bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

トーハクで特別展「古代メキシコ」を見学するーマヤ 都市国家の攻防

トーハク特別展の3番目のセクションはマヤ文明である。テオティワカン文明がメキシコ高地で誕生し発展したのに対し、マヤ文明はメキシコ南東部、グアテマラホンジュラス西端部、エルサルバドル西端部である。

マヤ文明の地域は、高地が多い南部地域とマヤ低地に属する中部地域と北部地域に分けられる。南部地域は、高地は温暖で、海岸に近づくに従って急激に暑くなる。この地域は多数の河川が太平洋に注ぎ、土地は肥沃である。ここにはコパン遺跡などがある。中部地域は、高温多湿で、降水量が多い熱帯雨林のジャングル地帯が広がっている。ここではティカル、カラクルムなどの大遺跡が繁栄し、覇権を争った。北部地域は降雨量の少ない乾燥した気候で、石灰岩地盤の広がるこの地域では地上に水が残ることが少なく、川は極めて少ない。このためテノールと呼ばれる泉が唯一の水源である。ウシュマルチチェン・イッツァなどの遺跡が栄えた。

メソアメリカ文明の時代区分は、先の記事で挙げたが、先古典期(BC2000年-250年)、古典期(250年-950年)、後古典期(950年-1521年)、スペイン植民地時代となっている。鈴木慎一郎さんの『古代マヤ文明』では、時代区分ごとの特徴を次のように説明している。

先古典期の前期(BC2000-BC1000年)には、マヤ地区の西隣に位置するメキシコ湾岸やメキシコ南部オアハカ盆地で、複雑な社会構造を有する定住農耕型の共同体が出現した。中期(BC1000-BC400年)には、これら共同体との接触や交流によって、マヤ文明圏にも明白な社会の階層化が起こり、世襲の為政者による国家が誕生し始めた。後期(BC400-BC100年)には、神聖王という概念やマヤ文字による筆記のシステムが生まれようとしていた。そして終末期(BC100-250年)にはペテン地方(グアテマラ北部)でマヤ文明の最盛期を彩ることになる諸王朝が勃興し始めた。

古典期には、古代マヤを代表する大都市(ティカル、コパン、カラクムル、パレンケなど)が最盛期を迎え、古典期マヤ文化(芸術、数学、天文学、建築など)が絢爛豪華に花開いた。しかし終わり頃になると、神聖王の王国が謎の崩壊を迎え、都市が放棄され、古典期マヤ文明の崩壊が起きた。即ち、前期(250-600年)・後期(600-800年)は神聖王による中央集権国家が誕生・成熟し、相争った。末期(800-950年)には、神聖王による統治システムが衰退し、崩壊が起き、貴族による合議政治体制へと変化した。

後古典期には、メキシコ高原にトルテカやアステカという強力な国家が誕生し、マヤ文明圏もその影響を受けた。崩壊後のペテン地方に人口の空白地が生まれる一方、ユカタン半島北部やグアテマラ高地で、メキシコ中央高原の影響を受けた新たなマヤ文明が花開いた。ウシュマルチチェン・イッツァがその代表である。

特別展を紹介する前に、マヤ文明の遺跡をWikipedianの写真で見ることにしよう。

ティカル:グアテマラのペテン低地にあり、4世紀から9世紀にかけて栄えた。写真は大ジャガーの神殿*1

コパン:ホンジュラス西部にあり、695年に即位したワシャック・ラフン・ウバク・カウィールの時代に最盛期を迎えた。写真は神殿26にある神聖文字の階段*2

ラクムル:先古典期後半から古典期にかけて繁栄した中部地域の大都市*3

パレンケ遺跡:メキシコ南東部(中部地域)に位置し、7世紀に最盛期を迎えた。写真は碑文の神殿*4

ウシュマル:メキシコ・ユカタン州(北部地域)にあり、古典期後期から後古典期に栄えた。写真は魔法使いのピラミッド*5

チチェン・イッツァ:メキシコ・ユカタン州(北部地域)にあり、後古典期に栄えた。写真はカスティー*6

マヤ文明の展示は四つに細分されていた。それに従って見ていこう。まず最初のセクションは「世界観と知識」である。マヤ文明は、芸術、数学、天文学、建設などの分野で、輝かしい成果を挙げた。図録から抜粋するとここは次のように紹介されている。

マヤの人々にとって、人生や社会の出来事は、神々の行いや天体、山、洞窟などの自然界の事象と深く結びついていた。そのため、天体の動きを観察し、それに基づいた精緻な暦を作り、都市の広場で行われる集団祭祀のほか、自然景観の中に点在する聖なる場所で儀礼を行うことは世の中の秩序を維持するために必要と考えられた。人々の行いは、神や先祖の事績を再現するものであり、優れた文字体系を使って描かれた碑文には、王の業績などが正確な日付とともに記された。

それでは展示を見ていこう。
夜空を描いた土器。天体の動きは地上の出来事と密接に関わっていると考えたマヤ人は、太陽のほか、月や金星などの夜空の動きを詳細に観察した。上部には夜空の星の動きが描かれている。マヤ文明600-830年。

星の記号の土器。太陽と月に並ぶ重要な星として、金星を崇め、観察した。金星の周期が584日であることも知っていた。マヤ文明700-830年。

金星周期と太陽暦を表す石彫。584日の金星の周期5回分が、365日の太陽暦の8年にあたることを示している。縦棒が5を表し、丸が1を表す。マヤ文明800-1000年。

トニナ石彫159。碑文には「3マニク0ムワーンの日に、トニナの王1の墓に2度目の火を入れる儀式が…」と記述されている。マヤ文明799年頃。

マヤ文明の展示での2番目のテーマは「マヤ世界に生きた人々」である。先の記事で説明したテオティワカンでは、身分により、住む場所も、従事する仕事も、明確に分かれていたのに対して、マヤ文明の人々はマダラ模様である。例えば、農民もある程度石器作りをしていたし、都市中心部に住む上流階級の人々も、政治・外交活動に加えて、祭祀や公共建築の設計などもしていた。これは大規模な農地の造成に適さない熱帯低地の環境に合わせてのものと思われる。

支配者の土偶。王あるいは高位の男性を表している。マヤ文明600-950年。

貴婦人の土偶。謁見のために壮麗な出立をした高位の女性と思われている。マヤ文明600-950年。

戦士の土偶。重装備であることから、儀礼式での戦士の姿と思われている。マヤ文明600-950年。

捕虜かシャーマンの土偶。さまざまな土偶がある中で、社会的役割が明確でないものも多い。これはその一つ。マヤ文明600-950年。

書記とみられる女性の土偶。高位の女性で、右手に絵文書を持っているので、書記を表したものだろう。マヤ文明600-950年。

道化の土偶。ふくよかな顔と膨らんだ腹に特徴があり、儀礼式で道化師的な役割をしているのではと思われている。マヤ文明600-950年。

織物をする女性の土偶。機織りはマヤの女性にとって重要な仕事であった。マヤ文明600-950年。

鹿狩りの皿。大型獣の少ないマヤでは鹿は最も大切な狩猟の対象であった。マヤ文明600-700年。

円筒型土器。カカオ飲料を徐々に垂らすことによって泡立て、そして飲んだ。マヤ文明600-850年。

マヤ文明の3番目のテーマは「都市の交流 交易と戦争」である。マヤでは各地で王朝が林立し、それらの間では交流もあったし、戦争もあった。交流では、美しい彩色土器や食料が供物として送られたりした。また婚姻関係を結ぶことも重要な外交戦略であった。このような交流を通して、天文観測や文字などの知識が共有された。一方、関係が悪化した場合には戦争に及ぶことがあり、好んで高位の人を捕虜にしようとした。捕虜になった人は、人身供犠にされた。また負けた国は属国となり、そこでの経済や建設活動は停滞した。古典期の低地南部では、ティカルの王朝とジバンチェとカラクルムを拠点とする王朝が、二大強国でライバル関係にあった。

円筒型土器。カカオの飲料用に使われた。土器に描かれている絵は外交儀礼のようで、右側の、体を黒く塗り、動物の頭飾りをつけている方が外交使節、左側の、鳥の羽を飾った方が迎える側であろう。マヤ文明600-850年。

猿の神とカカオの土器蓋。マヤの人々はカカオの飲料を好んだ。カカオはマヤ低地でも取れるが、高温多湿な太平洋沿岸で良品のものが得られるので、ここから各地に輸出された。マヤ文明600-950年。

トニナ石彫153。マヤやアステカでは戦争で捕虜を捕らえることは重要であった。捕虜にされると、服や装飾品を剥がされた上で、ピアスの穴に紙を通された。マヤ文明708-721年。

トニナ石彫171。球技は娯楽であるとともに宗教的な儀礼でもあった。マヤ文明727年頃。


マヤ文明の4番目のテーマは「パカル王と赤の女王 パレンケの黄金時代」である。パレンケは、古典期のマヤ文明の都市としては中規模であるが、洗練された彫刻と建築、碑文の多さで知られている。その最盛期はパカル王の治世(615-683年)である。ジバンチェの侵攻によってパレンケは荒廃していたが、12歳で王位につき80歳で亡くなったパカル王が復興し、王宮を最も壮麗な建造物の一つとした。パカル王の遺体は碑文の神殿の内部に置かれ、美しい彫刻で飾られた石棺に納められた。碑文の神殿の隣からは、「赤の女王」と呼ばれる墓が見つかり、石棺の中からはヒスイなどの装飾品に囲まれ、赤の辰砂(しんしゃ)に覆われた女性の骨が見つかった。パカルの妃の可能性もあると現在も研究中である。

96文字の石板。783年にパフラムの即位20周年を記念して彫られた。654年にパカル王によって「白璧の宮殿」と呼ばれる建物が王宮の中心に建てられ、その王座で歴代の王が即位したことが述べられている。マヤ文明783年頃。

パカル王とみられる男性頭像。上流階級の典型的な身なりで、額の部分をへこませることで頭部を高くした頭蓋変形が見られる。マヤ文明620-683年。

マヤの儀式では、コーパルという木の樹脂から作った香が盛んに焚かれた。そのために石や土器で作られた香炉台が、神殿や住居の内部や周りに置かれた。マヤ文明680-800年。
香炉台、

香炉台、

香炉台。

赤の女王のマスク・頭飾り・胸飾り。今回の展示品の中でも圧巻。赤の女王のマスクは、孔雀石の小片で作られ、瞳には黒曜石、白目には白色のヒスイ輝石岩が使われている。マヤ文明7世紀後半。

マヤ文明の最後のテーマは「チチェン・イツァ マヤ北部の国際都市」である。9世紀にマヤ低地南部では、多くの都市が衰えた。それに替わったのが、低地北部である。900年頃には、ウシュマルなどの他の都市を圧倒して、チチェン・イツァが当時のマヤ最大の都市となる。それ以前のマヤ社会からの人口的・文化的な継続性が、チチェン・イツァに強く見受けられることから、メキシコ中央部を含むメソアメリカとの交流を深め、各地の文化要素を取り入れたと考えられている。

チャックモール像。メキシコ中央部のトゥーラからも多く見つかっており、交流があったと考えられている。何に使われたのかはよくわかっていないが、腹の上に皿のようなものを持っていることから、神への捧げ物を置いたというのが一般的な説である。マヤ文明900-1100年。

チチェン・イツァのアトランティス像。王座の下に複数置かれ、両手で王座と王を支えている人を表している。マヤ文明900-1100年。

トゥーラのアトランティス像。トゥーラのものも、チチェン・イツァのものとよく似ている。トルテカ文明900-1100年。

マヤ文明土偶は、縄文時代土偶ではなく、古墳時代の埴輪に近いように思えるが、これらのものを見ているのは楽しいものである。その時代に近づいた気がして、親近感を抱くことができる。しかし、人身供犠は、前の記事で説明したが、利他的な行為として生じたものと説明されているが、なかなか納得し難い考え方である。時代を超えて問える装置があると面白いのだが、将来の生成AIはそれを可能にしてくれるだろうか。期待したいところである。

*1:CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=314175

*2:Peter Andersen (talk) - 投稿者自身による著作物, CC 表示 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=754277による

*3:By User:PhilippN, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3000471

*4:Jan Harenburg - 投稿者自身による著作物, CC 表示 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11380232による

*5:HJPD - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6401793による

*6:By Daniel Schwen - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7647000