bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

横須賀市自然・人文博物館を訪れる

横須賀と聞いた時、何を思いだすだろう。「横須賀ストーリー」と答えるような仲間たちと、横須賀市にある自然・人文博物館を訪れた。博物館は、京浜急行横須賀中央駅から10分程のところにある。Google Earthで示すと中央左の高台のところである。その崖の下に京浜急行の線路が見える。トンネルを抜けた先は横須賀中央駅である。上部が横浜方面、下部が浦賀方面である。

博物館の隣には平和中央公園があり、博物館よりもさらに高い高台にあるため、とても見晴らしが良い。下の写真で中央に見えるのが無人島の猿島、左奥に霞んで見えるのが房総半島である。

幕末には海防のためにいくつかの台場(浦賀には明神崎台場)が設置されたが、明治政府も西洋技術を応用して砲台群を全国の要地に設置した。この高台にも、東京湾要塞のため明治23年(1890)から24年にかけて米ヶ濱砲台が設置された。写真は砲台の下に造られた弾薬庫。

横須賀市自然・人文博物館は、先に自然館が建てられ(1970年)、その後に人文館が造られた(1983年)。今回は、学芸員の方に人文館の展示を説明して頂いた。人文館の展示は、1階と2階に分かれている。1階は、縄文・弥生・古墳時代を経て中世の三浦一族が栄えた時期まで、2階は江戸時代から現代までの歴史と民族を展示している。

まずは1階から。横須賀市には縄文時代の遺跡が多いが、学芸員の方がその理由を教えてくれた。明治の初めに軍港が設けられ、そのアクセスのために明治22年横須賀駅まで横須賀線が開通した。都内から日帰りで仕事ができる場所になったので、大学の先生たちが弁当を持って、遺跡探しのフィールドワークに来たことによるそうだ。このため、土器型式に横須賀の遺跡名が多く残されているとの事だった。

縄文土器の展示を紹介しよう。田戸台から発見された深鉢型丸甕土器(田戸上層式土器)。

吉井第1貝塚からの深鉢型突底土器(粕畑式土器)。粕畑貝塚名古屋市縄文時代早期の貝塚遺跡なので、この当時、横須賀が東西の交通の結合点であったのかと想像させてくれる。

弥生時代の遺跡は少ないそうだが、上の台遺跡の甕形土器。

古墳時代三浦半島では3基の前方後円墳と、13基の円墳が確認されている。この時代の土器で、蓼原古墳の甕(須恵器)。

同じ古墳から出土し、琴で有名な埴輪で、「椅子に座り琴を弾く男子」と名づけられている。

2階に移動して、横須賀とかかわりの深い人物を3人。
ウィリアム・アダムズ(1564~20)は、日本名が三浦按針で、横須賀・逸見に領地を有していた。

小栗上野介忠順(ただまさ)は、日米修好通商条約批准書交換の遣米使節として渡米し、日本と欧米との工業技術の差を目の当たりにし、近代化への投資として製鉄所の建設を進言した。横須賀製鉄所は、慶応元年(1865)に工事が始まり、近代国家としての発展に大きな役割を果たした。1号ドックは、今でも現役で使われている。

フランス人技術者レオンス・ヴェルニー(1837~08)は、横須賀造兵廠その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援した。

漁業が盛んだった頃の地引網船。船が左半分だけになっている。大きすぎて搬入できなかったため切断されたそうだ。

ぺリー来航の11年前、天保13年(1842)に横須賀市佐島に建てられた漁師の家。

マイワイは縁起のよい絵柄を描いたハンテンで、大漁に網元や船主が漁師たちに配った。漁師はこれを着用して、海の神に大漁御礼の参拝をした。

嘉永6年(1853)にマシュー・ペリー率いる米国の艦船4隻が来航し、浦賀沖に停泊した。このとき、ペリー一行は久里浜への上陸を認められた。その時、僧侶が座るキョクロクという椅子を用意したとされている。その時のものではないが、同型のもの。

横須賀製鉄所の当初の設計図。

横須賀製鉄所のバルブの設計図

製鉄所の護岸に松の丸太杭を岩盤に届くまで打ち込んだ。

横須賀製鉄所に関連する施設を巡るコースが紹介されているので、それを掲載しておこう。我々にはこのコースを散歩する気力・体力は残されていなかったので、駅の近くの海軍カレーのお店で、一番人気と言われているカレーを食べて、この日の思い出にした。

今回の訪問で印象に残ったのは、説明してくれた学芸員が切実な悩みを何度も口にされたことである。それは、人文館が建築してから50年も経っているので、新しい時代の要望・期待に合わせてリニューアルしたい。しかし、市の人口が減り小中学校の統廃合が行われている時に、博物館が新たな予算を要求することがとても難しいという事であった。今年の秋、国立科学博物館が資金不足を訴えて、クラウドファンディングを行ったのは記憶に新しいところだ。この時は成功したけれども、次もうまくいくとは限らない。まして国立ではない一地方の組織が行ったときはどうであろう。文化への資金が枯渇しているなかで、妙案があるのだろうか。なかなかの難問だが、IT技術などを活用して、解決していくしかないだろう。