bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

訪れる人が少ない鎌倉の名刹を巡る

梅雨の時期、雨を心配しながら、2回に分けて鎌倉巡りをした。1回目は鶴岡八幡宮を中心に、鎌倉幕府が設けられた三か所(大倉幕府・宇都宮辻子幕府・若宮大路幕府)と、鎌倉殿の13人に出てくる有力武士の邸跡を訪ねた。2回目は北鎌倉駅を出発点にして、小雨の中を大勢の観光客にもまれながら明月院の紫陽花を楽しんだあと、亀ヶ谷坂切通しを抜けて、訪れる人が少ない寺院を散策した。

今回のブログでは、あまり馴染みのない寺院について紹介しよう。歩いたコースとは異なるが、これらの寺院を訪れるとすると、下記のような経路になる。

最初に紹介する寺院は、妙法寺本願寺である。この2寺は小町大路(たくさんの観光客が行きかう小町通りではなく、若宮大路を挟んで反対側)に沿ってある。鎌倉時代には、段葛で知られる若宮大路は高貴な身分の人のみが通れる道で閑散としていたのに対し、小町大路は武士や町人など多くの人が行きかい、幕府があった大倉御所から港となった和賀江島へと通じる道であった。本願寺のあたりは、山側の武士の館と海側の町人町(大町と呼ばれた)との境で、ここには夷堂(えびすどう)があり、商売繁盛の神である恵比寿神が祭られていた。また小町大路には、この2寺も含まれるが、日蓮宗の寺院が多い。多くの人が行きかう場所で、布教活動をしたのであろう。

妙本寺は、比企谷(ひきがやつ)にある。開山は日蓮上人、開基は比企能員(よしかず)の末子の能本(よしもと)である。NHK大河ドラマ「鎌倉の13人」では、佐藤次郎さんが、ちょっとつかみどころのない男にして、能員を演じている。能員は源頼朝の乳母であった比企尼の猶子で、2代将軍となる源頼家の乳母夫である。また娘の若狭局は、頼家の側室となり嫡子の一幡を産む。一幡がもし将軍になると、能員は外祖父となり、幕府を牛耳るような権力を持つことが予想された。これを恐れた北条時政とは対立する関係になり、比企の乱が起きて比企一族は滅亡した。しかし能本のみが生き延び、のちに比企一族の鎮魂をこめてこの地に妙本寺を建立した。

比企の乱は『吾妻鏡』によれば次のような経過をたどった。建仁3年(1203)に頼家は危篤状態に陥ったので、時政は頼家遺領分与を決定した。これに不満を持った能員は、頼家に時政の謀反を訴え、時政追討を命じさせた。これを襖の陰で立ち聞きした政子が、時政に告げた。これを知った時政は、仏事の相談があるとして、自宅の名越邸へ能員を呼び出した。密議が漏れていることを知らない能員は、武装せずに平服のままで時政の屋敷に向かった。門に入ったところで殺された。比企一族は屋敷にこもって防戦したが、大軍に追い詰められ、一幡を囲んで自害した。

妙本寺祖師堂、

祖師堂の構造物、

二天門、

境内に咲いていた珍しい八重のドクダミ

次は本覚寺(ほんがくじ)。ここには先に述べた通り夷堂があった。頼朝が、幕府の裏鬼門にあたる方向の鎮守として、天台宗の堂を建てた。佐渡に流されていた日蓮が戻ってきたときに、ここに滞在し説法の拠点とした。そのあと一乗房日出(にっしゅつ)が日蓮ゆかりの夷堂を天台宗から日蓮宗に改め、本覚寺を創建した。

本覚寺本堂、

武家門様式の裏門。

比企谷を後にして、鎌倉五山寿福寺に向かう。開基は北条政子、開山は栄西栄西臨済宗の開祖として有名であるとともに、廃れていた喫茶の習慣を再び伝えたことでも知られている。
寿福寺仏殿、

綺麗な石畳。桂敷きと呼ばれる技法で、外側は一直線になっているが、内部は不規則に石が並べられ、それが醸し出すパターンが奥ゆかしい美を感じさせてくれる。

中門から見る庭園。

次は扇ガ谷(おおぎがやつ)にある浄光明寺。ここには国の重要文化財に指定されている阿弥陀三尊像がある。訪問した日はこれらを拝観できず残念であった。阿弥陀如来の脇待坐像である勢至菩薩は、神奈川県立歴史博物館に複製があり、写実的な姿を楽しむことができる。
光明寺本堂。
      
違和感を覚えたのが境内にあった楊貴妃観音であった。(観音)菩薩は、釈迦になることを約束されて、衆生を救うために修行を重ねている人だが、傾国の美女である楊貴妃がこれにあたるのだろうかと疑問に思った。同行者が道教からの影響と説明してくれ、納得した。

最後は扇ガ谷の北、風光明媚な渓間(たにあい)にたたずむ臨済宗海蔵寺である。真言宗の寺跡であった渓に、鎌倉幕府6代将軍宗尊親王の命により、七堂伽藍が再建されたが、鎌倉幕府の滅亡のときに消滅した。室町時代鎌倉公方足利氏満の命により上杉氏定が再建した。開山は心昭空外である。

寺の傍には、鎌倉十井の一つである底脱(そこぬけ)の井がある。安達泰盛の娘・千代能が、水を汲みに来たときに、水桶の底がすっぽり抜けたので、「千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば月もやどらず」と歌ったことから、この名がついたと言われている。鎌倉は海岸が近いために、水は塩分を含んでいることが多く、良い飲み水を得ることが困難であった。良質の水が出る井戸は貴重で、優れた10ヶ所の井戸は鎌倉十井と呼ばれた。

海蔵寺本殿、

仏殿。内部に薬師三尊が納められている。

鎌倉は狭隘で、墓地にさける平地はなかったので、崖を掘ってやぐらを作った。

鳥居もやぐらの中に納まっていた。

庭園が素晴らしかった。




花もきれいだった。珍しいイワタバコ、

菖蒲、

紫陽花。

また16個の井戸を持つ十六井戸もあった。

コロナもだいぶ落ち着いてきたことと、今年の大河ドラマの舞台が鎌倉であることもあって、小町通り鶴岡八幡宮、長谷の大仏を初めてして人気のあるところは、人でいっぱいである。古都鎌倉の風情を楽しもうとする人にとっては、何とも残念なことだろう。しかしこのようなときは、あまり知られていないが、鎌倉らしいところを訪ねるのが良いと思う。今回紹介したところはそのようなところで、人気のスポットから少し外れているために、鎌倉を良く知っている人しか訪れないとっておきの場所だ。特に最後に紹介した海蔵寺は、鎌倉の寺院の中では室町時代と比較的新しいが、鎌倉時代の寺院(例えば円覚寺舎利殿)と比較することで、様式の変化を楽しめることだろう。