bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

東北城柵巡りの旅 多賀城

多賀城が創建されてから今年は1300年の節目である。これを記念して、外郭南門が復元され、いくつかの催しも予定されている。ここを有名にしているのは多賀城碑だろう。これは江戸時代初めに発見され、「壺碑(つぼのいしぶみ)」*1と呼ばれた。

奥の細道」で知られる江戸時代の俳人松尾芭蕉はこの碑を見て、「むかしより、よみ置ける歌枕、多くかたり伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木に変れば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬ事のみ。ここに至りて、うたがひなき、千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前に、古人の心を閲(けみ)す」と記している。芭蕉はこの石碑を見て、「不易流行」*2という俳諧の理念を体得した。さらに、「行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の悦び、覊旅(きりょ)の労をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかりなり」*3と詠んでいる。

それでは、多賀城碑が造られたころ、この地はどのような場所だったのだろう。この時代、東北地方の北部では狩猟採集を、南部では農業(水田稲作)を生業としていた。多賀城の周辺はこの二つの文化がせめぎあっていたところのように見える。水田稲作が行われたところでは、豪族が生まれ、その人々が古墳を作った。特にヤマト王権との結びつきが強いところでは権力が強ければ強いほど、大規模な前方後円墳を造営した*4。しかし、東北地方のすべてに古墳が存在するわけではなく、その北限は仙台から約50km足らずの大崎平野と見なされている。

多賀城の周辺にも、6~7世紀の稲荷殿古墳(円墳)、大代横穴墓、田屋場横穴墓が存在する。これらのことから、多賀城周辺は、水田稲作を生業としている地域の辺縁で、その北隣は狩猟採集を生業とする地域であったと考えていいだろう。時代区分でいうと、南側は古墳時代、北側は続縄文時代であった。文化が境をなすところでは、諍いも起こるし、また、交流も起きる。多賀城からは続縄文時代に属すと思われる遺物も発見されるので、お互いにかなりの交流があったのであろう。

6世紀までに陸奥には10国造*5が存在し、大崎平野のあたりまでカバーしている。

7世紀中ごろ(孝徳朝の後半で大化改新の頃)に国造制が評制へと変わり、陸奥国(建国時は道奥国とも)が建国され、その領域は仙台の南の阿武隈川あたりを境としていた。国造制(ヤマト王権)の時代と比べると、律令制国家を目指している飛鳥朝の勢力圏は南に後退したといえる。8世紀になると名取郡が設置され、霊亀元年(715)には東国6国の富民1000戸が陸奥に移配され、大崎平野への入植が本格化する。

神亀元年(724)に多賀城が造営され、郡山遺跡から陸奥国府が移転した。多賀城創建と同じころ、大崎・牡鹿地方に天平5柵*6が築かれ、大崎平野を中心に大規模な植民と城柵官衙の整備が行われ、東北中部における律令国家としての体制が整った。そして、この地域は黒川以北十郡*7と呼ばれるようになった。

陸奥国国府は前述したように現在の多賀城市に置かれ、国分寺仙台市内にあった。また、多賀城には鎮守府が置かれ、按察使*8が常駐していたことから、陸奥国国府陸奥・出羽両国を軍事的に統轄していた。

8世紀半ばになると、海道に桃生城(759年)、山道に伊治城(767:栗原)が築かれ、律令制による支配はさらに強まった*9

宝亀5年(774)に、蝦夷が桃山城を攻撃し、落城させる。ここから38年戦争が始まる。宝亀11年(780)には、伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)が伊治城で道島大楯らを殺害、伊治城は焼かれ、呰麻呂軍はさらに多賀城を襲撃、兵器・兵粮を略奪・放火した。

秋田城の記事で説明したように、桓武朝になって、延暦8年(789)に紀古佐美らによる大規模な蝦夷征討が開始されたが、大敗を喫してしまう。延暦13年(794)には第二次の蝦夷征伐が行われ戦果を上げた。延暦20年(801)には坂上田村麻呂征夷大将軍として第三次の征討が行われ、阿弖利爲(あてるい)・盤具公(いわぐのきみ)・母禮(もれ)が和平に応じ降伏したが、結果的に裏切られ河内で斬首されてしまう。

この征討後に政情は落ち着き、胆沢城(802)、志波城(803)、中山柵(804)が築かれた。さらに延暦24年(805)の「徳政相論」によって、桓武天皇の肝いりの政策であった「征夷」と「造都」は中止された。さらに、志波城の機能は新たに築かれた徳丹城(812)に移された。

城柵では、蝦夷朝貢し、城司が天皇に代わって彼らを饗給*10した。城柵は行政だけではなく、「交易センター」としての機能も持つようになり、軍事的な役割は後退した。

それでは多賀城を見ていこう。外郭は東辺約1000m、西辺約700m、南辺約880m、北辺約860m、周囲は築地塀(ついじべい)で囲まれ、南・東・西に門が開かれていた。ほぼ中央に、儀式などを行う政庁があり、その大きさは東西103m、南北116mであった。政庁跡の内部に石敷広場があり、その東西に西脇殿、東脇殿、北側に正殿、後殿、西北殿、東北殿などが配置されていた。政庁の南東方向に多賀城廃寺、政庁正殿の北側に延喜式内社の多賀神社がある。

宮城県多賀城跡調査研究所のホームページには、それらを示す地図がある。

Google Earthで示すと次のようである。なお、ここでは外郭南門は完成しておらず、左中央にある白い建屋がそれである。

Google Mapでは次のようである。右下が東北本線国府多賀城駅である。駅からは朱色の外郭南門が見え隠れしているので、そちらに向かって歩いていけばよい。しかし、駅からの取り付け道路がまだ完成していないので、少し回り道をすればたどり着ける。外郭南門もまだ工事中だったため、遠目からの見学になる。そして、南北大路を真っ直ぐ北に上ると、政庁にたどり着ける。途中に多賀城碑、復元された官衙建物を楽しむことができる。

東北歴史博物館には、多賀城の模型があった。

多賀城廃寺模型もあったので、併せて掲載する。

それでは実際に見学してみよう。
外郭南門(外側より)。朱塗りのなかなか荘厳な門である。

外郭南門(内側より)。

国宝の多賀城碑。前半には都などからの距離が記されており、後半には「多賀城神亀元年(724)に大野朝臣東人(あずまびと)によって設置されたこと、天平宝字6年(762)に藤原恵美朝臣朝狩によって改修された」ことが記されている。最後に、天平宝字6年12月1日に碑が建立されたと刻まれている。

外郭南門から政庁に通じる政庁南北大路。道幅もあり、小高いところに政庁が遠く見えたであろうことを思うと、威厳に満ちた国衙であったと容易に認識できる。

官衙主屋。外郭内には行政を行う官衙が建てられていたが、その一部の建物が復元されている。



政庁復元模型。政庁内部にあり、それぞれの建物遺跡がどれに当たるかを探すのに役立った。

政庁正殿跡。

政庁東殿跡。

排水暗渠施設。官衙主屋の手前付近の政庁南北大路に復元されていた。南北大路の最も低いところに雨水が集まってくるため、路面に穴を掘って石を詰めた桝(ます)が造られた。さらに、桝の地下に暗渠が造られ、西側の低湿地に排水されていた。この機能を見て、先人の知恵は大したものだと感心させられた。

築地塀。防御用に外郭に沿って築地塀が設けられた。

池。多賀城ができた頃、この周辺は湿地であった。この池は当時を反映してのものである。

今回の城柵巡りで多くのことが理解できた。太平洋側は、古墳時代には国造の配置から分かるように仙台の北(大崎平野)あたりまで水田稲作が行われていた。しかし、7世紀飛鳥朝の頃は彼らの行政組織である評を設定できたのは仙台の南(阿武隈川)にとどまっていた。8世紀を迎え奈良時代になると、関東から農民を移住させ、古墳時代の範囲まで律令による行政支配の地域を戻した。そして、平安時代初めの桓武天皇の時代には、律令制の支配地域の拡大が図られ、盛岡付近にまで及んだ。蝦夷と呼ばれる狩猟採集の人々から見ると迷惑な話であったことだろう。一方、日本海側は、奈良時代律令制が制定された頃には、その領域はすでに秋田にまで達していて、その後の変化は小さかった。

旅行をしているときに、セルヒー・プロヒー著『ウクライナ全史』を読んだ。今日でもロシアの侵攻を受けて厳しい毎日を送っているが、総じてウクライナの歴史は過酷だったことがこの本から分かる。この国には、北部は森林地帯、南部はステップという地勢的な相違があり、北部では農耕が、南部では遊牧が行われてきた。そして、農耕民と遊牧民との間での衝突は激しく、ウクライナの歴史を特徴づけてきたともいえる。東北の古代の歴史もウクライナと比較すると規模は限られているものの、北部の狩猟採集民と南部の農耕民とのせめぎあいであった。ハンチントンの『文明の衝突』で結論付けられているように、「世界の安全を守るには世界の多文化性を認めなくてはならない」ということが大事なのだが、東北の古代では少なからずそのような方向には働かなかったようである。今日の世界情勢もいい方向に向いているようには思えず、改めて歴史を振り返り反省する必要があるように思う。

*1:壺碑は陸奥のおくの方にあると伝わる古い石碑で、歌枕として多くの和歌に詠み込まれていた。西行源頼朝の和歌でも使われている。

*2:「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」と説いた。すなわち、「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない」、しかも「その本は一つなり」即ち「両者の根本は一つ」であるとした。

*3:現代語訳:(壺碑を見られたのも)行脚をしたおかげであり、生き長らえてこその喜びであると、旅の苦労を忘れて、涙もあふれ落ちるほど感動した。

*4:東北地方の前方後円墳は、仙台平野、米沢盆地、大崎平野、新潟平野南半部、山形盆地などにある。最大の前方後円墳は、宮城県名取市にある雷神山古墳で、主軸長は168m、後円部の径は96m、高さは12mである。

*5:道奥菊多国造(菊多郡に相当)、石城国造(磐城郡)、染羽国造(締葉郡)、浮田国造(宇多郡)、思国造(思太の誤りか)、白河国造(白河郡、石背国造(磐瀬郡)、阿尺国造(安積郡)、信夫国造(信夫郡)、伊久国造(伊具郡

*6:天平9年(737)に多賀柵・牡鹿柵・色麻柵・玉造柵・新田柵に5つの5城柵があったと、続日本記に記されている

*7:「10郡」とは、黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿郡で、前半の6郡は山道、後半の4郡は海道と区分された。さらに遠田を加えると11郡となる。

*8:奈良時代には国司の施政や諸国の民情などを巡回視察する役割であった。 平安時代になると陸奥・出羽だけを任地とし、大納言・中納言の名目上の兼職となった。

*9:桃生城は標高80mの丘陵に、伊治城は河岸段丘上に築かれ、これまでの城柵に比して防御が厳重である。両城は蝦夷の領域を侵食しているため、強い反発・抵抗を受けた。伊治城の外郭は丘陵地に数kmにわたって二重の堀と土塁がめぐり、古代山城を思い起こさせる。

*10:饗給儀礼は城柵の政庁前の広場で行われ、蝦夷の有力者には位階や官職が与えられ、絹や麻布、朝服や食料などが支給された。