bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

北信で高野辰之記念館・中山晋平記念館を訪ねる

旅行3日目。中学時代のクラスメートと小学唱歌で知られる高野辰之と童謡・新民謡で知られる中山晋平の記念館を訪ねた。クラスメートの中に音楽好きの人がいて、訪れた方が良いというので、それではということになった。高野辰之記念館は、飯山と中野の2か所にあるが、前者は終焉の地で、後者は生誕地である。今回訪れたのは前者の方で、野沢温泉村にある。中山晋平記念館も二つあり、生誕地の長野県中野市と別荘のあった静岡県熱海市にある。訪問したのはもちろん前者である。二つの記念館を地図で示すと以下のようである。新潟との県境に近く、長野県の北信と言われる地域である。

最初に訪れたのは高野辰之記念・おぼろ月夜の館である。中野市のホームページから抜粋すると高野さんは次のような方である。

彼は、明治9年(1876)、長野県水内郡永江村(現中野市)に生まれた。厳しい父のもとで躾けられた辰之は、農業の手伝いをするかたわら、土蔵に隠れて本をむさぼり読むという向学の志にあふれた少年だった。高等小学校を卒業後、母校の永田尋常小学校の代用教員を務め、その3年後には長野県尋常師範学校(現信州大学教育学部)に入学した。26歳の時、上田万年文学博士(円地文子の父)を頼って上京した。博士のもとで国語、国文学の研究に没頭し、やがて「文部省国語教科書編纂委員」に選ばれて、国文学者としての地歩を固めた。国が初めて発行した国定音楽教科書「尋常小学唱歌」を編纂する一方で、「故郷」「朧月夜」「春の小川」「春が来た」「紅葉」などの文部省唱歌、全国の校歌や中山晋平作曲の「飯山小唄」などを作詞した。明治後期からは、「日本歌謡史」「江戸文学史」「日本演劇史」を次々と書き上げ、これらは高野辰之の三大著作として近代の国文学に大きな功績を残した。大正14年(1925)に東京帝国大学から文学博士の学位を、昭和3年(1928)には帝国学士院賞を授与された。

建物の正面、

側面、

高野辰之さんの胸像、

記念館の展示を館長自ら説明してくれた。熱心に聞いていたので写真を撮る暇はなかったが、話が終わって帰るときに、印象に残ったものを撮影した。

一つは高野さんの学位論文『日本歌謡史』である。これにより東京帝国大学文学部より文学博士の学位を授与された。

残りの一つは東京・代々木山谷にあった書庫・斑山(はんざん)文庫である。戦災で住宅は焼けてしまったが、斑山文庫は免れ、その後ここに移築された。

次は中山晋平記念館である。同様に中野氏のホームページから抜粋する。

彼は、明治20年(1887)年、長野県下高井郡新野村(現在中野市大字新野)に生まれた。明治38年(1905)、ふるさとを後にして東京へ旅立った。島村抱月の書生となり、東京音楽学校予科に入学し、明治45年(1912)に卒業した。大正3年(1914)に「カチューシャの唄」を作曲し、松井須磨子が歌い大ヒットした。晋平は、5歳年上の詩人・野口雨情と出会い、雨情の新しい童謡・民謡の創作に対する情熱に刺激を受けた。新民謡の作曲活動は、大正12年(1923)の「須坂小唄」に端を発したが、昭和になると全国各地から作曲依頼が急増した。ふるさとのために作った昭和2年の「中野小唄」もその一つであった。さらに、晋平は、雑誌「金の星」に「證城寺の狸囃子」、雑誌「コドモノクニ」には「あの町この町」「毬と殿様」などを発表した。昭和27年(1952)に亡くなる。歌謡曲・童謡・新民謡・社歌・校歌などさまざまな分野の名作を残した。

記念館の入口、

周囲はバラがきれいだった。

中山晋平銅像

館内にはいって見学、説明を受けながら、晋平の歌を合唱したりした。館内は撮影禁止だった。

この後、小布施の竹風堂で栗おこわを食べ、長野駅まで送ってもらった。お互いに元気でいて、来年のこの時期にまた会おうと約束して、次の訪問地の松本へと向かった。