bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

国宝満載の十日町市博物館・常設館を訪れる

旅行に出て2日目。この日は忙しい。同級会があるホテルまで移動しなければならないが、途中、十日町市によって火焔型土器を見学しようと思っている。馬高遺跡のものは重要文化財であったが、ここは国宝である。新潟県で唯一国宝に指定されているのは、笹山遺跡から発掘された火焔型土器などを含む深鉢形土器57点で、これらは十日町市博物館に収納されている。

そして、運のよいことにこの日から夏季企画展『すべて見せます!国宝の土器』が開催されている。前期・後期の二回に分けての展示なので、全部というわけにはいかないが、半分は見ることができる。これほど恵まれたチャンスはそうそうないので夢膨らませて、早朝から行動を開始した。長岡駅7:28分発の飯山線戸狩野沢温泉行きの列車に乗り、十日町駅で降りる。この間、1時間足らずの乗車であった。信濃川に沿って形成された狭隘な平地を縫うように列車は進むので、車窓からの風景を楽しむことができる。

朝早い十日町駅。人影はまばら、右側にあるモニュメントは、おそらく火焔型土器だと思われるがどうだろう。

この辺りは豪雪地帯、冬場の除雪車が車庫で次の冬に備えて早々と待機していた。

車窓から見た家々はどの家も土台の部分をとても高くし、1階の部分が2階の高さになっている。積雪は雪の多い年だと2~3mにもなる。

開館前に到着したので、のんびりと周囲の写真を撮影する。これから見学しようとしている十日町市博物館、

博物館の前に飾ってある火焔土器

近代的な十日町市総合体育館、

定刻となり観客は私一人、館長自らの出迎えを受けて博物館の中に入る。まずは国宝展示室に飛び込む。ガラスケースに収められている国宝の火焔型土器を見学する。5000年前の美だが、現在の美と比較しても遜色はない。個人の作成なのだろうか、共同の作業なのだろうか、作品のアイデアはどのようにして浮かんできたのだろうか、一つの完成品を作るのにどれだけの試作品を作成したのだろうか、どのように作り上げたのだろうか、アイデアを出す人・作成者・焼く人は異なる人なのだろうかなどなどたくさんの疑問が湧いてくる。ボランティア仲間に土偶を見事に作る人がいた。すでに亡くなっていて叶わないのだが、彼に依頼すればこのようなものはできたのだろうかなどさらに疑問が湧いてきて尽きることがない。

国宝に指定されているのは、火焔型土器だけではない、笹山遺跡から発掘された同時期の異なるタイプの土器で価値あるものは国宝に指定されている。深鉢形土器も浅鉢形土器も仲間である。開口部の装飾もきれいだが、胴体が穏やかな曲線になっているのも魅力的である。

火焔型土器は先端がとがっているが、平たくなっているのは王冠型土器と呼ばれている。

小ぶりな火焔型土器、

中程度の大きさの火焔型土器、

寸胴の印象を受ける深鉢形土器、

開口部の模様が幾何学的な深鉢形土器、

小ぶりな深鉢形土器、

開口部の模様が縄文らしい浅鉢形土器、

続いて火焔型土器を詳しく知るための教育的な展示があった。最初は火焔型土器の文化圏を示した展示で、これからも信濃川流域に展開していたことがよく分かる*1。火焔型土器のクニの中心が今日の十日町にあったと説明されている。左から鉢形(野首)、台付鉢形(野首)、深鉢形(野首)、深鉢形(野首)、深鉢形(野首)。

次の説明は、日本各地の縄文土器文化についてである。左から浅鉢形(野首)、深鉢形(野首)、深鉢形(野首)、深鉢形(横割)、深鉢形(幅上)。

そして、火焔型土器の模様の説明である。5000年も前の人々が、このように複雑で繊細な模様を描いていたことに感動した。人類の美的センスに、今も昔も大きな差がないのではないかとさえ思わせてくれる。左から火焔型(野首)、火焔型(幅上)、王冠型(幅上)、火焔型(笹山)、王冠型(笹山)、火焔型(野首)。

最後は火焔型土器のスタイルがどのように変化したかを教えてくれる。この土器は5300年前から4800年前まで作られた。成立期は全体的に寸胴で、鶏頭冠突起も低く横長であった。最盛期は頭部が強くくびれ、胴部が強く引き締まっている。鶏頭冠突起は背が高く、大型になる。王冠型土器も火焔型土器とセットで出土する。左から火焔型(野首)、王冠型(野首)、火焔型(芋川原)、火焔型(森上)、火焔型(大井久保)、王冠型(大井久保)、火焔型(カウカ平A)。

引き続いて、縄文時代の道具類が展示されていた。石槍、

石鏃

装飾用品で勾玉など、

耳飾り、

祭祀用と思われる石棒、


土偶

続いて「織物の歴史」のコーナーにいく。この地域は織物が盛んでそれに関する展示があった。十日町の織物、

地機(じばた)、

原始機、

最後は、「雪と信濃川」のコーナーに行く。長くて辛い冬を想像させる雪国・十日町の日常生活の場面。妻は繕い物、夫はわら製品作りをしているように見える。


常設展の展示見学はこれで終わり。国宝の火焔型土器・深鉢形土器を見ることができとても満足した。さらに、縄文の文化圏やスタイルの変化など関係する情報も得られた。定住型の狩猟採集生活、いわゆる縄文時代について認識を深めることができ有益であった。また、博物館の展示も地域に密着していて素晴らしかった。次は、夏季企画展の見学である。

*1:展示の説明では信濃川上流から下流となっている。信濃川新潟県内を流れている部分だけの呼称で、長野県内は千曲川と呼ぶ。信濃川の長さは153km、千曲川の長さは214km。信濃川が一番長いと教わったけどどうなっているのだろう。実は、河川法上では千曲川を含めて信濃川水系の本流を信濃川と規定している。この規定に基づいて比較すると日本で一番長い川となるそうだ。信濃川を河川法上の名前で使っているのか、慣行で使っているのかによって、この地域が信濃川の上流・中流になるのか、下流になるのかが変わってくる。新潟県の人はきっと前者、長野県の人は後者と思うだろう。