bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

静岡市歴史博物館・駿府城公園を訪ねる

夏にも負けない11月に入っての暑さは、今年の天気は狂っていると思わせてくれるのに十分だ(そしてこの記事を書き終えた今日は、気温は急降下した)。運よく巡り合えた久しぶりの秋らしい日に、老人たちの遠足といっては主催してくれた団体に失礼になるが、静岡市歴史博物館と駿府城公園に行った。そこでおしゃべりと見学をして気持ちよくそして楽しく過ごした。下の写真で中央下部の青いバルーンが静岡市歴史博物館、同じく中央が駿府城公園、中央上部やや左寄りが静岡浅間神社である。

当日は東名高速道路のリニューアル工事にぶつかったため、往きは3時間・帰りは3時間半と長い車中だったが、旅の目的はとても堅実な研修である。往きのバスの中では、戦国時代の駿府城と江戸時代の駿府城について、その時代を専門とする学芸員の方からそれぞれお話を伺った。

戦国時代の駿河城については、①戦国のあるじ今川氏、②駿府今川館から駿府城についてであった。

①では、今川氏の時代を4分割して説明してくれた。

段階1:足利義氏(1189~55)の子孫の今川氏が駿河に定着した時代である。義氏の孫・今川国氏(1243~82)が三河国幡豆(はず)郡今川荘を本拠地とした。鎌倉幕府を倒した足利尊氏に今川頼国(?~1335)が味方し、弟の範国(1295?~84)が駿河遠江国の守護に任命された。そして孫・泰範(1334?~09?)が駿河遠江国全域を支配した。この頃、室町幕府と鎌倉府の仲が悪く、前者が駿河国以西を、後者が伊豆国以東を勢力下にしていた。今川氏は境目の地であり、上手な付き合い方が求めらた。6代将軍の足利義教が富士遊覧したときなどは、今川範政(1364~33)が供応した。

段階2:戦国時代のはじまりで今川範忠(1408~61?)から義忠(1436~76)の時代である。応仁の乱に先立って、関東では享徳の乱(1455~83)が発生した(鎌倉公方足利成氏関東管領上杉憲忠を殺害)。範忠は8代将軍足利義政より鎌倉公方・成氏の追討を命じられた(1455)。しかし成氏は下総国古河に逃亡した。幕府は鎌倉公方の後任として足利政知を送るが、関東には入れず、伊豆にとどまって堀越公方となった(1458)。さらに義忠にも古河公方となった成氏の追討が命じられた(1466)。

段階3:伊勢宗瑞の下向の時代である。今川義忠が応仁・文明の乱で戦死(1476)すると、今川家に内紛が発生した。外戚の伊勢宗瑞が京より下向して収束し、今川氏親(1471/73~26)が家督を継ぐ。宗瑞と氏親は長享の乱(1487~05:両上杉間の争い)に援軍として参加した。その間に堀川公方足利政知が病死(1491)、足利茶々丸が継ぐも伊勢宗瑞に滅ぼされた(さらに宗瑞は1495年に小田原城を奪取し小田原北条氏の祖となる)。

段階4:戦国大名今川家4代の氏親・氏輝(1513~36)・義元(1519~60)・氏真(1538~15)の時代である。印判状の発給、分国法「今川かな目録」制定、領国検地の実施、商人・職人の掌握、伝馬制の整備、今川文化など先進的な施策を行った。しかし桶狭間の戦いで敗戦(1560)、武田信玄徳川家康駿河国に侵攻(1568)し、氏真が小田原を頼って北条氏政の息子・国王丸(氏直)を養子にして駿河国を譲り、今川氏は滅亡(1569)した。

②の内容は2分割された。

段階1は今川館。この時代は城郭はなく、下図のように駿河全体が防壁で、周囲を城や砦で守っている。

段階2は、徳川家康(1543~16)の駿府城の築城。家康は武田家滅亡(1582)に伴い駿河遠江三河を支配し、本能寺の変(1582)後に、さらに甲斐・信濃をも支配した。拠点を浜松から駿府に移した。築城を開始(1585)し、天正駿府城が完成(1588)した。

江戸時代の駿府城については、次のように説明があった。

家康は、征夷大将軍になり江戸幕府を開設(1603)した。2年後に秀忠に将軍職を譲り、駿府に隠居(1606)し、大御所政治を始める。天下普請(全国の諸大名を動員)で駿府城の築城に着手(1607)し、輪郭式平城が完成した。しかし直ぐに焼失(1607)、再建工事を開始して慶長期駿府城が完成(1610)した。天守台は石垣上端(うわば)で55m×48m(城郭史上最大級)、天守曲輪は7階の天守が中央に、天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特殊な構造であった。なお天守閣は家康の死後20年後に焼失(1635)し、以後再建されることはなかった。

城下町の整備も進められ、彦坂光正らを奉行に任命して町割りが行われ、武家地、寺社地、町人地の区分が整備された。城下には紺屋・鍛冶・研屋・大工・鋳物師・菓子・畳・呉服・肴屋・酒屋など、職人・商人が移り住んだ。また貨幣の鋳造、金座・銀座などの金融の中心地ともなり大変賑わった。当時の人口は10万とも12万とも記されている。

駿府は1609年に家康の10男頼宜に与えられたが、1633年に頼宣は紀伊和歌山藩に転封され、これ以降は明治維新まで幕府の直轄地で、駿府城代が置かれた。

このように十分すぎるほどの予備知識を叩き込まれたあと、静岡市歴史博物館に到着した。

学芸課長さんから歴史博物館について説明を受けた後、見学となった。館のモットーは、静岡市役所で大切にされてきた徳川家16代家達(いえさと)の書になる「彰往考来」であるとのことだった。これは「過去をあきらかにして未来を考える」を意味するそうである。


静岡市歴史博物館は4階建てで、1階は徳川家康・今川氏以前の歴史の紹介と市内の歴史的名所の紹介、2階は首都駿河と世界(家康が住む駿府は首都の一つ)、3階は家康の威光と駿府(家康没後、近世の駿府東海道)という内容で展示されていた。2階と3階は撮影禁止だったので、博物館の新しい展示方法をビジュアルに示せないのが残念である。それでは各階の説明を簡単にしよう。

1階には戦国時代末期の道と石垣の遺構が展示されていた。これは天正時代(1573~92)に造られたもので、幅2.7m、長さ30mの道で、脇は野面(のづら)積みの石垣である。石垣の後ろ側には裏留の川原石がある。道沿いは武家屋敷になっていたようである。

2階の展示物の目玉は、二領の鎧(復元模造)だろう。一つは、紅糸縅腹巻(くれないいとおどしはらまき)で、家康が14歳の時に初めて鎧をつける儀式で使ったもので、今川義元より贈られた。他の一つは、伊予札黒糸縅胴丸具足(いよざねくろいとおどしどうまるぐそく)で、関ヶ原の戦いで勝利を治め、天下統一を果たしたときの甲冑である。同じフロアーには、家康の肖像画や関連する古文書もあった。さらに今川氏の関連で、桶狭間今川義元決戦図もあった。

3階には、東海道図屏風があり江戸から京都までの東海道の様子が書かれていて、馴染みの宿場を探しながら見ていると結構楽しかった。さらには駿府城下町絵図や昭和30年代の静岡市街地の模型などもあり、地図が好きな人にとっては面白いフロアーである。この階からは、外の展望を楽しむことができ、これから向かう巽櫓(たつみやぐら)の風景が素晴らしかった。

一通り静岡市歴史博物館を見学した後、駿府城公園へと向かった。

東御門橋、

東御門、

公園内部、

本丸堀、

家康公像。

公園でお昼を食べた後、駿府城公園の学芸員の方から、巽櫓の内部と天守台発掘調査の現場を紹介していただいた。

巽櫓では、駿府城の模型を見た後、今川氏、戦国武将家康、そして大御所家康の時代の遺跡から発掘された遺物を紹介していただいた。そして、①今川氏時代:出土した磁器のかけらがとても貴重なものであったことから、今川氏が特別な地位にあったこと、②豊臣秀吉の武将として家康が駿府城を建設したとき:秀吉の威光を示すために金箔瓦を用いたこと、③家康が天下を取った大御所時代:秀吉時代の建造物を悉く壊し、新しく造り直したこと(この時期にも金箔瓦が出土しているが、豊臣時代のものが凸部であったのに対し、徳川時代のものは凹部に飾られている。後者の方が技術的に難しい)、などが判明したことを教えて頂いた。

最後はいよいよ天守台の発掘調査現場である。下図は、静岡市駿府城跡・駿府城天守台発掘調査の中の天守台マップ&東御門刻印マップ(天守台側)から抜き取った図である。

この現場からは、天正期(戦国時代)と慶長期(江戸時代)の天守台が発掘されている。それでは慶長期の石垣から見ていこう。
最初は上図で1と書かれているところから、

4のところから、

途中に刻印の推してある石があった。

6のあたりから


7のあたりから

3のあたりから、真正面に富士山が見えたのだが、写真では確認できない。天守閣からの眺めもさぞかしよいことだっただろう。なお天守台の高さは19mで、右奥に見えるポールの先端の高さだった。

2のあたりから。手前が慶長、後方が天正の頃の石組み。何となく違いが分かる。

9のあたりから、天正期の石組み。

同じく慶長期、

10のあたりから天正期。

天正期に使われた石は自然石で、そのままそれらを積んだ野面(のづら)積みである。これに対して慶長期には石を加工している。これにはいくつかの方法があり、石を割って加工して積む打込接(うちこみはぎ)、四角に形を整えた石を隙間なくぴったりとくっつけて積み上げる切込接(きりこみはぎ)、石垣の角に長方形の石の長い辺と短い辺を組み合わせて積み上げる算木(さんぎ)積みがある。天正期の天守台は天正13年(1585)に築城開始され、慶長期のものは慶長12年(1607)に大改修(壊して建替)された。その間20年ほどの差しかない。その間に工法での変化が生じたのは、秀吉が朝鮮出兵を行い、朝鮮に城(朝鮮では倭城と呼ばれた)を築いたとき技術が進歩したためと学芸員の方から教えてもらった。

戦国時代は文献での資料があるので、考古学からの資料はその裏付けに過ぎないだろうと考えていたが、そうではなくて考古学からも新しい発見があることを学芸員の方から教えてもらい、歴史研究は相互に依存しあっていることがよくわかった研修であった。

家康も駿府城天守閣から富士山を愛でたことだろう。我々が帰路に見た富士山も、太陽がその背面に隠れるところで影法師のように幻想的であった。午後のかなりの時間を石ばかり見ていたこともあって、ピラミッドかと見間違ってしまいそうであった。