bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

江戸時代初めに建てられた古民家を訪れる

横浜市教育員会が、国の指定重要文化財である、都筑区の関家住宅を公開した。6倍の応募があり、これに当選した人はかなりラッキーとのことだった。関家住宅の最寄り駅は、横浜市営地下鉄ブルーライン仲町台駅である。この辺りは50年前ごろから開発された港北ニュータウンの中にある(ただし地下鉄が開通したのは30年前で、このころからニュータウンとして機能した)。天気が良かったので、港北ニュータウン自慢の公園を縫いながら秋深まった緑道を利用し、さらには関家の周りの寺社を巡って現地に赴いた。

関家住宅の前を通っている道(地図では少し右上から少し左下へとほぼまっすぐの道)は中原街道である。この街道は、徳川家康が江戸入りしたときに利用したとも伝わっている。江戸時代になって東海道が整備された後は、江戸虎ノ門から平塚中原を結ぶ脇街道となった。小杉(川崎市)・下川井(横浜市)・中原(平塚市)に御殿が造られると、将軍の駿府往還や鷹狩に利用された。また3代将軍家光が鷹狩の際、関家書院に逗留したとも伝えられている。

それでは今昔マップで明治39年ごろと現在とを比較して見よう。現在の中原街道は麓に沿って設けられているが、なんと明治の頃は尾根伝いだった。過去の地図を追ってみると戦前までは尾根道が主流だったようである。なお関家住宅は、地図の中ほどにある神社(杉山神社)マークのすぐ下の住宅である。この地図から小さな山を背負っていることが分かる。

それでは、Google Earthを使って関家住宅を覗いてみよう。中原街道のあたりから見ると図のようになる。手前の大きな建物が表門(長屋門)、奥の大きな建物が主屋、左隣の建物が書院、右側の赤い屋根の建物が土蔵である。

広域で見ると次のようになる。中央を真横に走っている道が中原街道で、関家住宅は中央左の緑に囲まれたところである。

有隣堂のホームページに関家住宅の詳しい配置図が載っていた。

表門は19世紀ごろに建設され、茅葺屋根の2階建ての長屋門で、元は平屋だった(明治24年に2階建てに改造)。主屋は17世紀前半の頃(江戸時代初め)に建設され、入母屋造、茅葺、そして部材は丸刃の釿(ちょうな)仕上げである。土間の左側に四つの部屋を有する四ッ間取りで、神奈川県内にある他の古民家と比べると一回り大きく、開口部の少ない閉鎖的な造りで、採光のための格子窓「しし窓」は関東や中部地方の古い民家に見られる特徴である。書院は18世紀前半頃に建設、主屋の南面西端に建てられ、「カミザシキ」「シモザシキ」と呼ばれる座敷を有し、寄棟造である。先に記したように家光が書院を訪れたという話が伝わっているが、家光が活躍したのは17世紀中ごろであり、書院はその様式から18世紀中ごろの建築と見立てられているので、年代に差がある。但し、材木を炭素14年代測定法によれば16世紀ごろなので、建築時期が遡る可能性は皆無ではない。

中原街道側から見た表門は次のようである。

写真はたくさん撮ったので掲載したいのだが、個人利用に限定して欲しいということなので、ここでは文化遺産オンラインの写真を紹介しておこう。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/193250bunka.nii.ac.jp

関家の歴史を見ていこう。関家がある場所は「勝田(現在は横浜市都筑区勝田町)」である。歴史は古く、鎌倉時代の文書(1209)に村名が現れる。豊臣秀吉の禁制文章(1590)にも「かちた」とあり、豊臣政権の検地帳(1594)には「勝田郷」とある。江戸時代になると、徳川家康の侍医・久志本氏が2代将軍秀忠の病気平癒の功績により、勝田・牛久保の村を与えられ、幕末まで支配した。そして関家は、戦国時代は小田原北条氏の家臣であったという言い伝えがあり、江戸時代の初めごろから勝田村の名主を務め、江戸後期には代官職も兼務した。江戸時代初期の建造物が現存しているのは珍しく、関東地方では最古参と考えられ、建造物だけでなく庭も含めて重要文化財に指定されている。江戸時代初期の建物が今日まで残っているのは、礎石建てであったためと学芸員の方が教えてくれた(掘立柱建物は柱が腐って残らない)。また農家に書院があるのも珍しいとのこと。将軍が中原街道を行き来したため、その接待のためだったのではと説明を受けた。

関家住宅の説明はここまでにしておいて、この日に散歩がてら訪れた寺院を紹介しておこう。

最初は寿福寺。この寺の縁起によれば、清和源氏多田行綱の子智空が開山し、真言宗長福寺と号して創建したと伝えられている。その後衰微したものの空誓(寛永2年(1625)寂)が中興、惇信院殿の御幼名を避けるため享保元年(1716)に壽福寺と改めた。
本堂、

寿福寺の伝記。

次は最乗寺。この寺の縁起によれば、教龍(慶長17年(1612)寂)が開山となり、創建したとされている。
本堂、

山門。

最後は勝田杉山神社。この神社は、延喜式神名帳所載の武蔵国都筑郡杉山社ではないかと考えられている論社の一つである。創建年代等は不詳、旧都筑郡域に多く祀られている杉山社の一つで、応永年間(1394~27)の銘が入った鰐口があったとされている。明治6年(1873)村社になった。
社殿、

改築の碑。関さんの名前も見える。

10年ぐらい前までこの近くに住んでいたが、関家住宅の由来については知らなかった。車でその前を通るたびごとに、立派な門構えがあるので由緒のある家なんだろうと感じてはいたが、今回、横浜市が公開してくれたことで、長年の疑問がやっと解けた。それにしても江戸時代初期の家が現存していることに驚愕した。今住んでいる家が築50年足らずだけれども、修理費が毎年かさむようになってきて、いつまで住み続けられるのだろうと懸念し始めてきたところで、400年もの長きにわたって維持していることの素晴らしさに感激した。