bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

縄文時代から弥生時代への移行期での神奈川県の土偶と植物考古学

日曜日(1日)に神奈川県立歴史博物館で、佐々木由香さんの「植物考古学から見た縄文・弥生移行期」の講演があり、植物考古学というあまり聞きなれない表題に惹かれて参加した。科学技術が進展したおかげで、遺跡から発見された土器に含まれている植物の種の圧痕から、そのレプリカを得て植物の種類を1990年代に同定できるようになった。これはレプリカ法と呼ばれ、さらに走査型電子顕微鏡を用いての新しい方法は、レプリカ・セル法といわれる。

レプリカ・セル法を用いることで、遺跡で生育していた植物の種類が分かるが、その遺跡が長く使われていた場合には、生育していた植物の移り変わりをも知ることができる。さらにそれぞれの時代での気候や集落規模が分かれば、環境が人々の生活にどのような影響を及ぼしたか、また環境の変化に対して人々がどのように適応しようとしたかも知ることができる。

今日の温暖化が地球規模での問題であることは広く認識され、これへの対応が急がれている。この問題を克服するための示唆を与えてくれるのが、縄文時代から弥生時代の移行期に生じた環境変化を克服した人々の英知だろう。植物考古学は、地味な研究ではあるが、今日われわれが抱えている問題に解を与えてくれるとても貴重な学問分野と言える。

佐々木さんが、未発表の内容を含めながら、東日本特に関東での食物の生態系がどのように変わったかをとても分かりやすく説明してくれた。話題が進んでいくうちに、クリ林で囲まれた集落のスライドがあらわれた。直感的にどこかで似たような絵を見たと思っていたところ、「私の恩師は辻誠一郎先生です」と説明されたので、東北北部縄文の旅の記事の中で紹介した辻さんのお弟子さんだと分かった。このために似たような表現法をしているのだろうと納得し、また世の中は狭いとも思った。

佐々木さんの話をとても短くまとめると次のようになる。
1) 生活しやすかった縄文中期は、クリの林を半栽培で育成して大集落を営んだ。
2) 後期・晩期を迎えると、寒冷化によりそれまでの体制を維持できなくなったため、クリに加えてトチノキの半栽培も始め、環境変化に対応しながら生き抜いた。
3) 弥生時代に入ると、クリ・トチノキに加えてイネの栽培を始めるようになった。
このため、一般的に言われているように、クリそして、クリをやめてトチノキ、そしてトチノキをやめてイネへと言うように非連続的に作物栽培が進んだのではなく、重層的に進んだというのが佐々木さんの説だった。そこには縄文・弥生の人びとが、厳しい環境変化に上手に対応してたくましく生き抜いた姿が見えるとも話していた。また植物利用がこのように変化したのは、寒冷化も一つの大きな要因だが、関東では縄文時代後期・晩期に生じた海水準の下降・上昇がもっと大きな要因だったのではないかと説明された。

東北北部縄文の記事の中でも説明したが、中期には集落数も多くそして大規模でもあった。ところが寒冷化が進む後期・晩期には、大集落に住んでいた人々は分散化し、点在して小集落に住むようになる。しかし大集落を営んでいたころの集団の絆を保つために、子孫たちは、彼らの祖先を祀るためのストーンサークルを作り、行事ごとに集まって、一族としての結束を固めたと考えられている。

関東地方では、形態は異なるが、ストーンサークルではなく再葬墓によって、かつての集団の絆の維持を図ったと思われる。再葬墓は、亡くなったあと一時的に埋葬し、骨化したあと再び甕や壺に入れて、集団墓地ともいえるところに埋め直す葬儀で、再葬のとき、離れて生活している一族の人々が集まり、かつて大集団で一緒に暮らしていた一族としての絆を固めたと考えられている。再葬墓は、中部地方と東北地方南部で、縄文から弥生に移行する時期にみられる。

中期での大集落化、後期・晩期での分散化した人々の間での絆を保ちながらの小集落化という現象は、個人的には次のように考えている。中期の頃に人々は、大集落を形成して多くの人々が共同で生活することのメリットを知識として獲得した。後期・晩期になると、寒冷化という気候変動により、大集落で生活することができなくなったが、共同で生活していたころのメリットを生かすために、小集落に分散したあとも、ストーンサークルや再葬墓を利用して、大きな集団としてのメリットを生かせるようにした。このメリットは、厳しい環境に耐え抜くために、離れて住んでいる人々の間で情報を交換することで、環境への適応方法を学習したことだと考えている。縄文後期・晩期の凄まじい人口減少を見ると生き残りは決して生易しいものではなかった。それぞれの地域の事情に合わせて、良い解決策を見出した人々が生き残ったということだろう。戦略が失敗に終わった人々も少なくなかっただろう。たまたま偶然かもしれないが、クリ林とともにトチノキの半栽培を行うという戦略をとった人々の中の運のよかった人々が生き残り、そして遺跡として残ったのだろうというのが、個人的な意見だ。

佐々木さんの講演は、神奈川県立博物館での特別展「縄文と弥生」に合わせて開催された。講演のあと時間があったので、特別展を見学した。縄文時代から弥生時代にかけての土器変遷を視覚化するために、この時代の沢山の土器が展示されていた。特に晩期後葉の浮線文土器が多く展示されていた。この形式は、関東地方、中部地方、東北南部で見られた。

ほとんどが土器という展示の片隅に、なんと土偶が展示されていた。神奈川県の有名な土偶のお出ましである。
縄文時代土偶は、豊穣や多産を祈る祭祀の道具とみられているが、弥生時代になると役割が変わり、蔵骨器として使われるようになる。このため弥生時代土偶は、姿はほとんど変わっていないのに、土偶型容器と呼ばれる。
縄文時代の狩猟採取から弥生時代水稲稲作へと生業の形態が変化する中で、土偶の使われ方も変化したものと思われる。

展示されていた土偶は、縄文時代後期のものである。
鎌倉市の東正院出土の筒型土偶、ハート型土器の成員でもある。トーハクと横浜市歴史博物館のハート型土器は残念ながら展示されていなかった。
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綾瀬市上土棚南遺跡出土の中空土偶である。頭部を想像して、縄文の人々の仲間になるのもまた楽しい。
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平塚市王子ノ台遺跡出土の中空土偶。お面のような顔立ちから「仮面土偶」とも呼ばれる。古墳時代の埴輪を連想させてくれるが、この土偶は本当は美しい女性である。
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昨年発見された秦野市菩提横手遺跡出土の中空土偶。あちらこちらの展示会に引っ張り出されて忙しい1年を過ごした。
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大井町中屋敷遺跡出土の弥生時代土偶形容器。前の方にちょこんと見えているのが骨片。
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中屋敷遺跡は、神奈川県では最も初期の弥生集落で、イネ・キビ・アワの炭化穀類が出土したことから、稲作が始まったと考えられている。
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今回は、縄文から弥生への移行期に関しての講演と特別展であった。旧石器時代から縄文への移行期、弥生時代から古墳時代への移行期など、歴史の中での移行期は激変のときなので、その原因と結果を考察することは面白い。縄文から弥生への移行期については、まだまだ分かっていないことの方が多いので、植物考古学のような地道な研究がなぞ解きをしてくれることを期待している。さらにその成果が今日の問題への解決策を与えてくれればなおさらよいとも思う。このようなことを考えながら夕闇が迫る神奈川県立博物館を後にした。