bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

登呂遺跡を訪ねる

小学校の教科書で紹介されたこともあり、広く知られている登呂遺跡(静岡市)を訪ねた(9月11日日曜日)。ここは2000年前の住居・水田の跡が残る弥生時代の歴史的遺産である。東京を出たときは曇っていたが、三島を過ぎ、富士山が真横に迫ったころには、その山頂付近に雲がかかっているだけで、晴天。素晴らしい一日が期待できた。

車中で携帯を利用して、登呂遺跡の場所を確認する。静岡駅の南側、海側にある。

近くを安倍川が流れ、洪水に悩まされただろうと容易に想像できる。今昔マップで調べると、明治時代後半ごろは、一帯は水田となっている。

安部川の歴史を調べると、江戸時代に新田開発が始まり、それを洪水から守るために、山から海にかけて堤防(霞提)を築いたとなっていた。

博物館のホームページで確認すると、静岡平野は、安倍川と藁科川によって作られた扇状地で、2000年前には、自然堤防のような微高地に多くの集落が存在し、登呂遺跡はその一つとある。遺跡の集落は、弥生時代後期から古墳時代まで、4つの時代に分けることができ、その間に2回の洪水があり、ムラは壊滅的な被害を受けたそうである。復元されているのは1回目の洪水を受ける前の最盛期の集落である。

ついでに登呂遺跡発見の歴史も調べる。第二次世界大戦中の昭和18年(1943)に軍需工場建設の際に発見された。戦後の昭和22年(1947)に総合的な調査が行われ、80,000㎡を超える水田跡、井戸跡、竪穴住居12棟、高床倉庫3棟、農耕・狩猟・漁猟用の木製道具、火起こし道具、占骨などが発見された。平成11年に再発掘が行われ、銅釧、琴、祭殿跡などが新たに発見された。

静岡駅で新幹線を降り、タクシーで登呂遺跡へと向かった。北側エントランスから入り、弥生時代の復元された集落を見学した。手前に高床倉庫、奥に竪穴住居。右手の高床倉庫では、火おこし体験が行われてた。

高床倉庫、

竪穴住居、

内部、


祭殿、

水田、

博物館、

博物館屋上から見た登呂遺跡。

晴れあがった青空のもとゆっくりと集落を散策したあとで、博物館を見学しようとしたとき、ビックリするようなハプニングに見舞われた。入口では、強制的ではないが、体温測定ができるようになっていた。どの程度の体温なのかを知りたくて、帽子を脱いで測定機に顔を近づけたところ、けたたましく鳴り響いた。計測値を見ると、今までに経験したこともないような高い値が示されていた。陽当たりの強い中を歩き回った直後に、高い値が出ることは何回か経験していたが、これほどの値が出たのは初めて。もし本当だとすると、フラフラの状態で、歩くことはできないはず。計測器がおかしいと判断したけれど、周りにいた人たちは怪しいと感じているようで、身の置き場に困った。コロナが始まったころであれば、こちらにどうぞと言って隔離室に案内されそうだが、さすがに皆慣れてきたのだろう。警戒音がやむと、何事もなかったかのように、中断した作業を続けてくれた。

常設展示室には遺跡からの出土品が飾られていた。特に木製道具が優れていた。ネズミ返しもあった。


土器、

これで教科書にも載ったことのある登呂遺跡、大塚遺跡(横浜市)、吉野ケ里遺跡(佐賀県吉野ケ里町)の全てを訪れることができた。大塚遺跡は水田稲作が始まったころの典型的な特徴を有する環濠集落、登呂遺跡は弥生時代の特徴が水田稲作であることを改めて認識させてくれるシンボル的な集落、そして吉野ケ里遺跡は水田稲作が身分的な格差を生み出しクニのはじまりになることを教えてくれる発展的集落であった。これらを肌で感じることができ、小さなハプニングはあったものの、楽しい小旅行であった。