bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

トーハクで特別展「古代メキシコ」を見学するーアステカ テノチティトランの大神殿

トーハク特別展「古代メキシコ」の最後のセクションは「アステカ テノチティトランの大神殿」である。

百科事典マイペディアによれば、アステカは、「14世紀から1521年のスペイン人による征服まで,現在のメキシコ市を中心に栄えた国家をいう。アステカは首都テノチティトランに住んだその中心的民族で,メシカMexicaとも称した。北方のチチメカ族の一派であり,13世紀にはメキシコ盆地に入り,14世紀半ばに,当時湖上の島であったテノチティトランに定住,15世紀にはメキシコ盆地最大の勢力となって征服活動を始めた。16世紀初頭にはメキシコ湾岸から太平洋岸にまで覇権を確立し,マヤの文明やトルテカ文化を継承,征服地の宗教を組織化した複雑な文化をつくり出した。アステカ本来の守護神はウィツィロポチトリであったが,その王権はトルテカのケツァルコアトルに由来すると称した。ケツァルコアトルの再来を信じたアステカ王モクテスマ2世は1519年に上陸してきたコルテスらをこの神の一行と誤認し,アステカ国家の滅亡を早める結果となった。1521年の征服後,アステカ文化はスペイン人によって否定的にとらえられたが,メキシコの独立の動きとともに国家統合のシンボルとして称賛されるようになった。一方でその担い手であるインディオはいまだに差別と貧困に苦しんでいるのが現状である」と紹介されている。

首都のテノチティトランは、16世紀初頭には人口が20-30万人に達し、壮麗な神殿、宮殿、家屋が立ち並んでいた。Wikipediaには市街の想像図*1がある。

ここの展示は二つのセクションに分かれていて、最初は「大国への道」であった。アステカでは、メシーカ人が政治経済的覇権を握った。それを可能にしたのは、テノチティトランの聖域から発する魔力が、敵に激しい畏怖心を与えたことによる。聖域の中核には、大神殿「テンプロ・マヨール」がそびえたっていた。Wikipediaにはそのミニチュアの写真*2がある。テンプロ・マヨールは、消滅したテオティワカンの建築と絵画の様式を見事に再現していた。これにより、メシーカ人は古典期の偉大な文明と神話上の系譜を結び、威厳ある祖先に守られていると感じた。そして他地域の人々に対しても、世界の継承者としての正統性を印象付けた。

それでは展示を紹介していこう。
メンドーサ文書*3は、征服後の1541年ごろ、ヨーロッパ製の紙に書かれた文章で、作者は先住民、スペイン語での書き込みが加えられている。

マスク。メシーカ人をはじめとするこのころの人々は、それ以前に栄えた都市を訪れ、何世紀にもわたって地下に埋もれていた遺物を掘り起こし、それを魔術的な力を持つものと見なして、自分たちの神殿に埋め直した。これはテオティワカン200-550年のもの。

鷲の戦士像。テノチティトランの大神殿(テンプロ・マヨール)北側の新トルテカ様式の「鷲の家」の入り口に、2体の像が置かれていた。これは戦争のみならず宗教においても重要な役割をはたす「鷲の戦士」で、戦場での勇ましい死の結果、鳥に姿を変えたとされている。アステカ文明1469-86年。

最後のセクションは「神々と儀礼」である。メシーカ人は多神教である。アステカの世界観によれば、神々は天上界の13層と地下界の9層に住み、その力は暦に従って、地上界の生きとし生けるものや惑星や天体の動きを支配した。それは二元論に基づき、相反し補い合う二つの原理や要素、つまり太陽と月、昼と夜、雨季と乾季、男性と女性、鷲とジャガー、水と火、羽と玉などの対峙が、活力を生み出していると信じていた。
トラロク神の壺。農耕社会であるメソアメリカの宗教は、降雨量が重要で、何世紀にもわたって、雨の降る量をコントロールしたいという強迫観念にかられ、祈祷、供物、子供の生贄がことごとくトラクロ(大地を人格化した雨の神)に捧げられた。アステカ文明1440-69年。

エエカトル神像。「風」を意味するエエカトル神は、生と豊穣に関する力を有していた。アステカ文明1325-1521年。

プルケ神パテカトル像。数多く存在するプルケ(リュウゼツランを発酵させてつくる酒)の神の一つパテカルトである。アステカ文明1469-81年。

サワマドール(香炉)。多彩色土器の香炉は、寝具の道具としてメキシコ中央部で広く見られた。アステカ文明1325-1521年。

テポナストリ(木鼓)。古代メキシコの人々が用いた数多くの打楽器の中で、特によく知られているのがテポナストリで、宗教儀礼や戦闘の場で用いられた。アステカ文明1325-1521年。

笛。笛はおおむね土製で、鮮やかな色彩と鳥・花・神々の表象を持つ場合がある。アステカ文明1325-1521年。

テスカトリポカ神の骨壷。後古典期前期(950-1250)にメキシコ湾岸で多く見られたオレンジ色の土器に着想を得て、後古典期後期(1250-1521)に作られた。アステカ文明1469-81年。

ウェウェテオトル神の甲羅型土器。1990年代にメキシコシティーの大聖堂で、地盤沈下による崩壊を防ぐために地下の掘削が行われた。その時、テスココで制作されたと思われる7つの多彩式土器が発見された。これはそのうちの一つで、火の神を表している。アステカ文明1486-1502年。

最後に金製品のペンダント・耳飾りなどが展示されていた。

これで、古代メキシコ展の紹介は終わりである。大規模な神聖都市を生み出したメソアメリカ文明は、スペイン人の侵攻もあり、壊滅的な打撃を受けてしまう。なぜそうなったのかという疑問に対しては、ジャレド・ダイアモンドさんの『銃・病原菌・鉄』が、解くためのヒントを与えてくれる。子供がメキシコに滞在しているので、訪問する機会を作り、ピラミッドや神殿を見学しながら、この文明についてもう少し深く考えたいと考えている。