bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

松代で真田邸・真田家菩提寺を訪ねる

松代は、江戸時代の情緒を残す落ち着いた佇まいの素晴らしい町だ。松代城が残っていればもっと素敵なのだが、今も進んでいる復元事業に期待しよう。江戸時代には、重なる火災や洪水の惨事に遭遇し、初期の松代城の建物は早くに失われた。中頃には本丸はすでになく、西側にあった花の丸御殿が藩主の政務と生活の場であった。明治時代には廃城となり、土地・建物が順々に払い下げられ、桑畑として開墾され、建物も取り壊された。花の丸御殿も明治初めの放火で焼失し、現在まで残っているのは、三の堀の外に建てられた新御殿(真田邸)などわずかである。この新御殿は、9代藩主・幸教(ゆきのり)が母の隠居所として建てたもので、明治以降は真田家の私邸として使われた。ここは、表座敷・居間・湯殿など江戸時代の大名邸宅の面影をよく残している。また「御殿建築」は、全国にもほとんど残されてないので、貴重な建物である。

それでは真田邸を見ていこう。先ずは表門。

玄関。

床の間の生花。

真田邸には「表」と「奥」の区分があり、その間は杉戸で隔てられている。

「表」の部分から見ていこう。
座敷。

庭園。「水心秋月亭」と名付けられ、心字池を中心に三尊石・滝口を南面に配し、周囲の山々を借景としている。



「奥」の部分。座敷。

湯殿。

近くには真田宝物館があり、真田家ゆかりの古文書、武具、調度品などが飾られていた。

この後、初代藩主夫妻の菩提寺を訪れた。その途中で赤澤家住宅表門を見る。これは国の登録有形文化財になっている。文化庁のデータベースには、「旧武家町の通りに北面して建つ。1間薬医門、切妻造桟瓦葺、左右に袖塀を付け、西に潜戸をたてる。妻飾は男梁上に笈形付大瓶束を立て、破風拝みに鰭付蕪懸魚を付し、要所に絵様実肘木を用いるなど装飾性を高めている。上級武家屋敷の表門の格式を受け継ぐ遺構」と説明されていた。

真田信之の妻・小松姫菩提寺・大英寺に向かう。小松姫は先の記事で触れたように、徳川家の重臣本多忠勝の娘。徳川家康の養女となった後、嫁いだ。ここの本堂は、小松姫の霊屋(たまや)として、寛永元年(1624)に建立された。明治時代になって、真田家からの援助がなくなり、寺の維持が困難になったため、いくつかの堂を取り壊し、霊屋を本堂として残した。
表門へ続くこじんまりとした小道。

表門。

本堂。

鐘楼。

次に信之の菩提寺である長國寺に向かった。その途中にあった祝(ほうり)神社。松代城下時代は町方の産土(うぶすな)神、総鎮守社として祀られ、今も親しみを込めて「お諏訪さん」と呼ばれている。

いよいよ長國寺。住宅街の方から総門を望む。

総門。

本堂。屋根の傾斜がきつい建物で、上部の六文銭が際立っている。

この寺の創立時の歴史を簡単に記しておこう。信濃の在地領主であった真田幸隆が、天文16年(1547)に、伝為晃運(でんいこううん)禅師を開山第一世に招き、一族の菩提寺として、松尾城内(小県郡真田町・現上田市)に「長谷寺(ちょうこくじ)」を建立し、永禄7年(1564)に城外に移された。江戸幕府が開かれ、幸隆の孫の信之が上田城主となり、さらに元和8年(1622)に松代へ移封された。これにともなって現在の場所に移転し、寺号も長國寺と改められた。
僧堂。

放光殿。

庫裡。

開山堂。3代幸道の霊屋として建立されたものを、明治5年の本堂再建の際に現在地に移され、開山堂にあてられた。方三間の宝形造、桟瓦葺である。

鐘楼。

そして寺の方に案内されて、信之の霊屋を参拝した。黒漆の表門。

重要文化財の宝殿。修復なったばかりということで、落ち着いた雰囲気で、荘厳である。文化遺産オンラインには、「宝殿は正面三間、側面四間入母屋造で千鳥破風や唐破風を付け、随所に彫刻を入れ、内外全面に極彩色や漆塗を施すなど、豪華な意匠で、地方藩主のものとしては比較的大型であり、霊廟建築の一遺構として価値がある。」と説明されている。



隣には、2代信政の霊屋があった。

筆頭家老の矢沢家の表門を通って、旧松代駅に向かい、帰路についた。

城下町松代の歴史散歩を楽しんだ。道はT字路になっているところが多く、さてどちらを歩いているのかと迷いそうだったが、そのようなところには大概道案内があったので、間違えることはなかった。また、適当に歩いていると、旧家に遭遇したりして、歴史を感じさせてくれた。今回は、佐久間象山の関連の施設を見ることができなかったが、機会があれば訪れたい。