江戸時代の中ごろ、東海道・保土ヶ谷宿近くの永田村周辺で、思いがけず禅文化が花開いた。幕末頃の保土ヶ谷宿の様子は、歌川広重の浮世絵(Wikipediaより)から知ることができる。手前の川は帷子川(かたびらがわ)で、橋は帷子橋である。江戸から旅経ち、今まさに保土ヶ谷の宿に入るという場面で、旅人たちや宿の女中たちの姿が描かれていて、当時の宿場の様子がよく表わされている。さらに、広重はブルーの表現が得意で、この絵にも活かされている。
永田村はこの宿場の向こう側にある。今昔マップを用いて、明治39年測図(左側)と現在を並べて表示すると下図のようである。左図で上部右に黄色の矢印で示したのが帷子橋で、そこを左から右に流れている川は帷子川である。その下の細長く黒くなっている部分が保土ヶ谷宿である。永田村はこの図の真ん中あたりである。赤い丸で示したのがこれから説明する寶林寺である。右図で東海道線の保土谷ヶ駅と京急の井土ヶ谷駅を青で囲ったが、その中間地点に寶林寺はある。
現在は家が立て込んでいて都会であるが、明治の頃は麓に農家が点在し、狭い谷戸は水田になっていて、田園風景が広がっていた。旧高旧領取調帳データベースで江戸末期の石高を調べると、永田村は約425石なので、標準的な村であったことが分かる。また、寶林寺は西光院とともに除地(年貢免除の土地)となっている。
寶林寺は、「横浜市史稿 佛寺編」によれば、14世紀末あるいは15世紀初めに大雅省音(おおがしょういん)禅師により臨済宗円覚寺派の末寺として開山されたが、第5世梅州没後に無住となった。およそ100年後にこの地の服部道甫が再興を図り、その子(玖盤)をこの寺の第6世とした。第9代三甫和尚の時に修繕をしたが、宝暦年間(1751~64年)に再び無住となった。
その頃偶然にも奥州三春の高乾院前住寺の月船禅慧(げつせんぜんね)がこの地を訪れ、大変気に入って10数年滞在した。その間に小さな庵(禅道場)を建て、東輝庵と称してここに居を移し、寶林寺も兼務した。そして、門前市をなすほどの評判で、多くの禅僧が東輝庵に参禅した。禅の教えがこの地域に広まっただけでなく、漢詩や文芸にも積極的に取り組んだためにこの地域の文化は豊かになった。
この後、月船は江戸湯島麟祥院に転住したので、白隠慧鶴(はくいんえかく)門下の高足である峨山慈棹(がざんじとう)*1が跡を継いだ。峨山禅師のあと、物先・志山・淡海・妙喜・伽陵・潭海等の大德が歷住し、月船以来の参禅道場はますます盛んになったが、潭海和尚の時に明治維新を迎え、彼が寺を去ったため、東輝庵は閉じられた。明治17年にこれまでの寶林寺と僧堂を廃して、東輝庵は寶林寺に改められた。
月船禅慧の弟子には、物先海旭(もつせんかいきょく: 相馬長松寺住持、東輝庵住持、50歳で失明)、誠拙周樗(せいせつしゅうちょ:鎌倉円覚寺中興の祖)、仙厓義梵(せんがいぎぼん:博多聖福寺の住職)などが知られている。
また、地域の協力もあった。特に、永田村の名主である服部季璋と保土ヶ谷宿の問屋役である軽部長堅が中心となり、東輝庵を経済的に支援するとともに、禅の文化・文芸を地域に広めることに寄与した。
それでは企画展での展示を、撮影が許可された画を参考にしながら見ていこう。
最初は、白隠慧鶴の「達磨図」である。白隠慧鶴は、「臨済宗中興の祖」と称されている。駿河国(静岡県沼津市)で生まれ、15歳で出家し、各地を行脚して修行を重ね、24歳の時に初めて悟りを開いたが、その後も修行を続け、生涯で36回の悟りを開いたとされている。修行の過程で「内観の法」という瞑想法を学び、これにより禅病*2を克服した。白隠はまた多くの禅画や墨跡を残し、その数は1万点以上とも言われている。彼の禅画はユーモラスでありながら深い意味を持ち、多くの人々に禅の教えを広めた。彼の教えや修行法は現在も臨済宗の修行者に受け継がれていて、彼の著作「坐禅和讃」は坐禅の際に読誦されている。
上の画で、賛を月船禅慧が書いている。月船は、古月禅材(こげつぜんざい)の法系と考えられている。画を描いた白隠慧鶴は高名であるが、古月禅材(こげつ ぜんざい)は、それほどで知られていないものの、禅宗に大きな影響を与えた。「東の白隠」に対して、「西の古月」とも称せられる。法系が異なる月船が賛を描いていることになぜという疑問が生じるが、月船の跡を継いだ峨山慈棹が白隠の法系であったので、その関係からだろうとされている。
古月禅材は日向国佐土原(宮崎県宮崎市)の出身で、10歳の時に出家し、その後多くの修行を重ねた。豊後国の多福寺で賢巌禅悦(けんがんぜんえつ)の法を受け、印可を得た。その後、佐土原藩主の命により大光寺の住持となり、寺の再興に尽力した。また、久留米藩主の招請により福聚寺の開山となり、そこで隠棲した。
次の作品は、月船禅慧の書である。「一撃忘所知、更不假修治」と書いてある。禅僧香厳智閑(きょうげんげきちく)がなかなか悟りを開けず墓守として生活していた時、草刈りに混じって瓦礫が竹に当たった音を聞いて悟りを得たという『五灯会元』にある「香厳撃竹」のエピソードに基づいたと図録には説明されている。
「鍾馗図」である。画の作者は不明だが、賛を描いたのは月船禅慧である。鍾馗は唐の玄宗を悪鬼から守ったとの説話を生んだ中国の辟邪神である。
弟子の仙厓義梵が画と賛を描いた「鍾馗図」である。
同じく仙厓義梵が画と賛を描いた「座禅蛙図」である。座っているだけで仏になれるのなら、蛙はすでに悟りを開いていると皮肉っている作品である。
円覚寺中興の誠拙周樗が画賛を描いた「円相図」である。円相は始まりもなく、終りもなく、悟りや心理、仏性、宇宙全体などを円形で象徴的に表現している。
同じく誠拙周樗が画賛を描いた「寒山拾得図」である。寒山、拾得は唐時代に天台山国清寺に隠棲した行者である。脱俗的で融通無碍な生き方が好まれたため、禅宗美術の主題として数多く描かれた。
円覚寺住職、同派管長、建長寺派管長、臨済宗大学長を歴任した明治・大正期の臨済宗の釈宗演が、画と賛を描いた「達磨図」である。達磨は中国禅宗の祖とされ、インドの生れである。6世紀初めに海路で南中国に入り,嵩山(すうざん)少林寺で壁に向かって9年間座して悟りを開いた。多くの人によってさまざまに書かれるが、この画は顔の表現に独特な存在感が感じられる。
岸朝が描いた「仏涅槃図」である。文化5年(1808)の修理の際に、井土ヶ谷村名主の渋谷氏から寶林寺に寄進されたようだ。釈迦はクシナガラ城外の跋堤河のほとりの沙羅双樹の間で入滅したと経典に伝えられている。
ここからは鑑賞した後の感想である。
最近の家で床の間を見出すことはできなくなったが、子供の頃はごく自然に存在していた。壁に掛け軸が飾ってあり、床には花が生けられていた。掛け軸で見かけるものには禅画が多く、達磨さんや鍾馗さんなどの顔を不思議そうに眺めたものだった。少し前までは日常生活の中で、ごく自然に禅の体験をしていたのだろう。
江戸時代は寺請制度があり、村ではすべての家はどこかの寺院の檀家になる必要があった。しかし、寶林寺は住職がいなくなってしまったことを考えると、月船禅慧が訪れたころには、ほとんど檀家を持たなかったのだろう。
偶然に月船禅慧がここを訪れて住みついたことで、寶林寺を中心に永田村とその周辺の人々を巻き込んで「武渓文化」と呼べれる禅文化が花開いた。これは、永田村だからなのか、あるいはどこの村でも起こりえたのかは定かではないが、禅僧と村の人々による文化の発展の一形態をこの展示会で新たに知ることができてとても有意義であった。