東北城柵巡り二日目は盛岡市で、最北端にある城柵の志波城を見学することが主要な目的である。旅館からのバスが予定していた時間よりも早く角館駅に着いたので、ひとつ前の新幹線に乗れそうである。このようなとき「えきねっと」は助かる。スマホから簡単に変更ができるので、時間が迫っていても、切符の購入窓口が混んでいても、労せずして予定を変えられる。良い方向に働いて盛岡に早く着けた。この日のホテルは駅からすぐのところなので、そこに荷物を預け、タクシーで目的地に向かった。
志波城が築かれたのは延暦22年(803)で、異色の桓武天皇の時世である。新しい都(長岡京と平安京)の建設と蝦夷(えぞ)征討という二つの大きな事業を行ったことで知られている。父は光仁天皇(天智天皇の孫)で、この時に天武天皇系から天智天皇系に皇統が代わった。大したことではないように感じられるかもしれないが、この時代の人々にとっては大事件だった。また、母は百済系渡来人・和氏出身の高野新笠であった。この頃は、皇后は皇女あるいは藤原家から選ばれたので蔑視されたことだろう。
このため、特異な出自が起因となり、偉大な業績をあげることに邁進したのではないかとも見られている。そして、都の移転は肥大化する奈良仏教のの影響から逃れるためとされ、東北の平定は中国の中華思想*1を真似ての小中華思想*2に基づいて行われたとされている。東北地方に住んでいた蝦夷(えみし)の人々にとっては大変に迷惑な話であったことだろう。
桓武天皇は3度にわたって蝦夷征討*3をおこなった。その結果、蝦夷の脅威は減退(802)し、坂上田村麻呂は胆沢城(802)を、さらに志波城(803)を築いた。そして、朝廷の律令制支配は北上川北部まで及ぶことになった。田村麻呂は志波城の築城と同時か数年後に鎮守府を胆沢城に移転した。志波城は雫石川氾濫により北辺部分を失い、徳丹城が造営されるとその機能を移転し、約10年でその役割を終えた。
志波城の外郭は、パンフレットによれば、一辺928mの外大溝、一辺840mの土を突き固めた土塀(築地塀)で正方形に囲まれ、築地塀の各辺中央には門、約60m間隔で櫓が立っていた。城内中央やや南寄りには、150m四方を築地塀で囲んだところに行政や蝦夷をもてなす饗給(きょうごう)と呼ばれる儀式などを行う政庁があり、大路で外郭と結ばれていた。政庁の周囲には行政事務を行った官衙建物群が、外郭沿いに兵舎である竪穴建物が1200~2000棟立ち並んでいた。
パンフレットには次の図も添えられていた。
Google Earthで見るとなるほどと思える。下の方に南側の外郭が、中央に政庁が見えている。
志波城古代公園案内所には、志波城のジオラマがあった。実際の見学は、手前から政庁の方に向かって行った。
それでは志波城を見ていこう。
外郭南門とその周辺。南門が中央にあり、両脇から少し離れたところ(おそらく60m)に櫓がある。
外側から見た南門。2階部分は防御のための設備だろう。
内側より。2階に登るための梯子が備えてある。
兵舎。このようなものが1200~2000棟も立ち並んでいたとは驚きである。各棟に何人の兵が入れたのだろう。全体で万を超える兵が駐在できたとすると、どれだけ大きな戦いに備えたのだろう。
建造中の兵舎。新築工事を行なっているところで、竪穴建物の構造がよく分かった。
南大路。外郭と政庁を結ぶ重要な道で、道幅が広い。
政庁南門。外郭側から見たもので、防備のための特別な施設は備えていない。ここまで攻め込まれたらもうダメという事だろうか。
政庁内部。建物が立っていないためかとても広く見える。
政庁西門。外側より、
内側より。南門より小ぶりである。
政庁東門。外側より、
内側より。西門と同型である。
最前線の城柵ということで、戦いへの備えもしっかりしているだろうと予想して訪れたが、兵舎の数は多いものの、平坦地で防御に全く向いていない事にびっくりした。兵は駐留させるためだけの施設のようで、戦いは他の場所で行われたのだろう。おそらく、律令国家としての責務を蝦夷の人々に徹底させ、租庸調による税制が確実に行われることを目指したのであろう。実際に観察することで、城柵の役割が段々に明確になってきた。多賀城を見学することでさらにはっきりすることを期待して、盛岡市街地の散策を楽しむためにこの地をあとにした。
*1:中華思想は華夷思想とも言う。これは皇帝がいる中国の中心を「中華」(世界の中心)とし、そこから離れるにつれて野蛮な人が住む地域になるという、同心円状の世界観である。
*2:朝廷に従わない蝦夷が住む東北や北海道を「夷狄」(東と北の蛮族が住む土地)、隼人が住む九州南部を「戎」(西の蛮族が住む土地)と名付けた。そして、化外の地に住む蛮族を従わせ、天皇の支配を全国に広めることは正しいことであると考えた。
*3:征討は、①紀古佐美を征東大使とする最初の軍は惨敗(789)、②2度目の遠征で征夷大将軍・大伴弟麻呂の補佐役として抜擢された坂上田村麻呂が活躍(791)、③3度目の遠征で夷大将軍・田村麻呂は勝利(801)し、アテルイら500人の蝦夷を京都へ護送、である