bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

藤田達生著『戦国日本の軍事革命』を読む

ウクライナへのロシアの侵攻が、多くの人々に戦争の現実を鮮明にさせてくれた。日本の戦国時代も同じように人々は戦争に明け暮れた日々を過ごしていた。そして戦国時代中頃のヨーロッパからの鉄砲伝来は、これまでの政治・経済・社会の体制に大きな変化をもたらしたようだ。藤田達生さんは「軍事革命」と称して、歴史的な画期であったと明言している。

鉄砲伝来前の勝利の条件は「高(敵よりも高い位置にある陣地)・大(体躯に優れた騎馬)・速(機動性に優れた軍勢)」で、木曽馬を入手できる東国が軍事力では有利であった。戦いは、離れた位置から始まり徐々に接近戦となる「弓→槍→刀」の順で展開した。そして兵糧は基本的には持参であった。武士は日ごろから馬術・弓術・槍術・剣術の修練を必要とした。また戦国時代前半になると、足軽以下の雑兵が長槍隊の構成員として加わるようになった。長槍には7mに及ぶものもあった。使いこなせるようにするため、専属で雇い、訓練を重ねる必要があった。

このような古い体制を変えることとなる鉄砲の伝来は、これまでは天文12年(1543)のポルトガル人の種子島漂着によるとされていたが、これは一例にすぎないようだ。それ以前に倭寇がマラッカなどの東南アジアで使用されていた火縄銃を伝えたという新説(宇田川武久)もある。さらに、倭寇の中国人密貿易商人・王直(おうちょく)が天文11年にポルトガル人を種子島に導いたという説(村井章介)もある。これらのことから、倭寇介在の多様な鉄砲の伝来が考えられると著者は指摘している。弓の最大射程距離が380mであるのに対し、鉄砲は500mにも及んだので、陸戦は言うに及ばず海戦では特に有効な新しい武器となった。

鉄砲の国産化は日本刀での鍛造技術を生かして急速に進み、永禄年間(1558~1570)には、国内での普及が本格化し、堺・近江国国友村・紀伊国根来・近江国日野で鉄砲鍛冶集団が成立した。鉄砲には、火薬(焔硝に炭と硫黄を調合)・鉛を必要とするが、これらの調達には武器商人が欠かせなかった。この時代、焔硝と鉛は輸入品で、東アジアの武器商人・南欧商人・イエズス会関係者などの仲介人から手に入れた。天下統一を成し遂げた織田信長は、今井宗久などの堺商人と結託して、彼のもとに集中するルートを形成し、優位な立場を確保した。

また大砲の場合には、軌道計算のための科学的な知識が必要であった。このため経験知に基づいて戦略を練った軍師の役割は低減し、鉄砲の扱いに慣れた傭兵部隊(鉄砲衆)が活躍する舞台となった。その代表として根来衆(後に毛利氏の家臣)や雑賀衆がいる。豊臣秀吉や信長の場合には、直属の鉄砲隊だけでなく、大名以下の部隊を集めて編成したので、これも傭兵に近い。長槍隊は、フォーメーションを守りながら長槍をたたきながら前進する。このため帰属先(大名直属あるいは家臣配下)での日ごろの訓練が大切であった。鉄砲隊の場合も同様で、鉄砲ごとに飛び方に癖があった(ライフルと呼ばれるらせん状の溝が切ってなかった)ので、日ごろの訓練をそれぞれの帰属先で行い、戦争になると混成部隊として組まれた。

戦国時代の戦い方を変えたのは、信長の3千挺の鉄砲隊と武田の騎馬隊が戦った「長篠の戦」とこれまで言われてきた。しかし最近の説では、(廻国する砲術師により鉄砲の扱い方や火薬の調合法が広く浸透していたため)武田勢もそれなりの鉄砲を持参していたが、火薬や玉不足が大敗の要因だったと結論付けられている(平山優)。先に記したように、信長はこれらの材料を入手するための確固としたルートを保持していたのに対して、東国の武士は確保するのが困難だったようだ。これはその後、秀吉に敗れた北条氏についても言える。不足している鉛を補うために、武田氏は悪銭を、北条氏は梵鐘を給出させ、高価だが破壊力で劣る銅玉や鉄玉を鉛玉に代えて製造したが、優位には立てなかった。

著者は、鉄砲の普及を三段階に分けている。➀鉄砲が贈答品であった段階。②鉄砲隊が成立し、戦術に変化がみられる段階。鉄砲の普及は西から東へ(西高東低)、信長の鉄砲保有量は、他の戦国大名と比較して、最初は大差はなかったが、上洛した頃(1568年)より飛躍的に増加した。③大砲銭が本格化し、家康が天下を統一した段階。

それでは段階②での戦術の変化を見ていこう。一つは先に述べた傭兵化。戦国時代前半には、畿内近国の地域社会は惣村で、これは百姓によって形成された自治村落であった。しかし後半になると、惣村は国人領主や豪族たちがリーダーとなり、郡中惣や惣国一揆という地域勢力が台頭し、村落の自治は埋没した。鉄砲が浸透したのもこの時期で、国人領主土豪たちが百姓たちに鉄砲を持たせて足軽化し、諸大名の要請を受けて彼らを傭兵のように扱うようになった。

伊賀や甲賀では、国人領主土豪たちが相互の間での利害対立から、半町から一町の大きさの方形城舘を持つようになった。しかし傭兵として外部に赴くという要請から、利害対立による緊張関係は、逆に、甲賀郡に見られる同名中・同名中連合・郡中惣のような高度な自治システムをもたらした。そして外部での戦争維持が内部での高度な自治による平和の保持という奇妙な現象を引き起こした。これは信長や秀吉に見られるような天下を平定して平和を導くという考え方とは逆行する。このことから信長や秀吉がいかにこの時代の常識と合わない考え方をしていたかが分かる。

鉄砲の伝来によって、前に述べたように長槍から鉄砲へと武器が変わったため、戦い方にも大きな変化がみられる。武田信玄上杉謙信が戦った川中島の戦い(1561年)の「川中島合戦図屏風」には、最前列に長槍を持った一団が横一線に並んでいるが、信長が武田勝頼と戦った長篠の戦い(1575年)の「長篠合戦図屏風」では、信長軍は長槍に代わって鉄砲隊を並べている。

信長は野戦だけではなく、相手方の城を攻めるときも戦い方を変え、付城を設置しての付城戦となった。そして一時的な勝敗を問題にするのではなく、相手の息の根を止める殺戮戦へと変化した。付城銭が本格化するのは、信長と足利義昭との戦い(一向一揆)であり、物量戦・消耗戦となった。この戦いでは番匠・鍛冶・鋳物師・金堀りなどの職人集団を必要とし、足軽の役割は高まった。また海戦においても大砲を搭載できるような巨大で重厚な安宅船が用いられるようになった。

それではシステマティックになった信長の軍事を見ていこう。彼は検地によって軍役の賦課(軍事動員)を可能にし、兵站システムを構築して統一戦争を遂行した。検地は、戦場での陣立・軍法と結びついている。これまでの戦いでは、戦国大名の軍隊は、小戦国大名の連合で、整然としたものではなく、陣立も適当で、民衆への乱暴も目立った。信長は、全国規模で検地をおこない、石高に応じてそれぞれの大名たちの軍役を決定して動員するとともに、軍勢に対しても規律ある行動を求めた。

信長は服属した地域に対して一国単位で仕置きを強制した。仕置きは、抵抗拠点である城の破却(城割)を行い、大名・国人領主の領地高を検地(差出)によって確定し、それに基づいて所替を強要した。これによって、領地と不可分であった中世的な領主権を奪い、大名・国人領主は官僚的な家臣となっていった。これは公家・寺社についても行った。これにより中世の荘園に代表される錯綜する土地の利権は、信長のもとに一元的に所有されることとなり、大名・国人領主は、信長から与えられた領知から、石高に応じて年貢を賦課できる権限を与えられたとともに、同じように石高に応じた軍役を果たす責務を負うことになった。著者はこのような権利を「領知権」と呼んでいる。

信長は、大名・国人領主に対して所替を行うとき、彼らに旧領地の石高を申請(指出)させ、その申請に基づいて石高を決定し、その石高を有する新領地をあてがった。旧領地の方が新領地より石高が高いので、その差分は信長所有の蔵入地にした。蔵入地は、戦争時の食糧庫となり、兵站システムを確立した。これにより戦地での略奪による食糧確保を回避することができるようになった。

戦国時代には、年貢は銭による貫高で示されていた。様々な銭貨が無秩序に流通していたので、使用価値・交換価値としての汎用性・安定性が高い石高へと変わり、これは江戸時代まで続くこととなった。また信長は、米を貨幣代わりに使用することを禁じた。さらには、米を測る枡を京枡に統一した(従来は秀吉が統一したとされていた)。

仕置きが浸透するとともに、領知権を授けられた大名が領民を統治するという体制が浸透していく。これにともない信長は、支配の正統制を示すために自らの神格化を行い、独自の権威の構築、「天」から「天下」の領知権を預かったことを論拠とする「預治思想」で、天皇権威を利用しながらその相対化を図った。預治思想は軍事国家建設を正当化する思想的背景ともなった。

道半ばで倒れた信長の思想は、秀吉に受け継がれる。彼は、天皇制を中心とする古代国家、すなわち国家的土地所有制度と関白中心の政治制度、を再建することをスローガンに、天下統一を目指した。これは中国古代の周王朝の理想的な制度を記した儒教の古典「周来(しゅらい)」を目指したものであった。

そして江戸時代になると、遠見番所の設置などにより海防体制を構築し、諸藩では城付の武器や武具を貸し出す御貸具足制度や、紀州藩での「四民皆兵」に見られるような農兵の活用などを行うことにより「高度な武装国家」が誕生し、「徳川の平和」が維持された。

以上がこの本から得た私の要約である。歴史に興味を持っている人であれば、戦国時代の天下を分けた戦いでのそれぞれの武士たちの功績について詳しいことだろう。しかし、勝敗がなぜ分かれたのかを、個人としての部将という視点に立つのではなく、軍事面から論じるとなると難しさを感じるだろう。そして軍事そのものを正面から論じた本はあまりなかったように感じている。軍事での量的な差あるいは質的な差がどのような結果を生み出すかがこの本を通して明らかになるとともに、そのような差を生み出した経済的・社会的な背景についても論じられている。このため戦国時代に対して新たな知見を獲得することができ、とても有益であった。