bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

本郷恵子著『将軍権力の発見』を読む

室町時代はあまり人気のない時代のようだ。前後の鎌倉・戦国には傑出した人物が多いのでその陰に隠れてしまうのだろう。室町時代は足利氏が将軍家で、NHK大河ドラマ麒麟がくる』でも、15代将軍の義昭はかわいそうなくらいに弱々しい。最後の将軍だから仕方がないのだろうか。この時代は、南北朝の動乱に始まり、尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱関東公方室町幕府に反抗した永享の乱、将軍義教が謀殺された嘉吉の変、畿内とその周辺での一揆、関東一円の争いとなった享徳の乱、東軍と西軍とに分かれて戦った応仁の乱まで、三代将軍義満の時期を除けばほとんど絶え間なく戦乱が続き、次の秩序を求めて社会がぐらぐらと揺さぶられ続けた。

室町時代初めの南北朝期には、太政官符・官宣旨などの古い書式の文書がたくさん発見されている。これらは律令制に基づくもので、天皇の裁可あるいは太政官会議での決定を受けて、太政官から発令される公式な文書で、律令制が活きていた奈良・平安時代に、朝廷・公家政権で用いられた。しかし武士政権の鎌倉時代に移行すると、太政官符・官宣旨は廃れ、将軍あるいは幕府が発行する下文・下知状・御教書などの武家様文書が使われた。武家政権にもかかわらず、室町幕府初期に太政官符・官宣旨が多用されたことについては、これまでも疑問に思われたこともあったが、これを説明する決定打を欠いているので、改めてなぞ解きをしようというのが、この本である。

これまで、中世の国家体制を説明するために、いくつかの学説が立てられた。古いところでは、黒田俊雄さんの「権門体制論」。公家権門・宗教権門・武家権門の三者がそれぞれ相互補完的関係を持ち、一種の分業に近い形で権力を行使したというものだ。

さらに佐藤進一さんは「東国国家論」で、武家による東国国家と公家による王朝国家が、相互規定的関係をもって、それぞれの道を切り開いたという説を示した。この説は、そのあと五味文彦さんにより「二つの王権論」へと成長した。さらに佐藤進一さんは、室町幕府初期の足利尊氏・直義兄弟による二頭政治を、主従制的支配論(軍事)と統治権的支配論(政治)とに分離した学説を示した。

アナール学派を代表するフェルナン・ブローデルは、歴史を「長波(地形・機構など)」「中波(経済・国家・社会・文明など)」「短波(出来事・政治・人間)」の三重構造として把握することを提案した。彼の論に従えば、中世という時代は、武士の時代をもたらした気候や地勢が長波で、国家や経済に関わる「権門体制論」や「二つの王権論」は中波で、政治と人間に関わる「主従制的支配論と統治権的支配論」は短波である。そして室町幕府立上げ直後の統治体制を論じたこの本は「短波」といえる。

この本では、三代将軍義満の管領として権力の中心にあった細川頼之のころに確立した統治体制について次のように述べている。すなわち、「(細川頼之の)構想のキーワードは「外交」である。幕府をいただく畿内中央ブロックは、他の地域と外交関係を維持しつつ、絶えず自らの優位性を示し、他地域を圧倒していかねばならない。その優位性を与えてくれたのが朝廷である。公家政権と、公家政権が維持・継承してきた統治理念を自由にできることこそが、室町幕府を傑出した存在たらしめたと言えよう」とまとめている。

上記の「外交」は次のように説明できると思う。足利氏は源氏一門の中では家格の高い一族であったが、他を超越するというほどのものではなかった。このため、足利氏の命令:指示に抵抗しようとする勢力は少なからずあったであろう。抵抗勢力を抑えるには武力という選択肢があるが、常に戦うというのは体力を失わせるので、文化によって平和裏に進めたほうが権力は持続的となりやすい。都合のよいことに、権力はそがれているものの、伝統的な権威を有する朝廷・公家が近くに存在した。室町幕府は、朝廷・公家の統治的な文化を乗っ取り、自由に利用することで、抵抗勢力に対して文句のつけようのない優位性を示し、政権を保持しようと企図した。

朝廷・公家が有する文化は、律令制のもとで培われてきた文書による統治である。奈良時代より、綸旨や太政官符などにより、中央の朝廷より地方の国衙に命令・指示を伝達してきたという長い歴史を有し、文書による統治は、広く受け入れられ伝統的な権威を有していた。鎌倉時代になってからは、将軍や幕府が御教書などにより御家人に命令を直接伝えるという形態をとったため、朝廷の文章は廃れてしまっていたが、これを復活させて、文化によって他の勢力を圧倒する、すなわち外交によってというのが、細川頼之の狙いであった。また、命令を伝えるのが、部下である御家人ではなく、半ば独立した守護大名禅宗寺院へと、性格が変わったことも作用した。

このため、室町幕府から守護大名禅宗寺院に命令や指示を伝えるときは、奈良・平安時代の形式に倣って、朝廷・公家から、守護大名禅宗寺院が属している国衙に仰々しいほどに公的で権威ある方法で命令・指示を伝え、そのあとで、室町幕府から守護大名禅宗寺院へ実行力のある手段で命令・指示を伝えるという「外交」を用いた。

それでは「外交」についての具体的な例をこの本から二つほど紹介しよう。最初の例は、室町幕府禅宗寺院の直接統制を目指すが、その政策の一環として、主要な禅宗寺院の京都の臨川寺に対して、諸役免除を与えたときのプロセスである。室町幕府から禅宗寺院に対して御教書を与える前に、朝廷から国司に対して下図に示すように太政官符を発している(⑥と⑩は古文書が存在する)。
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➀これは仮定となるが、室町幕府から朝廷に対して、臨川寺に対して諸役を免じることにしようという執奏(武家から公家への政治的申し入れ)がなされた。そして室町幕府は、臨川寺に対して、奉状と呼ばれる正式の書式で、朝廷に願いを出して欲しいと伝えた。
臨川寺は、朝廷側の受付窓口に奉状を提出した。役所内の手続きを経て、上卿(この件の指揮を執る公卿)の中院通冬の手元に届いた。
③中院通冬は崇光天皇の意向を伺った。
天皇は申し出を認めると内侍に伝えた。
⑤内侍は天皇の勅を蔵人の坊城俊冬に伝えた。
⑥坊城俊冬は、奏状を添えて勅裁伝達文書と呼ばれる書式で、認められた旨を中院通冬に伝えた(貞和5年(1349)4月15日)。
⑦中院通冬は弁官局の左中弁平親明に太政官符を発出するようにとの宣を出した。
⑧平親明は左大史小槻匡遠に対して太政官符の作成を命じた。
⑨小槻匡遠は書類を作成し、少納言局から太政官の公印を捺印してもらった。
⑩小槻匡遠は、太政官符を、山城国司に送付した。さらに同じ内容の太政官符を関連する国司にも送付した(貞和5年(1349)4月28日)。
⑪小槻匡遠は、臨川寺にも同様の太政官符を送付した。

何とも複雑な経路を経て、仰々しい公文書が発行されたことが分かったが、手間と時間をかけている割には、物理的な効力はそれほどない。免除を履行するとされている国司は、この時代には形骸化し、任命された国には赴任せず、京に居住し、職名を与えられただけの存在である。このため、この文書に基づいて、国司臨川寺の利益を守るための行為をすることはあり得ない。この時代の現実に即して考えれば、実行力を伴う守護に送付されるべきであるが、旧例に倣って国司が宛先となっている。

ただ臨川寺側にはご多大な利益はある。由緒正しき、格式のある文書をひけらかすことによって、多くの人を納得させる「外交的」な効果はあったと思われる。

しかしこの太政官符を利用して9年後に、
⑫将軍から臨川寺に対して、物理的に効力があることを認める御教書(1356年)が送られている(延文元年(1356)10月12日)。
これは、2年後には将軍となる義詮から、臨川寺に対して、太政官符を根拠に諸役が免除されていることを認めたものである。これに違反した場合には、室町幕府による物理的行使を辞さないことを伺わせるものである。

このような面倒くさい手続きを経ずに、室町幕府から臨川寺あるいは守護に対して、御教書を出せばよさそうなものでが、誕生して間がない室町幕府には、世間に認めてもらえるような権威はまだ備っわていなかった。朝廷の場合であれば、天皇あるいは院から綸旨・院旨で(実行力を伴うかどうかは別として、見かけだけかもしれないが)全国に行き渡るような命令を下せた。そこで、この方法を乗っ取ることで、室町幕府の権威付けをする方法を発見したのではないかというのが、この本の著者の見立てである(著者は、全国に行き渡ることを当然のこととして与えられている朝廷・公家権力を演繹的、勢力を獲得しながら徐々に及ぶ範囲を広げてきた武家権力を帰納的と言っている)。

次の例は、室町幕府と鎌倉府との命令・指示がより外交的に行われていることを示したものである。臨川寺のときと同じように禅宗寺院の直接統制を目指す一環として、鎌倉の円覚寺に諸役免除を与えたときのプロセスである。臨川寺は尊氏から義詮へと移行する時期で、太政官符が外交的な手段として用いられ始めたころである。

これに対して、円覚寺は三代将軍義満の頃で、管領細川頼之である。古文書として残っているのは、太政官から円覚寺に向けての官宣旨である(永和3年(1377)12月11日)。太政官符の場合にはその公印を捺印するが、官宣旨では省かれるため、格付けの点では少し劣る。この官宣旨では尾張国内の円覚寺領に対して、諸役免除するように命令している。このため、同じ官宣旨が、尾張国司にも発せられたものと考えられる。

さらに尾張だけではなく、円覚寺領がある他の国司にも同様な官宣旨が送られ、その中には出羽国も含まれていたであろう。直後に、実務を担っている管領細川頼之から、出羽国守護斯波兼頼に対して奉書が発せられている(永和3年(1377)12月24日)。律令制のもとでは、天皇あるいは院から綸旨・院宣で当事者に命令を伝達するところを、室町幕府がこの部分を乗っ取り、幕府の伝達ルートとして利用したと説明されている。
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そして、太政官符・官宣旨が出された背景には、「その背後には、朝廷のもっとも権威ある文書の発布を自由に操作し、全国に号令することのできる政権として、自らを演出する意図が働いていたのである」と著者は説明している。

細川頼之が失脚し、そのあと足利義満は将軍権力を確立し、皇位簒奪をしようとしたのではという説もあるほどに朝廷・公家権力を自由に利用するが、ここに至るプロセスを具体的にそして論理的に説明してくれ、とても素晴らしい書籍であった。なお、この本は文庫本化され、昨年の暮れから出版されている。そこではご主人の本郷和人さんが解説を書かれているので、読まれると面白いと思う。