今度の記事は黒い城として知られている岡山城である。真っ黒いカラスになぞらえて烏城とも呼ばれる。この城の付近には旭川が流れていて、その流域には岡山、石山、天神山という三つの丘があった。戦国武将の宇喜多直家は、石山にあった城を手に入れて本拠地とし、この地域を戦国の表舞台に立たせた。そして直家の子・秀家は岡山の丘に本丸を定め、今に残る岡山城を築いた(豊臣秀吉の指導によるとも伝えられている)。城下町は、城の北と東を旭川が守るように河道を変更し、さらに内堀、中堀、外堀をつくり、南北に長く作られた。岡山城は、平野の中の丘の上にあるので、姫路城と同じように平山城である。
岡山市政策局事業政策課発行の『都心創生まちづくり構想』によれば、岡山城の内堀、中堀、外堀は旭川に沿って作られた。
城下町も同じように形成された。南北に長いのが特徴である。
岡山城は、岡山駅からは2km足らずだが、この日はかなりの雨が降っていたので、バスを利用した。
県庁前までバスで行き、その後天守を目指した。
上図の下部にある橋・内下馬橋の中ほどから見た内堀の石垣。烏城公園の碑がある。
鉄門(くろがねもん)跡。1階部分の木部をすべて鉄板で覆い、堅固で厳めしい造りであったため、この名がついた。
不明門。普段は閉ざされているので、この名になった。
天守。明治以降も残され、詳細な図面も起こされたが、戦災で焼失してしまった。昭和41年に往時をしのばせる天守が再建された。大入母屋造りの基部に高楼を重ねた望楼型である。姫路城と同じである。
廊下門。本丸の北側から中の段に上るための裏(搦手)門である。
廊下門近辺から天守を見る。
月見櫓の石垣。池田忠雄が1620年に築いた石垣で、隅は算木積(長方形の石を交互に振り分けて積む方法)になっている。
コトバンクによれば岡山城の歴史は次のようである。正平年間(1346~70)に上神高直によって築かれた石山城が初めとされている。元亀元年(1570)に宇喜多直家が金光宗高を謀殺して城を奪い、天正元年(1573)に入城し増築する。その子秀家は豊臣秀吉の養子となり備前57万石を領し、城もそれにあわせて大改修された。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで秀家は城と所領を没収され、かわって小早川秀秋が城主となった。しかし秀秋が病没したため、慶長8年(1603)に池田輝政の二男忠継が28万石で入封し、以来池田氏の一族が世襲した。なお、姫路城のところで、本田忠刻と千姫の娘・勝姫を紹介したが、その勝姫は播磨藩三代目藩主・池田光政の妻となった。
あいにくの雨が降っている中での見学となった。そのため薄暗い背景の中に黒い城が溶け込んでいるような感じで、城を正面から見たとき、2次元の平らな面に描かれた厚みのない建造物のように見え、不思議な感覚にとらわれた。このブログでの写真を見ても同じである。黒だと厚みがあるように感じさせるのが難しいのだと知った。このあと後楽園を見る予定であったが、雨脚が強くなってきたのであきらめた。
次は備中高松城跡である。