bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

天橋立を見学するー丹後鉄道・船屋・天橋立

旅行二日目は若狭湾の西側、天橋立とその周辺の観光である。

ホテルでバイキング式の朝食をしっかりとり、まずは京都丹後鉄道を体験する。四所駅から栗田(くんだ)駅まで、8時49分発・9時14分着の1両電車である。

乗車駅の四所駅。改札側から。

ホーム側から。

ホームの様子。団体旅行客のせいで普段とは異なる様子だろう。

単線運転のため、この駅で下り線と上り線が行違った。

大雲川の鉄橋を渡る。

この鉄橋の上を走った。

途中駅の丹後由良。山椒大夫・安寿姫・厨子王ゆかりの地だそうだ。童話『安寿と厨子王』では、「安寿姫・厨子王の姉弟は、宮崎という人買いの手で丹後由良湊の長者である山椒太夫にそれぞれ売り渡された」と伝えられている。

栗田駅に到着。


駅前の住宅街。

次は伊根湾の遊覧船である。運航は反時計回り。

乗船した船。

伊根の舟屋。1993年のNHK連続テレビ小説ええにょぼ』の場面となったところだ。戸田菜穂が主演で女医を演じた。「ええにょぼ」は丹後弁で美人を意味する。ドラマでの女医の実家は伊根。そこは舟屋が並ぶ街だ。舟屋は海岸線に建つ家屋で、一階が船の収納庫、二階が住居となっている。とても珍しい形態の漁村である。この朝ドラを見た時、一度は訪れたいと思っていたので、今回その夢が叶った。


伊根湾。乗船に先立って餌用のカッパえびせんを購入した乗船客は、空に向かって餌を投げた。これを取ろうとカモメがついてくる。


伊根の街を散策。多くの家は道を挟んで家を所持し、海側の舟屋は船の収納庫と作業所、山側を母屋にしているそうだ。


伊根でただ一軒の酒蔵で、杜氏は女性。古代米・赤米を使った赤い日本酒の伊根満開がお勧め。杜氏が卒論で取り組んだテーマが現実になったそうだ。観光客に人気のようで売り切れだった。店先に腰かけている女性は、伊根満開の酒粕アイス最中を食しているのだろう。

さていよいよ、今回の旅行の目的地の天橋立である。見学時間は2時間半とたっぷりだ。

取り敢えず全景を見ようと、ケーブルカーで傘松公園にあがる。

股のぞきをして、「昇龍観(天橋立が昇り龍のように見える)」を楽しんだ。天橋立は、自然に作られた延長3.6kmの砂嘴で、自然に育った8千本の松で並木が造られている。砂嘴は、対馬海流宮津湾に入り砂を運んでくると同時に 、阿蘇海(内海)に流れ出る野田川の土砂とが長い時間をかけて堆積してつくられた。

丹後風土記によると、その昔、天への架け橋といわれた天橋立イザナギイザナミの神が天への上り下りに使った浮き橋で、ある日イザナギノミコトが昼寝をしている間に倒れて天橋立となったと神話では伝えられている。
それではと天橋立へと歩き始めたところ、じりじりと焼き付けるような太陽の光線を真上から浴び、焼けた鉄板のような石畳から凄まじい照り返しを下から受け、天橋立の道標を見たときは、倒れそうなぐらいにフラフラ。

近くに店らしきものがあったので、冷たいものでもと思って近づいたら何と休み。これで気力は完全に萎えてしまい、松並木を見たからいいとして引き返すこととした。籠(この)神社の鳥居の手前で店を見つけ、昼食を取りながらゆっくりと涼んだ。知らずにオーダーした「黒ざる(黒ちくわ天・鶏天・モチ天・舞茸天・ゴボウ天などの付いたざるうどん)」が、酷暑を忘れさせてくれるほどに、素晴らしく美味しかった。黒ちくわは宮津ソウルフードとして愛されているそうで、青魚風味が特徴である。

食事の後は、ゆっくりと籠神社を見学した。正式名称は「丹後一宮元伊勢籠神社」で、次のような言い伝えがある。籠神社の奥の眞名井原に豊受大神(とようけのおおかみ)を祀る匏宮(よさのみや)があった。ある時、天照大神が新しい居住地を探して全国を旅した。一度は倭国に落ち着いたが、豊受大神との縁からこの地に遷り、豊受大神と共に吉佐宮(よさのみや)という宮号で4年間暮らした。その後、天照大神は現在の三重県伊勢市にある伊勢神宮(内宮)に遷り、約450年後、豊受大神天照大神に呼ばれ伊勢神宮(外宮)へ遷った。このため籠神社は伊勢神宮の元という意味で、「元伊勢」と呼ばれるようになった。それでは籠神社をお参りすることにしよう。最初の鳥居を抜けて次の鳥居、さらにはその内である。


狛犬


拝殿、ここは撮影禁止なので残念ながら写真はない。ところで雪舟天橋立*1にも、籠神社は描かれている。図の右側に鳥居が描かれているが、これが籠神社である。

籠神社のあたりは府中と呼ばれる。奈良時代律令制が敷かれたころ、丹後国国府はこの辺りに設置された。また国分寺も近くに建立された。下の図で、波線の右側が籠神社、左側が国分寺跡、中央が国府の推定値。

丹後国は、室町時代は山名氏そしてのちに一色氏が守護となり、戦国時代になると一色氏は戦いに敗れ、細川幽斎(藤孝)とその子の忠興に支配された。江戸時代になると細川氏が九州に移封になり、京極高知が治めた。高知が没した後は宮津藩田辺藩・峰山藩の三藩に分立した。

今回の旅の本来の目的は、雪舟天橋立水墨画をきっかけにして、奈良時代から戦国時代にかけての丹後国の足跡を辿りたいと思っていた。しかし記録を取り始めてから最も暑いと言われた今年の夏は、足で稼がなければならない史跡めぐりには適していなかった。景色を楽しもうということに方針を変更したことで、若狭湾沿いの風光明媚なところがこれでもかというぐらい多く見ることができ、とても良い旅行となった。

追伸:雪舟天橋立に近い地図をGoogle Earthを用いて作成した。雪舟水墨画に描かれているのは、この図の左側半分。雪舟の絵の右隅に描かれている二つの島、冠島・沓島は、作成した地図にはない。実はこの二つの島はさらに遥か右側にある。なぜそうなったのかを考えるのも面白いと思う。