見ている。遠近感を上手に表現した大胆な構図である。


「亀戸梅屋敷」:亀戸天神社(1662年建立)の裏手に梅屋敷があった。そして、ここに龍が横になっているような梅の木があったので、水戸光圀が「臥竜梅」と名付けた。また8代将軍吉宗が鷹狩の帰りに梅の花の香りを嗅いで立ち寄り、「見事」と誉めた。このようなことから「臥竜梅」は江戸で最も有名な木となった。この作品は、ゴッホが「日本趣味・梅の花」として模写するなど、世界に影響を与えた。

ここまで、近いものを極端に大きく描く事で、遠近を巧みに表している絵を見たが、ここからは、広重が得意とした雨・月・雪を見ていこう。

「大はしあたけの夕立」:名所江戸百景の中で一番人気と言えばこの作品だろう。同じくゴッホが模写した。隅田川にかかる大桟橋で突然大雨が降りだした。着物の端をまくり上げ、急いで橋を渡る武士や町人が生き生きと描かれている。日本橋の浜町から深川六間掘りにかかっていた橋で、幕府の船・安宅丸の蔵があったので安宅と呼ばれた。広重は「雨と月と雪の画家」と呼ばれた。この絵では、土砂降りの雨を角度も濃さも変えた黒い線で表現した。

「目黒太鼓橋夕日の岡」:今の目黒行人坂のある台地一帯は、夕日が美しく見える「夕日の岡」と呼ばれ、紅葉の名所であった。目黒川にかかる橋は、この頃は江戸では珍しい石造りの「太鼓橋」である。左手の道を進むと急な坂の行人坂へと続く。画面で道の向こうに左に上がる急勾配が見える。それが「夕日の岡」で、1834年熊本藩細川家の下屋敷に、1931年に雅叙園となった。広重は雪景色が得意で、寒さや木に積もる雪を巧みに描いた。

日本橋雪晴」:名所江戸百景の巻頭を飾った作品で、雪景色の日本橋を表している。橋の上をたくさんの人が行き来している。また、手前には家並みが見え、天秤棒を担いでいる商人(棒手振)が見える。この一帯は魚河岸であった。遠くには富士山が見えている。江戸の人には欠くことが出来ないものだったのだろう。

虎の門外あふひ坂」:最後は月夜である。水場は堰堤で、川の水を引き、水の流れを緩やかにするために作られて堤防で、釣り場となることもあった。タイトルは「あふひ坂」となっているが「葵坂」のことである。金毘羅大権現と書かれた提灯を男の子たちが手にしている、寒い冬だというのにふんどし一丁で大丈夫なのだろうか。江戸の人たちは活気に溢れていたのだろう。

多摩信用金庫は多摩地区を拠点としているため、多摩地域の浮世絵も合わせて展示されていた。その中のいくつかを紹介する。
「江戸近郊八景之内 小金井橋夕照」:私の勤務地はこの近くにあった。その当時は、玉川上水沿いの桜並木はとても美しく、いつも春が待ち遠しかった。

「名所雪月花 井の頭の池 弁財天の社 雪の景」:懐かしい井の頭公園である。ここの桜もとても綺麗だった。

展覧会の紹介をしたついでに、歌川広重についてもう少し説明を付け加えておこう。今年の初夏に「広重ぶるう」というドラマをNHKが流していた。梶よう子さんの同名の小説をテレビ化したものである。歌川広重を阿部サダオ、妻加代を優香、版元保永堂・竹内孫八を高島政伸、葛飾北斎長塚京三、歌川国貞を吹越満が演じた。

番組の紹介では次のように説明されている。

時は文政13年(1830)、歌川広重は家業の火消しで生計を立てる下級武士だった。派手な美人画・役者絵全盛期にもかかわらず広重は地味な画風で売れず、もがいていた。しかし妻・加代だけはそんな広重を気丈に励ましつつ、質屋に通い、身を削って支える。そんな時にある版元から渡されたうちわにベロ藍という舶来絵具で絵が描かれており、その美しさに衝撃を受け、広重は「この青が生きるのは空!」と叫ぶ。鬼才・葛飾北斎の存在、同門の歌川国貞との差を感じつつ、ベロ藍を初めて使用した「東都名所」の売れ行きは不調だった。そんな中、献身的な加代がつなげてくれた縁で、「東海道五十三次」を出版する版元・保栄堂の主人・竹内孫八と出会う。広重は周りの人間に支えられながらも、もがき苦しみ、おのれの描きたい画を追い求める。そして、ついに描きたいものが見つかった矢先に加代の身に不幸が訪れる。そして、安政の大地震も発生する。失われた江戸を求めて、広重は再び筆をとる。ベロ藍を武器に、後にゴッホが模写し、世界の絵画に大きな影響を与える「名所江戸百景」を描き出す。

このドラマを見ての感想:歌川広重は几帳面で真面目、それに対して、葛飾北斎は奔放で自由である。広重はどのような絵を描いたら良いのか悩んでいた。そんな時、北斎は「おれが満足する絵しか描かない」と言い、国貞は「売れるものを描く」と言う。このドラマでは「東海道五十三次」は国貞の路線である。版元の保栄堂は、売れっ子になりすぎたためにきっと悩むことになるだろうと見通し、「つつましく暮らすつまらないものが描く浮世絵がなんであるか」を追求するようにと告げて版元をやめてしまう。愛する加代が亡くなり、安政地震で江戸が壊滅した直後に、広重自身が満足する浮世絵・名所江戸百景を描く。このドラマでの阿部サダオさんの演技が素晴らしかったので、広重と言われると彼の顔が浮かんでくるので困ったことになってしまったと思っている。

ところで、浮世絵は一人で作られるわけではない。分業体制で、プロデューサ役の版元、版元の提案を受けて下絵を作成する絵師、下絵をもとに版画を掘る彫師、版画を摺る摺師からなる。そして、版元はさらに作品を売り出すという重要な仕事を担う。我々には、絵師の名前だけが伝わっているが、それぞれの仕事の専門性は極めて高い。この分業体制は、資本主義的生産体制の単純な分業というわけではなく、アソシエーションでのワークシェアリングの考え方に近い。また、広重の絵に対する情熱も、「売れるもの」から「自身が満足するもの」へと変わっている。これはやはり資本論の中での賃金を稼ぐための商品化された労働から、自身で楽しむための脱商品化となっている。斎藤幸平さんが推奨しているアソシエーションとは大きな距離があるが、ここにはその本質が内包されていることが理解できる。広重の優れた構図とベロ藍の素晴らしい彩色を堪能するために出かけた展覧会であったが、江戸時代の人々の生き方も感じることができ、とても暑かったけれども、有意義な時間を持てた。