bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

鎌倉歴史文化交流館と扇ガ谷の寺々を訪ねる

「鎌倉Disaster 災害と復興」という企画展の招待券を頂いたので、その会場である鎌倉歴史文化交流館と近辺の寺々を2月16日(土)に訪ねた。

所在地は鎌倉の扇ガ谷(おうぎがやつ)だ。扇ガ谷という地名からは室町時代扇谷上杉家を思い出す。そこの家宰の太田道灌は、江戸城を築いたことで有名だ。

鎌倉歴史文化交流館の建物は、イギリスの著名な建築家ノーマン・フォスターさんが設計したもので、これだけでも見る価値がある。

交流館は無量寺跡と呼ばれているところにあり、2002年の発掘調査で建物の礎石や庭園の跡が発掘され、本当に無量寺の跡ではと期待が高まったが、残念ながら確定されるにはまだ至っていない。鎌倉時代の歴史を記載した『吾妻鏡』には、安達義景(霜月騒動で有名な泰盛の父)の13回忌に触れて、「無量寺は安達氏の菩提寺で甘縄にあった」となっている。しかし、甘縄という場所は長谷や由比ガ浜に近く、扇ガ谷からは随分と離れている。このため無量寺跡と確定するには、さらなる調査が必要とされている。

鎌倉時代に栄華を誇った鎌倉は、室町時代の1455年に鎌倉公方から古河公方へと移転したあとは、すっかりさびれてしまい、江戸時代には一漁村に過ぎなかったそうだ。しかし江戸時代の末頃ともなると、物見遊山の客が増えだして少しずつ活気を取り戻し、さらに明治時代になると、別荘地として利用されるようになったそうだ。大正時代には、この無量寺跡にも三菱財閥の岩崎小弥太の別荘が、また隣には番頭だった荘清次郎の別荘が建てられた。

岩崎弥太郎の別荘跡地には2004年にセンチュリー文化財団(旺文社創業者の赤尾好夫によって設立)によって、ノーマン・フォスターさん設計の個人住宅が建築され、2013年に土地と建物が鎌倉市に寄贈された。2017年5月より、鎌倉歴史文化交流館として利用されている。

扇ガ谷は鎌倉駅からは北西の方向で、横須賀線の西側だ。この日に訪れたのは、鎌倉歴史文化交流館、寿福寺、英勝寺だ。寿福寺には源実朝北条政子の墓もある。
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鎌倉歴史文化交流館は二つの建物からなっている。向かって左側にあるのが別館、
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右側が本館だ。壁は輸入品の人工大理石、ところどころに青みがかった灰色の塊があるがこの部分は本当の大理石だ。
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門を入ってすぐのところでは、春の訪れが近いことを梅花が教えてくれた。
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本館には、通史展示室、中世展示室、近世・近現代展示室がある。通史展示室には、鎌倉時代の法令である御成敗式目のレプリカと
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鎌倉時代の歴史を綴った『吾妻鏡』が並べて展示されていた。吾妻鏡には漢文訓読のためのルビや返り点がつけられていることに興味を持った。
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縄文・弥生時代の展示品もあった。
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中世展示室はこの館のメインだ。源頼朝は鎌倉に鶴岡八幡宮勝長寿院永福寺(ようふくじ)と3つの寺院を建立した。その中で、永福寺は奥州平泉の中尊寺を模した寺院と考えられており、その遺跡から発掘された遺物が展示されていた。経典を納めるための銅製経筒(きょうづつ)
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復元された瓦屋根などが展示されていた。
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また、永福寺を復元した絵画も。さぞかし荘厳な寺院だったのだろうと想像させてくれた。
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また狭い土地に幕府がつくられた鎌倉では、山の岩肌を掘ってやぐらと呼ばれる穴を造り、そこを墓所とし、やぐらの入り口近くには板碑や五輪塔が立てられた。
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また南宋との貿易も盛んにおこなわれ、多量の宋銭が持ち込まれた。国内の貨幣として使われたばかりではなく、同製品の材料としても使われた。鎌倉の大仏にも使われたようである。

今日の貨幣はもちろん日本政府が発行したものを利用しているが、当時は隣の国の銭貨を利用していた。これは宋が滅んで元になったあとも続いた。元が紙幣を用いたために、不要になった宋銭がさらに大量に入ってきたようだ。

為政者が製造したものではなく、世間の信用だけで中国の宋銭が国内の貨幣と流通したことに、貨幣とは何かという秘密が隠されているようだ。ビットコインなどもこれと同じ原理で流通していると考えることができるだろう。

さらにはこのころの為政者はまだ世間の信用に足るだけの力がなかったともいえる。富本銭・和同開珎など古代には銭貨は存在したが、本格的には使われなかったようで、為政者が発行した貨幣が本当に使われるようになるまでには、江戸時代の到来を待たなければならない。
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わき道にそれてしまったので、鎌倉歴史文化交流館の中世室の展示場に戻ろう。ここからは庭の様子も見ることができた。山が傍まで迫り、削られた山肌を見せてくれた。鎌倉の特徴ともなっている石の肌だ。鎌倉石とも呼ばれる砂岩で、加工しやすいことから建材として長いこと利用された。今日では鎌倉の景観を保つために掘削することを禁じられている。
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近世・近現代展示室には、第二次世界大戦のときに多数のユダヤ人にビザを発給して助けた杉原千畝さんに関する資料も置かれていた。

この後、別館で学芸員の方から、鎌倉時代地震と火事、関東大震災による建物の倒壊についての説明を受けた。鎌倉時代は災害がとても多かったようで、この時代の建物はほとんど残っていないとのことであった。また関東大震災ではかやぶき屋根の建物は殆ど倒壊してしまったそうだ。大震災の3日ぐらい前に来た台風が大量の雨を降らせたため、かやぶき屋根が大量の水分を含んでいたことも一因のようだが、当時のかやぶき屋根の建物は脆かったようだ。

鎌倉歴史文化交流館の隣には、三菱財閥の番頭であった荘さんの別荘があった。古我邸と呼ばれているが、鎌倉三大洋館の一つで、現在はフレンチレストランとして利用されている。この日は結婚式が行われていて、中に入ることはできなかった。
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このあと、源実朝北条政子の墓を訪れるために寿福寺へと向かう。道の途中には山を切り抜いたトンネルがあった。
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寿福寺の墓地の山沿いには北条政子の墓が
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そばには実朝の墓が
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いずれもやぐらの中にあり、五輪塔が置かれていた。周りにもたくさんのやぐらがあった。
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そして寿福寺だ。このお寺は、源頼朝が没した翌年(1200年)に北条政子が明菴栄西(みょうあんえいさい)を開山に招いて建立したものだ。本堂は
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本堂の方から山門を見ると、
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そして山門
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次は鎌倉唯一の尼寺の英勝寺へ向かった。ここは江戸城築城前の太田道灌の邸があったところと伝えられている。太田道灌と英勝寺には深いつながりがあるが、由来は次の通り。

江戸時代、太田道灌から数えて4代目の太田康資(やすすけ)の息女とされるお勝が、徳川家康の側女となった。家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなったあと、お勝は家康の命により初代の水戸藩主となる徳川頼房の養母となる。家康の死後、仏門に入って英勝院と称し、三代将軍家光より父祖の地の扇ガ谷を下賜され、英勝寺を創建した。道路沿いには大正10年に建てられた由来を示す碑があった。
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英勝寺の仏殿だ。
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山門と仏殿
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本堂には運慶の作と伝えられている阿弥陀三尊が安置されていた。
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最後に涅槃図。
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扇ガ谷は、源氏山公園から銭洗弁天へ抜けようとするハイキング客を除けば、観光客がはまり入ってこない静かなところだ。鎌倉歴史文化交流館も民家の中に立地していることに配慮して日曜日は休館にしている。訪れた日は土曜日の午前中だったが、ときどき人と行きかう程度で静かな鎌倉を楽しむことができた。

新しく得た情報もあった。鎌倉の災害について説明してくれた学芸員の方から、明応地震(1495年)による津波で、鎌倉大仏を囲っていた建物、いわゆる大仏殿が流されたという言い伝えがあるが、それは誤りだと教えて頂いた。

南北朝時代に書かれた『鎌倉大日記』によれば、「明応四乙卯八月十五日(1495年9月3日)、大地震、洪水、鎌倉由比浜海水到千度檀、水勢大仏殿破堂舎屋、溺死人二百余」」となっている。これからは津波が大仏殿に達して被害を与えたと読むことができる。また江戸時代の文献の『続本朝通鑑』など複数の文献には「大仏殿破壊」と記されている。江戸時代の資料から、この時代には大仏殿が流されたという俗説がはびこっていたと推定される。

しかし万里集九が書いた『梅花無尽蔵』によれば、大仏殿はそもそも存在しなかったとのことである。万里集九は、明応地震の9年前の文明18年10月24日(1486年11月20日)に、大仏を訪れて、「遂見長谷観音之古道場、相去数百歩、而両山之間、逢銅大仏仏長七八丈、腹中空洞、応容数百人背後有穴、脱鞋入腹、僉云、此中往々博奕者白昼呼五白之処也。無堂宇而露坐突兀」と記してある。すなわち二つの山の間から銅でできている大仏に逢ったとなっているので、歴史のプロの間では、大仏殿が流されたというのは間違いだと考えられていると教えて頂いた。

これらの説明をまとめると、大仏堂は1283年に浄光の勧進によって建立が始まり、1243年には開眼供養が行われた(吾妻鑑)。また、その1年前には大仏殿も2/3ほど完成していたようだが、大仏は銅製ではなく木製だったようだ(東関紀行)。そして現存する大仏は1252年から造られたものとされている。大仏殿は1235年(太平記)と1369年(鎌倉大日記)に台風の大風で倒壊した。大仏の右肩には凹みがあるそうで、倒壊のときに生じたものと考えられている。これ以降は大仏殿は再建されることはなかったと見なされている。

そして後年になって明応地震の恐ろしさを強調するために、大仏殿が津波により倒壊されたという俗説が生まれたようだ。善意に考えれば、大きな被害に襲われる可能性もないわけではないので、十分に備えておく必要があるということを俗説は伝えたかったのであろう。

なお、関東大震災では大仏は前に45㎝動き、次の日の余震では30㎝後ろに移動したそうだ。鎌倉の建造物が多く倒れる中で、壊れなかったのは堅牢に造られていたためだろうと学芸員の方から伺った。

駅前に戻ると、そこは人で埋め尽くされていたので、昼食をとることをやめて、早々と帰路についた。寒い日が続いたあとの穏やかな日で、短い時間だったが、新しい情報も得ることができ、満足して横須賀線の車中に身をおいた。