bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

早春の四国・中国旅行-城めぐり・岡山城(烏城)

今度の記事は黒い城として知られている岡山城である。真っ黒いカラスになぞらえて烏城とも呼ばれる。この城の付近には旭川が流れていて、その流域には岡山、石山、天神山という三つの丘があった。戦国武将の宇喜多直家は、石山にあった城を手に入れて本拠地とし、この地域を戦国の表舞台に立たせた。そして直家の子・秀家は岡山の丘に本丸を定め、今に残る岡山城を築いた(豊臣秀吉の指導によるとも伝えられている)。城下町は、城の北と東を旭川が守るように河道を変更し、さらに内堀、中堀、外堀をつくり、南北に長く作られた。岡山城は、平野の中の丘の上にあるので、姫路城と同じように平山城である。

岡山市政策局事業政策課発行の『都心創生まちづくり構想』によれば、岡山城の内堀、中堀、外堀は旭川に沿って作られた。

城下町も同じように形成された。南北に長いのが特徴である。

岡山城は、岡山駅からは2km足らずだが、この日はかなりの雨が降っていたので、バスを利用した。

県庁前までバスで行き、その後天守を目指した。

上図の下部にある橋・内下馬橋の中ほどから見た内堀の石垣。烏城公園の碑がある。

鉄門(くろがねもん)跡。1階部分の木部をすべて鉄板で覆い、堅固で厳めしい造りであったため、この名がついた。

不明門。普段は閉ざされているので、この名になった。

天守。明治以降も残され、詳細な図面も起こされたが、戦災で焼失してしまった。昭和41年に往時をしのばせる天守が再建された。大入母屋造りの基部に高楼を重ねた望楼型である。姫路城と同じである。

廊下門。本丸の北側から中の段に上るための裏(搦手)門である。

廊下門近辺から天守を見る。

月見櫓の石垣。池田忠雄が1620年に築いた石垣で、隅は算木積(長方形の石を交互に振り分けて積む方法)になっている。

コトバンクによれば岡山城の歴史は次のようである。正平年間(1346~70)に上神高直によって築かれた石山城が初めとされている。元亀元年(1570)に宇喜多直家が金光宗高を謀殺して城を奪い、天正元年(1573)に入城し増築する。その子秀家は豊臣秀吉の養子となり備前57万石を領し、城もそれにあわせて大改修された。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで秀家は城と所領を没収され、かわって小早川秀秋が城主となった。しかし秀秋が病没したため、慶長8年(1603)に池田輝政の二男忠継が28万石で入封し、以来池田氏の一族が世襲した。なお、姫路城のところで、本田忠刻と千姫の娘・勝姫を紹介したが、その勝姫は播磨藩三代目藩主・池田光政の妻となった。

あいにくの雨が降っている中での見学となった。そのため薄暗い背景の中に黒い城が溶け込んでいるような感じで、城を正面から見たとき、2次元の平らな面に描かれた厚みのない建造物のように見え、不思議な感覚にとらわれた。このブログでの写真を見ても同じである。黒だと厚みがあるように感じさせるのが難しいのだと知った。このあと後楽園を見る予定であったが、雨脚が強くなってきたのであきらめた。

次は備中高松城跡である。