bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

中島隆博著『荘子の哲学』を読む

小学校低学年であった孫と、桜吹雪の舞う小川に沿って家族で散歩していたとき、彼が風に舞う桜花に操られるように、あちらへこちらへ走り回り、やっと捕まえた数枚の花を、惜しげもなく川面に投げこんだ。透明に澄んだ水中では、春を楽しむかのように一匹の鯉が悠々と泳いでいた。まだあどけない孫が突然、花を目で追っている鯉に向かって、「コイさん、コイさん。ぼくのコイを受け取って」と呼び掛けた。周りにいた大人たちは、びっくり。少し間をおいて、ほほえましく感じたのだろう、ニコッと皆が笑った。孫の語りかけを、それぞれが持つ感覚で理解したようであった。

この場面は、ありえないことがいくつも組み込まれているために、超越的・神秘的とも思える異次元の世界を醸し出してくれる。小学生低学年の子が恋を知っているのだろうか。人間が話しかけたことが鯉に通じるのだろうか。投げ込まれた桜花は、孫と鯉とをつなぐ運命の赤い糸になるのだろうか。あれやこれやと、ありえない現実を前にして、普段では考えないような柔軟な発想へと、このときもそしてこのあとも、導いてくれた。

先日、中島隆博さんの『中国哲学史』を読んだ。なかなか面白い本だったが未消化に感じたので、別の本も読んでみようと思い、出会ったのが『荘子の哲学』である。

この本の中には上記の話とよく似た例が記載されている。結末を同じにするために、続きを付け加えてみよう。投げこまれた花びらを鯉が口に含んだのを見て、孫が小躍りして喜び、「鯉が僕の恋を受け入れてくれた」と言ったことにしてみよう。鯉が恋するわけはないとか、あるいは鯉の恋を感じ取った孫の感情を他の人が認識できないのだから何とも言えないなど、色々な説明がなされることだろう。

中島さんが言うところの荘子ならば、「一般的な世界では、鯉が人間に恋することはない。しかし、桜吹雪の中、苦労して採取した大事な花びらを、孫が熱い思いをかけて鯉に投じ、鯉が食べたということで、親近感漂う超越的な世界が生み出され、孫と鯉との間で意思疎通が叶った」と説明するだろう。

中島さんは、本人が変わるだけでなく本人を取り巻く世界も同時に変わっていくことの説明の中で、孫の鯉に似たような話をしている。そこでは魚(はや)の楽しみが分かるかについて議論しているが、かなりの紙幅をとって説明している。

孫の話は、単にませた子と考えてしまうと、どこにでも転がっていそうな話である。それではもう少し飛躍することにしよう。子供の頃に聞いたと思われるおとぎ話の「浦島太郎」はどうであろう。いくつかの伝承があるが、御伽文庫の原本では次のようになっている。

丹後の浦島に住んでいた浦島太郎は、漁師をして両親を養っていた。あるとき、亀を釣り上げた。殺すのはかわいそうなので、「恩を忘れるなよ」と言って逃がした。数日後、一人の女性が舟で浜にたどり着き、漂流したので本国に戻して欲しいと太郎に請願する。二人はその舟で竜宮城に着き、女性(乙姫)から夫婦になろうと言い出され、太郎はそこで乙姫と三年間暮らす。太郎は両親が心配だから帰りたいと申し出る。乙姫は、亀は自分の化身であったと告げ、決して開けてはならないと約束させ、玉手箱を渡す。浦島太郎は浜に帰るが、700年も経過していて、彼を知る人は誰もいない。約束を忘れて玉手箱を開けると、浦島太郎はたちまち老人に、そして鶴になる。同時に乙姫も亀になり、二人は不老不死の蓬莱山に向かった。

この話は、浜で普通の生活をしているところから始まる。亀を助けたことで、竜宮城で夢のような生活をする。元の生活に戻りたいと望んだ後、不老不死の鶴になった(戦前の尋常小学国語読本では、約束は守りなさいと言うことで、白髪の老人になったところで終わっている)。

下ごしらえができたので、ここからは荘子の基本的な考え方を説明をする。中島さんは「髑髏問答」を用いて紹介しているが、ここでは上記の浦島太郎を用いる。

荘子の思想は、道学と呼ばれ、「無」という考え方は重要である。この言葉は次の様に使われる(異なった定義のように感じられるが、実は一緒である)。(1)質量がない、すなわち存在しない。(2)二つの間に違いがない。(3)限りがない、すなわち有限ではないということを表す。(2)を数学の用語で表すと同値である。しかし数学の世界でも、どの分野で用いるかによって、その定義は異なる。

ユークリッド幾何学であれば、三角形の合同や相似である。位相幾何学では、粘土細工のように、延ばしたり縮めたりして同じ形になるものが同値である。代数的位相幾何学では、次元を無視して伸縮して同じになるものである。さらに高度に抽象化した圏論での随伴(adjunction)もその一種だろう。このように同値という概念は幅広く使われる。荘子は、数学の世界を越え、もっと超越的に同値、即ち、「斉同」を定義している。

浦島太郎の例を調べてみよう。太郎は、最初は漁師であったが、亀を助けたことにより、竜宮城で乙姫と夢のような生活をする。漁師をしていた時の浦島太郎は、その生活に徹することで満足していたであろう(本当か?という方もあるかと思うが、ここは道学・道教での道に従って太郎は理想的な人生を送っていると考えよう)。また、竜宮城では夢のような生活に徹することで満足していただろう。世界が大きく変わり、生活の仕方も変わっているのに、太郎は変わることなく生活に徹し満足していた。生活に徹し満足していたという点では同じなので、漁師のときも、竜宮城にいたときも、太郎(のあり方)は同じと見なす。同じように、鶴となった太郎も、不老不死を獲得したのだから、鶴に徹し満足していたはずである。従って、蓬莱山でも太郎は同じであった。

上記の説明を図で示してみよう。すなわち漁師から竜宮城へ、さらに蓬莱山へと移っていく彼の人生を、時計まわりに描いたのが下図である。このため、同値には方向性がある。漁師の太郎から見ると、竜宮城の太郎は同じといえる。同様に、竜宮城から蓬莱山を見たとき、太郎は同じである。しかし逆方向についてはそうとは言えない。このように荘子の同値には方向性があり、蓬莱山から見て竜宮城は同じとはならない。フランスの哲学者ジャック・デリダ差延(différance)と比較すると面白いが、たくさんのことを説明する必要があるので、ここでは残念ながらカット。

荘子の斉同は、A(浜での太郎)からB(竜宮城での太郎)へと自然に移行すると考える哲学者が多いが、そうではないと中島さんは主張する。AとBの間には区切りがあると説明する(ここが一番素晴らしいところである)。荘子は、Aが物化してBになると言う。物化を説明するのに、フランス哲学者ジル・ドゥルーズ微分という概念を持ち出す。ここでの微分は、いわゆる数学で一般に使われている概念とは異なり、理念をあらわにするための切断の作用と見なしている。似顔絵師は、顔の輪郭を利用して人物の特徴をとらえた絵を描く。輪郭は顔と背景とを分断する線である。数学では微分は連続域に対して定義するが、ドゥルーズはあえて不連続なところ(微分できないところ)を利用し大切だと言っている。

浦島太郎の話に戻ると、漁師と竜宮城、竜宮城と蓬莱山では、世界が明らかに異なり、それぞれの間に物化がある。別の世界へと飛び込んでいく境界である。この物化が、荘子の考え方の中で一番重要であると、中島さんは言っている。

この本の最後は「ドゥルーズが、蝶になって、窓から身を躍らせた」となっている。ドゥルーズが人から蝶への物化を試みている瞬間だが、自身の考え方を完遂したと見るべきなのだろうか。何とも恐ろしい結末だが、物化を際立たせる素晴らしいエンディングである。

最後にまとめると、斉同は時間が進む中での同値で、物化は異なる世界へ移っていったときの同値である。これを考えてはどうかとこの本は提案している。特に後者は非連続な空間の同値なので、自然科学分野に馴染んできた私には、まさかと思われる考え方だ。この本の冒頭で物理学者の湯川さんの話が紹介され、東洋哲学に馴染んでいたためにノーベル賞につながる新しい理論を築くことができたと述べられていた。飛び離れた考え方に接することで新しい考え方が生まれる。非連続な空間の中での同値という問題について、しばらく考えてみようと思っている。