bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

日本100名城の八王子城跡を訪ねる

八王子に立派なお城の跡があるという話を、発掘調査と整備に関わった方から教えて頂いた。年初に大分県の岡城を訪問し、戦国時代の山城に興味を抱いていたので、是非訪問したいと思っていた。しかし春先で気候が不安定なため、なかなかその日が巡ってこなかったが、たまたま快晴になった3月5日(火)を逃してはいけないと判断し、午前中の用事を済ませ出かけた。

多くの遺跡は不便なところが多いが、ここも御多分に漏れずだ。バス利用ではとても大変そうなので、自家用車を利用した。圏央道を高尾山インターチェンジでおり、甲州街道を新宿方面に、そして高尾駅の前で左折、高尾街道を北に向かった。天気が良かったためだろう、京王線高尾山口駅とJR線の高尾駅の周辺には、火曜日にもかかわらず、多くのハイキング客が出ていた。人気の高い高尾山を目指しているものと思われた。

高尾街道は交通量も少なかったので、あたりの景色を楽しみながらの運転だ。側道にそって大きな街路樹が植えられ、さらに周囲は林に囲まれていて、自然に富んだ山中を思わせる風景だ。天皇陵に近いので整備されているのだろうなどと思いを巡らしているうちに、左折すべき城山大橋に至った。曲がってまっすぐ進み八王子霊園手前の城跡入り口でさらに左折した。インターチェンジを出てからずっと左折の連続で、ちょうどカタカナのコの字を下から書いたように移動してきた。コの字の上を描くかのように、最後の角を曲がった。景色も一変し、霊園が近いためだろう、石材屋さんが目立ち、過去の世界へと誘ってくれた。途中から、道は石畳となり狭くなったが、迷うことなく駐車場に到着した。土日はここまでバスが来ているようだ。
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車を降りると近くにガイダンス施設があったので立ち寄った。ベネチア製のレースガラス器の破片が城跡から見つかったという話を聞いていたが、復元したものが飾られていた。
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現地の状況を得るものが有ればと思って立ち寄ったのだが、ツアーマップは見つからず八王子城の概略を示した一枚のパンフレットを手に入れただけで、あまり有効な情報も得られないまま施設を出て、本丸方面という表示板を見て、取り敢えずそちらに向かって歩き出した。途中の広場には八王子城跡の地形の模型があった。下の方が城主の館があったところ、上の方が本丸などがある山城だ。我々は本丸を目指すこととした。
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ここが山城へ入る入り口だ。下山してくる人たちに出会ったが、どの人も登山靴を履き、杖をもち、リュックを背負ったいた。我々は、セーターの上に冬物のコートそしてジーパンといういでたちなので、間違ったところに来てしまったかなと不安を感じた。右側の看板にも滑落事故が多いので十分な装備で登山をするようにという注意書きがあった。本丸がある地点の標高は460メートル、歩いて40分くらいだ。気後れしたが、運動靴を履いてきたので、それなりの準備ができているので大丈夫だろうと気を強く持って、山城への道を登り始めた。
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少し歩きはじめると、道はすぐに山道となった。予想に反してなだらかなハイキングコースではないようだ。
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相当に登ったと思ったとき、4合目という標識に出くわし、ちょっとがっかりしたが、天気にも恵まれ、空気も澄んでいるので、気持ちを切り替えてさらに進んだ。
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しばらく進むと梅林が見えてきた。山道でののどかな景色は心を和ませてくれる。
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山頂に近くなったのだろう。展望が開けてきた。眺望を楽しみながら休憩をしている人に、方向を教えてもらった。中央に見える高い建物が八王子駅周辺、左側に見える白い円形の建物が西武ドームとのことだった。また筑波山東京スカイツリーが見えることもあるそうだ。
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そうこうするうちに八王子神社に着いた。
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この地点より20メートル程度高いところが本丸跡だ。
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また本丸を散り囲んでいるのが松本曲輪・小宮曲輪だ。きっと凄惨な戦いの場になった場所だろう。
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毎日のようにここを訪れているという方から付近の情報を得た。1.2Km先には富士見台があり、富士山が見えることもあるということだった。また、登ってきた道の麓には御主殿跡があるので見学するとよいとのことだった。富士見台はまたの機会に譲ることにし、訪ねたいと思っていた御主殿跡へ向かうことにした。

滑りやすい山道に足を取られそうになりながら、来た道を引き返した。

御主殿跡に近づくと訪問客が目立つようになってきたが、彼らは我々と同じ服装だ。自然と彼らの中に溶け込んで、遺跡を楽しむことができた。最初に現れたのが曳橋だ。竪に立て籠もるときにはこの橋を落とそうとしたのだろう。
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曳橋を渡ると櫓(やぐら)門跡だ。発掘調査をした方に是非見て欲しいと勧められた場所だ。石垣がきれいだ。殆どの石は当時のものだそうだ。
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石段の先は広場になっていた。
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礎石があちらこちらにあり、それぞれがどのような建物のものであったかが示されていた。政務が執り行われた主殿の礎石だ。
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来客者の饗応を行う会所は、礎石の上に床面が造られ、間取りが分かるようになっていた。
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最後になったが、八王子城の沿革を記しておこう。築城は戦国時代。築城したのは北条氏照だ。この当時の北条家の領地は関八州に及ぶ広大なもので、領主は兄の氏政であった。北条家の本拠地はもちろん小田原だが、広大な領地を支配するために、関東一円に出城を構築し、小田原に近い城は兄弟に守らせていた。八王子城は北関東から攻め組んでくる敵を防ぐための重要な拠点で、ウィキペディアには1571年ごろに築城、1581年ごろに氏照が本拠にしたと書かれているが、発掘調査に携わった方は、1582年(天正10年)と思われる史料に「普請」という文字があり、1587年(天正15年)と推定される史料には氏照は小田原におり、狩野一庵が「八王子ニ令留守居候間」とあると書かれていると教えてくれた。また氏照は八王子城が築城される前は滝山城の城主で、1587年ころには居城を八王子城に移したものと推察されているとのことだった。

八王子城は石垣で固められた山城で、城を象徴する天守閣は存在しない。急峻な山を切り拓いき、山全体を守りを主体にした構造物にしている。豊臣秀吉は天下統一を目指して小田原征伐を行うが、その一環として八王子城の攻撃を行う。攻撃したのは、上杉景勝前田利家真田昌幸だ。総勢15,000人の部隊に攻め込まれ、一日で勝敗は決してしまう。1590年(天正18年)7月24日(旧暦6月23日)のことだ。城主の氏照以下家臣は小田原に駆けつけており、城代以下のわずかな将兵と領国内の農民と婦女子で戦った。このときの守備側の総勢は3,000人だが、ひとたまりもなかったようだ。御主殿の近くにある滝の上流で北条方の武将や婦女子は自刃し、身を投じたとのことだ。

御主殿跡や櫓門跡などの詳しい説明はボランティアの方がしてくれるということなので、いつか再び訪れて、今回見逃した御主殿の滝なども含めて、とっておきの話を伺いたいと思っている。