bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

早春の四国・中国旅行-民俗芸能巡り・阿波踊り

鳴門大橋を渡ると、ここは四国・阿波国(徳島県)である。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆あほなら踊らにゃ損々」の掛け声で始まる阿波踊りで有名なところである。今日では阿波踊りはブランド化されているので、何か特別な踊りのように思えるが、本を正せば盆踊りである。始まりもはっきりしないのだが、天正13年(1585)の徳島城築城の祝いに、城主蜂須賀氏が城下の者を無礼講で踊らせたのが始まりと土地には言い伝えられている。今の阿波踊りのかたちがつくられたのは文化・文政年間(1804~30)頃と考えられている。そして現在では、最も大規模な徳島市阿波踊りは毎年8月12~15日に行なわれている。

阿波踊りについてコトバンクからの情報をまとめると次のようになる。男性は半纏(はんてん)やゆかた、手拭のほおかぶりに白足袋、女性はゆかたに鳥追い笠と呼ばれる編笠、下駄履き姿で、連(れん)と呼ばれるグループを組み、腰を落とし両手足を交互に突き出すようにして踊る。踊りの基本は三味線・鉦・太鼓・締太鼓・鼓・笛が奏でる 2拍子の軽快なリズムによる「ぞめき」である。それに「踊る阿呆に見る阿呆」などの「よしこの」と呼ばれる歌が伴う。「ぞめき」は騒がしいことを意味し,派手に浮かれたにぎやかな踊りの呼び名で、江戸時代以来の盆踊の要素と考えられている。一方、「よしこの」は江戸時代後期に東海から関西にかけて流行した歌で、大正時代中頃には阿波踊りの歌は「よしこの」だけとなった。

阿波踊りの盛衰は次のようである。明治時代になって「文明開化」路線とは相容れないものとされ、徳島県当局は1868~1870年にわたって取締令を出した。さらに徳島特産の藍産業の衰退などもあって、民間芸能は停滞した。大正時代になり第一次世界大戦大正天皇即位、徳島市制30周年などの祝賀行事で踊りが催行されたことを契機に、再び盛り上がりをみせ始めた。大正末期は景気後退・疫病流行などで踊りの熱気は冷めたが、地域振興策として盆踊りの観光資源化が推進された。第二次世界大戦中は阿波踊りは中断されたが、戦後再開され、今日の賑わいを見せるようになった。

旅行の計画を立てたときは、阿波おどり会館に見学に行こうとなっていたが、宿泊した旅館で夜間に実演があるということで、こちらに参加した。実演してくれたのは、賢楽十人会の方々であった。






間近で初めてみたせいもあるのだろう、「よしこの」の踊りの躍動感、「ぞめき」の軽快なリズム感につられて、参加してみたくなった。そのような機会も与えてくれたが、手と足がバラバラになり、教えてくれた人にクスッと笑われてしまった。練習を重ねて、次の機会にはちゃんと踊れるようにしておこうと秘かに思った。

次は美術館巡りである。