bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

松里公孝著『ウクライナ動乱ーソ連崩壊から露ウ戦争まで』を読む

ロシアがウクライナに侵攻してから1年半が経ち、この戦いがいつ終わるのか、どのように収拾されるのかは不透明である。2006年にセルビアベオグラードを訪問したことがある。街のところどころに砲弾の跡があったので驚いて尋ねたところ、90年代末のコソボ紛争でのNATO軍からの爆撃によるものだと教えられた。中学生の頃の社会科では、チトー率いるユーゴスラビアは理想的な多民族国家だと学んでいたのに、彼の亡き後、仲良くしていた民族がなぜ争うようになったのだろうと不思議に感じた。この疑問に一つの解を与えてくれたのが、松里公孝著『ウクライナ動乱』である。

この本は、今日のウクライナの紛争をソ連解体から丁寧に掘り起こしている。現在のロシアやウクライナが誕生する以前には巨大な共産主義国家のソ連があった。その国政は、それ以前のロシア帝国の領土を維持するとともに、民族運動(ロシア帝国内の様々な民族集団が自己決定権や文化的な権利を求めて展開された運動)を新国家に押込めるために、民族領域連邦制を採用した。それは、ソヴィエト政権中央、その下位の連邦構成共和国、さらにその下位の自治単位という三層構造の連邦制(マトリョシュカ連邦制)である。

例えば、1954年にロシアからウクライナに移管されたクリミアは、自治単位ではクリミア自治ソビエト社会主義共和国(クリミアASSR)であった。それが属していた連邦構成共和国には変遷があり、1921年からはロシア・ソビエト社会主義共和国(ロシアSFSR)に属し、1945年にクリミア州に再編され、1954年よりウクライナソビエト社会主義共和国(ウクライナRSR)に移管された。しかし連邦構成共和国の異動に関わらず、ソヴィエト政権中央のソビエト社会主義共和国連邦の一員であり続けた。

連邦構成共和国や自治単位では、構成主体の主人公である基幹民族が定められている。例えば、ウクライナRSRではウクライナ人、タタールASSRではタタール人である。またクリミアASSRではクリミア・タタール人で、ここにはロシア人、ウクライナ人、ギリシャ人なども居住していた。第二次世界大戦中にスターリンによってクリミア・タタール人は、中央アジアに集団移住(1944年)させられたが、ソ連解体後に一部のクリミア・タタール人は戻った。

ソ連時代後期になると、連邦構成共和国では基幹民族の出身者しか共産党第一書記になれない慣行が定着したが、他方で基幹民族は長兄として利他的に統治しなければならないことに損をしていると感じるようにもなってきた。分離的な傾向を強めたバルトやコーカサスの連邦構成共和国において民族主義が指導権を握ると、ソ連中央の言うことは聞かなくなり、マイノリティー自治単位(カラバフ、南オセチア、アバハジアなど)に暴力的な攻撃を仕掛けるようになった。

ゴルバチョフは連邦改革(ペレストロイカグラスノスチすなわち市場原理の導入と言論の自由拡大)によって、相対的に力の弱まった中央と自治単位が連立して、強くなった連邦構成共和国に対する力のバランスを回復しようとした。

ゴルバチョフの連邦改革の一環として行われた「刷新連邦(ソ連EUのような国家連合として存続)」はかなり実現性があったが、ウクライナ国民投票で独立を決めたことで破綻し、その後のベレヴェシ会議で東スラブ三国首脳はソ連の解体・独立国家共同体(CIS)の発足を決めた。しかしCISはただの地域国際組織であって、大統領職などもなかった(エリツィンは大統領になることを目論んで刷新連邦を推進した)。ソ連が崩壊し、ロシア、リトアニアウクライナベラルーシモルドバグルジアアゼルバイジャンなど15ヶ国が誕生した。そしてバルト三国を除いた12か国がCISに参加した。

連邦構成共和国がソ連から独立する方法として、①連立離脱法(1990年4月3日制定:住民投票で離脱できるが、自治単位・行政単位は住民多数の意志でソ連に残留できる)、②国際法上の法理(行政境界線が国境に転化)とがあった。崩壊過程の中で、沿ドニエストルアブハジア、クリミアなどでは、それが属していたモルドヴァグルジア(ジョージア)、ウクライナなどの上位共和国(連邦構成共和国)がソ連からの独立傾向を高めたので、自分たちはソ連に残ることを目指した。しかしソ連解体は結果的に国際法上の法理によって処理され、これらの地域は上位共和国に含まれての誕生となった。このため、その後の分離運動につながる民族問題を抱え込んだままであった。

歴史に「もし」の話はないのだが、でももし連立離脱法が実施されたとすると、カラバフ、南オセチアアブハジアなどの自治単位ではソ連残留派が勝ち、ソ連を離脱した連邦構成共和国はこれら自治単位を含まなかっただろうから、面積は小さくなったものの均質な新国家として誕生し、その後の内戦に悩まされることはなかったことだろう。

ソ連解体後には分離戦争の再燃という形で戦争・紛争が発生した。第一次南オセチア戦争(1991-92)、ドニエストル紛争(1992)、第一次カラバフ戦争(1994)、第二次南オセチア戦争(2008)、アブハジアの小規模戦争(2008)、クリミア併合(2014)、ドンバス戦争開始(2014)、第二次カラバフ戦争(2020)、露ウ戦争(2022)などが発生した。下図はこれらの戦争・紛争の当事国である非承認国である*1

ソ連解体に伴って分離紛争が生じたが、解決法として歴史的には次の5種類が現出した。①連邦化、②Land-for-peace、③パトロン国家による分離政体の承認、④親国家による征服、⑤パトロン国家による親国家の破壊である。

①の連邦化政策とは、分離政体が武装解除・自主解散して親国家に戻ってくる代わりに、親国家が連邦化して出戻りの分離政体にオートノミーのステータスを与えることである。典型的な例は、ミンスク合意で、2014年9月5日にウクライナロシア連邦ドネツク民共和国、ルガンスク人民共和国が調印したドンバス地域における戦闘(ドンバス戦争)の停止について合意し、ウクライナ法「ドネツク州及びルガンスク州の特定地域の自治についての臨時令」の導入により地方分権とした。②のLand-for-peaceは、分離政体が自分の実効支配地の一部を親国家に献上することで独立を認めてもらう取引である。

①と②は外交政策として認められているが、双方が受け入れないことが多い。その場合には紛争当事者はより一方的で軍事的なその他の処方箋に傾きはじめる。③のパトロン国家による保護化は、パトロン国家が分離政体を国家承認することだが、他の国がこれに続かないので、分離政体を自身の保護国にしてしまう。2022年にパトロン国家であるロシアが、ウクライナのドンバス二か国を承認したことがその例にあたる。④の親国家による征服は、一番後腐れのない方法だが、長期化することが一番多い。ゼレンスキー政権が目指しているのがこの例となる。⑤のパトロン国家による親国家の破壊は、分離戦争への最も暴力的・黙示録的な処方箋と言える。ドンバスを救うためになされたロシアのウクライナ侵攻がこれにあたる。

分離紛争の解決は極めて難しいことが分かるが、ソ連崩壊後にウクライナの分離紛争に関わってきた、ロシアとウクライナの大統領の政治的な特徴をあげておこう。

著者の松里さんは、「最近まで同じ国だったのだから、CIS指導者とは話し合えば分かりあえる」という前提に立つ外交を大ユーラシア主義、「かつてソ連に属していたかどうかなんて関係ない。問題はロシアに友好的か敵対的かだ」という考え方を小ユーラシア主義とした。ソ連崩壊後の歴代のロシアの大統領は、メドヴェージェフが一時的になったことがあるが、実体はエリツィンとその後のプーチンである。エリツィンは大ユーラシア主義で、プーチンは小ユーラシア主義であった。その結果として、プーチンの時代になると、「ウクライナとの関係が悪くなっても構わないからクリミアを取ってしまえ」などのような判断がなされるようになる。

ソ連解放後のウクライナの主要な歴代大統領は次のようである。①初代のレオニード・クラフチュク(1991-94)の政策は、市場経済の導入、ウクライナ語の国語化、国際的な独立の確立などを含み、ウクライナの独立の礎を築いた。②第2代のレオニード・クチマ(1994-05)は、ウクライナの独立を確保し、ソビエト連邦の崩壊後に国家を安定させたが、他方で腐敗が広がり、政治的な混乱も増加させた。③ヴィクトル・ユシチェンコ(2005-10)はオレンジ革命の指導者として知られ、西側諸国との連携を強化し、ウクライナ民主化を促進した。④ヴィクトリア・ヤヌコーヴィチ(2010-14)は、親ロシア派の政策を支持してロシアとの関係を強化した。⑤ペトロ・ポロシェンコ(2014-19)はウクライナの西側諸国との連携を強化し、EUへの接近を進めた。⑥ヴォロディミル・ゼレンスキー(2019-)はコメディアン出身で政治の新星として台頭し、反汚職と改革を掲げて選出され、彼の政権は腐敗撲滅と行政改革を進める努力をし、ロシアの侵攻に対して反撃している。

それでは最後に、ウクライナでの分離紛争の核となっているドンバス(ドネツク州とルハンシク州)について、少し見ていこう。1928年からソ連では急激な重工業化と農村集団を柱とした五か年計画がスタートした。その頃、ドンバスがウクライナRSRに移管され、また戦間期(第一次・二次世界大戦の間)には沿ドニエストルウクライナRSRに属していたので、ウクライナは東側(ドンバス)と西側(沿ドニエストル)に工業先進地帯を抱えていた。第二次世界大戦後に沿ドニエストルは新設のモルドヴァ・ソヴェト社会主義共和国に譲られたが、ソ連解体まではウクライナRSRソ連での工業の牽引車であった。しかし解体後は、牽引車の役割は長く続かず、しばらくすると経済は落ち込んだ。2020年の実質GDPは、1990年の62.2%にまで減少していた。

ドネツク州の主要産業は、地元でとれる石炭(ドネツク市周辺の中部)を燃料にして、製鉄・冶金(マウリポリ市周辺の南部)を生産し、それを用いての機械工業(クラマトルスク市周辺の南部)を展開させる垂直的構造であった。この構造はエリートを団結させ、集約的な恩顧政治を生みやすいと言われていた。北部の住民は経済的な関係で、中部・南部は(産業分野では競合関係のため)政治的・文化的共通性によって、親露感情であった。ソ連が崩壊に向かった時、ドンバスのように工業化や、クリミアのように保有地開発の進んだ地域では多民族化が進んでいた(ソ連末期のドンバスの民族構成はウクライナ人が約5割、ロシア人が4割強)。そのような地域では、自らが帰属する新共和国(ドンバスやクリミアに対してはウクライナ)の基幹民族主義の強まりに不安を抱いたため、ウクライナ独立に前後してドンバス分離主義は盛り上がったが、90年代半ばになると沈静化した。これはロシアがチェチェン戦争を始めたことで平和であることの方がよいと考えたことと、ドネツク州がウクライナのエリート州であり続ける方がよいと考えたことによる。ソ連解体後に州の政治に進出したのは「赤い企業長(ソ連共産主義政権下での企業の指導者)」と呼ばれる教育も経歴もあまり好ましくないような人々であった。90年代半ばからは企業の私有化が進むと、「赤い企業長」に代わってエリートたちが進出し、特にソ連時代からのライバルであった地域閥(ドネツクとドニプロペトロウスク)間の闘争が激化し、ドニプロペトロウスク閥が牛耳った。ドネツクのエリートは、基幹民族にもドニプロペトロウスク閥にも支配されることを嫌い、地域党を組織した。2004年の大統領選挙で、ドネツク出身で現職大統領クチマ派のヤヌコヴィチと野党のユシチェンコが争ってヤヌコヴィチが勝利したが、選挙やり直しを訴えたオレンジ革命によって、ヤヌコヴィチと地域党指導者(ヤヌコヴィチを支持)の多くは国外に逃亡した。2006年の最高会議選挙では地域党が第一党となり、ヤヌコヴィチは2006年には首相となり、2010年には大統領となり、それぞれ復権した。

このような状況の中で迎えたのがユーロマイダン革命(2014)である。ウクライナ政府がロシアとの関係を強化し、欧州連合(EU)との連携を見送ることを決定したことで抗議運動がおき、親ロシア派のヤヌコーヴィチは政権を放棄してロシアへ逃亡し、「オレンジ革命」の支持者として知られるポロシェンコが大統領になった。ユーロマイダン革命の成功により、ウクライナは親欧州的な政策を強化したが、その後、クリミア危機(ロシアへのクリミア併合)が発生、ドンバス戦争も勃発した。分離派勢力はドネツクとルガンスクで独立を宣言し、それぞれ人民共和国を名乗り、ロシアとの関係を強化した。この戦争を解決するために、ウクライナとロシアとドネツク民共和国(DPR)とルガンスク人民共和国(LPR)との間で、ミンスク合意(2014,15:親ロシア派武装勢力が占領するウクライナ東部の2地域に幅広い自治権を認める「特別な地位」を与える)がなされたが、長期間履行されることはなかった。2022年になるとロシアのプーチン大統領ドネツク民共和国とルガンスク人民共和国の独立を承認、EUミンスク合意に違反していると批判、そしてロシアによるウクライナの侵攻が始まり、現在まで継続中である。

筆者は、ドネツク民共和国について、一章を割いて説明している。その理由として、①非承認国家研究は、国家の誕生を観察する作業で、物理学でのビッグバンの研究に似ているという。分離政体=非承認国家には別の国家に統合される過渡期的なものと独立維持を志向するものとがある。ドンバスは前者であるが、長期化する場合には独立維持型との差がなくなる。②ロシアの庇護下にあったことの実体と意義を究明する。これはロシアの傀儡であったかどうかを問うのではなく、ロシア大統領府やロシアの様々なアクターとどのような関係を持っているかを事実に基づいて究明することとしている。③非承認国家には、独特の体制循環がある。旧ソ連の承認国家では、大統領中心の恩顧人脈政治が再建されるという特徴を有している。これに対して非承認国家では、①数年間に及ぶ政治の季節と内戦を経験、②政治の季節と経験はヒーローを輩出、③市民は政治に疲れ、ヒーローに任せるようになる、④ヒーローは、戦争英雄であると思いあがり、あっという間に堕落するが市民の抵抗力はしばらく回復しない、⑤縁故資本主義と権威主義が限界を超えると、再動員・再民主化が始まり、①から繰り返される。これに対して、ドネツク人民民主共和国は、ロシアの統制が厳しかったことと無政党民主主義という縛りが強かったために、先にみた非承認国家での循環は弱く働いた。これについて詳しく説明されているが、ここでは割愛する。

現在でもウクライナとロシアの戦いは続き、激しさを増しているが、戦況だけを見るのではなく、なぜこのような事態になったかを知ることは、世界のこれからの状況を探るうえでとても大切なことである。特に、この戦争が終わった後でも、多民族問題は解決されてはいないだろうし、その後にさらなる紛争が生じることさえ考えられる。多くの識者の意見を参照にしながら、露ウ戦争を考えることの重要性をこの本は改めて教えてくれた。

*1:ニッポンドットコムのホームページよりコピー