明石海峡大橋と鳴門大橋が開通して以来、淡路島を素通りする観光客も増えたようだが、今回は淡路島に立ち寄り、伝統文化を鑑賞することとした。最近は、淡路島と言われると、たまねぎを思い浮かべる。栽培が始まったのは130年前で、昭和39年には栽培面積が3000haを超え、日本一の大産地となったとのことである。温暖な気候で、日照時間も長く、寒さが苦手なたまねぎ栽培に適した地だったようである。水稲の裏作として栽培されてきたが、米とたまねぎの交互栽培や、飼育されている牛の堆肥を用いることで、たまねぎが育ちやすい土作りに成功したとのことである。うずの丘大鳴門橋記念館には大きな「おっ玉葱」が飾られていた。
淡路島は、日本誕生の地であることを知っている人も多いであろう。8世紀前半に書かれた歴史書「古事記」と「日本書紀」の冒頭には、国生み神話が次のように記述されている。地球上がまだ混沌としていた時、いざなぎ(男神)といざなみ(女神)が、天空に架かった橋の上から、矛を海中に突き刺してかき混ぜて引き上げると、矛先からしたたり落ちた滴が固まって小さな島(おのころ島)となった。2人の神はその島に降り立って結婚し、次々と日本の国土を生んでいった。幕末から明治にかけての浮世絵師の小林永濯は『天之瓊矛(ぬぼこ)を以て滄海を探るの図』(ウイキペディア)を描いている。
淡路島はこのほかにも話題の多い島だが、忘れてはならないのは淡路人形浄瑠璃である。三人遣いの人形芝居で、農村的な特色がみられ、都市的な大阪の文楽と対比して語られる。始まりについては諸説あるが、中世末ごろに摂津西宮の傀儡師(かいらいし)の伝承を継ぎ、阿波藩主蜂須賀家の庇護のもとに発展したとされている。江戸時代の最盛期には、人形座は40余を数え,人形遣いは930人に達した。淡路人形は旅興行をもっぱらとする職業的な玄人の郷土芸能集団であった。しかし大正時代以降とくに第2次世界大戦後は急激に凋落し、現在では独立した人形座は姿を消した。いまでは公益財団法人・淡路人形協会により保存され、福良にある淡路人形浄瑠璃館で淡路人形座が観光用公演を行い、伝承している。また淡路人形浄瑠璃は国指定重要無形民俗文化財になっている。淡路人形浄瑠璃館は建築家・遠藤秀平さんの設計で2012年に完成した。淡路島特産のいぶし瓦や兵庫県産の木材・竹などが使用されている。建物の形も、そして表面の肌触り・色合いもなかなかユニークで、伝統芸能を保存していくという強い意志を感じる。
公演の前には、人形の操り方についての説明があった。
今回鑑賞した演目は『一谷嫩軍記 須磨浦組討の段』であった。この作品は、平清盛亡き後の源平の合戦を描いた名作の一つである。一の谷の合戦で敗れ、西国に落ち延びようとする平家の若き武将敦盛と、源氏の武士熊谷直実の悲劇を描いている。源氏方の平山武者所を追っていた敦盛は、途中で敵を見失い、須磨浦の波打ち際に出て、沖にいる味方の軍船に追いつこうとした。しかしその姿を熊谷が見つけ、戦いとなる。熊谷が組み敷いた若武者の顔を見ると、ちょうど我が子と同じ年頃だった。哀れに思った熊谷は、見逃すので落ち延びるようにと敦盛に勧めるが、味方の平山に見咎められ、泣く泣く敦盛の首を討つ。熊谷は心重く馬を引き、その場を立ち去る。このような内容を、浄瑠璃と三味線で奏で、人形を上手に操りながら、臨場感たっぷりで、観客を楽しませてくれた。
この間はもちろん撮影禁止。最後に人形座の方々と一緒に写真を撮る機会も与えられた。左側の人が集まっているところがそれである。
最後に淡路人形座について少し紹介しておこう。先に説明したように、淡路島には江戸時代の初期から昭和の初めまで大小様々な人形座があり、淡路島内だけでなく全国を興行して、人形浄瑠璃の魅力を伝えていた。吉田傳次郎座もその中の一座で、「引田家文書」(元文6年(1741))の「相定申一札事」に署名捺印している三十八座の一つであった。主要3座の源・久・六(上村源之丞座・市村六之丞座・中村久太夫座)と同様に綸旨・櫓免許書などを持って諸国を巡業した。そして明治20年~40年頃までは小林六太夫座からも座員を入れ、若衆組を作り、二組に分かれて興行をした。主な巡業先は淡路・徳島・讃岐・伊予・紀伊・播磨・山陰道・北陸道などであった。また伊予には得意先が多く、伊予の細工人の名手・面光義光が作った様々な人形の頭を保有していた。淡路人形座は吉田傳次郎座のこれらの道具類を継承して、公演を続けている。ちなみに緞帳についているロゴマークは、吉田傳次郎の「傳」である。
淡路人形座は、自前の会館を持ち、1日4回の公演を行っている。伝統芸能を維持していくことは、並大抵のことではないと思われるが、淡路島の振興と合わせて頑張って欲しい。