bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

松代城・藩校文武学校を訪れる

クラス会は夕方からなので、午前中は空いている。それではということで、城下町の松代を訪ねることにした。この町は現在は長野市の一部になっているが、子供の頃は埴科郡松代町であった。昭和41年に合併して現在に至っている。この町の現在の人口は1.7万人弱である。江戸時代は真田氏が治める松代藩で、現在でもその時の名残りをたくさん残している。

町の中心には松代城がある。もともとは海津城と呼ばれていた。戦国時代、武田信玄信濃侵攻を開始すると、北信を庇護していた上杉謙信と軍事衝突を引き起こし、川中島の戦いへと発展する。その時、千曲川河畔にあった海津城は、この地域の拠点城郭として整備された。『甲陽軍鑑』によれば、武田氏の足軽大将であった山本勘助に命じて築城させたという。この築城は永禄2年(1559)に開始された。

武田が滅亡すると、織田氏家臣の森長可(もりながよし)の居城となる。本能寺の変の後、森長可信濃を放棄し、信濃に侵入した上杉氏の支配となった。しかし上杉景勝会津に転出後は、豊臣秀吉の蔵入地となった。慶長5年(1600)に、森忠正が森長可所縁の土地に入封し、豊臣家の蔵入地は廃され、城の名称も待城と変更された。その後森忠正は転封され、松平忠輝が入封した。忠輝も改易され松平忠昌が入封し、城の名も待城から松城に改名された。さらに忠昌が転封し、酒井忠勝が入封した。しかし彼も転封となって、元和8年(1622)に真田信之が入城した。以後、松城は松代藩の藩庁として、明治維新まで真田氏の居城となった。正徳元年(1711)には幕命により、松代城と城の名が改められた。

真田信之真田昌幸の長男である。関ケ原の戦いでは、父と弟・信繁(幸村)は石田三成らの西軍に属した。しかし信之は、妻小松姫が徳川の重臣本多忠勝の娘であったことから、徳川家康らの東軍に属した。戦後、信之は上田藩主となるが、上田城の破却が命じられ、沼田城を本拠とした。先に述べたとおり、元和8年に信濃松代に加増移封される。そして沼田城も継承した。驚いたことに、信之は93歳まで長生きした。

それでは松代の探索を始める。長野電鉄屋代線の旧松代駅を起点に、真田家ゆかりの場所を訪問しよう。

旧松代駅。電車の線路は取り除かれ、代わりにバスが走っている。

松代城に向かう途中に、松代藩の家老職を務めた小山田家の門が現れた。初代の小山田壱岐守茂誠は武田信玄の武将であり、その妻は真田信之・信綱の姉である。元和8年の移封のときにこの地に移ってきた。

江戸時代末期の松代城の縄張り(長野市のホームページ「松代城の歴史」より)

太鼓門(縄張り図の右下)。門前の橋の付け替え工事が行われていた。

ぐるりと回って、本丸の裏口(搦手)に位置する北不明門。

北の櫓門。

本丸。

海津城跡の碑。

南の櫓門。

東不明門前橋。

次は、藩校の文武学校へ向かう。途中、松代小学校沿いに歩く。右側が小学校の壁。江戸時代に遡ってしまったのかと錯覚しそうになる光景である。

小学校の門。松代小学校は、文武学校を引き継いで開校された由緒ある学校である。

校庭には、松代出身の佐久間象山銅像がある。

旧白井家。建築されたのは弘化3年(1846)で、平成12年に現在地に移築された。白井家は中級武士で、白井初平が高百石、元方御金奉行、御宮奉行などを務めた。




文武学校表門。

構内ジオラマ

文武学校は文武の奨励を目的に、8代藩主真田幸貫の発案で、嘉永8年(1851)に設計に取り掛かり、9代真田幸教の安政2年(1855)に完成した。授業は文学(漢学)・躾方・医学・軍学で、西洋砲術・弓術・槍術・柔術も教授した。
剣術所。


東序。「序」は教室という意味で、東序では軍学儒学・歴史・医学などが教授されていた。

西序。当初は教室として計画されたが、当時の時代を反映して、南槍術所に変更された。

文学所。内部には大広間、台所、役所、藩主控室、文庫蔵など用途の異なるさまざまなエリアがある。右側の建物が文学所。





建物内部の西側は御役所と呼ばれ、学校の管理をしていた。


弓術所。


柔術所。

番所

次は旧樋口家住宅。代表的な藩士の住宅で、藩の目付け役をしていた。江戸時代末期の禄高は230石。






この後は真田家ゆかりの建物を訪ねた。これについては次の記事で紹介する。
ここまで、城跡、文武学校、藩士の住宅などを見学した。街は落ち着いた雰囲気で、江戸時代を彷彿させてくれる仕掛けがよくできていて、散策を楽しむことができた。本来であればたくさんの観光客が訪れてくれることを町は願っているのだろう。しかし訪問者の立場になると、人でごみごみしているのはかなわない。今回は、出会う人も少なく、ゆっくりと楽しんで見学することができ、とても良かった。