bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

神奈川県立歴史博物館特別展「洞窟遺跡を掘る」を見る

歴史学者網野善彦さんが「百姓は農民ではない」と言明し、そしてそのあとの歴史学に大きな影響を及ぼした。神奈川県立歴史博物館では「洞窟遺跡を掘る―海蝕洞窟の考古学―」という特別展示を行っている。この展示は「弥生時代水田稲作」ではないことを改めて認識させてくれる。ここには弥生時代から古墳時代にかけて、海蝕によって形成された三浦半島突端の洞窟の中で住んでいた人々の遺物が展示されている。

これらの遺物は、彼らが「海の人々」であることを印象付けてくれる。夥しい数の魚と海産動物の骨と加工された貝類、そしてはるかに少ない陸産動物の骨、さらには農耕器具の欠如が、動物性食料それも海由来のものを主食としていたことを物語っている。また収穫を祈ったりあるいは予想したのだろうか、多数の卜骨の存在も目立つ。残されていた人骨からは、ミトコンドリアDNAが調べられ、弥生人に見られるタイプであることが判明している。

洞窟遺跡を最初に発見したのは小学校教員であった赤星直忠。1924年7月13日に、太刀川総司郎とともに、三浦半島の東端の横須賀市鳥ヶ崎で発見、東京帝国大学人類学研究室に連絡して、同研究室の小松真一が現地調査、さらに小松がやり残した部分を赤松と太刀川が発掘し、弥生時代後期から古墳時代の遺物を発掘した。

戦後は、住吉神社裏・猿島・間口・向ヶ崎・大浦山・毘沙門・雨崎・海外の洞窟遺跡を調査した。そして間口洞窟遺跡では卜骨を初めて出土した。この遺跡の発掘は神奈川県立博物館に引き継がれ、1970年代初頭に数回の調査が行われた。また最近では2014年より、神奈川県立歴史博物館により白石洞窟遺跡の発掘が進められている。

洞窟遺跡の原点となる鳥ヶ崎洞窟遺跡(弥生後期~古墳後期)の展示物から、最初は土器。右下の土器には、ちょっと気持ちが悪いが人の歯が入っている。子供のころ、歯が抜けると上の歯は床下に下は屋根の上に投げればちゃんとした永久歯が生えてくる、と言われた。これに近い習慣だろうか、それとも偶然に紛れ込んだのだろうか。今となっては知る由もない。

次は大浦山洞窟遺跡(弥生後期~古墳前期)。タマキガイの貝輪がところ狭しと並べられているのにびっくり。他の遺跡でも貝輪がたくさん出土している。これほど大量に存在しているのを見ると、腕輪のような貴重な装飾品として使われたとは思えない。日常の漁撈で用いる道具であったように思えるのだがどうだろう。

赤色顔料も用いられていた。

海藻類をとるための道具として使われたのだろうか、加工されたハマグリやアワビの貝殻、

卜骨も、

弓の先の弦を巻くための部品と思われる弓弭(ゆはず)、

魚を捕るためのいろいろな道具。

さらに毘沙門洞窟遺跡(弥生後期~古墳後期)。土器類、

大浦山洞窟遺跡のところで見たのと類似の道具類一式、

続きだが、変わったところでは鹿角。漁撈だけでなく、狩猟もしていたのだろうか、

鹿の肩甲骨を用いての卜骨、

小鹿の骨を用いたようだ。

そして雨崎洞窟遺跡(弥生後期~古墳後期)。古墳時代後期だろうか直刀が展示されていた。

力が入っているのは間口洞窟遺跡(弥生後期~古墳後期)。アカウミガメの甲羅(腹の骨)を用いた卜骨。古墳時代後期の土層から発見された。

アカウミガメ骨格標本

加工途中の骨角片。全体が残る骨角片は発見されていないので、ある程度加工したものをここに運んだと考えられている。

貝刃。魚のうろこをとるためなどに使われたと見られている。

貝包丁。海藻類を取るための道具だったようだ。

夥しい数の小さな巻貝。

洞窟遺跡と対比するために、陸路や水路を通して交流があったと思われている遺跡も紹介されていた。その中で、池子遺跡の展示を取り上げよう。この遺跡から、弥生時代の河川の跡が見つかり、湿った土壌の中に封じ込められていた木製品や骨格製品が大量に出土した。通常は、これらは腐ってしまうので、貴重なこの時代の遺物である。同時に発見された魚類の骨から相模湾沖合海域まで繰り出して捕獲したことが分かり、分析した桶泉岳二は、表層漁業に特化した集団の存在を指摘した。そして洞窟遺跡は、遠征時の野営場所や避難所として利用したのではという可能性も指摘した。
池子遺跡からの土器類、

道具類


鹿の角。

会場の中ほどに、出光博物館所蔵の弥生時代後期に属す土器(壺:重要文化財)が展示されていた。これは三浦半島対岸の房総半島の明鐘崎(みょうかねさき)洞窟遺跡から出土した。上・中・下段に朱色の輪があり、輪の間には縄文模様もあり、これまでに見た弥生土器の中では際立って端正であった。三浦半島側の洞窟遺跡も似たような文化であったと思われるので、そこに住む人々もこのように綺麗な土器を愛でながら、その日その日の漁に胸躍らせていたのだろうか。水田稲作とは異なる弥生・古墳時代の人々の生活を知ることができ、多様な文化を確認できる良い展示であった。