bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

相模国高座郡家の跡を訪ねる

今年は天候に恵まれなかったと思っている人が多いので、さすがにそれはまずいと天気の神様が思ったのか、このところ秋晴れの日が続いている。そのような中、茅ヶ崎市にある古代遺跡を見学に出かけた。いつもの仲間で、集合は相模線の香川駅であった。相模線に乗ったのは初めてという人も多かったが、この地で生まれ育ったという学芸員に引率されて、古代遺跡のある北西部(下寺尾)、また江戸時代の民家と博物館のある北部(堤)を訪れた。
今日の行程は図の通りで、図の左側の下寺尾官衙遺跡群と右側の江戸時代の古民家2軒・大岡越前守ゆかりの浄見寺・博物館である。

出発地点となったのは、ローカル線の駅らしい香川駅である。

駅前には綺麗な街歩きマップがあった。この町が大好きという地元の人々の思いが感じられて、微笑ましい。この辺りは江戸時代は香川村、そして隣は堤村であったが、両村とも廃藩置県が実施された当初は西大平県と称した。しかし直ぐに神奈川県に編入された。これは江戸時代に、大岡家の領するこの両村が、三河国西大平藩(藩主:大岡氏)の管轄であったことによる。

おしゃべりしながら歩いているうちに、下寺尾官衙遺跡群に着いた。ここは平成27年3月10日に国の史跡に指定された。そのためだろうか、何とも大きな看板がどんと据えられていた。この日は、相模線の電車からよく見えるためと説明された。

文化庁のホームページに説明があり、次の様に記載されている。

この遺跡群は、小出川を望む標高約13mの相模原台地頂部に位置する相模国(さがみのくに)高座郡家(たかくらぐうけ)(郡衙(ぐんが))と考えられる下寺尾官衙遺跡(西方遺跡)と台地の南裾に位置する下寺尾廃寺跡(はいじあと)(七堂伽藍跡(しちどうがらんあと))からなる。

遺跡の西側では8世紀後半から9世紀前半にかけての船着き場と祭祀場が検出され,寺跡の南東でも祭祀場(さいしじょう)が検出されているなど,高座郡家に関連する施設が,相模原台地を中心とする比較的狭い範囲に集中していることが確認されている。

郡庁(ぐんちょう)は7世紀末から8世紀前半に成立し,四面廂付(しめんびさしつき)の掘立柱建物である正殿(せいでん)と,脇殿(わきでん),後殿(こうでん)から成っていたものが,8世紀中頃に改変され9世紀前半に廃絶する。正倉は,郡庁後殿から約100mの空閑地を挟み,台地の北縁に沿って4棟検出されているが8世紀中頃には廃絶している。

下寺尾廃寺跡は,郡庁南西の台地裾の低地に位置する。掘立柱塀による方形の区画の東側北寄りに金堂,西側の中央付近に講堂と考えられる建物を置く伽藍は7世紀後半の創建と考えられ,8世紀中頃以降に大きく改変され,9世紀後半に廃絶する。

官衙遺跡の全体像が把握できるとともに,その成立から廃絶に至るまでの過程が確認できる希有な遺跡であり,地方官衙の構造や立地を知る上でも重要である。

それではもう少し詳しく見ていこう。茅ヶ崎市のホームページには、史跡「下寺尾官衙遺跡群」の推定図が掲載されている。これからは、上記で説明されていた郡家と廃寺の位置関係、すなわち二つの施設が隣接していたことがよく分かる。

茅ヶ崎市教育委員会から下寺尾官衙遺跡群のパンフレットが出版されており、そこには少し古いのだが(2005年撮影)、郡家と廃寺の関係が、現在の地理との関係の中で、さらに良く分かる。

Google Earthから、現在の3Dマップで見ると、茅ヶ崎北稜高校が図で下に移転していることが分かる。

金堂と思われる場所には説明用の看板があった。

講堂に対しても。

七堂伽藍跡(下寺尾廃寺跡)を示す石碑も立てられていた。

郡家の頃に津となった小出川のあたりは、縄文時代前期には縄文貝塚があり、西方貝塚と呼ばれている。

茅ヶ崎市の「史跡 下寺尾西方遺跡 保存活用計画」に掲載の図には、縄文海進の様子が示されていた。

さらに弥生時代になると、この辺りは関東で最大級と言われる環濠集落も存在し、下寺尾西方遺跡と呼ばれている。

同じく掲載の図には環濠集落の場所が次の様に示されている(黄がV字形環濠、橙が逆台形環濠)。

このように下寺尾には、縄文時代貝塚弥生時代の環濠集落、奈良時代の郡家が存在し、集落として重要な空間であったことが分かる。これらの遺跡調査は現在も継続中で、全容が分かることが期待されている。

次に見学したのは、古民家2軒。旧三橋家住宅と旧和田家住宅で、前者は文政11年(1828)に、後者は安政2年(1855)に建てられた。両家とも茅ヶ崎市重要文化財に指定されている。

三橋家は香川の旧家で、江戸時代には、香川村内の旗本戸田氏の知行地で名主を務めていた。面積は152㎡、4部屋と土間、物置などがあり、当時は大型の建物であった。

和田家は萩園(茅ヶ崎市の西部、香川駅の南西方向)の旧家で、江戸時代は萩園村の村役人をしていた。面積約224㎡で、7部屋と広い土間のある大型の民家である。




両家の見学を挟んで、浄見寺も見学した。堤村を本領とした大岡家の二代当主忠政が、父の追慕のために慶長16年にこの寺を建立した。忠政の法名から寺の名前がつけられた。浄見寺は名奉行を輩出したこともある大岡家代々の菩提寺で、初代忠勝の墓石をはじめとして現在まで、墓碑が整然と並んでいる。

墓所は市指定の史跡となっているが、南町奉行として有名な5代目越前守忠相の墓は石の柵に囲まれている。
初代忠勝の墓所

5代忠相の墓所

本堂。

庭園。

最後は茅ヶ崎市博物館。

新築からまだ1年半。展示方法も斬新で、通常の博物館のように時代を追っていく編年体になっておらず、テーマ別となっている。学芸員の方にアナール学派の影響を受けているのですかと尋ねたが、意識はしていないとのことだった。写真を撮るには時間が短すぎたので、次の機会にと思っている。

帰りは海老名に出て、ビールを飲み、焼きそばを食べて、この日の疲れを癒した。

追:茅ヶ崎市の江戸時代の村落(赤松自治会だよりより)