bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

神奈川県立歴史博物館へ「縄文人の環境適応」を観るために出かける

我々現代人は、世の中が刻々と移り変わり、うっかりしていると流れに後れを取っていることに気づかされる激動の時代を生き抜いている。これに対して縄文人は、一万年ものあいだ狩猟採集の生活をし続けたというその長さと変化のなさに驚かされる。我々から見るととても退屈そうに感じられるのだが、どうなのだろう。

神奈川県立歴史博物館の今回の展示は、「イエイエそんなことはありませんよ。縄文人たちも環境の変化の中で、それにうまく適応しながら営々と生活を育んだのですよ」と反論したいのだろうと思い出かけた。

縄文時代の時代区分は研究者によって異なり、土器が発見された16,000年前頃とするのが多勢だが、氷期(更新世)が終わり間氷期(完新世)が始まる11700年前からとする研究者もなかにはいる。後者は、新石器時代が始まり、人々が定住生活を始めたことを拠り所としている。私もこちらの方が良いように感じている。

ちなみに縄文時代は、おおかた草創期(16,000~11,700前)、早期(11,700~7,000前)、前期(7,000~5,500前)、中期(5,500~4,400前)、後期(4,400~3,200前)、晩期(3,200~2,400前)に区分されている。

更新世(約258万年前から約1万年前)の最終氷期(約7万年前から約1万年前)の頃には現在よりも7度程度気温が低く、終了するころ(縄文時代草創期)には、気温は乱高下し、現在と同じ温暖な時期があったかと思うと、とても寒い時期もあったりする。

完新世(11,700前から現在)になると現在とほぼ同じ気温となるがそれでも小さく変動する。完新世が始まったころ、すなわち縄文時代早期から前期にかけて、現在よりも少し高い程度(+2℃程度)まで気温は上昇し始める。これにより大陸を覆っていた氷が解け、海面が上昇を始める。東京湾は、更新世の頃は陸地だったが、縄文海進により湾の奥深くまで海となった。

しかし前期末から中期初頭にかけて、気温の上昇は止まりかえって寒冷化し、海面も低下(縄文中期の小後退)するが、中期前葉からは温暖化が始まる。そして縄文時代の最盛期を迎え、中部・関東では、住居跡数、集落規模などが爆発的に増大する。発掘された遺構の集落は、中央の広場・墓地を囲むように住居跡が環状に並んでいる(環状集落)。この時代の人々は、サークルが好きなように感じるが、どのような意味があるのかを見出すことが出来ない。

今回の展示は中期から晩期までの神奈川県を中心とする縄文時代が対象で、縄文人の環境適応については壁面のパネルで紹介し、当時の遺物はパネルの前面に展示されていた。中期の土器は、新潟県の火焔型土器に見られるような装飾に優れた大型のものが多い。神奈川県の土器はそれには及ばないが、やはりその傾向を認めることができる。

把手に装飾がみられる深鉢(平塚市原口遺跡)

幾何学的な模様の繰返しが美しい鉢(平塚市原口遺跡)

渦巻き模様が綺麗な釣手土器(前は横浜市鶴見区生麦八幡前遺跡と相模原市緑区川尻中村遺跡・後は伊勢原市上粕谷・秋山遺跡)。照明用と考えている人が多いが実際はどうだったのだろう。

上は円、下は直線の組合わせが楽しい深鉢(相模原市緑区川尻中村遺跡)

日常的に食する実の形に似せたクルミ形土器(相模原市中央区田名塩田遺跡群)

漆を塗って装飾した鉢(伊勢原市西富岡・向畑遺跡)

黒曜石(平塚市原口遺跡)の産出できる場所は限定されている。物々交換によって入手したのだろうが、貴重品であったため隠し場所に大切に保存したようだ。このような場所はデポ(埋納遺構)と呼ばれている。

昨年10月7日に水道管布設替え工事の掘削中に出土した顔面把手で、今回の展示が初登場(座間市蟹ヶ澤遺跡)

中期末頃から後期初頭にかけては、長期にわたる寒冷期となり、大規模であった環状集落は一気に没落し壊滅状態になってしまう。海水面は、最も温かった前期には現在よりも2〜3m高く、中期にいたっても1m程度上にあったが、後期になると現在よりも低くなり始め、晩期には1mも低くなる。後期の初頭頃には温暖な気候が戻り、集落の規模が大きくなることは抑えられるものの、遺跡跡の数は再び隆盛期となる。また海水面が低くなった干潟を利用しての食生活が活発になり、貝塚を伴った遺跡も多く現れる。

後期には人々は精神的なよりどころを求めたのであろうか。土偶が多くみられるようになる。入口には大型中空土器(秦野市菩提横手遺跡)が飾られていた。


怒肩の中空土偶(平塚市王子ノ台遺跡)

頭部が欠如したが、内部の様子がわかる中空土偶(綾瀬市上土棚南遺跡)

デフォルメが著しい筒型土偶(鎌倉市東正院遺跡)

丸い顔の筒形遺跡(横浜市都筑区原出口遺跡)

土器も洗練された装飾を持ち、実用的になる。
浅鉢(横浜市南区稲荷山貝塚)

注口土器(清川村宮ヶ瀬遺跡郡)

注口土器(平塚市王子ノ台遺跡)

注口土器(伊勢原市三ノ宮・下谷戸遺跡)

注口土器(上土棚南遺跡)

使い道がわかりにくい単孔壺(平塚市王子ノ台遺跡)

果物入れになりそうな浅鉢(藤沢市遠藤広谷遺跡)

日常の生活には関係なさそうなので、非日常的な道具として使われただろう石剣(川崎市多摩区下原遺跡と町田市なすな原遺跡)

海岸近くに住む人々は、浅瀬での漁だけでなく、沖合に出てイルカ漁もしていた。それに使われたであろう有肩型銛頭(横浜市金沢区称名寺D貝塚)

神奈川県が晩期を迎えるころは、九州地方ではすでに弥生時代が始まっていたが、関東では集落数は激減し、遺跡を探すのが難しい状態になる。
今回の展示で唯一の重要文化財である土製耳飾(東京都調布市下布田遺跡)。群馬県桐生市千網谷戸(ちあみがいと)遺跡で作られたものが、調布市まで持ち込まれたと見られている。美しいものを求めて、人々は交易したのであろう。幾何学模様が美しく、とても繊細な造りである。制作にはかなりのノウハウが必要だったことだろう。



上記のような耳飾りは、そこにあるからといってすぐに使うことはできず、準備が必要である。幼いころに耳たぶに孔をあけ、最初はとても小さい耳飾りを入れ、段々に大きくしていくことで、びっくりするような大きさの耳飾りもつけられるようになる。このことを想像させてくれる大きさの異なる土製耳飾(相模原市緑区青山開戸遺跡)

耳飾りをつけていたことが分かる土偶(両方とも秦野市大岳院遺跡)


この時期の土器。装飾性に劣る香炉型土器と鉢(いづれ川崎市多摩区下原遺跡)

縄文人の環境適応というテーマでの展示だったが、パネルに気候変動などの説明はあるものの、土器や土偶などの展示がそれとうまくマッチしていない。展示担当者の意図が今一つ読みにくかったが、縄文時代中期から晩期にかけての移り変わりについては一通りの知識を得ることができた。重要文化財の耳飾りの制作法については、何人かの人と意見を交わし、主催者の方の意見も聞くことができた。どうやら胎土で丸いお餅のようなものをつくり、そのあと削り込んで繊細な形状にし、最後に焼いたようである。マニアックな疑問が解決してよかった。当初の目的は達成されなかったが、土製耳飾に日本の優れた技能の原点を見ることができ、まずまずであった。