bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

東北北部縄文の旅:概要・是川遺跡

1.概要

東北地方の北部にはたくさんの有名な縄文遺跡があり、北海道の遺跡と一緒に、世界遺産登録に向けて取り組んでいる。日本史の勉強を始めたころから、大規模遺跡やストーンサークルを見学したいと思って、機会をうかがっていた。そうこうしていると、秋の一通りの行事が終了した11月中旬に、丁度良い隙間ができたので出かけることにした。紅葉もまだ楽しめるかなと思って、あらかじめ2泊3日のツアーを申し込んでおいた。そうしたら、運の悪いことに、吹雪になると予報され、不安な気持ちを抱きながら、代表的な遺跡の訪問に出発した。訪問した遺跡は、古い方から年代順に、三内丸山遺跡(前期から中期)、御所野遺跡(中期後半)、大湯ストーンサークル(後期前半)、亀ヶ岡遺跡(晩期)、是川遺跡(主に晩期の中居遺跡)だ。

これらの遺跡は、縄文時代の社会的・文化的な変化を的確に伝えてくれる。三内丸山遺跡と御所野遺跡は、縄文集落の概念を塗り替えた大規模集落だ。また御所野遺跡には配石遺構があり、大規模な環状列石の大湯ストーンサークルへとつながる。これに続くのが、芸術性溢れる土偶・土器・漆の木製品で知られる亀ヶ岡遺跡と是川遺跡だ。亀ヶ岡文化と称せられているが、縄文の美が華やかに輝いたときだ。

縄文時代の時代区分は、研究者によって差がみられるが、山田康弘さんの『縄文時代の歴史』に従えば、早期(11,500~7,000年前)、前期(7,000~5,470年前)、中期(5,470~4,420年前)、後期(4,420~3,220年前)、晩期(3,220~2,350年前)である(但し、あとで説明するように更新世から完新世に移行したのが11,700前とされているので、早期は11,700前に始まったとする意見もある。また九州地方では3,000年前から弥生時代となるので、九州での晩期は短いものとなる)。これに加えて草創期があるがこれは後で説明する。

地質時代の区分によれば、氷期と関氷期を繰り返した更新世の時代が11,700年前に終了し、そのあとは、地球全体が温暖化した完新世の時代が続き、現在に至っている。なお、更新世完新世の両方とも、意外と思われるかもしれないが、氷河時代に含まれている。氷河時代は、北半球と南半球の両方において広大な氷床を有する時代と定義されている。現在の我々は暖かい時代に住んでいるように思っているが、時代区分では氷河時代だ。

世界史では、更新世の時代は狩猟(漁撈)採集生活であったが、完新世の時代に入ると、4大文明の地域では農耕牧畜生活に移行したと学んでいる。縄文時代は狩猟採取生活であり、更新世の時代の生活を続けていることになるが、更新世の時代は遊動生活であったのに対し、完新世になってからの縄文時代は定住生活になる点で、生活のありようが大きく変化する。定住生活をすることによって、土器などの道具を身の回りにたくさん置けるようになり、煮炊きなどが始まることにより食生活にも大きな変化が現れる。

縄文時代の区分の中で議論となるのが、草創期(16,500~11,500年前)と呼ばれる時代だ。青森県の大平山本(おおだいやまもと)I遺跡から16,500~16, 000年前の土器の破片が発見された。縄文時代の特徴の一つとされる土器が発見されたために、縄文時代に含めるかどうかで研究者の意見が現在でも分かれている。この時期は地質学的には更新世末の晩氷期と呼ばれ、2回の小温暖期と3回の小寒冷期があり、小温暖期には、(夏・秋の温かい季節には川岸に住んで漁撈をし、冬・春の寒い時期には森に住んで狩猟をするというような)半定住生活を始めた、いわゆる縄文時代へのスタートアップ(移行)のときだ。草創期は、地質時代区分も異なり、縄文文化が定着していないので、縄文時代に含めるのはどうかと思っている研究者も多いようだ。私も個人的には、縄文時代に含めない方が良いと思っている。

さらに世界史の区分と合わせて、早期を森林性新石器文化とよび、早期後半に縄文文化が確立したと見なしている研究者も見受けられる(春成秀爾「旧石器時代から縄文時代へ」2001年、『第四紀研究』)。この観点からとらえると、今回の旅行はまさに縄文時代真っ只中の旅で、期待が大きく膨らんでも不思議ではない。

縄文時代には、海が内陸まで進入してきた縄文海進、そして現在の位置近くまで後退する縄文後退があった。これは地球の気温の変化によって生じたと説明されることも多いが、間違いとは言えないまでも、主因ではない。日本第四紀学会は次のように説明している。

19,000年前には、北アメリカ大陸ヨーロッパ大陸の北部には、現在の南極氷床にも匹敵する高さ数千メートルの氷床が存在した。このころ、太陽と地球の天文学的な位置関係に変化が起こり、北半球高緯度地域での夏の日照量が次第に増加した。これにより、氷床は融解を始め、氷床から遠く離れた地域では、海面が年に1~2cmという早い速度で上昇し、最終的には100m以上も上昇したところがある(氷床の近くでは、氷床がなくなったため、その重みがなくなり、陸が上昇した。このため、海面の変動は少なかった)。氷床は7,000年前ごろには完全になくなった(但し日照量のピークは9,000年前。タイムラグによりこれ以降も氷床の融解が続いたのだろう)。

そのあと、海面は後退していくが、これは寒冷化により、失われた氷床が復活したというわけではない。大量の融解によって海水量が増大し、その重みで海洋底がゆっくりと沈下した。これによって海洋底のマントルが陸側に押し出され、陸地が隆起した。これによって相対的に海水面が下がったように見えた。このころ寒冷化するので、縄文後退の原因として説明しやすいので、そのような意見がかつてはあったが、実際にはそうではなく、地球の構造上の変化が、縄文後退の主要因とされている。

縄文海進は我々が住んでいるところ、あるいはその近くまでが海になったという衝撃的な現象なので、先ほど指摘したように、間違って相当の気候変動があったのではと思ってしまう場合も多いが、完新世になった11,700年前から現在まで、気候は極めて安定している。10℃以上も乱高下した更新世のときとは全く異なり、変動の幅は高々数℃だ。しかし小さな温度変化にもかかわらず、大きな影響を受けている。

縄文時代の気温変化は次のようになっている。前期後半(6,000年前)ごろから気温が高くなり、中期は温暖な状態が継続し、中期から後期に移行するころの4,200年前より冷涼化し2℃ほど低下する。中期を中心とした温暖化については、日本第四紀学会は、日本近海の海底コア堆積物の分析から判明したことだが、黒潮が東進したため、すなわち暖流が近海を流れるようになったためと説明している。

今回訪問する三内丸山地域の気候の変化については、東大大気海洋研の川幡穂高教授の論文がより詳細に教えてくれた。彼の論文は、陸奥湾の堆積物やこの地域の花粉群集を利用しての分析で次のように説明している。偏西風の北偏と夏季の強い東アジア季節風(南西モンスーン)により、6,000(前期後半)~4,300年前(中期から後期に移行するころ)の三内丸山地域は、比較的暖かかった。そのためクリやトチノキの半栽培を行うことで、単位面積当たり獲得できるカロリー量を著しく増加させることに成功し、大規模な集落で生活できるようになった。通常1人分の食料(1年あたり\(7.3 \times 10^5\)千カロリー)を得るためには、狩猟採集では1km四方(100ha)を必要とするが、三内丸山では1.5haで済んだ。なお、弥生時代の米作では0.25haでよい(農業革命の偉大さが分かる)。

4,200年前になると、東アジアの季節風が弱くなり、寒冷化(2度下がった)が始まった。クリやトチノキの半栽培は不可能となり、集落は消えてしまった。4,200年前の寒冷化はエジプト、インダス川メソポタミア、中国の古代文明衰退とも関係がありそうだと説明している。

題名がとても長いのだが、説明に用いた論文は以下の通りだ。Hodaka Kawahata (2019) Climatic reconstruction at the Sannai-Maruyama site between Bond events 4 and 3—implication for the collapse of the society at 4.2 ka event. Progress in Earth and Planetary Science.

温暖化と寒冷化という自然環境の変化は、三内丸山に限らず、東北地方北部に同じような影響を及ぼしたことだろう。温暖化によってクリやトチノキの半栽培が可能になった中期には、大規模な集落が現れ、寒冷化に伴ってクリやトチノキの生産性が低下し、後期・晩期には、人々は大規模な集落から離れて分散化し、小さな集落に住むようになった。しかし大規模集落時代の一族としての関係を維持するために、共同で大規模なストーンサークルを作り、折に触れて、一族が集まり、連帯を深めたことだろう。

また、土器や土偶に関する技術も、長い年月の知識の蓄積によって、後期・晩期には、芸術性に優れたものが花開いた。

このようなことを確認するのが、今回の「東北北部縄文の旅」の目的だ。

2.是川遺跡

前置きが長くなったが、初日の訪問先は、縄文時代の美を極めた「是川遺跡」だ。東北新幹線盛岡駅で下車し、この日の宿は青森駅近くのホテルだ。その中間地点に是川遺跡は位置し、八戸駅から南東に8kmのところにある。
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是川遺跡には国宝の「合掌土偶」があるのだが、あいにく長野県立歴史館に貸出中で見ることができなかった。その代りに普段は保管されている重要文化財を展示していた。国宝級の遺物は、あちらこちらで引っ張りだこなので、注意しないと、折角訪ねたのに見ることができなかったということになる。合掌土偶は去年トーハクで見たので、別のものが見られれば、損はしてないだろうと、なんとなく納得して訪問した。

是川遺跡(これは通称で、正式名称は是川石器時代遺跡)は、一王寺遺跡(前期・中期)、堀田遺跡(中期)、中居遺跡(晩期)の3遺跡の総称だ。一王寺遺跡は円筒式土器文化期を中心とした大規模集落だ。中居遺跡は、鮮やかな漆器や植物性遺物が特殊泥炭層から発見されたことで有名になった遺跡で、1920年(大正9年)に地元の素封家の泉山兄弟によって発掘された。1926年には泥炭層から完全な形を保った精巧な土器とともに、赤漆で塗られたさまざまな植物性遺物が発見された。彼らの尽力によって遺物は散逸することなく保管され、戦後になって5,000点余りの収蔵品が八戸市に寄贈された。そのなかの633点が重要文化財に指定された。そのあと1993年からの発掘調査により330点が重要文化財として追加指定された。

既に冬を迎えていた中居遺跡だが、入り口の紅葉は燃えるように朱色で、樹木までもが我々を温かく迎えてくれ、感激した。
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近くには、縄文時代の竪穴住居が復元されていた。
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中居遺跡の見取り図だ。
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舌状に張り出した台地があり、その北と南には低湿地がある。この遺跡では晩期前半から後半までの遺物が出土した。晩期前半の主要な遺構は、竪穴建物跡・土坑墓・土坑・捨て場・水場遺構だ。晩期後半には土遺構・配石遺構が加わった。低湿地の捨て場からは亀ヶ岡文化期を中心とした土器・土製品・石器・石製品などの遺物が発掘された。さらに台地からは居住跡も現れた。

遺跡を見学した後、2011年に開設した是川縄文館へと向かった。建物の下半分は渋い漆の色を模したのだろうか、周りの風景と心地よく溶け合い、落ち着いた構えだ。
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建物の内部だ。すっきりしているが、モダンな感じだ。
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館内に入ると、最大の貢献者である泉山岩次郎・斐次郎兄弟の胸像がある。この二人は血を分けた兄弟ではない。ボランティアガイドさんの話では、二人とも養子で、泉山家は女系家族だったそうだ。そして貴重な遺跡が出土した中居遺跡は泉山家の所有地だった。このため発掘・保存などが容易だった面は否めないが、全ての出土品が散逸されることなく保管されていたのは、彼らの偉大な業績だ。ちなみに彼らの養父の泉山吉兵衛は、泉山銀行を設立した。この銀行はのちに青森銀行となる。吉兵衛には3人の娘がいたが、3人とも養子を迎えた。上の2人の娘と結婚した養子は、先に述べた遺跡発掘の2人だ。末の娘と結婚したもう一人の養子の三六は、戦後大蔵大臣まで務めた。
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2階に上がって中居遺跡からの出土品を鑑賞した。まずは漆器だ。トチノキを切り抜いて作った皿や鉢などに文様を彫り込んだ木胎漆器
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同じく木胎漆器、3千年の時空を超えて、縄文の美がよみがえる。長い時間を経ているのに、赤い漆の色が見事だ。
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木ではなく、竹を網目状に編んだものに漆が塗ってある。籃胎漆器と呼ばれる。
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漆塗りの弓、
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漆塗り台付土器、
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漆塗り土器、精巧で、ユニークな模様だ。食卓に添えたいぐらいの一品だ。
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縄文人たちも髪を飾ったのだろう。漆塗り櫛だ。
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装身具が続く。漆塗り腕輪、
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漆塗り耳飾り、縄文の女性たちが着飾った姿を想像すると楽しくなる。
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漆塗り土器の勢ぞろいだ。
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拡大すると
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模様がとても美しい。
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次は土偶だ。
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遮光土偶の頭部だ。目がやけに強調されているのが特徴だ。
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胸がやけに強調されている。デフォルメだろう。
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上部はどうなっていたのだろう。
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全身がそろった土偶。足を曲げる土偶と呼ばれている。ひょうきんな姿が愛らしい。
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胸像かな?
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土器も、土偶に劣らず素晴らしい。まるで芸術品のようだ。ひとつずつ見ていこう。まずは壺型土器、
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輝くような灰色の硬質感が重厚な感じを与えてくれる。
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お酒を飲むのによさそうな注口土器、
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食器棚に飾っておきたいような皿型土器、
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模様がとても美しい浅鉢型土器、お気に入りの一つだ。
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土器の最後は、実用的な深鉢型土器
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木製品の技術には驚かされる。上部の曲物は、どのような技術を駆使して作ったのだろう。曲げたり、縫い目を合わせたりする技術は高度な技術だと思うが、彼らは既に獲得していたということを知って驚かされた。
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石斧に使われた柄の部分だ。見事な姿で残されている。
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ところで、合掌土偶が出土したのは中居遺跡ではない。隣の風張遺跡だ。

合掌土偶が出張中のため、その代わりをしている頬杖土偶だ。これも風張遺跡からのものだ。風張遺跡は、後期末葉に属し、中居遺跡よりもおよそ500年古く、今から3,500年前の遺跡だ。
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後ろ姿だ。
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合掌土偶のレプリカだ。レプリカだが、素晴らしい土偶だ。合掌土偶は国宝に指定されているが、これも風張遺跡からの出土だ。この土偶は座ってお産をしている様子を表しているという研究者もいる。
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横から、
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後ろから、
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風張遺跡から出土した深鉢土器だ。中居遺跡のと比較すると、何となく泥臭い感じがするのは、一つ前の時代のためだろう。
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たくさんの写真を挙げたが、それでも縄文館の一部に過ぎない。縄文館には、縄文の美の結晶がたくさん陳列させられていて、飽きることなく見入ってしまった。

晩秋というに冷え込んでいて、冬を迎えていると思われる東北路を、今日の宿泊地である青森市に向かった。紅葉が進んだ周りの景色を楽しんでいるのもつかの間、短い陽は5時を過ぎるころには沈んでしまい、雪の舞う青森市へと入った。この日は北海道には爆弾低気圧が到来し、猛吹雪になっていた。青森市はこの日が初雪で、相当の雪が夜には降り積もるのではないかと予想されていた。明日の三内丸山遺跡の見学は吹雪の中という予報もあり、逆の意味で楽しめそうだと期待して、早々と床に就いた。