bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

日本民家園で「相模人形芝居」を鑑賞する

川崎市の日本民家園で、珍しい催し物があったので出かけた。今回、鑑賞したのは「相模人形芝居」である。これは、近世の上方・江戸で流行した三人遣いの人形芝居が、小田原・厚木を中心とする相模に伝えられ、多くの人の努力によって遺された貴重な芸術文化である。今回、演じてくれた団体は、小田原市小竹地区に本拠を置く下中座である。

下中座のホームページによれば、18世紀の初めごろに小竹の人形が始まり、半ばごろになると三人遣いになり、19世紀半ばの天保の改革での諸芸禁止令を避けて横穴に隠れて人形を遣ったと伝承されている。そして幕末から明治の初めにかけて、名主の小澤八郎右衛門により再興されたとしている。明治中期・後期には名古屋・静岡・大阪の人形遣いが来訪した。さらに明治41年に江戸の人形遣い 西川伊佐子(西川伊左衛門)・語女夫妻が小竹に定住し、小竹をはじめとし、四之宮(平塚市)、林・長谷(厚木市)で人形を指導した。昭和28年には、林・長谷の人形座とともに「相模人形芝居」として神奈川県無形文化財に指定され、この時「下中座」と改称した。そして昭和46年(1971)には三座は、国の無形民俗文化財に選択された。

芝居が行われたのは工藤家住宅だった。江戸時代中期(1760年頃)、現在の岩手県紫波町(しわちょう)、舟久保地区に建てられた農家で、主屋の前に馬屋が突き出している(L字型の民家)。江戸時代の南部藩に多いことから、南部の曲屋(まがりや)として知られている。昭和44年(1969)には、国の重要文化財に指定された。
主屋に作られた舞台。

公演に先立って、人形の扱い方についての説明があり、この部分の撮影は許された。
三人の人形遣いの中で、向かって右側の人が人形の左手を操作している。

同じ人形が見えを切っている。裸の足が手前に見えているが、服を着た人形とそうでない人形を並べてそれらを操る様子を見せてくれた。残念ながら柱が邪魔して一体は見えない。

女の人形の足の運びについて説明してくれた。

同じく手の運び。

二体の人形を遣って、羽根つきを見せてくれた。

公園が終了した後、髪の結い方を見せてくれた。手で持っている棒をはずすと、髪の毛がバッサリと落ちる。

今回の演目は「玉藻前曦袂 道春館の段(たまものまえあさひのたもと みちはるやかたのだん)」であった。話の内容は以下のとおりである。鳥羽(とば)院の薄雲(うすぐも)王子は、不吉とされた日蝕の日に生まれたため帝位に就けず、謀反の心を抱いていた。話は変わるが、九尾の狐を退治した獅子王の剣は右大臣・藤原道春の家で守られていた。王子は謀反成功のシンボルにしようと家臣・鷲塚金藤次(わしづか・きんとうじ)に剣を盗み出させた。

道春には二人の娘がおり、女好きの王子は姉娘・桂姫に執心だった。しかし桂姫には恋人の安倍采女之助(あべの・うねめのすけ)がいたため相手にされない。しびれを切らした王子は金藤次に「桂姫を連れてこい。もし嫌と言ったら桂姫の首を持ち帰るように」と命じた。王子からの上使として鷲塚金藤次がやってくる。「桂姫の身を渡せ、さもなくば首にして持って行く」と無理難題を道春後室の萩の方に突きつける。

萩の方は「姉娘の桂姫は捨て子であった。承知せねば首を打てと言うが、実の子でない姉娘の首を打つことは出来ない。だから代わりに妹・初花姫の首を打って欲しい」という。しかし親の身として、やはり実の子・初花姫も死なせたくなかった萩の方は金藤次に「首を打たれるのが姉の桂姫であるか妹の初花姫であるか、それを双六で決めさせて欲しい」と請う。話は込み入っているのだが、鷲塚金藤次は、桂姫がかつて捨てた自分の子であったことを知ってしまう。桂姫と初花姫とは、それぞれが進んで犠牲になろうとして、双六で負けたほうが切られるという約束をする。双六に負けたのは、萩の方の実の娘の初花姫だった。ところが鷲塚金藤次は、双六に勝った自分の子の桂姫の首をはねる。怒った萩の方は長刀で金藤次の肩先を切る。采女之助がとどめを刺そうとすると、金藤次は桂姫が自分の子であったことを伝え、さらに王子の悪計を白状して自死する。

主君への忠を果たすべきか、恩を受けた家に対して義理を果たすべきか、対立する義務の中で悩む人たちの悲しい物語で、同時代の聴衆は涙を流して感情移入したことだろう。冷めている現代人には「忠孝・義理人情」の典型的な筋書きでしかないが、人形遣いの人々が古典芸能を懸命に維持しようとする姿を見て、また女性の義太夫・女性の三味線の豊かな音を聞いて、時代を超えて楽しむことができた。