文明の衝突は社会を激震する。律令制や明治維新はその代表的なものだが、弥生時代の到来もそれに劣らない文明の衝突であった。
弥生時代に先立つのは縄文時代である。この時代は、1万年もの長きにわたって続き、人々は狩猟採集の定住生活を享受していた。この当時の人びとは、食糧確保のために費やす時間はそれほど多くはなかったと推察されている。傍証になるが、定住はしなかったが、同じように狩猟採集生活を送っていたオーストラリア先住民のアボリジニの人々は、食糧獲得のために、4時間半程度しか使っていなかった。彼らは、余剰の時間を音楽や絵画に振り向けていたが、縄文時代の人々はどのように振り分けていたのであろうか。
その一端を伺わせてくれるのが、時間をかけて丁寧に作成されたと見られる、土器や土偶である。縄文時代の中期になると、燃え上がる炎をかたどったような装飾性溢れる火焔型土器が出現する。同じころ、長野県の八ヶ岳山麓の遺跡では「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶が、後期の初めになるとそこから4㎞離れた地点で「仮面の女神」と称せられる土偶が造られた。また、東北地方でも後期には、合掌土偶や遮光土偶が造られている。
男女間での分業が行われていた縄文時代には、土器や土偶は女性により製作された。得意のおしゃべりをしながら余剰の時間をこれらの製作を通して楽しんだのであろう。他方の男性は余剰の時間をどのようにつぶしたのであろう。これは推察の域を出ないが、食料確保を兼ねながらスポーツとして狩猟を楽しんだのだろうか。
しかし、楽しんでばかりもいられなかった。縄文時代も晩期になると、これまで温暖であった気候は寒冷化し、現在よりも気温で2度程度低下し、縄文集落が集中した信州の山々には深い雪が降り、関東の海岸線は後退して、狩猟採取生活が困難になる。縄文時代最盛の中期には26万人程度の人々が住んでいたが、晩期には8万人程度に落ち込んだ。
縄文の人々が困難を極めている頃、新しい文明がもたらされた。朝鮮半島からの水田稲作技術を携えた人々の渡来である。今から3000年前のことで、九州北部で始まった。
水田稲作で特徴づけられる弥生時代の文化は、狩猟採集による縄文時代のそれとは大きく異なっていた。縄文時代の社会が家族あるいは拡大家族を中心とした共同体であったのに対し、弥生時代は血縁関係を超えた大きな集団が形成され、それを統率するようなリーダーが出現し、社会が階層化し始めるような社会であった。水田稲作は、水田の管理・運営に多大の労力を必要とするだけでなく、従事者間での協力や秩序を必要とする。水田稲作によって、多くの人々は土地に縛られ、離れられない状態になる。他方で、人や水田を管理するような人も現れる。
仲間内で諍いが起きたとき、縄文時代は他の場所に居住地を求めて去れることが容易に行えたが、弥生時代は水田に縛られているため、他の場所に移動することは容易ではなかった。このため、諍いが起こらないようにすることで生じるストレス、そして、諍いが生じたときにそれを解決しようとすることに起因するストレスは、それ以前とは比較にならないほど大きかった。他の言葉を借りるなら、縄文時代とは異質のモラルを弥生時代は必要とした。
さらには、収穫物である米や生産するための水田を狙っての集落の間での収奪も生じる。このため、部族間での対立を解決するための対策や方策も必要とした。
縄文時代は血のつながりを認識できるような人々の集まり、部族社会であったのに対し、弥生時代には、集団を統率する人が現れ、社会が階層化しはじめた。即ち、古墳時代に本格化する首長社会への移行期である。古墳時代になると地方豪族が大きな集団をまとめるようになり、さらに、ヤマト政権が誕生して原始国家が成立するようになる。
残念なことに、水田稲作をいったん始めてしまうと、かつての狩猟採集生活に戻ることはできない。単位面積当たりで獲得できるカロリー量では、水田稲作は圧倒的に勝る。このため、水田稲作を始めてしまうと人口が急増し、狩猟採集では維持できないほど多くの人々が居住してしまい、縄文時代の生活に戻ることは不可能になる。
水田稲作という新しい文明が日本列島に入り込んできたとき何が起きたであろうか。縄文時代の生活を維持していた在地の人々は、水田稲作を携えてやってきた渡来の人びとを、すんなりと受け入れたのであろうか。あるいは、撃退しようとしたのであろうか。逆に、撃退されたのであろうか。
関東地方に水田稲作がもたらされたのは、だいぶたってからのことである。横浜では大塚遺跡が有名であるが、ここに伝わったのは弥生時代中期後葉、2000年前ごろとされている。九州北部にもたらされてから1000年もたってからのことである。水田稲作を生業とする集落は、他集落からの攻撃に備えて、環濠で守られている。環濠は、集落の周りをV字型や逆台形の深い溝(大塚遺跡の場合は幅4.5m深さ2.5m)で囲んだ構造物である。大塚集落は、環濠集落全体が発見された、貴重な遺跡である。
小田原市の中里遺跡は、関東地方では最初期の弥生集落である。大塚遺跡から発見された土器は宮ノ台式土器であるが、この遺跡からはその一つ前の世代の中里式 (須和田式) 土器が出土している。中期中葉と呼ばれる時代に属す。
中里遺跡の北5㎞のところには、弥生時代前期前葉、およそ2500年前、の中屋敷遺跡がある。この遺跡からは炭化米が発見されている。関東地方での水田稲作の到来については解明されていない点が多いものの、この遺跡はこれを研究する上で貴重な存在と考えられている。
中屋敷遺跡は昭和女子大学が発掘調査を行っている。調査に当たっている人たちが女性だけというユニークさも手伝って、興味のある場所である。
ここから発掘された小型の精製品の土器は、縄文時代晩期以降の形式を踏襲しており、縄文文化が根強く残っていることを伺わせる。そして、面白いのは、土偶形容器だ。
先週まで、横浜市歴史博物館で、「横浜に稲作がやってきた」という特別展示が開催され、この土偶が展示されていた。そこで、文明の衝突の一端でも知ることができればと思い、見学に行った。
正面から見ると、
顔の表情が豊かで、入れ墨も施されている。普通の女性なのだろうか、それとも、祭祀と関係のある特別な人なのだろうか。縄文時代の土偶はほとんどが女性だ。この土偶も胸の表現があるので女性だろう。土偶と言えば、縄文時代を代表する遺物で、弥生時代には存在しないと思われているが、そのようなことはな。非常に少なくなるが400体ほど発見されている。その中で、土偶形容器と呼ばれるものもおよそ40体ほど見つかっている。土偶形容器は男女一対で作られることが多いので、対の男性の方はまだ地下で眠っているのだろうか。
上の方から見ると中空の容器のようになっていることが分かる。
容器の中には、骨が入っていたそうで、新生児の骨と鑑定されている。土偶が墓の副葬品として利用されることは縄文時代にはほとんどなかったが、晩期後半には東海地方ではそのように用いた例もあるそうだ。また、この容器の中に新生児といえどもそのまま入れることはできなかったと思われるので、一度埋めた後、その骨を取り出して容器の中に収めたと思われる。縄文時代後・晩期には再葬が広く行われるようになっていたが、その傾向をひくものだろう。また、弥生時代初期には、蔵骨器を用いた壺型再葬墓が発達するがその流れにも沿ったものである。
中屋敷遺跡の状況を見る限り、縄文時代からの継続性を読み取ることができる。また、炭化米の出現が示唆するように弥生文化の到来が近くまで迫っているが、新しい文化からそれほど大きな影響を受けているようには思えない。しかし、水田稲作文化の影響を本格的に受けるのは、この後であろうから、その時、どうであったかについては判断を下すことはできない。
中屋敷遺跡から発見された大型の土器も展示されていた。
これらには弥生時代の条痕文の模様がついている。写真の下の方に小型の土器が写っているが、残念ながら、これらの土器の原形の部分が破片に近かったので写真を撮るには至らなかった(この記事を書いている段階では、縄文時代の模様が記録として残らず残念なことをしたと感じている)。
特別展示を見た後、大塚遺跡も見て回ったので、その時の写真も載せておこう。
環濠はこのようになっている。
竪穴住居跡は、
復元された竪穴住居は、
掘立柱建物跡には高床倉庫が復元されている。
大塚遺跡の規模は2.2ha、竪穴住居の数は85軒、使用された年数は50年程度、各住居跡で3~5回程度建て替えられたと考えると同じ時期に立っていた住居はおよそ20軒、各住居に5人程度住んでいたとすると、同時期の居住者の数はおよそ100人と考えられている。遺跡は、1/3ほど残されていて、夜間を除いて見学できるようになっている。
また、隣接して、歳勝土遺跡がある。ここは、大塚遺跡の人たちの墓地と考えられていて、弥生時代の代表的な墓制の一つである方形周溝墓が30基ほど発見されている。
木棺が埋められた状況が復元されている。
また、墓の全体もわかるようになっている。
関東地方では、立派な土偶を見ることは少ないが、今回は、弥生時代のものとは言え、優れた土偶を見学することができ、とてもよかった。特別展示の入口には土偶形容器が、出口には人面付土器(横浜市上台遺跡)が置かれていた。これは、弥生時代後期のものであった。中期までは再葬墓として用いられていたが、これは集落から発見されたそうで、その用途が変化したのだろう。およそ1000年の弥生時代の変化を知ることもでき、良い展示であった。