bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

ストーン・サークル―田端環状積石遺構を訪ねる

近辺にはない材料を購入するために、普段はほとんどいくことのない町田市北部にショッピングに出かけた。探していたものも容易にみつかり、それを車に詰め込んでいるときに、近辺に遺跡があることを思い出した。グーグルマップで検索すると、京王線多摩堤駅の北側すぐ近くに、田端環状積石遺構が出てきた。
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遺構の南側には、境川が西から東の方に流れており、この地域がかつての武蔵国相模国との国境であったことが分かる。明治時代の地形を調べると、下図左側が明治39年測図のもの、またX印が遺構の位置である。右側は現在のもので、京王線谷戸に沿って敷設され、丘になるところでトンネルに入ることが分かる。また境川の南側、すなわち旧相模国の方は水田が豊かに広がっている。遺構付近は丘陵の麓に近い水はけのよさそうな場所である。このことから、縄文時代のこの地の住人たちは、後背の多摩丘陵でどんぐりやクリの採集・シカやイノシシなどの小型動物の狩猟をし、前面の境川で魚の採取をしただろうと推察できる。
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それでは遺構へと進もう。入り口には立派な看板がある。
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奥の方に入っていくと説明があり、縄文時代後期中頃から晩期中頃にかけて、およそ3900年~2800年前ごろに、連続的に構築された遺構であるとなっている。
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さらに長軸約9メートル、短軸約7メートルの楕円形に沿って、大小の礫が帯状に積み上げられ、長軸方向は富士山を望み、冬至には丹沢の蛭ヶ岳山頂に陽が沈むと記されている。ここに展示されている積石(サークルストーン)はレプリカで、実物はこの下に埋め戻されている。
東側から写真を撮ると、
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南側からは、
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最後に北側からは、
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積石の周囲には、集石墓7基、土壙墓25基、組石6基があったそうである。
また別の説明には、遺跡全体の図があり、ここは田端・田端東遺跡と名付けられていて、遺構はその一部をなし、北東の隅に位置しているとあった。
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田端・田端東遺跡は、縄文時代中期から晩期にかけて、約5000年から2800年前の集落・墓地・祭祀場から構成されていることが記されていた。中期には居住域として利用され、竪穴住居跡7件、配石2基が発見、後期には、集団墓地が形成され、50基以上の墓壙が分布するとされている。環状積石遺構は、周辺に居住する集団が死と再生に関連する祭祀を行った場所と想定されているとの説明もあった。現在はこの場所も埋め戻され、広い広場となっている。
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見学を終えて帰ろうとしているときに、入口の方から初老の夫婦が足早に現れた。見るからに遺跡巡りをしているのだという身なりで、小さなリュックを背負い、カメラを手に携えていた。余りにも心構えが違うので、言葉を交わす勇気も出ず、隠れるようにしてすれ違った。車に戻って振返ってみると、その夫婦は、暖かい日差しの中、ベンチに座り、おにぎりだろうか楽しそうに食べ始めた。重苦しいコロナウイルス禍の中、小旅行を楽しんでいる夫婦を見て、一時の安らぎを頂いた。