bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

都筑民家園で「雛祭り」

弥生時代の集落と墓地で構成される大塚・歳勝土遺跡公園の一角に、都筑民家園がある。この古民家を利用して、お雛様が所狭しと飾れらている。この公園は、横浜市の港北ニュータウンの中にあり、横浜市地下鉄のセンター北駅が最寄り駅である。都筑民家園に向かう途中には河津桜は1本だけだが、周囲の葉を落とした木を圧して、綺麗に咲いていた。

民家園は江戸時代中期に建てられた農家で、この地域の村の名主や庄屋を務めていた。建物のあった場所がニュータウンの開発地域になり、公園の一角に移築された。

庭から板敷の広間に近づくと、まず目につくのは、素朴な味わいの日本三大土人形である。低火力の素焼きに、胡粉をかけて色絵の具で彩色。粘土質の土と像をつくる型があれば容易に制作可能で、江戸時代には武士の副業であった。

長崎の古賀人形。江戸時代、京都の土器師(かわらけし)が旧古賀村にある茶屋に立ち寄った時、そこの主人に土器の伝わり方を伝授したのがルーツとされ、現在は郷土玩具となっている。

京都の伏見人形。江戸時代に世の中が落ち着き、往来する人が多くなり、伏見稲荷への参拝者も増え、土産物として重宝されるようになった。旅人、小人、大名交代行列によって、日本各地に伝わり、それぞれの土地の土人形・郷土玩具の原形となった。

仙台の堤人形。仙台藩が粘土資源を活用、産業発展と生活安定に役立つようにと、焼き物や人形などを足軽の副業として作らせたのが始まり。文化・文政(1804~30)には、西の伏見人形、東の堤人形と並び称せられた。東北の土人形や張り子人形に大きな影響を与えた。


広間の隣の畳敷の部屋には、東西を代表する雛人形が飾られていた。江戸時代の普通の農家には畳敷の部屋はない。この家は村の責任者を務めていた。そのため代官・役人を迎える特別な部屋を備えていた。二組の雛人形も、床の間をバックにして、この特別な部屋があてがわれていた。

東京永徳齋の雛人形。山川永徳齋は江戸・東京日本橋を代表する人形司。初代から四代にかけて有識雛や次郎左衛門雛などの雛人形、市松人形、毛植人形など、人形美の極致と言われるものを残した。

京都丸平の雛人形。京都の丸平大木人形店は明和(1764~71)に創業。雛人形、有識人形、御所人形などの京人形を制作。現在も各地に納めている。

ところで、東京と京都では、男雛と女雛の並び方が異なる。東京は西洋式を取り入れて向かって左に男雛。京都は都が京都にあった時の倣いのまま。各国の皇室での座る位置を観察すると面白いと思う。

親王三人官女、五人囃子、随臣、仕丁がそろった七段飾り。

伊豆地方に多く見受けられるつるし雛。

家族団欒とその背後のお雛様

紙を折って作られたお雛様。

手毬利用の自家製?

最後は都筑民家園の五節句。左上から人日(じんじつ,1月7日の七草)、上巳(じょうし,3月3日の桃)、端午(たんご,5月5日の菖蒲)、左下から七夕(しちせき,7月7日の笹)、重陽(ちょうよう,9月9日の菊)の節句

民家園の庭では、ボランティアの方が、篠笛(篠竹で作ったシンプルな笛)で雛祭りのメロディーを奏でてくれ、子供の頃に戻ったような気分にさせてくれた。春はもうそこまで来ていることを感じ、ウキウキとした気分になった。