bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

かつて三菱村と言われた東京・丸の内を訪ねる

中学時代の仲間と丸の内を散策した。仲間の何人かは現役時代にこの場所で勤務の経験がある。しかしその他の人にとっては仕事に行くだけの場所であったため、ビジネス街程度の認識しかない。そこで詳しい人から説明を受けながら、一度ゆっくりと散策してみようということになり、連れ立って出かけた。

グーグルアースの3D地図からは、現在の町の様子がよく分かる。丸の内は、JRの東京駅と有楽町駅の間の線路と、皇居の内堀とに囲まれたところである。仲間たちが働いていた頃の建物の多くは取り壊され、皇居に遠慮して少し高層の建物が整然と立ち並んでいる。

それでは江戸時代はどうだったのだろう。御江戸大名小路絵図*1に描かれている。絵図で左下の堀で囲まれたところが丸の内、その右側は大手町である。丸の内の地区には、因幡島根藩松平(池田)相模守32.5万石、安房徳島藩松平(蜂須賀)阿波守25.79万石、土佐高知藩松平(山内)土佐守24.2万石、備後福山藩阿部伊勢守11万石、肥後熊本藩細川越中守54万石、備前岡山藩松平内蔵頭31.52万石などの大きな藩の上屋敷となっている。江戸時代には、この辺りは大名屋敷をなしていたことが分かる。

「大江戸今昔めぐり」で、当時と現在の地図を示すと次のようになる。皇居の地域はほとんど変わりがない。しかし丸の内の地域はそうではなく、江戸時代は堀で囲まれていたことがよく分かる。

上の地図を見ていると、丸の内の地区はかつては海だったのではと思えてこないだろうか。中央区観光協会特派員ブログ*2によれば、丸の内のあたりは日比谷入江になっている。そして東京駅の東側、日本橋・京橋・銀座・新橋のあたりは、標高3~4.5mの湿地だったようだ。ウィキペディアによれば「(1590年に)徳川家康駿府から江戸に居を移すが当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったという。家康は江戸城本城の拡張は一定程度に留める代わりに城下町の建設を進め、神田山を削り、日比谷入江を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる」。

大名屋敷として使われた丸の内が大きく変わったのは明治になってからである。廃藩置県版籍奉還により大名・武士たちは国元に戻り、丸の内は政府の管轄地となり、陸軍の兵営街となった。明治20年頃に兵営地が麻布に移転、明治21年(1888)に東京市区改正条例が公布、丸の内は市街地へと変化した。徴兵令の改正で国民皆兵制となり、陸軍は兵営建設に莫大な予算を必要とし、その資金捻出のため丸の内の売却を計画して、明治23年(1890)に岩崎弥之助に払い下げられた。

明治27年(1894)、弥之助から三菱合資会社に所有権が移転され、その年に日本初の貸しビル「三菱1号館」を建設した。明治時代に13号館までレンガ造で建設した。
2号館:1895年(明治28年)のちに明治生命に譲渡
3号館:1896年(明治29年日本郵船会社が入居
4号館:1904年(明治37年古河鉱業が入居
5号館:1905年(明治38年)セール フレーザー商会が入居
6号館・7号館:1904年(明治37年)賃貸住宅兼用事務所
8~11号館:1907年(明治40年)賃貸住宅兼用事務所
12号館:1910年(明治43年)東洋汽船など6社が入居
13号館:1911年(明治44年南満州鉄道など3社が入居

「今昔マップ」で、明治42年ごろを見てみよう。11号館まで出来上がっていたけれども、地図の上ではまだまだ空き地が多いように見受けられる。

そして21世紀のはじまりとともに、丸の内も新たな世紀に入り再開発*3が始まった。青数字は終了、ピンクは建設中・予定である。2027年には地上390mの高層ビルが東京駅前に竣功する予定である。

それでは散策しているときに撮った写真をいくつか掲載しよう。1号館は三菱美術館になっていてただいま改修中。少しだけレンガ壁が覗いている。

大名小路は街路樹が並ぶ、綺麗な通りになっている。

高級なお店が軒を連ねている。

第2号館の隣に昭和9年(1934)に竣工した明治生命館、古い部分が残され、その上に高層の建物が立っている。

東京会館瀟洒なホテルである。ずうずうしくも中に入り、ソファーに座って休みを取った。

帝国劇場。この日はミュージカル『チャーリーとチョコレート工場』の最終日で、たくさんの人が並んで開演を待っていた。

東京ミッドタウン日比谷。我々が学生の頃はこの辺は映画館街だった。

6階にはテラスがあり、日比谷公園を見渡すことができる。

日比谷公園の心字池。「心」という字に似せて池が造られている。

有楽町駅近くの配電盤。ここに南町奉行所があった。

お昼を東京ミッドタウン日比谷の地下でとった。食べたのはチキンのステーキ。午後の予定は反故にして、お昼の閉店まで話に興じ、楽しい一日を過ごした。若い頃には、この町を我が物顔で闊歩していたのに、まるでお上りさんであるかのように街に魅入られてしまい、不思議な世界に迷い込んだ気分を紹介しあった。

最後に散策したコースをあげておこう。

*1:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』御江戸大名小路絵図,尾張屋清七,嘉永2~文久2(1849~1862)刊. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286656

*2:https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=2553

*3:大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり協議会https://www.tokyo-omy-council.jp/area/redevelopment-map/