bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

武相寅歳薬師如来霊場(2):朝光寺・宗泉寺・瑞雲寺を訪ねる

ついこの間まで寒い日が続いていたのに、途端に暑い日がやってきた。一昨日に続いて昨日(4月12日)も夏を思わせるような陽気だった。四季に富んだ日本はどこに行ったのだろう。長い夏と冬、そしてわずかな春と秋になってしまったようだ。この日もまた、前の日に続けて、武相寅年薬師如来霊場巡りをした。巡礼さんの気分である。

今日巡るのは田園都市線市が尾駅から、横浜地下鉄グリーンライン川和町駅まで、途中に朝光寺、宗泉寺、瑞雲寺を経ての北から南への移動で、距離は4.9kmである。

最初は朝光寺。市が尾駅から降りてそれほど遠くない。裏手からの侵入になったが、横に駐車場があるので、ここから入る人も多いのだろう。道が綺麗に整備されている。

正面に入って本堂で薬師如来を拝ませてもらう。

お坊さんに聞いたところでは、明治32年の火事で焼けてしまい、そのあと住職の方が木造の薬師如来を造られ、それが祀られているとのことであった。
山門は、

新編武蔵風土記稿によると、開基は市が尾村の名主新五右衛門の祖先の上原勘解由左衛門で、彼は天文17年(1548)に亡くなっている。戦国時代の北条氏が関東一帯を支配している頃に建てられたようである。

次は鶴見川に沿って、宗泉寺へと向かう。この辺りは横浜と雖も農業地帯で、古くからの景色とモダンな高速道路が、アンバランスで面白い。

ところどころに梨畑もある。白い花が見事に咲いていた 。

宗泉寺は、ちょっとした小高い丘の上にある。

階段に沿ってたくさんの旗が立てられていた。

山腹には、竹林の中に山吹が咲いていた。

本堂は、

小ぶりな薬師如来さんが祀られていた。新編武蔵風土記稿によれば、開山顯堂は寛永9年(1632)に没しているので、江戸幕府が始まったころの開山だろう。


次は今日最後の瑞雲寺。宗泉寺であった老齢の女性が、行く道が分からないというので、一緒に向かった。横浜線沿いに住んでいて、1日5寺のペースで、霊場を巡っているとのこと。ただ町田の奥にある霊場は行けそうにないと言っていた。しっかりした足取りの方で、急ぎ足で次の寺へ向かった。

瑞雲寺は、川和町駅の近くにある。駅が近いせいだろうか、このお寺は参拝客が多い。見慣れた赤いのぼり旗で、きれいに並んでいてその奥に山門がある。

そして本堂、中に薬師如来が祀られていた。朝光寺のそれに似ていた。


庭園には綺麗なしだれ桜が、


鐘楼と聖観音像も。

新編武蔵風土記稿によれば、開山梅林霊竹は円覚寺第7世の住職で、応安7年(1374)に没しているので、室町幕府が始まったころの開山のようだ。

ところで、最初に巡った朝光寺は、横浜の古代に関心がある人にとっては貴重な場所だ。弥生時代の環濠集落の遺跡、後期弥生土器の標識遺跡ともなっている朝光寺原式土器、古墳時代の朝光寺原古墳群、奈良時代官衙に関連する遺跡が、朝光寺の東側から見つかった。そのころは1960年代の高度成長期の真っただ中で開発が急がれたために、貴重な遺跡は東名高速道路や住宅に変わってしまった。

横浜市歴史博物館には、遺跡発掘により発見された遺物が展示されている。そのうちのいくつかを紹介する。いずれも古墳時代のもので、甲(かぶと)と冑(よろい)、

馬具、

武器類、

鍬の先。

また朝光寺原遺跡の近くの長者原遺跡からは官衙跡が見つかり、横浜市歴史博物館には復元模型がある。中央奥が官衙の正殿、左側の列をなしている建物群は、租の稲などを貯蔵するための正倉である。

朝光寺の近くには、貴重な遺跡があったにもかかわらず、開発が急がれたせいで保存されなかったのは残念なことである。特に、都筑郡官衙遺跡は、奈良時代の地方官庁を知るうえで貴重な遺跡であったので、禍根を残したと思う。